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♪邪馬台国ドンと来い!♪135

1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
       ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
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784 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:59:58.77 .net
>>783

厳密ではないが、概ね反時計回りに見えるよ。
あとは、後漢の頃の倭国は対馬海峡・玄界灘と筑紫だけだったので倭奴国が極南界だったが、魏の頃には肥国が倭国に含まれるようになった。

>>773
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

785 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 23:47:27.46 .net
唐津松浦までで一万里だからあと2500里。
往復して近場にちょこちょこ立ち寄れば
周旋5000里だ。

786 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 04:35:09.03 .net
対馬海峡が三千里なら、福岡長崎佐賀で五千里くらいだな。

787 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 14:09:50.53 .net
>>701
見落としてた、スマソ。
こうやって、出展示されると翻訳に反論すんのつらいよねw 
アタチどうせ厨房だし・・・ 小さい声で言っちゃうけど、

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象存 中國失 禮求之四夷 猶信
これの訳文 二つとも 雖 をないがしろにしてないか?

夷狄之邦には(今の中国が)失ったとはいえども、俎豆之象は中国(中華)に在る。
(冊封や朝貢の)礼を(今でも)四夷に求めるべきであると、なお信ずる。
これだと、南=東みたいな違いだけどなあw

長老ってのは、孔子じゃなきゃいかんの?
引用の「吾聞之天子失官,學在四夷猶信」は
もはや中国が失った古き良き政治機構がど田舎の国に残っている、ってホントだね で、
って、孔子だから王様の前で言えるみたいな話でしょ?

魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で
これを偉そうに孔子ぶって説法したら、陳寿死刑にならないか?
まあ、ネットでミスリードの誘導翻訳とは違うけどね・・・

788 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 10:08:19.12 .net
>>76 【東夷伝 序文】 で、いっぺん検討してた。
あの時は、重譯(調査団を度々派遣した)で 
今使譯所通の使譯を通訳にしたら全文の意味がおかしくなると思って掲載したんだっけか?

【東夷伝 序文】結語   >(魏は高句麗追討で)東臨大海 
で、
長老說 有 異面之人 近日之所出
遂 周觀諸國

采 其法俗小大區別 各有名號
可 得詳紀

雖 夷狄之邦
而 俎豆之象 存中國
失 禮求之四夷 猶信

故 撰次 其國列 其同異
以 接 前史之所未備 焉

これで、難解なのは 俎豆之象。
孔子なら、正解は先生に聞けば、すぐ出てくるでしょうが?
これは字面的に、『おまえら、誰のおかげで飯が喰えてると思ってんだ? あん』
と、訳すべきだと思います。 『中国皇帝様が天地創造したからだろ、ゴラァ!』 と。で。

長老説は 長老の言うところの日出処に異面の人有り の諸国を遂に周觀した。
で終わり。 孔子の文言『禮求之四夷 猶信』は無関係。 孔子は中国様に失礼www

倭人伝解読のキーワード
使譯、從郡、歴韓国乍南乍東、丗有王皆統屬、此女王境界所盡、官有、陸行一月、
計其道里當在會稽東治之東、使大倭監之、参問倭地、周旋、黄幢、檄、
かな? これ宿題、試験に出るから、ノート取っといてね^^v

789 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 17:00:36.12 .net
>>787
>魏の東夷に持ってきて、それも皇帝の威信の為の正史で

大陸の正史っていうのは、王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される
だから、晋朝のもとで編まれた三国志で魏朝には徳がなかったって書くのは何の問題もないよ

790 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 19:28:02.31 .net
>>789
魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?

100年近く後の後漢書と違って
佐治の司馬氏が馬鹿王に育てた曹芳は
帝位を司馬炎に禅譲して斉王に収まってんだけど。

これ、曹家に仕えた使譯の梯儁と張政が
司馬王の史書で陳寿に情報提供というか報告してんだよ。

だから、陳寿は最後の評で、
記録できたのは、使を派遣した魏の皇帝の功績だ とたたえてる訳で・・・
だから、後の史書の倭情報は、600年までこれをソースにしてる。

王朝が交代したあとに前王朝史が撰述される は ごもっともなのですが
倭人伝は時代背景を行間に読むべき、ってのはそういうこと。

791 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 22:38:58.29 .net
>>790
>魏朝と司馬氏との関係はそうはいかないんじゃないの?

