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邪馬台国は九州にあった78

1 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 13:06:24.73 .net
前スレ

邪馬台国は九州にあった77 [無断転載禁止]©2ch.net
https://mint.5ch.net/test/read.cgi/history/1481808691/

2 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 13:13:01.72 .net
>>1
前回のスレッドに、レベルの高い考古学者の重要な表明があるね。

8 :日本@名無史さん:2016/12/15(木) 23:09:57.97
はい、ここ注目!
阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からも製鉄の遺構が発見された。二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土ブロックや木炭、熱を受け錆が付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。弥生時代遺跡数約740は日本国内の13%を占める。邪馬台国はこの辺

3 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 13:20:54.68 .net
ねえよ

4 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 13:25:30.56 .net
>>2
鉄の考古学を研究すると、邪馬台国の位置が分かるのではないのかな。。。

5 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 14:39:54.46 .net
無理だな

6 :日本@名無史さん:2018/02/09(金) 15:31:33.43 .net
鉄製品の製作には、

製鉄:鉄鉱石、砂鉄を還元して銑鉄にする
精錬:銑鉄から炭素を適度に抜いて鋼鉄にする
鍛冶:鋼鉄を加工して必要な鉄製品にする

このうち製鉄が一番難しく、1250度以上で酸素が少なく、
一酸化炭素が多い状態をつくり、長時間維持しなければならない。
そのためには温度と酸素を調整できる閉炉が必要。

一般的には製鉄は5世紀以降と言われる。
それ以前は朝鮮半島から鉄素材を輸入していた。

鉄関連遺跡では、製鉄、精錬、鍛冶の遺跡がごっちゃで
全部、製鉄遺跡と表現されていることがあるので注意。

輸入鉄素材からの精錬や鍛冶は弥生中期から日本各地で見られる。

7 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 13:57:16.29 .net
邪馬台国は朝鮮の事

8 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 15:00:43.73 .net
東彼杵

9 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 17:56:32.52 .net
102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ

徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ

聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w

ホント学者は使えねえ

10 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 19:33:46.86 .net
1万%という表現がすでに間違っているわ。数学的にね。

11 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 18:52:08.74 .net
>このうち製鉄が一番難しく、1250度以上で酸素が少なく、
>一酸化炭素が多い状態をつくり、長時間維持しなければならない。

製鉄設備としてはそれほど難しくない。
内容積20リットルの炉があれば製鉄できる。
難しいのは製鉄炉運転のノウハウである。
運転で難しいのは脱水素工程条件。

半島で製鉄炉運転のノウハウを学べば、阿蘇に原料がたっぷりある。
糸島の原料鉄鉱石はチタン含有量が多いので製鉄には不適である。

12 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 18:55:32.51 .net
>>11
水素は、水分が熱分解して出るものなので
たたら製鉄でも、炉を作るときに
乾いた砂を炉の下に厚く敷き詰めますね。

13 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 18:57:00.87 .net
>>11
糸島は七世紀に、高炉24基という
大規模製鉄高炉群が作られていますよ。

14 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 19:02:13.32 .net
糸島はチタン含有量の低い良質の砂鉄が出ると聞いたが

15 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 19:18:22.70 .net
>>12
>水素は、水分が熱分解して出るものなので

水素は原料鉱石中の水酸化鉄に由来するもの。
もちろん炉壁炉底は十分に焼成して脱水しておく必要があります。


>>13
>糸島は七世紀に、高炉24基という
>大規模製鉄高炉群が作られていますよ。

原料鉄鉱石は糸島産のチタン成分の多いものではありません。
7世紀の大規模製鉄高炉であれば、高温の炉温を維持できるので、少量のチタン成分があっても製鉄できます。

16 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 23:13:47.46 .net
原料は半島から運んだのだろう。
ただし炉がそんなにあれば周囲の山はすぐに丸坊主になるので、卑弥呼ののちは内陸に遷都したのだろう。

17 :日本@名無史さん:2018/03/11(日) 09:02:34.21 .net
糸島の製鉄高炉群は8世紀以降まで
使われていた形跡があるので、
炭を各地から買い集めていたのでしょうかね?

実際、あれだけの規模があると
周囲を禿げ山にしかねないとは思います。

18 :日本@名無史さん:2018/03/11(日) 09:03:39.64 .net
元岡高炉群は8世紀には30基を越えていた
という説もあります。

19 :kimiaki harada:2018/03/11(日) 12:14:03.39 .net
著作権は原田 君明にあります。

韓国対馬仏像盗難事件  これが日本に渡来したは、800年〜700年以前の時
鎌倉時代
韓国盗賊は、秀吉朝鮮出兵時に盗まれたと韓国捏造教育に基づいて犯行自供
安土桃山時代 豊臣秀吉 関白太政大臣になったのは400年から450年前である。
時代が300年程前で大きくズレている。
韓国朝鮮において、儒教台頭し仏教が迫害を受けていたらしいですが、
壊される位ならと日本近所に売りに来たと考える方が自然である。
対馬に対し仏像被害返還と賠償支払うべきである。韓国仏像帰国させたいのなら
800年分保管料を支払い謝罪すべきである。収監も要求する。

時にNHK 沖の鳥島 特集などで
韓国 アホ学者気取りが未だに朝鮮先進国気取りを2000年前にしてた虚像を暴く
韓国 前方後円古墳の実態は、任那日本府 後であり
鉄は当時 日本岡山県 備前長船 鉄生産地 からもたらされている可能性にやの
行き着くと思われる。
皇紀は2670年 韓国 前方後円古墳は1世紀  神后皇后時代に近い朝鮮討伐
日本武尊命は関東に鉄を求めて伊勢大名時代に関東・小笠原勢力と同盟に至っている
つまり、3000年から3500年前には、鉄は日本で現地生産されていた。
須佐の男時代に朝鮮討伐あり 森も木もありません不毛大地では、農作物も育たず
戦費を回収出来ませんで面白くありませんと帰国したみたいです。
貨幣経済は平安になってからであり、物々交換主流時代である。 
不毛大地の朝鮮と日本では国力に差があり過ぎて、中国は高い値で売れる方に先に
売りに来る。唐辛子が良い例である。高句麗も中国属国であった太古昔より後進国韓国と
思う。ハングルは15世紀 世宗王を待っても貴族両班弾圧し、農業潅漑設備水路も
日本が併合後に持ち出しで作った位 農業3千年以上遅れていた。
物々交換の時代 金延べ棒 銀延べ棒 鉄延べ棒は貴重であり高価であった
出土品は日本からで任那持って来た鉄延べ棒 =当時お金で差し支えないと思われる。
唐辛子同様に鉄は日本からで朝鮮にもたらされたと考える方が、日本鉄生産と時期
年代はの符号して行くと考えられる。 古代朝鮮優位説等在日コリアンと韓国学者
願望論に過ぎない。

20 :日本@名無史さん:2018/03/11(日) 21:24:27.69 .net
僕たちが愛してやまなかった邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。

21 :日本@名無史さん:2018/03/12(月) 12:01:51.44 .net
2013年、畿内説は破綻しました。。。。

22 :日本@名無史さん:2018/03/12(月) 12:24:15.67 .net
【勧誘】  安楽な生活 Σ(・Д・;)  <大イスラエル帝国>  そのメールを貼り付けた  【公開】
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1520821522/l50

23 :日本@名無史さん:2018/03/12(月) 21:10:08.72 .net
邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。

24 :日本@名無史さん:2018/03/13(火) 09:48:47.03 .net
5世紀以降に日本国内でたたら製鉄が始まるが
7〜8世紀に高炉になってんだな。

25 :日本@名無史さん:2018/03/14(水) 10:03:20.94 .net
つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。

26 :日本@名無史さん:2018/03/14(水) 10:53:19.11 .net
>>24
阿波では発掘が少ないにも関わらず、阿波一国で現在、分かっているだけで6か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「芝遺跡」

九州では弥生時代鉄鍛冶炉遺構は何か所あるのかね?  @阿波

27 :日本@名無史さん:2018/03/14(水) 11:00:20.02 .net
阿波が来たら終わり

28 :日本@名無史さん:2018/03/15(木) 08:06:14.51 .net
初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/

29 :日本@名無史さん:2018/03/15(木) 08:17:49.18 .net
乱立魔岡上、犯行を重ねるな

30 :日本@名無史さん:2018/03/17(土) 13:48:04.32 .net
ドーン真理教とは、唯一神石井を頂点に、教祖唐池、法皇石原、代表青柳、理事田中による宗教団体である

私だ。青柳である。
いよいよ明日諸君らが待ちに待ったダイヤ改正である。
当社鉄道線は特急、新幹線含め赤字削減の為大規模な減便に踏み切るのである。
株主諸君らは感謝してくれたまえ。
尚、「ダイヤ改悪の間違いだろ」や「利用実態を適切に把握してない」などといった不届きな意見を唱えるオタク共がいることを私は知っている。
しかし、車で撮影ポイントにやって来て撮影だけして帰るような当社の利益に全く貢献していないオタクの意見など求めていないのである。
利用者諸君には不便を強いるかもしれないが佐伯-延岡に乗り得普通列車を設定したり区間快速といった新たな種別も運行するので今後の当社に是非期待してくれたまえ!

ドーン真理教総本山 博多シティ鉄道神社に奉納された、
小山和子が贈呈した、オオゲツヒメが封入されているドーンデザインこけしストーリー

石井
真っ赤なボディに、顔は赤い快速気動車ススで薄く汚れているが、
社長自慢のSNCF TGV停車駅に竣工したJR九州MJR・近鉄ローレルのマスター鍵が備えている

田中
真っ青なボディに耳が光の三原色ミッキーMウス、耳を触ると左右に5度触れる

石原
真っ白なボディにモリサワ毛筆フォントLED表示器を金箔で囲っている、顔も極小モリサワ毛筆フォント集合体で描かれている

唐池
真っ黒なボディにつばめをあしらった7つ星ドアがあり、
開けると客室乗務員が遊山箱持参で現れ、うまや特製松花堂弁当が提供されて車内設備品質管理に批評を言う暇もない。

青柳
ソニー出井伸之会長のボディだか、顔を触ればカンブリア宮殿のドヤ顔コメント劇場を再生されて皆GK顔面ブルーレイになってしまう

フリーゲージ責任者
頭とボディが自由自在に取り外し出来るが、差込ピンが直ぐに摩耗して頭が取付出来なくなるが、標準軌近鉄奈良沿線出身なので頭は外れない

31 :日本@名無史さん:2018/03/18(日) 13:37:16.43 .net
JR九州誕生秘話

ドーン真理教の聖典
その名の通り、JR九州が誇る「個性あふれる洗練されたルックスやユニークな仕掛けが満載の列車を資産運用は、ローレル分譲・ルミネ駅ビルから!」誕生までが小説形式で綴られている。

バブル臭と宗教臭と厨二臭がほどよくブレンドされた文章と、
そんな文章をテレビ番組で社長自ら騙るというクソ度胸は鉄道ファンを騒然とさせた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/smp/backnumber/2018/0301/

32 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 08:52:35.03 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

33 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 13:17:35.25 .net
石井幸孝と水戸岡鋭治の、JR九州ワールド
かもめ族、つばめ族、みどり族、有明族、ソニック族

久夛良木健と平井一夫の、プレイステーションワールド→JR九州誕生秘話は
「水戸岡鋭治が面白かったからやってただけ」
http://news.denfaminicogamer.jp/interview/ps_history


JR九州誕生秘話

ドーン真理教の聖典
その名の通り、JR九州が誇る「個性あふれる洗練されたルックスやユニークな仕掛けが満載の列車を資産運用は、ローレル分譲・ルミネ駅ビルから!」誕生までが小説形式で綴られている。

バブル臭と宗教臭と厨二臭がほどよくブレンドされた文章と、
そんな文章をテレビ番組で社長自ら騙るというクソ度胸は鉄道ファンを騒然とさせた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/smp/backnumber/2018/0301/

34 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 00:05:10.85 .net
@邪馬台国は北部九州にあった。

A邪馬台国は筑紫平野東部内陸にあった。

B邪馬台国は北野地域から八女地域にあった。

C邪馬台国は4ヶ国連合国であった。

D4ヶ国は、朝倉・小郡・久留米・八女にあった。

E卑弥呼は久留米にいた。

F女王國の中心地は久留米であった。

G女王國は筑紫平野ほぼ全域であった。

H女王國を構成する国々は、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国である。

I奴國は佐賀平野中部西部にある。
 不彌國は吉野ヶ里遺跡である。
 投馬國は筑後平野沿岸部、現佐賀平野東部から大牟田までの地域である。
 邪馬壹國は前述のとおり筑紫平野東部内陸部である。

35 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 03:56:33.68 .net
以上ひとことも理由言わず

36 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 08:18:33.42 .net
女王国は伊都国、奴国、不弥国で構成される。
又の名を邪馬台国。
投馬国は含まれない。

37 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 17:26:05.36 .net
伊都國は、郡から11900餘里にあるから、
郡から女王國まで12000餘里に反す。
伊都國は女王國の100里手前にある。


邪馬台国は女王國の中の一国である。
邪馬台国に卑弥呼が居る。

38 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 17:27:24.66 .net
Yahooトップにも記事が出たのに全然盛り上がらんな

39 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 17:30:31.67 .net
>>38
なにが?

40 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 17:40:20.30 .net
>>39
九州で卑弥呼の墓発見か?という記事

41 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 22:04:52.34 .net
古墳ぽい山なんていくらでもあるから
弥生時代の出土物が古墳の副葬品なのか、
ただの山に弥生集落があっただけなのかは、
今のところわからんな。

弥生集落の遺物なんて、北部九州なら
どこからでも出てくるからな。

42 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:27:06.90 .net
逆に、200回掘っても建物数棟しか出ない纒向が異常。

43 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 02:15:31.21 .net
もうさあ、なんか新しい遺跡(かも)
が見つかる度に
「卑弥呼」かも「邪馬台国」かも
って煽るのやめてくれねえかなあマスゴミ。

44 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 01:18:06.51 .net
@邪馬台国は北部九州にあった。
 水行10日(11400里)陸行1月(1000里)は、帯方郡領域から邪馬台国城柵までの行程。

A邪馬台国は筑紫平野東部内陸にあった。
 行程文章地図では7万戸(28万人)を養えるのは筑紫平野しかない。
 
B邪馬台国は北野地域から八女地域にあった。
 筑紫平野内陸部で7万戸(28万人)を養えるのは北野地域久留米地域八女地域である。

C邪馬台国は4ヶ国連合国であった。
 邪馬台国には長官1名と次官3名がいるが副官はいない。

D4ヶ国は、朝倉・小郡・久留米・八女にあった。
 遺跡の濃密地域。

E卑弥呼は久留米にいた。
 卑弥呼は大宰府の南方のヤマタイに居た。

F女王國の中心地は久留米であった。
 卑弥呼は女王國の邪馬台国の城柵に住んでいた。

G女王國は筑紫平野ほぼ全域であった。
 女王國でないのは筑紫平野で伊都國城柵(佐賀市大和町惣座)だけである。

H女王國を構成する国々は、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国である。
 郡より12000里以上離れた国々。

I奴國は佐賀平野中部西部にある。
 不彌國は吉野ヶ里遺跡である。
 投馬國は筑後平野沿岸部、現佐賀平野東部から大牟田までの地域である。
 邪馬壹國は前述のとおり筑紫平野東部内陸部である。

45 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 16:51:06.17 .net
筑後周辺だけでも、有力な遺跡群がたくさんあるので
有名どころだけで議論するのは危なっかしいな。

46 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 23:31:33.22 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

47 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 10:27:40.96 .net
田川市で前方後円墳らしきものが見つかる
→ 卑弥呼の墓
ここに邪馬台国があった

というニースを見ると不思議に思ってしまう
そもそも卑弥呼の墓は前方後円墳ではないだろ
卑弥呼の墓は円墳だろ

48 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:14:38.73 .net
キナイセツによると、後円部が先に作られたので、作られた当初は円墳と認識されたんだとw

49 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 17:04:55.72 .net
>筑後周辺だけでも、有力な遺跡群がたくさんあるので
>有名どころだけで議論するのは危なっかしいな。

ここは掲示板で会って、締め切りも期限もないんだから、
たくさんの遺跡群を順に検討していけばいいんだよ

まあ、箸にも棒にも引っかからないのが多いけれど

50 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 21:20:40.13 .net
箸にも棒にも引っかからない、、、すなわち、巻向

51 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 21:21:08.59 .net
>>1
前回のスレッドに、レベルの高い考古学者の重要な表明があるね。

8 :日本@名無史さん:2016/12/15(木) 23:09:57.97
はい、ここ注目!
阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からも製鉄の遺構が発見された。二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土ブロックや木炭、熱を受け錆が付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。弥生時代遺跡数約740は日本国内の13%を占める。邪馬台国はこの辺

52 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 23:58:11.74 .net
既知害必死だな

53 :日本@名無史さん:2018/03/26(月) 05:39:57.92 .net
>>51
狗奴国だよ。

54 :日本@名無史さん:2018/03/26(月) 10:01:06.85 .net
>>51
>邪馬台国はこの辺

その辺も特に畿内様式土器が多く出る地域だよね

55 :日本@名無史さん:2018/03/26(月) 10:34:40.79 .net
日本国籍を持たない「市民」の方たちが、半島に近いところに
日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって言いたいから

らしいよ

56 :日本@名無史さん:2018/03/26(月) 14:29:34.72 .net
>>54
畿内の奴婢が連れてこられただけ

57 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 01:17:17.31 .net
産経新聞が好みそうな「日本スゲー」論だけど、「卑弥呼が倭の国家連合の女王で
纏向邪馬台がその首都」とか吹きすぎだろ > 纒向学研究センター

 古代史の“七五三論争” 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治
 http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n1.html

 > 「飛鳥時代が国家の始まりともいわれるが、決してそうではない。日本国が
 > いきなりできたのではなく、卑弥呼の時代には原型ができていた」と指摘するのが、
 > 纒向学研究センターの寺沢薫所長だ。
 > 寺沢さんは邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)を調査し、
 > 弥生時代から古墳時代への変遷など、国家形成について研究している。
    :
 > 魏志倭人伝は、卑弥呼のいた場所についてこう記している。
 > 「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、そうではない。邪馬台国を含む
 > 倭国全体の女王。居住していたのが邪馬台国」と寺沢さん。
 > そのうえで、「纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された
 > 大型建物で政を行い、倭国の首都だった」と指摘する。
    :
 > 寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、
 > 「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。
 > これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。
 > そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら「日本」と
 > 名乗るようになった。
 > 太陽が昇る「日出する国」「日の本の国」として、中国をはじめとした
 > 東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。

58 :kimiaki harada:2018/03/28(水) 00:59:05.96 .net
原田 君明に著作権あります。

魏志倭人伝で邪馬台国やまたいこく

九州統一以前 大和朝廷大名時代

一つ目
近く国から邪魔な大国  邪魔な台地ある国  大和台国 やまたいこく
周辺国から女が王を勤める嫌な大国意味 呼ばれてた悪評をそのまま記録した可能性と

2つ目
あの国の名は 、何て名前です?聞かれ 九州人が方言全開で
あれは〜「大和ったい!!」  大和台地の国?ってこと?
邪魔な大国なんだけどね。(笑) 「大和ったい!!」九州弁が全開?・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
邪馬台国???????
第179代目番目  神武天皇  皇帝即位 2470年 歳月  大和王朝
第304代目  明仁陛下  王暦2470年+皇紀2670年
大和台国  5140余年
ないし 九州弁外して 「 大和国」 5140余年になるか?

時に事実は小説よりも奇也
奈良大和は遷都して皇帝即位から2670年
佐賀大和建国 5140年 福岡→出雲→ここで勢力拡大一気に進み伊勢
天照大神 弥生戦国武将なんですね。

59 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 01:47:37.04 .net
金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるか。

繋がります。
和邇氏はトヨから始まります。

    事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津
     ┃            ┃
   大御気主          孝昭
     ┃            ┃
    阿田賀田須      天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)

60 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 22:03:19.64 .net
筑紫日向伊都国の天孫族が保有していたはずの八咫の鏡を、神武は持っていなかった。
饒速日との対面では天の羽羽矢を見せて身分を明かした。
では倭国の王権の証とされた八咫の鏡は誰が持っていたのか?

3世紀に卑弥呼とともに平原遺跡に何枚かが副葬された。
壹與は肥前河上神社の祭神となった。
4世紀には筑紫の女王である神夏磯姫が八咫の鏡を所有していた。
その孫の田油津姫は筑後から筑豊を支配していた。
彼らは肥国から進出して筑紫を支配していたのだろう。

61 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 05:36:41.23 .net
邪馬台国は半島にあり!日本は属国の身分だった!

62 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 06:29:07.62 .net
>>56
奴婢は倭人ですよ。畿内からのは生口。

63 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 07:25:58.27 .net
>>61
明らかに対馬海峡を南下したところにあるよ。
九州だ。

64 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 09:54:21.19 .net
>>61

オマエは妄想捏造既知外のチョン

65 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 12:20:48.15 .net
>>63
>明らかに対馬海峡を南下したところにあるよ。
>九州だ。

明らかに対馬海峡を南下すると倭国に着くよ
九州は倭国の一部だから間違ってない

66 :日本@名無史さん:2018/04/04(水) 16:04:31.55 .net
>>61
>邪馬台国は半島にあり!日本は属国の身分だった!

オマエは妄想捏造気違いのチョン

67 :日本@名無史さん:2018/04/08(日) 04:23:03.22 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic

68 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 03:27:01.71 .net
海上部族である天津神が出雲を攻略して陸上の支配権をも奪ったのが出雲の国譲り。
かくして筑紫の日向に倭国統一政権が誕生したわけです。
ただしこの時点では倭国はまだ筑紫と出雲くらいで、しかも中国と交渉するのは筑紫だけ。
だから金印をもらうのも筑紫だけ。
中国からの使いが来ても駐在するのは筑紫だけ。
倭王がいるのも当然、筑紫。
倭王である高祖日向三代がいたのは筑紫の日向、伊都国と奴国を含む福岡県西部の博多湾沿岸、高祖山がある日向地区。
倭王である卑弥呼も例外ではない。

69 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:27:08.85 .net
九州説スレは過疎ってるな

まあ、九州説の人が≒0だから当然っちゃぁ当然だけど

70 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 12:27:42.01 .net
妄想乙

71 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 13:14:40.50 .net
事実過疎

72 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 13:16:46.97 .net
九州説が正しいから議論することないんだよね。
各論にすぎない

73 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 15:10:18.09 .net
これ 名無し募集中。。。 04/28(土)22:21 ID:0(68/160) AAS
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0

74 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 15:27:54.80 .net
奈良の豪族や権力者は裸で生活?
葉っぱで隠してたか、アマゾン原住民と同じ裸族
権力者くらい絹で包んで埋葬しろよ

75 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 15:31:03.08 .net
奈良に絹はなかったからなあ。
卑弥呼は国産の錦を輸出して魏からも錦をもらったのに、奈良に絹はないんだよなあ。

76 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 18:57:29.43 .net
昨日の世界ふしぎ発見でも九州説なんてなかったことにされてる
バラエティ番組が唯一の拠り所だった九州説には厳しい現実が突きつけられた

77 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 21:09:26.68 .net
>>73
三角縁神獣鏡って500枚くらい
出てなかったか?

奈良以外の県が多いのかな?

78 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 02:07:31.53 .net
>>77その鏡は国産品なんだよ
本当に価値のある鏡は中国からもらった鏡
当時交流のあった証

志賀島の金印も有名だか
親魏倭王の銅印も興味深い
中国にあるんだよな

79 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 06:47:51.80 .net
また九州トンデモ説が、いい加減なこと言っているな

80 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 11:06:13.44 .net
親魏倭王の銅印は中国にあるよ
役目を終えたら金印銀印を返すのが本来の通例だよ
なぜか親魏倭王の銅印は福岡の博物館で展示されてた
興味ある人は検索してみ

81 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 11:11:25.32 .net
九州説のガセネタはもう飽きた

82 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:32:08.70 .net
〇これまでのまとめ

卑弥呼・台与の一族が後の王権に繋がる(日本の神話に登場)

女王のシャーマニズムの名残が後の天皇家の宮中祭祀(後漢書:鬼神道能以妖惑衆)

邪馬台はヤマトと読み中国人の当て字 (日本人がmachineをミシンと呼ぶように)

邪馬台国はヤマト王権の前身(いきなりヤマト王権が登場するのは不可能、アメリカも13州からスタートした)

邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした(近畿〜九州北部かけて物証がある)
https://i.imgur.com/kSa35lq.jpg

邪馬台国発見(邪馬台国連合は次第にヤマト王権へ変貌していった、卑弥呼の出身部族のヤマトの名称が引き継がれた)
https://www.youtube.com/watch?v=lCefJ4319b8

83 :日本@名無史さん:2018/05/06(日) 21:24:54.64 .net
倭の最初に記録された人名は筑紫にいた帥升、卑弥呼の時代は筑紫伊都に大率(率は帥と同じ)、景行天皇の時代に筑紫の梟師、その後は筑紫太宰の帥。

84 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 13:55:49.08 .net
>>83
それ人名じゃないだろw

85 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:10:39.85 .net
クリスタルセイント?

誰だったかな、師匠だと言っていたり

86 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:12:10.99 .net
ヒドラ(市)

大蛇、龍??キングギドラ

87 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:22:25.88 .net
ヒドラの市?キングギドラの話なのかな、
むかーし発電、電気を起こしていたという話

88 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:30:42.21 .net
>>84
正確に言えば人名ではなく役職名かもね。
しかし、一般的には人名だと思われている。

89 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:32:40.60 .net
>>89
最初の師升だけだろ

90 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:35:04.64 .net
帥升も役職名なのかもね。

91 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:46:48.97 .net
それと、あのパトラの画像、
白蛇のような飾りとか

何か知っている人がいるのかな

92 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 14:55:29.26 .net
ヒドラ、ヒュドラーのwikiなどを読んでみて

>松明の炎で・・・・・と書いてあったり

松(もみ)の木?

93 :日本@名無史さん:2018/05/08(火) 15:01:31.53 .net
この話をしてるの?
『バトシーラー つちわらし』

94 :日本@名無史さん:2018/05/09(水) 23:52:08.95 .net
対馬から壱岐が約千里
壱岐から東松浦半島に寄り上陸せずに(末盧国)沿岸を進み糸島半島の付け根まで行くと約千里
そこから上陸して福岡平野に出て太宰府付近(伊都国の中心)まで約五百里
そこから東南に約百里進み(奴国の東端)
さらに東に約百里進むと筑後川の支流に当たる(不弥国)
そこから筑後川に出て水行し、さらに有明海に出た後で上陸して陸行すること合わせて約千三百里で熊本に着く(邪馬台国)

方角が南とあるのは奴国から見てのことで、奴国は筑後平野の北側を広く治めており
奴国+伊都国はかつて後漢時代に金印を貰った委奴国であった

投馬国は筑後平野の南側、狗奴国は鹿児島〜宮崎南部あたり


一里が何キロとかあまり考えずに比率だけで考えた
あと水行陸行の日数は無視したw

95 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 11:00:51.03 .net
>>94
それなんか意味あんの?

96 :日本@名無史さん:2018/05/25(金) 18:20:23.28 .net
>>94
>太宰府付近(伊都国の中心)

これだけでもう、無理だろ?

97 :日本@名無史さん:2018/05/25(金) 19:47:50.59 .net
>>94
短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。

98 :日本@名無史さん:2018/05/25(金) 21:04:24.39 .net
>>97
>短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。

短里なんてないけどな

99 :日本@名無史さん:2018/05/26(土) 16:50:52.75 .net
>>97
>短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。

「水行」さんのことも忘れないで上げてください!

100 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 15:29:11.02 .net
それは全体の日程。

101 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 16:44:05.71 .net
邪馬台国筑紫説という名称の方がいいかもしれない。

102 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 18:52:20.90 .net
>>99>>100
>残り千里余りを陸行すれば太宰府

短里なんて言い出すから、大宰府まで1月もかかるとかいうバカな話になる

103 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 18:57:28.41 .net
そこは1日の誤り。
魏志倭人伝で唯一の書き間違い。

104 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 19:44:44.75 .net
>>103
>そこは1日の誤り。
>魏志倭人伝で唯一の書き間違い。

本当に都合がいいな、おいww

その前に、伊都国は糸島平野でいいんだろ?

だったら、末慮国をどこにおいても、どうやっても
「東南」陸行にはならないぞ
月が日の間違いで、たった一つの唯一の間違いって言っても、
実際他にも、現実に合わない部分がある

投馬国はどこなんだい?
卑弥呼の墓はどれ?

105 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:27:23.50 .net
http://www.youtube.com/watch?v=NNPSu0QAGxU       

http://www.youtube.com/watch?v=Xg_98rRb6cA      

        

106 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:28:31.64 .net
https://blog.goo.ne.jp/anti_souka/e/111ecf41a5d5b3b0161173ca86513396         

107 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 12:59:31.96 .net
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

108 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 13:00:09.47 .net
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。

そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。

考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。

109 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 13:05:48.40 .net
関係ないから、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ

卑弥呼(後に何という名前になるの?例えば名字)
というのは、どこに住んでいるの?

