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♪邪馬台国ドンと来い!♪135
- 1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
- ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
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♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512648703/l50
- 711 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:21:13.97 .net
- >>699
後漢の頃の倭国は対馬海峡と筑紫だけだったが、魏の頃には肥国、豊国をあわせ、今の福岡県、長崎県、佐賀県に拡大している。
ちゃんと大きくなっているよ。
- 712 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:22:47.40 .net
- >>700
>つまり、狗邪韓國までの七千餘里と合わせて万二千里になる数値が挙げてあることになる
対馬海峡が三千里だから、陸上は二千里しかない。
有明海にようやく到達する程度。
九州の中で収まるよ。
- 713 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:23:23.29 .net
- >>706
後の畿内政権も筑紫の分家だからだよ。
- 714 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:24:52.85 .net
- >>707
>>九州勢力が畿内に進出した時、
>そんな証拠や遺物は一切ありません
>古墳時代に入ってから、権力中心の移動を示す根拠は一切ないよ
その古墳に、九州から伝来した内行花文鏡が恭しく祭ってあるわけだ。
今日でも、ほとんどの神社の御神体は鏡だよ。
- 715 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:44:16.55 .net
- >>708
柳本大塚、下池山、桜井茶臼山などなど。
内行花文鏡は絹などに包まれて安置されていた。
棺の朱なども九州の文化を踏襲している。
畿内の墓制は、九州のそれの発展形なんだよ。
- 716 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:45:26.66 .net
- 銅鏡が日本で複製されている理由は
日本が意味不明に遅れて取り入れた古墳文化と関係がある。
古墳起源は死生観に不死を伴う王族に喰いこんだ方士による墓制かと思う。
中国人道教学者の渡来が示唆されるが
古墳の伝来に中国土器や、中国人の生活痕が伴わなきゃダメか? 土器厨先生w
まあ、古墳自体は当然だが埴輪や銅鏡は、周〜秦漢中国起源以外無いんだが?
250年だから、弥生渡来人とは言わないよ。 なんでいまさら? だよね。
>>706 の魏鏡の複製だが、当たり前で、複製の方法が転写だからだろ。
銅鏡の図柄には非現実を映す鏡に対する呪術的意味がある。
死者の弔いに、死後の世界や鎮魂の思いを込めて副葬する。
古墳文化自体、400年以降に日本文化化した形跡があり
変容を伴い銅鏡デザインも日本化の可能性は否定しないが、
古墳の最初のころはフランスやイタリアンブランドじゃ、ダメなんじゃね?
- 717 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 09:24:54.64 .net
- >>700
ソースは知らんが、熟語の発達する前の300年以前の漢文で
「周旋」は誤読と言い切るのは、詐欺師の文言だぞ。
周はあまねく、旋は起点に戻る意味が強い。 御用学者の犬臭いぜ
まさか、原文読んでないのか?
【段落7 女王国以遠の倭人国 陳寿地図データ】
女王國 東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王 四千餘里(種子島4千里)
又有 裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至(小笠原2万4千里)
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
一周するなんて誰も考えないし、これは概論で行程記じゃない。
或絶は 唐津やうきは、香椎、武雄であって、辺境は往復だろ。
或連は福岡平野東麓から大宰府、久留米〜佐賀辺りだろ。
全体像が >>3 の図の範囲で5千里だよ。
概念図は >>467
九州北部でぴったし、収まってるし。
瀬戸内海なら 洲㠀之上じゃなくて島々を経由する だろ。
そもそも、この認識に本州と四国の別が無く、関門海峡も瀬戸内海も知らない。
洲㠀とは、魏の認識では、日本列島における九州島を示唆している。
- 718 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 09:56:26.33 .net
- >>716
埴輪は日本オリジナルだし、銅鏡は弥生中期に最初に半島から輸入している。
嘘はやめろよ。
中国人のおまえにあるのは願望だけ。
で、中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活陶磁器と
中国系住居と中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓は?
※3Cの中国は青磁の時代。中国はBC10Cから既に土器ではなく、原始青磁という
釉陶の時代。土器ではなく陶磁器である。
- 719 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:11:23.88 .net
- それに中国は6000年前から木骨泥墻(モッコツデイショウ)という土壁の住居。
4000年前には既に土壁の戸建ての時代。
2800年前には瓦が登場して、早くも瓦屋根に土壁の戸建ての時代。
中国から渡来人????
おまえ日本人なめてるだろ。
日本の掲示板に来るなよ中華ブタニグロが!
- 720 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:26:36.32 .net
- >>718
>銅鏡は弥生中期に最初に半島から輸入している
嘘はやめろよw
朝鮮人のおまえにあるのは願望だけ。
輸入ってなんだよ? 誰から買ったんだ?
弥生中期に半島で中国由来じゃない
王族威信材の銅鏡が必要だった理由は何?
箕氏や衛氏の残党が持ち込んでんだろ。
中原移民や倭人進出以前の半島土器土人が半島で青銅器作るか?
韓伝読んだか?
漢四郡も魏の時代までには公孫氏三代で独立状態だが、
中国の古墳期で衛氏や漢四郡を半島というのはちょっといただけない。
- 721 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:50:22.87 .net
- >>719
日本の古墳時代の始まりの話してんのに
なんで6000年前の中国や、弥生時代初期の渡来人が関係ある?
