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♪邪馬台国ドンと来い!♪135

1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
       ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512648703/l50

71 :日本@名無史さん:2018/02/06(火) 10:19:41.76 .net
>>63
>種子島が侏儒国
>>14 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
正解です。
邪馬台王宮は九州上陸後一月行二千里、九州島南北は三月行=約六千里

これは、侏儒國奇譚を聴取した中国人が
九州島南北三月行=6千里の概念を既に持っていたことを意味します。
南遥か、もう一つの邪馬台国がムー大陸上陸後、陸行一月でない限りwww
私訳は、実際に到達できていないと考えます。

三国志東夷伝にも 倭人国=九州の南端まで使訳した記録は有りませんが
漢以降、西域を使訳した記録、高句麗を追討して沿海州まで行った記録は有ります。
コツン ⌒☆∩`Д´) < ヤダヤダー!!  東夷伝序文参照

これは、梯儁の九州2千里の行軍や聴取記録同様、概念図化されてるはずですが、
国家の正規軍将軍でもなければ、図の書写で拡散は困難だと思います。 
これが史書の一月行単位の使用例希少の原因でしょう。

一月行、三月行五月行等の定義は、
公開はしているので軍事機密とまではいかないと思いますが
この中国王朝独自の地理概念=地図における座標にあると推測しています。

72 :日本@名無史さん:2018/02/06(火) 10:53:03.08 .net
>>70
>>無文字唯刻木結繩
>この文、前半は250年まで
>傳送文書 これが語っています。
なんじゃなかったの?

>邪馬台国論争をわざと頓珍漢にしてる目的が判る気瓦斯ます。(主語略)
???

>>71
>これが史書の一月行単位の使用例希少の原因でしょう。
???

>この中国王朝独自の地理概念=地図における座標にあると推測しています。
???

73 :日本@名無史さん:2018/02/06(火) 11:45:57.07 .net
>>72
>>無文字唯刻木結繩
>この文、前半は250年まで
>傳送文書 これが語っています。
なんじゃなかったの?

つまり、>>無文字唯刻木結繩 は倭人一般の話で
隋書倭国伝では、女王国が文字を使用していたことは考慮していないということです。
倭人伝の国は文字を使用してますが、倭人庶民は仏教伝来以降でも普通は文字を知りません。
これであれば、教育のゆきわたっていない近代の日本、中国人も文字は知りません。
中国史記の著者の中華礼賛 皇帝おだてw おごりかと思います。

刻木結繩が、意思疎通可能な言語に変わるものなら、
刻木結繩という文字列が何を意味するのかは興味があります。

推測的には固有名詞を表すのには、刻木 結繩という行為に
共有性を含有させるのは困難なので、単に土器の模様のようなことかと思います。
表現として砂に絵文字の方がましなので、著者がアホです。

ちら裏解説なんで、自己理解の上に、言葉が足りないのは判っているのですが
??? 何が欲しいの??? 
昔のエロい人は言いました。
触れないものはその手に得ることはできません。

74 :くまモン論者:2018/02/06(火) 12:42:10.22 .net
>>70
ヒント。アイヌ

75 :hage:2018/02/06(火) 15:10:22.99 .net
倭人伝解読に関する、日本語訳による恣意的ミスリードの存在について
その可能性の一例として、スレ主師匠の原文テンプレに段落を付けた
変形テンプレのほかに >>24 から >>29 を掲上しました。
ご迷惑な、おみやげです。

文節、改行、段落に関して、その行間にある時代状況の背景を読むべきなのです。
行程記はもちろん、記載30国の地理で、検証は試みますた。

陳寿の研ぎ過ぎた文体では、執筆過程でのデータの所在も想定して読まなければ、
段落や地図の存在の可能性や文の真意は想定できない。
猶、風俗、風物詩、外交史についても検討の必要は存在しています。
ご都合主義の介在できる翻訳ではなく、直読で意味を把握してから語り合うべきです。

>>74  師匠ありがとうございました。 
ホント―の事を書いちゃってネトウヨと呼ばれる、jc歴女の名無しに戻ります。
テンプラ揚げて語る窮屈さは、乙でゲソ天♪ドンと来いwww
相手してくれた皆さま、いじめっ子や、畿内系梅嵐の皆様にも感謝です。

吉備のモモタロウが犬猿雉と、巌流島で
卑弥呼の五尺刀を持った小次郎と戦い、船の櫂の木の棒で勝った、
九州征伐神話の九州説を信じます。
映画化決定!