110 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 13:14:18.64 .net
例えば

戦国時代の武将などがいるでしょ、
某氏の末裔

いま(現在)どこに住んでいるの?
みたいな話

その人(家の末裔)の談こそが真実、
家の系図、偽造、嘘などを付いていなければの話

111 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 13:15:11.15 .net
呟きが畿内説の荒らしであることがよくわかるレスでした。

112 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 13:53:13.74 .net
>>108
>考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。

と言いながら、倭国に相応しい弥生集落遺跡群が博多湾沿岸に無いという落ち。  @阿波

113 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 19:43:02.59 .net
考古学は遺蹟から検証するしか
ないんだろうけど、実際どの時代においても
人が生活しやすい場所は共通するだろうし、
たとえば邪馬台国の都があった場所に
ずっと人が住み続けてるとしたら
今はどこかの大都市な訳で、
遺跡も破壊というか
後世の開発されてたら何にもない
というか発掘できないなと
素人の俺が思うにその辺はどうしてるんですか?
素朴な疑問です。

114 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 20:45:34.02 .net
九州説スレで聞いても誰もまともに答えられんと思うが

115 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 20:54:05.30 .net
>>113
福岡のことですね、わかります。

奈良のように、もともと交通の弁が悪かったので今では寂れているので200回も掘ったけど、めぼしいものが何も出なかった纒向遺跡のような例もありますが。

116 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 21:10:22.23 .net
>>113
>たとえば邪馬台国の都があった場所に
>ずっと人が住み続けてるとしたら
>今はどこかの大都市な訳で、

今でもずっと邪馬台国のあったところで住み続けているけれど
奈良へ遷都したからね。 だから、残念ながら大都市じゃない。
もっとも、奈良も京都も遷都したから今は大都市じゃないでしょ。  @阿波

117 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 21:21:48.21 .net
しかしまあ、本命とも言える平原遺跡がちゃんと発見できたのは運が良かった。
他の王墓の中には、須玖岡本遺跡のように宅地開発に飲み込まれたものとかもあるからね。

118 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 21:26:42.41 .net
博多遺跡群や比恵、那珂遺跡群も
ものすごい出土量ですね。

弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡なので
出土遺物は万を超えます。

それでもほとんどはまだ埋設保存のままだとか。

119 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 21:29:06.89 .net
建設工事の基礎を作る部分だけ発掘し
それ以外はそのまままた土をかぶせて
舗装したそうです。

120 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 21:51:40.97 .net
>>118
>考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。

と言いながら、倭国に相応しい弥生集落遺跡群が博多湾沿岸に無いという落ち。  @阿波

121 :日本@名無史さん:2018/07/05(木) 23:02:03.86 .net
博多は奴国です
これは確定してます
今後博多からどんなに凄いものが出土しても、そこは奴国であって邪馬台国ではありません

122 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 07:11:18.20 .net
>>121
奴国は「田川辺り」ですよ。  @阿波

123 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 09:24:53.37 .net
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊  
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。  @阿波

124 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 09:53:03.19 .net
>>123
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。  @阿波

125 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 19:34:43.97 .net
>>121
七万戸の国邑が国内にない以上、邪馬台国は複数の国邑を含む地域の総称だよ。

126 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 19:36:23.85 .net
住居や工房がびっしり並ぶ奴国ですら二万戸だからな

127 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 19:58:10.41 .net
>>125
>七万戸の国邑が国内にない以上、邪馬台国は複数の国邑を含む地域の総称だよ。

そうだね。  @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

128 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:13:11.42 .net
>>125
その通り
でも邪馬台国の中に伊都国や奴国があるとかいうトンデモはなし

129 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:18:40.04 .net
その通り
鉄器の普及していない毛人地域が邪馬台国に含まれるというトンデモはなし

130 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:27:59.51 .net
楽浪土器が出ない地域も除外。

131 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:28:17.13 .net
鉄鏃が出ない地域も除外。

132 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:29:50.45 .net
丹が出ない地域は?  @阿波

133 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:45:27.79 .net
日本の国が鉄器が普及してなかった奈良から統一されたことを知らないやついるのかよ
小学校で習ったはずなんだが

134 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:48:00.91 .net
日本の国が鉄器が普及した後の奈良から統一されたことを知らないやついるのかよ
小学校で習ったはずなんだが

135 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:56:56.97 .net
>>133
何百年後のことだと思っているんだよ。

136 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:58:14.57 .net
記紀を読んだか?
筑紫から大和に鉄鏃の弓矢を持ち込んだんだよ(天羽羽矢)。

137 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 20:59:05.04 .net
>>135
ヤマト王権は3世紀前半には誕生している
教科書くらい読め

138 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:00:46.98 .net
年代詐欺

139 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:02:15.02 .net
>>137
3世紀前半の畿内に何かあったか?
しょぼい遺跡があっても、邪馬台国とは関係ないぞ?

140 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:03:01.56 .net
>>137
何処の教科書?

141 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:07:04.74 .net
だいたい、カタカナ言葉を持ち出すときは、詐欺に気をつけないといけない。
言葉巧みに嘘を捻じ曲げて通そうとしている時だ。

142 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:09:07.80 .net
>>140
山川

143 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 21:17:24.52 .net
山川も落ちぶれたな

144 :日本@名無史さん:2018/07/07(土) 12:56:17.18 .net
だれかが下記のようにおっしゃってたな
これこそ、2〜3世紀九州の原国家・原勢力地図だったのだろう。
ここから倭人伝の世界は始まった。言い換えれば、日本神話は始まったのだ。

伊邪那岐 →伊都・邪馬台・奴(那)・岐(壱岐)、

伊邪那美 →同上+不彌(美)

145 :学術:2018/07/07(土) 13:41:48.14 .net
低宗派なんて迷惑だろ。公式情報を汚して。

146 :学術:2018/07/07(土) 13:42:24.96 .net
オウムの亡霊ももういなくなるだろうか。

147 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 13:50:26.61 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

JBD

148 :日本@名無史さん:2018/07/14(土) 00:45:17.06 .net
アゲ

149 :日本@名無史さん:2018/07/14(土) 16:32:38.66 .net
九州説の人は、こういう九州説スレで議論すればいいのに

めちゃくちゃ過疎ってるけどさ

150 :日本@名無史さん:2018/07/14(土) 19:52:14.08 .net
九州説同士はあまり異論もなく、平和に終わる。

151 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 15:05:24.35 .net
奴国は博多湾側と有明海側と二つの国が合併したか分裂したのだろう。
全盛期には玄界灘と有明海を支配していたのだろうが、
魏志倭人伝の邪馬台国には有明海側の奴国(筑後)が出ている。

152 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 16:32:21.27 .net
帥升王の氾濫によって、奴国は博多湾側と有明海側と二つの国に分裂したのだろう。

全盛期には玄界灘と有明海を支配していたのだろうが、
魏志倭人伝には有明海側の奴国(肥前 女王國を構成する国)
と博多湾側の奴国(筑前 其余傍国である1世紀の倭奴国)が出ている。

153 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 18:27:02.55 .net
博多湾側の国が筑紫、有明海側の国が肥国ですね。
後漢書では博多湾の奴国が倭国の最南端ですが、魏志倭人伝では南側に肥国の狗奴国(熊本)が登場するので、倭国が拡大しています。
その混乱が倭国大乱でしょう。
筑紫の天孫族がいなくなった後に卑弥呼政権が樹立されるので、卑弥呼は肥国の出身でしょう。

154 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 19:32:08.25 .net
>>153
>博多湾側の国が筑紫、有明海側の国が肥国ですね。

そのように考えると、
1〜3世紀ころの激動する倭国の模様が時系列的に読み取れるような気がする。
そして、新興の卑弥呼・肥国勢力は、魏王朝の誰かと何らかのえにしで結ばれていたの
ではないか
であればこそ「親魏倭王」として、優遇されたのであろう。??

155 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 20:06:22.44 .net
魏ではないでしょう。
魏は卑弥呼王権の正統性を当初は疑っていたように見える。
可能性があるとしたら、呉など南方でしょう。
そもそも倭人は後の末裔を名乗っていたこともあるし、北方民族(扶余、百済)と関係していた筑紫に対して、呉を起源とする肥国が勢力争いしていたら?
筑紫王権の末裔である天皇家の史書から、卑弥呼を含む肥国王家が抹消されたと考えるのは自然なことです。
さらに、伊都に行き倭国全体の女王となった卑弥呼と、肥後熊本にいた卑弥弓呼が「素より不和」というのは、もともと同じ一族で家督争いをしたからでしょう。
倭国大乱の複雑な構造が見えてきますね。

156 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 20:15:58.80 .net
卑弥呼の次の女王である壹與が肥前河上神社の淀姫なら、筑紫と肥国の両方を統合する女王だったでしょう。
さらに次の女王であった神夏磯姫は、景行天皇の協力を得て豊国も平定しています。

その後に神功皇后と愛人の武内宿禰が、肥国の田湯津姫、豊国の仲哀とその息子たち、筑紫の羽白熊鷲を倒して、九州北部を再統一して応神朝が成立したのです。

157 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 08:13:23.31 .net
話題にする人は少ないようだが、
卑弥呼時代の倭国は、帯方郡との関係でとらえる必要を感じる

そおそも魏代の倭人伝は、帯方郡治下の東夷倭国を描いているのだからね

158 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 08:17:08.33 .net
その通りです。
楽浪帯方の土器が出ない地域(例えば纒向)は邪馬台国ではありません。
考古学的にも邪馬台国は九州で間違いありません。

159 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 08:49:09.26 .net
>>158
>考古学的にも邪馬台国は九州で間違いありません。

考古学(集落遺跡群)的にも邪馬台国は九州でありません。  @阿波

160 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 13:21:26.90 .net
遼東・公孫氏の歴史・・・帯方郡を置いて韓・倭を支配

189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命され、朝鮮半島の北端である楽浪郡や、山東半島まで勢力を伸張した。
204年には、嫡子の公孫康が楽浪郡の南に「帯方郡」を設置し、韓や倭を勢力下に置くに至る(『魏志韓伝』)。
半独立を果たした公孫氏一族も、曹操により再び後漢の勢力が強まったため、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。後継には弟の公孫恭が立った。

228年には公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。
当時は後漢が崩壊し、魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていた。公孫淵は隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と密かに同盟・独立を謀っていた。

236年、公孫淵は魏に反旗を翻して、燕王を称し、翌年には、魏との軍事衝突となった。公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けた。
しかし238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、消滅した。

161 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 16:05:46.75 .net
倭国における卑弥呼の共立は、
新たに帯方郡を開いた公孫康の、初仕事であり、
倭国における傀儡政権の樹立とでもいうべき政治工作たのではないか、、、

162 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 20:11:37.05 .net
倭国の成立に、大陸や半島を絡めなくてもいいだろ

卑弥呼の共立がきっかけと考えられる祭祀の統一⇒前方後円墳の広範囲の築造開始からみて、
前方後円墳が倭国オリジナルである以上、帯方郡の傀儡とかは考えなくていいよ

163 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 20:33:23.17 .net
>卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。

卑弥呼の墓は「冢」であり、「冢」とは韓伝統のとんがりぼうしのごとき素朴な住居のことである。
数々の副施設を伴う華麗な「墳」ではない。
さらに、形状が複雑進化して大和で発展した大規模前方後円墳でも、もちろんない。

なお殉葬は、古来、東夷族の風習であったという。


164 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 22:04:03.69 .net
>>162
帯方郡との関係なくして説明できるわけがない。
畿内はまだ3世紀には半島や大陸との密な交流がなく、邪馬台国とは関係ない地域だよ。

165 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 07:48:08.05 .net
倭人伝中の「邪馬台国」は1か所だけだ。
しかし、「郡」および「郡関係者」の登場は10か所〜もある。
これは、明らかに郡と倭国の関係を事細かく記述し、後世に残そうとしたものなのである。

・在帯方東南大海之中、
・従郡至倭、
・自郡至女王国万二千余里。
・詣郡、求詣天子朝献
・帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、
・装封付帯方太守假授。
・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国
・其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
・其八年、太守王頎到官。
・烏越等詣郡説相攻擊状

166 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 09:57:13.39 .net
>>165
>これは、明らかに郡と倭国の関係を事細かく記述し、後世に残そうとしたものなのである。

おいおい、魏志倭人伝って書かれることが多いけれど、三国志魏書(魏志)の一部であって、
三国志は大陸の正史だ
大陸の出先(帯方郡)や、大陸の役人のことが書いてあるのが当然

何を寝ぼけたことを言ってるんだかw

それに邪馬台国は1ヶ所だが、女王、女王国、倭国はいっぱい書いてあるじゃないか

167 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 13:01:06.63 .net
>>166
そのとおりだ
その当然なことを、読みも理解もしないで、
あーだ、こーだ、帯方郡は関係ない・・・、などという輩が少なくないからなww

ひでーのになると、倭人伝は、記紀・風土記と共に、大和朝廷が編纂監修したみたいに思ってるトンカチがいるし・・・。

168 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 13:18:37.74 .net
ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。

そうでないのが、畿内だ、大和だ、桜井だ、アワワ・・・、
などと喚き散らすのだろう。

169 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 13:44:24.57 .net
>>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。

ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから倭国(阿波)になるわな。

なんせ、「カネガ谷遺跡」
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%CC%C4%CC%E7%BB%D4%2F%A5%AB%A5%CD%A5%AC%C3%AB%B0%E4%C0%D7

なんで辺鄙でど田舎の阿波に「朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した」んだろうね???  @阿波

170 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 13:48:51.07 .net
>>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。


なんで辺鄙でど田舎の阿波に大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を大々的に実施し、中国鏡・中国産朱も渡来しているんだろうね???  @阿波

171 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 14:34:51.70 .net
>>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。

ならないけどねw
漢土の辺境が帯方郡ってだけで、その先の記述をするのに帯方郡が起点になっているだけ

水行の起点は帯方郡じゃないよw

172 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 14:45:35.08 .net
おい、アワワ
その程度のものは、九州にはなんぼでもある、鉄斧もだ。
調査の手が回りかねて、手つかず、あるいは埋め戻した十数ヘクタール規模の遺跡まである。

173 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 15:05:30.23 .net
>>172
>おい、アワワ
>その程度のものは、九州にはなんぼでもある、鉄斧もだ。

じゃ、こんな遺跡は九州のどこにあるのかな?  不思議と、辺鄙でど田舎の阿波にはあるんだけど。  @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲)  @阿波

174 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 15:25:09.85 .net
おい、アワワ
読売新聞のオンラインニュースかなんかで読んだわ
大字田舎字辺鄙にしては、良くできとる
まさに、帯方郡の政治軍事経済支援を受けた邪馬台国文化が、じわじわ東進した証じゃろうな

175 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 15:31:51.59 .net
>>174
>まさに、帯方郡の政治軍事経済支援を受けた邪馬台国文化が、じわじわ東進した証じゃろうな

倭国(阿波)に邪馬台国文化が、じわじわ東進したときには、まさに北部九州は廃れた只の経由地だったとさ。  @阿波

176 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 16:32:22.86 .net
おい、あわわ
阿波ですごい遺跡が出たということは、
九州邪馬台国説にとっては、まことにありがたいことだ。

天気と文化は、西から東へ、ニギハヤヒも神武も西から東へ・・・、
その道すがらのどこかに邪馬台国があったことは間違いない。
これからは、阿波にも敬意を表しつつ、カキコすることにしよう。

177 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 18:30:36.59 .net
>>168
アワワに笑た

178 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 18:31:34.21 .net
>>171
>漢土の辺境が帯方郡ってだけで、その先の記述をするのに帯方郡が起点になっているだけ

水行は帯方郡が起点で良さそうだな。

179 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 19:01:47.72 .net
>>176
>阿波ですごい遺跡が出たということは、
>九州邪馬台国説にとっては、まことにありがたいことだ。

まだ頑張るつもりかね? そんな「すごい遺跡」以前に、とっくに決着済みだって言ってるでしょ。
「其山有丹」で。  @阿波

180 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:03:34.95 .net
丹で決着をつけようってか、、、
ま、せいぜい頑張ってくれ

それより、日本神話におけるアワやアワジ島のやくわりが本物らしくなってきたわい。神話といえど、全くの作り話ではなかったのかもしれぬ。

181 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:24:23.79 .net
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。  @阿波
【T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで】

「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社

182 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:25:28.48 .net
【U天照大神・須佐之男命の世代】

「天石門別矢倉比売神社【大社】」 祭神 「天照大神」 比定 天石門別矢倉比売神社(神陵)
「和名佐意富曾神社」 祭神 「須佐之男命か」 比定 和名佐意富曾神社
「忌部神社【大社】」 祭神 「天日鷲命」 比定 忌部神社
「大麻比古神社【大社】」 祭神 「猿田彦命か」 比定 大麻比古神社
「秘羽目神足濱目門比売神社二座」 祭神 「日鷲神と妻神か」 比定 論社あり
「天村雲神伊自波夜比売神社二座」 祭神 「天村雲神と妻神」 比定 論社あり  

183 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:26:13.40 .net
【V国譲りに遣わされた神達と葦原中つ国の神々の時代】

「御縣神社」 祭神 「国譲り交渉第一の使者:天菩日命」 比定 豊国神社境内社(神陵跡)
「山方比古神社」 祭神 「第二の使者:天若日子」 比定 経塚大権現(神陵)
「建布都神社」 祭神 「第三の使者:建御雷男命」 比定 建布都神社
「矢桙神社」 祭神 「大国主命」 比定 矢桙神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝浦郡生夷神社
「勝占神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝占神社(神陵跡)
「多祁御奈刀祢神社」 祭神 「建御名方神」 比定 多祁御奈刀祢神社
「天水沼間比古神社・天水塞比売神社」 祭神 「沼江姫の父母神か」 比定 杉尾神社か
「鴨神社」 祭神 「阿遅鉏高日子根命」 比定 鴨神社(丹田古墳が神陵)

184 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:27:19.36 .net
【W神武天皇の出生と東征の時代】

「和多都美豊玉比売神社」 祭神 「海神の娘・豊玉比売命」 比定 西宮神社(和多都美宮跡)
「天石門別豊玉比売神社」 祭神 「天孫三代の后:豊玉比売」 比定 城山東麓(神陵跡)
「宇志比古神社」 祭神 「神武の参謀:速吸の宇豆比古」 比定 宇志比古神社(神陵遥拝地:西山谷二号墳)
「伊比良姫神社」 祭神 「神武天皇の妃 阿比良比当ス」 比定 伊比良姫神社 藍住町徳命が神陵跡
「阿佐多知比古神社」 祭神 「神武天皇か」 比定 阿佐多知比古神社 元の鎮座地は渋野か

185 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:28:16.55 .net
【X第十代崇神天皇の時代まで】

「御間都比古神社」 祭神 「第五代御間都比古天皇」 比定 御間都比古神社
「大御和神社」 祭神 「御和の神:大国主命」 比定 大御和神社
「伊加加志神社」 祭神 「第十代崇神帝の母:伊迦賀色許売命」 比定 伊加加志神社
「倭大國玉神大國敷神社二座」 祭神 「倭の国を証明する国魂・国敷の神」 比定 倭大國玉神大國敷神社
「天都賀佐比古神社」 祭神 「笠縫邑の大人:笠彦」 比定 天都賀佐比古神社(神陵跡)
「建嶋女祖命神社」 祭神 「孝元帝の妃:埴安比売命」 比定 建嶋女祖命神社
「和耶神社」 祭神 「埴安比売の御子:建埴安王」 比定 羽浦神社に合祀 元鎮座地は能路山(古墳跡)

186 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 21:29:03.97 .net
【Y景行天皇から皇極天皇の時代まで】

「白鳥神社」 祭神 「日本武尊」 比定 白鳥神社(神陵跡)
「建比売神社」 祭神 「日本武尊の妃:建比売か」 比定 建比売神社
「賀志波比売神社」 祭神 「景行帝の妃:美波迦斯姫か」 比定 津峰神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波市事代主神社
「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)
「速雨神社」 祭神 「皇極天皇」 比定 速雨神社(雨乞神事)

187 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 14:13:24.11 .net
>>186
>「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)

岡上神社の祭神は、お鏡さんじゃないの?w

188 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 05:59:58.72 .net
邪馬台国は福岡県京都(みやこ)郡にありました
磐井の反乱は邪馬台国の後継国であった倭国の王がヤマト王権の騙し打ちにあって倒された事件です
それ以降、倭国の国力は衰退しました
九州王朝系の天武天皇が一時はヤマト王権の内部から政権を奪いましたが
しかしヤマト王権系との権力争いの末、天智天皇の血統が復権したことで
ここに邪馬台国、倭国などいわゆる九州王朝は滅びました
つまり、日本国のヤマト本店の九州支部になりさがったわけです

189 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 11:21:46.92 .net
記紀が書かれたときは、>>188の言う「九州王朝系の天武天皇」の系統が
天皇位にあった時代なんだが?

ならば、九州王朝の正当性を謳う史書にするはずなんじゃないのかい?

思いつきだけで、どの時代に何があったか、理解してないだろ?

乏しい知識で妄想を組み立てるから、トンデモにしかならないんだよ

190 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 11:26:25.24 .net
天智天皇と天武天皇と、どちらが畿内系でどちらが九州系かという話だろ。
たぶん天武が畿内系なんだろうね。
でも、実際にはもっと複雑な事情だったかもしれない。

191 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 12:14:50.88 .net
>>190
>天智天皇と天武天皇と、どちらが畿内系でどちらが九州系かという話だろ。
>たぶん天武が畿内系なんだろうね。
>でも、実際にはもっと複雑な事情だったかもしれない。

矛盾を指摘されると、すぐに前言を翻すww
本当に都合のいいことですわねw

今度は、天智系が九州王朝系なら、天武系の書いた九州王朝無視の史書なんて
すぐに破棄して書き直すだろ?

どちらも、正統な畿内皇統の天皇だよ

そして、九州王朝なんてなかったが正解
それだけのこと

192 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 12:30:28.13 .net
そうだな
九州という言葉は室町時代以降に使われるようになった。
なのに3世紀の九州王朝なんて名づけるから、畿内に対抗して九州全土を支配した王朝があったと誤解される。時代錯誤も甚だしい。

卑弥呼の時代、
九州には、倭国というれっきとした共立体制があった。中国も認めていたんだからね。
ま、その中にはとうぜん派閥はあった。筑紫系と、肥国系と、日向の投馬系と、・・・。

193 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 12:31:36.30 .net
畿内説崩壊の真相はテンプレ教団と化した畿内説スレ民の堕落にある

194 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 12:40:50.75 .net
>>100
だという理由は?

195 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 12:51:50.15 .net
確かに、九州と呼ぶからいけないな。
筑紫王朝とか、筑紫倭国でいいだろう。

196 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 20:08:42.94 .net
>>192
九州という言葉は、元々は周王朝の首都を表す言葉です。
つまり、九州王朝は周王朝の末裔なのです。
大宰府も元々は周王朝の政務する場所のことを言います。

日本は周王朝の影響を強く受けており、岐阜も岐山から来ており
岐山とは実は周王朝発祥の地なのです。

197 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 20:14:02.51 .net
>>195
日本は古代から中国への使者の肩書が大夫でした。
これは周王朝の士、大夫、卿などの大夫です。

漢も魏もその頃は大夫のような肩書などなかったので
漢や魏が日本に肩書を与えたとは思えません。

つまり、邪馬台国、倭国は北九州に存在した九州王朝のことであり
九州王朝は周王朝の末裔なのです。

倭つまり和も周も○をイメージします。
そういうことです。

198 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 20:20:47.06 .net
>>190
文豪森鴎外は天智と天武の関係を殷と周の政権交代を暗示していると指摘しました。

つまり、天智とは、殷王朝最後の王の玉の名前を天智と言いました。
そして、天武とは、周王朝を開いた武王の武を取って天武と名乗ったのです。

このことから、天智は畿内系で天武が九州系というのが分かります。

天智と天武の母は同じで畿内系です。父が天智が畿内系で天武が九州系なのです。
男系を尊ぶ皇室では、天武の即位は九州王朝が乗っ取ったことになります。

しかし、周囲は畿内系だらけであったため、九州王朝の正当性を示すことは困難で
女系の畿内系が支配的になって九州系は途絶えてしまったわけです。

ハーフだった天武は何とか畿内系と九州系をまとめようとしたのではないでしょうか。

199 :日本@名無史さん:2018/07/23(月) 15:32:24.61 .net
>>195
>筑紫王朝とか、筑紫倭国でいいだろう。

で、その筑紫王朝やら筑紫倭国とやらは、倭の五王の時代まで存続したのかね?

200 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 17:20:32.46 .net
当然だね。
九州王朝年号695年の大化までは残ってる。
701年の大宝からが大和朝廷だ。

201 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 18:12:04.12 .net
クズ

202 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 18:58:38.44 .net
九州年号っていうのは九州から出てくるの?

203 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:06:45.14 .net
九州王朝年号と思われる歴は、

二中歴という各種の歴を集めた書物や、
各地の古文献二千箇所以上に残っている。

記紀にも数か所残っていて、
古い書物からの引用部分で消し切れなかったらしい。

白鳳時代の白鳳も大和朝廷の年号にない
九州王朝年号のものである。

204 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:13:26.31 .net
それならなんで九州年号と言えるの?

205 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:14:59.50 .net
郡評論争ってのがあって
大和朝廷以前の政権が決めた地名が評。
大和朝廷が決めた地名が郡。

やはり、700年以前の戸籍などの地名がわかる
文献は評、
それ以降は郡で表記されている。

これで戸籍古文献が大和朝廷以前か以後かの
指標になっているんだよ。

206 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:22:01.53 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

207 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:47:41.91 .net
郡は唐の制度

208 :日本@名無史さん:2018/07/25(水) 19:48:12.99 .net
九州年号ではなく 逸年号と言いなさい。

209 :日本@名無史さん:2018/07/28(土) 08:58:49.15 .net
隋書に倭国は遂絶と書かれているからね。
そして唐の時代に日本国となるが
倭国と日本国は別の項目に分けられている。
後は日本国のみの記述になるから
当時の中国は、倭国と日本国は別の政権と
見ていたんだろうね。

210 :日本@名無史さん:2018/07/28(土) 10:38:51.36 .net
>>209
>倭国と日本国は別の項目に分けられている。

そりゃ、当然のこと。
倭国(阿波)は遷都する前。
日本国(奈良大和)は8世紀遷都以降の国名なんだから。  @阿波

211 :日本@名無史さん:2018/07/28(土) 21:30:02.92 .net
阿波の起源は半島南部だよ。

212 :日本@名無史さん:2018/07/28(土) 21:43:46.92 .net
>>211
>阿波の起源は半島南部だよ。

邪馬台国=倭国(阿波)なんだから、半島南部だろうと、東南アジアだろうと、ミクロネシアだろうと、どこでも結構。  @阿波
 

213 :日本@名無史さん:2018/07/28(土) 22:25:09.04 .net
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「始如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られてる。

214 :日本@名無史さん:2018/07/29(日) 17:33:31.44 .net
>>203
>記紀にも数か所残っていて、
>古い書物からの引用部分で消し切れなかったらしい。

どれ?
具体的に教えてよ?

215 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 23:42:42.24 .net
邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/

216 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 17:59:07.49 .net
卑弥呼の痕跡といえば、即、古墳、と思っていた。
畿内大和説、九州各説、、、、いずれの論者もそうだとおもう。

でも、それが迷路の入り口かもしれないね。
古代において死者を葬り祀る方法は、古墳だけでなく、現在いうところの神社方式もあった。
卑弥呼の墓(冢)は、しかるべき神社のご神体として今に伝えられているのではないか。

217 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 18:22:31.34 .net
宇佐神社な

218 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 18:36:14.98 .net
そういうこと、
宇佐神宮は全国数万社の八幡神社の総元締めだからね
古墳祭祀とは別系統の全国統合祭祀システムなのではないか

219 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 19:02:30.56 .net
卑弥呼の墓(冢)は、
しかるべき神社のご神体として護られているのではないか

220 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 20:07:43.14 .net
>>217
>宇佐神社な

ご神体「比売大神」。  眉唾物のご神体だね。 

宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)。 

『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修....」 以下略

御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)

※大分の宇佐神宮の開基は725年。

※大分の宇佐神宮より遡ること、白鳳二年(674年)にこの『国府町井戸 八幡神社』 は「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。

※よって、大分の宇佐神宮も、『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのであろう。  @阿波

221 :日本@名無史さん:2018/08/01(水) 21:55:23.87 .net
>>219
>卑弥呼の墓(冢)は、
>しかるべき神社のご神体として護られているのではないか

その観点からは、上津天満宮豊姫宮が有力。

222 :日本@名無史さん:2018/08/02(木) 17:36:25.22 .net
何も発見出来ないで
何を議論してるの?
妄想の議論?
誰が一番面白い妄想かww

223 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 11:08:43.94 .net
>>220
その粟の宇狭にウサツヒコはいますか?

224 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 22:59:23.12 .net
古事記に宮崎って書いてあるのに何で論争になるんだ?
字が読めない馬鹿なの?

225 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 23:18:41.99 .net
宮崎なんて書いてないよ。

226 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 03:11:38.43 .net
海の正倉院こと沖ノ島には、九州王朝が畿内王朝に滅ぼされる前にその存在を示す証拠物品がたくさんある
だから、立ち入ることを厳格にしている

227 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 03:19:58.51 .net
>>224
宮崎は日向のことだと好意的に解釈するとして、そこに書かれているのは日向三代のこと
邪馬台国のやの字も出てこない

228 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:24:15.46 .net
>>226
>だから、立ち入ることを厳格にしている

また適当なことをw
宗教的な聖地が禁足地になっているのはいくらでもあるだろうが

>海の正倉院こと沖ノ島には、九州王朝が畿内王朝に滅ぼされる前にその存在を示す証拠物品がたくさんある

いい加減なことを言ってるなw
むしろ、ヤマト王権が沖ノ島祭祀を主催していたことを示す遺物がてんこ盛りなんですが?

229 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:26:28.37 .net
>>227
でも九州説は、日向三代は伊都にいた卑弥呼の前の男王で、だから北部九州が邪馬台国って言ってるんだぜww

230 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:36:52.10 .net
>>228
沖ノ島の位置を考えれば、大和がその主体とはなりにくい。
なぜ大和が筑紫まで出かけてきて祭祀を行うのか?
ここに出入りしている畿内説が言うように淡路島から国生みが始まったのなら、淡路島でやればいいではないか。
沖ノ島はおそらく高天原になぞらえて、筑紫がその祖先神を祭ったのだろう。
分家である大和も末席に参加させてもらっていたのを、後世の畿内説が誇大に宣伝しているだけだろう。

231 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:40:25.10 .net
>>229
魏志倭人伝も記紀も同じ倭国の歴史なんだよ。
どこかに接点がないとおかしい。
それが伊都であり筑紫の日向。
これが倭国の都。

232 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 08:14:01.68 .net
>>223
>その粟の宇狭にウサツヒコはいますか?

