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♪邪馬台国ドンと来い!♪135

641 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 18:19:01.79 .net
>>639
勘違いではなく、そもそも日本列島は小さな集団が多くいて、その中で九州北部の比較的潤っていた地域の王が代々倭王とされていたんだよ。
日本の王権、などというもぼはその時点では存在しない。

642 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 20:43:15.18 .net
>>640
その通り。 
倭国軍を動かすことなど不可能な、ただの九州の小国でしかない、
その正体がばれるまでのたった8年間の邪馬台国外交を本州とすることで
日本の古代史の真実が掛け違い状態になっている。

本州には邪馬台国のような、屁たれ国が存続できる土壌は無い。
本州勢力は、400年南朝と半島利権外交交渉を始めるまで
中国王朝の勢力下に入ってはいない。
大和朝廷の重鎮である阿波が、邪馬台国の訳はないのである。

350年に百済を立国した後も
傀儡蝙蝠国家として中国から百済に下寵される文物を日本に献上させていた。
中国は、隣人に技術や文物を与える国は滅びる、ということを知っている。

643 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:02:28.96 .net
>>638
>冊封は、代表権を誰に与えるかなんだよ。

その冊封をする魏の権威に障るから、いい加減な冊封はできないんだよ
だから冊封使をわざわざ倭国まで送る

>>637
>鋳つぶして八咫の鏡にしたんだな

それをやったら、魏に攻め滅ぼされても文句言えないよ
魏の権威を欲する立場で「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」と
皇帝の詔勅に書かれているのに、それを無視したらどうなるか

644 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:06:22.80 .net
>>638
>日本、日本とうるさいな。

ここは日本だぞ?
倭国が日本の起源だから話題にしてるんだろうが?

>倭国の話をしているんだよ。

倭人も日本人も同じ民族だよ
日本という言葉がどうしていやなんだ?
しかも倭国を小さくしようとするし

645 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:12:01.44 .net
>>639
>どうして、7年間、魏の皇帝を騙してた

これを前提にするのがおかしいんだよ
出雲も知ってる帯方郡が、騙されているとしないと成りたたない時点で
九州説は無理なんだよ

>軍事帝国化もまだなら、古墳時代にもなっていない

纒向型前方後円墳を認める立場では3世紀な半ばはしっかり古墳時代だぞ
古墳時代の開始の編年がはっきりした時点で九州説の息の根が止まったんだよ

646 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:22:49.58 ID:N1DBKs/ar
>>641
  同感。「日本は昔からスゴかった。邪馬台国の時代からスゴかった」と思いたいのが「日本スゴイ、スゴイ病患者」である畿内説支持者の症状w 冷静になって見ろ、日本はもう下り坂だw シャープ、東芝、三菱重、神戸鋼・・・・

647 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:25:22.18 ID:N1DBKs/ar
考古学しか知らない井の中の蛙、哀れ wwwwww

648 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 21:47:06.15 .net
>>645
倭人伝の記述にあうものが畿内にはない。

649 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:09:27.77 .net
倭人伝の記述にあうものが畿内にはないという現実に対して、しかし関西人が落胆する必要はいっさい無い。
ヤマタ((邪馬台)ノオロチ伝説や倭人条に暗示されるように、恐怖政治を敷いた挙句、あっというまに狗奴国に滅ぼされたような
哀れな邪馬台国よりも、はるかに平和主義で文化的であった銅鐸国家連合が、卑弥呼の時代に畿内に存在したことに関西人たちはもっと胸を張っていい。
邪馬台国などせいぜい吉備、出雲、阿波、畿内、越、尾張、毛野といった連合国家群と同じレベルで、たまたま大陸に近いところにあったからこそ中国語で記録された、当時の日本の連合国家群のひとつにすぎない。

650 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:23:24.96 .net
>>643
>その冊封をする魏の権威に障るから、いい加減な冊封はできないんだよ
>だから冊封使をわざわざ倭国まで送る

その通り。
わざわざ使いが伊都まで来て、卑弥呼の年恰好や国の統治の様子などを確認して、倭王と認めたわけだ。
もし卑弥呼が畿内にいたら、使いは卑弥呼に会えないし、都の様子もわからないよね。
魏志倭人伝からは、邪馬台国が畿内にあったなどとは全く読み解けない。

651 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:24:10.24 .net
>>644
>しかも倭国を小さくしようとするし

勝手に誇大妄想して倭国を大きい国だと思い込もうとしている。

652 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:25:33.71 .net
>>645
>>どうして、7年間、魏の皇帝を騙してた
>これを前提にするのがおかしいんだよ
>出雲も知ってる帯方郡が、騙されているとしないと成りたたない時点で

その通りだ。
頻繁にやり取りする相手を何年間も騙せるわけがない。
実際に倭国は九州北部だったのだ。

653 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:26:55.52 .net
>>645
>纒向型前方後円墳を認める立場では3世紀な半ばはしっかり古墳時代だぞ

畿内が古墳時代になっていたとしても、畿内が大陸と交渉を持っていなかったなら関係ないこと。
畿内からは楽浪土器も出てないんだろう?

654 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:28:42.84 .net
>>648
>倭人伝の記述にあうもの

畿内には「王都」があるんだよ
そして「大王墓」もある

これらは邪馬台国になければならないものだ
そして、「王都」も径百歩の「大王墓」も九州にはない

逆に九州説が九州にあるといっているものは、
倭国にあるものであって、邪馬台国にあると書いてあるものではない

そして鉄鏃なども甕棺墓の時代が終わると九州でも出なくなる
九州の遺物はどれも古いんだよ

3世紀の九州には見るべき繁栄がない

655 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:34:40.71 .net
畿内説が年代を繰り上げすぎるんだよ。
3世紀の九州は繁栄の真っ只中だ。

656 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 00:40:33.12 .net
>>653
>畿内が古墳時代になっていたとしても、畿内が大陸と交渉を持っていなかったなら関係ないこと。

九州説はすぐこれを「言いたがる」けれど、出雲と大陸の交渉は否定できないだろ?
出雲でも、北部九州より強い地域王権があるんだよ
西谷墳墓群は累代の巨大墓が並んでいる

そして、九州には畿内様式甕が、畿内第V様式の頃から順に入っていて、最終的には
畿内様式甕しか存在しなくなる
この状況で、大陸からの人間が北部九州以外のことを知らずにいて、騙されてくれると
想定しないと成りたたない九州説は相当に基盤の脆弱な説でしかない

というか、無理なんだよ

北部九州でも、奴国の中心集落である比恵・那珂遺跡群を母集落とする那珂八幡古墳があるが、
この古墳は定型化前の纒向型前方後円墳とされていて、この頃には北部九州も畿内の墓制を
受け入れて、古墳時代に入っているんだから

657 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 01:00:33.27 .net
>>650
>もし卑弥呼が畿内にいたら、使いは卑弥呼に会えないし、都の様子もわからないよね。

なぜ?
魏志倭人伝を素直に読めば、北部九州から2ヶ月かけて
邪馬台国=ヤマト国まで行ってるじゃないか

ヤマト国まで行けば当然に都の様子も分かるし、卑弥呼の動静も分かるだろ

658 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 03:51:14.50 .net
>>657
>魏志倭人伝を素直に読めば、北部九州から2ヶ月かけて
>邪馬台国=ヤマト国まで行ってるじゃないか

魏の使いが九州北部までしか来ていないと読む人は多い。

659 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 03:51:49.31 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

660 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 07:41:03.11 .net
>>657
>魏志倭人伝を素直に読めば、北部九州から2ヶ月かけて
邪馬台国=ヤマト国まで行ってるじゃないか

ヤマト国(阿波)まで来ているから当然に都の様子も記しているし、卑弥呼の動静も記している。  @阿波

魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。
・帯方郡の東南の大海の中に在る
・男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。
・倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
・稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
・倭の土地は温暖である。
・中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
・その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
・真珠、青玉を産出する。
・山には「丹」を産出する。
・生姜、橘、山椒、茗荷が採れる
・東に海が在る
・その海を渡り、1000里行くと倭国(阿波)とは別の国が在る
・倭の地は周囲5000里
・銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えられた
・倭王は丹を献上した
・卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った

661 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 10:47:13.23 .net
>>656
でも
畿内の庄内は
古墳からでてないじゃん。
畿内の方が古墳時代が遅かった=
年代を繰り上げすぎ。

662 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 11:57:07.72 .net
ようするに古墳時代は卑弥呼より後。
そもそも卑弥呼の即位は2世紀終わりで、畿内というか纒向に大きな勢力はなかった。
それより後の纒向遺跡も、周辺地域を統率した痕跡はない。
東海の経済圏の端に属していたことがわかる程度。

663 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 12:30:00.33 .net
>>662
>ようするに古墳時代は卑弥呼より後。

ということにしないと、九州説は成りたたないから一生懸命それを言うけれど、
畿内様式土器が北部九州から、畿内第V様式から庄内式、布留式と順に出ていて
九州の編年との擦り合わせもできているから、畿内の編年を遅くしようとしても
無理が出るだけだよ

664 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 12:32:25.84 .net
>>662
>東海の経済圏の端に属していたことがわかる程度。

そんな端っこに、大きな祭祀都市、交易都市は作らないよ
吉備や出雲の土器もたくさん出てるんだから、
広域の交流の結節点だったのは間違いない

665 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 12:56:03.90 .net
無理が出てるのは畿内側やで。

土器の編年に基づけば
北部九州が古墳を作ってた時代に
畿内に古墳はなかった、古墳の墓制は
畿外から持ち込まれたってことやしね。

纏向が画期なのは認めるでしょう誰でも。

卑弥呼の墓だとか年代の溯上とか小細工するから叩かれる。そんだけよ。

666 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:38:00.32 .net
>>664
たくさん?
筑紫で西日本全域の土器が出るのとは規模が違うよね?
魏の使いが来ていた筑紫の土器が出てないよね?
つまり邪馬台国ではないんだよ。

667 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:41:49.13 .net
卑弥呼を持ち出さなければ、纒向はヤマト王権成立の過程を示す重要な遺跡の一つだったろう。
卑弥呼を無理やり持ち出したことで、胡散臭い色ものになってしまった。

668 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:43:08.47 .net
>>665
>纏向が画期なのは認めるでしょう誰でも。

>卑弥呼の墓だとか年代の溯上とか小細工するから叩かれる。そんだけよ。

纒向編年は纒向大溝からの土器一括試料をその基礎においており、
庄内0式から建設が始まっている
庄内0式は3世紀初頭で、卑弥呼の遣使の数十年前

そして纒向遺跡の中でも、庄内式しか出ない領域で纒向古墳群の築造が始まっていて
それが箸中山古墳によって定式化される前の纒向型前方後円墳と呼ばれている

那珂八幡古墳も後円部が正円形になっておらず、先方部が小さいことから、
纒向型前方後円墳とされており、箸中山古墳より古いけれど纒向石塚古墳より新しいよ

現在の編年で畿内説は何一つ困ることはないんだが?

669 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:43:44.02 .net
各地の土器が出ているからというけど、
各地の土器が各地からでているのだから、
各地の土器が出るのは当たり前のことであって
各地の土器が出ていることに特別な意味はない。

670 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:48:41.51 .net
鉄器ゼロ倉庫群を卑弥呼の都にするためにあれこれ無理をした結果あちこちに矛盾が生じて例えば中国から学術出土ゼロの4世紀国産鏡を魏鏡と言い張ったりとてつもないキナイコシ

671 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:50:47.58 .net
>>666
>筑紫の土器

そもそも弥生末期の北部九州は、東方への影響をほとんど持たない、
目立たない弱小地域だ

それをもって、倭国は九州のみと九州説の人は言いたがるが、
逆向きの東から西向きの影響は顕著で、畿内様式甕も吉備甕も出雲の土器も
九州から出ている

今度は王都だから人が集まり、各地の土器が出ているんだと強弁する九州説がいるが、
それだと、布留式土器の時代に九州の在地様式の土器が消滅することが説明できない

北部九州は、生活土器まで畿内形式に塗りつぶされているし、古墳時代に入る直前の
顕著な卓越墓(王墓)もなければ、古墳時代に入っても大きな古墳を作れない

九州に倭王がいたとするのは、合理性がない

672 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:53:41.77 .net
>>669
各地というか、纒向からは周辺地域の土器しか出ていない。
編年がどうであれ、邪馬台国とは関係がない地域だよ。

673 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:55:35.62 .net
>>671
>それだと、布留式土器の時代に九州の在地様式の土器が消滅することが説明できない

便利な様式に次々と乗り換えただけ。
しかも年代がはっきりしない。

>顕著な卓越墓(王墓)もなければ、古墳時代に入っても大きな古墳を作れない

大きさは問題ない。
王墓であることを示す副葬品を備えた王墓は九州だけ。

674 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:59:51.66 .net
>>673
>王墓であることを示す副葬品を備えた王墓

それ、剣、璽、鏡のことを言いたいんだと思うが、いわゆる三種の神器の組合せは、
大王の専有物ではないぞ

古墳時代に入っても、普通の豪族墓からも鏡、剣、勾玉の組合せは出てる

675 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 14:06:01.73 .net
>各地というか、纒向からは周辺地域の土器しか出ていない。
>編年がどうであれ、邪馬台国とは関係がない地域だよ。

西瀬戸内地域の土器も出ているし、吉備も出雲も周辺地域というには
かなり遠いだろう?

そもそも土器は重いしかさばるし、出発地のものを後生大事に長距離
持ち運ぶものでもないと思う

邪馬台国とは関係ない地域と思いたいのは分かるけれど、
普通に読めば邪馬台国はヤマト国なんだから、関係ないどころかそのものだろう

676 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 14:27:07.15 .net
>>675
でも九州北部では畿内を含めてもっと広域からの土器を現実に運んで来ているだろ?
自分が言っていることが矛盾していることに気づかない?

677 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 14:28:32.51 .net
>>674
大王ではなく王族ね。
でも、それさえも畿内からはほとんど出ない。
畿内にいたのは墓が大きいだけの田舎のお大尽。

678 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 14:29:53.69 .net
畿内の古墳は、内行花文鏡を至高とする九州北部の銅鏡文化に塗りつぶされて、土着の文化を喪失した姿しか見えてこない。

679 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 15:23:27.34 .net
奈良が250年になって大王墓みたいな大型古墳導入した理由ってなんだろ?
支石墓とか墓制の影響あったのは確かだけど、渡来人にしては遅すぎだし、
中国は薄葬令以降だよね。

王権が嫡子相続じゃないから、十数年とかで交代させて
豪族が王権の資産を削ぐってのには良さそうだけど。
重農政策から軍事覇権の富国強兵に変わっただけかな?