倭人伝をちゃんと読みましょう。 ←おまいう

76 :あれ?:2018/02/06(火) 15:15:01.24 .net
【東夷伝 序文】
書 稱東漸於海 西被於流沙 其九服之制 可得而言也
然荒域之外 重譯(調査団を度々派遣した)而至 非足跡車軌所及 未有知其國俗殊方者也

自虞暨周 西戎有白環之獻 東夷有肅慎之貢 皆曠世而至其遐遠也如
此及漢氏 遣張騫使西域窮 河源經歷諸國 遂置都護以總領之
然後 西域之事具存故史官得詳載

焉魏興 西域雖不能盡 至其大國 龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師之屬
無歲不奉朝貢 畧如漢氏故事

而公孫淵 仍父祖三世有遼東 天子爲其絕域委 以海外之事遂隔斷 東夷不得通於諸夏
景初中 大興師旅誅淵 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 而後海表謐 然東夷屈服

其後高句麗背叛 又遣偏師致討窮追 極遠踰 烏丸 骨都 過沃沮 踐肅慎之庭 東臨大海
長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國 采其法俗 小大區別各有 名號可得詳紀

雖夷狄之邦而 俎豆之象存中國 失禮求之四夷猶信
故撰次其國 列其同異以接 前史之所未備焉

77 :くまモン論者:2018/02/06(火) 22:08:52.23 .net
>>75
バシィィィィン‼︎師匠を置いて出て行く奴があるかっ‼︎大事なことだから二回言いました。(みのもんた

御主に言い忘れていたことがあった。
倭人伝あたりの陳寿の資料は張華によってもたらされたのじゃ。

78 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 07:23:35.82 .net
卑弥呼亡きあとは台与などが登場したけれど九州内では紛争がつづいて、
そのうち小勢力の一派が近畿に東征に出発して、畿内の大勢力に加担して
うまく大きな勢力になることができた。
そのあとは西に東に征服戦争を起こして、九州方面には
神夏磯姫のエピソードが残った、ということでいいんじゃね?

79 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 07:31:06.92 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

80 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 09:59:22.67 .net
>>69
ヤマトタケルがクマソタケルを討つ場合,だけど
卑弥呼〜台与の女王国の頭越しで戦争は無いとして
九州女王国と本州の後の朝廷勢力が並立してるよね。

神功皇后は記紀のキャストで、倭人伝の実在の卑弥呼〜台与と同一として
血筋的にはヤマトタケルの子が仲哀天皇なら、嫁の神功皇后が台与にするには
卑弥呼の前にヤマトタケルが九州来てないと順番が違くネ。
>>68 日本海ルート論者さんのヤマトタケルがヒコで台与がヒメ?

卑弥呼と台与が同一ならヤマトタケルと仲哀天皇も同一かも?
これって、多分三国志読んで記紀の作者が帳尻合わせした場合、の筋書きだよね。
俺もw

実話で九州が弥生渡来人発祥の地として、記紀だと九州何回征伐されてる?
記紀でも皇統は応神天皇辺りからにしないと神話なんじゃない?
東遷じゃなくて、里帰り?

81 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 10:06:20.80 .net
【邪馬台国の周辺の国】
それぞれの中心地は

1番 斯馬国は肥前国杵島郡(武雄)
2番 己百支国は肥前国彼杵郡(佐世保)
3番 伊邪国は肥前国松浦郡(伊万里湾沿岸)
4番 都支国は肥前国小城郡
5番 彌奴国は肥前国三根郡
6番 好古都国は肥後国八代郡?(女王国連合に属さぬ南方の芦北国、球磨国に睨みを利かせていた?)
7番 不呼国は肥後国宇土郡
8番 姐奴國は肥後国益城郡?(狭野尊の幼名を持つ神武天皇の本地?)
9番 對蘇国は日向国臼杵郡
10番 蘇奴国は肥後国阿蘇郡
11番 呼邑国は日向国児湯郡
12番 華奴蘇奴国は肥後国菊池郡?
13番 鬼国は肥後国合志郡?
14番 爲吾国は肥後国山鹿郡?
15番 鬼奴国は肥後国玉杵名郡
16番 邪馬国は筑後国八女郡
17番 躬臣国は豊後国玖珠郡
18番 巴利国は筑後国夜須郡?
19番 支惟国は肥前国基肄郡
20番 烏奴国は筑前国御笠郡
21番 奴国は筑前国那珂郡

82 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 12:39:36.66 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

83 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 14:13:31.71 .net
>>76
序文だと陳寿データの漢籍には
邪馬台国以前の日本については何も書かれていないっぽい。

>景初中 大興師旅誅淵 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 而後海表謐 然東夷屈服
九州の卑弥呼が 大興師旅誅淵 の時に、多分公孫淵に朝貢に行って、
たまたま戦後進駐の郡太守によって皇帝に謁見させた感じ、運良く使が派遣できた。
なのに 然東夷屈服 は中華礼賛の大法螺っぽい。

>長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國
聖徳太子の発想これだろ、見っけ、パクパクwww

>重譯(調査団を度々派遣した)
まあ、この訳が通訳にのわけないのは判る。

それと倭人伝の最後にも
評曰
史漢著朝鮮兩越東京撰錄西羗魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷
使譯時通記述隨事豈常也哉

もあるのに、なんで一緒に読まないんだ?
使譯時通記述隨事豈常也哉 
って、書いてあるんだけどね。 使って探検家じゃん? 譯は探検記。
帳政が来て、女王が倭国王じゃないのがバレて外交終わった でも良いかも。

84 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 14:44:03.92 .net
重譯っつうのは、
倭語→朝鮮語→中国語みたいに通訳が複数いたの

85 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 15:10:24.37 .net
重譯というのは、それだけ相手が遠隔の地にいたという常套句だよ
それほど言葉の通じない遠くまで中国皇帝の威光が届いているという

86 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 17:53:38.48 .net
常套句www 通訳?
トンチキ ってのは頓珍漢のことだったか?