王権成立期の日本人がなんで古墳なんて言う
始皇帝みたいな間抜けな墓制始めたかが疑問なんであって
銅鏡の図柄に在る道教的死生観世界観が中国文化に由来するのは当たり前だろ?
孔子や老子やキリストが朝鮮起源なのは
おまえの頭の中では、だけだぞ。
日本の掲示板に来るなよ朝鮮沿海エベンキブタニグロが!
- 722 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 10:54:43.56 .net
- >>720
俺は日本人だし、おまえは1兆%チンコロだよな。
朝鮮青銅器は衛氏朝鮮の少なくとも7〜800年前に遼寧青銅器の
影響で入ったもので、中国青銅器ではない。
朝鮮青銅器には中国青銅器の器種器形がない。
中 国 青 銅 器 は 調 理 器 や 酒 器 な ど の 飲 食 器 が 中 心。
と こ ろ が 朝 鮮 青 銅 器 に は 飲 食 器 が な い !
遼寧から入ってきたもので中国から直伝したものではないからだ。
弥生青銅器は朝鮮青銅器の輸入から始まり、朝鮮南部から青銅器技術を
導入した事で自らの青銅器を製作できるようになった。
そこに中原の青銅器などは一切ない!
- 723 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:14:49.18 .net
- >>721
日本人だし、古墳期にチンコロが渡来定着した痕跡がどこにあんの?
で、古墳期にチンコロが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系陶磁器と中国系住居と中国系耕作用農具と
中粒種のイネと漢服と木沓は?
.
- 724 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:16:41.25 .net
- >>722
なんで食器が青銅器だよ? 銅鏡の話じゃないのか?
日本に中国食器なんて要らんだろ?
おまえらの好きな秀吉とか、信長はガラス器にワインのイメージかな?
茶釜は鉄器も良いかもな。
瀬戸もんと塗り箸で良いものを
食器に青銅器って古墳墓制以上にアホだろ?
中国王族ほどの馬鹿でもないなら
おまえはステンレスの箸と茶碗で粟と糞でも喰ってろ。
- 725 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:17:41.88 .net
- 頭の病院に行け
- 726 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:25:53.10 .net
- >>724
日 本 青 銅 器 は 中 国 青 銅 器 と 直 線 的 関 係 な ど 一 切 な い !
中 華 ブ タ は 日 本 か ら さ っ さ と 出 て い け !
ブ タ ニ グ ロ 顔 し た ク ッ サ イ 汚 ら し い 中 華 ブ タ は 日 本 か ら さ っ さ と 出 て い け !
.
- 727 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:35:12.01 .net
- >>724
遺跡は遺跡だろ?
漢字読めるか?
古墳や銅鏡や平安京に中国文化の渡来定着がないなら
おまえがそれを証明する論拠を示せよ。
文化伝搬の話に渡来人なんて関係ないだろ。
でも、400年以降に五経博士を連れてきて、教師としたから、
日本に日本人によって中国語ではない漢字文化が成立したんだよ。
言っておくが、朝鮮経由っていうのは朝鮮起源じゃねーぞ。
仏教はインド起源で、漢訳経典は 朝鮮語じゃなくて中国語だぞ。
- 728 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:52:10.97 .net
- 誤爆w
中華ブタ饅 なら知ってるけど、
ブタって、中国起源なのか?
イノシシ居たろうけど、ブタは中国渡来なの?
朝鮮起源の豚だとちょっといや。
ちなみに、馬は高句麗馬で、対馬航路の邪馬台国滅亡後の250年以降、
まあ、帯方郡撤退の313年から百済建国支援で高句麗と戦争しながら
400年までには甲斐にも勅営御牧ができる。
畿内説での大和朝廷成立が古墳期の始まりであって、
九州東遷なんて暇が有るわけが無い。
- 729 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:54:45.39 .net
- >>727
その通り。
日本の漢字は百済から伝わって、独自の進化を遂げた。
戦後、中国は日本語から中国語にはない漢字表現を逆導入した。
落ちぶれて、すっかり後進国になってしまった中国は日本語から漢字表現を
逆輸入して遅れた時間のの穴埋めをしたのだ。
現 代 中 国 語 こ そ 半 分 日 本 語 な の で あ る 。
.
- 730 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 11:55:48.92 .net
- お前の話など誰も聞いていないぞ、
そろそろ頭の病院に行け
- 731 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:24:33.58 .net
- 九州倭国邪馬台国と、畿内の発展は時期が被っていたのだろう。
邪馬台国の滅亡が4世紀末の神功皇后の戦いだね。
- 732 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:25:39.81 .net
- >>728
おまえブタ顔の華南チーノ見た事ないの?
ブタと黒人の中間種みたいなクッサイ汚らしい醜悪な顔面をした
南方中華ロピテクスだよ。
- 733 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:26:33.76 .net
- お前の言う何やら皇后などいない、
すべて取り消しだと書いたはず
- 734 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:28:50.20 .net
- 理解できたのなら、
頭の病院に行くか、刑務所にでも行け
死刑
理解できないから、
いつまで生きているんだろう
- 735 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:34:41.30 .net
- 他のスレにも書いたはず?