東夷や韓でも仏教公伝は350〜400年だから、
仏廟なら、古墳いらなくなりそうだけどね。
誰に騙されてたんだろう?

680 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 18:40:51.37 .net
>>668
箸中山は布留だから4世紀だよ
遡っても3世紀後半だろう。卑弥呼には届かない。そんだけ。

681 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 21:36:57.48 .net
卑弥呼の国は57年の金印前から継続してて、漢の冊封国なんだけど
金印貰えば倭の大王なら、なぜ大王墓が継続してないんだよ。
250年に纏向出来たら後付けでインチキだろwww
金印出てんだよ?

漢は九州の小国の倭奴国として大乱も認知してただろ。
東夷を知らない魏の帯方郡が、勘違いして卑弥呼を皇帝に倭王と紹介したから
7年間九州の女囚国が、皇帝を騙し続けてたんだよ。

帳政は来訪で現実を査察して、帰国と倭王じゃなかったことの弁明のために
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗他20人を騙して洛陽に送らせた。

こいつらは、取り調べで張政の言い訳が通って死刑になったと思うぞ。
だから、皇帝が自慢するお土産貰って帰国の報告無いだろ。

682 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 22:05:03.35 .net
>>677
>大王ではなく王族ね。

例えば、山口市赤妻にある赤妻古墳からは、剣、鏡、勾玉が揃ってるよ
こんなところに王族はいないよね?

日本の大王は日本の総本家であって、超越者ではない
三種の神器のセットは、首長層では共通に使われる副葬品なんだよ

683 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 22:08:13.18 .net
>>680
>箸中山は布留だから4世紀だよ
>遡っても3世紀後半だろう。卑弥呼には届かない。そんだけ。

箸中山古墳の話はしてないよ
纒向石塚古墳は庄内期だよ

卑弥呼と、というより卑弥呼の共立と、纒向の建設開始時期が一致するんだよ

684 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 23:26:01.13 .net
>>683
>卑弥呼と、というより卑弥呼の共立と、纒向の建設開始時期が一致するんだよ

仮に一致していても、ただの偶然だよ。
纒向が魏と接触していた痕跡がないのだから。

685 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 23:28:01.53 .net
>>681
>漢は九州の小国の倭奴国として大乱も認知してただろ。
>7年間九州の女囚国が、皇帝を騙し続けてたんだよ。

なんでこの2行は矛盾しているんだ?
卑弥呼は九州の小国であった倭国の女王でいいだろう。

686 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 00:05:24.25 .net
>>684
>纒向が魏と接触していた痕跡がないのだから。

纒向から始まった古墳祭祀の重要なアイテムの三角縁神獣鏡に
魏の年号を記したものがあるのが証拠だよ

痕跡どころか、物証が出ている

687 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 05:56:08.38 .net
>>686
>痕跡どころか、物証が出ている

後世に作られた記念品。

688 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 06:27:04.74 .net
だって、頼るもの それ(三角縁神獣鏡)しかないもんだから

689 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 08:24:00.57 .net
>>683
だから、北部九州からの影響が皆無なのが全て。
3世紀前半に卑弥呼共立し、北部九州の伊都国も統属していたなら、鉄が出てきて当然なんだよ。

後、卑弥呼より前の王、中国から見る倭国は継続している。
その形跡も必要。
つまり、卑弥呼以前から中国や大陸との関係性が重要となる。

690 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 08:50:41.14 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

691 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 09:00:31.95 .net
>>685
何がどう矛盾する?
漢はBC200年からだし
BC100辺りからは韓四郡で東夷に使譯を派遣して研究している。
公孫氏三代に遼東〜東夷を独占されそれ以降中国への朝貢は絶えた。
そこで、魏が公孫氏を倒しすべく、奇襲で漢四郡に入ったのが238年である。
238年卑弥呼の帯方郡訪問時は、公孫氏はまだ遼東に有り、魏は戦争中。

東夷伝序文の結語
長老說 有異面之人近日之所出 遂周觀諸國 
采其法俗 小大區別各有 名號可得詳紀 
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國
失禮求之四夷 猶信故撰次其國列其同異以接前史之所未備焉

倭国に関し、魏は完全な新参者であり、
九州以東の本州に四国の別を知らず
接前史之所未備焉 
など、全くできてはいない。

使譯 政帳が知ったのは、金印紫綬の女王国が
九州島の北部の一部にあった、周5千里の小国に過ぎなかった事である。
倭人伝はそう報告している。

692 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 09:41:48.78 .net
改行ミスった。 読みにくかったかも、スマソ。

【東夷伝序文の結語】
長老說 有 異面之人近日之所出 遂 周觀諸國 
采 其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷
猶 信故 撰次 其國列 其同異 以 接前史之所未備焉

w。親切で文節細かすぎだが、
ヒントとして 雖 は 失禮 にも掛かっている。

これをそのまま漢字で読めばよい のであって、
考古学者にありがちな、ご都合主義の原文間違いや
珍訳にするなら古代漢文の理解は無理かと思う。

倭人伝が紹介する 『今 使譯 所通三十國 從郡 至倭』 の 範囲は、
帯方郡の 南東大海の中に在る、漢時、非統一数百国だった頃の 倭 ではなく
帯方郡から南、満二千里の九州北部の周5千里の30国連合の女王の小国の間違いだった。
倭人伝には、ちゃんとそう紹介されている。

693 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 10:03:33.77 ID:2GIVXBphd
畿内説とは「日本スゴイ、スゴイ病」の古代史版だと思うべきw 「日本はスゴイ。3世紀にしてすでに、邪馬台国という畿内から九州の広域に影響力を持つ大国があったのだ」という妄想に過ぎないw インフラのことなど何も考えていないwww

694 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 10:00:58.27 .net
数えでおながいします

695 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 18:34:25.64 .net
>>691
いや、それでいいんだけどさ、騙した云々は何なんだよ。

696 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 21:50:12.47 .net
>>687
>後世に作られた記念品。

三角縁神獣鏡の分布は畿内中心
で、九州説(倭国は九州のみ)では、畿内は魏との交流には関係ないんだよね?

それがなぜ、魏との交流の記念品を畿内が作るんだい?
九州説は結局矛盾する

697 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 21:52:18.02 .net
>>689
>鉄が出てきて当然なんだよ。

鉄があって当然なんだよ
出ない「理由」を考えるべき事案

698 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 21:56:19.15 .net
>>689
>だから、北部九州からの影響が皆無なのが全て。

だから、北部九州が弱小で周りへは何も影響を与えていないんだよ
それを糊塗するために「倭国は九州のみ」なんていう無理な想定をする羽目になる

699 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 21:59:47.96 .net
>>689
>中国から見る倭国は継続している。

でも、倭国王帥升等の朝貢から、卑弥呼の遣使まで130年以上、間があいてるんだよ
当然、中原の王朝にとって倭国は、文献上だけの存在になっている

現代から見れば古代は古代でしかないが、3世紀から見て1世紀は200年も昔だ

700 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 22:06:38.76 .net
>>691
>周5千里の小国

それ、誤読だよ

原文は「周旋」五千余里
三國志での周旋の使い方では、一周して戻ってくるという意味ではなく、
いろいろなところを訪ねてまわる、という意味だそうだ
戻ってこないで五千里進むってこと

つまり、狗邪韓國までの七千餘里と合わせて万二千里になる数値が挙げてあることになる
九州では収まらないよ

701 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 22:10:56.95 .net
長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。
各に名號あり、詳紀するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。
中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり(春秋左氏伝昭公十七年の孔子の言にもとづく。
「我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと、猶お信なり。」
ちくま学芸文庫は、次のように訳す。
『これらは夷狄の国々であるが、祭祀の儀礼が伝わっている。
中国に礼が失われた時、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にありえよう。』)。
故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ。

702 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 22:31:30.04 .net
>>696
そりゃ前提がちがうよ
魏と三角縁は無関係の国産品だから。

703 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 00:15:56.51 .net
九州勢力が畿内に進出した時、はるかふるさと筑紫の卑弥呼時代の栄光を思い出して鏡を作ったんだよ。
もしくは、畿内勢力が卑弥呼の威光を借りるために作った。

704 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 00:17:25.10 .net
畿内は、内行花文鏡を至高とする銅鏡文化に塗りつぶされる。
畿内からの産物は、他の西日本全域の産物と合わせてすべて筑紫に献上された。

705 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 00:31:31.12 .net
八咫バカ

706 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 06:09:26.24 .net
>>702
>魏と三角縁は無関係の国産品だから。

そう言いたい動機は分かるけれど、それなら
「魏と無関係なはずの畿内が、魏の年号を入れた鏡を作る『理由』」を
「根拠」を挙げて論証してもらわないと無意味だよ

九州に決まってるから、じゃダメだ

707 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 06:11:30.63 .net
>>703
>九州勢力が畿内に進出した時、

そんな証拠や遺物は一切ありません
自分でも、畿内で九州の土器一つ出ないって言ってたじゃないか
古墳時代に入ってから、権力中心の移動を示す根拠は一切ないよ

708 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 06:12:46.14 .net
>畿内は、内行花文鏡を至高とする銅鏡文化に塗りつぶされる。

内向花文鏡を重視する文化なんてないぞ
結局は妄想癖の人か

709 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:17:38.25 .net
>>707
物や人は都に集まるからね。
つまり、そういうこと。
畿内に移った形跡がなければ、しばらく北部九州のままだな。
弥生時代は間違いなく北部九州が要所。

710 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:19:16.78 .net
>>696
畿内が筑紫からの分家だからだろ。

711 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:21:13.97 .net
>>699
後漢の頃の倭国は対馬海峡と筑紫だけだったが、魏の頃には肥国、豊国をあわせ、今の福岡県、長崎県、佐賀県に拡大している。
ちゃんと大きくなっているよ。

712 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:22:47.40 .net
>>700
>つまり、狗邪韓國までの七千餘里と合わせて万二千里になる数値が挙げてあることになる
対馬海峡が三千里だから、陸上は二千里しかない。
有明海にようやく到達する程度。
九州の中で収まるよ。

713 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:23:23.29 .net
>>706
後の畿内政権も筑紫の分家だからだよ。

714 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:24:52.85 .net
>>707
>>九州勢力が畿内に進出した時、
>そんな証拠や遺物は一切ありません
>古墳時代に入ってから、権力中心の移動を示す根拠は一切ないよ

その古墳に、九州から伝来した内行花文鏡が恭しく祭ってあるわけだ。
今日でも、ほとんどの神社の御神体は鏡だよ。

715 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:44:16.55 .net
>>708
柳本大塚、下池山、桜井茶臼山などなど。
内行花文鏡は絹などに包まれて安置されていた。
棺の朱なども九州の文化を踏襲している。
畿内の墓制は、九州のそれの発展形なんだよ。

716 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:45:26.66 .net
銅鏡が日本で複製されている理由は
日本が意味不明に遅れて取り入れた古墳文化と関係がある。
古墳起源は死生観に不死を伴う王族に喰いこんだ方士による墓制かと思う。

中国人道教学者の渡来が示唆されるが
古墳の伝来に中国土器や、中国人の生活痕が伴わなきゃダメか? 土器厨先生w
まあ、古墳自体は当然だが埴輪や銅鏡は、周〜秦漢中国起源以外無いんだが?
250年だから、弥生渡来人とは言わないよ。 なんでいまさら? だよね。

>>706 の魏鏡の複製だが、当たり前で、複製の方法が転写だからだろ。
銅鏡の図柄には非現実を映す鏡に対する呪術的意味がある。
死者の弔いに、死後の世界や鎮魂の思いを込めて副葬する。

古墳文化自体、400年以降に日本文化化した形跡があり
変容を伴い銅鏡デザインも日本化の可能性は否定しないが、
古墳の最初のころはフランスやイタリアンブランドじゃ、ダメなんじゃね?

717 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 09:24:54.64 .net
>>700
ソースは知らんが、熟語の発達する前の300年以前の漢文で
「周旋」は誤読と言い切るのは、詐欺師の文言だぞ。
周はあまねく、旋は起点に戻る意味が強い。 御用学者の犬臭いぜ

まさか、原文読んでないのか?
【段落7 女王国以遠の倭人国 陳寿地図データ】
女王國 東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王 四千餘里(種子島4千里)
又有 裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至(小笠原2万4千里)
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里

洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
一周するなんて誰も考えないし、これは概論で行程記じゃない。
或絶は 唐津やうきは、香椎、武雄であって、辺境は往復だろ。 
或連は福岡平野東麓から大宰府、久留米〜佐賀辺りだろ。
全体像が >>3 の図の範囲で5千里だよ。
概念図は >>467

九州北部でぴったし、収まってるし。
瀬戸内海なら 洲㠀之上じゃなくて島々を経由する だろ。
そもそも、この認識に本州と四国の別が無く、関門海峡も瀬戸内海も知らない。
洲㠀とは、魏の認識では、日本列島における九州島を示唆している。

718 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 09:56:26.33 .net
>>716
埴輪は日本オリジナルだし、銅鏡は弥生中期に最初に半島から輸入している。

嘘はやめろよ。

中国人のおまえにあるのは願望だけ。


で、中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活陶磁器と
中国系住居と中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓は?



※3Cの中国は青磁の時代。中国はBC10Cから既に土器ではなく、原始青磁という
釉陶の時代。土器ではなく陶磁器である。

719 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:11:23.88 .net
それに中国は6000年前から木骨泥墻(モッコツデイショウ)という土壁の住居。

4000年前には既に土壁の戸建ての時代。

2800年前には瓦が登場して、早くも瓦屋根に土壁の戸建ての時代。

中国から渡来人????


おまえ日本人なめてるだろ。

日本の掲示板に来るなよ中華ブタニグロが!

720 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:26:36.32 .net
>>718
>銅鏡は弥生中期に最初に半島から輸入している

嘘はやめろよw 
朝鮮人のおまえにあるのは願望だけ。
輸入ってなんだよ? 誰から買ったんだ?

弥生中期に半島で中国由来じゃない
王族威信材の銅鏡が必要だった理由は何?
箕氏や衛氏の残党が持ち込んでんだろ。 
中原移民や倭人進出以前の半島土器土人が半島で青銅器作るか?
韓伝読んだか?

漢四郡も魏の時代までには公孫氏三代で独立状態だが、
中国の古墳期で衛氏や漢四郡を半島というのはちょっといただけない。

721 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:50:22.87 .net
>>719
日本の古墳時代の始まりの話してんのに
なんで6000年前の中国や、弥生時代初期の渡来人が関係ある?