「宇佐八幡宮」 https://sueyasumas.exblog.jp/9787790/   @阿波

【「雲早(くもそう)山」の山麓より流れ出て、神通滝の流れを合わせ、「宇狭(うさ)」を通って「鮎喰川」となっていますが、「宇狭」とは川をはさんで「北宇井」「宇井」の地名が記されている所です。
宇狭とは両岸まで南北の峯尾がせまり川幅がおしせまっている場所の形容からきた地名ですが、「雲早山」を中心として祀られた「豊雲(とよくも)大神(女神)のお社が「龍の宮」と呼ばれていました。】

233 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 08:18:06.23 .net
>>231

倭国の歴史を捻じ曲げて見てはいけないよ。  @阿波

234 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 16:12:49.19 .net
>>232
そういうのはいいから

日本書紀の
菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉の菟狹津彥はいるのかを聞いている
古事記では
宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗

235 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 22:12:47.38 .net
>>230
そういうこと言うのは沖ノ島からどういうものが出土してるか確認してからにしようや

236 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 22:23:53.44 .net
>>235
自分では何も説明できない無能

237 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 23:31:51.86 .net
>>236
お前の無知を笑ってるだけだバーカ

238 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 05:53:18.94 .net
無能のではなく無脳

239 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 06:38:08.96 .net
>>230
私は九州説なんだが宇佐、沖ノ島はヤマト王権の息がかかってると考えてます
時代はもう少し後ですが
2,3世紀に後発のヤマトの勢力が大陸及び半島と係りを持つ為には対馬壱岐ルートすなわち奴国や伊都を通さなければならなかったはずで
彼らにしてみれば独自ルートを開拓する必要があったと
後のヤマト王権や朝廷との関係を考えると宇佐とは近かったのではないか、或いは血縁があったのではないかと考えてます
宇佐沖ノ島ルートが当時ヤマトの勢力が開拓したものならば弥生後期〜古墳時代には北部九州と畿内は別の勢力だったと考えられるのではないかと思ってます

240 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 07:23:14.72 .net
纒向には対外交渉の痕跡がないので、半島とのルートは伊都の大率が管轄するルートに一本化されていただろう。
それ以外のルートは抜け荷同様に取り締まられたはず。
記紀は宗像と筑紫の強い結びつきを示唆しているので、沖ノ島ルートも筑紫伊都の管理下だったはず。
大和が独自に外交しようとしても、筑紫が地理的に優位であり続けたはずで、それを打開するために衝突が継体天皇の時代の筑紫の君との対立だが、この時も大和側は対外ルートの確保に成功したようには見えない。

241 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 07:55:21.02 .net
>>239
>宇佐沖ノ島ルートが当時ヤマトの勢力が開拓したものならば弥生後期〜古墳時代には北部九州と畿内は別の勢力だったと考えられるのではないかと思ってます

その当時の奈良にそんな勢力があったと考えること自体が、そもそものトンデモの始まり。  @阿波

242 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:16:32.66 .net
神功皇后が北部九州を平定しちゃってるね

243 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:29:35.02 .net
仲哀天皇がそもそも九州人なので、筑紫倭国内の抗争に過ぎないよ。

244 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:30:06.39 .net
>>241
同意

245 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:30:46.51 .net
畿内政権の歴史書である記紀には中国との国交の記事がほとんどない。

246 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:37:22.67 .net
>>245
>畿内政権の歴史書である記紀には中国との国交の記事がほとんどない。


基本的に、記紀は倭国(阿波)国内での記録だからね。  @阿波

247 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:40:48.87 .net
どういうことだろうか。。。
仲哀天皇は、倭国の者だったということだろうか。。。

243日本@名無史さん2018/08/06(月) 08:29:35.02
仲哀天皇がそもそも九州人なので、筑紫倭国内の抗争に過ぎないよ。

248 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 08:42:21.25 .net
纏向遺跡時代の天皇が、倭国王の仲哀天皇の子孫に、とって代わられて、日本国が発生した可能性が高いな。

249 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 09:12:31.03 .net
各天皇の事跡は、
仲哀天皇が北九州
神功皇后が博多湾沿岸
景行天皇が久留米高良大社の
筑紫平野ですね。

250 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 09:14:34.32 .net
これらの九州の古豪族の事跡が
記紀編纂時に組み込まれたのでしょう。

251 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 12:41:16.03 .net
豪族じゃないw
倭国王だよ。

252 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 12:46:32.31 .net
記紀を信じれば、景行天皇が熊襲を征伐し
熊本を巡幸して、戦闘が起こってないことから
九州を統一したと言って良いでしょう。

九州が倭国なら景行天皇が初代倭国王ですね。

253 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 12:53:07.44 .net
初代倭王ははるか前の漢代だろ。
しかも同時代に八咫の鏡を持つ筑紫の梟帥、すなわち倭国女王神夏磯姫がちゃんと記載されている。
まあ、孫の仲哀天皇まで、九州北部を治めた倭国王を勤めただろうけどね。
仲哀天皇とその皇子が神功皇后と武内宿禰に倒されて滅んでしまう。
次の応神朝からは新しい倭国王家となる。
倭国王統は何度も入れ替わっているようだ。

254 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 13:27:36.28 .net
>>100
なぜ理由を言わない

255 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 16:28:35.24 .net
>>253
>八咫の鏡を持つ筑紫の梟帥、すなわち倭国女王神夏磯姫

八咫鏡を持ってたら倭王とかガバガバすぎ
大事なのは皇統の八咫鏡だけ

普通名詞としての八咫鏡も日本書紀に普通に出てくる

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないし、当然倭王でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ

「八咫鏡」を持ってたら倭王、なんてことはない

256 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 16:40:51.21 .net
なるほど、
朝貢外交の倭王卑弥呼の身代わりとして、
のちの倭国王家の仲哀天皇〜神功皇后あたりの半島進攻物語を
120年ほど繰り上げて、記紀の天皇歴に挿入したってことかな。。。。

257 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 17:03:46.75 .net
繰り上げたというのが通説にはなってるけどね。。。

258 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 17:20:24.28 .net
そうだよねえ。
大和王権の王を繰り上げたのではなく、
九州倭国の数人の王たちをつまみ食いして、卑弥呼の時代に合うよう繰り上げ、(朝貢外交の責任をとらせた)のではないかと思ったわけ。
同様に、
景行天皇も倭国王朝の王であり、
当時、(台与以後の肥国勢力の東遷で)混とんとしていた九州地方を再統一した・・・、と考えるとわかりやすいわ。

259 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:01:01.72 .net
神功皇后が120年繰り上げてあるのを修正すると、景行天皇は卑弥呼の没後わずか半世紀後に九州で暴れまわったことになる。
さて、景行天皇は筑紫の梟帥(帥は率と同義)である神夏磯姫が名指しした敵を排除するが、その中には耳垂などの邪馬台国の官の名前が含まれていた。
つまり、卑弥呼や壹與の後継である神夏磯姫の求心力が低下したところで外部からの景行天皇の軍事力を借りて、九州の再統合をはかったと考えられる。

260 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:09:54.87 .net
そもそも帥(率)とは何か。
古くは倭王帥升、卑弥呼時代の大率、筑紫の梟帥、太宰の帥など、福岡を治める者の呼称だろう。
筑紫倭国にあっては王またはその直属の権力者(卑弥呼はその上の神格化された存在?)だろう。
7世紀に倭国が滅亡してからは、畿内政権が任命する官だが、9世紀以降は多くは皇族が指名された(帥宮)。
太宰の帥は明治2年に廃止された。

261 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:24:14.30 .net
>古くは倭王帥升、卑弥呼時代の大率、筑紫の梟帥、太宰の帥など、福岡を治める者の呼称だろう。

あー、師升はまるきり人名かと思ってたわ。帥(率)を意味してるんだねえ
太宰の師・率も、倭国千年の歴史があったわけか

262 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:24:37.94 .net
景行天皇の皇子のヤマトヲグナが倒したクマソタケルは、亡くなる時にその名をヤマトヲグナに与えた。
ヤマトタケルである。
クマソタケルは河上タケルとなり、肥前一宮の河上神社付近に墓がある。
さて、河上神社の今の名は與止日女神社といい、その祭神は淀姫である。
おそらくは卑弥呼の次の女王の壹與その人である。

クマソタケルを熊襲梟帥と書けば、帥すなわち倭王であり、壹與と同宮の同族である。
熊襲というと南九州の印象があるが、南にいたのは日向国(投馬国)に起源を持つ隼人である。
熊襲は九州北部、肥国(有明海沿岸)の王家であり、卑弥呼以後は筑紫も勢力下に置いていたと考えられる。

筑紫に天孫系の支配が再確立されるのは、神功皇后または応神天皇を待たなくてはいけない。
(景行天皇と神夏磯姫は連立政権であったため)

263 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:29:38.91 .net
伊達郡の川俣町という掲示板のほうが詳しい

亀戸(仮)に行ってきたという書き込みをしている人がいたでしょ、
老婆が生まれるよりも前の話なんだけど、家の老婆も同じようなことを言っていたし、
実際に住んでいるところは川崎区


ちなみに「菅野力夫」このような名前の家

264 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:34:04.56 .net
壹與と熊襲が同じ肥国王家なら、卑弥呼も肥国王家である。
狗奴国が肥後なら、その王である卑弥弓呼もやはり同族である。
肥国王家が倭国の主導権を握り、伊都も卑弥呼が即位したなら、邇邇芸に始まる先代の男王達(日向王家)はどうしたのか。
一部は魏志倭人伝に伊都の官として禰宜の名がある。
また一部は、筑紫の日向を出て大和の饒速日を頼って東征したのだろう。
また、ある者は邪馬台国より南の投馬国(後の日向国)に逃れたのだろう。
日向国の末裔の隼人は天孫系の末裔であり、天皇家の忠実な部下とされていた。
そして、肥国王家の倭王は、記紀には倭王としては登場しない。
神夏磯姫、與止姫、田油津姫、熊襲梟帥、羽白熊鷲など、筑紫から筑後、肥前、筑豊を治めた天孫族ではない倭王達である。

265 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:40:45.97 .net
まあ、ここは九州説スレだから、九州説の考え方を思いっきり書いてもらえばいいよw

266 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 18:49:08.25 .net
記紀の編者も、妙なところで嘘がつけない。
批判などを恐れて、ギリギリの表現を探ったのだろうか。
帥を九州北部にいた倭王の称号と読むと、ちゃんと筋が通るようにできている。

267 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 19:14:50.69 .net
>>266
そう思うね
今と違い、当時の記紀の編者たちは古代王家に連なる重臣たちの顔色をうかがいながら、忖度的編集を行ったであろうから、
ねじ込まれても、何とか夫々の顔が立つよう、工夫したんだろね
要は、我々の読み方も重要ってわけだ。

268 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 00:32:45.53 .net
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

269 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 07:45:38.11 .net
>>268
>この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。

グーグルMAPで見ると、
佐嘉川の西方、高速道路の北側にある大巌寺廃寺+五社大明神を中心に、東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
形をたとえれば、大判小判のような細長い楕円状の整然とした造りで、外周の小道も良く残されている。
西端にある広いため池が特徴で、見ようによっては、古代の環濠集落的な感じを受ける。

なお、この集落のさらに西には、北部九州では最大規模の舩塚古墳がある。この塚は、この地が、古代における重要な都市集落(川上地区)であったことを物語っている。

思うに、倭人伝の方角・里数・立地から見て、この一帯こそ伊都国の中心地区だったのではないか・・・、

270 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 08:19:45.45 .net
>>269
正解

271 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 08:27:58.92 .net
そこは熊襲、肥国の中心国邑でしょ。
むしろ狗奴国かも。

272 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 08:39:09.00 .net
>>270
正解とのご評価をいただいて恐縮です。

なお、千数百年に及ぶ開発で、辺り一面破壊されつくしているのではと思いましたが、
グーグルストリートで路上撮影の様子を見ると、
意外や、畑のなかに農家や一般住宅がパラパラっと立ち並んでいる感じなので、
発掘が進めば、古代の伊都国跡が出現する可能性は大と思いました。

これは、吉野ヶ里をはるかに上回る、古代都市大発見になるのではないでしょうか。
佐賀県教育委員会?の手腕に期待してます。

273 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 09:18:50.88 .net
まぼろしの伊都国は、
佐賀市大和町内「伝説の川上地区」にあった!!

274 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 09:41:49.41 .net
邪馬台国佐賀川上説だろ。
まあ、壹與の都だと思うけどね。

275 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 09:55:57.69 .net
邪馬台国の卑弥呼女王之所都は、阿蘇高千穂だな

しかし、跡を継いだのは宗女の壹與だったというから、
その都は、大和は大和でも、佐賀市大和町の伊都国・川上だったというのは有りうるね

276 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 10:02:20.16 .net
>>275
>邪馬台国の卑弥呼女王之所都は、阿蘇高千穂だな

みなみ狗奴国が宙ぶらりんになる。

277 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 10:57:49.63 .net
倭人伝の世界では、
南の狗奴国は、(肥後高千穂の)卑弥呼を脅かす男王の強国として描かれている

その後の動きは不明だが、
台与以後の倭国再統一にかかわったか、
或は景行天皇の故事にあるように恭順したか、もしくは東遷した肥国勢力の後釜として肥後に入ったか、いろいろなケースが考えられるな。

278 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:06:13.26 .net
>>277
>その後の動きは不明だが、

答えは記紀に書いてある。
いわゆる、「出雲の国譲り」
狗奴国とは、倭国(阿波)の長国(県南部)のこと。  長国=出雲地方  @阿波

279 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:08:38.37 .net
高千穂は筑紫日向の高千穂だよ。
それが佐賀だというのは少し無理がある。

あと、景行天皇の記事を恭順と読むのは少し先入観を持ちすぎ。
景行天皇の武力を恐れたことは事実だろうけれど、三種の神器を掲げて神威を誇示したとも取れる。
実際、その後は景行天皇が神夏磯姫の言いなりに倭国内の敵対勢力を掃討している。

280 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:24:51.04 .net
>>277
どうも、そこは編集時の勘違いくさい。

男の王が当たり前の時代に、文章で
いちいち男王なんて断る必要はない。
断るとしたら女王との対比だ。

倭人伝で男王といちいち記述されてるのは
卑弥呼のライバルの男王と狗奴国の男王しかいない。

つまり、両者は同一人物と見るべきだ。

そもそも他国である狗奴国と
争いになってるなら戦争状態だし。
もっと緊迫してるはずだ。
魏に調停してもらっても、
狗奴国が別個に魏と交渉してなければ、
さしたる効果はない。魏が海を越えて
軍隊を送り込んでくるとか不可能だからな。

しかし、邪馬台国内での女王と男王の権力争い程度の話なら
魏に調停してもらうのに効果がある。

おそらく、狗奴国と言う単語付近の記述がミスなんだろう。
クニと言う単語を別個の他国と勘違いしたかして。
(東京と江戸を別個の地域に勘違いしたような感じで。
現代だって、その手の勘違いは珍しい事じゃない)

281 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:32:33.11 .net
それこそ、「男王は、我が国の南にいる」と言ったのを

「国内の南(の地域)」でなく、
「国外の南(の別の国)」と受け取ったのかも知れない。

その上で、さらに
「クニの男王」を「狗奴(国)の男王」に聞き違えて。

282 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:36:08.67 .net
>>この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。

>グーグルMAPで見ると、
>佐嘉川の西方、高速道路の北側にある大巌寺廃寺+五社大明神を中心に、
>東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
>形をたとえれば、大判小判のような細長い楕円状の整然とした造りで、外周の小道も良く残されている。

東西1q、南北200mほどの古集落・小道跡というとかなりの規模だな
それが、点在する農家・人家以外、ほとんど手つかずというのは貴重な存在だ。

283 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:37:50.15 .net
>>280

だから
いわゆる、「出雲の国譲り」
狗奴国とは、倭国(阿波)の長国(県南部)のこと。  長国=出雲地方  @阿波

284 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:46:10.77 .net
>東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。

グーグル空撮見たけど、でかい、
箸墓古墳を10個くらい並べた大きさだからな、大和の上をいく大和だわ

285 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 11:58:00.31 .net
>>283
そんな宗教的な話じゃないよ

仮にそうだったなら、
その神話で魏はどこに出てくるのかと

286 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:10:27.31 .net
>>285
>そんな宗教的な話じゃないよ

どこが宗教なんだい?  これは辰砂や海洋利権の争奪戦なんだよ。


>その神話で魏はどこに出てくるのかと

記紀は倭国(阿波)国内の出来事記事。 「魏」など出てこないよ。  @阿波

287 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:15:29.56 .net
>>286
いや、国譲りの国って地上世界って意味で

天上から来た神が
地上世界を譲ってもらったって宗教的な話だよ


魏志倭人伝の話は、少なくとも歴史の話だし

288 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:20:41.96 .net
高天原が天上ではなく海上の国だと考えればいい。
アマテラスは「海を照らす王」だ。
対馬海峡を本貫とする天孫族が出雲に武装解除させ、筑紫を占領した。
そうしてできたのが伊都国だろう。

289 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:21:53.88 .net
>>287
>天上から来た神が
>地上世界を譲ってもらったって宗教的な話だよ


何言ってんの? あたま大丈夫かね?
その「天上」とは、北の「粟国」  「地上世界」とは、南の「長国」を指しているんだよ。  @阿波

290 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:22:36.66 .net
>>280
>そもそも他国である狗奴国と
>争いになってるなら戦争状態だし。
>おそらく、狗奴国と言う単語付近の記述がミスなんだろう。
>クニと言う単語を別個の他国と勘違いしたかして。

狗奴国は、国家ではなく国邑だろうね。
独立した勢力は並列で書かれている邪馬台国と投馬国なんだろう。

291 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:26:45.12 .net
>>289
いや、だから、それ宗教だよね?
大陸で史実として刻まれてる事が
どうして宗教になってるの?


そもそも、古事記は漢文の表記も微妙だけど。

もし卑弥呼の時代に魏と接触してたなら
もっと漢文が達者だったろうね。

292 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:30:00.46 .net
いやいや、本来は宗教ではなく歴史記事なんだよ。
海を天と雅に言い換えているだけ。
そう考えると全て無理なく繋がる。

293 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:32:12.85 .net
古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説があり、確かにそのような読み替えは古事記などの記事を、超越的な存在を用いることなく、うまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない神々である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主であり、スサノヲの末裔であるといわれる。
稲の収穫を終えた神無月には神々が出雲の大国主のもとに集ったとされており、部族長が集まり祭祀を行っていたことを意味していると考えられる。
マテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である倭国の王にふさわしい諡である。

294 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:32:30.69 .net
倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていたが、出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王となったのは、アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
ニニギの称号はアマテラスから海上部、オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を継承したことによるものである。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために後世ではニギハヤヒが重要視されなくなったのかもしれない。
サルタヒコは海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されており、博多湾岸を支配者していたが、イザナギとイザナミの子の一人であるヤマツミ(山祇、大山津見神)の下の官であったため、争うこと無く協力関係が成立したのだろう。
高祖山クシフル山日向峠の麓にある伊都の高祖宮の祭神はニニギの子であるヒコホホデミである。
ニニギのもう一人の子であるホオリ(火遠理命)はワダツミ(海神、綿津見神)の娘である豊玉姫を后とし、その子のヒコナギサウガヤフキアエズ(彦渚鵜草葺不合命)は豊玉姫の妹の玉依姫を后としている。
ヤマツミとワダツミは九州北部の二大勢力であったが、天孫族がその間を取り持つ形で早くから姻戚関係を結び、長らく倭国王家として栄えたと考えられる。
オオヤマツミには和多志大神の別名もあり、海神としての性格も併せ持つため、ニニギより前に海洋と陸上をあわせて支配した王であるが、男系では王位を継承しなかったために歴史上はニギハヤヒやスサノヲと同様に傍系として忘れ去られようとしてしまっている。
海神と山祇の関係は、天神と地祇の関係の類型でもある。

295 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:32:49.60 .net
>>291
>大陸で史実として刻まれてる事が

「大陸で史実として刻まれてる」のは、魏志倭人伝など
記紀は倭国(阿波))国内の出来事記事っていってるでしょ。 倭人伝と記紀を混同してはいけないよ。  @阿波

296 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:39:28.79 .net
これ以上は平行線かなぁ・・・・

297 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:43:01.07 .net
>>296
>これ以上は平行線かなぁ・・・・


考古学を連動させると繋がるんだがね・・・・  @阿波

298 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:45:45.91 .net
まあでも倭はゥワィくらいだとおもえばアワと聞こえなくもない。

299 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:49:12.05 .net
>>298

阿毎・海人もね。  @阿波

300 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 12:59:52.24 .net
>>298

阿毎・海人・天もね。  @阿波

301 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 14:13:52.73 .net
倭地とは九州諸島のこと
倭人とはこの地方に住む人々のこと
倭国とは、この地の人々が共立した政軍連合体のこと

阿波は外国、阿波ビトは外国ビト

302 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 15:17:56.74 .net
>>301
>倭地とは九州諸島のこと


だけど、倭地とは「丹」が採れる所らしいんだけど・・・・  @阿波

303 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 15:26:54.25 .net
>>302
丹というのは、何ものかね。
美味しいのか? それとも滋養があるのかね?

304 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 15:39:20.11 .net
>>303
倭国(阿波)の人にとって、体に塗るとなんかいいらしいよ。
それと、入れ墨もね。  @阿波

305 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 16:41:33.34 .net
なんだ
その程度のものか
それなら、阿波特産というわけでなく、
阿波から、別府大分を通って、阿蘇、天草へ抜ける、いわゆる中央構造線添いのあちこちに出てくるわ。地震の多いところに多いやつだな。、

306 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 16:54:52.85 .net
>>305
>それなら、阿波特産というわけでなく、

だけど、少なくとも卑弥呼の時代は「阿波特産」だったらしいよ。  @阿波

307 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 17:00:01.98 .net
土佐日記では、高知から大阪まで40日かかっている。
大阪に上陸してから京都まで15日。
水行10日や20日では、わずかな距離しか行けない。
なんで、南洋まで行くなんて話がおかしい。
当たり前に読めば、卑弥呼ヤマト国は日向だ。
サヨクたちは、日本国の最初が文明国中国の属国の
未開の土人だと、中傷するために、畿内説をとなえている。
国粋派は、卑弥呼は北九州の土人の酋長で、ヤマト政権とは関係ない、
日本は神の子孫がおさめる神の国だ、中国の属国になったことはない、
と言う主張だから、
国粋派、サヨクに無視されてるが、日向だ。

308 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 17:08:10.78 .net
>>307
>当たり前に読めば、卑弥呼ヤマト国は日向だ。


あれ?  宮崎で「丹」採れてたっけ?  @阿波

309 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 17:17:47.21 .net
記紀の日向説は、大筋において史実に添ったものとおもうね

そして高天原神話は、卑弥呼を取り巻くあれこれだったのだろう。
その舞台は日向、そして一山超えた肥後・邪馬台国は、いわばその楽屋ウラだったってわけだ。。

更に肥前の佐賀も半島への陸路として重要だった。
その中間の佐賀市大和町川上には、伊都国を忍ばせる長楕円形の入り組んだ集落小径が、今なお保存されている。
なんと東西1q、南北200m。箸墓古墳が10個は入るほどの大規模さだ。

310 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 17:28:10.69 .net
>>309
>記紀の日向説

宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。 
何か勘違いしてないか? 

倭人伝の「其山有丹」にも該当しないしね。  @阿波

311 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 18:06:37.26 .net
>>307
土佐日記は高知から太平洋側を航海して淡路島を経由し
大阪といっても和歌山に近い泉南に着岸している
瀬戸内海経由なら普通に難波津に着岸だし

312 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 19:02:03.96 .net
>>308
宮崎の丹にこだわらなくてよろしい
其山とは、倭地の山(九州島の山地)でのことだから、丹には困らぬ

313 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 19:06:35.85 .net
>>312
>宮崎の丹にこだわらなくてよろしい

本来ならば丹にこだわりたいんでしょ?  ご愁傷様。


>其山とは、倭地の山(九州島の山地)でのことだから

「九州島の山地」って、どこの山地で採っていたのかな?  @阿波

314 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 20:39:06.76 .net
帯方郡から肥後熊本の邪馬台国へ向かうには、末蘆国〜佐賀平野〜の陸行ルートが平坦・近道であった。
その途中の佐賀市大和町川上には、古代を忍ばせる長楕円形の環濠集落のような入り組んだ小径群が、今なお保存されている。
東西1q、南北200m。中央には五社大明神が祀られており、なんと、箸墓古墳が10個入るほどの大規模さだ。
ここが東南陸行五百里到る伊都国の中心部だったのだろう。

315 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 21:48:55.95 .net
>>314
そこから何が見つかったの?

316 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 21:59:09.74 .net
大和町史によると
川上地区には2000基の中小古墳があったが
その殆どは潰されて畑になったそうな。

317 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 22:03:00.65 .net
あと川上地区は大和町で(現佐賀市)
旧佐賀郡だが、昔は小城郡になってたこともあるそうな。

318 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 22:11:01.95 .net
中小とはいえ、
1つの地区に2000基の古墳とはただ事ではない
おそらく日本一の密度・規模であったのだろうな。(もったいない、、、、)

319 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 22:16:39.11 .net
西都原古墳群だってもっと大きな規模だし、九州の遺跡の規模はすごいよ。
畿内説なんて、井の中の蛙だよ。

320 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 22:31:04.28 .net
そうか
末蘆国からの方角里数からして、大和の川上地区はまさに適切な位置にある。
ここが、伊都国の国衙であり、帯方郡使往来して常に駐まる所だったのか。すばらしいことだ。

321 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 23:09:11.34 .net
しかし河上神社の祭神が卑弥呼ではなく壹與なのだが?

322 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 23:40:32.10 .net
九州だと2000基くらいは、
あるところにはあるようだ。
鳥栖市も千基くらいの古墳集落があったそうな。

323 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 07:45:09.31 .net
邪馬台国の傍国の大きさが一つ2000戸だから、それみ見合った数の墓があるということだね。
畿内では邪馬台国に見合った数の遺跡はない。

324 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 08:21:27.57 .net
そういうことだね
全戸というわけではないが、一定の身分以上の戸主・戸数に見合った墓ができたはず。

仮に伊都国が佐賀大和の川上とすれば
東南百里の奴国は現在の佐賀県庁一帯、(川上から)東行百里の不彌国国衙は神崎市あたりかな。

そしてそこから南へ向かうとなれば舟か歩きだが、陸行の場合はどうしても筑後川を渡らなくてはならない。
神崎に注目するのは、そこから川筋の自然堤防を下り、千代田あたりから城島へ渡ったのではと思う。
たぶんこの辺りは有明海の干満の影響で、1日2回の潮どまりがあり、(あるいは潮の遡上があり)、悠々と対岸へ渡れたのであろう。
その名残が、現在の六五郎橋なのではないか、、、。

325 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 08:26:24.15 .net
肥後熊本が狗奴国であるという点は変わらないのか。
面白いかも。

326 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 10:05:48.91 .net
河上神社?與止日女神社?は嘉瀬川の
西側にあり
川上地区側なのね。

対岸には肥前国庁跡や国分寺がある。

327 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 11:37:43.54 .net
>>325
>肥後熊本が狗奴国である

クマとクナは、似ているように思う人が多いけれど、
母音の交換に比べて子音の交換は起こりにくい
KU「M」A
  ↓
KU「N」A
は、実はむつかしいと思うんだよな

328 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 12:26:47.88 .net
>>327
否定する根拠としては弱い。
他に候補もない。

329 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 12:40:47.95 .net
熊本といってもだだっ広い県だからね。
とくに地震断層帯である白川・緑川境界は、入り海と川と湿地帯が広がり、
古代においては交通の便利さに著しく欠けていたのではないか。
素より不和と評された北半分〜(の邪馬台国?)と南半分以南〜(の狗奴国?)は分けて考えたほうが良いと思う。

330 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 14:04:06.17 .net
>>328
>他に候補もない。

候補はあるんだよ

KUN「A」
   ↓
KUN「O」 久能 とか、

K「U」N「A」
 ↓
K「I」N「U」  鬼怒川のきぬ とか、

K「U」N「A」
 ↓
K「E」N「U」 毛野 とか、

毛野は、古墳時代初期から大古墳を作るだけの実力があるし、候補として十分

331 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 16:08:14.08 .net
>>329
菊池城が狗奴国側なんだけど?

332 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 16:08:59.77 .net
>>330
そんな遠いところ、ナンセンス

333 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 17:57:57.75 .net
沖縄や九州からは遠いけれど、畿内説からすれば特に遠くはない

334 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 23:14:32.46 .net
>>331
>菊池城が狗奴国側なんだけど?

あのな、縄文時代から現代まで、菊池はずーと狗奴国で其官は狗古智卑狗だったのか?
そんなこたーないだろ。
山鹿菊池という土地柄は変わらないかもしれないが、そこに棲む種族は転々とするものさ。
何が何でも狗古智卑狗だけにしがみついて、固定的に考えていては解決しない。
「奢る平家は久しからず」、
最も大切なのは、
魏の時代には、山鹿菊池を何族が占拠していたか・・・、なのだよ。

335 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 23:20:52.85 .net
>>331
>菊池城が狗奴国側なんだけど?

あのな、縄文時代から現代まで、菊池はずーと狗奴国で其官は狗古智卑狗だったのか?
そんなこたーないだろ。
山鹿菊池という土地柄は変わらないかもしれないが、そこに棲む種族は転々とするものさ。
何が何でも狗古智卑狗だけにしがみついて、固定的に考えていては解決しない。
「奢る平家は久しからず」、
最も大切なのは、
魏の時代には、山鹿菊池を何族が占拠していたか・・・、なのだよ。

336 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 23:36:01.51 .net
>>334
卑弥呼と卑弥弓呼の名前からすると、二人は同族。
そして宗女の壹與は肥前河上の女王。
ならばすべて肥国の一族でいいじゃないか。

337 :日本@名無史さん:2018/08/08(水) 23:47:30.40 .net
肥後菊池氏

>菊池氏は、一説によれば、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着したとされる。
しかし、又の説によれば、大宰少弐であった則隆の父藤原政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、
政則と則隆の代1070年ごろ菊池周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている。
その出自については、
代々大宰府官を務めた紀姓の地方豪族とする説
百済王族出身の渡来人である鬼室福信の後裔とする説
さらには、狗奴国の官・狗古智卑狗(菊池彦)の後裔説、
古代鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族後裔説、
源経基の後裔とする源姓説[5]、など多様な説がある。<

つまり菊池氏は、11世紀に肥後へ下向して住み着いたので、そこを菊池と名付け、その地名が現代まで受け継がれているというわけだ。
言い換えれば、現在の菊池市を「菊池」と呼ぶようになったのは11世紀のことなのだ。
そしてその菊池氏の出自は、諸説あって、未だに不明。
まして、3世紀ころに、どこに住んでいたかもまるきり不明というわけだ。

338 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 00:08:07.57 .net
ていくか、キクチ姓って
おそらく、魏志倭人伝から取ったんじゃないかねぇ?

因果関係として逆で

339 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 06:48:52.75 .net
こうして歴史が捏造されていくわけか。

wiki 鞠智城より引用

鞠智城は、『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明である。
しかし、発掘調査では少なくとも7世紀後半〜10世紀中頃まで約300年、存続したことが判明している。

340 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 06:51:26.98 .net
7世紀以前の歴史が削除されている典型例で、おそらくは地理的条件からは古代からあったはず。
戦乱の痕跡が強い筑後平野を最前線として、北側の大野城、基肄城などと対立していたのだろう。

341 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 06:53:44.02 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

342 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 08:44:00.41 .net
<臺城>
 菊池川に沿って東へ歩いて山鹿市をすぎると、内田川と木野川が合流して迫間川に注ぐあたりに、海抜7〜80 mの広大な台地が広がっている。まさかと思う人もあるだろうが、この台地こそ、古くから臺(うてな)と呼ばれてきた土地である。

 この地は、古くは砦村と呼ばれていた。砦村には、台地の丘陵線の西端に臺(うてな)城があった。臺城は水島城とも呼ばれていた。
 中世にこの地を治めた菊池氏は、本拠の城を大きくは構えず、砦機能を主とした外城を多く築いた。菊池市を中心とした領内に18城を築いたことから菊池18外城という。臺城はその一つといわれている。

 このあたりは、その地勢からも古くから要衝であった。つまり、古くからあった臺城(砦城)のあとに中世に菊池氏が水島城を築いた、という前後関係になる。

343 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 09:06:17.07 .net
<久々知>
 久々知はのちに鞠智→菊池と書いた。
ここには、もともと隈部と呼ばれた土地があって、11世紀初頭に土着した藤原氏の後裔が菊池氏を称して菊池となった。
菊池の隈部はその後、室町時代に守護在住の地として隈府(くまふ)と呼ばれ、これが隈府(わいふ)と呼ばれるようになる。
そこから、南北朝時代には隈本と呼ばれたが、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた

 隈部の由来となったクマは、「奥まったところ」という意味である。これに通ずるのが久々知であり、「山麓から平地へ出る口」という意味である。
 奥まったところに「何か」があって、そこに出入りする久知(口)というわけである。「山門」も同じような意味である。

344 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 13:38:32.85 .net
<臺城の後陣、米原台地に築かれた鞠智城趾から弥生の遺物が出土>
 地元の考古学関係者によると、
かって菊池氏も居城とした鞠智城趾から出土した遺物は、なぜか不連続である。
縄文時代と、それから飛んで弥生終末〜古墳時代前期の土器類と、
そこからさらに飛んで7世紀以降の遺跡・遺物が出土しているという。

「弥生終末から古墳時代前期」という限られたこの時期には、倭国大乱が入り、吉野ケ里が長い役割を終えた時期とも重なる。
「鞠智城址」は、戦乱の時代において、強固な砦としての役割を果たしたのかもしれない。
これは、臺(うてな)台地及び米原台地の古代史上の重要性を物語る貴重な証言であろう。

345 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 15:19:24.86 .net
>>344
読む限り、もともとの地名は「うてな」であって、臺は当て字ってことでいいのかな?