刑務所に行けと言ってるんだよ
騙り、成り済まし、寄生・・・、
他人から学んだ(倣った)、盗用など・・・、
いろいろあるだろう
- 736 :くまモン論者:2018/03/20(火) 13:10:05.14 .net
- うおおおおおお!
「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル 福岡県赤村
https://www.nishinippon.co.jp/amp/nnp/f_chikuhou/article/402402
ちょっと行ってくる
- 737 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:11:21.37 .net
- >>706
そりゃ畿内説側がするべき主張だよ。
黄金塚の神獣鏡、これも紀年がはいってるけど
なんで三角縁じゃなくて平縁だと思う?
- 738 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:20:34.93 .net
- >>716
道教の影響でしょうなぁ。
- 739 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:26:48.92 .net
- >>716 で、絶対釣れると知りつつ 釣り針投げちゃったんで、引けなくなりました。
また、アラシちゃった、てへぺろw よゐこの皆様、ごめんなさい。
で、
銅鐸の複製は日本に銅鏡に必要な画像化成文化された方士の世界観死生観が無いから
日本製でも転写で 副葬品として重要な呪術、魔方陣的な図柄は継承してる。
という考察なんです。
銅鐸は弥生的文様、銅鐸は? で、広鼻先生だったのですが・・・ 自分から嵌ったwww
銅鏡が王権の象徴というのは、記紀の後付けだし、初期銅鏡の絵柄は中国文化。
王権が嫡子相続じゃない時代に、古墳や副葬品が誇大化するのは
豪族が取り入る為の詭弁だったり、王権強化を嫌ったからじゃないのかな?
神社普及は仏教伝来以降だろうから、個人埋葬用じゃない
日本製のでかいご神体の銅鏡は道教起源模様より日本模様になってる気がするけど
銅鏡厨の先生、いかがでしょう。
- 740 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:37:21.90 .net
- 倭人は帯方郡と盛んに交流していたみたいだから、帯方郡式の道教スタイルを
外交官から卑弥呼は聞いて、取り入れていたかもしれんな。
- 741 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 14:00:10.71 .net
- >>739
おまえ、デタラメもほどがあるぞ。
>銅鏡が王権の象徴というのは、記紀の後付けだし、初期銅鏡の絵柄は中国文化。
そもそも皇帝が王侯に与えた威信財が内行花文鏡。
だから倭王も内行花文鏡。
記紀は関係ないよ。
中国文化に決まっているだろ。
誰が違うと言った?
>王権が嫡子相続じゃない時代に、古墳や副葬品が誇大化するのは
嫡子相続でないならなんなんだ?
前提がわけわからん。
>神社普及は仏教伝来以降だろうから、個人埋葬用じゃない
神社はそもそも宮だよ。
その名の通り、王宮。
仏教伝来により、形骸化した。
埋葬するためのものではない。
当たり前だ。
おまえの言っていることは支離滅裂でわけがわからない。
- 742 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 15:06:47.15 .net
- >>741
おまえ、デタラメもほどがあるぞ。
300年代のどの倭王にいったいどの皇帝が威信材の内行花文鏡をくれんだ?
???
>神社はそもそも宮だよ。
>その名の通り、王宮。
>仏教伝来により、形骸化した。
>埋葬するためのものではない。
>当たり前だ。
>おまえの言っていることは支離滅裂でわけがわからない。
わからないことをわからんもんには聞く気はない。
デタラメじゃない分、土器厨先生の反論の方がマシw
王宮は王が居るから王宮。
神社は地方に分祀され得る、氏神、農猟山海等職域の部族神や天神、地神。
神話創作以前の古墳時代の死生観で 前王は信仰対象にはならない。
江戸後期までの天皇は嫡子相続ではない、兄弟継承が先。
そもそも無いものが、仏教伝来で形骸化ってのは完全に意味が分からない。
- 743 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 15:19:15.09 .net
- >>742
漢だよ。
魏になると、倭国で鏡は国産化できてしまうから。
神社が分社されるのは、後世の話。
そもそも神社は信仰のためのものではない。
あれは権威だ。
そしてそもそもは王宮。
香椎宮とかみたいにね。
- 744 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 16:52:17.64 .net
- 古墳の副葬の鏡に対して 神社のご神体としての鏡の話してるのに
そもそも神社が信仰の為の社じゃなくて王宮ってのはおかしいだろ。
鏡が王権の象徴なら副葬したら一代で王権終わりか?
畿内説が王の鏡が一緒に古墳に副葬されてるから王墓だって主張してんだよ。
だったら、神社の鏡はなんでしょうね? って話で、
で、そもそも神社は王宮、って何?
古墳時代に神社信仰は無いし、
神社時代なら氏神に祀らなきゃ元王宮は信仰の対象じゃない。
神社のご身体になる銅鏡と副葬の鏡は、同じ道教の死生観由来じゃおかしいから
後期の和製の大型銅鏡のデザインは、中国鏡と変わったんじゃないか? って話。
漢鏡は下寵された個人の所有に帰して、死に際して副葬されるんじゃない。
- 745 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 20:12:26.88 .net
- >>744
>古墳時代に神社信仰は無いし、
根拠はあ?