王権成立期の日本人がなんで古墳なんて言う
始皇帝みたいな間抜けな墓制始めたかが疑問なんであって
銅鏡の図柄に在る道教的死生観世界観が中国文化に由来するのは当たり前だろ?

孔子や老子やキリストが朝鮮起源なのは
おまえの頭の中では、だけだぞ。
日本の掲示板に来るなよ朝鮮沿海エベンキブタニグロが!

722 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:54:43.56 .net
>>720
俺は日本人だし、おまえは1兆%チンコロだよな。

朝鮮青銅器は衛氏朝鮮の少なくとも7〜800年前に遼寧青銅器の
影響で入ったもので、中国青銅器ではない。

朝鮮青銅器には中国青銅器の器種器形がない。


中 国 青 銅 器 は 調 理 器 や 酒 器 な ど の 飲 食 器 が 中 心。


と こ ろ が 朝 鮮 青 銅 器 に は 飲 食 器 が な い ! 


遼寧から入ってきたもので中国から直伝したものではないからだ。

弥生青銅器は朝鮮青銅器の輸入から始まり、朝鮮南部から青銅器技術を
導入した事で自らの青銅器を製作できるようになった。

そこに中原の青銅器などは一切ない!

723 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:14:49.18 .net
>>721
日本人だし、古墳期にチンコロが渡来定着した痕跡がどこにあんの?



で、古墳期にチンコロが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系陶磁器と中国系住居と中国系耕作用農具と
中粒種のイネと漢服と木沓は?


.

724 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:16:41.25 .net
>>722
なんで食器が青銅器だよ? 銅鏡の話じゃないのか?
日本に中国食器なんて要らんだろ? 

おまえらの好きな秀吉とか、信長はガラス器にワインのイメージかな?
茶釜は鉄器も良いかもな。

瀬戸もんと塗り箸で良いものを
食器に青銅器って古墳墓制以上にアホだろ?

中国王族ほどの馬鹿でもないなら
おまえはステンレスの箸と茶碗で粟と糞でも喰ってろ。

725 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:17:41.88 .net
頭の病院に行け

726 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:25:53.10 .net
>>724


日 本 青 銅 器 は 中 国 青 銅 器 と 直 線 的 関 係 な ど 一 切 な い !


中 華 ブ タ は 日 本 か ら さ っ さ と 出 て い け !


ブ タ ニ グ ロ 顔 し た ク ッ サ イ 汚 ら し い 中 華 ブ タ は 日 本 か ら さ っ さ と 出 て い け !

.

727 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:35:12.01 .net
>>724
遺跡は遺跡だろ?
漢字読めるか?

古墳や銅鏡や平安京に中国文化の渡来定着がないなら
おまえがそれを証明する論拠を示せよ。

文化伝搬の話に渡来人なんて関係ないだろ。
でも、400年以降に五経博士を連れてきて、教師としたから、
日本に日本人によって中国語ではない漢字文化が成立したんだよ。

言っておくが、朝鮮経由っていうのは朝鮮起源じゃねーぞ。
仏教はインド起源で、漢訳経典は 朝鮮語じゃなくて中国語だぞ。

728 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:52:10.97 .net
誤爆w
中華ブタ饅 なら知ってるけど、
ブタって、中国起源なのか? 

イノシシ居たろうけど、ブタは中国渡来なの?
朝鮮起源の豚だとちょっといや。

ちなみに、馬は高句麗馬で、対馬航路の邪馬台国滅亡後の250年以降、
まあ、帯方郡撤退の313年から百済建国支援で高句麗と戦争しながら
400年までには甲斐にも勅営御牧ができる。

畿内説での大和朝廷成立が古墳期の始まりであって、
九州東遷なんて暇が有るわけが無い。

729 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:54:45.39 .net
>>727
その通り。

日本の漢字は百済から伝わって、独自の進化を遂げた。

戦後、中国は日本語から中国語にはない漢字表現を逆導入した。

落ちぶれて、すっかり後進国になってしまった中国は日本語から漢字表現を
逆輸入して遅れた時間のの穴埋めをしたのだ。


現 代 中 国 語 こ そ 半 分 日 本 語 な の で あ る 。


. 

730 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:55:48.92 .net
お前の話など誰も聞いていないぞ、
そろそろ頭の病院に行け

731 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:24:33.58 .net
九州倭国邪馬台国と、畿内の発展は時期が被っていたのだろう。
邪馬台国の滅亡が4世紀末の神功皇后の戦いだね。

732 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:25:39.81 .net
>>728
おまえブタ顔の華南チーノ見た事ないの?

ブタと黒人の中間種みたいなクッサイ汚らしい醜悪な顔面をした
南方中華ロピテクスだよ。

733 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:26:33.76 .net
お前の言う何やら皇后などいない、
すべて取り消しだと書いたはず

734 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:28:50.20 .net
理解できたのなら、
頭の病院に行くか、刑務所にでも行け

死刑

理解できないから、
いつまで生きているんだろう

735 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:34:41.30 .net
他のスレにも書いたはず?
刑務所に行けと言ってるんだよ

騙り、成り済まし、寄生・・・、
他人から学んだ(倣った)、盗用など・・・、
いろいろあるだろう

736 :くまモン論者:2018/03/20(火) 13:10:05.14 .net
うおおおおおお!

「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル 福岡県赤村

https://www.nishinippon.co.jp/amp/nnp/f_chikuhou/article/402402

ちょっと行ってくる

737 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:11:21.37 .net
>>706
そりゃ畿内説側がするべき主張だよ。

黄金塚の神獣鏡、これも紀年がはいってるけど
なんで三角縁じゃなくて平縁だと思う?

738 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:20:34.93 .net
>>716
道教の影響でしょうなぁ。

739 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:26:48.92 .net
>>716 で、絶対釣れると知りつつ 釣り針投げちゃったんで、引けなくなりました。
また、アラシちゃった、てへぺろw よゐこの皆様、ごめんなさい。

で、
銅鐸の複製は日本に銅鏡に必要な画像化成文化された方士の世界観死生観が無いから
日本製でも転写で 副葬品として重要な呪術、魔方陣的な図柄は継承してる。 
という考察なんです。

銅鐸は弥生的文様、銅鐸は? で、広鼻先生だったのですが・・・ 自分から嵌ったwww
銅鏡が王権の象徴というのは、記紀の後付けだし、初期銅鏡の絵柄は中国文化。
王権が嫡子相続じゃない時代に、古墳や副葬品が誇大化するのは
豪族が取り入る為の詭弁だったり、王権強化を嫌ったからじゃないのかな?

神社普及は仏教伝来以降だろうから、個人埋葬用じゃない
日本製のでかいご神体の銅鏡は道教起源模様より日本模様になってる気がするけど
銅鏡厨の先生、いかがでしょう。

740 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:37:21.90 .net
倭人は帯方郡と盛んに交流していたみたいだから、帯方郡式の道教スタイルを
外交官から卑弥呼は聞いて、取り入れていたかもしれんな。

741 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 14:00:10.71 .net
>>739

おまえ、デタラメもほどがあるぞ。

>銅鏡が王権の象徴というのは、記紀の後付けだし、初期銅鏡の絵柄は中国文化。

そもそも皇帝が王侯に与えた威信財が内行花文鏡。
だから倭王も内行花文鏡。
記紀は関係ないよ。
中国文化に決まっているだろ。
誰が違うと言った?

>王権が嫡子相続じゃない時代に、古墳や副葬品が誇大化するのは

嫡子相続でないならなんなんだ?
前提がわけわからん。

>神社普及は仏教伝来以降だろうから、個人埋葬用じゃない

神社はそもそも宮だよ。
その名の通り、王宮。
仏教伝来により、形骸化した。
埋葬するためのものではない。
当たり前だ。

おまえの言っていることは支離滅裂でわけがわからない。

742 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 15:06:47.15 .net
>>741
おまえ、デタラメもほどがあるぞ。
300年代のどの倭王にいったいどの皇帝が威信材の内行花文鏡をくれんだ?

???
>神社はそもそも宮だよ。
>その名の通り、王宮。
>仏教伝来により、形骸化した。
>埋葬するためのものではない。
>当たり前だ。

>おまえの言っていることは支離滅裂でわけがわからない。
わからないことをわからんもんには聞く気はない。
デタラメじゃない分、土器厨先生の反論の方がマシw

王宮は王が居るから王宮。
神社は地方に分祀され得る、氏神、農猟山海等職域の部族神や天神、地神。
神話創作以前の古墳時代の死生観で 前王は信仰対象にはならない。
江戸後期までの天皇は嫡子相続ではない、兄弟継承が先。

そもそも無いものが、仏教伝来で形骸化ってのは完全に意味が分からない。

743 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 15:19:15.09 .net
>>742
漢だよ。
魏になると、倭国で鏡は国産化できてしまうから。

神社が分社されるのは、後世の話。
そもそも神社は信仰のためのものではない。
あれは権威だ。
そしてそもそもは王宮。
香椎宮とかみたいにね。

744 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 16:52:17.64 .net
古墳の副葬の鏡に対して 神社のご神体としての鏡の話してるのに
そもそも神社が信仰の為の社じゃなくて王宮ってのはおかしいだろ。
鏡が王権の象徴なら副葬したら一代で王権終わりか?

畿内説が王の鏡が一緒に古墳に副葬されてるから王墓だって主張してんだよ。
だったら、神社の鏡はなんでしょうね? って話で、
で、そもそも神社は王宮、って何?

古墳時代に神社信仰は無いし、
神社時代なら氏神に祀らなきゃ元王宮は信仰の対象じゃない。

神社のご身体になる銅鏡と副葬の鏡は、同じ道教の死生観由来じゃおかしいから
後期の和製の大型銅鏡のデザインは、中国鏡と変わったんじゃないか? って話。
漢鏡は下寵された個人の所有に帰して、死に際して副葬されるんじゃない。

745 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 20:12:26.88 .net
>>744
>古墳時代に神社信仰は無いし、

根拠はあ?

>神社時代なら氏神に祀らなきゃ元王宮は信仰の対象じゃない。

神社時代って何だよ?
氏神とか後世の概念を突然持ち出されても、会話が通じないな。
王宮は信仰の対象ではないだろう。
で?

746 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:48:13.82 .net
自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ

747 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:54:55.27 .net
日本の神社信仰は、権力者に対して
基本的に予備、あるいは牽制権力。

権力者の暴走を抑える受け皿になったり
権力者がトラブったときの予備の位置づけとなる。

748 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:18:29.50 .net
「まつりごと」が政治と祭祀の両方を意味し、天皇の最も重要なまつりごとが新嘗祭であった。
神社の建物は本殿と拝殿からなり、いわゆる職住接近であったのだろう。

749 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:19:13.99 .net
拝殿の成立は本殿よりも後である。現在でも伊勢神宮・春日大社・宇佐神宮・松尾大社など拝殿を持たない古社は多い。
拝殿は祭神の祭祀のための施設であるが、本来、神社の祭祀は本殿の正面の露天の祭場で行なわれていた。
本殿は、その起源を祭壇に求められるように、祭祀の対象であって、祭祀を行なう場ではなかったのである。

wikiより

750 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:55:52.84 .net
神を迎える仮屋であった屋代(ヤシロ)を
本殿として常設化するようになるのは仏教寺院の影響だな

751 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:03:31.55 .net
>>746
>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ

磐座の方が古いだろう

752 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:09:58.16 .net
>>709
>つまり、そういうこと。

どういうことだよww

>物や人は都に集まるからね。

都じゃなくて港だから、人が来てたんだよ
西新町遺跡とかは野方遺跡の港だよ

753 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:11:18.38 .net
古代史が不毛な議論に終わる原因は、
結局、記紀なんだだな。
ホントは古墳時代も消したかったか?
新井白石も本居宣長も
匙を投げる、か? 箸?

754 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:18:26.78 .net
>>717
>周旋

この人は三國志での周旋を全例検討して、起点に戻る例がないのを確認してるってさ
http://zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf

755 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:20:10.79 .net
>>753
>古代史が不毛な議論に終わる原因は、
>結局、記紀なんだだな

記紀を入れても情報が少ないことだよ

756 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:35:24.70 .net
>>751
>>746
>>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ

>磐座の方が古いだろう

同意する。
ただし、それとは別に、王族の宮としての神社建築があり、様式として固定されていった。
出雲大社や香椎神宮などのように王宮として建てられた伝承を持つ神社や、吉武高木遺跡の高殿と思われる考古学的遺構がある。

757 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:48:59.95 .net
神社っていうか神宮(かんみや)はそうだよね
神はカミの世代の人だから、日本では

758 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 03:23:34.72 .net
宮様だからな。

759 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 06:38:12.78 .net
香椎神宮ではなくて香椎宮
平安時代までは神社として扱われず、香椎廟と称した
『日本書紀』では、伊勢神宮・石上神宮・出雲大神宮(出雲大社を指すのみが「神宮」と記載されていた
平安時代に成立した『延喜式神名帳』では、大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮が「神宮」
神宮別宮の6宮、天皇を祭る八幡大菩薩筥崎宮、八幡大菩薩宇佐宮が「宮」の社号を許された

760 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 06:54:47.93 .net
>>746
>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ

そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や平原のような平地なんぞに築かない。 神は山に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや  無礼極まる話である。   @阿波

761 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:07:21.68 .net
日本で一番古い神社は奈良の大神(おおみわ)神社と言われてるよね。三輪山という山自体を
御神体としていて大物主(大国主)が祀られてる。
偶然か、箸墓古墳のすぐ裏にある。

762 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:12:12.04 .net
大物主の妻が倭迹迹日百襲媛命

763 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:14:28.38 .net
>>761
神社の起源もやっぱり阿波だろう。  @阿波

忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 

「真立石(上古神社鳥居)」
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg

764 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:31:04.55 .net
>>761
畿内優先主義による色眼鏡

765 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:32:51.72 .net
イザナギの禊に由来する住吉神社の方が、三輪神社よりはるかに世代が古いはず。

766 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:34:06.00 .net
卑弥呼が倭王の初代というわけでもないし、最も古い、と卑弥呼、は関係しない。

767 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:38:55.81 .net
>>759
つまり、宮を起源とする神社がたくさんあるんだよ。
筥崎宮だってそうだよね?
豊浦宮、高祖宮、岡田宮、老松宮、玉垂宮、福岡県内にはいくらでもあるな。

768 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:54:54.46 .net
しかし、神功皇后の世代がやたらに多いな。
逆に、それ以前の宮が少ない。
やはり神功皇后が皆滅ぼしてしまったか、神功皇后がの伝承で上書きしてしまったか。

769 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 08:53:13.89 .net
律令制が崩壊した後の時代になったら「宮」は好き勝手につけてる
朝鮮統治時代にも神宮をつけている
韓鍛卓素の宅蘇吉土の名残の高祖神社も宮と通称されてしまっている

770 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:07:27.04 .net
『延喜式神名帳』では「宮」の社号を許されているのは伊勢神宮の7宮を含めて11宮
式内社の99%は「社」号

771 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:23:13.56 .net
>>754
たいへん有用な論拠を ご提示いただきありがとうございます。
私も
「周旋」は誤読と言い切るのは、詐欺師の文言
は言い過ぎだったかと、反省する次第です。
邪馬台国論争への方法論や倭人伝への姿勢については、私も同じだろうと想像します。

「周旋」については、字面での解釈ではなく >>10 の梯儁の報告文の
次有斯馬國(糸島を想定)~次有奴国(伊都から南東100里)
を周回するという短絡的発想でしたが、
時計回り説を提示し反時計回り説の反論をいただきこのスレでも検討しました。
これは、段落が別なのでこの順序に拘泥する必要は無かったようです。

ただし、「周旋」は あまねく巡る であって、この論文? の
北岸狗邪韓國から、まっすぐ5千里では、何も「周旋」してません。
対馬海峡3千里+上陸後2千里なのは、初めから判っていることで
なぜ正しい検討方法の「周旋」の結論が無意味化しているのでしょう? 学会の圧力ですか?