だからこそ、司馬懿の公孫氏討伐を最大限顕彰するために、倭国の朝貢が持ち上げられているんだよ
だからこそ、倭国までの距離は「萬二千里」でなければならない

この萬二千里は、淮南子に見られる世界の果てまでの距離なんだよ

792 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 23:31:19.48 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

793 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 00:05:54.17 .net
>>791
軍事資料でもある実際の地理探検データを
宗教上の世界観に置き換えることは無いヨ
三国志には魏が王朝独自に作成した地図が存在する背景が見える。
三国に分離し、変動する領土があるということはそういうことである。
筆写だが独自に入手したものの一部東夷を >>467 で、既に公開した。

地球は丸くないようだが、太平洋を知り種子島から小笠原は2万4千里である。
北京から上海、成都を含む中原の方可が同じく、この12月行のようだ。
平面に世界の果ては有るはずだが、
この方可12月行を中原の八方に置いた世界観は
既に魏における宗教ではない、実世界の世界地理となっている。

794 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:14:13.91 .net
>>793
>筆写だが独自に入手したものの一部

邪馬台国ドンと来いじゃなくて、ドン引きだよこれは

795 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 12:40:10.01 .net
>>793
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、これが萬二千余里の基礎になっているように見える
ただし、秦・漢の統一を経て、漢土は方万里に拡大されているけれども
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

これが淮南子:時則訓になると、
東方之極が萬二千里
南方之極が萬二千里
中央之極が萬二千里
西方之極が萬二千里
北方之極が萬二千里という形に整理される
この中央+四方の極で示される正方形(方形)が天円地方の「地方」にあたる

前にも淮南子は宗教書だからといってた人がいるけれど、これが中華世界の
世界観の概形なんだよ
だから倭国の朝貢を、司馬懿の功績として顕彰するためにはこの世界の果ての距離が
引用されるのはある意味当然

796 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 15:21:03.95 .net
さて。久々。

>>795
同意。

魏書の編纂を命じた西晋の司馬炎と、
数多の魏書の中から選ばれた形となった三国志の意図とは儒教思想による西晋王朝の正当化。
それはつまり、前漢を滅ぼした新の王莽が行った儒教思想による簒奪の正当化と本質的に全く変わらないし、
後漢時に編纂された漢書と全く同じ。

勿論、倭人の朝見を故事に重ねて儒教的功績とした光武帝の意図とも同一だし、
帯方郡に現れた難升米らを直ちに洛陽へ送った太守と、
多分に事前に倭人の存在を知っており倭人を見つけ次第京都へ送るべしと命じていたであろう司馬懿の意図とも変わらない。

倭人の来訪が吉兆かと言えば、魏の曹氏の前に謁見した筈の公孫氏の滅亡を見ても明らかなように、別に何でもない。
しかし、王莽と同様、儒教的価値観を利用して簒奪を行った魏晋においては王朝の根幹を成す一大事業になり得る訳で。

797 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:37:01.20 .net
>>795
世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
全然世界の果てを万二千里にできてない

798 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:46:12.59 .net
あくまで中華世界の果てだぞ

799 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:02:52.22 .net
>>791
その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。

800 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:05:00.32 .net
そもそも一万二千里は洛陽からではなく、帯方郡からだから、中華世界はもっと大きいことになる。

801 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 18:07:13.09 .net
>>795
なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。

802 :日本海ルート論者:2018/03/24(土) 18:45:22.74 .net
>>787
長老というのは、東沃沮伝に出てくる耆老(きろう)(老人のこと)のこと。
高句麗王を追走していた王頎が東沃沮の東の海(日本海)にまで至った時に、
現地の耆老に「海の東にまた人ありや?」と尋ねると
人がいるようだと幾つかの話を挙げました。どれも胡散臭い話ですがその中にこういう話があります。

東沃沮伝4
又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。
また一艘の難破船を得、波にしたがいて出づるに海岸辺に在り,一人項(うなじ、首すじ)中にまた面有り、これを生け捕るも,言語相通じず,食べずして死す。

↑この話が下の東夷伝序文に引用される訳です。耆老が長老、項中復有面が異面、海東が「日出づる所の近く」へと表現を変えてます。
東夷伝序文
其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。
長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。
その後高句麗背叛し,また偏師(≒副将)を遣わして討ち致し,窮追すること極遠にして,烏丸・骨都を超え、沃沮を過ぎ、肅慎の庭をふみ、東に大海を臨む。
長老異面の人日の出づる所の近くに有りと説き、遂に諸国を周觀し,その法俗,小大区別,各名號を采り(採録し)、詳紀するを得べし。

この「日出づる所の近く」が引用されて隋書に出てくる倭の国書が作られたと思うと胸熱↓
「日出處天子致書日沒處天子無恙」

因みに長老の話は「沃沮」のwikiの「日本人(倭人)について」に詳しく書いてますよ

803 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 19:39:46.66 .net

【歴史】日本国はいつ誕生したのか 天皇制につながる卑弥呼の統治 学研究所長に聞く★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1521884985/l50

804 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 20:13:20.48 .net
>>802
長老情報ありがとうございます。 これと思います。
挹婁は海賊が日本に来た可能性もあると思ってしっかり読んだのですが
これは話自体の意味が、ちゃんと読めなかったかと思います。 翻訳GJ

縄文の日本海交易はこれ、土人と海賊で黒曜石商売無いんじゃないかな?
日本人も海賊に行ったって感じ。というより海賊でしか生き残れなそう。
米あるって書いてあるね。寒冷地の陸稲?