>神社時代なら氏神に祀らなきゃ元王宮は信仰の対象じゃない。
神社時代って何だよ?
氏神とか後世の概念を突然持ち出されても、会話が通じないな。
王宮は信仰の対象ではないだろう。
で?
- 746 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:48:13.82 .net
- 自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ
- 747 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:54:55.27 .net
- 日本の神社信仰は、権力者に対して
基本的に予備、あるいは牽制権力。
権力者の暴走を抑える受け皿になったり
権力者がトラブったときの予備の位置づけとなる。
- 748 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:18:29.50 .net
- 「まつりごと」が政治と祭祀の両方を意味し、天皇の最も重要なまつりごとが新嘗祭であった。
神社の建物は本殿と拝殿からなり、いわゆる職住接近であったのだろう。
- 749 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:19:13.99 .net
- 拝殿の成立は本殿よりも後である。現在でも伊勢神宮・春日大社・宇佐神宮・松尾大社など拝殿を持たない古社は多い。
拝殿は祭神の祭祀のための施設であるが、本来、神社の祭祀は本殿の正面の露天の祭場で行なわれていた。
本殿は、その起源を祭壇に求められるように、祭祀の対象であって、祭祀を行なう場ではなかったのである。
wikiより
- 750 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:55:52.84 .net
- 神を迎える仮屋であった屋代(ヤシロ)を
本殿として常設化するようになるのは仏教寺院の影響だな
- 751 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:03:31.55 .net
- >>746
>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ
磐座の方が古いだろう
- 752 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:09:58.16 .net
- >>709
>つまり、そういうこと。
どういうことだよww
>物や人は都に集まるからね。
都じゃなくて港だから、人が来てたんだよ
西新町遺跡とかは野方遺跡の港だよ
- 753 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:11:18.38 .net
- 古代史が不毛な議論に終わる原因は、
結局、記紀なんだだな。
ホントは古墳時代も消したかったか?
新井白石も本居宣長も
匙を投げる、か? 箸?
- 754 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:18:26.78 .net
- >>717
>周旋
この人は三國志での周旋を全例検討して、起点に戻る例がないのを確認してるってさ
http://zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf
- 755 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:20:10.79 .net
- >>753
>古代史が不毛な議論に終わる原因は、
>結局、記紀なんだだな
記紀を入れても情報が少ないことだよ
- 756 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:35:24.70 .net
- >>751
>>>746
>>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ
>
>磐座の方が古いだろう
同意する。
ただし、それとは別に、王族の宮としての神社建築があり、様式として固定されていった。
出雲大社や香椎神宮などのように王宮として建てられた伝承を持つ神社や、吉武高木遺跡の高殿と思われる考古学的遺構がある。
- 757 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:48:59.95 .net
- 神社っていうか神宮(かんみや)はそうだよね
神はカミの世代の人だから、日本では
- 758 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 03:23:34.72 .net
- 宮様だからな。
- 759 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 06:38:12.78 .net
- 香椎神宮ではなくて香椎宮
平安時代までは神社として扱われず、香椎廟と称した
『日本書紀』では、伊勢神宮・石上神宮・出雲大神宮(出雲大社を指すのみが「神宮」と記載されていた
平安時代に成立した『延喜式神名帳』では、大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮が「神宮」
神宮別宮の6宮、天皇を祭る八幡大菩薩筥崎宮、八幡大菩薩宇佐宮が「宮」の社号を許された
- 760 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 06:54:47.93 .net
- >>746
>自然信仰の日本では、神社は元はモリだよ
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や平原のような平地なんぞに築かない。 神は山に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波
- 761 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:07:21.68 .net
- 日本で一番古い神社は奈良の大神(おおみわ)神社と言われてるよね。三輪山という山自体を
御神体としていて大物主(大国主)が祀られてる。
偶然か、箸墓古墳のすぐ裏にある。
- 762 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:12:12.04 .net
- 大物主の妻が倭迹迹日百襲媛命
- 763 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:14:28.38 .net
- >>761
神社の起源もやっぱり阿波だろう。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地
「真立石(上古神社鳥居)」
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
- 764 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:31:04.55 .net
- >>761
畿内優先主義による色眼鏡
- 765 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:32:51.72 .net
- イザナギの禊に由来する住吉神社の方が、三輪神社よりはるかに世代が古いはず。
- 766 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:34:06.00 .net
- 卑弥呼が倭王の初代というわけでもないし、最も古い、と卑弥呼、は関係しない。
- 767 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:38:55.81 .net
- >>759
つまり、宮を起源とする神社がたくさんあるんだよ。
筥崎宮だってそうだよね?