実は、時計回り論争で5千里では足りないと感じていました。
南北2千里は方可なら8千里、周なら6千余里ですが、
これだと周回であって、すべての国をあまねく回るにはなりません。

この論文が、ミスリードの有る、他人の翻訳の流用を基準としたため、前提である
絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連
が、海に囲まれた 九州島の上の国々 であることを無視してしまっています。

九州島北部、南北2千里を5千里で回れる範囲に在る国々について参問した で桶です。
対馬島領、長崎方面、宗像〜宇佐方面は含まないと考えます。 
邪馬台国の真実が、だんだん小さくなりますwww

772 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:40:03.69 .net
もともと後漢書では倭奴国が極南界と書かれるくらいだから、いいんじゃないかな。
邪馬台国、倭国とはかなり小さな弥生国家だったんだよ。

773 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:40:22.40 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

774 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:44:27.93 .net
>>768
>しかし、神功皇后の世代がやたらに多いな。
>逆に、それ以前の宮が少ない。

その通り。
だから明神大社が集中してる場所こそが邪馬台国の王都。

それは明神大社が6社が集中する葛城。

ご丁寧に高天原(御所市高天)があり、
麓には神武の宮「柏原宮」がある。

また倭国王帥升の連れて行った160人もの生口を説明できる太古からの俘囚郷もある。

775 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:05:08.30 .net
>>773
>21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

これは間違いだと思っている
彌奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 有奴國 烏奴國 奴國
と「○奴国」という国名が多い
最後の奴国も「△奴国」の欠字と見る

九州北部の奴国と見ると(おそらく後漢書の撰者も同じ誤読をしている)
魏志倭人伝の「自女王國以北」(邪馬台国は奴国よりも南)や、
「此女王境界所盡」と矛盾する

776 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:30:53.44 .net
>>775
任那も○ナ国

777 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 17:12:53.49 .net
>>772
確かに後漢書の倭奴国は極南界で、
倭人伝では狗奴国国境の女王の王宮=居所の事ですが
周旋5000里によって、東にも西にも女王国の境界が有るように思います。

もちろん、倭国としての認識は九州島全体や本州もなのですが、
魏使は卑弥呼の王宮に金印紫綬を届けただけなので、
狗奴国との国境しか知らないように思います。

そして、皇帝に倭王として紹介した郡の役人で使の梯儁は
相当な小国であることを知ったが、その時は言えなかった。

同様に、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 によって
壱岐と対馬も倭人国ではあっても女王国に属さない可能性もありかと思います。

>>775 の「此女王境界所盡」と矛盾する。 
は 奴国が国境と言っているから ということと思いますが、
国名の間違いというより、むしろ陳寿の 境界所盡 の表現に齟齬が有り
次有のこれ(此等?)すべての21国表記(と不彌国)で、
女王国のすべての国を言い尽くした
という意味なのではないかと考えます。

これが
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
が意味する女王国で、女王属国の国境は四囲に有る、はずかと思います。

778 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 19:08:59.94 .net
>>777
>の「此女王境界所盡」と矛盾する。 
>は 奴国が国境と言っているから

というか、後漢書の奴国が極南界というのが、魏志倭人伝の
「国名の記載が北から南へ」と並べられていて、奴国が最後だから「極南界と考えた」
のだと思う

この認識と、北部九州の奴国は一致しない

779 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 20:52:52.25 .net
>>778
後漢書に奴国なんて有ったかな? と思って読み直したら金印の倭奴国ですね。
これ、後漢書によって金印の 倭奴国 が固有名詞かと思ってましたが、
おっしゃるように後漢書では、魏志の 次有・・・次有奴国此女王境界所盡 で 
南に狗奴国、のくだりで、女王国極南界を奴国と判断したようです。
であれば、倭の奴国ですね。 

范曄さん、それ場所、間違ってるけど って、教えたげてw
范曄さんは、其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同 の理解も変。

さらに、其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
これ、何を根拠に 邪摩惟 音と思ったんでしょう? ネラーに絡まれそうwww

邪馬臺國 は 和音の呼称、邪馬国の当て字 邪馬 に 表意文字の 臺=楼閣 で、
卑弥呼の王宮を訪れた梯儁が報告の為に漢字で命名したようですが、
日本人は国名の和音に 卑字当てられたとか、邪推するのに対し
中国人は逆に全部表意文字の国名と同等に考えてしまうんでしょうか?
邪推国とかねw

陳寿の文 そんなに難解とも思わないけど 
まあ、昭和になって論争になってるから判りにくいんでしょうね。
学者の飯のタネでわざと、って邪推は消えてないけどw

ご教示ありがとうございました。

780 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 21:04:14.14 .net
>>779
>邪馬臺國 は 和音の呼称、邪馬国の当て字 邪馬 に 表意文字の 臺=楼閣 で、
>卑弥呼の王宮を訪れた梯儁が報告の為に漢字で命名したようですが、

邪馬臺國と邪馬國が、別に書いてあることはどう考える?

餘旁國の16番目に「邪馬國」がある

其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有「邪馬國」、
次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。

ここの「臺」では話が合わないと思うんだが?

781 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 21:15:46.99 .net
>>780
>さらに、其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
>これ、何を根拠に 邪摩惟 音と思ったんでしょう? ネラーに絡まれそうwww

後漢書の原典は
其大倭王居邪馬臺國。其大倭王居邪馬臺國 
按:集解引惠棟說,謂魏志「臺」作「堆」。
[一]案:今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。

ということで、音から考えて「邪摩惟」は「邪摩堆」だろうって、
大陸の校勘でも直されてるよ

782 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:09:34.41 .net
>>752
対等の交流なら双方の土器が出る。
出雲と糸島みたいにね。
一方方向の土器の流れは、流れた先への集権化が見え隠れする。
もちろん確定的な事は言えないが、少なくとも"対等"
ではない。
後、土器は一般人の流れであるため、庄内期から関西との交流が始まったのだろう。
その後、庄内土器が交易の中心の奴国から北部九州全域へ流行したのだろう。

783 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:14:18.64 .net
>>780
それについては、 >>771 「周旋」の検討
で、時計回り説、ぶん投げしちゃいました m(--)m

固有名詞に関しては、帯方郡と政帳と梯儁でも当て字が一致していない場合があり
左 梯儁による国王名 / 右 郡の聴取による氏名)
奴(漢時)/(難)升米  ・ 都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗  ・ ?躬臣王/(載斯)烏越 
で 次有の21国と邪馬国の「臺」=女王の居所 も 梯儁しか漢字命名できない。

帳政の中国語化=漢字の当て字は 壹與と末盧國、不彌國
張政 当て字による官
對海/卑狗 卑奴母離(多分同行者) ・ 一支/卑狗 卑奴母離
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離 ・ 不彌/多模 卑奴母離
国名でも表意文字の 對海 一支 投馬 は 既に王朝地図に記載済み

次有の国の順番は >>3 の出土図の範囲程度で
>>467 みたいな魏王朝秘伝の地図で割と無作為に説明してったんだと思います。
邪馬国は辺境の山門瀬高、女王の砦は極南界、南の山麓です。 大牟田が戦場かな。

784 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:59:58.77 .net
>>783

厳密ではないが、概ね反時計回りに見えるよ。
あとは、後漢の頃の倭国は対馬海峡・玄界灘と筑紫だけだったので倭奴国が極南界だったが、魏の頃には肥国が倭国に含まれるようになった。

>>773
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

785 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 23:47:27.46 .net
唐津松浦までで一万里だからあと2500里。
往復して近場にちょこちょこ立ち寄れば
周旋5000里だ。

786 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 04:35:09.03 .net
対馬海峡が三千里なら、福岡長崎佐賀で五千里くらいだな。

787 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 14:09:50.53 .net
>>701
見落としてた、スマソ。
こうやって、出展示されると翻訳に反論すんのつらいよねw 
アタチどうせ厨房だし・・・ 小さい声で言っちゃうけど、

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象存 中國失 禮求之四夷 猶信
これの訳文 二つとも 雖 をないがしろにしてないか?

夷狄之邦には(今の中国が)失ったとはいえども、俎豆之象は中国(中華)に在る。
(冊封や朝貢の)礼を(今でも)四夷に求めるべきであると、なお信ずる。
これだと、南=東みたいな違いだけどなあw

長老ってのは、孔子じゃなきゃいかんの?
引用の「吾聞之天子失官,學在四夷猶信」は
もはや中国が失った古き良き政治機構がど田舎の国に残っている、ってホントだね で、
って、孔子だから王様の前で言えるみたいな話でしょ?

魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で
これを偉そうに孔子ぶって説法したら、陳寿死刑にならないか?
まあ、ネットでミスリードの誘導翻訳とは違うけどね・・・

788 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 10:08:19.12 .net
>>76 【東夷伝 序文】 で、いっぺん検討してた。
あの時は、重譯(調査団を度々派遣した)で 
今使譯所通の使譯を通訳にしたら全文の意味がおかしくなると思って掲載したんだっけか?

【東夷伝 序文】結語   >(魏は高句麗追討で)東臨大海 
で、
長老說 有 異面之人 近日之所出
遂 周觀諸國

采 其法俗小大區別 各有名號
可 得詳紀

雖 夷狄之邦
而 俎豆之象 存中國
失 禮求之四夷 猶信

故 撰次 其國列 其同異
以 接 前史之所未備 焉

これで、難解なのは 俎豆之象。
孔子なら、正解は先生に聞けば、すぐ出てくるでしょうが?
これは字面的に、『おまえら、誰のおかげで飯が喰えてると思ってんだ? あん』
と、訳すべきだと思います。 『中国皇帝様が天地創造したからだろ、ゴラァ!』 と。で。

長老説は 長老の言うところの日出処に異面の人有り の諸国を遂に周觀した。
で終わり。 孔子の文言『禮求之四夷 猶信』は無関係。 孔子は中国様に失礼www

倭人伝解読のキーワード
使譯、從郡、歴韓国乍南乍東、丗有王皆統屬、此女王境界所盡、官有、陸行一月、
計其道里當在會稽東治之東、使大倭監之、参問倭地、周旋、黄幢、檄、
かな? これ宿題、試験に出るから、ノート取っといてね^^v

789 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 17:00:36.12 .net
>>787
>魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で

大陸の正史っていうのは、王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される
だから、晋朝のもとで編まれた三国志で魏朝には徳がなかったって書くのは何の問題もないよ

790 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 19:28:02.31 .net
>>789
魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?

100年近く後の後漢書と違って
佐治の司馬氏が馬鹿王に育てた曹芳は
帝位を司馬炎に禅譲して斉王に収まってんだけど。

これ、曹家に仕えた使譯の梯儁と張政が
司馬王の史書で陳寿に情報提供というか報告してんだよ。

だから、陳寿は最後の評で、
記録できたのは、使を派遣した魏の皇帝の功績だ とたたえてる訳で・・・
だから、後の史書の倭情報は、600年までこれをソースにしてる。

王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される は ごもっともなのですが
倭人伝は時代背景を行間に読むべき、ってのはそういうこと。

791 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 22:38:58.29 .net
>>790
>魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?

だからこそ、司馬懿の公孫氏討伐を最大限顕彰するために、倭国の朝貢が持ち上げられているんだよ
だからこそ、倭国までの距離は「萬二千里」でなければならない

この萬二千里は、淮南子に見られる世界の果てまでの距離なんだよ

792 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 23:31:19.48 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

793 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 00:05:54.17 .net
>>791
軍事資料でもある実際の地理探検データを
宗教上の世界観に置き換えることは無いヨ
三国志には魏が王朝独自に作成した地図が存在する背景が見える。
三国に分離し、変動する領土があるということはそういうことである。
筆写だが独自に入手したものの一部東夷を >>467 で、既に公開した。

地球は丸くないようだが、太平洋を知り種子島から小笠原は2万4千里である。
北京から上海、成都を含む中原の方可が同じく、この12月行のようだ。
平面に世界の果ては有るはずだが、
この方可12月行を中原の八方に置いた世界観は
既に魏における宗教ではない、実世界の世界地理となっている。

794 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:14:13.91 .net
>>793
>筆写だが独自に入手したものの一部

邪馬台国ドンと来いじゃなくて、ドン引きだよこれは

795 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:40:10.01 .net
>>793
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、これが萬二千余里の基礎になっているように見える
ただし、秦・漢の統一を経て、漢土は方万里に拡大されているけれども
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

これが淮南子:時則訓になると、
東方之極が萬二千里
南方之極が萬二千里
中央之極が萬二千里
西方之極が萬二千里
北方之極が萬二千里という形に整理される
この中央+四方の極で示される正方形(方形)が天円地方の「地方」にあたる

前にも淮南子は宗教書だからといってた人がいるけれど、これが中華世界の
世界観の概形なんだよ
だから倭国の朝貢を、司馬懿の功績として顕彰するためにはこの世界の果ての距離が
引用されるのはある意味当然

796 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 15:21:03.95 .net
さて。久々。

>>795
同意。

魏書の編纂を命じた西晋の司馬炎と、
数多の魏書の中から選ばれた形となった三国志の意図とは儒教思想による西晋王朝の正当化。
それはつまり、前漢を滅ぼした新の王莽が行った儒教思想による簒奪の正当化と本質的に全く変わらないし、
後漢時に編纂された漢書と全く同じ。