805 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:34:27.21 .net
>>797
>世界の果ての距離から東にさらに千里行ってるのと矛盾しないか?
>全然世界の果てを万二千里にできてない

そういう人にはいつもこう答える

魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬台国まで萬二千里ではなくて
女王国までだってこと 「自郡至女王國萬二千餘里」

この女王国は倭女王卑彌呼の国だから、倭国のことだよ

倭国がざっくりで東の果てにあるっていう表現
この萬二千里と、倭国の国内地理を切り離すと話が見えやすくなる

「倭国のどこかの定点」までが萬二千里ではなくて、或絶或連な洲島之上の国が、
萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ

806 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:41:02.46 .net
>>799
>その里程で言うと 韓が方可4千里で対馬海峡が3千里になるか?
>あくまで魏の三国志東夷伝での話だぞ。

もう一つ、「万里」っていう言い方も好きだから、後漢への朝貢の時に
万里の辺国からの朝貢ってことで、対馬海峡を渡るまでの数字を
万里に合うように作っている可能性を言う人もいるね

対馬海峡の渡海一つは、千里と決まっている固定値だし、それに合わせたんだろう

807 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 21:46:56.65 .net
>>801
>なら、漢の世界観は良いとして、あくまで帯方郡からの距離の話だぞ。

帯方郡までに漢土が拡張されているから、中央之極が萬二千里に拡張されている
その外側の東側が東方之極で、その広さ=果てまでの距離が萬二千里でつじつまが合ってるだろ

ついでに言うと、東の果てまで行っているから、水行20+10日、陸行1月は
東の果てを縦に=南に移動しないと話が合わない、って考えたかどうかだ

808 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 22:46:58.17 .net
>>805
倭国まで萬二千里なら対馬まで八千里で到達してることと矛盾してるよ
『女王の東』に千里行った先も『倭種』の国なんだから倭国ではない
やっぱり萬二千里が果てというのと矛盾すると思う

809 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:08:52.62 .net
>>805
>萬二千里の彼方の東の果てに、周旋可五千餘里の長さで広がっているっていう認識だよ

違うね。
後漢書では、その国との国境から楽浪郡までは7千里と書いてある。
女王がいるところまでは一万二千里。

810 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:13:11.36 .net
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

811 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:04:41.49 .net
>>808>>809
魏略を見るに東渡海千里皆倭種は、
本来は或絶或連な本土から千里離れているような離島も皆倭種って程度の意味

九州説はこの解釈絶対に認められないけどな
九州説の根幹に触れるから

筑紫島に着くまでが万里だよ
そこから長さが南方向に五千里(周旋五千里)、
幅も含めてざっくりであと二千里で世界の果てくらい
まあ周旋五千里の起点は其(倭の)北岸狗邪韓國でいいのかもしれないけど
7000+5000里で萬二千里になるだろ

その程度の計算だよ

812 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:08:28.97 .net
>>810
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

これが既に恣意的な訳
明らかに魏志倭人伝の引き写しの場所なんだから
その国は「女王国」に対応する
まあ漢代は女王じゃなくて男王だから女王国ではないけれど、要は「倭王の国」
邪馬台国みたいなピンポイントじゃないよ

813 :日本海ルート論者:2018/03/25(日) 00:45:59.31 .net
>>808
計算したら矛盾がある、科学的におかしい、そもそもそういう話じゃないんですよ。
渡海距離が一律千里という時点で既にマトモじゃない訳です。そして千里にした理由は2つ。
1つは魏人が独自に船を出して倭地に行くことが不可能なことを説明するため(千里なんて長距離の渡海は無理でしょ?と思わせる為)。
(渡海距離一律千里と載斯烏越が郡に来るまで難升米への黃幢引き渡しが行われなかった2点で、少なくとも「魏単独の渡海」が不可能だったことがわかる)
もう1つは当然距離を稼ぐためです。