豊浦宮、高祖宮、岡田宮、老松宮、玉垂宮、福岡県内にはいくらでもあるな。
- 768 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 07:54:54.46 .net
- しかし、神功皇后の世代がやたらに多いな。
逆に、それ以前の宮が少ない。
やはり神功皇后が皆滅ぼしてしまったか、神功皇后がの伝承で上書きしてしまったか。
- 769 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 08:53:13.89 .net
- 律令制が崩壊した後の時代になったら「宮」は好き勝手につけてる
朝鮮統治時代にも神宮をつけている
韓鍛卓素の宅蘇吉土の名残の高祖神社も宮と通称されてしまっている
- 770 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:07:27.04 .net
- 『延喜式神名帳』では「宮」の社号を許されているのは伊勢神宮の7宮を含めて11宮
式内社の99%は「社」号
- 771 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:23:13.56 .net
- >>754
たいへん有用な論拠を ご提示いただきありがとうございます。
私も
「周旋」は誤読と言い切るのは、詐欺師の文言
は言い過ぎだったかと、反省する次第です。
邪馬台国論争への方法論や倭人伝への姿勢については、私も同じだろうと想像します。
「周旋」については、字面での解釈ではなく >>10 の梯儁の報告文の
次有斯馬國(糸島を想定)~次有奴国(伊都から南東100里)
を周回するという短絡的発想でしたが、
時計回り説を提示し反時計回り説の反論をいただきこのスレでも検討しました。
これは、段落が別なのでこの順序に拘泥する必要は無かったようです。
ただし、「周旋」は あまねく巡る であって、この論文? の
北岸狗邪韓國から、まっすぐ5千里では、何も「周旋」してません。
対馬海峡3千里+上陸後2千里なのは、初めから判っていることで
なぜ正しい検討方法の「周旋」の結論が無意味化しているのでしょう? 学会の圧力ですか?
実は、時計回り論争で5千里では足りないと感じていました。
南北2千里は方可なら8千里、周なら6千余里ですが、
これだと周回であって、すべての国をあまねく回るにはなりません。
この論文が、ミスリードの有る、他人の翻訳の流用を基準としたため、前提である
絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連
が、海に囲まれた 九州島の上の国々 であることを無視してしまっています。
九州島北部、南北2千里を5千里で回れる範囲に在る国々について参問した で桶です。
対馬島領、長崎方面、宗像〜宇佐方面は含まないと考えます。
邪馬台国の真実が、だんだん小さくなりますwww
- 772 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:40:03.69 .net
- もともと後漢書では倭奴国が極南界と書かれるくらいだから、いいんじゃないかな。
邪馬台国、倭国とはかなり小さな弥生国家だったんだよ。
- 773 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:40:22.40 .net
- 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
- 774 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:44:27.93 .net
- >>768
>しかし、神功皇后の世代がやたらに多いな。
>逆に、それ以前の宮が少ない。
その通り。
だから明神大社が集中してる場所こそが邪馬台国の王都。
それは明神大社が6社が集中する葛城。
ご丁寧に高天原(御所市高天)があり、
麓には神武の宮「柏原宮」がある。
また倭国王帥升の連れて行った160人もの生口を説明できる太古からの俘囚郷もある。
- 775 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:05:08.30 .net
- >>773
>21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
これは間違いだと思っている
彌奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 有奴國 烏奴國 奴國
と「○奴国」という国名が多い
最後の奴国も「△奴国」の欠字と見る
九州北部の奴国と見ると(おそらく後漢書の撰者も同じ誤読をしている)
魏志倭人伝の「自女王國以北」(邪馬台国は奴国よりも南)や、
「此女王境界所盡」と矛盾する
- 776 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:30:53.44 .net
- >>775
任那も○ナ国
- 777 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 17:12:53.49 .net
- >>772
確かに後漢書の倭奴国は極南界で、
倭人伝では狗奴国国境の女王の王宮=居所の事ですが
周旋5000里によって、東にも西にも女王国の境界が有るように思います。
もちろん、倭国としての認識は九州島全体や本州もなのですが、
魏使は卑弥呼の王宮に金印紫綬を届けただけなので、
狗奴国との国境しか知らないように思います。
そして、皇帝に倭王として紹介した郡の役人で使の梯儁は
相当な小国であることを知ったが、その時は言えなかった。
同様に、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 によって
壱岐と対馬も倭人国ではあっても女王国に属さない可能性もありかと思います。
>>775 の「此女王境界所盡」と矛盾する。
は 奴国が国境と言っているから ということと思いますが、
国名の間違いというより、むしろ陳寿の 境界所盡 の表現に齟齬が有り
次有のこれ(此等?)すべての21国表記(と不彌国)で、
女王国のすべての国を言い尽くした
という意味なのではないかと考えます。
これが
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
が意味する女王国で、女王属国の国境は四囲に有る、はずかと思います。
- 778 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 19:08:59.94 .net
- >>777
>の「此女王境界所盡」と矛盾する。
>は 奴国が国境と言っているから
というか、後漢書の奴国が極南界というのが、魏志倭人伝の
「国名の記載が北から南へ」と並べられていて、奴国が最後だから「極南界と考えた」
のだと思う
この認識と、北部九州の奴国は一致しない
- 779 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 20:52:52.25 .net
- >>778
後漢書に奴国なんて有ったかな? と思って読み直したら金印の倭奴国ですね。
これ、後漢書によって金印の 倭奴国 が固有名詞かと思ってましたが、
おっしゃるように後漢書では、魏志の 次有・・・次有奴国此女王境界所盡 で
南に狗奴国、のくだりで、女王国極南界を奴国と判断したようです。
であれば、倭の奴国ですね。
范曄さん、それ場所、間違ってるけど って、教えたげてw
范曄さんは、其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同 の理解も変。
さらに、其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
これ、何を根拠に 邪摩惟 音と思ったんでしょう? ネラーに絡まれそうwww
邪馬臺國 は 和音の呼称、邪馬国の当て字 邪馬 に 表意文字の 臺=楼閣 で、
卑弥呼の王宮を訪れた梯儁が報告の為に漢字で命名したようですが、
日本人は国名の和音に 卑字当てられたとか、邪推するのに対し
中国人は逆に全部表意文字の国名と同等に考えてしまうんでしょうか?