87 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 18:50:52.45 .net
>>79
3番 伊邪国は平戸島なら、
そこから東南1日の島はどこよ?
伊邪と平戸では表音も全くあわない。
根拠不十分だぞ

88 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 19:02:46.35 .net
>>79
>4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)

早岐(はいき)に対し、都支は「とき」か?
都は「はい」と読むのか?
これまた根拠不十分。

広志に1番から3番までは載っていて
3番では西南に分国があるのだから3番の国は筑後川の河口あたりだろ。
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國
無布帛以草為衣盖伊耶國也

だから、2番 己百支国は
志摩と筑後川河口との中間あたりが予想されるわな。
しかし、それとは関係なく西の沿岸国の可能性もあるわけだ。次に有り、
だから隣接しているはずではある。
>5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)

投馬国の彌彌みみ と同じ漢字だから「み」がつく国名になる。
三根でいいかも
6番 好古都国は?ハカタという説もあるがさすがに無理。
7番 不呼国は? 不明。
このあとは佐賀県中央部の地名と一致する。
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)か、耶馬渓のあたりか。
太宰府に近づいていく。
>18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨
どちらにもとれる。
19番からは太宰府周辺の国名になり、21番で奴国に戻る。

89 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 19:57:49.58 .net
>>88
いやいや、志摩を起点に西南へ向かうなら、伊万里から平戸方面だよ。
筑後川には出ないだろ。

90 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:29:38.44 .net
>>89
女王国の傍国のほとんどは伊都付近から見て
南方にあるんだぞ。女王国の北には一大卒を置くからな。

伊万里から平戸方面などの西方の国を見てどうする。
つじつまあわせに、南を東どころか
今度は南を西にか?

91 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:40:22.01 .net
>>90
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國

西南だろ!
勝手に南に変えるな!

92 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:42:35.59 .net
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
魏の使節は、唐津から海岸沿いを通って伊都に駐在する。
しかし、唐津から南(南東)へ行くルートがあって、そちらに行くのは禁止されたかどうかは
知らないが、佐賀市のあたりにでて広い筑紫平野に出る。
筑紫平野の上部に、左右に通じる道路がある。それは現代の道路だが、
その道路沿いというか、山裾に小国がずらずらと並んでいるんだろ。
まさに次有○国、次有○国、次有○国、だ。
その小国の南(佐賀市の右下)に邪馬台国があって、さらにその南方には
クナ国がある。(熊本方面)
地図の平戸城のあたりは、国が隣接しているわりには西に突出しすぎている。
南どころか明らかに西である。
表音文字で、魏志倭人伝の傍国の読みがなと、現代に残る地名の発音が激似の
ところがあるというなら、オマイの意見も認めてやるわ。
現時点では、平戸の昔の地名にすらも傍の国名によく似たものは無い。

93 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:44:21.89 .net
>>91 あのな・・・
20カ国のうち最初の方のは反時計周りだから
3番目くらいの国は、西南なんだよ。10番目くらいは南の国ばっかりになる。

94 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:53:06.63 .net
>>93
それは92に言ってやれよ。

95 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:55:32.53 .net
>>94
92を書いたのもオイラだから。お前はカンも悪いな。

96 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 20:58:42.61 .net
志摩から平戸ならおおむね西南だろ。

97 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 21:07:41.37 .net
>>96 その主張を言うなら
これのつじつまあわせをしろよ。
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國

しま國がある。つぎは 巴百支國がある。次は伊那國がある。
西南海行一日には、伊那分國がある。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
平戸から西南海行一日は、どこの土地が該当するんだよ?ああ?