東夷伝序文
及漢氏遣張騫使西域,窮河源,經歷諸國,遂置都護以總領之,然後西域之事具存,故史官得詳載焉。
魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于香A康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不奉朝貢,略如漢氏故事。
漢氏張騫を西域に遣わしむるに及び、河源をきわめ,諸国を經歷し,遂に都護を置きて以ってこれを総領す,しかる後西域の事つぶさに存し,故に史官詳載を得る。
魏が興り,西域に至り尽くすに能わずと言えども,その大國たる亀茲・于香E康居・烏孫・踈勒・月氏・鄯善・車師の属は朝貢を奉らぬ歳無く、ほぼ漢氏の故事の如し。

実績をいかに讃えるか。
西域を回復したことは大きな実績なのに、ただそれを伝えるだけじゃ政治的に意味がない。それで書き方に工夫がしてあります。
張騫の名はあるけど、班超の名が無い。その部下の甘英は2万5千里以上行ってペルシア湾まで到達しているのにそれも無い。実績を讃えるには不要、むしろ邪魔だから。
古代の世界観を引用してその東西の距離の尽きる所まで至っているならば、少なくとも古代の聖王たちに肩を並べることが出来る訳ですね。
周の頃こそ最上、昔の王ほど素晴らしい、というのが儒教的価値観でもある訳だから、その数字に合わせていきたい訳です。

814 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 01:04:00.77 .net
>>811>>813
どっちにせよ世界の果てが萬二千里とは認識してないという話にならないか?
実際の距離がどうだろうが、誰でも簡単に計算できる文面上でも萬二千里よりさらに東の地域があるんだから

815 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 04:29:14.70 .net
そうだよ。
そもそも洛陽から帯方郡まで距離があるのに、女王国まで帯方郡から一万二千里なので、世界の大きさは一万二千里よりはるかに大きくなる。
倭国の中心が九州と認識されていたことを認めたくないから詭弁を弄しているだけだね。

816 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 09:04:25.64 .net
洛陽が始点じゃないよ

817 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:05:13.21 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
古い順から、まずは
T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで

「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社

818 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:07:00.76 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
U天照大神・須佐之男命の世代

「天石門別矢倉比売神社【大社】」 祭神 「天照大神」 比定 天石門別矢倉比売神社(神陵)
「和名佐意富曾神社」 祭神 「須佐之男命か」 比定 和名佐意富曾神社
「忌部神社【大社】」 祭神 「天日鷲命」 比定 忌部神社
「大麻比古神社【大社】」 祭神 「猿田彦命か」 比定 大麻比古神社
「秘羽目神足濱目門比売神社二座」 祭神 「日鷲神と妻神か」 比定 論社あり
「天村雲神伊自波夜比売神社二座」 祭神 「天村雲神と妻神」 比定 論社あり

819 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:08:12.99 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
V国譲りに遣わされた神達と葦原中つ国の神々の時代

「御縣神社」 祭神 「国譲り交渉第一の使者:天菩日命」 比定 豊国神社境内社(神陵跡)
「山方比古神社」 祭神 「第二の使者:天若日子」 比定 経塚大権現(神陵)
「建布都神社」 祭神 「第三の使者:建御雷男命」 比定 建布都神社
「矢桙神社」 祭神 「大国主命」 比定 矢桙神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝浦郡生夷神社
「勝占神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝占神社(神陵跡)
「多祁御奈刀祢神社」 祭神 「建御名方神」 比定 多祁御奈刀祢神社
「天水沼間比古神社・天水塞比売神社」 祭神 「沼江姫の父母神か」 比定 杉尾神社か
「鴨神社」 祭神 「阿遅鉏高日子根命」 比定 鴨神社(丹田古墳が神陵)

820 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:09:09.28 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
W神武天皇の出生と東征の時代

「和多都美豊玉比売神社」 祭神 「海神の娘・豊玉比売命」 比定 西宮神社(和多都美宮跡)
「天石門別豊玉比売神社」 祭神 「天孫三代の后:豊玉比売」 比定 城山東麓(神陵跡)
「宇志比古神社」 祭神 「神武の参謀:速吸の宇豆比古」 比定 宇志比古神社(神陵遥拝地:西山谷二号墳)
「伊比良姫神社」 祭神 「神武天皇の妃」 比定 伊比良姫神社 藍住町徳命が神陵跡
「阿佐多知比古神社」 祭神 「神武天皇か」 比定 阿佐多知比古神社 元の鎮座地は渋野か

821 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:10:16.10 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
続いて
X第十代崇神天皇の時代まで