勿論、倭人の朝見を故事に重ねて儒教的功績とした光武帝の意図とも同一だし、
帯方郡に現れた難升米らを直ちに洛陽へ送った太守と、
多分に事前に倭人の存在を知っており倭人を見つけ次第京都へ送るべしと命じていたであろう司馬懿の意図とも変わらない。

倭人の来訪が吉兆かと言えば、魏の曹氏の前に謁見した筈の公孫氏の滅亡を見ても明らかなように、別に何でもない。
しかし、王莽と同様、儒教的価値観を利用して簒奪を行った魏晋においては王朝の根幹を成す一大事業になり得る訳で。

797 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:37:01.20 .net
>>795
世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
全然世界の果てを万二千里にできてない

798 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:46:12.59 .net
あくまで中華世界の果てだぞ

799 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:02:52.22 .net
>>791
その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。

800 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:05:00.32 .net
そもそも一万二千里は洛陽からではなく、帯方郡からだから、中華世界はもっと大きいことになる。

801 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:07:13.09 .net
>>795
なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。

802 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 18:45:22.74 .net
>>787
長老というのは、東沃沮伝に出てくる耆老(きろう)(老人のこと)のこと。
高句麗王を追走していた王頎が東沃沮の東の海(日本海)にまで至った時に、
現地の耆老に「海の東にまた人ありや?」と尋ねると
人がいるようだと幾つかの話を挙げました。どれも胡散臭い話ですがその中にこういう話があります。

東沃沮伝4
又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。
また一艘の難破船を得、波にしたがいて出づるに海岸辺に在り,一人項(うなじ、首すじ)中にまた面有り、これを生け捕るも,言語相通じず,食べずして死す。

↑この話が下の東夷伝序文に引用される訳です。耆老が長老、項中復有面が異面、海東が「日出づる所の近く」へと表現を変えてます。
東夷伝序文
其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。
長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。
その後高句麗背叛し,また偏師(≒副将)を遣わして討ち致し,窮追すること極遠にして,烏丸・骨都を超え、沃沮を過ぎ、肅慎の庭をふみ、東に大海を臨む。
長老異面の人日の出づる所の近くに有りと説き、遂に諸国を周觀し,その法俗,小大区別,各名號を采り(採録し)、詳紀するを得べし。

この「日出づる所の近く」が引用されて隋書に出てくる倭の国書が作られたと思うと胸熱↓
「日出處天子致書日沒處天子無恙」

因みに長老の話は「沃沮」のwikiの「日本人(倭人)について」に詳しく書いてますよ

803 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 19:39:46.66 .net

【歴史】日本国はいつ誕生したのか 天皇制につながる卑弥呼の統治 学研究所長に聞く★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1521884985/l50

804 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 20:13:20.48 .net
>>802
長老情報ありがとうございます。 これと思います。
挹婁は海賊が日本に来た可能性もあると思ってしっかり読んだのですが
これは話自体の意味が、ちゃんと読めなかったかと思います。 翻訳GJ

縄文の日本海交易はこれ、土人と海賊で黒曜石商売無いんじゃないかな?
日本人も海賊に行ったって感じ。というより海賊でしか生き残れなそう。
米あるって書いてあるね。寒冷地の陸稲?

805 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:34:27.21 .net
>>797
>世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
>全然世界の果てを万二千里にできてない

そういう人にはいつもこう答える

魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬台国まで萬二千里ではなくて
女王国までだってこと 「自郡至女王國萬二千餘里」

この女王国は倭女王卑彌呼の国だから、倭国のことだよ

倭国がざっくりで東の果てにあるっていう表現
この萬二千里と、倭国の国内地理を切り離すと話が見えやすくなる

「倭国のどこかの定点」までが萬二千里ではなくて、或絶或連な洲島之上の国が、
萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ

806 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:41:02.46 .net
>>799
>その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
>あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。

もう一つ、「万里」っていう言い方も好きだから、後漢への朝貢の時に
万里の辺国からの朝貢ってことで、対馬海峡を渡るまでの数字を
万里に合うように作っている可能性を言う人もいるね

対馬海峡の渡海一つは、千里と決まっている固定値だし、それに合わせたんだろう

807 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:46:56.65 .net
>>801
>なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。

帯方郡までに漢土が拡張されているから、中央之極が萬二千里に拡張されている
その外側の東側が東方之極で、その広さ=果てまでの距離が萬二千里でつじつまが合ってるだろ

ついでに言うと、東の果てまで行っているから、水行20+10日、陸行1月は
東の果てを縦に=南に移動しないと話が合わない、って考えたかどうかだ

808 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 22:46:58.17 .net
>>805
倭国まで萬二千里なら対馬まで八千里で到達してることと矛盾してるよ
『女王の東』に千里行った先も『倭種』の国なんだから倭国ではない
やっぱり萬二千里が果てというのと矛盾すると思う

809 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:08:52.62 .net
>>805
>萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ

違うね。
後漢書では、その国との国境から楽浪郡までは7千里と書いてある。
女王がいるところまでは一万二千里。

810 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:13:11.36 .net
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

811 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:04:41.49 .net
>>808>>809
魏略を見るに東渡海千里皆倭種は、
本来は或絶或連な本土から千里離れているような離島も皆倭種って程度の意味

九州説はこの解釈絶対に認められないけどな
九州説の根幹に触れるから

筑紫島に着くまでが万里だよ
そこから長さが南方向に五千里(周旋五千里)、
幅も含めてざっくりであと二千里で世界の果てくらい
まあ周旋五千里の起点は其(倭の)北岸狗邪韓國でいいのかもしれないけど
7000+5000里で萬二千里になるだろ

その程度の計算だよ

812 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:08:28.97 .net
>>810
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

これが既に恣意的な訳
明らかに魏志倭人伝の引き写しの場所なんだから
その国は「女王国」に対応する
まあ漢代は女王じゃなくて男王だから女王国ではないけれど、要は「倭王の国」
邪馬台国みたいなピンポイントじゃないよ

813 :日本海ルート論者:2018/03/25(日) 00:45:59.31 .net
>>808
計算したら矛盾がある、科学的におかしい、そもそもそういう話じゃないんですよ。
渡海距離が一律千里という時点で既にマトモじゃない訳です。そして千里にした理由は2つ。
1つは魏人が独自に船を出して倭地に行くことが不可能なことを説明するため(千里なんて長距離の渡海は無理でしょ?と思わせる為)。
(渡海距離一律千里と載斯烏越が郡に来るまで難升米への黃幢引き渡しが行われなかった2点で、少なくとも「魏単独の渡海」が不可能だったことがわかる)
もう1つは当然距離を稼ぐためです。

東夷伝序文
及漢氏遣張騫使西域,窮河源,經歷諸國,遂置都護以總領之,然後西域之事具存,故史官得詳載焉。
魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于香A康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不奉朝貢,略如漢氏故事。
漢氏張騫を西域に遣わしむるに及び、河源をきわめ,諸国を經歷し,遂に都護を置きて以ってこれを総領す,しかる後西域の事つぶさに存し,故に史官詳載を得る。
魏が興り,西域に至り尽くすに能わずと言えども,その大國たる亀茲・于香E康居・烏孫・踈勒・月氏・鄯善・車師の属は朝貢を奉らぬ歳無く、ほぼ漢氏の故事の如し。

実績をいかに讃えるか。
西域を回復したことは大きな実績なのに、ただそれを伝えるだけじゃ政治的に意味がない。それで書き方に工夫がしてあります。
張騫の名はあるけど、班超の名が無い。その部下の甘英は2万5千里以上行ってペルシア湾まで到達しているのにそれも無い。実績を讃えるには不要、むしろ邪魔だから。
古代の世界観を引用してその東西の距離の尽きる所まで至っているならば、少なくとも古代の聖王たちに肩を並べることが出来る訳ですね。
周の頃こそ最上、昔の王ほど素晴らしい、というのが儒教的価値観でもある訳だから、その数字に合わせていきたい訳です。

814 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 01:04:00.77 .net
>>811>>813
どっちにせよ世界の果てが萬二千里とは認識してないという話にならないか?
実際の距離がどうだろうが、誰でも簡単に計算できる文面上でも萬二千里よりさらに東の地域があるんだから

815 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 04:29:14.70 .net
そうだよ。
そもそも洛陽から帯方郡まで距離があるのに、女王国まで帯方郡から一万二千里なので、世界の大きさは一万二千里よりはるかに大きくなる。
倭国の中心が九州と認識されていたことを認めたくないから詭弁を弄しているだけだね。

816 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 09:04:25.64 .net
洛陽が始点じゃないよ

817 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:05:13.21 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
古い順から、まずは
T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで

「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社

818 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:07:00.76 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
U天照大神・須佐之男命の世代

「天石門別矢倉比売神社【大社】」 祭神 「天照大神」 比定 天石門別矢倉比売神社(神陵)
「和名佐意富曾神社」 祭神 「須佐之男命か」 比定 和名佐意富曾神社
「忌部神社【大社】」 祭神 「天日鷲命」 比定 忌部神社
「大麻比古神社【大社】」 祭神 「猿田彦命か」 比定 大麻比古神社
「秘羽目神足濱目門比売神社二座」 祭神 「日鷲神と妻神か」 比定 論社あり
「天村雲神伊自波夜比売神社二座」 祭神 「天村雲神と妻神」 比定 論社あり

819 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:08:12.99 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
V国譲りに遣わされた神達と葦原中つ国の神々の時代

「御縣神社」 祭神 「国譲り交渉第一の使者:天菩日命」 比定 豊国神社境内社(神陵跡)
「山方比古神社」 祭神 「第二の使者:天若日子」 比定 経塚大権現(神陵)
「建布都神社」 祭神 「第三の使者:建御雷男命」 比定 建布都神社
「矢桙神社」 祭神 「大国主命」 比定 矢桙神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝浦郡生夷神社
「勝占神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝占神社(神陵跡)
「多祁御奈刀祢神社」 祭神 「建御名方神」 比定 多祁御奈刀祢神社
「天水沼間比古神社・天水塞比売神社」 祭神 「沼江姫の父母神か」 比定 杉尾神社か
「鴨神社」 祭神 「阿遅鉏高日子根命」 比定 鴨神社(丹田古墳が神陵)

820 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:09:09.28 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
W神武天皇の出生と東征の時代

「和多都美豊玉比売神社」 祭神 「海神の娘・豊玉比売命」 比定 西宮神社(和多都美宮跡)
「天石門別豊玉比売神社」 祭神 「天孫三代の后:豊玉比売」 比定 城山東麓(神陵跡)
「宇志比古神社」 祭神 「神武の参謀:速吸の宇豆比古」 比定 宇志比古神社(神陵遥拝地:西山谷二号墳)
「伊比良姫神社」 祭神 「神武天皇の妃」 比定 伊比良姫神社 藍住町徳命が神陵跡
「阿佐多知比古神社」 祭神 「神武天皇か」 比定 阿佐多知比古神社 元の鎮座地は渋野か

821 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:10:16.10 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
X第十代崇神天皇の時代まで

「御間都比古神社」 祭神 「第五代御間都比古天皇」 比定 御間都比古神社
「大御和神社」 祭神 「御和の神:大国主命」 比定 大御和神社
「伊加加志神社」 祭神 「第十代崇神帝の母:伊迦賀色許売命」 比定 伊加加志神社
「倭大國玉神大國敷神社二座」 祭神 「倭の国を証明する国魂・国敷の神」 比定 倭大國玉神大國敷神社
「天都賀佐比古神社」 祭神 「笠縫邑の大人:笠彦」 比定 天都賀佐比古神社(神陵跡)
「建嶋女祖命神社」 祭神 「孝元帝の妃:埴安比売命」 比定 建嶋女祖命神社
「和耶神社」 祭神 「埴安比売の御子:建埴安王」 比定 羽浦神社に合祀 元鎮座地は能路山(古墳跡)

822 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:11:29.49 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
最後に
Y景行天皇から皇極天皇の時代まで

「白鳥神社」 祭神 「日本武尊」 比定 白鳥神社(神陵跡)
「建比売神社」 祭神 「日本武尊の妃:建比売か」 比定 建比売神社
「賀志波比売神社」 祭神 「景行帝の妃:美波迦斯姫か」 比定 津峰神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波市事代主神社
「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)
「速雨神社」 祭神 「皇極天皇」 比定 速雨神社(雨乞神事)

823 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 14:32:27.18 .net
【倭人伝の 邪馬台国 まとめ】邪馬台国 という名称は、魏志倭人伝に一度だけ登場する。

【背景】
倭人在 帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時
>帶方東南大海之中=これは日本列島を意味し、以降の記述 帯方郡南満2千里の九州島と場所が違う
>依山㠀為國邑 舊百餘國漢時=拠って、漢時に金印印綬の倭奴国は倭100国のうちの一つである

有 朝見者 今使譯所通三十國 從郡至倭
魏に朝見者が有ったので、今使譯を通じ30国を知った。その郡使譯に拠る倭への行程を記す。

【張政による倭への行程】
循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
南渡一海千餘里 至一大國 (海域名 瀚海)
又渡一海千餘里 至末盧國
東南陸行五百里 到伊都國
東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里

これは247年 政帳による行程記である。
・張政は遣倭使 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状の際の倭船に同乗、同行で来日の査察者
・官 卑奴母離は現地任命の官ではなく船からの同行者の可能性が高い
・政帳の渡航目的は 因齎詔書 黄幢拝假 難升米 為檄告喩之 である。
難(奴)升米は 奴国大夫 奴王であるため 奴国へ の行程が記されている。
・不彌國はその奴国の隣接であるが、おそらく帰国便の母港と想像する。
帰国は壹與の遣使 巳百支王/伊聲耆 掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺 である。
・政帳は倭人渡海時の持衰を見ている。 
>其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
倭人船所有の大夫=王が変われば、母港も変わるだろう。
末盧國〜伊都国南東500里についても、船の母港や持衰祭祀の都合が優先されると考える。
つづく

824 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 14:35:28.61 .net
>>823 つづき【梯儁による倭への行程】
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

240年梯儁は皇帝の使いで、郡独自に軍船を仕立て魏の役人として
邪馬国の砦 臺に住む 女王卑弥呼に 詔書金印紫綬 を授けに来た。

・里程から日程への変化は陳寿のデータソースの変更を意味する。
・投馬國五萬餘戸 邪馬壹國七萬餘戸 は 倭人船の案内で来た張政の記述が
町や都市、島の単位であるのに対し、梯儁記はある程度の国邑の大きさでの概略である。
・梯儁の行程中に在る国邑は、馬韓、半島南岸の倭人国、女王国の3国である。
・投馬國は半島南岸の倭人国全体、狗邪韓國は帳政が倭人船が立ち寄った港町の倭人地名である。
・ここまで、今使譯所通三十國 の30国が無いので以下で列記する。
・国名は倭人に参問し、梯儁による 当て字の中国語化が行われた。
・邪馬壹も邪馬國も梯儁の命名であり、邪馬国に在った臺を見て全体の国名としたと考える。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
・倭人国は 大夫=国王 であり、以下の個人名は郡での倭使としての奏上で、郡が当て字化したが
・梯儁の当て字に対応して、奴国王 難升米 都支國王 都市牛利 巳百支國王 伊聲耆掖邪拘が比定可能)

其南有狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

・魏と邪馬台国の国交は、238年に始まり、247年に終わっている。と考える。
帳政の視察によって、245年の韓との紛争での 黄幢 檄 に応えなかった
邪馬台国が軍事同盟の価値が無いことを知ったのである。

825 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 15:38:32.83 .net
邪馬台国は都の所在地であり、国号は倭だよ。
帥升や倭の五王と同じ国だ。

826 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 16:54:52.20 .net
>>815
>そもそも洛陽から帯方郡まで距離があるのに、女王国まで帯方郡から一万二千里なので、世界の大きさは一万二千里よりはるかに大きくなる。

>>795>>807を参照のこと
既に丁寧に解説してあるよ
読んでから書き込んでね
反論も歓迎!