98 :日本@名無史さん:2018/02/07(水) 21:23:47.54 .net
平戸島が南西に伸びているだろ。
その沿岸のどこかだよ。

99 :日本海ルート論者:2018/02/07(水) 23:19:07.85 .net
>>80
もっと単純な話ですよ。

6世紀に仏教が本格的に取り入れられていくにつれ、漢字が日常的なものとなってきます。
勿論、倭の五王の時代から倭の遣使はしっかりとした漢語を使っている訳ですから、国際的な利用としては一部の人はバッチリ使えたんでしょうが、
それが国内向けに国家的に使えるようになったのは6世紀からだろうということができると思います。
そのことにより、様々な物語だけでなく学術書や政治書、思想、文学など多岐に渡って知識を深め広めることが、倭国内の至る所で同時多発的に行えるようになった訳です。
その中でも、自分達のルーツである倭國の歴史に関しては、皇族や中央官僚のみならず、各国の豪族・貴族たちも、非常に高い関心を持って読んだ筈です。

倭人伝で倭語と思われるものの内、高い関心を持たれただろうものとして、卑彌呼・卑彌弓呼の2語がある。
3世紀の邪馬壹國時代と300年しか違わない6世紀であれば、より単純に卑彌呼をヒメミコと読み、卑彌弓呼をヒコミコのことを指すと読む筈です。

倭人伝を読めば、ヒコミコは南九州におり、ヒメミコは大和にいるとわかる。
そこから、ヒコミコとヒメミコが結婚する神話が作られた。
つまり、それが南九州出身のカミヤマトイワレビコと大和出身のヒメタタライスケヨリヒメの結婚神話という訳です。

100 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 07:23:35.43 .net
>>99
>卑彌呼をヒメミコと読み、卑彌弓呼をヒコミコ

ミは、彌彌(ミミ)でよく使われる言葉だろ。
卑彌弓呼をヒコミコって、読み違いにも限度がある。

>倭人伝を読めば、ヒコミコは南九州におり、ヒメミコは大和にいるとわかる。
>>99の話は前半はいいのに、後半はひどい。

101 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 08:39:05.01 .net
ミミは九州の王族の称号だよ。

102 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 08:40:04.03 .net
>>99
磐余彦の出自は筑紫の日向、すなわち魏志倭人伝における伊都国だよ。

103 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 09:32:12.39 .net
ミミ=海王、海洋部族の王

104 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 16:20:41.98 .net
景行天皇が九州を攻めた時、耳と耳垂という敵がいた。
神武は九州人なので、息子は手研耳など耳が付く名前ばかり。

105 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 19:48:28.81 .net
>>104
ミミは、出雲の人の説が有力だが、
九州の人の可能性も少なからずあるね。
その天皇の息子とか、宮崎の耳川とか。

106 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 21:00:24.03 .net
記紀では他所の土人酋長のこと
そこいらぢゅうから拾ってきて御先祖に仕立て上げてるんだから
彌のつくお名前で溢れ返っていても
なんら不思議ないしね

107 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 21:52:59.30 .net
ミマショ、ミマカキ、ミミ、ミミナリ、ミマキ入彦・・・

108 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 22:36:06.65 .net
大山祇とか綿津見とか三島溝杭耳とかも。

109 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 22:51:08.24 .net
投馬国20日は宮崎県か?。官の名前が彌彌だが、せめて日向の古い地名に
投馬があればいいのだが。

110 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 23:17:31.63 .net
宮崎県西都市妻の都万神社は、日向国一宮、すなわち古代における宮崎の中心地。

111 :日本@名無史さん:2018/02/08(木) 23:20:40.54 .net
おっと、一宮ではなく二宮だったようだ。

112 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 07:12:17.66 .net
西都原古墳群が投馬国5万戸にあてはまるかどうか。時代的にみて
西都原古墳群は卑弥呼の時代よりも後ろのようだが。

113 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 07:23:59.01 .net
7世紀の隋書は、対馬を「都斯麻」と書いている。
『8世紀初頭成立の日本書紀』は、都をことごとく「つ」と読ませる。
筑紫は地元では「つくし」と訛るが、地元の歴史書が「都久志」と書いている。
都を「と」と読むのは、唐音なるものが入ってきたあと、少なくとも8〜9世紀以降である。

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國← 次有彌奴國 次有好古都國←

都支國←つき国? 好古都國←はこつ国?

114 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 08:31:26.26 .net
>>112
古墳の年代はあてにならないし、古墳の前に人が住まないと。

115 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 11:08:04.27 .net
【倭人伝に見る、諸国名、倭人名考察】
張政 記
對海/卑狗 卑奴母離 ・ 一支/卑狗 卑奴母離
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離 ・ 女王/壹與
張政は遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状に同行来日の査察
(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性有り)
帰国は壹與の遣使 掖邪拘等二十人 と 送政等還因詣臺

梯儁 記
投馬/彌彌 彌彌那利
邪馬壹/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
狗奴/狗古智卑狗
梯儁は郡史だが卑弥呼に金印紫綬の皇帝の使者
魏の正規軍として卑弥呼王宮まで行軍したと考える。

王名
左 梯儁の国名記/右 郡の聴取)
女王/卑弥呼 ・ 奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 ・ 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
躬臣王/(載斯)烏越 ・ 狗奴王/卑弥弓呼

東夷伝各国の諸国名、官名、職名が
中国漢字由来のものが多いのに対し、
倭人伝における、倭人名、諸国名は
一字一音が多く漢字文明の影響を示すものは希少。
弥生渡来人は中国文化から遠いと考える。