「御間都比古神社」 祭神 「第五代御間都比古天皇」 比定 御間都比古神社
「大御和神社」 祭神 「御和の神:大国主命」 比定 大御和神社
「伊加加志神社」 祭神 「第十代崇神帝の母:伊迦賀色許売命」 比定 伊加加志神社
「倭大國玉神大國敷神社二座」 祭神 「倭の国を証明する国魂・国敷の神」 比定 倭大國玉神大國敷神社
「天都賀佐比古神社」 祭神 「笠縫邑の大人:笠彦」 比定 天都賀佐比古神社(神陵跡)
「建嶋女祖命神社」 祭神 「孝元帝の妃:埴安比売命」 比定 建嶋女祖命神社
「和耶神社」 祭神 「埴安比売の御子:建埴安王」 比定 羽浦神社に合祀 元鎮座地は能路山(古墳跡)

822 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 10:11:29.49 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
最後に
Y景行天皇から皇極天皇の時代まで

「白鳥神社」 祭神 「日本武尊」 比定 白鳥神社(神陵跡)
「建比売神社」 祭神 「日本武尊の妃:建比売か」 比定 建比売神社
「賀志波比売神社」 祭神 「景行帝の妃:美波迦斯姫か」 比定 津峰神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波市事代主神社
「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)
「速雨神社」 祭神 「皇極天皇」 比定 速雨神社(雨乞神事)

823 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 14:32:27.18 .net
【倭人伝の 邪馬台国 まとめ】邪馬台国 という名称は、魏志倭人伝に一度だけ登場する。

【背景】
倭人在 帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時
>帶方東南大海之中=これは日本列島を意味し、以降の記述 帯方郡南満2千里の九州島と場所が違う
>依山㠀為國邑 舊百餘國漢時=拠って、漢時に金印印綬の倭奴国は倭100国のうちの一つである

有 朝見者 今使譯所通三十國 從郡至倭
魏に朝見者が有ったので、今使譯を通じ30国を知った。その郡使譯に拠る倭への行程を記す。

【張政による倭への行程】
循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
南渡一海千餘里 至一大國 (海域名 瀚海)
又渡一海千餘里 至末盧國
東南陸行五百里 到伊都國
東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里

これは247年 政帳による行程記である。
・張政は遣倭使 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状の際の倭船に同乗、同行で来日の査察者
・官 卑奴母離は現地任命の官ではなく船からの同行者の可能性が高い
・政帳の渡航目的は 因齎詔書 黄幢拝假 難升米 為檄告喩之 である。
難(奴)升米は 奴国大夫 奴王であるため 奴国へ の行程が記されている。
・不彌國はその奴国の隣接であるが、おそらく帰国便の母港と想像する。
帰国は壹與の遣使 巳百支王/伊聲耆 掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺 である。
・政帳は倭人渡海時の持衰を見ている。 
>其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
倭人船所有の大夫=王が変われば、母港も変わるだろう。
末盧國〜伊都国南東500里についても、船の母港や持衰祭祀の都合が優先されると考える。
つづく

824 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 14:35:28.61 .net
>>823 つづき【梯儁による倭への行程】
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

240年梯儁は皇帝の使いで、郡独自に軍船を仕立て魏の役人として
邪馬国の砦 臺に住む 女王卑弥呼に 詔書金印紫綬 を授けに来た。

・里程から日程への変化は陳寿のデータソースの変更を意味する。
・投馬國五萬餘戸 邪馬壹國七萬餘戸 は 倭人船の案内で来た張政の記述が
町や都市、島の単位であるのに対し、梯儁記はある程度の国邑の大きさでの概略である。
・梯儁の行程中に在る国邑は、馬韓、半島南岸の倭人国、女王国の3国である。
・投馬國は半島南岸の倭人国全体、狗邪韓國は帳政が倭人船が立ち寄った港町の倭人地名である。
・ここまで、今使譯所通三十國 の30国が無いので以下で列記する。
・国名は倭人に参問し、梯儁による 当て字の中国語化が行われた。
・邪馬壹も邪馬國も梯儁の命名であり、邪馬国に在った臺を見て全体の国名としたと考える。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
・倭人国は 大夫=国王 であり、以下の個人名は郡での倭使としての奏上で、郡が当て字化したが
・梯儁の当て字に対応して、奴国王 難升米 都支國王 都市牛利 巳百支國王 伊聲耆掖邪拘が比定可能)

其南有狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

・魏と邪馬台国の国交は、238年に始まり、247年に終わっている。と考える。
帳政の視察によって、245年の韓との紛争での 黄幢 檄 に応えなかった
邪馬台国が軍事同盟の価値が無いことを知ったのである。

825 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 15:38:32.83 .net
邪馬台国は都の所在地であり、国号は倭だよ。
帥升や倭の五王と同じ国だ。

826 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 16:54:52.20 .net
>>815
>そもそも洛陽から帯方郡まで距離があるのに、女王国まで帯方郡から一万二千里なので、世界の大きさは一万二千里よりはるかに大きくなる。

>>795>>807を参照のこと
既に丁寧に解説してあるよ
読んでから書き込んでね
反論も歓迎!