邪推国とかねw
陳寿の文 そんなに難解とも思わないけど
まあ、昭和になって論争になってるから判りにくいんでしょうね。
学者の飯のタネでわざと、って邪推は消えてないけどw
ご教示ありがとうございました。
- 780 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 21:04:14.14 .net
- >>779
>邪馬臺國 は 和音の呼称、邪馬国の当て字 邪馬 に 表意文字の 臺=楼閣 で、
>卑弥呼の王宮を訪れた梯儁が報告の為に漢字で命名したようですが、
邪馬臺國と邪馬國が、別に書いてあることはどう考える?
餘旁國の16番目に「邪馬國」がある
其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有「邪馬國」、
次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
ここの「臺」では話が合わないと思うんだが?
- 781 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 21:15:46.99 .net
- >>780
>さらに、其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
>これ、何を根拠に 邪摩惟 音と思ったんでしょう? ネラーに絡まれそうwww
後漢書の原典は
其大倭王居邪馬臺國。其大倭王居邪馬臺國
按:集解引惠棟說,謂魏志「臺」作「堆」。
[一]案:今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。
ということで、音から考えて「邪摩惟」は「邪摩堆」だろうって、
大陸の校勘でも直されてるよ
- 782 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:09:34.41 .net
- >>752
対等の交流なら双方の土器が出る。
出雲と糸島みたいにね。
一方方向の土器の流れは、流れた先への集権化が見え隠れする。
もちろん確定的な事は言えないが、少なくとも"対等"
ではない。
後、土器は一般人の流れであるため、庄内期から関西との交流が始まったのだろう。
その後、庄内土器が交易の中心の奴国から北部九州全域へ流行したのだろう。
- 783 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:14:18.64 .net
- >>780
それについては、 >>771 「周旋」の検討
で、時計回り説、ぶん投げしちゃいました m(--)m
固有名詞に関しては、帯方郡と政帳と梯儁でも当て字が一致していない場合があり
左 梯儁による国王名 / 右 郡の聴取による氏名)
奴(漢時)/(難)升米 ・ 都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗 ・ ?躬臣王/(載斯)烏越
で 次有の21国と邪馬国の「臺」=女王の居所 も 梯儁しか漢字命名できない。
帳政の中国語化=漢字の当て字は 壹與と末盧國、不彌國
張政 当て字による官
對海/卑狗 卑奴母離(多分同行者) ・ 一支/卑狗 卑奴母離
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離 ・ 不彌/多模 卑奴母離
国名でも表意文字の 對海 一支 投馬 は 既に王朝地図に記載済み
次有の国の順番は >>3 の出土図の範囲程度で
>>467 みたいな魏王朝秘伝の地図で割と無作為に説明してったんだと思います。
邪馬国は辺境の山門瀬高、女王の砦は極南界、南の山麓です。 大牟田が戦場かな。
- 784 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:59:58.77 .net
- >>783
厳密ではないが、概ね反時計回りに見えるよ。
あとは、後漢の頃の倭国は対馬海峡・玄界灘と筑紫だけだったので倭奴国が極南界だったが、魏の頃には肥国が倭国に含まれるようになった。
>>773
>https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
- 785 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 23:47:27.46 .net
- 唐津松浦までで一万里だからあと2500里。
往復して近場にちょこちょこ立ち寄れば
周旋5000里だ。
- 786 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 04:35:09.03 .net
- 対馬海峡が三千里なら、福岡長崎佐賀で五千里くらいだな。
- 787 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 14:09:50.53 .net
- >>701
見落としてた、スマソ。
こうやって、出展示されると翻訳に反論すんのつらいよねw
アタチどうせ厨房だし・・・ 小さい声で言っちゃうけど、
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象存 中國失 禮求之四夷 猶信
これの訳文 二つとも 雖 をないがしろにしてないか?
夷狄之邦には(今の中国が)失ったとはいえども、俎豆之象は中国(中華)に在る。
(冊封や朝貢の)礼を(今でも)四夷に求めるべきであると、なお信ずる。
これだと、南=東みたいな違いだけどなあw
長老ってのは、孔子じゃなきゃいかんの?
引用の「吾聞之天子失官,學在四夷猶信」は
もはや中国が失った古き良き政治機構がど田舎の国に残っている、ってホントだね で、
って、孔子だから王様の前で言えるみたいな話でしょ?
魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で
これを偉そうに孔子ぶって説法したら、陳寿死刑にならないか?
まあ、ネットでミスリードの誘導翻訳とは違うけどね・・・
- 788 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 10:08:19.12 .net
- >>76 【東夷伝 序文】 で、いっぺん検討してた。
あの時は、重譯(調査団を度々派遣した)で
今使譯所通の使譯を通訳にしたら全文の意味がおかしくなると思って掲載したんだっけか?