116 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 14:22:09.55 .net
【倭人伝における有り得ない熟語について】
>使大倭監之 自女王國以北特置一大率 に関し

國國有市交易有無 使大倭 監之
『使大倭』 中国語ですし、倭に熟語は無理。 小日本は知ってるけど大倭は無い?
郡史が大いに倭を見た 〜後続文に掛かる でよろしいかと思います。

『一大率』
同様に熟語化するのはおかしい。
>自女王國以北 特置一大率 常治伊都國於國中有如刺史
特に置かれた一番大きな率(統治行政機関)が檢察諸國してて畏憚之
>常治伊都國 於國中有如刺史
刺史の如く伊都を常に収めている。

自女王國以北 に関し、宗像、北九州方面の不属女王国を認めるなら
既に大和朝廷の進駐軍がそこに侵攻している、という状況の方が合理的と思う。

梯儁も張政も、郡使であり、
奴国王升米を倭王卑弥呼の使者として、
皇帝に引き合わせてしまった手前
実際に来た倭国の報告で倭王と偽ってしまった事実を取り繕っている
ということで、良い。 
邪馬台国は倭人伝をどう読んでも九州の小国。
考古学が尊大無礼なだけ。

117 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 14:31:33.75 .net
訂正
嘘つき保身の帯方郡役人の梯儁や張政の言い訳に便乗してる
考古学者が尊大無礼な嘘を言って飯のタネにしてるだけなのが、邪馬台国論争の本質。

118 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 14:50:49.65 .net
新井白石で終ってたwww

119 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 15:38:46.32 .net
新井白石
 邪馬台国は九州
本居宣長
 邪馬台国は神功皇后の名を騙った九州の女酋長の国

結論
 九州

120 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 16:16:31.84 .net
新井白石と本居宣長の議論は、
大和朝廷が邪馬台国とつながりがあるかであって、
邪馬台国が九州という認識は同じ。

新井白石は九州から畿内の全体を邪馬台国に比定していたようだが
晩年には倭人伝の国はすべて九州としている。

121 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 18:16:37.89 .net
>>115
>>都支王/(都市)牛利 ・ 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
>>躬臣王/(載斯)烏越 

ここの創作がひどいな。巳百支王の記述なんか
一切無いよ

122 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 18:37:41.88 .net
大夫 伊聲耆 掖邪狗
大夫 載斯 烏越
大夫 難 升米
大夫 都市 牛利

大夫は周代の領主、女王国統属30国は皆王を称する。
倭人伝 奴国 都支国 巳百支国 躬臣国 の王名を特定する十分な情報

123 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 21:11:31.07 .net
魏志倭人伝の原文を表示してみろよ。
都支国 巳百支国 躬臣国 の王名なんか無いぞ。
それらは国名ひとつの情報しかないというのに。
創作すんなボケ。

124 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 21:25:20.65 .net
>>123
>魏志倭人伝の原文を表示してみろよ。
??? 何言ってんだこいつ? ここって、倭人伝原文のドン来いスレだぞ? 

>>15 変なテンプレの
倭人の遣使が大夫を称する それらの国の王だ、って言ってる と思うよ。
完全に一致だろ?

125 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 21:40:55.21 .net
>>124 おまえのつまんない作り話なんか
聞くと馬鹿がうつる。いね。

126 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 23:53:43.19 .net
記紀に出て来る五百木入彦は已百支国の王だろうし、興台(ココト)ムスヒの神は好古都国の王だろうね。

127 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 00:45:35.38 .net
>>38の続き
【ヒメヒコ仮説】概論 9) ミコトとミミ

ミミはミコトに対応する倭語だろう。

まずミ(御、美)は神(カミ)或いは神的なものに対する美称。転じて目上の人などへの美称となる。
ここに出て来る神は、日本の各神話に描かれているように、死後その体はウジ虫だらけで朽ちるものの魂は生き続けるという不死永生の存在。

次にミコト(命、尊)は巫女などを依り代にして口寄せされた神。
実際の体は朽ち果て、生身の体を持たぬ神。言い換えれば言葉だけの存在。
「神の言葉」、つまり「御言(ミコト)」。

これに対応するミミ(彌彌、耳、毘毘)は「神の体」、つまり「御身(ミミ)」。コレには⑴と⑵の側面があるだろう。

⑴「御言(ミコト)」の依り代となる為の「入れ物」「仮の生身の体」としての「御身(ミミ)」。
また「御言(ミコト)」を聞く為の特別な「耳(ミミ)」となる。つまり、巫女や男巫のこと。
⑵体を持たぬ神である「御言(ミコト)」に対する生身の体を持つ神である「御身(ミミ)」。生きた神そのもの。現人神。