>倭国の中心が九州と認識されていたことを認めたくないから詭弁を弄しているだけだね。

きちんと読んでからの反論なら歓迎するけれど、既に書いてある解説を無視するなら
ただの強弁だな
九州説は苦しいね

827 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 18:41:52.95 .net
>>826
長くて読みにくいんだよ!
まあ、言いたいことはわかった。
でも、内訳まで書いてあるので、適当な数字ということもあるまい。

何よりも、一万二千里が世界の果てで倭国の極南界なら、そこからさらに水行陸行を想定するはずがないよ。
あと、洛陽から東に中華の果てまで行って、そこから東ではなく南に行って地の果て??

828 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 20:48:32.31 .net
観念の世界に論理はないよ

829 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 22:31:01.04 .net
>>826
>そこからさらに水行陸行を想定するはずがないよ。

でも、書いてあるんだから無視しちゃダメだろう
数字を書くとおかしいなと思って日数にした可能性もあるんじゃないかな

>倭国の極南界なら

それは後漢書の誤解だろう
>>775>>778ご参照して

萬二千里は「邪馬台国まで」ではなく「女王国=倭国まで」だよ

830 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 22:36:12.10 .net
>>827
>あと、洛陽から東に中華の果てまで行って、そこから東ではなく南に行って地の果て??

東の「地の果て」まで行って、その果ての端っこ(地は方形なのでまっすぐな直線)に沿って
南に行くんだよ

831 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:35:53.60 .net
>>829
>萬二千里は「邪馬台国まで」ではなく「女王国=倭国まで」だよ

感動です! 万二千里から 南水行30日と陸行一月
これじゃ、ムー大陸以外は有り得ないと考えましたが、
『万二千里=世界の果て』の外というのはもはや否定不可能の新説です。
きっと徐福もそこで蓬莱郷を作ってると思います。

倭人伝は宗教書。 邪馬台国論争、意外な完結でした。 
ありがとうございました。

832 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:47:37.86 .net
>>831
>『万二千里=世界の果て』の外と

「世界の果て」に、「その外」なんてないよ
世界の東の果ての子午線(の内側)に沿って、南北に山島が連なっているのが
倭人の領域=倭国のイメージ

833 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 09:50:03.09 .net
>>831
>倭人伝は宗教書

淮南子を宗教書といった人もいるけれど、世界観であって宗教とは違う
倭人伝は、司馬家(司馬懿)顕彰の政治目的を含む書であって、もっと生々しいものだ

834 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 15:14:44.62 .net
福岡で卑弥呼の墓を発見か 魏志倭人伝にある記録とほぼ一致
http://news.livedoor.com/article/detail/14487080/
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/6/7/67ebc_759_6a23357c_8db83767.jpg

835 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 20:47:03.60 .net
>>832
>「世界の果て」に、「その外」なんてないよ
おい、ちゃんと正常に、頭使ってるか? 危ないよ。

これは、イメージの話じゃなくて、
皇帝の命で、魏使の梯儁と言う人が 実際に軍船出して、異国の行軍もして行った、
帯方郡から万二千里の九州北部3分の一くらいの場所に有った女王の砦の話だよ。

その脳内錯乱状態は、実際の探検記に、君の妄想を反映してんだろwww
大航海時代前でコロンブスが居なくても、地の果てが実在しない、って事実は知ってるか?

836 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 21:53:04.63 .net
>>835
まずお前は、淮南子の時則訓を読みなさい

天円地方がなんなのか理解してから出てきなさい

837 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 11:18:01.23 .net
>>835
>大航海時代前でコロンブスが居なくても、地の果てが実在しない、って事実は知ってるか?

論点が理解できていないやつが何を言ってるんだか?
ずっと東まで船で行ったとして、「そこ」までが萬二千里とされるっていう話だ

838 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 22:02:51.45 .net
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。

839 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 07:25:34.16 .net
>>838
>九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。

これは、漢字で書くと「原」だよね
つまり平らなところ
国邑の名前というより、地勢の表現だろう
まあ、山の中に集落の大きいのは作りがたいから、国邑は当然、バル(原)な場所に
作られることになるけれど

そして、このバルという読み方は沖縄のヤンバル(山原)と同じ南方系要素
半島とのつながりはそれほどなさそう
実際、現在九州でバル読みする「〜原」は、宮崎・鹿児島の南九州に多い

828は「後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが(中略)大変大雑把な呼称」と
書いているけれど、「九州では(中略)バルなどを用いる」というのも、同じ程度に
大雑把だと思う