>倭国の中心が九州と認識されていたことを認めたくないから詭弁を弄しているだけだね。

きちんと読んでからの反論なら歓迎するけれど、既に書いてある解説を無視するなら
ただの強弁だな
九州説は苦しいね

827 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 18:41:52.95 .net
>>826
長くて読みにくいんだよ!
まあ、言いたいことはわかった。
でも、内訳まで書いてあるので、適当な数字ということもあるまい。

何よりも、一万二千里が世界の果てで倭国の極南界なら、そこからさらに水行陸行を想定するはずがないよ。
あと、洛陽から東に中華の果てまで行って、そこから東ではなく南に行って地の果て??

828 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 20:48:32.31 .net
観念の世界に論理はないよ

829 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 22:31:01.04 .net
>>826
>そこからさらに水行陸行を想定するはずがないよ。

でも、書いてあるんだから無視しちゃダメだろう
数字を書くとおかしいなと思って日数にした可能性もあるんじゃないかな

>倭国の極南界なら

それは後漢書の誤解だろう
>>775>>778ご参照して

萬二千里は「邪馬台国まで」ではなく「女王国=倭国まで」だよ

830 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 22:36:12.10 .net
>>827
>あと、洛陽から東に中華の果てまで行って、そこから東ではなく南に行って地の果て??

東の「地の果て」まで行って、その果ての端っこ(地は方形なのでまっすぐな直線)に沿って
南に行くんだよ

831 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:35:53.60 .net
>>829
>萬二千里は「邪馬台国まで」ではなく「女王国=倭国まで」だよ

感動です! 万二千里から 南水行30日と陸行一月
これじゃ、ムー大陸以外は有り得ないと考えましたが、
『万二千里=世界の果て』の外というのはもはや否定不可能の新説です。
きっと徐福もそこで蓬莱郷を作ってると思います。

倭人伝は宗教書。 邪馬台国論争、意外な完結でした。 
ありがとうございました。

832 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:47:37.86 .net
>>831
>『万二千里=世界の果て』の外と

「世界の果て」に、「その外」なんてないよ
世界の東の果ての子午線(の内側)に沿って、南北に山島が連なっているのが
倭人の領域=倭国のイメージ

833 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:50:03.09 .net
>>831
>倭人伝は宗教書

淮南子を宗教書といった人もいるけれど、世界観であって宗教とは違う
倭人伝は、司馬家(司馬懿)顕彰の政治目的を含む書であって、もっと生々しいものだ

834 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 15:14:44.62 .net
福岡で卑弥呼の墓を発見か 魏志倭人伝にある記録とほぼ一致
http://news.livedoor.com/article/detail/14487080/
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/6/7/67ebc_759_6a23357c_8db83767.jpg

835 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 20:47:03.60 .net
>>832
>「世界の果て」に、「その外」なんてないよ
おい、ちゃんと正常に、頭使ってるか? 危ないよ。

これは、イメージの話じゃなくて、
皇帝の命で、魏使の梯儁と言う人が 実際に軍船出して、異国の行軍もして行った、
帯方郡から万二千里の九州北部3分の一くらいの場所に有った女王の砦の話だよ。

その脳内錯乱状態は、実際の探検記に、君の妄想を反映してんだろwww
大航海時代前でコロンブスが居なくても、地の果てが実在しない、って事実は知ってるか?

836 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 21:53:04.63 .net
>>835
まずお前は、淮南子の時則訓を読みなさい

天円地方がなんなのか理解してから出てきなさい

837 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 11:18:01.23 .net
>>835
>大航海時代前でコロンブスが居なくても、地の果てが実在しない、って事実は知ってるか?

論点が理解できていないやつが何を言ってるんだか?
ずっと東まで船で行ったとして、「そこ」までが萬二千里とされるっていう話だ

838 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 22:02:51.45 .net
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。

839 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 07:25:34.16 .net
>>838
>九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。

これは、漢字で書くと「原」だよね
つまり平らなところ
国邑の名前というより、地勢の表現だろう
まあ、山の中に集落の大きいのは作りがたいから、国邑は当然、バル(原)な場所に
作られることになるけれど

そして、このバルという読み方は沖縄のヤンバル(山原)と同じ南方系要素
半島とのつながりはそれほどなさそう
実際、現在九州でバル読みする「〜原」は、宮崎・鹿児島の南九州に多い

828は「後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが(中略)大変大雑把な呼称」と
書いているけれど、「九州では(中略)バルなどを用いる」というのも、同じ程度に
大雑把だと思う

個人的にはクシフルは、クシミタマ(奇魂)の「クシ」に、布瑠の言などの「フル」が
付いたものだと考えている

「布瑠の言」はニギハヤヒの十種の神宝のうちの「比礼」を使うときの呪文

要するにクシフルで、「奇跡」の「顕現」くらいの意味だと思う

840 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:32:10.09 .net
その文脈なら、クシフルは「神(王)の町」でもいいんだよ。
それに福岡県や佐賀県など、九州北部にもハル、マルは沢山ある。
地勢ではなく、環濠集落を意味していると考えられている。
のちの城郭の本丸なども同じ。

841 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:35:34.97 .net
古代朝鮮語で「村」のことだよ

842 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:36:19.58 .net
伊都の高祖宮は、怡土城という山城で、博多湾沿岸の筑紫倭国を抑えるのに適している。
伊都に入る陸路は高祖山を越える日向峠しかない。
この山城が王城として機能して、筑紫日向のクシフル山の高千穂宮と呼ばれたのだろう。

843 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:40:34.11 .net
>>841
そうだね。
環濠集落、都市とも言い換えられる。
少なくともクシフル山は山城なので、ハルに平地の意味はない。

844 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:42:18.38 .net
ググるとすぐに出た。
ハルは九州北部の方が多い。
福岡、大分が最多だ。

ttp://www.shochian.com/harubaru.htm

845 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:46:58.46 .net
クシフルも日本語じゃない
亀旨峰と同じ語源だ

846 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 11:04:42.84 .net
>>841
>古代朝鮮語で「村」のことだよ

ただなぁ、基本的に古代朝鮮語が分かる文献って一切残ってないんだよな
「日本の記紀」などに、古代半島の王名などの固有名詞が残っているだけ、
というレベル

三国志の魏志東夷伝韓条にも、フルと読める地名など一つもないだろ?

何々は古代朝鮮語が起源っていうのは、「起源大好きな朝鮮の人」が相当に適当に
音韻が似ているってだけで言っているものが多い

例えば、日本語の「名前(namae)」と英語の「NAME」はアルファベット表記で
一文字違いだし、語感も同じだから「日本語の名前は英語起源の言葉」っていうのと
同じレベルなんだよ

古代朝鮮語の何々が起源っていうのは、基本的に無視していいと思う

847 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 11:33:41.23 .net
朝鮮語が起源と言っているわけではなく、起源が同じ、または倭人の言葉が向こうに伝わった可能性もある。
分布としては、半島でも九州南部でもなく、九州北部が中心だよ。

848 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 12:08:19.99 .net
>>847
>起源が同じ、または倭人の言葉が向こうに伝わった可能性もある。

もう少しあからさまに書けば、
「古代朝鮮語」自体が研究のしようも実体もないものだってこと

だって、一切残っていないんだから!
それを「ある」と言い張っている一部の人がいるってだけ

日本語は、万葉集とか記紀の中の古歌とか、本気で古い日本語が残っているけれど
朝鮮語は古記録が「一切ない」

儒教道徳では、古いもの、起源がえらいってことになっているから、日本語よりも
古代朝鮮語の方が古いって言いたい動機があるんだよ

849 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:00:25.60 .net
>>848
>古代朝鮮語の方が古いって言いたい動機があるんだよ

そんなことは誰も言っていない。
うざい。

850 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:07:15.49 .net
白熱した議論の横らかすみませんが教えてください
万葉集には意味のわからない語があるが古代朝鮮語で読めばわかるとか
枕詞言葉は必要がないのに書かれているのは古代朝鮮語で考えるとわかるという意見がありますが
それについてはどう考えますか

851 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:13:05.78 .net
>>850
古代朝鮮語は復元されてないので
読めばわかるというのは全くの嘘です。

852 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:21:41.27 .net
>>850
>枕詞言葉は必要がないのに書かれているのは古代朝鮮語で考えるとわかるという意見がありますが

単なる思い付きレベルの戯言だよ

>>849のまったく反論できないところを見れば、お察しってやつだ

853 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:55:33.97 .net
>>852
そもそもそんな意見に加担していないのだから、反論も何もないだろ。
バカか?

854 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:14:19.88 .net
>>852
そもそも「古代朝鮮語なんてない」のに、クシフルという「日本の地名」の解説に
「古代朝鮮語の村の意味」とか言われたら、失笑するしかないだろ?

>バカか?

とか書いてる時点でお察しだわ

855 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:32:28.24 .net
>>854
俺は古代朝鮮語なんて言っていないぞ。
ふざけるなよ。

856 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:35:38.57 .net
>>855
>俺は古代朝鮮語なんて言っていないぞ。

なら横から口を挟んで火病るなよ

>ふざけるなよ。

汚い言葉を使う人は、それだけでお察しだよなw

857 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:43:09.12 .net
>>856
>なら横から口を挟んで火病るなよ

おまえだけは言われたくないなw

858 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:48:23.99 .net
>>849
「うざい。」
>>853
「バカか?」
>>855
「ふざけるなよ。」
>>857
「おまえだけは言われたくない」

お察しだわなw

859 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 15:18:25.87 .net
何を察したの?
電波な人?

860 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 15:28:13.95 .net
>>859
>何を察したの?

「もう少しあからさまに書けば、
 「古代朝鮮語」自体が研究をしようにも、実体も何もないものだってこと」

「古代朝鮮語」とかいうのが出てきたら、トンデモだと思えばいい

っていうのから、話がそらしたいんだな、と

861 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 16:35:01.91 .net
>>837のこれはOKだな?

ずっと東まで船で行ったとして、「そこ」までが萬二千里とされるっていう話だ

862 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 18:00:49.49 .net
内容がない話ばっかりだな

863 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 18:51:49.86 .net
>>862
では、内容のある話を Please!

864 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 19:13:30.36 .net
>>851 >>852

840です
ありがとうございました

865 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:45:08.33 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

866 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:46:51.93 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)

867 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:58:08.06 .net
萬二千里は、女王国=倭国までの距離で、観念上の地の果てまで距離という実体のない値だから
邪馬台国の位置を探る上では役に立たないよ

868 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 23:07:23.98 .net
あれも意味なし

これも意味なし

あんたの本拠にゃ鉄器なし住居なし

ピエロくんwキナイコシw

869 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 23:59:43.89 .net
魏略の時点で奴国〜投馬国までの順路すっ飛ばして伊都国から女王国に行ってる
議論の余地のある水行陸行など無視して伊都国の南に邪馬台国がある

870 :日本海ルート論者:2018/04/01(日) 00:05:48.73 .net
萬二千里の真実とは↓
>>186

因みに第一次魏使は伊都までしか来ていないが、
第二次魏使(塞曹掾史張政等)は奴国狗奴国国境まで行った可能性がある
(行っていない可能性もある)。
だが何れにせよ邪馬壹國に辿り着いた魏使はいない。

ただそれだけの話。

871 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:23:30.82 .net
魏帝の下賜品と手紙を卑弥呼のところまで持っていったんじゃなかったっけ?

872 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:54:38.49 .net
>>869
>議論の余地のある水行陸行など無視して伊都国の南に邪馬台国がある

議論の余地のある、ではなくて、九州説には都合が悪いからなんとか無視したい、の
間違いだろう?

大陸からの使者が投馬国や邪馬台国まで行くのは、魏朝になってからだから
情報量が九州までと差がある

それだけのことだろう

873 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:57:37.28 .net
漢以前
中国人「九州しか知らない」

魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」


中国人「畿内にも詳しくなった」

めっちゃ自然ですやん

874 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 04:46:51.40 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)

875 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 07:50:11.19 .net
>>873
そうまさにこれ。

畿内説信奉者は
日本書紀古事記の読み込みが足りんやろ。

876 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:13:07.93 .net
ありとあらゆる文献を信用できないと言わないと成り立たない畿内説

877 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:15:23.14 .net
>>875
>畿内説信奉者は

いや、863は魏の時に畿内から卑弥呼の使者が来て、除正使が畿内まで行って
「畿内を知った」ってことだぞ
つまり、これで畿内説は問題なく説明できる

「九州のことばかり書いてあるから九州」っていう九州説の言い分は寝言ってこと

878 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:16:00.34 .net
漢 九州しか知らん
魏 九州の東にも人がいるらしい
隋 九州倭国に阿蘇山
唐 九州倭国の東に日本国があり、倭国を乗っ取った

879 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:20:01.80 .net
>>878
乗っ取られるほどしょぼい九州

880 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:34:32.50 .net
>>877
おお畿内説の人でしたか。むしろよかった。

畿内説の人は九州説の人の根拠
書いてある史料事実も認めない人がいるのでね。

まずは事実を認めるまともな人でよかったです。
解釈は双方ありえるのは当方も認めるところです。

ではこの事実をもとに進めていきましょう。

881 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:46:23.75 .net
>>879
白村江で負けたから

882 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 12:02:17.82 .net
白村江で負けて乗っ取られるほどしょぼい九州  

883 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:18:13.75 .net
それだけ総力戦だったということだろ。
第二次大戦で負けて乗っ取られている日本と同じだ。

884 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:23:14.44 .net
それは「唐」に乗っ取られた場合の例え。    一緒にすんな、しょぼい九州よ  

885 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:30:13.76 .net
白村江の戦には静岡からも第三軍1万人が出陣しているから
九州だけがどうこうの話じゃないだろう。

886 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:53:17.15 .net
天智政権が党の傀儡政権だったんだよ。

887 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:57:30.13 .net
>>886
へたな妄想だすな

888 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:08:26.40 .net
倭の五王の時点で大和朝廷が埼玉から熊本までの全国政権なんだから
白村江までの九州王朝なんて、病院レベルの妄想だって

889 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:12:06.05 .net
>>875
>日本書紀古事記の読み込みが足りんやろ。

記紀をきちんと読むと、邪馬台国のずっと前に神武が畿内に入ってて
崇神の頃が纒向に都がある邪馬台国の頃ってことにしかならん

記紀の記述を見る限り、倭迹迹日百襲姫命という名で記録された皇女が卑弥呼で特に問題はない

890 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:33:16.20 .net
記紀の大和記録に邪馬台国らしさが微塵も感じられない。
魏志倭人伝の倭国の記録に畿内らしさが微塵も感じられない。

891 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:33:52.21 .net
皇女と女王が同じという発想が理解できない。

892 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:36:02.42 .net
主観ごちそうさま

893 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 15:49:30.21 .net
ゲップがでる

894 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:16:29.78 .net
畿内の支持者で記紀を重視するとは
出土品で無理矢理こじつけるのが畿内説なのに
記紀を重視しているのに畿内説に行くのは辛いだろう
早く楽になったほうがいいぞ

895 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:19:15.88 .net
>>891
なぜイカンと?