こうして見ると、御身を自称する者の素性は⑴の巫女や男巫であり、同時に御身の語感から浮かぶ⑵の「現人神」としての存在を誇示したがる者と判る。
なぜなら信仰者にとって「神がかっている【瞬間の】巫女や男巫」はそもそも「神そのものである人」であり、今更あえて「神の体」を名乗る必要がない。
故に御身の自称の意味は「御身の語感に潜む現人神としての含み」にこそあり、その目的が【瞬間的ではない永続的な神権】の誇示にあるとわかる。

128 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 01:04:54.93 .net
>>100
卑彌弓呼をヒコミコと読むのは問題ないですよ。
ヒコミコの発音のつっかえをヒミクコにすることぐらいは余裕であり得ることでしょう。
それはヒメミコという発音のつっかえをヒミコと縮めてしまったことと余り変わらないことですよ。

>>102
6世紀の倭人には倭人伝の中の奴國が北九州の那の津周辺と容易く推測できた。
だから狗奴國を南九州に比定できたのです。
但し、西の熊襲の土地は避け、東の日向にした。
日向の名称は後付けでも良いんです。
なによりも博多平野の南で熊襲の土地を避けた宮崎辺りの土地であれば良かったんですよ。

129 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 07:14:36.89 .net
>>128
なぜ熊襲の土地を避けるの?

130 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 07:16:36.01 .net
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

131 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 07:55:16.94 .net
>>126
五百木入彦が何をやったのかググってみたが特になし。
日本武尊の兄弟。
五百木 入彦は「いほき いりひこ」だから
已百支 国の「已百支」は「五百木」ってか。
まあ、なにもかもわからないよりは、候補がいるだけマシ。

132 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 08:14:08.72 .net
>>126
景行天皇は記録に残る子供が、二十一人、残らない者が五十九人、合計八十人も居た。
若帯日子命(成務天皇)、小唯命(日本武尊)、五百木入彦の三柱のみを日嗣の皇子として扱い、
残りの皇子達は、すべて国造、和気、稲置、県主等に任命した。


多数の子のうち3人だけを皇子として扱っているのに、そのうちの一人の五百木入彦を
場所もよくわからないような辺境の已百支国の王にするのか?

ともあれ、頭文字は「イ」で、真ん中が「(まだ不明)」で、最後が「キ」だな。

133 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 13:28:22.58 .net
>>129
熊襲は大和朝廷の敵として神話で描かれて行くからです。
簡単に言うと他の神話との整合性をとる為ですね。

134 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:15:55.13 .net
>>133
狗奴国が熊襲熊本でいいじゃないか。

135 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:27:32.11 .net
熊襲国は古事記では日向、大隅なんだけどなあ。
熊襲国と関係ないクマソかもしれないけど。

136 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:33:54.87 .net
熊襲タケルの墓は佐賀県にある。

137 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 18:05:23.31 .net
>>133
>熊襲は大和朝廷の敵として神話で描かれて行く
ところが、卑弥呼の女王国は一切描かれない。
この時、狗奴国に敗戦して南限の女王宮は落城してるように思えるんだが・・・

247年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

女王国と狗奴国の戦況を伝え、その帰国便で帳政は黄幢拝假難升米と査察に来た。
難升米と壹與に檄告喩之 は良いがなぜ前線の南限の砦に居ない?

黄幢を掲げ、戦線に向かうのが普通では?
帳政は将軍等20人を連れて帰国? なんだそれ? 
敗戦で伊都まで後退して、卑弥呼を弔ったところ、と思うんだが?

こいつらに、大和朝廷と戦う力なんてそもそも無いんじゃない?
魏は司馬氏が実権を掌握し、邪馬台国外交は張政の報告、これで終った。
これをどういう読み方すると大王なのか不思議なんだが、倭国の辺境の小国です。

138 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 18:27:29.91 .net
【卑弥呼の墓 殉葬100人について】
日本の葬儀に大規模殉葬は稀である。
だが、考えてもらいたい。卑弥呼の砦には奴婢1千人の女給である。
落城、100人が卑弥呼と落ち延び伊都で自害。 これは有りだろ?
残り900人は狗奴国の奴隷。 
または張政と亡命した、魏国将軍の已百支王ほか20人が生口献上した。 だな。
邪馬台国は滅びる。

139 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 19:39:18.73 .net
>>84
てか、>>76 東夷伝序文
然荒域之外 重譯(調査団を度々派遣した)而至 非足跡車軌所及 未有知其國俗殊方者也
の『重譯』
>>83 それと倭人伝の最後にも
評曰 史漢著 朝鮮兩越東京撰錄西羗 魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷
使譯 時通記述隨事豈常也哉
の『使譯』
これを、通訳という当時存在しえない熟語に訳すのはミスリード以外の何物でもない

倭人伝の 『今 使譯 所通 三十國 從郡至倭』 は

今、皇帝の使者によって実際に通じた30国について
郡使の説明に拠って倭に到る行程を記す。

である。 
ここには、張政と梯儁の記録が同時代、同時期に存在する。
里程の後、日程で示せば、ソースの変更は同時代の読者が理解できて当然なのである。
馬鹿なのは日本の学校で学び古代漢文読めるつもりの
うすら馬鹿の考古学者と歴史学者だw

『重譯』=(調査団を度々派遣した)
漢や魏による『使譯』が 時に通じて(実際に行って探検して)記述隨事(記録してきた)
豈常也哉 (当たり前にできる事ではない)

これなくして、倭人伝は読了不能だが、なんで序文と後評は蹴っ飛ばす? わざと?