個人的にはクシフルは、クシミタマ(奇魂)の「クシ」に、布瑠の言などの「フル」が
付いたものだと考えている

「布瑠の言」はニギハヤヒの十種の神宝のうちの「比礼」を使うときの呪文

要するにクシフルで、「奇跡」の「顕現」くらいの意味だと思う

840 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:32:10.09 .net
その文脈なら、クシフルは「神(王)の町」でもいいんだよ。
それに福岡県や佐賀県など、九州北部にもハル、マルは沢山ある。
地勢ではなく、環濠集落を意味していると考えられている。
のちの城郭の本丸なども同じ。

841 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:35:34.97 .net
古代朝鮮語で「村」のことだよ

842 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:36:19.58 .net
伊都の高祖宮は、怡土城という山城で、博多湾沿岸の筑紫倭国を抑えるのに適している。
伊都に入る陸路は高祖山を越える日向峠しかない。
この山城が王城として機能して、筑紫日向のクシフル山の高千穂宮と呼ばれたのだろう。

843 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:40:34.11 .net
>>841
そうだね。
環濠集落、都市とも言い換えられる。
少なくともクシフル山は山城なので、ハルに平地の意味はない。

844 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:42:18.38 .net
ググるとすぐに出た。
ハルは九州北部の方が多い。
福岡、大分が最多だ。

ttp://www.shochian.com/harubaru.htm

845 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 08:46:58.46 .net
クシフルも日本語じゃない
亀旨峰と同じ語源だ

846 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 11:04:42.84 .net
>>841
>古代朝鮮語で「村」のことだよ

ただなぁ、基本的に古代朝鮮語が分かる文献って一切残ってないんだよな
「日本の記紀」などに、古代半島の王名などの固有名詞が残っているだけ、
というレベル

三国志の魏志東夷伝韓条にも、フルと読める地名など一つもないだろ?

何々は古代朝鮮語が起源っていうのは、「起源大好きな朝鮮の人」が相当に適当に
音韻が似ているってだけで言っているものが多い

例えば、日本語の「名前(namae)」と英語の「NAME」はアルファベット表記で
一文字違いだし、語感も同じだから「日本語の名前は英語起源の言葉」っていうのと
同じレベルなんだよ

古代朝鮮語の何々が起源っていうのは、基本的に無視していいと思う

847 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 11:33:41.23 .net
朝鮮語が起源と言っているわけではなく、起源が同じ、または倭人の言葉が向こうに伝わった可能性もある。
分布としては、半島でも九州南部でもなく、九州北部が中心だよ。

848 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 12:08:19.99 .net
>>847
>起源が同じ、または倭人の言葉が向こうに伝わった可能性もある。

もう少しあからさまに書けば、
「古代朝鮮語」自体が研究のしようも実体もないものだってこと

だって、一切残っていないんだから!
それを「ある」と言い張っている一部の人がいるってだけ

日本語は、万葉集とか記紀の中の古歌とか、本気で古い日本語が残っているけれど
朝鮮語は古記録が「一切ない」

儒教道徳では、古いもの、起源がえらいってことになっているから、日本語よりも
古代朝鮮語の方が古いって言いたい動機があるんだよ

849 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:00:25.60 .net
>>848
>古代朝鮮語の方が古いって言いたい動機があるんだよ

そんなことは誰も言っていない。
うざい。

850 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:07:15.49 .net
白熱した議論の横らかすみませんが教えてください
万葉集には意味のわからない語があるが古代朝鮮語で読めばわかるとか
枕詞言葉は必要がないのに書かれているのは古代朝鮮語で考えるとわかるという意見がありますが
それについてはどう考えますか

851 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:13:05.78 .net
>>850
古代朝鮮語は復元されてないので
読めばわかるというのは全くの嘘です。

852 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:21:41.27 .net
>>850
>枕詞言葉は必要がないのに書かれているのは古代朝鮮語で考えるとわかるという意見がありますが

単なる思い付きレベルの戯言だよ

>>849のまったく反論できないところを見れば、お察しってやつだ

853 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 13:55:33.97 .net
>>852
そもそもそんな意見に加担していないのだから、反論も何もないだろ。
バカか?

854 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:14:19.88 .net
>>852
そもそも「古代朝鮮語なんてない」のに、クシフルという「日本の地名」の解説に
「古代朝鮮語の村の意味」とか言われたら、失笑するしかないだろ?

>バカか?