346 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 16:32:29.27 .net
>>345
>>342 の続き
>>つまり、古くからあった臺城(砦城)のあとに中世に菊池氏が水島城を築いた、という前後関係になる・・・

・・・この砦村と近隣の村が合併して七城町になったのだが、現在でも略字の台(うてな)という地名が残されている。ちなみに七城町の町名は、町の区域内に菊池18外城のうちの7つの城があったことに由来している。

上の文は、某氏の作品集からのコピペです。
仰せの通り、「うてな台地」の上にある城砦跡なので、いつのころからか和音の「うてな」に臺もしくは台を当てるようになったのではないでしょうか。が、その正確ないきさつは不可得詳です。

347 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 16:38:17.32 .net
だい【台〔臺〕】の意味

[音]ダイ(呉) タイ(漢) [訓]うてな

1 周囲が見渡せるように高く造った建物や構造物。うてな。
「灯台・番台・露台・楼台・天文台」

348 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 17:09:04.40 .net
日本郵便・郵便番号検索結果

市区町村 
・菊池郡七城町
町域
・台 ウテナ
変更内容
・菊池市七城町 台 ウテナ に住所変更

349 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 17:16:41.11 .net
邪馬台国の「台」とは特に関係はないってことでよろしいかな?

350 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 17:25:30.18 .net
>>349
不可得詳

351 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 17:42:33.86 .net
まあ、菊池城は狗奴国側だしな。

352 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 18:36:15.57 .net
上段の水利不便な米原台地上にある菊池城は、
3世紀ではなくて、はるか後世の中世菊池一族の居城だわな。そりゃ確かだ。

353 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 19:10:00.82 .net
弥生遺跡もあるんでしょ?
不便な大地の上にあるのは、邪馬台国との戦いに備えたからでしょう。

354 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 19:25:06.31 .net
>>353
中世の遺物・遺跡が、中世に藤原氏から分かれて入ってきた菊池一族に由来することは確かだ。
しかし、それ以前に菊池一族は存在しなかった。
だから、弥生〜古墳時代の遺跡・遺物が誰に由来するかは、今のところ分からん。
三世紀にウテナ台地を占領していたのは、狗奴国だったかもしれないが、女王の邪馬台国だったのかもしれない。

355 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 19:35:48.22 .net
>>354
>だから、弥生〜古墳時代の遺跡・遺物が誰に由来するかは、今のところ分からん。

わからんじゃないよ。
狗奴国そのものだろ。
ここが邪馬台国なら、その南の狗奴国に相当する遺跡がなくなる。

356 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 21:21:28.52 .net
菊鹿盆地は大昔には湖だったそうだな
湖が縮小していって豊かな菊鹿盆地が生まれた
阿蘇も大昔には湖があり、そこが干上がって盆地が生まれた。
>>329
加藤清正が治水工事で江津湖を造り入り海と川と湿地帯を農地に変えたんだよな
地名も田井島、嘉島、鯰、高江、島町、所島、上島、御船、無田などが残るな。
古代の肥後の中心は菊鹿盆地や阿蘇盆地だな。

357 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 21:23:20.77 .net
>>355
九州は広大だ、
仮に博多倭奴国〜熊本邪馬台国としても、九州の北半分を占めるだけでしかない
そこに共立女王の30国がひしめいていたわけだ。
それに比べて狗奴国1国は、残り半分の南九州全体に広がって悠々と暮らしていたのだろう。
球磨地方だけでも大和をしのぐほど広い。南九州全部なら畿内五畿に匹敵するほど広いんだぞ。

358 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 21:27:39.74 .net
南九州は大地が荒れているから。
現代だって、人口は海岸線に集中しているだろう。
大噴火で縄文文化とか絶滅しているし。

359 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 21:29:35.17 .net
狗奴国一国が邪馬台国全体と対立できるには、熊本くらい豊かな地域でないと。
稲作が盛んで、鉄器も生産できるなら、それだけの力はある。

360 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 22:03:51.77 .net
そりゃ勘違いだ
縄文人が死に絶えてほぼ無人になった九州の南半分だったからこそ、新たに入植した弥生狗奴国の人々が労せずして繁栄できたのさ

南九州はむしろ内陸部に豊かな土地がある
球磨、伊佐、大口、えびの、小林、都城、霧島には広い水田適地があり、それに薩摩半島、大隅半島には畑地もあって弥生農業には適していた。

それに比べて阿蘇・熊本地域は、当時たびたび降り積もる阿蘇山の噴煙噴石で生活もままならず、時代はやや下るが、阿蘇神社も南の山都町へ避難したそうだ。
そんな状況で、邪馬台勢力も東へ居を移さざるを得なかったのだろう。
これがいわゆる倭国大乱〜東遷で、ぶっちゃけて言えば、火山難民だったというわけさ。

361 :日本@名無史さん:2018/08/09(木) 22:24:21.94 .net
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

362 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 07:07:28.01 .net
人民(農民種族)の広がりは長い年月をかけてじわじわと進む
倭人・倭種の広がりがそうだ
しかし、政体(支配者層)は、人民の波の上を転々と移動する。
よって古代〜におけるクニ(王・官・戦闘族)の離合・集散・移動は頻繁に起こった。
この基本的な差異を頭に入れて倭人伝を解読すべし。

363 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 09:19:03.39 .net
日本人のおなまえについて。(某作品よりコピペ)
・菊池、菊地さんの起源

菊池氏は、南北朝の戦に敗れて東北地方に逃れ、菊地性を名乗った人たちとの見解は、かなり無理がある。
というのは、それはたかだか600年ほど前のことであるのに、現在、菊地さんは、全国に15万人もいる。よって、この見解では、この人口は説明できない。

茂木和平古代苗字起源説によれば、
大昔の神武東征以前のこと、新羅から、摂津国へ木工集団が渡来して、その首領であった、久々智(くくち)公が『新撰姓氏録』・摂津皇別に登場する。
(現在も、尼崎市に久々知の町名が残る)。
このくくちの最初のくが母音変化すると、きとなって、木口(き_くち、口は集落を意味する)となり、のちに佳字の菊池(きく_ち)を当てたとなる。
この集団が、九州方面にも移り、繁栄したとすると、菊池さんの人口、15万にもなりうる。

364 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 09:29:47.16 .net
なるほど
久知(クチ)とは、集落・集団・一味のような意味か。
そういえば、「おまいもそのクチか・・・」という使い方をするな。

365 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 10:09:33.07 .net
>>361
それは、灌漑技術が進んでからの数字
例えば筑紫平野は、筑後川が深すぎて弥生時代には灌漑できてない

366 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 10:16:34.52 .net
筑紫平野の中心部である
高良大社を奪取し仮宮を築いた景行天皇。

おそらくはこの頃には灌漑技術も向上して
筑紫平野が利用できるようになり、
重要度が増してきて、この地の奪い合いに
なってきたのであろう。

この地が利用できるようになってからの
国力増大は著しく、景行天皇はその後
熊襲を征伐し九州統一を成し遂げるのである。

367 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 11:46:10.41 .net
よくできました

368 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 12:03:59.54 .net
高良大社の高良は、高麗に由来するという。
そうすると景行天皇は何者だったのかなあ、、、

369 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 12:04:58.06 .net
【竹島尖閣ウソ】  日ソ不可侵以前に、日本列島は神武の占領地、固有領土はウソ  【北方四島ウソ】
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1533869923/l50

370 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 12:45:32.15 .net
邪馬台国の所在地について各教科書の記述

山川出版社『詳説日本史B』2016年 
「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている」

東京書籍『新選日本史B』2018年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」

清水書院『高等学校日本史B』2017年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」

371 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 14:40:22.92 .net
>大昔の神武東征以前のこと、
>新羅から、摂津国へ木工集団が渡来して、その首領であった、久々智(くくち)公が・・・

この久々智(くくち)公が、狗奴国の狗古智卑狗あるいはその名を継ぐものであった場合、
久奴国は新羅系の渡来人国家であったということになる。
すると、これと「素より不和」の女王国は、おそらく百済系渡来人の国であったということになる。
帯方郡も、当時百済の地であったソウル付近に置かれたとみられるので、どうやら辻褄が合いそうだな。

372 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 16:56:07.91 .net
百済人 vs 新羅人 vs 倭奴人 かあ

373 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 17:12:31.23 .net
>>371
>久々智(くくち)公

「くくち」、と読むなら、もう一歩進めれば「かがち」だな
太古、神は蛇であった、ではなく、蛇が神だったという言葉もあるけれど

銅鏡によく見られる鋸歯文のモチーフは蛇のうろこって説もあるし

374 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 18:18:43.54 .net
ないな
呉の切れ目が違う

375 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 20:18:51.37 .net
>久々智(くくち)公

熊本・久々知以外に、摂津・尼崎にも拠点があった新羅渡来人の集団とは知らなかった。

376 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 06:57:26.24 .net
木口⇔木工集団、だから、
箸やお椀も作ったが、本職は木柵に取り囲まれた戦斗砦の建築屋さんだったのではないか
狗奴国・官の狗古智卑狗は、さしづめ工兵隊の長官といったところか、

377 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 09:25:24.73 .net
佐賀市川上のひょっこりひょうたん島
 グーグルマップで見ると、
川上地区の高速道路の北、舩塚古墳の東に、東西1q、南北200mほどのひょうたん島らしきが見える。ここが伊都国国衙だったのではないかと、数日前に書いた。

 この周囲は道路で囲まれているようなので、
改めて、グーグルストリートで道路と左右の状況を確認して驚いた。
周回道路のほとんどは、道路が低く、内側(ひょうたん島側)が1-2mほど高い。
場所によっては。道路より左右部分が高くなっているところもあった。
道路が途切れている東端も、外側の畑より、内側の敷地が2-3mほど高い。。

この周回道路は、今は埋め立てられて舗装道路になっているが、
その昔は、ひょっこりひょうたん島を取り囲む空堀だったのではないか。
倭人伝に記載された位置関係、規模、構造からして、ここが伊都国国衙であった可能性は極めて高くなった。

378 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 09:58:49.75 .net
前方後円墳なんじゃないか?

379 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 10:49:29.53 .net
>>378
ちょっと、グーグルマップの該当部分を張り付けてみた。
拡大縮小して、ひょっこりひょうたん島に合わせてみてくれ。

https://www.google.co.jp/maps/@33.3148623,130.2498718,857m/data=!3m1!1e3

380 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 10:52:23.13 .net
>>378
ありゃ、貼り付けが効かないわ
グーグル、自分でチェックしてくれないかな。、

381 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:05:44.78 .net
と言うか、船塚古墳が前方後円墳か。
その近くに環濠集落があると言うのだな?
九州では珍しくもないような気がするが、既知のものかどうか照合する必要はあるかもね。

382 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:32:34.72 .net
魏代の倭国の都が九州いうんはわかったけど西晋代も都の場所は変わらんいうのなら新しく遺跡見付けんといけませんな(太宰府近辺?

383 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:40:39.20 .net
川上地区から小城市あたりの領域だと
今の集落と昔の集落は位置があまり変わっていない。

川上小あたりが川上村時代の集落で
集落そのものは昔のまま。
尼寺や久池井の集落は少し多くなって
切れ目がわからなくなったけどね。

そしてそういう場所ばかりを
発掘するせいかもしれないが
弥生遺跡も同じような分布だね。

384 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:41:29.46 .net
佐賀は遺跡地図がネットで見られるから
それを見て照合できるよ。

385 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:43:30.70 .net
3世紀の関門海峡が渡海いうほどの幅がなかったら陸行したんは山陰からだったかも(出雲から太宰府まで1月(解決

386 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:47:51.11 .net
>>381
舩塚古墳の東500mほどに、結構大きなため池(200m×200mくらい)が見える。
それがひょっこりひょうたん島の西端に当たる。
そこから東へ約1q、南北長は約200m。東端は佐賀木材と久米運送の敷地のようだ。

推定面積は20haほどで、吉野ヶ里の1/5くらいかな。
周囲より1-3m高いが、おおむね平地で、建物が200棟くらいたってる。残りは普通畑とミカン畑のようだ。野菜ハウスみたいのも見える。
中央部にお寺と五社大明神があるのが特徴。

387 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:48:46.42 .net
で、女王国以北は玄界灘及び山陰以北の日本海沿岸
狗奴国は瀬戸内海から畿内近江

388 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 11:52:48.01 .net
id無し板で他にレスしてはる人いると荒らしあいになるな?

389 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 12:15:38.83 .net
>>384
佐賀遺跡ネットで見たよ。

大願寺遺跡+小隈遺跡のあたりなんだけど、
その中に点在する、お寺跡とか小古墳とか散布地とか、小規模地点の遺跡表示になってるね。
とくにひょうたん島20ha全体を指したものではないようだ。

390 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 12:52:07.77 .net
>>389
地図見ましたが、
溜池から佐賀木材まで楕円を書いているように見えますね。

大願寺、大願寺廃寺遺跡関係でしょう。
縄文から近世まで続いた集落で、
大願寺も含むいくつか役所があったそうです。

縄文からですから、環濠集落であってもおかしくないと思います。

391 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 13:02:54.04 .net
>>390
地図ご覧いただき、さらに環濠集落の可能性まで言及していただきまして何よりです。

古来、「川上」は、
政治・軍事・文化の重要地点として、記紀は素より、田舎神楽のセリフにまでたびたび登場します。
まさに、伝承通りの「佐嘉・川上の地」であったのかと思います。

392 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 13:13:34.10 .net
與止日女神社も川上側にありますね。
このずっと南の立石交差点50m南西に
この神社の一の鳥居があるのですが
ここから神社の参道が始まります。

当時の寺社領域の感覚がわかるでしょう。

393 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 13:17:49.65 .net
川上 タケル はここの首長でしょう

394 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 15:10:56.91 .net
川上タケル(熊襲梟帥、トロシカヤ)の屋敷があったと思われるが、彼はもともと筑紫にいたらしいので、倭王またはそれに準じる立場の広域の首長ですね。

395 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 18:32:40.40 .net
末蘆国東南陸行五百里で到る、といえば、
唐津からおよそ37qの、この「川上の大環濠集落」でドンピシャではないか。
倭人伝の記録そのままの処に伊都国はあったか!!

396 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 18:57:57.13 .net
唐津
この川上
糸島

は大きく見て同じ文化圏のような気はしますね。

397 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 19:16:58.56 .net
ひと山超えれば(といっても30qくらいはあるのだが)、
川上からは、唐津へも、糸島へも、博多へも山道が通じているようだ。

そういった交通の要所であったからこそ、長らく大環濠集落が営まれ続けていたんだろうね。

398 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 19:21:44.77 .net
>>395
>唐津からおよそ37qの、この「川上の大環濠集落」でドンピシャではないか


末盧国(唐津)は、ない。  大陸との痕跡が希薄すぎ。  @阿波

399 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 20:15:05.16 .net
>>396
それが邪馬台国

400 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 20:41:04.51 .net
九州の北半分は邪馬台国
南半分が狗奴国

401 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 21:20:56.45 .net
>>398
末蘆国の種たる国邑は、唐津西方の松浦湾沿いの現松浦市あたりの四千戸だったのだと思う。
元寇の役で多くの船が押し寄せ、神風で沈んだ周辺一帯だ。

しかし帯方郡の軍船は、その末蘆国の東のはずれの寒村に、出入りしていた。
それは、ほかならぬ佐賀平野川上の大環濠集落(伊都国国衙)へ到る必要があったからだ。
だから、
末蘆港(唐津)には松浦市末蘆国の官が常駐しておらず、官名もない。このような事情で入港のたびに伊都国から一大卒が出向き、津に臨みて捜露していたのだろう。
(なお、誰かが常駐していないのはおかしい、という向きもあるが、渡海の好機は1年に2回、6月と12月だったそうだから、
そのころを見計らって、唐津へ出向けば、用が足りたわけだ)

402 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 21:25:10.63 .net
>>400
九州の東半分は投馬国

403 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 21:31:40.80 .net
川上の巨大環濠の航空写真を見ると、
当時、稲穂を摘んでいたという石包丁(鉄包丁)の形に似てるな。古代人が意識して地上絵を造ったとは思えぬが、、、

404 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 21:32:53.40 .net
>>401
>末蘆国の種たる国邑は、唐津西方の松浦湾沿いの現松浦市あたりの四千戸だったのだと思う。

末盧国(唐津)は、ない。  大陸との痕跡が希薄すぎ。



>元寇の役で多くの船が押し寄せ、神風で沈んだ周辺一帯だ。

その惨事は、大陸への帰路の出航地集結時の出来事だよ。  @阿波

405 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 21:33:01.21 .net
海岸線を利用しているのではないか?

406 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 22:14:32.90 .net
唐津は大陸との痕跡が薄いなどと、
阿波は、なかなか鋭い指摘をするな
だが、暑さで体調崩してないか、いや、体だけでなく頭の調子も心配だな

407 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 22:27:31.78 .net
>>406

福津・宗像の爪の垢を煎じて飲むとよい。  @阿波

408 :日本@名無史さん:2018/08/11(土) 23:06:31.23 .net
倭地は温暖で

冬でも夏でも生野菜を食べている。
みな裸足である。屋根、部屋がある。
父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。
赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。

中国正史書 『 魏志倭人伝 』より抜粋

409 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 06:42:04.61 .net
>>408

まさに、倭国(阿波)。  @阿波

410 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 07:00:29.11 .net
>>408
「いま倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る」

まさに、黒潮倭国(阿波)の海人。  @阿波

411 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 08:17:53.49 .net
川上の大環濠を伊都国に比定すると、
佐賀平野のクニの配置が見えてくる
東南100里の方角にあったという奴国2万戸は、現在の佐賀県庁あたりということになる
当時は盛んに水田開発が行われ、大賑わいだったのだろう

412 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 08:29:03.17 .net
>(伊都国の)東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。

たびたび指摘されているように、この部分は、
「東南へ行けば奴国に至ることができる(その距離は百里である)」、という趣旨であり、可能性を記述しているわけである。

この用法は、次の次でも出てくる。

413 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 08:30:30.26 .net
環濠は発掘されているのか?
その辺りは弥生遺跡が発掘されているのだから環濠があるのならすぐわかるはずだが。

414 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 09:08:15.80 .net
>>413
そうだな
俺も大きな関心をもっている。
これまで佐賀県当局は、周囲3q余もの巨大環濠都市を想定した発掘調査をしたかどうかだな。

415 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 09:27:09.30 .net
そうだな。
大きな環濠集落を想定していなかったら、建物だけ発掘して全体像に気がつかないままということはあり得る。

416 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 09:43:33.07 .net
環濠集落が一番外を環濠で囲んでいるだけと思っているお子様発見

417 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 09:54:47.17 .net
>>416
何が言いたいのかわからないな
クソガキ

418 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 09:56:04.07 .net
佐賀の人?
吉野ヶ里遺跡を勉強してきなさい。

419 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:00:42.65 .net
>>415
建物倉庫墓域の配置を見ればだいたいわかるんだよ。

なによりも
発掘されていないものを根拠に語るのはよくない。

420 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:08:31.17 .net
川上のあのへんは奈良から鎌倉までは
寺社を中心とした街だったようである。
縄文から鎌倉までの遺物が散見される
散布地となっている。

421 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:12:12.44 .net
山麓から川上小くらいまでが居住域で
それから南は低湿地帯だね。

422 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:14:54.69 .net
>>419
発掘されていないものを根拠に、・・・であると断定して語っているのではない

航空写真、及び現地周回道路、並びにその左右の現在状況を見るにつけ、
これは古代に営まれた巨大環壕都市の現在の姿ではないか・・・、と想定している段階なのだ。
なんせ周囲3qを超える巨大さだ。地上に立って見渡すだけでは、ただの畑と建物と舗装道路だけなんだからな。、、

423 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:18:51.45 .net
ただの畑と建物と舗装道路だけなんだろう。

424 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:38:35.26 .net
>>421
航空写真を見ると、田畑の広がり具合でそのことは納得できるな。

くだんの環壕らしきは、自然のやや小高い土地(古々代には雑木林の丘?)を利用して、居住区にするとともに、
順次、空堀を張り巡らしたように見える。
縄文以降、大完成までには幾世代も要したのではないか。
ただし戦乱期をすぎると、空堀は、次第に交易路・交通路・生活道となり、現在に至っているのではないか。

吉野ヶ里が、戦時対応の避難区域であったのに対し、こちらは政治・文化・日常生活を守るための平時対応の村であったと思える
(ま、このような「判断」は、発掘結果を待つべきではあるけれどもね・・・)。

425 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:38:37.61 .net
むしろ佐賀から福岡にかけては環濠集落だらけだと思うのだが。

426 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:39:52.18 .net
発掘された環濠集落なら好きなだけ論じればいい。
航空写真で見た直感で語るとかふざけすぎ。

427 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:44:09.06 .net
最近は航空写真やgoggleマップによる考古学や生態学もありだと思うよ。

428 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:45:41.80 .net
お前の脳内にとどめておいてくれ
迷惑だから外に漏らすな

429 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:49:17.46 .net
僻むなよ

430 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 10:53:45.69 .net
>>429
日曜日だし掘ってくれば?
水分補給して熱中症気をつけてね。

431 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:03:24.04 .net
辺縁の一部だけでもトレンチ調査できればいいのだけれどねえ。

432 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:05:20.08 .net
>>427
>最近は航空写真やgoggleマップによる考古学や生態学もありだと思うよ。


そんなに遺跡欲しいんなら、分けてあげようか?  @阿波

433 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:21:47.20 .net
グーグルマップの航空写真を見てきたけど、
環濠っぽいのは分からないな

434 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:34:01.09 .net
縄文から近世までの遺物散布地だから
そこに遺物のもとの集落があったのは
間違いないからね。

大きく掘れば全容もわかるかもしれないけど
現状では住宅建設のついでに
ちょこっとトレンチ調査しただけだからね。

435 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:38:15.06 .net
>>425
>むしろ佐賀から福岡にかけては環濠集落だらけだと思うのだが。


なんで古い形態の「環濠集落」を有難がるのかね?  理解できん。
倭国(阿波)では、「環濠集落」なんて古い形態の弥生集落遺跡はほとんだ無いがね。  @阿波

436 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 11:53:39.84 .net
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1533360836/

437 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 12:15:50.69 .net
>>425
>むしろ佐賀から福岡にかけては環濠集落だらけだと思うのだが。


九州の遺跡は弥生時代中期以前がほとんどだからね。  @阿波

438 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 12:26:14.97 .net
人間が地上に立って認識できるのは、一里四方(75m四方)くらいのものだ。
それ以上は、本格測量か、今ではグーグルマップやグーグルストリートが便利だな。

グーグルマップ&ストリートによれば、
くだんの佐賀川上の「推定・巨大環濠都市遺構」は、奈良の唐古鍵遺跡に匹敵する規模だ。
さらにその周辺には、舩塚古墳や川上の居住区も広がっており、唐古鍵をはるかに上回るだろう。
佐賀県の力で、慎重に発掘を進めてほしいな。

439 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 12:31:23.63 .net
>>438
そんなに遺跡欲しいんなら、分けてあげようか? 
「環濠集落」はあまり無いけれど。  @阿波

440 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 12:43:27.44 .net
川上の遺跡(遺構)は、墓でないのがいいな。
帯方郡使や一大率が、肩怒らせて往来した光景が目に浮かぶわ。

441 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 13:10:55.25 .net
>>439
環濠がないってことは
弥生遺跡が少ないってことかな?

442 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 13:21:45.12 .net
>>441
>環濠がないってことは
>弥生遺跡が少ないってことかな?

卑弥呼の時代の「弥生末期の遺跡」が多いってことだよ。   @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

443 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 14:25:52.57 .net
なるほど
阿波だけに、アワツブ程度の遺跡ばかりなりかぁ、、。 阿波の巨大環濠を教えれ。

444 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 15:04:29.68 .net
>>442
弥生末期に増えたということは、弥生末期に倭国に征服されたんだね。
王都ならもっと前から栄えていないと。

445 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 15:46:06.05 .net
伊都国は、佐賀・川上の大環壕都市だ。
どう見ても、畿内や阿波や筑紫へ向かうコースではない。

446 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:05:39.99 .net
阿波は環濠集落の時代は人がいなくて
環濠集落がなくなったあとに
新たに開かれた土地ってことかな。

447 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:08:01.07 .net
>>444
>弥生末期に増えたということは、弥生末期に倭国に征服されたんだね。



「弥生末期に倭国に征服された」という、その倭国の弥生末期集落遺跡群を倭国(阿波)のように示してごらん。
 
出来ないことを承知で聞いてみる。  @阿波

448 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:09:28.73 .net
環濠集落=攻められる危険性のある集落

449 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:12:57.10 .net
阿波は防衛力がなかったってことか。

450 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:15:30.25 .net
>>446

いや、心配ご無用。  倭国(阿波)は縄文時代から海人族が石棒や石斧を西日本一帯へ広めているよ。  @阿波

451 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:21:08.37 .net
>>449
>阿波は防衛力がなかったってことか。

倭国(阿波)では卑弥呼などの大王が君臨していたので、環濠などの防衛設備は不要となったのかもね。  @阿波

452 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:42:28.80 .net
>倭国(阿波)は縄文時代から海人族が石棒や石斧を西日本一帯へ広めているよ。

え、そうなん?

453 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:51:49.61 .net
>>452
阿波は不思議なところ。
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
(1)石棒
今までになく、広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。
分布範囲は、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で認められている。
(2)柱状片刃石斧
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など)
・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。

第2回 青石の考古学
 講師:中村 豊 氏
    徳島大学大学院 准教授
 日時:平成28年6月25日 土曜日 14:00〜16:00

配布資料より、一部抜粋  @阿波

454 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 16:57:07.18 .net
>>453
阿波は不思議なところ。

石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。  @阿波

455 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:05:22.47 .net
>>453
ちょっw丸ごとコピペ?w

石棒の分布が
>分布範囲は、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で認められている。

島根というのが引っかかるね。
京都滋賀も近いようで遠い。

柱状片刃石斧の分布が素直に地理的近隣に広がっているのとやや趣が異なる。


それと、
>これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。

阿波の弥生遺物でよく見かける文言だけど、
阿波も佐賀その他と同じく、もともとは海が入りこんでいて、
川上から先に発展したのかな?
徳島平野にももともと湿原があったかどうか。

456 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:39:24.51 .net
阿波は石器で細々と生計を立てていたのだなあ。

457 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:43:08.49 .net
>>455
>島根というのが引っかかるね。
>京都滋賀も近いようで遠い。

だ・か・ら・忌部一族(海人)。


> 川上から先に発展したのかな?

「勾玉」も 川上から先に発展しているよ。
高天原からの「天孫降臨」はこういったことなんだろうね。  @阿波

458 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:46:27.41 .net
>>456
>阿波は石器で細々と生計を立てていたのだなあ。


倭国(阿波)のスーパー頭脳集団はすごすぎるね。
他所は生計を立てる術もないからね。  @阿波

459 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:50:25.53 .net
佐賀市久池井で発掘された平安時代の肥前国庁跡の南北線は、
北極からわずかに西に振っているという特徴がある。

今話題の川上の巨大環壕都市(推定)を見ると、
中央に配せられた五社大明神や大願寺あたりの道の南北線も、肥前国庁の南北線にほぼ合致する。
平安以前の肥前国庁は嘉瀬川の西にあったと伝えられているそうであるが、
もしかして、この巨大環濠都市の中に官衙を構えていたのであろうか、、、

460 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 17:58:38.60 .net
掘れ。
だが環濠集落は倭国首都では無い。

田川の前方後円墳らしきのも掘れ。

じゃないと〇とも×とも言えんから、
議論には全く使えない。

461 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 18:11:06.48 .net
>倭国(阿波)のスーパーはすごすぎるね。
>他所は生計を立てる術もないからね。  @阿波

石棒

462 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 18:52:31.68 .net
せっかくの休日に
@阿波に負けるとは
肥前川上はまだまだ5ちゃん新参者だなw

463 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 19:37:08.46 .net
東南至奴国百里・・・、の次は、

東行至不弥国、百里、有千余家
(東に行って不彌国に至った。千余家あり)
これもよく知られているように、「行」という動詞があるので、実際に東に行動した結果となる。
そこは吉野ヶ里、と言いたいところだが。ここは元々高地であり水に恵まれなかった。
日常生活には適さず、非常時に立てこもる戦斗村だったわけだ。

で、倭人伝に書かれている不彌国官衙は、その手前の「神崎市」にあったとみるべきであろう。
川上の伊都国官衙からは百里(7.4q)をやや上回るが、それはご愛嬌。
以上で、伊都国・奴国・不彌国の三国が、佐賀平野にピタリ収まる。

464 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 19:39:07.00 .net
>そこは吉野ヶ里、と言いたいところだが。ここは元々高地であり水に恵まれなかった。
>日常生活には適さず、非常時に立てこもる戦斗村だったわけだ。

元々河口付近の海岸集落だよ。
水はいくらでも流れてくる。

日常生活に適するから何百年も継続して運営されていたんだよ。

川上にはなんも出とらん。
弥生遺跡はどれよ?