896 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:26:07.96 .net
皇女と女王が同じでいいなら記紀の存在価値そのものが無くなるのだが。。。

897 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:36:21.71 .net
なんで?

898 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:51:12.53 .net
>>890
>微塵も感じられない。

個人の感想ですねw
ここは日本史という科学板だよ
きちんと「根拠」をあげて論証してくれ
話はそれからだ

899 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:56:16.21 .net
記紀を始め、さまざまな文献、古社の祭神等から、彦姫制の存在が想定される

しかし、記紀は彦王たる政務王の系譜を記すものであり、
姫王たる祭祀王は誰が王であったかを記していない

邪馬台国の頃の歴史を遺物や遺跡から俯瞰すると、各地の豪族はそのまま
各地の支配者でありながら、前方後円墳祭祀を統一・共通化した様子が見て取れる

姫王たる倭迹迹日百襲姫命が祭祀王として、統一王に共立され、その名の下に
魏との外交がなされたと考えるのは特に無理がない

皇女の祭祀王が、記紀では大王位として記されていないのは特に不審ではない

900 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 16:59:05.96 .net
>>872
都合悪いもくそもそんな記述なくても邪馬台国にたどり着くんで
魏略も女王のこと書いてるんだから魏の時代のことが書かれてるんだよ

901 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 17:16:05.23 .net
>>900
>そんな記述なくても邪馬台国にたどり着くんで

そこ、邪馬台国じゃないから

902 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 17:17:47.89 .net
んだな。
北部九州邪馬台国で確定。

903 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 17:57:43.33 .net
北部九州にヤマト国はないでしょ?

お薬飲みましょうね!

904 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 18:07:49.77 .net
だからなに?

905 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 18:26:55.61 .net
>>899
>各地の支配者でありながら、前方後円墳祭祀を統一・共通化した様子が見て取れる

3世紀前半の九州には関係ない。
ましてや卑弥呼の即位が2世紀末なら、畿内は支配者になれない。

>姫王たる倭迹迹日百襲姫命が祭祀王として、統一王に共立され、その名の下に
>魏との外交がなされたと考えるのは特に無理がない

主観であり、学問ではない。

906 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 18:38:41.97 .net
>ましてや卑弥呼の即位が2世紀末なら、畿内は支配者になれない。

だよね。

系列としても、箸墓の前にホケノがあるし、その前にも纏向古墳群があるから、
倭国乱からの邪馬台国の歴史と完全に乖離している。
それで錯乱して卑弥呼が個人じゃなくて身分名なんて話もでっちアゲてたな(懐かしい

907 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 18:40:21.92 .net
70-80年の男王を経て、
2世紀中旬の倭国乱から3世紀後半までで唯一そびえる平原女王が
邪馬台国の歴史に合致しているね。

908 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 18:59:00.03 .net
>>903
邪馬壹国ヤマトとは読まない

909 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 19:19:19.34 .net
>3世紀前半の九州には関係ない。

でも、3世紀中に北部九州も古墳時代に入るぞ
まあ九州は辺境だから、直接的な変化が見られるようになるのが遅れるってことだ

910 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 19:24:48.08 .net
>>908
>邪馬壹国

魏志倭人伝を参照している史書が軒並みというか全て邪馬臺國なんだから、
現存の魏志倭人伝の伝書が、どこかで転記ミスがあったとする方が普通

九州説でも山門を候補地にしたりしてるのに何を言ってるんだか

911 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 19:27:42.41 .net
>>906
>系列としても、箸墓の前にホケノがあるし、その前にも纏向古墳群があるから

いや、むしろ箸中山古墳は卑弥呼の墓としては遅いから、その前の纒向古墳群の
いずれかが卑弥呼の墓として可能性が高いと思っているんだが?

箸中山古墳は径百歩というには大きすぎるし

912 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 19:57:25.79 .net
鉄器が無いから無理だな

913 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 20:34:32.98 .net
>>910
山門は音が違うから
九州説の人でも支持している人の割合は少ない

914 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 20:36:08.52 .net
ヤマトは筑紫にあった倭国のこと。

915 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 20:45:27.78 .net
>>914
>ヤマトは筑紫にあった倭国のこと。

九州に「ヤマト」の地名が残ってないだろ?

916 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 21:06:25.30 .net
彦姫制を認めるのは共通認識として、

それで
百襲媛=卑弥呼と「思う」のは論理の飛躍。

百襲媛が居たらしいところで魏と通交した痕跡とか見つかってないでしょ?

917 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 21:08:49.66 .net
>>911
この推論は妥当。

918 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 21:33:25.04 .net
>>913
奈良時代の発音なんか参考にならないよ

919 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 21:40:19.68 .net
>>916
>魏と通交した痕跡

つ魏の年号の紀年銘鏡

920 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 23:09:33.99 .net
後世の記念品でしょ。

921 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 23:36:51.46 .net
魏との交渉が全くなかった(九州説の主張)のであれば、後世だろうといつだろうと
記念する必要がないだろ?

九州説は論理が矛盾してるんだよ

922 :日本海ルート論者:2018/04/02(月) 01:19:54.27 .net
>>910
>魏志倭人伝を参照している史書が軒並みというか全て邪馬臺國なんだから、
>現存の魏志倭人伝の伝書が、どこかで転記ミスがあったとする方が普通

ただ写本が古くまた多種であるだけの後出の駄文たちに正しさを見出し、生まれた時から美文であり続けているであろう倭人伝を汚してはいけない。
「政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺」
この文は皇帝のみがこの世で唯一神事を行える臺と記すことで魏の都たる洛陽を重厚に表現している。その同じ文中で外国の女王の名に同字を使う筈がない。
故に邪馬壹は邪馬臺ではない。(地名+臺は中国内でも使われるが、臺を単体で使用して重厚さを出している意味を考えれば臺の乱用は無駄でしかない)

>>908
だが、儒教関係でも割と同音異字を使った文を見ることがある。つまり美文故に壹は臺と同音異字であるべきで多分に壹の中にある豆にこそ音価があるだろう。
故に邪馬壹はヤマトである。

923 :日本海ルート論者:2018/04/02(月) 01:49:50.28 .net
>>899
大体において同意。
ただやはりヒコヒメ制よりヒメヒコ制の方が座りが良いと思うなあ(笑)

あとはまあ。
ヒメヒコが母家を継ぎ、余った兄(え)達が地方共同体の構成員となり、地方王を支えるというモデルが各地にあった(邪馬壹も以前はそれ)のを、
祭祀の共有を条件に各母家の所領を安堵し、見返りに安定拡大した交易網でウィンウィンの関係を築くと。(地方王の歯ぎしりを内訌と断末魔の叫びに変えつつ)。
あと。母家を代表する筈のヒメヒコを生存する父が家父としてコントロールするモデルが生まれたのは画期だったろう。
記紀なら崇神だけどそんなにすぐかは分からない。でも確かに強力なヒメを失った男弟が死なずに生かされたなら。生きる道は確かにヒメヒコのコントロールしかない訳だ。

924 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 07:32:26.85 .net
>>919
呉の紀年鏡もあるじゃん。

925 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 07:48:48.55 .net
>>922
ちゃんとカールグレンの仕事参照したか?

壹の上古音はゐだぞ。

おや?iet jet jit
末尾にt音があるな、、、これは最近読んだ
縄文語の起源という本に何か指摘されてた気がするぞ、、、?

926 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 08:26:09.93 .net
トンデモ系の論説だからそこまで留意する必要はないが
司馬懿を馬鹿にするために邪馬壹恣という字面を作りたかった
つまり敢えて邪馬臺を邪馬壹と書き換えた、なんてことを考えている人もいるよ

927 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 08:50:16.28 .net
邪馬臺でも邪馬壹でも、タ行になりうるから意味がないね。
ヤマト、つまり倭のこと。
そして中国古典では倭とは九州北部。

928 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 09:55:54.87 .net
>>927
>そして中国古典では倭とは九州北部。

中国古典って、漢書だけだぞ、そういう立場なのは
といっても、漢書の記述は
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」だけだけどな

三国志以降は、全て倭国の都をヤマトとしている

929 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 10:17:46.96 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

930 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 10:19:27.50 .net
隋書では、倭国に阿蘇山があり火を噴くと書いてあるけどね。

931 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 10:36:00.09 .net
>>930
>隋書では、倭国に阿蘇山があり火を噴くと書いてあるけどね。

畿内説でなくても、遣隋使を送ったのは大和朝廷であり、九州から東国まで
広い範囲が倭国なんだから、熊本も倭国で何も問題ないだろ?

大陸にはあまり火山がないから、わざわざ特記されたんだよ

932 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 11:18:24.24 .net
>>931
むしろ中国からは倭国について九州しか見えてないよね。
魏志倭人伝も、九州の話ばかりだ。

933 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:25:21.70 .net
>>932
>むしろ中国からは倭国について九州しか見えてないよね。
>魏志倭人伝も、九州の話ばかりだ。

三国志を撰述するときの典拠資料が漢代のものが多いってだけだよ

漢以前
中国人「九州しか知らない」

魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」


中国人「畿内にも詳しくなった」

めっちゃ自然ですやん

これだけのことを九州説の人はごちゃごちゃと

934 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:37:39.92 .net
隋も阿蘇山とかしか書いてないから、やはり詳しいのは九州のことだね。

935 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:38:10.05 .net
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。

936 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:41:54.14 .net
>>935
東遷した時期は何年ごろだと思う?

937 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:52:09.58 .net
新唐書は畿内の、記紀の歴史観をそのまま写してるだけだろ
畿内が倭国っていうのもそのまま受け入れてるよ

938 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:53:01.27 .net
畿内が倭国っていうのは正確じゃないな
九州から東国まで倭国で、畿内にその権力中心がある、だな

939 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 12:53:45.73 .net
>>938
畿内が中心という根拠がない。

940 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 13:26:19.72 .net
>>939
>畿内が中心という根拠がない。

宋書の倭王武の上表文の「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國」の一節だけでも
倭国という広がりの中央に倭王武の本拠地があるのが読み取れる

さらに誰の目にも明らかなな根拠
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位の1基のみ 筑紫君磐井の墓だね

明白に、畿内中心の秩序がある
これで、古墳時代の間中ずっと存続していたという九州王朝を
どうやったら想定できるのか

941 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 13:36:42.27 .net
墓が大きいだけの田舎のお大尽

942 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 13:42:32.09 .net
>>940
>ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位の1基のみ 筑紫君磐井の墓だね

九州は畿内とは一線を画して独自の祭祀や墓制を維持していたということだよね。
おや、畿内説のこれまでの主張が揺らいでしまうぞw

943 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 13:52:17.32 .net
>>942
>九州は畿内とは一線を画して独自の祭祀や墓制を維持

それなら、方形周溝墓を作り続けてるんじゃないのか?w

前方後円墳秩序という、「畿内主導の秩序の端の方」に
位置しているのが北部九州だな

その最大のものでも、全国80位で特に目立つものではない
まあ、前後50年くらいの狭い時間幅を取れば、今城塚古墳に次ぐレベルの
大古墳ではあるけれど、これが奴国王の一族・筑紫君の最盛期

まあ、特に目立たない普通の国造家だよ

944 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 14:01:45.72 .net
彩色古墳に変化するから、九州内での指導者層の入れ替わりはあっただろう。
しかし、前方後円墳は取り入れているけども主力ではない。
前方後円墳を作っているのは分家の一部という見方もできる。

945 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 14:07:40.90 .net
九州はそれぞれの豪族が
自由に墳墓を作ってるだけだよ。

平原の方形周溝墓、
大善寺の円墳(ホタテ貝型という説あり)
石人山の纒向型
岩戸山の定形型
円墳、方墳は各地にあるね。

946 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 14:11:52.27 .net
>>945
>円墳、方墳は各地にあるね。

円墳、方墳は盟主墳にはならないんだよ
前方後円墳よりでかい円墳や方墳はないだろ?