140 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:04:48.09 .net
>>139
そのようなこと言ってないで
自分で訳して示せばいいのに。

141 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:13:58.61 .net
>>140
訳さないでも初めから倭人伝の伝えてることは変わらんのよ?
変な読み方出来て、ご都合主義や、飯のタネになって良かったね、とは思う。

アタシとかは、ネラーで門前の厨坊なんだけど
もう、良いんだよ? 戦後レジームとか?

142 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:26:18.05 .net
>>139
これもひどいw

143 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 21:50:55.09 .net
>>134
これは>>68の、神武の大和入りは多分に倭人伝の
から発想した創作、っていう話の続きですよ。

自分は狗奴國筑後=狗古智國菊池郡説。
狗奴國は狗奴國男王卑彌弓呼と狗古智國の卑狗である狗古智卑狗の連合国家だろうしね。
とにかく筑後肥前肥後辺りの面白さは鉄板(笑)。

>>135
建日別(熊曾国)に日向を入れるか、建日向日豊久士比泥別(肥国)に入れるかの解釈の違いで、明示は無かったんじゃないかな?
熊襲に入るなら前回のは撤回するだけだけど

144 :大平洋ルート論者:2018/02/10(土) 21:54:07.28 .net
方位は間違いない---------------------------大平洋ルート

邪馬台国は畿内だが
瀬戸内も日本海も説明不可能

南至投馬國 水行二十日
   投馬國は宮崎県西都市あたり

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
南に向かい黒潮で紀伊
紀伊から陸行で女王の都

145 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:14:19.96 .net
>>143
>建日別(熊曾国)に日向を入れるか、建日向日豊久士比泥別(肥国)に入れるかの解釈の違いで、明示は無かったんじゃないかな?

そもそもこの名前の重複が不審なんだよ。
思うに、肥国は熊襲からさらに分離したんじゃないかと。
あと、宮崎の日向はおそらくどこにも含まれていない。
倭国の中にないんだよ。

146 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:24:45.04 .net
>>144
賛同します
私も以前からそう思っていますが
帰りは逆流だとか指摘を受けますが
魏志倭人伝では行きの行程を記述したもので
帰路は瀬戸内でも日本海でも良いと思いますが・・・・・

147 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:24:59.58 .net
『重譯』 

【熟語や語法の確定してない、経典訳文以前の古代漢文の読解について】

『今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭』
使は郡使 わかるか?
譯 は説明する わかるか?
通 は実際にそこに行って理解した事、見聞録、わかるか?
東夷伝序文などで示した遠隔地の中でも、倭人国に関しては『30国』有る。

『自郡』至倭 ではなく  『從』郡 なのは、郡使の説明に従って
倭に到る経路を 張政と梯儁の二人の使の譯によって説明する、ということである。

これを理解せずに、倭人伝が読めるか?

>>24 段落1 ~ >>25 段落2で 倭人伝の構造は解明され、邪馬台国は九州である。
つまり、新井白石と、本居宣長で、終わってる。

148 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:35:51.72 .net
>>144さん
大平洋ルートだと
何故 敢えて危険なルートを行ったのか疑問では??
黒潮が危険かどうかは知りませんが 急流でしょう

149 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:44:46.77 .net
>>148
>>144じゃないけど

琉球(沖縄)と中國との交流は3世紀以前にもあったと
うろ覚えだが承知している
黒潮も一考と思うけどな
ようわからんのが今の俺 方位は否定していいものかどうか

150 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:46:17.84 .net
>>147
今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
今、使訳の通ずる所三十国。帯方郡から倭国に至る

だろ。

今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
実際にそこに行って見聞してきた郡使の説明に従って
倭に到る経路を(張政と梯儁の二人の)使の譯によって説明する

こんな理解をしていていいのか?。
でも原文を読んだ気概は認める。

151 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:48:58.82 .net
>>149 九州ならともかく、沖縄本島以外の小さな島なんか
方角を間違えたら辿り着けないんだぜ。

152 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 22:51:55.60 .net
ヒメヒコ仮説が終わったら久々に原文やるかな?