465 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 19:57:31.93 .net
>>462
>せっかくの休日に
>@阿波に負けるとは

なにを高みの見物ぶってるの?  @阿波に勝てる所なんてどこもないよ。  @阿波

466 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 19:59:02.71 .net
クズスレでクズ同士が言い合っておる。

休日の余興としては
なかなか楽しい見世物であったぞよ

ホホホホホwww

467 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 20:00:43.05 .net
>>464
吉野ヶ里は、日常生活に不便だから、昭和の世まで、手つかずに残っていたのだ。
それを工業団地にしようか、観光資源にしようかと議論があって、発掘された。

川上のことは
佐賀遺跡ネットで探せ

468 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 20:04:46.09 .net
川上は、日常生活に不便だから、昭和の世まで、手つかずに残っていたのだ。
それを工業団地にしようか、観光資源にしようか、そんな話も無く
今も手つかずに残っているままだ。

川上のことは
佐賀遺跡ネットで晒せ

469 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 20:24:54.90 .net
川上に、古代巨大環壕都市があるなんざ、
グーグルファンには常識
くまモン と さがモンが知らんかっただけ

470 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 20:50:28.08 .net
まあ、川上へんに土地勘があれば
あるやろなって感覚はあるな。

旧道48号線を境に山側が
乾いた住みやすい丘陵地で
南側が稲作に適した低湿地帯。

昔からそんなに変わらない土地で
弥生時代だってそう変わるもんじゃないし。

発掘はどうしても建設のついでにやるので
遺物散布地で点でしか発掘してないが
あのへんをまとめて掘れば
ある程度全容が確認できるかもね。

471 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 20:52:26.00 .net
だからさっさと掘れよ。

472 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 21:00:41.28 .net
北部九州に限らないと思うが
壊す可能性がない限り掘らないよ。
金も発掘作業者も足りないからね。

発掘して大物にあたったら
研究機関はあっさりパンクする。

発掘らしい発掘ができたのは
いろいろ駆け回って
国に予算をつけさせることに成功した
吉野ケ里くらいだよ。

473 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 21:02:31.25 .net
口座開設して直接募金にすりゃいーじゃn

474 :日本@名無史さん:2018/08/12(日) 21:22:55.63 .net
>>460
>田川の前方後円墳らしきのも掘れ。

掘るだけ無駄
あれはただの低い丘
古墳だったらもっと高い

475 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 01:08:18.73 .net
環濠集落は中世にもつくられ、現代まで残っているところもある
これ、豆な

476 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 12:32:30.54 .net
グーグルで糸島を探したけど、小集落程度が散在してるだけだな
昔は、燃料の薪がなくては生活にならなかったから、背後に薪山が絶対必要。
平野部の国道・鉄道沿線は、無理無理。
けっきょく、官衙跡みたいのは、なーもみつからんかったわ

477 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 13:34:32.81 .net
巨大な怡土城だってGoogleマップでは見つけるのが困難だから、弥生の遺構が見つからなくても不思議ではない。
それはなかった証明にはならない。

478 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 13:43:17.46 .net
糸島は瑞梅寺川と雷山川の間に集落があるだろ。
あのへんが伊都の中心だね。

あと、高祖神社その北西の大門が伊都城跡。

JR周船寺駅から山側も遺跡の多い地域があるね。

479 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 14:00:26.23 .net
高祖神社そのものが怡土城の中心的構造物だろうね。
大門がそのまま宮城の大門だろう。
尾根にも高楼が複数あり、まさに楼閣高しだ。

ところで、伊都国は三雲ではないか?
郡使が長期滞在するには宮城に近い方が都合がいいだろう。

480 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 14:27:54.68 .net
伊都国というくくりなら
二丈町から周船寺までの内陸部分が伊都国でしょう。

202号線を境界として、海側の半島が
シマ国でしょうね。

481 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 14:39:53.46 .net
波多江というのは新羅かなんかの渡来人のコロニーだろ
川に挟まれ、たびたび洪水に遭って、纒向と似たような不安定さだ。気の毒にな。

ま、伊都国というからには、怡土城とかの軍事施設だけでなく、政治行政のための官衙を擁していなくてはならぬ
糸島にはそれらしき遺構が見当たらん
また、倭国の半分くらいを一大率が監督し、郡使も往来するというのに、
いかにも交通・立地がよろしくない。どうみてもどん詰まりの片田舎だ。仕事にならんかったろな。。

482 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 14:40:12.44 .net
>>479
>高祖神社そのものが怡土城の中心的構造物

高祖神社も怡土城も時代が合わないだろうに

483 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 14:46:17.57 .net
>>468
環壕があったのは川上ではない。嘉瀬川の東側にある惣座である。

惣座の東側では吉野ヶ里と同じ構造の環壕の一部が発掘されている。
惣座の西側は天然の環濠として嘉瀬川が流れている。
惣座の北側は山。惣座の南側の環壕は未調査未発見。

惣座の環濠の内側には、後世に肥前国庁が置かれている。


惣座の環濠は方保田東原遺跡の環濠に似ている。
西側と南側は菊池川で天然の環濠をなし、
北側は菊池川に合流する川が天然の環濠をなし、
東側には人工の環壕が発掘(トレンチ調査)されている。

484 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 15:13:32.23 .net
>>483
惣座遺跡なら知ってる
ここが、末慮国からの東南陸行五百里の候補というのは納得がいく
ただ、伊都国だとは思わないけれど

川上のひょっこりひょうたん島とかいうのは、ガセネタだってことでいいのかな

485 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 16:18:42.81 .net
>>484
ひょっこりひょうたん島は、
惣座の前の時代には嘉瀬川の西のオギにあったという旧国庁との関連で、
最近指摘されるようになった縄文〜鎌倉くらいの多重遺跡の区域。全容は未調査・未発掘。

486 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 16:22:29.76 .net
>>485
地図を見ても、航空写真を見ても、特に区画があるようには見えないんだがな?

487 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 16:43:53.17 .net
>>486
永い間、指摘する人もなかったようだ。
だから、現場の状況を良く知る地元佐賀の専門家でなくては、
空撮を見ても、川上の現地を見ても、見分けにくいんじゃないの。

488 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 16:47:50.59 .net
Googleマップで邪馬台国を見つけようとしてるスレはここですか?

489 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 16:50:21.49 .net
>>487
>空撮を見ても、川上の現地を見ても、見分けにくいんじゃないの。

つまり、見たい人の心の目で見ないと分からないってことだなww

津堂城山古墳の周庭帯は航空写真で見れ場、誰の目にも明らかだと思うけれど

490 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 17:00:54.79 .net
当時は倭国大乱の世相だったから、
上はクニから下は農民奴隷まで、水堀、空堀、木柵とか、
何らかの防御策を凝らした区域の中で暮らし、就寝していたんじゃないかねえ。
要するに、その面影がどれだけ現代まで残されているか、いないかということだと思うね。
惣座や方保田は、良く残されていた遺跡ということだろうね。

491 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:06:55.94 .net
>>481
>ま、伊都国というからには、怡土城とかの軍事施設だけでなく、政治行政のための官衙を擁していなくてはならぬ

硯が出た三雲のあたりでしょう。
まさに行政のための官衙地区でしょうね。
魏の郡使が滞在したのもこの辺りでしょう。

492 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:08:33.45 .net
>>482
7世紀以前の記録がないだけで、おそらく古代からあったのでしょう。
何しろ博多湾と、伊都国と奴国を結ぶ日向峠を監視できる、絶好の立地ですから。

493 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:10:53.07 .net
>>488
海外では同様の報告が増えているので、手法が確立さられれば国内でも増えるでしょう。

494 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:28:38.96 .net
で、自然丘陵を超巨大前方後円墳と誤認して騒ぎだし、
それを真に受けたマスゴミによって誤情報が拡散されるんですね
わかります

495 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:31:07.84 .net
石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」

森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」

白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」

菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」

原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」

496 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:44:51.55 .net
つ権現山51号墳

布留0併行期の土器と三角が供伴

497 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 18:58:18.71 .net
>で、○墓古墳を超巨大な○弥呼の前方後円墳と誤認して騒ぎだし、
それを真に受けたマスゴミによって誤情報が拡散されるんですね
わかります


はて、どこかで聞いたような、、、、

498 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:06:58.37 .net
>>493
んだね。
ナスカの地上絵は、地上から探したのではとんと要領を得ない。
しかし、グーグルマップなら、皆さんの机の上で見つけ出せるもんね。

499 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:13:52.55 .net
でも川上の巨大環濠集落は、見つからないよww

500 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:15:55.25 .net
>>499
地図上で佐賀平野でいくつの環濠集落を見つけられた?
見つけられなかったのなら、あなたには見る目がないということ。

501 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:18:06.59 .net
>>491
三雲は悪くないね。
平原墓地と怡土城を結ぶ間にあって、定石どおりだ。
しかし博多の奥の院のような静まった立地は、ちとさみしいな。

502 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:26:31.17 .net
>>499
おい、「巨大環濠集落」ではないぞ。
よく見ろ、「巨大環壕集落」といってな、壕の字は土ヘンの空堀の意味だもんな。

ま、グーグルではおよそ目星がついているようだ。
あとは、佐賀県教育委員会の手に移ることになるな。
残念ではあるが、我々が勝手に調査・発掘はできないからね。

503 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:31:48.10 .net
>>501
博多が巨大になりすぎたんでしょう。

504 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:59:59.35 .net
末蘆国から、
東南陸行五百里到る伊都国は、佐賀・川上のひょっこりひょうたん島にあった!

俺もグーグル見てみたが、なるほどなあ、そういわれてみればそうかもしれないな・・・。

505 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 20:12:19.00 .net
>>500
>見つけられなかったのなら、あなたには見る目がないということ。

そういって逃げてないで、「具体的にどこにあるって指摘」してよ
川上以外でさ

506 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 20:13:49.45 .net
>>504
>俺もグーグル見てみたが、なるほどなあ、そういわれてみればそうかもしれないな・・・。

グーグルで見て、ひょっこりひょうたん島が分かる人は、おかしい

507 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 21:18:04.35 .net
邪馬台国の場所を発見できた場合ってどこに言えばいいんですかね?あと、報酬とかも貰えたり出来るんですかね?

508 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 21:23:58.31 .net
>>506
そうか、
おまいも、グーグルを丹念に見たんだな。
だけど、あれをひょっこりひょうたん島というのはおかしいというのだなww

509 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 21:26:10.70 .net
括れがある形状ということだろう。

510 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 21:32:55.86 .net
もしかして、
ひょっこりひょうたん島の川上ノタケルは一大率だったのか

511 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 22:20:48.18 .net
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

512 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 23:23:38.43 .net
>>508
>だけど、あれをひょっこりひょうたん島というのはおかしいというのだなww

そもそも輪郭線がない

513 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 01:11:41.21 .net
え?
あったと思うよ?
道路になっていたでしょ?

514 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 07:12:27.70 .net
>>512
川上の地形からして、ひょっこりひょうたん島の付近は地下水位が低いらしく、ほとんど畑に見える。、。
グーグルストリートで地上画像を見ても、だだっ広い畑がひろがっているな。
だから、ひょうたん島の周囲は水をためた堀(濠)でなく、空堀(壕)だった。
その空堀は現在道路として活用されており、輪郭線は舗装道路になるので、空撮画像では白っぽく見える。

ま、ひょうたん島にしてはクビレがなく、いささか太り気味ではあるけどな。

515 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 07:20:10.45 .net
初めはひょうたん島っぽいのが拡張されて
川上小までの四角い領域にひろがってる
ようにも見えますね。

516 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 07:47:37.69 .net
そのとおり、
五社大明神と大願寺の間を通る南北線を南へ下ると、川上小学校の敷地西側へ到る
これが伊都国時代からの都大路だったように見える。
いささか話を盛るようだが、
王族・貴人・官僚は上流にひょうたん島の環壕木柵を巡らして住み、
人民は下流に、これまたそれなりの輪郭線を巡らして生活していたように思える。

望ましくは、昭和40年ころまでの旧地図があれば、もっと明瞭に判別できるのではないか。

517 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 09:49:10.47 .net
丘陵地で井戸水に限度があったからしれないが、意外に立て込んでないね。
それが幸いしてか、古い時代の道割りが残されているようだ。
吉野ヶ里と好対の遺跡・遺構&観光資源かも

518 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 10:33:15.58 .net
これではっきりした。
伊都国は佐賀川上。
糸島のはなんちゃってイトコクだったな。よって九州王朝説も、畿内大和説も××

519 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 11:04:10.43 .net
どうやったらそんなものが見えるのか、教えて欲しい
どこから、どこにあるって言うんだ?

520 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 12:11:30.37 .net
小学校の時の地図では見えんぞ

「Googleマップ」と入力し、ポチっと検索して、航空撮影の日本地図を出せ。
まず最初は、君の住んでるあたりの空撮画像が表示される。話はそれからだ。

521 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 12:38:53.41 .net
>>520
>「Googleマップ」

それのどこからどこまでなのか、もっと細かく具体的に
確認できる地名や建物などで規定してくれ

522 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 12:47:34.59 .net
>>520の続き
次は、その地図画像を小さくして、九州の佐賀県を中央に置く。
次は、画像を拡大して、佐賀市を見つける。
次は、佐賀市の西を流れる川をさかのぼると、国道48号線に至る。左右に伸びる白く見える道だ。
次は、その48号線を西へ1qほど行く。すると川上小学校がある。
次は、その川上小学校から北へ上る。1qほどで、長崎自動車道をくぐる。

この長崎自動車道と北の山地の中間に、白い道路で取り囲まれた島のような区画が見えるだろう。
頭の黒いアゲハチョウの幼虫か、イモ虫のようなずんぐりした形に見えるかもしれんな。
東西1qほど、幅は200mくらい。
これがちょっぴり太めの、ひょっこりひょうたん島、というわけだ。

523 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 13:18:18.22 .net
やっと、言わんとしている場所が分かったよ
東の端が佐賀木材と久米運送の敷地になっているところだな?
で、西の端が池になっている領域だろ?

でもこれ、グーグルマップだと道が強調されるから
意味ありげに見えるだけだと思うぞ

524 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 13:48:36.19 .net
分かってくれてありがとさん

次に、その周回道路のどこかのにカーソルを当ててクリックする。白い丸Pが表示されるので、
そのままの位置で、目いっぱい拡大する。すると地上から見る画像に切り替わる
これがグーグルストリートだ
次に、道路上に表示される白い矢印か、その前後にカーソルを当ててぽちっとする
これで、風景が順次前へ進む
これは、360℃レンズで自動車から撮影した地上画像だ。
次に、画面を上下左右に振るなり、拡大縮小もできる
次に、こうしてひょうたん島をぐるり一周する。

このようにして周回すると、ほとんどの地点で、道路面より道の内側(島側)が1-2m高くなっていることに気づくだろう
このことからこの道路は、昔々の空堀(環壕)を、最初は歩きの生活用、そして大八車・牛馬車用、やがて自転車用、、、
そして現在見る自動車用の道路と、次々転用しつつ利用されてきたと推定してるわけさ。

525 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 14:11:03.61 .net
そういえば京都をgoogle mapの航空写真で見たら
平安京の碁盤の目が見えるねって
京都出身の友人に言ったら、

何条とかの地名は残ってるけど
当時のものは寺くらいしかないから
ほとんどわからんだろうって言ってたが
実際に見せたらびっくりしてた。

場所によっては道とか町の作りって残るよね。

526 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 15:27:32.06 .net
いつの時代も
それぞれの土地区画にはそれぞれ所有権や利用権がある。
そしてその境界に当たる大小の道とか、水路とか、がけとか、空き地とかは、時の権力者のものか、地域の共用地であることが多く、
このため、所有者が入れ替わっても、境界線そのものは引き継がれる。
特に道路と用・排水路は長らく残りやすい。

つまり境界線は、道路・水路・木立等として連続し、或はとぎれとぎれながらも、時代を超えて残り、今グーグルで見ても、けっこう目に見えるわけだ。
川上のひょうたん島は。その一事例とみた。

527 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 16:33:13.22 .net
>>524
>ほとんどの地点で、道路面より道の内側(島側)が1-2m高くなっていることに気づくだろう

これはウソだったね
ほとんど平坦地の中のただの道だよ

528 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 16:39:12.52 .net
山から低湿地帯に至る扇状地の緩やかな斜面だから
南側から北側に向けて高くなってるのが当然だよ。

その傾向が変わってるなら
なにか整地されたのかもしれないね。

529 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 16:42:00.33 .net
>>527
おう、見てくれたか。糸島信者はなかなか熱心じゃ。

南側は、途切れてるところがある
それは畑一枚分南に段差があるためのようだ、畑のなかはストリートでは見えにくい
からな

530 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 17:06:46.26 .net
>>529
>糸島信者はなかなか熱心じゃ。

いや、アンチ伊都国説だけどww

531 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 17:19:45.29 .net
伊都国説を支持するけど、あれは環濠集落の可能性があるが、伊都国ではないね。
九州によくある環濠集落の一つかな。
規模はかなり大きいけどね。
現状では予算がなくて放置なのかな。
邪馬台国が九州北部だとしても、福岡県以外はかなり予算的に厳しいかもね。

532 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 18:41:24.37 .net
グーグルストリートで道路状況を見るときの要領だが、
元々は、空堀の底面と島の地面には結構な段差があったはずだ。
だから、空堀底面に、即、アスファルト舗装をしたのでは、車がひょうたん島に出入りしにくい。
大型車だと、車の底が路面につっかえて、カメさんになってしまう。
そこで佐賀県は、空堀に相当の盛り土をして、かさ上げしてから、舗装をしたのだろう。
あちこちの車の出入り口を見ると、不自然に勾配がついているのが見える。


533 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 19:04:28.96 .net
>>528
俺もそう思う。

534 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:38:56.18 .net
>>532
>あちこちの車の出入り口を見ると、不自然に勾配がついているのが見える。

「山から低湿地帯に至る扇状地の緩やかな斜面だから」じゃないの?

535 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:19:56.82 .net
>>534
それがだねえ、真逆なんだよ
扇状地の斜面の下方が高くなってて、しかもそれが延々と続く。だから人為遺構のせいかなと。

536 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:55:54.60 .net
伊作氏が去って、今日は5回目のお盆になるかな
当時最先端の佐賀ルート説は大いに役立った。
その影響は偉大にして、勢いをなくしたスレとネラーは少なからず・・・。
ところで、
邪馬台国候補として伊作氏がお気に入りだった熊本県庁一帯の詫間原は、
地元熊本ではタクマバルと読む。大和言葉に直せば、タクマガハラだろうな。
最近思うのだが、このタクマガハラが訛って、日本神話の高天原(タカマガハラ)になったのではないのかな。

537 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 13:01:33.76 .net
>>536
正解

538 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 16:11:24.57 .net
高は接頭語、海の原ですから、海の向こうの王国です。
対馬か壱岐でしょう。

539 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 17:24:51.99 .net
日高見国が高天原だって言ってる人もいるよ

540 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:03:15.26 .net
それはないな。
後から攻めに行くエミシの国だから。

541 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:21:42.41 .net
でも、日向出身の王朝が、景行、ヤマトタケルと、九州征伐に行ってるよ
高天原はその前だから、あってもおかしくなくね?

542 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 20:47:28.22 .net
景行天皇は筑紫梟帥と共闘して倭国中枢の内紛に介入しただけ。
ヤマトタケルは筑紫の王子として熊襲梟帥を倒した。
九州北部の中のイザコザで説明できる。

543 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 23:12:47.02 .net
福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれるの遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。

544 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 23:36:05.77 .net
3万戸の奴国に匹敵する国邑は当時他にないのだから、ここが女王の王都の一部でなくてなんであろう。
最大の国邑である奴国と、外交政治に特化した伊都をあわせて邪馬台国と呼んだのだろう。

545 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 23:52:12.57 .net
>3万戸の奴国
ワロタ

546 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 01:05:04.56 .net
環壕集落は周囲より高い地形を利用して作られる
よって河川が環壕集落の敷地を横断することはまずない

山地から派生する丘陵を横切る道路は起伏を押さえるため左右よりも低く作られがち

件のエリアは南北方向に延びる複数の丘陵と谷筋を横断することになり環壕集落には不向き

なお、国土地理院のHPでは戦後米軍が撮影したものから最近のものまで航空写真を閲覧できる
古い地形を観察するのに便利だから覚えておくといい

547 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 01:08:28.25 .net
>>545
おっと、2万戸だった

548 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:05:10.34 .net
>>544
>3万戸の奴国に匹敵する国邑は当時他にないのだから


で、その「奴国」ってどこを言ってんの?  @阿波

549 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:29:57.84 .net
>>546
>環壕集落は周囲より高い地形を利用して作られる
>件のエリアは南北方向に延びる複数の丘陵と谷筋を横断することになり環壕集落には不向き

早速、国土地理院の空中写真チェックしました。
くだんの地区は複数の丘陵谷筋を横断するものでなく、一つのなだらかな丘陵の上に東西約1q、南北幅約200mにわたって存在しています。
昭和23年〜45年の写真も概ね現在の状況と同様で、周囲はほとんど畑地なのに、島の内部は南北の道路割がきちんとなされ、
五社大明神を中心に家が並んでいて、古えからの街並みをうかがわせます。

現在では 多少建物が増えたようですが、それでもひょうたん島の原型と周辺の道路事情ははよく残されています。(歴史的な好立地でもあり、発掘調査の価値大)

550 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:48:04.64 .net
同じ国土地理院のサイトで地形も見ることができる

地形図でも航空写真でも複数の川が流れているのを確認できるぞ

古い航空写真で家が集まってるところが微高地の上
家がなく畑になってるところが川が流れてる谷筋だ

551 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 08:04:41.76 .net
川というよりは小さな生活用排水路だな
茶碗や野菜を洗ったり、
水路によっては、そこに跨って水洗トイレ代わりにしたりさ(←これは特に大事な機能)。
丘陵・道路にアップダウンがあるかどうかは、グーグルストリートで見れば良くわかる。

552 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 08:59:51.38 .net
南北方向の道なんて何の根拠にもならないがなぁ
例えば吉野ヶ里で集落内の道路がどうだったか、って話し

553 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 09:12:30.29 .net
吉野ヶ里は、戦時非常時に籠る戦闘用の村。
川上のは、帯方郡使も留まる由緒正しき伊都国の官衙。格式が違うわい。

554 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 09:13:06.01 .net
倭国は大和国です

九州説大バカwww

555 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:33:57.69 .net
>>553
妄想乙

556 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:12:01.88 .net
>>554
単純バカ

557 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:01:12.28 .net
>>552
>例えば吉野ヶ里で集落内の道路がどうだったか、って話し

でも、吉野ヶ里も、河道の間の微高地に作られた環濠集落だろ?
環濠集落の環濠が、川を渡ることはないっていう話

558 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 20:18:25.73 .net
竪穴式住居は穴を掘って作るので
地下水があると作れない。

そのため微高地など、水がたまらない場所を選ぶ。
環壕は水を抜くための掘で、
周囲の川などに排水出来るように作られる。

559 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:06:55.71 .net
>>558
>環壕は水を抜くための掘で、
>周囲の川などに排水出来るように作られる。

で、川、河道を、環濠の一部とすることはあるけれど、
河道を横切る環濠はないだろ?

560 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:33:20.64 .net
南北の道路割がきちんとなされ、って周辺のかなり広範囲で同じ方向とそれに直交する方向で地割りされてる
これ、歴史学や人文地理学に興味がある奴ならすぐわかる、条里制の痕跡だよな

561 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 10:52:37.83 .net
「環濠」と「環壕」は違う
さんすいの濠は、水をためて敵を防ぐ堀
つちへんの壕は空堀で、木柵・逆木と合わせて敵を防ぐ、雨水は空堀を伝って抜けていく

562 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 13:30:00.51 .net
スマホだから区別できない。

563 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 14:12:24.73 .net
ほう、スマホにはそういう制約もあるのか。了解した。

564 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 15:58:48.85 .net
>>562
うそつくな

565 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:02:29.99 .net
「環壕」だろうと「空堀」だろうと、川や河道を横切って作られているのは
ないよな

おれが知らないだけかもしれないけれど、あったら教えてくれ

566 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:33:39.39 .net
>>565
そうだとおもうよ

だけど川といっても、人によって川幅の定義が違うからね
2メートル以上で川という人もあれば、5メートル以上で川だ〜、という人もいる。
もちろん、環濠は川を横切れないが、空堀の場合2-3メートルなら、木柵でカバーして(形の上で)渡れるだろう。
問題は、空堀環壕の中には、できれば水源として小さな水路を引きたい。また、大雨の排水も考えて、それなりの排水路も設置したいことだろうな。

567 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:45:47.89 .net
>>564
虫眼鏡でのぞいたら1ピクセルくらいは違うかもしれない。

568 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 18:45:04.61 .net
>>566
>もちろん、環濠は川を横切れないが、空堀の場合2-3メートルなら、木柵でカバーして(形の上で)渡れるだろう。

空堀を、木柵でカバーしたら防御の用をなさないだろう?
そこから攻められるよ?

つまり、川や河道を横切る環濠(環壕でも同じ)集落は考えにくい

569 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:08:57.17 .net
>>568
>空堀を、木柵でカバーしたら防御の用をなさないだろう?

だから、川幅次第さ
幅が狭くて、川というより用水程度なら、川面をふさぐ木柵逆茂木その他でカバーできる。というよりカバーする。
敵は川・用水の中を歩いて侵入せざるを得ないから不利。もちろん防御兵力もそこに集中する。
このことは、山城の排水溝でも同じで、よくあるケースさ

570 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:32:19.44 .net
妄想を守るために妄想を積み上げる
これを砂上の楼閣という

571 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 22:49:36.17 .net
ということで、佐賀川上に東西1キロの環濠集落はなかったってことで

572 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:12:06.49 .net
川挟んだ惣座に環濠集落があるんだから
地形的にはそれより適地で
遺物が多く発見される川上なら
無いと言うことはできないだろうね。

573 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:15:08.89 .net
その惣座遺跡の環濠は現代の道路になっているんでしょうねw

574 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:36:06.55 .net
>>573
惣座と川上をごっちゃにして、両者つながってると思ってるんか
お笑いだな

575 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:44:08.38 .net
>>574
川上に環濠集落の痕跡が残ってるって主張への皮肉だろ

576 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 01:04:37.67 .net
>>572
>地形的にはそれより適地で

結局ここが論証できていないんだよ

グーグルmapで、環濠集落が「見える」ってだけの発端で、
そこが実際どういう地勢なのかという議論が一切ない

577 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 06:58:34.20 .net
まあ主体部が発掘されていないから
未だに検証できていない
箸墓古墳も同じだね。

578 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 07:50:16.66 .net
なんの検証が?

579 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 07:55:50.56 .net
>>576
これまで、誰も指摘していなかったから、発掘は当然ながらまだだな
で、地勢というのは何を指しているのかい
その辺りの地上風景なら、グーグルマップに連動しているグーグルストリートで見れるよ。
人工衛星からの斜め写真や3D写真も閲覧できるし・・・、最新の空撮技術だ。

580 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 08:18:35.73 .net
地べたをはい回って土穴を掘るのは、確証を得るために不可欠、しかしそれだけでは、時代遅れ
高空から、広域的に調査し、全体像を読み取るべしだ。

九州島は、背振山・阿蘇山・祖母山・由布岳など3-4-5の高峰に登れば概ね全体を見渡せる。
三角測量もできる。
古代人は、倭国の全体像を、目視で理解していたのであろう。

581 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 16:58:02.34 .net
いや、環濠集落に適した地勢というのは、「河道にはさまれた微高地」だっていうのは、
多くの環濠集落の発掘から既に分かっていることだと思うが?

それを、「いくつもの河道を横切る東西に大きな環濠集落がある、理由は『適地』だから」と
いうのは通らないだろう?

582 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 20:40:49.01 .net
A:「河道にはさまれた微高地」
B:「いくつもの河道を横切る東西に大きな環濠集落・・・」

AとBではまるきり事実が違うと思うのだが、何のことなの?
よくわからんわ

583 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 21:42:18.42 .net
川を横切る必要はなかろ?
水抜きのための環壕なんだから
川に排水して、対岸にまた続きの
環壕を掘って伸ばすだけのこと

584 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 22:12:31.65 .net
>>582
「環濠集落の適地」は、河道に挟まれた微高地
いくつも河道をまたぐ範囲を、「環濠集落に適した地勢」というのは当たらない

585 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 22:14:42.97 .net
>>583
>川を横切る必要はなかろ?

「川をいくつも横切る東西1キロの環壕集落」があったはずって言ってる人がいるんだよ

586 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 22:22:03.68 .net
>>585
そんないくつもの川を横切る環濠がどこにあったというんだ?
教えれ

587 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 00:43:09.57 .net
>>586
北側に山があって、その山にいくつも谷筋があって、
その山裾の扇状地の領域に幅一キロの領域があって、
山から流れていくる水はどこを流れるんだ?

最大500メートルも東か西に環壕集落の外側を迂回してくれるのか

>そんないくつもの川を横切る環濠がどこにあったというんだ?

ないだろ?
そんな環壕集落を想定するのは無理なんだよ

588 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 07:17:55.57 .net
>>587
それで、その北側の山からは、東西1qの領域の間に何本の大河が流れ出しているのかい
またその大河の川幅は、それぞれ何十メートル(又は何メートル)なのかい。
それを聞きたい。

589 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:52:20.52 .net
適した大地に環壕を掘っていって
川があれば環壕の排水先にして
また対岸から環壕を掘っていくだけのこと。

川があれば排水先に都合が良い。

590 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 11:42:07.03 .net
>>589
しつこいな

>適した大地に環壕を掘っていって

これが破綻してるって話
川筋に沿って、南北方向に長い環壕集落を作るというなら話が通るが、
問題としている川上の地の地勢で、「東西に長く適地と考える」のが
これまでに発掘された多くの環濠集落の例から、著しく逸脱してるって話だよ

591 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 12:16:41.13 .net
>>590
ここは、もともとなだらかな自然の丘陵地だ。ちょっと目には、今はただの広い畑さ。
そこに幅2メートルほどの、北の山からの谷水を引いた小用水路と、
さらに北の山際に作ったため池から、ほんの小さな生活用水路が縦(北→南)に数本引いてある。人工のものだな。

すなわちこれまで発掘された他地域の低湿地のように、水をためるための濠は作れない地形である。、
だから深い空堀(いわば塹壕)を掘りめぐらして官衙+集落を形成したのであろう。
これは、
これまでの発掘事例にない形式の水を貯めない環壕(土ヘンの壕)なのだ。
だから、小さな生活用水路などを何本も横切って、横長の環壕(土ヘンの壕)が建設できたというわけだ。

592 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 12:22:42.66 .net
>>590
この川上の地に、東西環壕を妨げるほどの「川筋」といえるような川は流れていない。
だから、ここを「川上」と称するのだ。
お分かりかな。

593 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 13:06:09.43 .net
例えば、大願寺の東側の道がうねっているのは、川沿いにつけられた道だからだ
人工の水路ならまっすぐ作るだろう

航空写真で見て環濠集落に「見える」ってだけでよく頑張るな

>だから、小さな生活用水路などを何本も横切って、横長の環壕(土ヘンの壕)が建設できたというわけだ。

これはただの想像、きびしく言えば妄想

なぜこの形にしたのか?にはまったく答えられない
環壕を掘る労力を考えたら、横長にする利点はない
防御に不利だし、川を渡るところは明確に弱点になる

東西に長く平行な地割りが見られるのは>>560も書いているように
条里制を考えるのが常道

594 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:29:03.69 .net
>>593
大願寺の東側の水路なんて、川沿いというような代物ではない。
グーグルストリートで、地上写真を見れば幅数十センチの側溝程度のものだ。
なんせ其の源はさほど大きくはないため池なんだからな。
また、大願寺の西側にも水路が見えるが、
これは北山の谷水を引いた用水路で、幅1メートル50センチ程度にすぎぬ。(これを環壕の続きとして利用しても不都合はない。)
この他にも、それを以て環壕を否定するような流れはない。

なお、東西だけでなく、五社大明神の或る中央部の幅100mほどの区画については、
南へ高速道路を超えて延びる2本の道とその間に並んだ地割もうかがえる。
全体としてみればキノコの形のごとし。
ともあれ
「条里制を考えるのが常道」ということは、航空写真を見て、それなりの遺構があると見たわけだな。
(あとは佐賀県の発掘待ち)

595 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:33:11.76 .net
熊襲梟師の都なら、条里制くらいあったかもしれない。

596 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 16:04:03.82 .net
でもな、環濠集落だと主張している場所の東の端っこの佐賀木材の敷地の端の
丸いラインも「水路」なんだよ

どうしてこの水路は越えて行かなかったんだ?