帆立貝型が、前方後円墳に準じるくらい

>>944
「前方後円墳を作っているのは分家の一部」のこれも、
盟主墳の墳形は前方後円墳(前方後方墳も可)という基本を抑えていない

947 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 14:31:52.34 .net
>>946
>円墳、方墳は盟主墳にはならないんだよ

根拠なし。
まして九州説は、大きいことはいいことだ、などと主張もしていないし。

948 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 15:08:45.16 .net
>>947
>大きいことはいいことだ、などと主張もしていないし。

大きいものが一つも作れない時点で、いいも悪いもないわな

「円墳、方墳は盟主墳にはならない」
これの根拠としては
以下が全部前方後円墳ってだけで十分だろう
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
福岡県は岩戸山古墳、筑紫君磐井の墓も前方後円墳だな

949 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 15:13:54.18 .net
>>948
大きくなければいけないという発想そのものが、根拠がない。

950 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 16:26:53.24 .net
小さくていいという発想そのものが、根拠がない。

951 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 16:56:21.08 .net
>>950
いってもないこと言ったようにいうのがキナイセツ論者のおかしなところ。

大きさは古墳の築造技術の新旧に関係あるだけ。

王権を根拠に大きなものを築造できたと予想するのはいいが

大きな事実だけから強力な王権が常に存在したというのは筋が通らんよ。そんな法則は存在しないからな。単なる妄想。

952 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 16:57:49.77 .net
墳丘長200m以上に限定しているが
これを100m、あるいは50mにしたら
分布が変わりそうだな。

早い話、400m以上にしたら
大阪一択になるわけで。

953 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:02:12.44 .net
古墳時代後期にもなれば、
水城の1200m×80mという築造物があるわけで
北部九州ではその時代でも、
岩戸山を超えるような古墳は作っていない。

北部九州は、単に古墳を大きくすることには
興味がなかっただけだよ。

954 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:04:20.43 .net
大阪を飛ばして奈良が都と言い張るから、あからさまにおかしい。
瀬戸内海側なら摂津、吉備、日本海側なら出雲、近江などが主要な地域であり、纒向みたいな小さな集落を王都だなどと言い張っても無理に決まっている。
そもそも畿内説は大和説に無理があり拡大したらしいが、それでは卑弥呼の宮や墓はどこにあるんだという話だよ。

955 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:13:37.94 .net
>>951
>大きさは古墳の築造技術の新旧に関係あるだけ。

最初の定型前方後円墳の箸中山古墳で280メートルあるんだが?
新しくなって築造技術が進んだはずの岩戸山古墳(後期古墳)で135メートルって
半分もないんだが?

古墳の大きさに関係のある築造技術の新旧って、言ってて恥ずかしくならないのか?

956 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:15:37.23 .net
>>955
そのとおり
だから北部九州は大きくすることには
興味がなかったってことだね。

957 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:15:53.04 .net
>>952
>早い話、400m以上にしたら
>大阪一択になるわけで。

大阪一択でも何も困らないが?
前から言っているように、邪馬台国七万戸の範囲は
大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器を使っている範囲のひとまとまりの国だ

958 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:17:56.33 .net
>>953
>水城の1200m×80mという築造物があるわけで

それ、畿内大和朝廷の出先の大宰府の付属施設
畿内主導では大きなものが作れるってだけだよ
西都原の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳も同様

959 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:18:28.24 .net
あっちのスレでは桜井市を推しているみたいだけど?

960 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:20:24.46 .net
>>958
神籠石などの大規模城址はむしろ九州北部ばかりみたいだけど?
そういえば倭国女王墓である平原遺跡が麓にある高祖山も山城だな。

961 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:21:31.72 .net
>>954
>そもそも畿内説は大和説に無理があり拡大したらしいが、それでは卑弥呼の宮や墓はどこにあるんだという話だよ。

いや、そもそもの共立されるに足るだけの大国が必要で、それが畿内第V様式時の範囲
卑弥呼の宮は纏向の建物群だろう
卑弥呼の墓は纏向古墳群のいずれか

で、その纏向のある地の名称が、昔も今も「ヤマト」で、その音訳による大陸側の
当て字が「邪馬臺」国ってだけのシンプルな話だよ

962 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:21:35.73 .net
>>958
それなら、おおきい古墳は
全部他所から出張して作ったって言えちゃうよ。

実際に奈良は住居跡がすくないから
周囲の国が、人口の少ない土地があいている
奈良盆地に古墳を作ったってのは
よく言われる話だからね。

963 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:24:04.11 .net
>>956
>だから北部九州は大きくすることには
>興味がなかったってことだね。

だから、妄想は意味がないんだって
八女古墳群でも、筑紫君が勢力を拡大するにつれ、
大きな前方後円墳を作るようになっていってる

岩戸山古墳が福岡最大なのは、それが筑紫君の最盛期だからだよ

作れるものなら大きいのを作りたいっていうのがはっきりしてるじゃないか?
無理な憶測(九州は大きいのを作る気がない)を書き続けても虚しいだけだぞ?

964 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:30:25.94 .net
>>963
大きさで最盛期かどうかはわからんよ。
妄想乙

965 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:31:17.13 .net
>>960
>平原遺跡が麓にある高祖山

おい、ちゃんと地図を見てるか?
平原遺跡は、三雲遺跡群のある瑞梅寺川のある平野部の「西側の丘陵」だぞ!
高祖山は伊都国の「東の端」、奴国との間の自然境界を作る山塊!

適当なことを書いてるよな

966 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:33:54.98 .net
>>960
>倭国女王墓

これも適当すぎ
せいぜい、伊都国王族の母系の姻族の高位の女性くらいの規模だ
九州説は卑弥呼をしょぼくしすぎ

大作冢徑百餘歩と書かれた卑弥呼の墓が、14×12メートルしかない方形周溝墓で
紀元前の三雲南小路遺跡の王墓30メートル四方よりもしょぼいって
書いてて恥ずかしくならないか?

967 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:37:04.75 .net
糸島の神籠石山城なら、
雷山神籠石が有名ですね。

高祖山の隣の山になります。
日向峠の方ですね。

968 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:40:53.40 .net
>>961
>いや、そもそもの共立されるに足るだけの大国が必要で、それが畿内第V様式時の範囲

単なる文化の伝播に広域勢力を夢想するのが畿内説。

969 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:44:24.08 .net
高祖山そのものも山城だし。
怡土城。

まあ、九州北部の倭国は戦いが絶えなかったから、城ばかりたくさん作っていたわけだ。
魏志倭人伝でも卑弥呼の前後の時代は乱世だし、卑弥呼も狗奴国と戦い続けていた。
それが倭国。

畿内説が夢想する、広大で安定した倭国なんてない。

970 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:44:24.67 .net
>>964
>大きさで最盛期かどうかはわからんよ。

曲がりなりにも、畿内の大王と戦争ができたんだから、筑紫君としては最盛期だろう
記紀にもちゃんと書いてもらってる
そして、敗戦の責任を取って、磐井の息子が糟屋屯倉を献上している
そして岩戸山古墳の次と考えられている鶴見山古墳は、墳丘長87.5メートルで90メートルに届かない

971 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:45:49.76 .net
>>970
>そして、敗戦の責任を取って、磐井の息子が糟屋屯倉を献上している

屯倉ひとつでお茶を濁して終わったんだよね。
長門より西は物部にやると言っていたのに、畿内政権はそもそも筑紫を取れなかったね。
残念!

972 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:49:33.92 .net
>>968
>単なる文化の伝播に広域勢力を夢想するのが畿内説。

いや? きちんと土器の消長が研究されていて、畿内第V様式の時点で、
それまでの「在地の土器が使われなくなる」んだよ
つまり、政治的な強制力が想定できる

のちに、より広い範囲で土器が布留式土器に統一されるのと同じことが
プロトタイプとして実行されたと考えられる
政治的統一体が、その領域での土器様式を統一した様が見て取れる

九州では、こういう動きがないだろ?
遅れた辺地だからな
そして、布留式土器の統一に飲み込まれる訳だ
それが定形型前方後円墳の時代=古墳時代の始まりでもある

973 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:51:21.67 .net
>>961
>長門より西は物部にやると言っていたのに、

長門より西は物部が取ってるよ?
物部氏の分布を見てごらんな
糟屋屯倉は、物部の頭越しに大王の直轄地として納めたってことだぞ

974 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:54:01.74 .net
それは別の物部だよ。
自分でも書いているように、糟谷の屯倉は継体に提供され、物部は何も手に入れていない。
そして筑紫の君はそのまま息子が継承して筑紫はお家安泰だったわけだ。

975 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 17:54:55.26 .net
>>967>>969

まずは、「平原遺跡が麓にある高祖山」っていうのが
間違いまたは勘違いでしたって、謝ることから始めたらどうだい?

日本人は、過ちを認めて考えを先に進めることのできる人を評価する
某国の儒教道徳的価値観では、一度謝ったら劣位の存在になって、
それが回復不能だから「絶対に謝らない」んだけど

九州説は「絶対に謝れない」人が多すぎる
957は謝れる人なのかな?

976 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:09:44.09 .net
怡土城址から伊都国歴史博物館まで、Googleマップで道のりが950メートル。
直線距離はもっと短いのだけど。

977 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:09:55.19 .net
>>972
また、政治的な強制力、なんて妄想してる。
ただ単に便利だったり有用だったら
周囲はあっさりと取り込むもんだよ。

早い話、唐津に最古の稲作跡があるけど
日本全体に広がった稲作は、
唐津が強制したと言うつもりかねえ。

そういえば、銅鐸、銅鏡も福岡が最古だね。

978 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:11:35.44 .net
>>977は謝れない人ってことでFA?

979 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:11:42.83 .net
ちなみに三雲南小路遺跡がある細石神社からは道のりで1.1キロだったよ!
>>975は謝れる人かな?

980 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:14:52.81 .net
土器みたいな日用品は、便利なものが流通する。
しかし、王権(皇位)の象徴はそうではない。
三雲南小路や平原の三種の神器が畿内にも伝わり、今日まで天皇家の祭祀の中心に据えられている。
そのことの重要性から畿内説は目を背けている。

981 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:19:58.61 .net
あいつの作った土器はええなあ
うちらも作ろうぜ、って話を

政治の強制力と言っちまうのが詐欺やな。

982 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 18:30:45.58 .net
>>975
これ、ヘイトスピーチかな?

983 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 19:12:15.10 .net
>>955
個別の古墳で判断してどうすんだ

大きさと築造年代と地域分布を統計的にみてみい。
個別の事象の積み上げはもちろん基礎で大事だが
構成の誤謬を気にせんやつはアホ。

984 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 19:28:20.04 .net
ていうか、古墳の大きさなんて邪馬台国と関係ないだろ。

985 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:13:23.24 .net
>>979
>ちなみに三雲南小路遺跡がある細石神社からは道のりで1.1キロだったよ!
>>975は謝れる人かな?

私の書き込みのどこがどう間違っているのか指摘してくれるかな?
細石神社から「どこ」が道のりで1.1キロなんだい?
話をそらしてごまかしてないか?

間違いをきちんと指摘されれば、間違っていた分は謝るよ?

でも、問いに対して逆質問で返す人は、基本的に卑怯者の詐欺師だと思っている

986 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:14:50.50 .net
>>982
>これ、ヘイトスピーチかな?

どこがヘイトなのか、きちんと指摘できるかい?

そもそも「市民」ではない、普通の日本人はヘイトスピーチって言葉を
まず使わないんだが?

987 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:17:23.26 .net
>>980
>土器みたいな日用品は、便利なものが流通する。

流通することではなく、「地場の様式の土器が『なくなる』」ことを
指標にしているんだよ
理解できるかな?

便利なものを使うのは構わないが、それまで使っていた=使い慣れた=便利なものを
使わなくなるところに、政治的な一体化を見る訳だ

土器工房の拠点化と言ったら理解できるかな?

988 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:30:09.84 .net
>>985
平原遺跡は三雲より怡土城址に近く、高祖山の麓にある。
立地条件は明らかに高祖山や日向峠を日の出る方に仰ぎ見るように選定されている。
それは内行花文鏡を太陽信仰のシンボルとする古代神道の舞台装置だろうし、日の巫女を祭るにふさわしいものだろうね。

989 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:32:21.40 .net
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

990 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:38:34.18 .net
>>988
>平原遺跡は三雲より怡土城址に近く、高祖山の麓にある。

どうしてそういう地図を見たら一発でばれる「明確な嘘」が書けるかなぁ?
東から、高祖山>三雲遺跡群>平原遺跡の順だぞ

どうやっても、>>988の方が嘘でたらめを書いている

991 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:45:09.20 .net
三雲遺跡群って、どこを中心にとっているのかな?
手元の地図では東から、怡土城址、平原遺跡、三雲南小路遺跡だか?

992 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 20:47:38.19 .net
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。

993 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 21:50:18.66 .net
妄想が激しい

994 :くまモン論者:2018/04/02(月) 21:59:28.88 .net
このはげー!ちがーうだろーちがうだろー!
次スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522673515/l50

995 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 22:18:28.17 .net
>>991
>手元の地図では東から、怡土城址、平原遺跡、三雲南小路遺跡だか?

謝れない人なんだね!
分かったよ
三雲と平原という地名がどこにあるかを見るだけで分かることを
よくもまあ、見え透いた嘘が書けることだよな

「手元の地図」って自分で書いた脳内妄想地図なら、嘘じゃないってか?
YahooマップでもGoogleMapでも見てみればいいのに
「手元の地図」なんていうごまかしをしてないでさ

996 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 22:43:34.89 .net
まあ、畿内説なんてそんなもんだ

997 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 22:45:34.40 .net
Googleマップで見ているけど、東から怡土城址、伊都国歴史博物館(平原遺跡があるところ)、三雲南小路遺跡だけど?

998 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 22:54:19.97 .net
ああ、平原遺跡は平原歴史公園の方か。
間違えた。
すまん。

999 :日本@名無史さん:2018/04/02(月) 23:45:37.43 .net
くまモン論者は偉い。

1000 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 00:03:41.87 .net
>>998
謝れたね、それはよかった

ただ九州説で、平原1号墓を卑弥呼の墓だと主張しながら、
その立地を把握してないっていうのはダメだろう
さらに言えば、伊都国歴史博物館も高祖山の麓って位置じゃない
あまりいい加減なことをいうとどんどん信頼性が落ちてくぞ

1001 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 00:11:56.35 ID:7npSXK+cH
>>980
  >土器みたいな日用品は、便利なものが流通する。

 いいとこ突いてるなあ。畿内説考古学者のバカどもをこれで徹底的にイジメ抜いて欲しい w

1002 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 00:42:06.71 .net
平原の鏡の現物を知らずにアレンジされた復元品を見て、
「平原の鏡には八咫烏が描かれてる」とか言ってたバカだぜ?

1003 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 00:47:39.95 .net
くまモンは狗奴国だよね。

1004 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 01:26:00.79 .net
なら狗馬国のハズだろ。 

1005 :くまモン論者:2018/04/03(火) 07:00:44.99 .net
>>1003
なんでだよwww

1006 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 07:07:40.58 .net
くなモン?

1007 :くまモン論者:2018/04/03(火) 07:11:47.59 .net
うまいこというたな

1008 :くまモン論者:2018/04/03(火) 07:14:37.60 .net
狗奴国は畿内つってんだろ!!!!!

1009 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 07:47:38.08 .net
>>1002
これ、岡上なんだw

1010 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 07:48:27.67 .net
狗奴国は東海説を推すな

1011 :日本@名無史さん:2018/04/03(火) 07:49:01.01 .net
ドン来いは比較的平和

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