【東夷伝 序文】結語 >(魏は高句麗追討で)東臨大海
で、
長老說 有 異面之人 近日之所出
遂 周觀諸國
采 其法俗小大區別 各有名號
可 得詳紀
雖 夷狄之邦
而 俎豆之象 存中國
失 禮求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異
以 接 前史之所未備 焉
これで、難解なのは 俎豆之象。
孔子なら、正解は先生に聞けば、すぐ出てくるでしょうが?
これは字面的に、『おまえら、誰のおかげで飯が喰えてると思ってんだ? あん』
と、訳すべきだと思います。 『中国皇帝様が天地創造したからだろ、ゴラァ!』 と。で。
長老説は 長老の言うところの日出処に異面の人有り の諸国を遂に周觀した。
で終わり。 孔子の文言『禮求之四夷 猶信』は無関係。 孔子は中国様に失礼www
倭人伝解読のキーワード
使譯、從郡、歴韓国乍南乍東、丗有王皆統屬、此女王境界所盡、官有、陸行一月、
計其道里當在會稽東治之東、使大倭監之、参問倭地、周旋、黄幢、檄、
かな? これ宿題、試験に出るから、ノート取っといてね^^v
- 789 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 17:00:36.12 .net
- >>787
>魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で
大陸の正史っていうのは、王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される
だから、晋朝のもとで編まれた三国志で魏朝には徳がなかったって書くのは何の問題もないよ
- 790 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 19:28:02.31 .net
- >>789
魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?
100年近く後の後漢書と違って
佐治の司馬氏が馬鹿王に育てた曹芳は
帝位を司馬炎に禅譲して斉王に収まってんだけど。
これ、曹家に仕えた使譯の梯儁と張政が
司馬王の史書で陳寿に情報提供というか報告してんだよ。
だから、陳寿は最後の評で、
記録できたのは、使を派遣した魏の皇帝の功績だ とたたえてる訳で・・・
だから、後の史書の倭情報は、600年までこれをソースにしてる。
王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される は ごもっともなのですが
倭人伝は時代背景を行間に読むべき、ってのはそういうこと。
- 791 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 22:38:58.29 .net
- >>790
>魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?
だからこそ、司馬懿の公孫氏討伐を最大限顕彰するために、倭国の朝貢が持ち上げられているんだよ
だからこそ、倭国までの距離は「萬二千里」でなければならない
この萬二千里は、淮南子に見られる世界の果てまでの距離なんだよ
- 792 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 23:31:19.48 .net
- 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
- 793 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 00:05:54.17 .net
- >>791
軍事資料でもある実際の地理探検データを
宗教上の世界観に置き換えることは無いヨ
三国志には魏が王朝独自に作成した地図が存在する背景が見える。
三国に分離し、変動する領土があるということはそういうことである。
筆写だが独自に入手したものの一部東夷を >>467 で、既に公開した。
地球は丸くないようだが、太平洋を知り種子島から小笠原は2万4千里である。
北京から上海、成都を含む中原の方可が同じく、この12月行のようだ。
平面に世界の果ては有るはずだが、
この方可12月行を中原の八方に置いた世界観は
既に魏における宗教ではない、実世界の世界地理となっている。
- 794 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:14:13.91 .net
- >>793
>筆写だが独自に入手したものの一部
邪馬台国ドンと来いじゃなくて、ドン引きだよこれは
- 795 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:40:10.01 .net
- >>793
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、これが萬二千余里の基礎になっているように見える
ただし、秦・漢の統一を経て、漢土は方万里に拡大されているけれども
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これが淮南子:時則訓になると、
東方之極が萬二千里
南方之極が萬二千里
中央之極が萬二千里
西方之極が萬二千里
北方之極が萬二千里という形に整理される
この中央+四方の極で示される正方形(方形)が天円地方の「地方」にあたる
前にも淮南子は宗教書だからといってた人がいるけれど、これが中華世界の
世界観の概形なんだよ
だから倭国の朝貢を、司馬懿の功績として顕彰するためにはこの世界の果ての距離が
引用されるのはある意味当然
- 796 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 15:21:03.95 .net
- さて。久々。
>>795
同意。
魏書の編纂を命じた西晋の司馬炎と、
数多の魏書の中から選ばれた形となった三国志の意図とは儒教思想による西晋王朝の正当化。
それはつまり、前漢を滅ぼした新の王莽が行った儒教思想による簒奪の正当化と本質的に全く変わらないし、
後漢時に編纂された漢書と全く同じ。
勿論、倭人の朝見を故事に重ねて儒教的功績とした光武帝の意図とも同一だし、
帯方郡に現れた難升米らを直ちに洛陽へ送った太守と、
多分に事前に倭人の存在を知っており倭人を見つけ次第京都へ送るべしと命じていたであろう司馬懿の意図とも変わらない。
倭人の来訪が吉兆かと言えば、魏の曹氏の前に謁見した筈の公孫氏の滅亡を見ても明らかなように、別に何でもない。
しかし、王莽と同様、儒教的価値観を利用して簒奪を行った魏晋においては王朝の根幹を成す一大事業になり得る訳で。
- 797 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:37:01.20 .net
- >>795
世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
全然世界の果てを万二千里にできてない
- 798 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:46:12.59 .net
- あくまで中華世界の果てだぞ
- 799 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:02:52.22 .net
- >>791
その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。