なんにしても、地図で見て意味ありげだった、以上のものはなさそうだよ
発掘成果でも出たら、そのとき改めて報告してくれると助かる

前にも書いたけれど、グーグルマップは画像の上で道が強調されてるから、
それっぽく見えるってのも大きい
Yahoo!Mapの航空写真だと、そんなものは見えないよ

一方で、津堂城山古墳の周庭帯は、Yahoo!Mapの空撮写真でもはっきり分かる

597 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 16:25:22.66 .net
>>596
>どうしてこの水路は越えて行かなかったんだ?

そんなもの、現代の地割りでももっと適当だぞ。

598 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:15:58.49 .net
>>597
だから、環壕集落に「見える」ところが「適地」だっていう理由付けは無意味だってこと

599 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:46:14.11 .net
>>596
佐賀木材の敷地の東の端は3mくらいの落差(がけ)になってて、落差(がけ)の下部分に水路がある。
それから東はずーと低地。
だから環壕は、ここではこの落差(がけ)を利用したのだろう(グーグルストリート参照)。
もちろん環濠の東端はここで終わり。

600 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 22:57:36.94 .net
>>599
>佐賀木材の敷地の東の端は3mくらいの落差(がけ)になってて、落差(がけ)の下部分に水路がある。

国土地理院地図を見てきてごらん
ちゃんと等高線が引いてあるから、上記が「間違っていることが確認できる」よ

もう言ってることが痛々しいレベルになってきてるから、もう止めたら?

601 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:16:59.68 .net
キナイコシは文句ばかり

602 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:26:11.16 .net
>>600
おまいは、未だに時代遅れの国土地理院の等高線地図なんぞ頼りにしてるのか
お笑いだねww

今は、グーグルの3D航空写真の時代なんだよ。
ま、3D って意味もわかるまいww

603 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:38:42.01 .net
樹木に邪魔されないレーザー測量の方がより正確かもね。

604 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 10:08:59.48 .net
うん
最近宮内庁も古墳調査に採用している航空レーザー測量は、
その他の遺跡・遺構調査にも適していると思うね。
痕跡が残されていそうな場所は、たいていの処で樹木・樹林が茂ってしまっているからね。

605 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 10:13:39.69 .net
樹木をある程度透過して地形だけほぼ取れるレーザー測量もあるよ。高いけど。

606 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 11:34:19.05 .net
>>602
>おまいは、未だに時代遅れの国土地理院の等高線地図なんぞ頼りにしてるのか
>お笑いだねww

そう言って出してる根拠が、グーグルストリートってバカですか?
家の敷地を平坦にするための土止めを、段差って言ってるだけだろう
微高地の末端にあんな傾斜のきつい斜面なんてないぞ

607 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 11:38:47.82 .net
>>604
>最近宮内庁も古墳調査に採用している航空レーザー測量は、

あれは、デモンストレーションであって、継続的に古墳の赤色立体地図を
作っていく予定はなさそうだよ

まあ、箸中山古墳、西殿塚古墳、コナベ古墳、御廟山古墳という選択は、
なかなかよいと思うけれど

608 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 12:00:01.26 .net
グーグルストリート割と優れもので
起伏がわかるモードに切り替わるけどね。
映像加工の平面視ではなくて
三次元空間での地形が見えるよ。

609 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:07:58.84 .net
そりゃ予算によるだろう。
佐賀県か九州大学が予算を取れれば調査できるだろう。

610 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:15:01.28 .net
>>606
ほう、多少はグーグルストリートを使えるようになったか。
あれは、操作次第で画面の方向が変わる。常に東西南北を確認すべし。

>微高地の末端にあんな傾斜のきつい斜面なんてないぞ
これは佐賀木材の敷地の東端ことか?

空からの写真と比べてみろ。やや滑らかな傾斜だったところを、佐賀木材が埋め立てて、傾斜がきつくなってるんだよ。
久米運送の敷地もそうだ。その間に埋め立ててない部分がある。そこは緩やかだ。
この東端と、西端の池の方は、微高地の東西末端だから、ともにきつい斜面だ。これは当然。

611 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:39:29.39 .net
>>610
>西端の池の方は、微高地の東西末端だから、ともにきつい斜面だ。

西端の池は、どう考えても後代の作池だろ?
そのときに作った堤防をみて、傾斜がきついとか言ってもしょうがないだろうが

612 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:43:15.95 .net
>>610
>やや滑らかな傾斜だったところを、

ややなだらかじゃなくて、本質的に高低差はないんだよ
そこを微高地と言い張っているだけ

まあ、横のクリークよりは当然に高いのだけれど、大願路横の水路や
大久保台場展望所の池の脇の水路はまたぐと言いながら、佐賀木材のところは
「現代の造成地形」をもとに、微高地の端というのは単なるダブスタだよ

613 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 14:50:10.39 .net
>>611 >>612
言ってることがわけわからんな
分かりやすいように聞くけど、
それじゃ大願寺一帯の東西1qは微高地でなく、其の周囲の水田地帯と同じ高さだったといいたいんだな

614 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:28:56.99 .net
>>613
>それじゃ大願寺一帯の東西1qは微高地でなく、其の周囲の水田地帯と同じ高さだったといいたいんだな

「東西一キロの長さで連なる横長の微高地」などはない
これははっきり言える

それを、「東西1キロの長さで適地」だったからその周囲に空堀を掘ったと言われれば
それは根拠なしというしかないだろう

615 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:46:32.88 .net
>>614
おまいの文章はいたって甘いから、念を押そう。
精密に言うと、こういうことだな↓

>「東西一キロの長さで連なる横長の微高地」などは(大願寺・川上地区には)ない

616 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 17:37:29.50 .net
甘いも何も、今話題にしているのは川上地区にあったと
言い張る人がいる幻の東西一キロの環壕集落についてだろ?

括弧書き、いるか?

括弧書き以外はそのままだろ?
どの辺が甘いんだ?

617 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 20:30:14.43 .net
どうやら地元住人が、
必死で、火消しに走り回っているようです。

618 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:42:04.95 .net
陰謀論は敗者の証

619 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 22:28:23.69 .net
不思議なことだ。
必死に否定する理由は無かろう。3D空撮を見れば明らかなことなんだからな。

620 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 22:50:23.94 .net
明らかじゃないから突っ込まれてるの理解できないの?

621 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 23:04:28.29 .net
3D空撮を見れば明らかなこと,
増して地元民なら。。。

622 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 23:09:16.04 .net
思い込みもここまでくるとビョーキだな

623 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:03:54.01 .net
実際にはないものが見えるのを、幻覚って言うんだよ
錯覚って場合もあるけれど

624 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:12:39.84 .net
この航空写真を見て東西1キロの高台があるように見えるなら眼科へ行くべきだな
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=200148&isDetail=true

625 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:14:44.91 .net
↑リンクしてる部分だけじゃなくて全部をコピペしてくれ

626 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:54:34.73 .net
>>625
問題になっている領域は全体が軽く入っているぞ

これで10キロ四方くらいの範囲になるかな

全部って何のことだ?

627 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:38:26.89 .net
>>626
URLのことだよ
リンク先に直接飛んじゃうと低画質の画像だけど
URL全部をコピして検索窓にペーストして飛んだら高画質の画像が見られる

628 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 10:38:26.59 .net
ああ、そういうことか
でも、その前にリンク部分だけだと、トップページにしか行かないから、
目的地付近は見られないよ

629 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 12:53:28.51 .net
ブラウザによるかも

630 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 12:56:50.69 .net
で、幻の環壕集落を主張していた人は、高台、微高地を見出すことはできたんだろうか?

631 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 14:23:03.97 .net
その辺りが遺跡の密集地であることは確かなので、見込みが外れても何かは出るよ。
あとは予算の問題。

632 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:01:50.34 .net
環壕集落仮説は引っ込めるということでよろしいか?

633 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:16:18.11 .net
遺跡散布地だから集落があった事は間違いない。
扇状地の微高地だから条件は揃ってる。
環濠集落がないと言い切れる証拠はないね。

634 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:26:11.88 .net
言い直そう

東西一キロに及ぶ大環壕集落があったという仮説は引っ込めるということでよろしいか

635 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:27:48.20 .net
そして、微高地単位の一つ一つのの環壕集落を想定するのであれば、
グーグルマップで東西1キロの大環壕集落の痕が見えるというのは、
引っ込めるということでよろしいか?

636 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:29:37.85 .net
惣座遺跡が、弥生時代の拠点だったことは認めてるよ

だとすると逆に、そんなに近接して別の拠点があったと考えるのも難しいってこと
拠点集落は周辺の小集落を統括する立場にあると考えられるからね

637 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:31:09.14 .net
>>624
このリンク先の写真はどうなったの

638 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:54:03.12 .net
>>637
>このリンク先の写真はどうなったの

今より古い時代の航空写真だね
佐賀木材がまだない頃の写真で、佐賀木材がないと
そこに境界線を引くべき微高地の端が存在しないことがはっきりする

639 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:12:12.15 .net
適地があり、遺物が出る。
遺物がある以上集落があり
地下水を抜くための環壕を必要とする。
環濠集落がない理由にはならんだろ。

あくまでも仮説だからね。

640 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:33:13.25 .net
で、グーグルマップで「東西1キロの大環壕集落の痕跡」が確認できるというのは
まだ主張し続けるのかい?

641 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:34:45.85 .net
>>639
>適地があり、遺物が出る。

これまで、今問題にしている川上地区で遺物が出るって話は出てなかったと思うが、
典拠があるなら教えてくれ

一キロほど離れた惣座遺跡では多くの遺物が出るのは知ってる

642 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:03:58.03 .net
>>641

https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031880/3_1880_77506_up_zlapggne.pdf

佐賀県遺跡地図、佐賀市北部
このPDFの0202〜0206が該当地域ですね。

散布地となっており、弥生から中世までの遺物が出土しております。

643 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:07:13.33 .net
>>642
中世の遺物はどうでもよくないか?

それに遺物散在地って、土器のかけらが一個出たとかだぞ

644 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:09:15.34 .net
pdfみてきたけれど、特に見るべきものは出てないってことだな

645 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:09:39.48 .net
川上付近の考古資料です。


https://www.saga-otakara.jp/search/result.php?mode=area&id=2&scategory=56&category=10

646 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:12:11.12 .net
遺跡散布地なんで、長い時間でいろいろと分散しているものだと思いますが
遺物があり、おそらくはそこに集落があったのは間違いないでしょう。

むしろ、どういう根拠でないとおもったのか?

647 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:34:22.04 .net
>>646
>むしろ、どういう根拠でないとおもったのか?

人が住んでる=集落じゃないからね
散村って言葉もある

大願寺二本松遺跡は県史跡大願寺廃寺の約1キロメートル西に位置する縄文・古墳・奈良・平安時代の集落跡である。
特に奈良・平安時代の建物群は計画的な配置がみられ、官衙関連の遺跡と考えられる。

弥生時代のことは、考えなくていい遺跡じゃないかな

>>642で紹介された、卯和尾遺跡も大願寺一本松遺跡も>>645のURLのページにはないし

648 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:37:15.60 .net
グーグルマップで「東西1キロの大環壕集落の痕跡」が確認できるというのは
まだ主張し続けるのかい?

これには答えてくれないのかい?

649 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:49:27.58 .net
遺物が存在するから集落が存在したのは確実だね。

で、仮説として地図の道や地形が環濠集落を表しているのではないか
という仮説を誰かが出したわけだが、
おそらくは発掘しない限りそれらが検証されることはないだろう。

しかし、集落がないという批判や、遺物がないという批判には
遺跡の記録を示すことで反論した。

環濠集落がないという根拠を上げてくれないのかい?

650 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:13:50.78 .net
こちらが言っているのはあくまで
「東西1キロの大環壕集落の痕跡」についてだ

もともとが、吉野ヶ里を凌ぐ大環壕集落がグーグルマップで探せるって
いう話題提供だったんだから

「東西一キロの大環壕」の看板を下ろすなら、わりとどうでもいい

651 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:13:55.30 .net
>>638
国土地理院の地図・写真かな?
だったら、検索住所・検索結果の番号・撮影年度・カラー/白黒などがわかれば、
トップページから誰でも検索できる。
レスに書いてくれ。

652 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:16:34.25 .net
>>649
>遺物が存在するから集落が存在したのは確実だね。

実はこれは正しくない
土器片一個でも遺物には違いないが、狩りの途中で落としたものかも知れない
土器を作った集落は「どこかにある」のだろうが、土器片一個が出たところに
その集落がある保証はどこにもない

遺物散布地程度は、あまり集落とは結びつかないよ
少なくとも、国の存在が伺えるような集落ではない

653 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:24:08.54 .net
>>634
東西1キロは、小さくはないが、大きすぎるほどでもない。

654 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:25:28.95 .net
>>636
>だとすると逆に、そんなに近接して別の拠点があったと考えるのも難しいってこと

勝手な思い込みだろう。
福岡なんて、環濠なしに遺跡が何キロも連続している。
あなたの住む町と隣町の距離はどれくらい?

655 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:29:48.25 .net
>>650
>「東西一キロの大環壕」の看板を下ろすなら、わりとどうでもいい

「東西一キロの大環壕」などと言わず、「東西一キロの環壕」なら、別に弥生時代の九州北部なら珍しくないのでは?
予算の関係で保存したままの同程度の環濠は珍しくない。

656 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:48:12.64 .net
ドンと来いスレからコピペ:
>この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、
小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。<

657 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:53:15.50 .net
>>624
で、東西1キロの大環壕を否定する根拠となった航空写真のタグ情報はまだなの?
国土地理院のHPから検索してみるんだけど。

658 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:10:01.26 .net
>で、東西1キロの大環壕を否定する根拠となった航空写真のタグ情報はまだなの?

そのままコピペすれば見られるよ

659 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:11:29.20 .net
川上地区なんて、低湿地帯が近く稲作も容易で、
扇状地の微高地なので竪穴式住居も作りやすい
弥生人が好みそうな土地だな。
よくそんな地域に集落はないとか遺物がないとかいえるもんだ。

660 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:17:10.72 .net
北部九州の住みよさそうな地域は、調査しなくても遺跡はある
といって差し支えないからねえ。

それくらい北部九州の弥生遺跡の密度は高い。

661 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:17:54.89 .net
>>657
あと、普通に地理院地図をブラウザで見に行って、左上の情報から
空中写真・衛星画像を選べば、古い写真が見られる
1974年〜1978年を選べば、佐賀木材のないカラー写真が見られるよ

662 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:20:36.78 .net
>>659
>よくそんな地域に集落はないとか遺物がないとかいえるもんだ。

話をそらし始めたな
九州説の人がよくやることでいつもあきれているところ

「水路をまたぐ横長一キロの環壕集落はない」ってことでいいな!
グーグルマップ考古学はあまり役に立ちませんでした、
ただの思い込みでしたってことでいいな!

自分の間違いを意地でも認めずに、話をそらしていくのはやめな

663 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:22:39.48 .net
>>662
無いと言いたかったら
自分で無いという根拠を示しなさい

664 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:27:38.21 .net
>>658
見えた、見えた
USA-M934-1-5とかいう、白黒の空中写真でいいのかな。
こりゃ、無理だ。昭和20年代ころの年代物かいな。
ひどくボケててとても判別できん。あした眼科へ行ってくるわ。

665 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:33:19.17 .net
>>664
もう少し新しい解像度のいいカラー写真も見られるよ

>>661を再掲
あと、普通に地理院地図をブラウザで見に行って、左上の情報から
空中写真・衛星画像を選べば、古い写真が見られる
1974年〜1978年を選べば、佐賀木材のないカラー写真が見られるよ

666 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:34:31.60 .net
>>663
>自分で無いという根拠を示しなさい

何度も書いているが、環壕集落は微高地を囲むもので、
河道をまたぐ環壕集落などというものはない

667 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:42:28.89 .net
ないと言うには全部を列挙しないとないとはいえんよ。

もちろん初めて発掘されるケースもあるから
なかったことを主張する無意味さを思い知るがいい。

668 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:43:21.30 .net
環壕集落があるとすれば、五社大明神のある集落部分だな
家が建っている塊の部分は、周りの畑より少し高い
ここを囲う直径200メートル程度の環壕集落ならありうると思うが、
国邑レベルの集落の大きさとしては物足りない

669 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:44:40.84 .net
不思議だなあ
看板を下すとか、取り下げるとか、
5ちゃん辺りでは聞きなれないねえ。
考古学会とか、学術論文とかでも使わない言い回しだけどねえ。

あ、そういえば、もしかしてお役人はよく使うかも、、、

670 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:45:45.59 .net
>>667
>なかったことを主張する無意味さを思い知るがいい。

おいおい、捨て台詞かよ

そもそも、グーグルマップで見たら東西1キロの環壕集落が見えるって
言い出したのはそっちなんだから、あることを論証する挙証責任はそっちだぞ

そして、「ないことの証明を求める」のは悪魔の証明ってやつだ

言い逃れの典型w

671 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:53:51.50 .net
>>670
見えると、あるは違うな
グーグルだからといって3世紀の環濠が見えるわきゃなかろ。
グーグルで(それらしき形が)見える、ってだけのこと。

672 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:54:14.57 .net
平塚川添遺跡

http://livedoor.blogimg.jp/hiratukakawazoe/imgs/6/d/6d367f2a.jpg
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html

川のある環濠集落で
環濠にかかった橋なども出てるそうです

673 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:56:59.63 .net
はじめは上のひょうたん部分だけかもしれないが
川上小学校付近まで広がってるかもしれないね。

その南の低湿地帯の稲作がはかどりそうだ。

674 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:02:29.00 .net
>>269
「グーグルMAPで見ると、
 佐嘉川の西方、高速道路の北側にある大巌寺廃寺+五社大明神を中心に、東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
 形をたとえれば、大判小判のような細長い楕円状の整然とした造りで、外周の小道も良く残されている。
 西端にある広いため池が特徴で、見ようによっては、古代の環濠集落的な感じを受ける。 」

675 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:02:58.52 .net
>>670
グーグルでそれらしきが見えたからって、すぐに証拠がそろうわきゃなかろ。
予算がついて、考古学的証拠が出そろって、それからおもむろに論証にかかり、
挙証責任を果たせるには10年、20年、30年かかるさ。
吉野ヶ里でもそんな感じだった。

676 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:03:40.45 .net
>>672
>川のある環濠集落で
>環濠にかかった橋なども出てるそうです

川を環壕に使っている遺跡で、川をまたいで環壕を掘っている遺跡じゃないでしょ?

677 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:07:08.02 .net
素直にそんな「横長の谷筋をいくつもまたぐような環壕」は無理って認めればいいのに
板を渡せば環壕で川を渡れるとか言い出すからおかしな話になるんだよ

678 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:10:38.66 .net
自分の非を認めることができる=自分の主張を客観視できる
かどうかがアマチュアなりの研究家とトンデモの別れ道

679 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:56:38.10 .net
>>666
>何度も書いているが、環壕集落は微高地を囲むもので、

誰の定義?
大型の環濠なら、中に水路があって当然。
生活に困るものね。

680 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:58:30.08 .net
>>670
というか、周辺も弥生遺跡だらけなのだから、あって当然なんだよ。
東京23区内にコンビニがないことを証明せよというのに似ている。

681 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 20:59:37.42 .net
>>676
写真を見た?

682 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 21:18:48.22 .net
弥生集落がひしめいた土地だから
環濠集落くらいあってもいいのでは?

特に否定する要素も無かろう。

683 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 22:11:37.16 .net
普通の感覚でしょう。

684 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 22:15:39.39 .net
酷い自演

685 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 22:58:18.31 .net
>>680
>周辺も弥生遺跡だらけなのだから、あって当然なんだよ

また話をそらしてる
>>269では「この一帯こそ伊都国の中心地区だったのではないか」とまで言ってる
一国の中心国邑たる堂々たる大集落があるっていう主張じゃなかったのか?

土器片が散らばっている程度でいいのか?

686 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:02:59.89 .net
>>679
>誰の定義?

定義じゃないよ
これまでに発掘された環濠集落は基本そうなってるという話
そうじゃない環濠集落の例があったら紹介してくれって前にも言われて黙ってるだろ?

>大型の環濠なら、中に水路があって当然。

中に水源があるかどうかじゃなくて、水路を跨ぐ環濠なり空堀があるなら
その例を出してみてくれっていってるんだよ

環濠(環壕でもいいけど)は防御施設だってことを忘れないように

687 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:05:56.52 .net
それはあなたの頭の中の妄想だね。
幅1キロもあり、その中に水路がない方がおかしい。
どうやって生活するんだよ。

688 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:23:30.96 .net
>>681
写真は、今の遺跡公園の敷地内の分しか分からないから、遺跡の復元図を見た方がいい
あまりよい図ではないけれど、こんな感じ
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_04/hiratuka0.jpg

Wikipediaの記述でも
「遺跡の西側には筑後川支流の小石原川が流れ、
 遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地で、福田台地の西端部にある。
 遺跡の東側には同じく筑後川支流の佐田川が流れる。」

遺跡の西が小石原川、東が佐田川、それに挟まれた微高地が遺跡の立地で
その周りに環濠が作られている

689 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:24:31.30 .net
トンデモ路線を選択したようです

690 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:25:54.26 .net
>>687
>それはあなたの頭の中の妄想だね。

妄想だと決めつけるなら、具体的な根拠のある反証を示してくれ
環濠内を川が流れる環濠集落の例を一例でも示してくれればいいんだから、
簡単だろ?

もしあるならな

691 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:27:53.12 .net
>>687
>幅1キロもあり、その中に水路がない方がおかしい。

その幅1キロもある環壕集落は、>>687の心の中にしかないんじゃないのか?

692 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:02:25.32 .net
国土地理院の空中写真

整理番号 USA
コース番号 M934-1
写真番号 5
撮影年月日 1948/04/23(昭23)
カラー種別   モノクロ

を高解像度で表示

693 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 02:14:49.12 .net
水路と川では、イメージに相当な差があるけどな
ま、その幅が、
環濠・空堀より大きければ川で、小さければ水路ってところかな
幅が同じくらいなら、どっちでも良かろう

694 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:25:09.11 .net
結局
具体的な根拠のある反証を示してくれ
環濠内を川が流れる環濠集落の例を一例でも示してくれればいい

には、無回答でごまかすんだな

695 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:33:15.79 .net
川の定義が不明確
なお、くだんの環濠推定区域には、当方が川と認識し、環濠建設に支障となるような流れはない。

696 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:38:56.67 .net
存在するものが見えないとかボケが始まってるな

697 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:57:23.79 .net
>>695
>川の定義が不明確

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれればいい

定義はそっちに任せるから、自由な定義で、一例でもいいから示してくれ
もしあるなら、な

698 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:29:29.65 .net
幅1キロ圏に水路が一つもないなんて、人が住むところではなくなってしまう。

699 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:11:47.75 .net
>>698
>幅1キロ圏に水路が一つもないなんて、人が住むところではなくなってしまう。

そういう意味不明のつぶやきはどうでもいいから

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれればいい

700 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:13:23.18 .net
ちなみに池上曽根遺跡では、井戸が出てるね
別に、環壕内に水路がなくても井戸があれば水源になるだろ?

この井戸枠が年輪年代法でやたら古い年代が出た例の木材だよ

701 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:46:06.21 .net
>>699
なにブツブツつぶやいてるんだ
じゃ、くだんの推定環濠に川が幾筋も流れてると言い出したのは誰なんだよ
あそこの流れは最大でも幅1.5mの水路だぞ。

702 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:54:29.58 .net
( ゜ Д ゜ )

703 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:36:37.29 .net
>>701
>くだんの推定環濠に川が幾筋も流れてると言い出したのは誰なんだよ

また、話をずらしている
川が流れているから推定環壕に「ならない」って話
環壕は川をまたがない!

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれ!

704 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:42:55.76 .net
>>703
また、話をずらしてるな

くだんの推定環濠に川が幾筋も流れてると言い出したのは誰なんだよ
その幾筋もの川を示してくれ!!

705 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:57:56.16 .net
>>704
>くだんの推定環濠に川が幾筋も流れてると言い出したのは誰なんだよ

推定環壕にじゃなくて、「推定環壕の範囲に」だ

質問に答えずに逆質問で返すのは、詭弁の常套手段
環壕は板を渡せば川筋を越えられるといっていたのはそっちなんだから、ますは

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれ!

706 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:58:35.21 .net
できないなら、根拠なく妄想の思い付きを書きましたって認めればいいよ

707 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:02:37.99 .net
大和不動カントリークラブのゴルフ場の南側斜面に、
航空写真で見れば>>701が「幅1.5mの水路だぞ」言っている沢筋の
東側1キロの範囲にさらに3つ谷筋があるぞ

計四つの沢筋が、推定環壕の範囲に流れてくる訳だ

708 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:04:40.00 .net
>>705
質問に答えず、逆質問で返すのは、詭弁の常套手段
くだんの推定環濠に川が幾筋も流れてると言い出したのは誰なんだよ
その幾筋もの川を示してくれ!!

709 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:07:09.53 .net
いやだ!

710 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:31:07.25 .net
>>703
>環壕は川をまたがない!

証拠は?

711 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:31:48.23 .net
>>707
>計四つの沢筋が、推定環壕の範囲に流れてくる訳だ

水利が良くていいなあ

712 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:33:00.46 .net
>>707
>大和不動カントリークラブのゴルフ場の南側斜面に、、、さらに3つ谷筋があるぞ

あんな小さな谷筋から出る水なんて、3つ合わせてもちょろちょろ水さ。
それでもそれを、下側(集落から見れば上側)の台形に見える池にためるよう工夫しているようだ。
5ちゃんの論客なら、それくらい一目で読めるだろう。

713 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:42:51.58 .net
>>708
>質問に答えず、

いいかげんに答えろや、ゴラァ!!

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれ!

>>546からの話題をいつまで引っ張る気だ?

この形の質問も>>686から
「中に水源があるかどうかじゃなくて、水路を跨ぐ環濠なり空堀があるなら
 その例を出してみてくれっていってるんだよ 」

いいかげんに逃げ回るのは止めろ!
みっともなさ過ぎ!

714 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:52:16.44 .net
溜め池があるってことは、そこは谷筋
基本的に居住に不向きな地形だな

715 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:55:38.96 .net
>>714
いい加減にしろ、おぬし笑われているんだぞ

716 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:00:47.40 .net
記紀のヤマトタケル伝説の川上に、
何やらすごいものがありそうだとなると、
とてもお困りになるお方が大勢いらっしゃるようですねえ。

717 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:03:04.49 .net
川を渡る東西1キロの環壕集落とか言い出すから嗤われるんだよ

五社大明神のある集落の辺りの微高地が環壕集落かも知れない、ならともかく

718 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:07:07.54 .net
 ↑
お困りになる方、約1名。

719 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:08:05.09 .net
結局、逃げ回って、根拠一つ挙げられないダサダサのぼんくらが
東西1キロの幻の環壕を夢見てる訳だな

720 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:08:40.18 .net
大和に滅ぼされた土豪が一人いただけじゃん
何か困ることがあるのか?

721 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:09:43.06 .net
熊襲の川上タケルが大集落を持っていたら困るのはどういう人たちなんだろう。

722 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:12:32.43 .net
>>715
笑われてるのは等高線もろくに読めない妄想じいさんの方だよ

723 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:13:32.81 .net
>>720
大和じゃない。
倭(ヤマト)だよ。
倭王熊襲梟帥を倒したから、倭(九州北部)で最強の称号となるヤマトタケルの称号が与えられたんだよ。
梟帥(タケル)は本質的に九州の支配者のことだろうね。
帥升の帥、太宰の率だよ。

724 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:38:51.46 .net
人口千余戸と魏志倭人伝に書かれた小国の伊都国でさえ、
三雲遺跡群に端山古墳、築山古墳、曽根遺跡群にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳と
二系統の特定家系の前方後円墳を作ってるんだが?

その、幻の大集落を支配していた川上の梟帥の家系は、ヤマトタケルに滅ぼされるまでの
数百年間に、さぞ立派な墳墓群を作ってるんだろうね!

どこにあるのかな〜?
楽しみだな〜? 当然教えてもらえるんだよな?
倭王とまで書いてるし、すごい遺跡群があるんだろうなぁ?

川をまたぐ環壕集落はどうしても、どうやっても、
一つたりとも教えてもらえないみたいだけれど

725 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:46:38.61 .net
 ↑
お困りになる方、次1名

726 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:16:26.97 .net
>>724


>>672

727 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:03:38.67 .net
川上タケルの墓は建福寺だそうだ。
(現在の位置より約1キロ北)

728 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:34:32.72 .net
>>720
それ根拠のない妄想
しかも物証と矛盾してるし

729 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:35:11.10 .net
>>727
航空写真で建福寺を見ました。

さすがカワカミノタケルをお守りするだけあって、威厳のあるお寺のようですね。
背後の山が刈りこんであり、尾根筋にこんもりした小さな盛り土のようなものが見えます。
これもお寺の何かなんでしょうかねえ。。

730 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:54:14.48 .net
>>728
>それ根拠のない妄想

記紀が信じられないなら、川上梟帥の存在を示す物は何もないんだが?
絵に描いたようなダブスタ

>しかも物証と矛盾してるし

でもその物証は示せないんでしょ?
川をまたぐ環壕と一緒で?

731 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:56:22.51 .net
川上地区は畑で潰される前は
2000基の中小墳墓があったそうなので潰されるのを逃れた墳墓かもしれませんね。

732 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:59:09.22 .net
>>726

>>676を再掲
「川を環壕に使っている遺跡で、川をまたいで環壕を掘っている遺跡じゃないでしょ?」

733 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:03:40.47 .net
>>727
>川上タケルの墓は建福寺だそうだ。

「和銅年中712頃僧行基が元真手山に開創されたといわれ、 当時七堂伽藍が立ち並び真手千坊といわれたと伝承されている。」

四世紀から八世紀まで、ずいぶん長く放って置かれたんですね!

734 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:08:39.63 .net
>>710
>証拠は?

証拠つ「川をまたぐ環壕集落は一つも発掘されていない」

これを否定するためには
川をまたぐ環壕を持つ環壕集落をたった一つでいいから示してくれればいいんだよ
川の大きさはそっちで勝手に定義していいからさ

たったこれだけのことから逃げ続ける
本当にみっともない

>>725を見ても人間性が腐っているのがよく分かる
今どき九州説を支持しているくらいだから、推して知るべしだな

735 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:12:38.89 .net
>>729
健福寺を確認したら、件の「環濠集落」の真ん中を流れる幅1.5メートルほどの水路の「川上」なんですねえ。
そこが熊襲梟師の屋敷だったんですねえ。
熊襲梟師の屋敷の落成の祝いに里の娘たちが集められていたと古伝にあり、この集落の娘さんたちだったのかもしれませんね。
そこに女装した小碓尊が紛れ込んだのですね。

736 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:13:23.57 .net
>>731
>2000基の中小墳墓があったそうなので潰されるのを逃れた墳墓かもしれませんね。

川上には倭王が居たそうだから、中小じゃない墳墓もきっとあったんだよね!
誰も見たことも聞いたことも、伝承すらもないけれど、きっとあったんだろうね

めぼしい遺物一つ出ていない、遺物散布地で、主な遺物は中世以降だけれど、
でもグーグルマップで見ると川筋を4つもまたぐ、東西1キロの環壕集落が見えるそうだから
倭王にふさわしい200メートル級の前方後円墳がきっとあるよ!