>>137
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
倭女王卑弥呼と狗奴國男王卑弥弓呼は素より不和、(卑彌呼は)倭載斯烏越等を遣わして郡を詣で相攻撃する状(=さま)を説く。
(着任したばかりの帯方郡太守王頎は)塞曹掾史張政等を遣わし因って詔書黄幢をもたらし難升米に拝假し檄を為して之を告喩す。

ここいらの理解を深めるには高句麗伝と韓伝、更に毌丘倹伝を参照する必要がある。
まあ。簡単に言うと、卑彌呼の言動はかなり怪しく、狗奴國と本当に戦闘があったのか疑わしいというのが実情。

自分は卑彌呼天晴れと思うが(笑)

153 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:06:25.44 .net
>>144
大平洋ルート?黒潮ルート?
あまり賛同できないが
向う?行く?
向かうなら
「会稽東冶之東」は解けるかもしれないが
不弥国以前との整合性が難しいな

俺は却下

154 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:09:01.26 .net
>>152
狗奴国が邪馬台国の女王宮を滅ぼした状態?
諏訪に建御名方が入った、あるいは武田信玄が入った。
これで、諏訪は滅びていないし、江戸期以降も守矢神の統治は続く。
日本の戦国で本当に滅びた豪族はどれだけある?
おまえらが、古代日本の皇室の価値が判らないなら邪馬台国も理解できんと思うぞ?

155 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:15:16.04 .net
>>119
短絡的では
当時の根拠より現代の根拠の方が数段上だよ

156 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:17:21.98 .net
>>155だが

>>119
当時は文献が頼りだよ
いまは当時の文献+遺物

157 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:18:31.82 .net
失礼

いまは当時の文献と変わらぬ文献+遺物

158 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:23:58.28 .net
>>150
そうじゃなくて、中学生でも辞書一個で読めるように
倭人伝の、文節と改行、段落を設定してみたんだぞ?
ご意見募集中だよw

門前の厨坊のアタシが習わぬ経を読んでんだよw

159 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:25:47.82 .net
>>154さん
狗奴国が邪馬台国の女王宮を滅ぼした状態? ☛難解
諏訪に建御名方が入った、あるいは武田信玄が入った。☛時代考証が・・
これで、諏訪は滅びていないし、江戸期以降も守矢神の統治は続く☛これも時代考証が・・諏訪は記紀以降であり諏訪なる記述の文献が
日本の戦国で本当に滅びた豪族はどれだけある?☛しかりだが、戦国と比べるのは????
おまえらが、古代日本の皇室の価値が判らないなら邪馬台国も理解できんと思うぞ?☛飛躍しすぎ

160 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:28:59.31 .net
>>144
紀伊半島に船が棄てられてるわけねw

161 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:31:55.84 .net
>>158
零点です、やり直し

162 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:35:52.45 .net
>>159
中学生的には想像力を否定する
学問としての考古学的手法というものは否定しないよ。
でも、アタシの想像力で倭人伝を読了したかったという結果は変わらない。
評価には感謝です。

163 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:38:45.18 .net
>>160
倭船か魏船かはそれ以前の行程で議論でもありますが
捨てたというより船が着いた所だと理解していいのでは

164 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:46:13.63 .net
>>163
帰りの船どうすんだよ
着いた船どうすんの

165 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:46:39.99 .net
紀伊半島は倭国か否か?畿内説に紀伊は含むかどうか?

私見では
紀伊は邪馬台国の領地
根拠・・陸続き、熊野古道、▲も出土 記紀にも記述 
    紀伊を狗奴国とする研究者がいない

166 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:54:47.93 .net
>>165
250〜300年には銅鐸圏の軍事的掌握は終わってるんじゃないです?
じゃなきゃ、古墳時代来ませんけど?

167 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:56:10.13 .net
皆さん
勉強に成ります

どなたかお教えください(いろいろな意見あると思いますが、できればで結構です)
畿内説では紀伊はどのよう圀❓位置づけ❓になりますか
                   南紀田辺在住です
                  

168 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:07:59.03 .net
和歌山、阿波、淡路、畿内、吉備、出雲、能登、越、濃尾、東海、関東
これが、大和朝廷の前身でしょ? 奈良遷都は250年以降。
九州邪馬台国、倭人伝との本州朝廷並立、整合性は担保されてます。

歴史上の事実としては
取り繕った神功皇后の嘘が倭の五王とかで、ばれちゃってるんだよねwww
卑弥呼は実在、神功は神話、中学生でもわかると思いますよ。

169 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 00:17:25.05 .net
>>145
今一つ分からないな。

>>154
魏は正始6年に半島の反魏勢力を一掃する大戦争を開始。
同年、難升米に黃幢を下賜し、帯方郡太守に委託。
正始8年に副将である玄菟郡太守王頎が南下し、戦死した前任者に変わって帯方郡太守に到官。
この時点で魏による半島の植民地化戦争は完結したと考えて良い。
そして、このタイミングで載斯烏越がヒョッコリ現れて狗奴國との戦争の状況を伝えてくるという(笑)

170 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:25:07.57 .net
>>168
有難うございます
畿内説が正しいかどうかは分かりませんが
畿内説では紀伊(和歌山)も邪馬台国の領域ですね

有難うございます

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