- 800 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:05:00.32 .net
- そもそも一万二千里は洛陽からではなく、帯方郡からだから、中華世界はもっと大きいことになる。
- 801 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:07:13.09 .net
- >>795
なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。
- 802 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 18:45:22.74 .net
- >>787
長老というのは、東沃沮伝に出てくる耆老(きろう)(老人のこと)のこと。
高句麗王を追走していた王頎が東沃沮の東の海(日本海)にまで至った時に、
現地の耆老に「海の東にまた人ありや?」と尋ねると
人がいるようだと幾つかの話を挙げました。どれも胡散臭い話ですがその中にこういう話があります。
東沃沮伝4
又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。
また一艘の難破船を得、波にしたがいて出づるに海岸辺に在り,一人項(うなじ、首すじ)中にまた面有り、これを生け捕るも,言語相通じず,食べずして死す。
↑この話が下の東夷伝序文に引用される訳です。耆老が長老、項中復有面が異面、海東が「日出づる所の近く」へと表現を変えてます。
東夷伝序文
其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。
長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。
その後高句麗背叛し,また偏師(≒副将)を遣わして討ち致し,窮追すること極遠にして,烏丸・骨都を超え、沃沮を過ぎ、肅慎の庭をふみ、東に大海を臨む。
長老異面の人日の出づる所の近くに有りと説き、遂に諸国を周觀し,その法俗,小大区別,各名號を采り(採録し)、詳紀するを得べし。
この「日出づる所の近く」が引用されて隋書に出てくる倭の国書が作られたと思うと胸熱↓
「日出處天子致書日沒處天子無恙」
因みに長老の話は「沃沮」のwikiの「日本人(倭人)について」に詳しく書いてますよ
- 803 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 19:39:46.66 .net
- 、
【歴史】日本国はいつ誕生したのか 天皇制につながる卑弥呼の統治 学研究所長に聞く★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1521884985/l50
- 804 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 20:13:20.48 .net
- >>802
長老情報ありがとうございます。 これと思います。
挹婁は海賊が日本に来た可能性もあると思ってしっかり読んだのですが
これは話自体の意味が、ちゃんと読めなかったかと思います。 翻訳GJ
縄文の日本海交易はこれ、土人と海賊で黒曜石商売無いんじゃないかな?
日本人も海賊に行ったって感じ。というより海賊でしか生き残れなそう。
米あるって書いてあるね。寒冷地の陸稲?
- 805 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:34:27.21 .net
- >>797
>世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
>全然世界の果てを万二千里にできてない
そういう人にはいつもこう答える
魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬台国まで萬二千里ではなくて
女王国までだってこと 「自郡至女王國萬二千餘里」
この女王国は倭女王卑彌呼の国だから、倭国のことだよ
倭国がざっくりで東の果てにあるっていう表現
この萬二千里と、倭国の国内地理を切り離すと話が見えやすくなる
「倭国のどこかの定点」までが萬二千里ではなくて、或絶或連な洲島之上の国が、
萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ
- 806 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:41:02.46 .net
- >>799
>その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
>あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。
もう一つ、「万里」っていう言い方も好きだから、後漢への朝貢の時に
万里の辺国からの朝貢ってことで、対馬海峡を渡るまでの数字を
万里に合うように作っている可能性を言う人もいるね
対馬海峡の渡海一つは、千里と決まっている固定値だし、それに合わせたんだろう
- 807 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:46:56.65 .net
- >>801
>なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。
帯方郡までに漢土が拡張されているから、中央之極が萬二千里に拡張されている
その外側の東側が東方之極で、その広さ=果てまでの距離が萬二千里でつじつまが合ってるだろ
ついでに言うと、東の果てまで行っているから、水行20+10日、陸行1月は
東の果てを縦に=南に移動しないと話が合わない、って考えたかどうかだ
- 808 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 22:46:58.17 .net
- >>805
倭国まで萬二千里なら対馬まで八千里で到達してることと矛盾してるよ
『女王の東』に千里行った先も『倭種』の国なんだから倭国ではない
やっぱり萬二千里が果てというのと矛盾すると思う
- 809 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:08:52.62 .net
- >>805
>萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ
違うね。
後漢書では、その国との国境から楽浪郡までは7千里と書いてある。
女王がいるところまでは一万二千里。
- 810 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:13:11.36 .net
- 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
- 811 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:04:41.49 .net
- >>808>>809
魏略を見るに東渡海千里皆倭種は、
本来は或絶或連な本土から千里離れているような離島も皆倭種って程度の意味
九州説はこの解釈絶対に認められないけどな
九州説の根幹に触れるから
筑紫島に着くまでが万里だよ
そこから長さが南方向に五千里(周旋五千里)、
幅も含めてざっくりであと二千里で世界の果てくらい
まあ周旋五千里の起点は其(倭の)北岸狗邪韓國でいいのかもしれないけど
7000+5000里で萬二千里になるだろ
その程度の計算だよ
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