737 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:13:46.66 .net
>>733
いやいや、いかにも7世紀以前の歴史が辿れないパターンですね。
九州ではよくあることです。
何故でしょうw

738 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:20:04.48 .net
すぐ近くに全長114メートルの船塚古墳はありますけどねえ。
11基の陪葬墳を伴っていたとか。
すごい王様がいたんですねえ。

739 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:21:12.81 .net
で、建福寺のどこに川上梟帥の墓があるんだ?

740 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:27:55.20 .net
まあ、川上地区を調べると続々と遺跡や大小墳墓、
奈良時代の国衙などがあることがわかるわけで
かなりの勢力を持っていた地域と言えるでしょうね。

741 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:49:27.88 .net
現在の地よりも北に1キロのところというから、カントリークラブの北側かな。
でもそれだと川上というより山の向こうになってしまうな。

742 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:50:20.70 .net


ヤマト王朝の古事記とか日本書紀なんかには そういうわけでクマソを未開人あつかいしたり悪人みたいに書いてある



当時のクマソの記録を書き残したとしたら 古代日本の歴史は変わっていたかもしれない



つまり……歴史とはあらゆる角度からあらゆる人間の側から調べなければ ほんとのことはわからないものなのである

火の鳥『ヤマト編』角川ハードカバー版より引用

743 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:21:28.93 .net
船塚古墳は5世紀中頃だそうだよ。

744 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:35:32.82 .net
>>743
>船塚古墳は5世紀中頃だそうだよ。

倭の五王の時代だね
倭王斉、允恭天皇に比定されている王が宋に遣使している頃

ヤマトタケル、川上梟帥の時代より100年以上後代

で、川上梟帥がヤマトタケルに滅ぼされるまでの3代くらいの倭王の墓はどこ?

745 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:38:37.06 .net
>>737
>いやいや、いかにも7世紀以前の歴史が辿れないパターンですね。

>>724にも書いたように、伊都国でも初期古墳のそれなりにデカいのが残ってるよ?
七世紀以前の歴史、考古遺物、遺跡からたどれるよね?

ウソついてごまかそうったってダメだよ!

746 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:41:15.80 .net
>>740
>まあ、川上地区を調べると続々と遺跡や大小墳墓、

さっきは中小墳墓だったのに、わずかの時間で大きくなったなw

で、その大墳墓で、倭王の墓はどこにあるんだ?

川上梟帥までの倭王の墓があるんだろ?
早く教えてくれよ!

747 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:42:41.60 .net
で、この質問からは逃げ切ったつもりかい?

>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれ!

748 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:46:35.42 .net
ていうか、熊襲梟師の墓があった大願寺廃寺って、この「環濠集落」の中心部じゃん。
廃寺の規模は200メートル四方とあるから、周囲の集落が東西1キロでも全然不思議じゃないな。
これが熊襲タケルの本拠地というわけか。

749 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:48:51.19 .net
>>747
平塚川沿遺跡じゃいかんの?

750 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:50:22.94 .net
4世紀までの倭王は大きな墓に興味がなく、5世紀になると前方後円墳を作り始めたということ。

751 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 01:03:57.60 .net
>>744
>で、川上梟帥がヤマトタケルに滅ぼされるまでの3代くらいの倭王の墓はどこ?

この三代ってどこから出た数字?

熊襲梟師の先代は、筑紫の梟師と称された神夏磯姫(八咫の鏡を保有した)と豊国のタラシヒコ(景行天皇)の連合政権になりますねえ。
その前が壹與で、その前が卑弥呼と。
熊襲梟師の次が倭武ですね。
その次は仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、羽白熊鷲、田湯津姫の世代となります(誰が倭王だったのか?)。まあ、倭武のモデルが武内宿禰という話もありますが。

752 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 01:07:09.62 .net
ちなみに仲哀天皇の倭名はタラシナカツヒコ、後に隋に「日出ずる処の天子」の国書を送ったのが天のタリシヒコ。
タリシヒコは景行天皇以来の倭王の伝統的な名前ですね。

753 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 01:29:32.86 .net
>廃寺の規模は200メートル四方とあるから、周囲の集落が東西1キロでも全然不思議じゃないな。

まったく脈絡がない
ガイキチさんの思考回路は常人には理解不能

754 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 08:11:21.59 .net
川上
肥前風土記に「山の川上に荒神あり、往来の人、なかば生きなかば殺さる………」とあり、
川の上流ということであろう。
明治22年市町村実施のとき、川上村を名護屋村とする説もあったらしい。

755 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 09:57:41.68 .net
大和中学校の近所の嘉瀬川の橋が
名護屋橋がですね。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の
松浦郡の名護屋城に向かう橋ということで
その名がつけられたと思っていましたが
地名でも名護屋があったのでしょうかねえ。

756 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 10:48:38.76 .net
>>749
>平塚川沿遺跡じゃいかんの?

何が言いたいのかやっと分かったわ
平塚川添遺跡の「六重の環壕」の「内側の環壕」を、
「環壕内に川が流れている」例だと言いたいんだ!
びっくりだわ

それ、川を分岐させて6重の環壕にしているだけで、環壕が川を渡ってないだろ?

今回問題にしている川上の、東西一キロの幻の環壕集落は、一重の環壕を想定しているようだから
平塚川添遺跡で言えば、最内の環壕の中を川が流れてるっていう話になるんだよ

757 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 10:57:02.53 .net
人口千余戸と魏志倭人伝に書かれた小国の伊都国でさえ、
三雲遺跡群に端山古墳、築山古墳、曽根遺跡群にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳と
二系統の特定家系の前方後円墳を作ってるんだが?

その、幻の大集落を支配していた川上の梟帥の家系は、ヤマトタケルに滅ぼされるまでの
数百年間に、さぞ立派な墳墓群を作ってるんだろうね!

どこにあるのかな〜?
楽しみだな〜? 当然教えてもらえるんだよな?
倭王とまで書いてるし、すごい遺跡群があるんだろうなぁ?

川をまたぐ環壕集落はどうしても、どうやっても、
一つたりとも教えてもらえないみたいだけれど

758 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 11:01:11.21 .net
>>751
>この三代ってどこから出た数字?

卑弥呼の時代が、纏向遺跡・古墳時代の始まりの頃で、3世紀前半から半ば
記紀の天皇系譜だと崇神天皇の頃

そこからヤマトタケルまで
崇神、垂仁、景行、ヤマトタケルで4世代

また、ヤマトタケルの墓の候補の津堂城山古墳の年代が4世紀後半
3世紀前半から半ばから4世紀後半までの、100年ちょいで3〜4世代というのは
妥当な数字だろう

4世代とすると墓の数が増えるから、3世代におまけしてあげてるんだよ

で、その3世代分の倭王の墓はどこにあるんだい?
川上周辺にあるんだろ?

早く教えてくれよ!

759 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 11:06:38.94 .net
>>754
>肥前風土記に「山の川上に荒神あり、往来の人、なかば生きなかば殺さる………」とあり、

それ、筑紫野語源の話とかぶってないかね?

『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、
麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
それ以後、人々が殺されることはなくなった。
この神社が筑紫神社

760 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 13:14:59.41 .net
最初に小碓尊が熊襲梟帥を襲ったのが筑紫野だったっけ?
伊都の卑弥呼から壹與、熊襲梟帥までは、福岡と佐賀を支配していたので、王墓があったとしてもその中から探す必要があり、候補を絞り込むのは難しいだろうね。
平原遺跡くらい恵まれていれば別だけど。

761 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 13:16:58.57 .net
ああ、あと、筑紫の君と肥の君が出てくるなら、その二人が倭国の連立政権だよね。

762 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 13:26:16.11 .net
妄想に花が咲く

763 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 13:44:51.84 .net
>>760>>761

結局、川上はどうでもいいんじゃん?ww

764 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 13:50:31.09 .net
>>760
>その中から探す必要があり、候補を絞り込むのは難しいだろうね。

絞り込まなくていいから、たくさんでいいから、倭王墓の候補を挙げてみて!
20個でも30個でもいいよ!

ちなみに、日本の前方後円墳の上位101位までに入る古墳は、九州島内に5基あるが、
3基が宮崎県、1基が鹿児島県だから、福岡と佐賀の範囲には1基しかない

そしてそれは6世紀前半の、筑紫君磐井の墓であることがほぼ確定の岩戸山古墳だから
時期的に全然合わない

さて、福岡と佐賀の範囲の、卑弥呼後の古墳時代に入ってからの倭王墓の候補を
教えてもらいたいな
絞り込まなくていいよ!

765 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:35:47.00 .net
>>695の勝手な川の定義」で構わないから、
「環濠内を川が流れる環濠集落の例」を一例でも示してくれ

回答なし

川上梟帥がヤマトタケルに滅ぼされるまでの3代くらいの倭王の墓はどこ?

回答なし

福岡と佐賀の範囲の、卑弥呼後の古墳時代に入ってからの倭王墓の候補を
教えてもらいたい

回答なし

766 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:58:35.59 .net
>>763
その中でも、最後に川上タケルと呼ばれたということは、そこが本拠地だったのだろう?

767 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:10:32.44 .net
そういうのはいいから、答えられるのから答えて見せてよ

768 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:32:00.86 .net
銚子塚古墳とか石塚山古墳とか答えればいいのか?

769 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:35:01.06 .net
巨大古墳を調べていたら、大阪府かトップ3を押さえているのだが、なぜ奈良県ばかり持ち上げるのか。

770 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:06:01.37 .net
記紀伝説のヤマトタケルの川上に、
何やらすごいものがありそうだとなると、
とてもお困りになるお方が、大勢いらっしゃるようですねえ。

771 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:14:03.59 .net
川上に遺跡の記録を示し
環濠集落内に水路のある平塚川添遺跡も示したのに、

川上に環濠集落があっては困る方が
必死で見えないふりをしていますね。

772 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:16:54.47 .net
北部九州に環濠集落なんて珍しいものでもないのに
なんで必死に否定してんだろうか?

東の惣座遺跡や、西の小城遺跡など、
近所に有名な環濠集落遺跡も多数あるんで、
否定するほうが難しい状況だろうに。

773 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:24:47.33 .net
九州のどこかを一月歩いて7万戸の大都会てどこや?
今宵のてーまや?

774 :773:2018/08/23(木) 19:26:29.62 .net
ロムせず参加したご無礼おゆるしあれ

775 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:27:00.74 .net
肥前国風土記
○大山田女(オホヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)
○掲載箇所:佐嘉(さか)の郡
○登場地:佐嘉川の川上

佐嘉郡内に佐嘉川という川が流れており、その川上に荒ぶる神がいて、往来の人を半ばは生かして、半ばは殺していた。
そこで県主(あがたぬし、大和王権より認可された世襲の地方領主)らの祖・大荒田(おおあらた)が、占いで神意を問おうとした。
そのとき、土蜘蛛の大山田女・狭山田女がいて言うには、
「下田(しもだ、與止日女神社の対岸辺り)の村の土を取って、
人の形・馬の形(埴輪)に作ってこの神を祭れば、必ず鎮まることでしょう」と・・・。
大荒田はすぐに言われた通りに神を祭った。すると荒ぶる神は祭を受け入れ、ついに鎮まった。

776 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:27:47.89 .net
お?飯よばれた
各々気にせず御歓談あれ

777 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:32:36.71 .net
日本書紀によると、神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)を挙げて討伐するように求めるが、
これらの所在地はいずれも筑前か豊前であり、卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬(つま、宮崎県西都市?)国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの王権を指していたことになる。

778 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:46:51.37 .net
>>768
>銚子塚古墳とか石塚山古墳とか答えればいいのか?

銚子塚古墳 墳丘長103メートル 糸島地方では最大規模 4世紀後半頃
      仿製三角縁神獣鏡 8面出土
石塚山古墳 墳丘長120m前後  京都郡で最大 4世紀初めごろ
      椿井大塚山古墳出土との同笵鏡2面を含む銅鏡11面が出土

これらが、畿内とは独立した倭王の墓と主張するの?


779 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:49:47.41 .net
>>769
>巨大古墳を調べていたら、大阪府かトップ3を押さえているのだが、なぜ奈良県ばかり持ち上げるのか。

その3つが、古墳時代中期のものだからね
古墳時代最初期の大古墳は、河内にはない
河内を含めたヤマト王権初期の共同の墓所が、
柳本・大倭古墳群だと考えられているから、奈良が重要視されているんだよ

ちょっと調べれば分かることなんだけどね
九州説は、内輪の文書しか読まないから知識が偏っていて、判断も偏っている

780 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:51:38.16 .net
>>771
>環濠集落内に水路のある平塚川添遺跡も示したのに、

>>756を読め
それ、川を分岐させて6重の環壕にしているだけで、環壕が川を渡ってないだろ?

781 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:55:23.30 .net
>>772
>東の惣座遺跡

惣座遺跡は認めてるよ
後の官衙も、同じとちに置かれているからね

十キロ程度しか離れていない同じ地域の中心が、惣座遺跡にあるのに、
どうしてそんなに幻の川上大環壕を推さなければならないのかが、本当に不思議

782 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 20:17:55.57 .net
記紀伝説のヤマトタケルの川上に、
何やらすごいものがありそうだとなると、
とてもお困りになるお方が、約一名いらっしゃるようですねえ・・・。ハイおつぎ!

783 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 20:19:43.50 .net
>>781
幻の大環濠とか考えるから
おかしくなるんだろ。

川の西側の集落があるだけだ。

784 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 20:47:38.90 .net
>>783
>川の西側の集落があるだけだ。

五社大明神のある集落周りの微高地に環壕集落があったというなら、
まあ普通の話

川筋を越えて、東西幅1キロの北部九州を代表する川上タケルの本拠地の大環壕集落が
グーグルマップで見ると発見できるんだとか訳の分からないことを言い出した挙句、
自分の非を認められずに言を左右して、話をそらし続けている人がいるだけ

785 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 21:01:23.91 .net
とてもお困りになるお方が、約一名いらっしゃるようですねえ・・・。ハイおつぎ!

786 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 21:13:19.68 .net
>>785
>とてもお困りになるお方が、約一名いらっしゃるようですねえ・・・。ハイおつぎ!

具体的な理由も根拠も一切なしで、相手に非があるような印象操作のための情動的な言葉を書くだけ
科学板の議論に耐えられないなら無理に出てこなくていいのに

まあ、典型的な今どきの九州説の人だな

787 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 21:26:49.33 .net
ありゃ?
二人しかおらんとこに口はさんだ?
失礼しました

788 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 21:32:03.05 .net
九州説には六拾弐病患者しか残っていない

789 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 21:57:12.07 .net
大願寺廃寺跡(抄)
>この寺跡出土の単弁蓮華文鐙瓦や重弧文字瓦は、いわゆる百済系の瓦である。
佐賀県内の奈良朝寺院跡と推定されている廃寺跡出土の古瓦には、この百済系の単弁瓦と複弁瓦の二系統が存在する。
系統的には百済系の単弁蓮華瓦のものが、複弁蓮華文に先行することはいうまでもないが、
創建年代が明確である肥前国分寺僧寺や国分尼寺からは、この種の百済系文様瓦は発見されていない。<

>大願寺廃寺の創建年代については、幾つかの説があって一定していない。
しかし、奈良時代の天平年間に創建された肥前国分寺よりもその創建がさかのぼることは、ほとんど疑う余地がなく、
県内に残存する最古の寺院跡の一つとして、その価値は高く評価されるものである。<

790 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 22:39:30.35 .net
>>787
>二人しかおらんとこに口はさんだ?

二人しか居ないわけじゃないんだけど、質の悪い九州説は若干一名だね

791 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 23:41:15.94 .net
>>780
結果的に環濠の内側にも水路があるのでは?

792 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 23:48:40.73 .net
環壕の外にさらに環濠を掘ってるんだよ

793 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 23:49:18.28 .net
防御施設ってことを忘れてないか?

794 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 23:52:35.14 .net
生活用水は必要だろ。

795 :日本@名無史さん:2018/08/24(金) 00:28:45.53 .net
水は川まで汲みに行くものだ
現代人は家の中に水道の蛇口があるから、変な幻想を抱いてるんだろう

もうこの人は基本的に、「典型的な九州説の人」だと分かったから、それなりの対応でいいや

796 :日本@名無史さん:2018/08/24(金) 18:15:15.27 .net
なんか土木工学から考察した小合 彬生さんは伊都説に近くて、邪馬台国=連合国説だったんだね
ちょっとびっくり

797 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 09:42:30.00 .net
おお笑い

纏向遺跡の柱復元で
柱を立てるための基礎工事したらしい
復元じゃねーじゃん

798 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 09:51:33.99 .net
そりゃもう捏造だな。

799 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 10:10:51.28 .net
捏造常習者のキウスと伊都クズ

800 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 12:10:36.28 .net
発掘された柱穴が浅すぎるから、建物があった当時より地面の水準が低くなっている
=地表が削られているから、その分も盛土で「復元」してるんだよ

もの知らずは聞きかじりで脊髄反射するだけで、調べようとしないから恥をさらす

801 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 12:18:23.98 .net
削られてる元の高さはどうやってわかったんだ?

802 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 12:19:09.67 .net


803 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 13:02:42.87 .net
粗末な上物しかなかったという証拠なはずなのだが、神の手か?

804 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 16:25:51.51 .net
>>803
>粗末な上物しかなかったという証拠なはずなのだが、神の手か?

また、調べもせずにお粗末なことを書いているな
柱穴の大きさから、柱の太さは分かる
柱の太さが分かれば、標準的な柱穴の深さも分かるんだよ

この辻地区の建物あとの場合、柱を引き抜いたときに柱のこすれた「あたり」も
発掘で検出できているから、より正確に柱の太さが分かっている

これくらいは目を通してから文句を言いなよ
纒向遺跡発掘調査概要報告書 ―トリイノ前地区における発掘調査―
http://www.makimukugaku.jp/pdf/gaihou.pdf

805 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 16:40:31.65 .net
あくまでも「標準的な」であって、過疎地の田舎では少し太めの材木でも手に入っただろうから、根拠にはならない。

806 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 16:55:29.76 .net
「纒向」とつくだけで、「記紀」より信用ならない印象。

807 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 17:54:14.02 .net
>>805
>過疎地の田舎では少し太めの材木でも手に入っただろうから、根拠にはならない。

「過疎地の田舎では少し太めの材木が手に入る」というのには、
まったく根拠がないよね?

ブーメラン使いなの?

808 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 17:57:10.81 .net
>>806
>「纒向」とつくだけで、「記紀」より信用ならない印象。

印象論でしか科学を語れないなら、しょうがないよね?
それが九州説の限界ってことだよ

809 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:01:01.58 .net
このスレも後ちょっとがんばろうよ!

ここが本来の九州説のスレなんだからさ!

810 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:25:49.30 .net
もう邪馬台国は九州で、卑弥呼が太安万侶がいうアマテラスということでいいのでは?

811 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:28:24.66 .net
三貴神?

邪馬台国の時代ではないと言ってる人がいたんだけど、
もっと後世になってから、あと日本(日本人?)の話でもないとか

812 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:36:45.30 .net
倭国、邪馬台国のヒミコと、アマテラス?は別なんだろう

813 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:39:42.91 .net
『もののけ姫』?

神殺しと言っていない?
どこからか逃げてきて、弓矢で射られたりして殺されたの?

814 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:48:07.31 .net
魔界塔士サガというゲームもそうなんだけど、
アポロンというボスが出てきて、そのキャラを殺したり

815 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 21:53:19.67 .net
主人公は源氏の何やらという装備をしていたり、
神・・・平家、平氏?

816 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 22:07:18.32 .net
『ザ・モモタロウ』

シュテンドルフというのは何なの?同じような話なんだけど

817 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 22:12:47.31 .net
『氷の世界』

youtubeで良いから聴いてみて
『断絶』という作品?何なの?

818 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 22:15:23.77 .net
断絶、絶家?


サカキバラ事件も同じことを言っていたり

819 :日本@名無史さん:2018/08/27(月) 22:18:52.37 .net
サカキバラ事件、wikiで良いから読んでみた?

「よくも殺してくれましたね」と言っていたり

820 :日本@名無史さん:2018/08/28(火) 19:35:46.21 .net
スレを最後まで使おうとは言ったけれど、荒らしてくれとは言ってない

821 :日本@名無史さん:2018/08/28(火) 19:52:49.24 .net
九州スレは大事に使おう。

822 :日本@名無史さん:2018/08/29(水) 17:50:10.85 .net
九州スレって言っても、新しい話題はないからなぁ

赤村のを前方後円墳だと信じるのはやばい連中だけだし

823 :日本@名無史さん:2018/08/29(水) 20:09:53.34 .net
熱心なのは地元だけ、
あれは、どうやら赤村おこし

824 :日本@名無史さん:2018/08/29(水) 20:31:29.67 .net
西日本新聞は、それに乗ったのかなぁ?

村おこしって言っても、個人所有の土地で、持ち主の「家の裏山」なんだけどいいのか?

825 :日本@名無史さん:2018/08/29(水) 21:25:26.72 .net
西日本新聞に載っただけで、うれしくて、うれしくて・・・、
あとは考古学者の現役大せんせか名誉教授が担いでくれるだろうと(他人任せ)。
(いなかではよくあるケース)

826 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 10:51:57.38 .net
でも、国土地理院の電子版の地理院地図で、3Dモデルがすぐ作れるし、
断面の高低図もすぐ見れるんだから、
前方部の東西が、高さが揃ってないとか
前方部の埋葬主体があるべき場所がむしろ削れているとか、
その削れた状態で埋葬主体があった痕跡が一切ないとか、
「古墳だと思う方がおかしい」状態なんだけどね

827 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 11:27:55.19 .net
国土地理院地図の3D便利だね。
伊都城の3D見ると、大門の地名のところが
本当に大門がありそうな地形なのがわかる。
高祖神社の下のほうが居住区だったのかな。

828 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 11:40:10.99 .net
地方新聞は、拡販を意識したリップサービスが少なくない

829 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 13:21:42.27 .net
高祖神社そのものが以前は大門に近いところだったらしいね。
つまり大門は伊都城の門であり、高祖宮の門でもあるのだが。
宮城を後に神社としたということなのだろう。

830 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 16:57:38.05 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

831 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 18:20:12.40 .net
「古事記における神産みの段」
伊邪那岐命は、妻たる伊邪那美(イザナミ)に死をもたらした迦具土神(カグツチ)を、身に帯びた十拳剣をもって斬り殺す。
古事記では、この十拳剣の名前を「天尾羽張」、又の名を「伊都之尾羽張」と記す。
そして、十拳剣からこぼれ落ちたカグツチの血から、火・雷・刀に関わる八神が生まれるのであるが、
その中に「建御雷之男神(タケミカヅチ)」がいた。

832 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 18:26:54.35 .net
「葦原中国の平定」
次に、古事記の葦原中国平定の段では、天穂日命(あめのほひの命)・天稚彦(あめのわかひこ)に次いで、
三番手の神として、「建御雷之男神(タケミカヅチ)」が登場する
思兼神は、葦原中国平定に派遣する神を選定するにあたり、
この「建御雷之男神」の父である伊都之尾羽張神、もしくは建御雷之男神本人を推薦している。

833 :日本@名無史さん:2018/08/30(木) 18:32:06.92 .net
「春日大社の祭神」
ところで多くの春日大社は、この「建御雷之男神」を含めた四祭神、
即ち、建御雷之男神・経津主神・天児屋命・比売神を祀っている。
(周知の如く、天児屋命は、中臣氏・藤原氏の祖である。)

「佐賀川上・大願寺(廃寺跡)の五社大明神の場合」
この大願寺跡にある五社大明神においては、やや変則的ではあるが、
春日大明神(内訳:建御雷之男神・経津主神・天児屋命)、及び比売神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の五柱七祭神を祀っている。
で、これら七祭神の中で最も注目されるのは、何をさておいても「建御雷之男神」であろう。
「伊都国」大環濠と目される佐賀川上・大願寺跡に祀られているこの「建御雷之男神」の父の名前が、
「伊都之尾羽張神」であったとは、偶然にしても驚くほかないのである。

834 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 08:15:57.38 .net
記紀にみる古代土蜘蛛
○掲載箇所:佐嘉(さか)郡
○登場地:佐嘉川(現在の嘉瀬川)の川上
○比定地:佐賀県佐賀市大和町東山田(嘉瀬川の西岸一帯)

郡内に佐嘉川という川が流れており、その川上に荒ぶる神(現在の與止日女(よどひめ)神社、別名・河上神社)がいて、
往来の人を半ばは生かして、半ばは殺していた。
そこで県主(あがたぬし、大和王権より認められた世襲の地方領主)らの祖・大荒田(おおあらた)が、占いで神意を問うた。
そのとき土蜘蛛の大山田女・狭山田女がいて言うには、
「下田(しもだ、與止日女神社の対岸辺り)の村の土を取って、人の形・馬の形(の埴輪)に作ってこの荒神を祭れば、必ず鎮まることでしょう」と。
大荒田は言われた通りに荒神を祭った。すると、荒神はその祭りを受け入れ、ついに鎮まった(注:嘉瀬川の西方にある大古墳として有名なのは舩塚古墳)。
大荒田が言うには「彼女達は非常に賢い女性だ。だから賢し女(さかしめ)を以って国の名にしよう」と。
よってこの地を賢女(さかしめ)の郡といい、今、佐嘉郡(さかのこおり)というのはそれが訛ったものだ、

835 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 17:45:20.57 .net
>>834
>記紀にみる古代土蜘蛛
>○掲載箇所:佐嘉(さか)郡

記紀には、一箇所も「佐嘉」は出て来ないよ?
何か勘違いしてないか?

この文章は「邪心大神宮」というサイトの「古代土蜘蛛一覧(肥前国風土記)」の転載だな
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_ancient_02.html

それから
「その川上に荒ぶる神(現在の與止日女(よどひめ)神社、別名河上神社)がいて、
 往来の人を半ばは生かして、半ばは殺していた。」
というのは、筑紫風土記逸文の
「昔 此堺上 有鹿猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神 
 干時 筑紫君肥君等占之 令筑紫君等之祖甕依姫 為祝祭之 
 自爾以降 行路之人 不被神害 是以曰筑紫神」
のパクリっぽさを感じる

836 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 18:00:14.47 .net
>>835
>記紀にみる古代土蜘蛛

記紀・風土記にみる古代土蜘蛛、のつもりだった。
ご指摘ありがとう。
肥前には土蜘蛛についての記事が多いと書いてあった。
いつ頃、何があったんでしょうねえ。

837 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 18:05:38.95 .net
荒ぶる神の話は民俗学的に他の地域でもある話じゃなかったか
関東でもあったはずー

838 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 18:08:03.97 .net
>>835
おー、そのサイトは面白いぞ。
作者が土蜘蛛の墓とか見つけている。
風土記の向こう側に、九州の女王国が透けて見えるようだ。

839 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 18:38:55.12 .net
>>837
>荒ぶる神の話は民俗学的に他の地域でも

荒ぶる神の話はいろんなところにあるだろうけれど、
旅人(通りかかった者)の半数が死に半数が生きるというのは、
かなり限定的だと思う

この筑紫神社の社伝は、筑紫という地名の語源にもなっているから、
これが川上の神の伝承と言われるとちょっと気になる(違うだろと言いたくなる)

840 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 19:07:53.81 .net
筑紫と佐賀川上にまたがって君臨した女王の記憶じゃないかな。

841 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 19:28:29.90 .net
女王が祟り神扱いって、ひどくないか?w

842 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 19:52:23.72 .net
王朝が交代してしまえばそんなものだろう。

843 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 21:01:31.05 .net
>>842
>王朝が交代してしまえばそんなものだろう。

王朝が交代したと考える理由は、どこから来るんだい?

844 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 21:20:29.68 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

845 :日本@名無史さん:2018/08/31(金) 22:02:05.90 .net
九州では何度も前の支配者を倒している。
魏志倭人伝でも倭国の不安的な政情が描かれている。
考古学的にも、九州北部の墓制は変遷する。
倭国王統は何度か入れ替わっているのだろう。

846 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 08:55:33.12 .net
神社探訪 建御雷之男神
2018/7/11(水) 午後 0:23

>葦原中国平定の段で次に遣わされるのが建御雷之男神「たけみかづちのをのかみ」です。
まず、思金神が「伊都之尾羽張神を遣わすべし」と進言しますが、本人は息子の建御雷之男神を遣わすべきと答えます。

建御雷之男神は、(中略)、建布都神や豊布都神とも呼ばれ、
御雷は「甕土」を表し、布都は「布留式土器」や後に登場する「須恵器」を表しているように思われます。
父親の伊都之尾羽張神の「伊都」は伊都国に通じ、(中略)、吉野ヶ里遺跡に比定した伊都国の神で、
甕速日の延岡に出向かれた方ではないかとお話しました。<

847 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 09:37:00.60 .net
>父親の伊都之尾羽張神の「伊都」は伊都国に通じ、(中略)、吉野ヶ里遺跡に比定した伊都国の神で、、、


ここんところ ↑ は、川上・大願寺遺跡に比定した、、、の方がよろしいんじゃないでしょうか。

848 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 09:56:28.78 .net
>>847 ←しまった、説明不足だった。
(訂正)
ここんところ ↑ は、伊都之尾羽張神の息子の建御雷之男神を祀る五社大明神がある川上・大願寺遺跡に比定した伊都国の神で、、、
の方がよろしいんじゃないでしょうか。
(なお、建御雷之男神は、藤原氏の守り神の春日大明神のうちの一神でもあります。)

849 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 11:01:03.10 .net
大願寺が壹與やトロシカヤの時代の倭の王都かもしれないが、それを伊都国と呼ぶのはいかがなものか。
少なくとも卑弥呼の時代の伊都国は糸島市の方だろう。
壹與の時に川上に遷都した可能性は否定しないけれどね。

850 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 11:33:35.58 .net
川上のタケルもタケちゃん、建御雷之男神もタケちゃん、
どっちもタケちゃんでよく似てるわ

で、雷タケちゃんの父親の伊都之尾羽張神の伊都はイツ、投馬国の比定地の都万はツマ、
どっちも「都」は「ツ」と読ませてる。
過去に主張していた人もあったのだが、
伊都国は、イトコク(≒怡土国)でなく、イツコク(≒伊都之尾羽張の国)と読ませていたのではないか。

851 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 11:39:54.26 .net
>>845
>九州では何度も前の支配者を倒している。

いや、それに何の根拠もないって話

>考古学的にも、九州北部の墓制は変遷する。

基本的にずっと方形周溝墓で、その中の埋葬主体にいろんなバリエーションがあるだけ
紀元前2世紀の吉武高木遺跡の特定集団墓の区画に、甕棺墓と木棺墓が同居してるし
目立った変遷はないだろ?