とか書いてる時点でお察しだわ

855 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:32:28.24 .net
>>854
俺は古代朝鮮語なんて言っていないぞ。
ふざけるなよ。

856 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:35:38.57 .net
>>855
>俺は古代朝鮮語なんて言っていないぞ。

なら横から口を挟んで火病るなよ

>ふざけるなよ。

汚い言葉を使う人は、それだけでお察しだよなw

857 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:43:09.12 .net
>>856
>なら横から口を挟んで火病るなよ

おまえだけは言われたくないなw

858 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 14:48:23.99 .net
>>849
「うざい。」
>>853
「バカか?」
>>855
「ふざけるなよ。」
>>857
「おまえだけは言われたくない」

お察しだわなw

859 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 15:18:25.87 .net
何を察したの?
電波な人?

860 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 15:28:13.95 .net
>>859
>何を察したの?

「もう少しあからさまに書けば、
 「古代朝鮮語」自体が研究をしようにも、実体も何もないものだってこと」

「古代朝鮮語」とかいうのが出てきたら、トンデモだと思えばいい

っていうのから、話がそらしたいんだな、と

861 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 16:35:01.91 .net
>>837のこれはOKだな?

ずっと東まで船で行ったとして、「そこ」までが萬二千里とされるっていう話だ

862 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 18:00:49.49 .net
内容がない話ばっかりだな

863 :日本@名無史さん:2018/03/30(金) 18:51:49.86 .net
>>862
では、内容のある話を Please!

864 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 19:13:30.36 .net
>>851 >>852

840です
ありがとうございました

865 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:45:08.33 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

866 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:46:51.93 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)

867 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 22:58:08.06 .net
萬二千里は、女王国=倭国までの距離で、観念上の地の果てまで距離という実体のない値だから
邪馬台国の位置を探る上では役に立たないよ

868 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 23:07:23.98 .net
あれも意味なし

これも意味なし

あんたの本拠にゃ鉄器なし住居なし

ピエロくんwキナイコシw

869 :日本@名無史さん:2018/03/31(土) 23:59:43.89 .net
魏略の時点で奴国〜投馬国までの順路すっ飛ばして伊都国から女王国に行ってる
議論の余地のある水行陸行など無視して伊都国の南に邪馬台国がある

870 :日本海ルート論者:2018/04/01(日) 00:05:48.73 .net
萬二千里の真実とは↓
>>186

因みに第一次魏使は伊都までしか来ていないが、
第二次魏使(塞曹掾史張政等)は奴国狗奴国国境まで行った可能性がある
(行っていない可能性もある)。
だが何れにせよ邪馬壹國に辿り着いた魏使はいない。

ただそれだけの話。

871 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:23:30.82 .net
魏帝の下賜品と手紙を卑弥呼のところまで持っていったんじゃなかったっけ?

872 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:54:38.49 .net
>>869
>議論の余地のある水行陸行など無視して伊都国の南に邪馬台国がある

議論の余地のある、ではなくて、九州説には都合が悪いからなんとか無視したい、の
間違いだろう?

大陸からの使者が投馬国や邪馬台国まで行くのは、魏朝になってからだから
情報量が九州までと差がある

それだけのことだろう

873 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 00:57:37.28 .net
漢以前
中国人「九州しか知らない」

魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」


中国人「畿内にも詳しくなった」

めっちゃ自然ですやん

874 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 04:46:51.40 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)

875 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 07:50:11.19 .net
>>873
そうまさにこれ。

畿内説信奉者は
日本書紀古事記の読み込みが足りんやろ。

876 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:13:07.93 .net
ありとあらゆる文献を信用できないと言わないと成り立たない畿内説

877 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:15:23.14 .net
>>875
>畿内説信奉者は

いや、863は魏の時に畿内から卑弥呼の使者が来て、除正使が畿内まで行って
「畿内を知った」ってことだぞ
つまり、これで畿内説は問題なく説明できる

「九州のことばかり書いてあるから九州」っていう九州説の言い分は寝言ってこと

878 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:16:00.34 .net
漢 九州しか知らん
魏 九州の東にも人がいるらしい
隋 九州倭国に阿蘇山
唐 九州倭国の東に日本国があり、倭国を乗っ取った

879 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:20:01.80 .net
>>878
乗っ取られるほどしょぼい九州

880 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:34:32.50 .net
>>877
おお畿内説の人でしたか。むしろよかった。

畿内説の人は九州説の人の根拠
書いてある史料事実も認めない人がいるのでね。

まずは事実を認めるまともな人でよかったです。
解釈は双方ありえるのは当方も認めるところです。

ではこの事実をもとに進めていきましょう。

881 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 11:46:23.75 .net
>>879
白村江で負けたから

882 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 12:02:17.82 .net
白村江で負けて乗っ取られるほどしょぼい九州  

883 :日本@名無史さん:2018/04/01(日) 13:18:13.75 .net
それだけ総力戦だったということだろ。
第二次大戦で負けて乗っ取られている日本と同じだ。

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