852 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 11:44:56.05 .net
棺の様式が変化している。
また、記紀でも九州における 王統の交代をうかがわせる記事が散見される。

853 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 15:29:20.60 .net
>>846
式内社「事代主神社」 式内社 「建布都神社」

は、ともに同じ倭国(阿波)阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』です。

式内社「事代主神社」が全国で倭国(阿波)にだけ祀られていることから、「事代主命」は倭国(阿波)の人物でしょう。

同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ祀られていることから、倭国(阿波)の人物でしょう。  @阿波


854 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 15:44:45.85 .net
全国の武甕槌神を祀る神社は、少なくとも166社ある。
その内、徳島県下の武甕槌神を祀る神社はこんなところかな

・伊笠神社
徳島県阿波市市場町犬墓字白水伊笠山上194

・伊射奈美神社
徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島52

・建布都神社
徳島県阿波市土成町郡字建布都569

・建布都神社
徳島県阿波市市場町香美字郷社本18

855 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:21:31.95 .net
>>854
>全国の武甕槌神を祀る神社は、少なくとも166社ある。

それらは式内社 「建布都神社」の勧請社。 
建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ祀られていることから、倭国(阿波)の人物でしょう。  @阿波


856 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:31:53.40 .net
>>854
>・伊射奈美神社
徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島52


「伊射奈美神社」も、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。

阿波国美馬郡「伊射奈美神社」 御祭神 伊射奈美尊  @阿波


857 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:36:42.55 .net
>>854
> ・伊笠神社
徳島県阿波市市場町犬墓字白水伊笠山上194

>・建布都神社
徳島県阿波市土成町郡字建布都569

>・建布都神社
徳島県阿波市市場町香美字郷社本18

これら、3社はいずれも、吉野川北岸に鎮座しています。
このことより、「武甕槌神」は吉野川北岸勢力の有力者でしょう。  @阿波


858 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:51:34.41 .net
>・建布都神社

此の社は、西宮神社と建布都神社を、平成十二年(2000年)に合体させた神社なので、社殿も新しいのだろうか。
合体以前の両社の住所を見ると、もともと当地には建布都神社があり、
西宮神社は、郡字西宮735に鎮座していたものと思われる。
中古、城主原田大和守孫四郎が出雲大社より事代主命の分霊を勧請したと伝えられている。

建布都神社の創建は不詳。式内論社の一つで、杉尾社とも呼ばれていた神社。
15世紀には、すでに荒廃していたらしく、領主・原田大和守が社殿を修復したが、
細川三好の兵乱、長曾我部の兵火にかかり、森林の小祠となってしまったという。

天正十四年(1586)。
太守家正が国内巡検の際に、「この神は、いかなる神か」と問うたところ、
武神であるから、八幡宮であるという答えがあり、
以後、北八幡宮とも呼ばれるようになったという。

現在の祭神は、武甕槌神・經津主神だが、社名から、建布都神と見る方が自然。
建布都神は、奈良の石上神宮祭神と同じく、武甕槌神の帯びていた霊剣であり、
八幡宮ではないが、武神であることに間違いはない。

859 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:51:58.01 .net
>>854

神社でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。  @阿波


860 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:54:23.27 .net
阿波の ダ〜ルマさんが こ〜〜ろんだ

861 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 16:57:07.59 .net
>858
>式内論社の一つで、杉尾社とも呼ばれていた神社。


「杉尾」とは、天石門別矢倉比売神社が鎮座する、「杉尾山」を指す。 おそらく、ここから勧請されたのだろう。  @阿波


862 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 17:21:19.96 .net
>建布都神は、奈良の石上神宮祭神と同じく、武甕槌神の帯びていた霊剣であり、、、

今風に言えば、建布都神は、武甕槌神のボデイガードだったってわけだ。


863 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 17:32:44.06 .net
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。

「西山谷2号墳」 http://awakouko.info/uploads/webphoto/photos/y00178y4da2b05f09c57.pdf#search=%27%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E5%A2%B3%27

神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波


864 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 18:15:17.23 .net
>>852
>記紀でも九州における 王統の交代をうかがわせる記事が散見される。

具体的に教えてよ
検討してみたいからさ

>棺の様式が変化している。

でも、例えば割り竹型木棺は、最初期から最後まで使われているし、
棺の様式もバリエーションがあるというだけで、あるときある地方の形式が
北部九州全域を席巻するように広まるような状況は観察されない

まあ、甕棺墓は一時期の流行と言えるけれど、各地で独自に編年が作れるくらい
独立してるし、王統の交代を跡付けられるようなものではないよ

865 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 18:55:21.96 .net
全国の神社御祭神名26例の 「都」 は、すべて 「つ」 と読む
伊都国も、 「怡土国」 にあらずして、「いつこく」 と読むべし。

・伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ) ・大宜都比売神(おおげつひめのかみ)
・宇沙都比古(うさつひこ)、       ・宇沙都比売(うさつひめ)
・神阿多都比売(かむあたつひめ)、    ・家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)
・天比登都柱(あめひとつばしら)。    ・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
・都留支日子命(つるぎひこのみこと)、  ・宇夜都辨命(うやつべのみこと)
・和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)、・都久豆美命(つくつみのみこと)
・伊都許利命(いつこりのみこと)、    ・伊勢都比古命(いせつひこのみこと)
・阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)、・天久斯麻比土都命(あまのくしひとつのみこと)
・天麻比止都禰命(あまのひとつねのみこと)・伊勢都比古命(いせつひこのみこと)
・伊都許利命(いつこりのみこと)。    ・宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)
・宇夜都辨命(うやつべのみこと)、    ・多伎都比古命(たぎつひこのみこと)
・都久豆美命(つくつみのみこと)、    ・都留支日子命(つるぎひこのみこと)
・和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)、・丹生都比売命(にうつひめのみこと)


866 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 19:09:07.03 .net
>>865
>伊都国も、 「怡土国」 にあらずして、「いつこく」 と読むべし。


言わずもがな、伊都国は直方辺り。  @阿波


867 :日本@名無史さん:2018/09/01(土) 20:10:30.11 .net
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

868 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 08:39:01.78 .net
>>865
>伊都国も、 「怡土国」 にあらずして、「いつこく」 と読むべし。

ごめんなぁ、一生懸命調べたんだろうが、記紀では「伊都」も「怡土」も
使われてないんだ

古事記では「伊斗」村
日本書紀では「伊覩」縣主

どちらも「イト」の読みで問題ない

869 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 08:54:31.54 .net
>>868
>古事記では「伊斗」村
>日本書紀では「伊覩」縣主
>どちらも「イト」の読みで問題ない


ごめんなぁ、その「伊斗」 「伊覩」が現在の「糸島」と全然関係しないんだ  @阿波


870 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 09:12:40.13 .net
【福島が羨む、地元愛】 辺野古で立ち上がった県民  <安室奈美恵>  国民的人気ナンバーワン歌姫
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535767009/l50
【福島に欠く、モラル】 命にかかわる汚染米が流通  <某コンビニS>  子供用の棺桶の売上が好調
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535799337/l50


薩長にやられた琉球と会津だが・・・、いったい民度のこの歴然たる差はなんだ?!


871 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 09:45:42.09 .net
>>868
>古事記では「伊斗」村
>日本書紀では「伊覩」縣主
>どちらも「イト」の読みで問題ない

ごめんなあ、
記紀の「伊斗」村、「伊覩」縣主が、
どちらも「イト」でよかったということは、
糸島郡・糸島市は、倭人伝の「伊都国・イツコク」とは、とんと関係なかったということなんだろうな

872 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 11:22:28.68 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

873 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 12:07:34.21 .net
全国の「都」を冠する神社名 52例のうち、50例 はすべて 「つ」 と読ませる。
例外的に「と」と読ませるは、関東*1社、北陸*1社のみ
されば倭人伝の伊都国も「いとこく」にあらずして、「いつこく」 と読むべし。
依って、福岡糸島(いとしま)を倭人伝の伊都国(いとこく)というは、僭称ではないか。。。

(九州)
佐肆布都神社(さつふとじんじゃ)         乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)
都々智神社(つつちじんじゃ)           和多都美神社(わたつみじんじゃ)
和多都美御子神社(わたつみみこじんじゃ)   都農神社(つのうじんじゃ)
都萬神社(つまじんじゃ)
(四国)
建布都神社(阿波市郷社本)(たけふつじんじゃ)   建布都神社(阿波市郡)(たけふつじんじゃ)
天都賀佐比古神社(美馬町)(あまつかさひこじんじゃ)天都賀佐彦神社(美馬町)(あまつかさひこじんじゃ)
御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)       布都神社(西条市)(ふつじんじゃ)
(中国)
都波只知上神社(鳥取市)(つばしちがみじんじゃ) 都波奈彌神社(鳥取市)(つばなみじんじゃ)
都辨志呂神社(つばしろじんじゃ) 都我利神社(つがりじんじゃ)
石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ) 多祁伊奈太岐佐耶布都神社(たけのいなたきさやふつじんじゃ)


874 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 12:12:31.35 .net
続(近畿)
多坐弥志理都比古神社(おおにますややりしつひこじんじゃ)、 富都神社(ふつじんじゃ)
村屋坐弥冨都比売神社(むらやこますみふつひめじんじゃ)、 鴨都波神社(かもつわじんじゃ)
許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ)、 畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
宗我坐宗我都比古神社(そがにまつそがつひこじんじゃ)、 気都和既神社(けつわきじんじゃ)
夜都岐神社(天理市)(わつき/よとぎじんじゃ)、 都祁水分神社(都祁友田)(つげみくまりじんじゃ)
佐用都比賣神社(佐用町)(さよつひめじんじゃ)、 伊和都比売神社(赤穂市)(いわつひめじんじゃ)
佐伎都比古阿流知命神社(さきつひこあるちのみことじんじゃ)、 比都佐神社(日野町)(ひつさじんじゃ)
阿志都彌神社(安曇川町)(あしづみじんじゃ)、 阿志都彌神社・行過天満宮(あしづみじんじゃ)
都久夫須麻神社(竹生島神社・つくぶすまじんじゃ)、 丹生都比賣神社(にうつひめじんじゃ)
大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)、 都麻津姫神社(平尾)(つまつひめじんじゃ)
都麻津姫神社(吉礼)(つまつひめじんじゃ)
(東海)
宇都可神社(伊賀市)(うつかじんじゃ)、 都美恵神社(つみえじんじゃ)
宇留布都神社古社地(明和町)(うるふつじんじゃこしゃち)、 久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)
都波岐神社・奈加等神社(つばき・なかとじんじゃ)
(北陸)
*久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしじんじゃ)
(関東)
*薩都神社(常陸太田市)(さとじんじゃ)
(甲信越)
都野神社(芹川)(つのじんじゃ)、 都野神社(与板)(つのじんじゃ)
(北海道・東北)
石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)、 都々古別神社(八槻)(つつこわけじんじゃ)
都々古別神社(馬場)(つつこわけじんじゃ)

875 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 14:45:50.79 .net
>>873
>されば倭人伝の伊都国も「いとこく」にあらずして、「いつこく」 と読むべし。
>依って、福岡糸島(いとしま)を倭人伝の伊都国(いとこく)というは、僭称ではないか。。。

大陸史書の読みを現代日本語の類推で考えてどうするww

「都」の大陸での読みは、上古音で「タ」、中古音で「ト」
魏志倭人伝の頃が、上古音から中古音に切り替わりつつある頃だが、
記紀の記録と照らし合わせれば中古音で「イト」国と読むのが妥当だろう

876 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 15:40:22.89 .net
>>875
倭人伝の国名は、当時の倭人の発音を聞き取った漢人が漢字に直したのでなく、
すでに筆もあったことから、倭国で用いられていた漢字の倭名称をそのまま採取したのであろう。
(対馬・壱岐・松浦などは今日にも通じていることから類推できる)

で、倭人がイツコクと呼び、漢字で伊都国と書いていたものをそのまま漢人が採取した場合、
それを漢人・帯方人は「イトコク」と読んだことはその通りであろう。そのことは理解できる。

しかし逆に考えれば、
中華大陸の漢人が漢風にイトコクと読んだからといって、
倭国でもイトコクと発音し、読んでいたことの証明にはならない。
倭〜大和の有力神社の多くは、6〜8世紀に創建されたようであるので、
当時の倭・ヤマト・大和においては、「ツ」読みが当たり前であったと理解せざるを得ない。
このことから推して、3世紀当時の倭においても、「都」は「ツ」読みであったと考えるのがそうとうと思われる。

(考え難いことであるが、仮に3世紀に、国中で「ト」の発音と読みであったものが、
その後まもなく、一斉に「ツ」の発音と読みに変わったというのであれば、
記紀・本記・風土記等から相応の痕跡を探し出さなくてはならないであろう。)

877 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 17:43:08.63 .net
>>876
>すでに筆もあったことから、倭国で用いられていた漢字の倭名称をそのまま採取したのであろう。

それは通らない
日本では日本で、独自に漢字の当て字をしているから、
松浦も、末羅と表記されているし、糸島も怡土と表記されている

魏志倭人伝時点で、倭国側で漢字を使って表記していたなら、それと異なる表記が
さらに造られることが説明できない

伊都国を、「いつこく」と読ませるのは、論理的に破綻している

878 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 18:18:37.16 .net
>876の:
倭国で用いられていた漢字の倭名称をそのまま採取したのであろう。

>877の:
日本では日本で、独自に漢字の当て字をしているから、、、
魏志倭人伝時点で、倭国側で漢字を使って表記していたなら、それと異なる表記が
さらに造られることが説明できない

両者は、実質的に同じ意味ではないかな?

879 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 18:32:46.93 .net
>>876
>倭〜大和の有力神社の多くは、6〜8世紀に創建されたようであるので、

これはそれ以前の記録が失われているだけのこと。
権力中枢としての住吉神社や高祖神社、宗像大社などの創建が6世紀以降だとはサラサラ思わない。
ただ、肝心の都の発音については慎重に検討する必要がある。
個人的には倭奴国からの表記の変化かと思う。

880 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 18:33:58.80 .net
>>879
ついでに言うと、伊都国の表記は倭国側で使用していたものが魏志倭人伝にも採用されたのだろう。

881 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 18:35:14.53 .net
彼女のバストがA以下とはサラサラ思わないって言っても
世の中にはメジャーあるし

882 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 18:50:37.95 .net
>>880
同意。そのように考えるのが、もっとも妥当であろう。

883 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 23:29:34.47 .net
その自演無理押しは何なの?

884 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 23:30:33.42 .net
>>879
>住吉神社や高祖神社、宗像大社

一つ、仲間はずれが混じってるね

885 :日本@名無史さん:2018/09/02(日) 23:33:59.43 .net
>>878
>両者は、実質的に同じ意味ではないかな?

そんな訳ないだろうが!
「倭国で用いられていた漢字の倭名称をそのまま採取した」のであれば、
つまり、「倭国で末盧、伊都という漢字の倭名称が存在した」なら
のちに「末羅、怡土」という漢字名称が新たに作られる必要がない

886 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 07:55:04.56 .net
>>885
であるから記紀・風土記では、「訛りが発生した」との旨をいっている。
その程度の変化は現代でもよくあることで、さしておかしくはないであろう。
但し、伊都が訛って怡土になったのには少々違和感を感じるが、、、

887 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 08:15:25.24 .net
>>885
その後の政変の影響があるのでは?

888 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 08:20:51.67 .net
>>885
景行天皇や仲哀天皇は、諸国を巡幸し、
各地の地名や有力者名に新たな名を与えたというから、
3世紀の倭人伝以降〜8世紀の記紀・風土記編纂までに、相応の倭名変化は生じたことであろう。

889 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 09:35:31.23 .net
投馬国を日向国と命名したのは、後に大きな歴史認識の誤解の元となった。

890 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 10:39:49.14 .net
>>889
>投馬国を日向国と命名したのは、後に大きな歴史認識の誤解の元となった。

投馬国は女王国以北の国
投馬国を日向国と考えるのが誤解だから、心配要らない

891 :日本@名無史さん:2018/09/03(月) 10:41:59.53 .net
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

892 :日本@名無史さん:2018/09/05(水) 21:20:51.61 .net
<佐賀郡椅寺(さがぐんいでら)> (椅は、椅子のイで、漢音・呉音ともにイ)
すでに述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一角(およそ250m×120m)に大願寺廃寺跡という遺跡がある。
この寺は7世紀には存在したようで、百済系の瓦が出土している。
またその規模及び地理関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南五百里の伊都国官衙」に相当すると考えてきた。

しかしこの一帯の地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていない。
ところがその後、上に述べた「大願寺」に関して調べるうち、
某所で出土した梵鐘?に「佐賀郡椅寺(イ寺)」とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
この古名の「椅(イ)」と、伊都国の「伊(イ)」・・・、
なんとなくつながらないでもない。

893 :日本@名無史さん:2018/09/07(金) 08:29:36.67 .net
< 892 佐賀郡椅寺> 
補足1:大願寺廃寺跡
この寺は、すでに7世紀には存在したようで、665年築城の佐賀・基肄城と同はんの百済系瓦が
出土しており、亡命百済人の集団が建設に関与したようである。
補足2:梵鐘(ぼんしょう)
千葉県で出土した梵鐘に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とある。
(所管・国立歴史民俗博物館/宝亀五年二月十二日在銘/千葉県成田市八代椎木出土 )

894 :日本@名無史さん:2018/09/07(金) 08:44:48.20 .net
はしでら

895 :日本@名無史さん:2018/09/07(金) 10:39:30.36 .net
うん、
万葉風〜当世風の訓読みではそうだね。
難しいのは、百済人が続々渡来していたころの古代にどう読んだかなんだ、漢音か、呉音か、訓読みか、、

896 :日本@名無史さん:2018/09/08(土) 10:18:38.07 .net
全国に、椅(はし)と名の付く神社は3社ある。
いずれも比較的新しい時代に椅と改名されているので、これをはしと読むのは新しい読み方(一種の宛て読みか)。
1.磐椅神社(いわはしじんじゃ・福島県猪苗代町)
  元は、見禰神社・峯神社といった。会津磐梯山(磐の梯子の山)の守り神。
2.高椅神社(たかはしじんじゃ・栃木県小山市)
  元は、高橋神社といった。高橋一族の氏神。なお小山市には高椅の地名もある。
3.天椅立神社(あまのはしだてじんじゃ・徳島県東みよし町)
  元は、羽津明神といった。明治期に現名称に改名した。


897 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 07:41:49.20 .net
佐賀の梵鐘が、どうして千葉にあるの?

898 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 07:46:19.61 .net
関東では埼玉が出雲の進出先(陸路)、千葉茨城が筑紫の進出先(海路)

899 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 08:31:46.10 .net
>>898

いずれも、「忌部はん」だよ。  、「忌部はん」以外にそんなこと出来る部族はない。  @阿波


900 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:18:04.43 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

901 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:20:49.90 .net
>>898
>千葉茨城が筑紫の進出先(海路)

伝承的には、鹿島神宮が藤原氏の氏神で、藤原氏の九州進出で
縁故が結ばれたように見えるんだけれど?

902 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:25:05.11 .net
>>901

藤原氏も、「忌部はん」だよ。  、「忌部はん」以外にそんなこと出来る部族はない。  @阿波


903 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:27:34.41 .net
>>897
千葉茨城は東国平定の拠点で九州(主に佐賀)から大量に武力が投入されてる

904 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:36:55.17 .net
>>903
>千葉茨城は東国平定の拠点で九州(主に佐賀)から大量に武力が投入されてる

九州(主に佐賀)を示す物はなに?  @阿波


905 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:42:06.93 .net
それが椅寺銘の梵鐘だって言いたいんじゃいのかな?

話の順序が逆な気もするがw

906 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 11:51:20.47 .net
>>905
仏教時代以後の話?  何が言いたいのやら?  @阿波 


907 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 12:20:23.13 .net
ほう、
にわかに@阿波のテンションが上がってきたな。どうしたわけか・・・、

908 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 12:36:48.08 .net
>>901
年代的に逆でしょう。
関東の開拓は古墳時代まで遡るので、藤原氏より前です。

909 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 12:38:55.91 .net
関東を代表する古社としては常陸国一宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)が常陸国風土記に香島の天の大神として記載されている。
下総国一宮香取神宮(千葉県香取市)とあわせて古代の内海である香取海の入り口の両岸に鎮座しており、海運と軍事の要所であった。
鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、香取神宮の祭神はフツヌシであり、いずれも日本書紀において出雲の国譲りに登場する神である。
関東の支配権が出雲から筑紫の天津神に移譲されたことを反映しているのかもしれない。

910 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 14:03:36.39 .net
>>908
>関東の開拓は古墳時代まで遡るので、藤原氏より前です。

ここも話が逆で、もともと藤原氏(というか中臣氏)は、天孫降臨に付き添った天神ではなく
鹿島土着の一族の成り上がりで、記紀編纂時の権力者だったから皇室最初の随伴者として描がかれたって
考え方もある

というか、そっちの方がありそう

911 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 14:54:03.23 .net
逆張りか
ま、どっちにせよ、藤原氏の偉大なる足跡は、佐賀から千葉まで残っているってことに変わりはないな。

912 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 15:01:47.65 .net
>>911
>ま、どっちにせよ、藤原氏の偉大なる足跡は、佐賀から千葉まで残っているってことに変わりはないな。

だから、中臣氏も物部氏も蘇我氏もみんな元は「忌部はん」と何度言えばw  @阿波


913 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 15:07:05.14 .net
>>909
>いずれも日本書紀において出雲の国譲りに登場する神である。


だから「出雲の国譲り」は、倭国内(粟国と長国)での戦争と何度言えばw  @阿波


914 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 16:10:59.97 .net
鎌足が鹿島土着とかいう話があるのですか?

915 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 18:24:04.45 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

916 :日本@名無史さん:2018/09/19(水) 21:31:46.03 .net
>>914
>鎌足が鹿島土着とかいう話があるのですか?

これ、わりに有名だと思ったんだがな
「中臣鎌足の父御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間に
 できた子が鎌足だというのです。 しかし、もともと中臣氏は常陸の鹿島神宮の祭祀者で
 あったらしいのです。 鎌足が鹿島出身ということは、「大鏡」や多武峰の談山神社伝承に
 記されています。」

917 :日本@名無史さん:2018/09/21(金) 21:10:19.40 .net
このスレは、人が居ないから話題が続かないな

918 :日本@名無史さん:2018/09/21(金) 21:48:11.37 .net
卑弥呼=アマテラス

919 :日本@名無史さん:2018/09/21(金) 22:04:23.00 .net
1999「梅原猛、天皇家の“ふるさと”日向をゆく」より

阿蘇・高千穂神社境内末社 荒立神社
>荒立神社には、サルタヒコとアメノウズメの立派な神像が仲良く並んでいらっしゃって、日向神話を目の当たりにするようだ。
>元々は、さらに六体の神像を祀っていたのだが、
>そのうち二対四体は、明治年間に、なぜか高千穂神社にお遷りになってしまったそうだ。
>ちなみに、高千穂神社に鎮座するその神像四体のうち、
>一対は荒魂(神霊の荒々しい状態)、もう一対は和魂(神霊が優しくなごんだ状態)、
>そして荒立神社に残る一対が、荒魂と和魂の中間の状態を示すのだそうである。

有名な主祭神の猿田彦・天細女はそれとして、
別に、荒魂・和魂について、深く隠された言い伝えがあるのではないか。

920 :日本@名無史さん:2018/09/21(金) 22:10:03.09 .net
>>919
この荒立神社こそ、殉葬奴婢百人を秘かに祀っているように思われる。

921 :日本@名無史さん:2018/09/22(土) 08:57:30.86 .net
荒立神社の宮司さんは、代々、興梠(コウロギ)と名乗る氏族だそうな。
興は、興すの意味だが、梠は、軒とか庇(ひさし)の意味だという。
とりあえずの荒仕事で、日差しや雨露をしのぐだけの、仮の小屋掛けだったような印象を受ける。

922 :日本@名無史さん:2018/09/22(土) 10:17:46.90 .net
呂氏なんじゃないの?

923 :日本@名無史さん:2018/09/22(土) 10:27:28.23 .net
大抵の氏は地名から

924 :日本@名無史さん:2018/09/22(土) 13:01:17.64 .net
当て字だろ。
音から想像するに、高麗とか高良とか香春が関係するかもね。

925 :日本@名無史さん:2018/09/22(土) 14:48:07.55 .net
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

926 :日本@名無史さん:2018/09/26(水) 12:51:58.79 .net
「梅原猛、天皇家の“ふるさと”日向をゆく」より

 もしコウロギさんという人と出会ったら、宮崎県高千穂町の出身と思って
まず間違いない。今は興梠と書くが、昔は神呂木とも書いたらしい。すなわち
カムロギ、男神を敬った言い方である(女神はカムロミ)。興梠一族が住むのは、
『古事記』がニニギノミコト降臨の地と記す?触岳にほど近く、かつて「こうろぎの里」
とか「こうろぎの内裏」と呼ばれた一帯で、中心には荒立神社が鎮もる。
祭神であるサルタヒコとアメノウズメは、天孫降臨の際の出会いの後、ニニギノミコトの
仲人でめでたく結婚の運びとなった。そこで大至急、荒木のままの材で新居を作ったのだが、
神社の名の由来だという。ここはつまり天孫降臨の立役者夫妻の新婚の家跡というわけ。

縄文人と弥生人の混血によって現代の日本人が生まれたとされるが、
天つ神アメノウズメを渡来の弥生人、国つ神サルタヒコを土着の縄文人と考えれば、
この結婚は日本人の起源を象徴するとも言えようか。荒立神社には、サルタヒコ・アメノウズメの
立派な神像が仲良く並んでいらっしゃって、神話を目の当たりにするようだ。
本来はさらに二対、計6本の神像を祀っていたのだが、その二対の像は、明治年間に高千穂神社に
お遷りになってしまった。ちなみに高千穂神社に鎮座するうち、一対が荒魂(神霊の荒々しい状態)、
もう一対が和魂(神霊が優しくなごんだ状態)、そして荒立神社に残る一対が荒魂と和魂の中間の状態を
示すのだそうである。

927 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 09:41:00.44 .net
>>926
日向は福岡だって言う人もいるけれど、こういう天孫降臨そのもの
ではない周辺の伝承は明らかに南九州の高千穂周辺の方が多いんだよな

というか、福岡・糸島あたりにはほぼ皆無

928 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 10:01:08.18 .net
副都としての投馬国が宮崎にあったためであろう。
しかし倭国の首都はオリジナルの筑紫の日向だ。
宮崎が日向国となるのは景行天皇の命名。

929 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 11:07:33.82 .net
糸島が怡土に訛るのは、仲哀天皇の行幸よりのちのこと。

930 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 11:18:47.25 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

931 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 11:27:40.23 .net
>>929
それより前の魏志倭人伝に伊都国が登場するから、明らかに間違い。
その前の後漢書には倭奴国も登場するし。

932 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 12:18:36.03 .net
>>931
であるからして、倭人伝の時代には、
糸島平原は「怡土」ではなく、伊蘇(五十、あるいは五十志)という地名だったのだ
(それをイトコクだったというのは、本末転倒、牽強付会)

933 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 12:26:35.63 .net
魏志倭人伝を無視するなよw

934 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 12:44:05.41 .net
倭人伝の伊都国は、片田舎の平原なんかじゃない。
その記載された方角・里数・遺跡からみて、南に大水田地帯を見渡せる佐賀川上だね。

935 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 14:02:01.54 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

936 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 19:10:08.78 .net
>>934
>佐賀川上

佐賀川上には、現代のグーグルマップでしか
見えない「幻」の大環濠集落しかないからダメw

937 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 19:30:40.73 .net
川上の住居に向く扇状地と
南の水田に適する低湿地帯。

場所は良いね。

中小墳墓2000基余りがあったのは
大和町史にかかれているから
相当発展していたことがわかる。

938 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 19:34:37.87 .net
すでに確認できない噂に依拠してる時点でチラ裏レベル

939 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 20:28:29.48 .net
>>937
>中小墳墓2000基余り

方々で同じことを書いているけれど、方々で「倭王なのに中小墳墓しかないの?」って
嗤われるだけだぞw

940 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 20:32:05.27 .net
>>939
人口と集落規模の問題だからね。
王墓なら川の反対側に惣座遺跡があるし。

941 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 20:33:26.89 .net
唐津(末羅国)から、
東南37q(500里)に佐賀川上(伊都国)、
その佐賀川上から見渡せば、東南7.5q(100里)に佐賀市(奴国)、
そして東に行くこと8q(100里)で、神崎市と吉野ヶ里(不彌国)。

かくのごとく、
倭人伝記載通りの方角と里数のところに各国に比定される都市(あるいは遺跡)がある。

その他、九州北岸の門司から長崎まで、各港各津を起点にあらゆるケースを検討したが、
このようにピタリと収まる地理配置事例は、ほかになかった。
依って倭人伝の伊都国は、佐賀川上に間違いございません。

942 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 20:53:09.01 .net
倭人伝の地理的起点になっていたのは、帯方郡及び帯方太守である。
其の帯方郡は、馬韓(のちの百済)の中心地域のソウル(又はピョンヤン)付近に置かれていたそうだ。

このことを考慮におけば、
帯方郡にとって、地元民である馬韓人(のちの百済人)はかけがえのない人民種であったと思われる。
其の種族を表す文字は「馬」。
倭の国名から探せば、斯馬国、邪馬国、邪馬台国、投馬国である。
これらの国々は、のちに肥国〜火国(日向国)と呼ばれることになる地に勢力を張り、
何かにつけ、帯方郡の庇護を受けてきたのであろう。

943 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 21:10:18.92 .net
川上周辺の大きめの古墳なら、
惣座遺跡は当然だが
尼寺の築山古墳
川上の船山古墳
久池井の銚子塚古墳があるよ。

944 :日本@名無史さん:2018/09/28(金) 22:27:34.41 .net
馬韓:
>馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団の一つ。
>帯方郡の南、後の百済となる場所にあった地域である。
>馬韓諸国には首長がおり、大きな首長を臣智(しんち)と呼んだ。
>臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことである。
>馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。

偶然かもしれないが、
穀物を植えたり、養蚕を行っていたというのは、高千穂神話の主要テーマでもあるな。

945 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 08:15:19.53 .net
「邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」・・・翰苑の一節

邪国(邪馬台国もしくは邪馬国)は、伊都国に届き、斯馬国にも連なっていたとの意味である。
伊都国を佐賀平野中央の川上、邪馬台国を肥後熊本の山鹿市臺(うてな)に置くならば、
邪馬国も斯馬国も、佐賀平野につらなる好地にあったのであろう。で・・・、

邪馬国は、佐賀平野東部の八女市(八女・久留米・筑後・みやま地方)、
斯馬国は、同平野西部の鹿島市(鹿島・嬉野・武雄地方)と置けば、
肥前肥後日向は、馬韓勢力の「馬」で埋まる。

946 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 08:57:03.39 .net
ばか

947 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 08:57:06.20 .net
>>945 (おっと失礼、手直し)
肥前肥後日向は、馬韓流れの「馬」で埋まる。

948 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:02:02.08 .net
>>946
なるほど、元が馬韓だから「ばか」は有りうる、、、

949 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:16:20.68 .net
>>940
>王墓なら川の反対側に惣座遺跡があるし。
>>943
>惣座遺跡は当然だが

惣社遺跡のどれが王墓だって?
適当なことを書くなよw

950 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:35:50.50 .net
伊都国の代々の王の墓は、時代からして、前方後円墳ではなかったであろう。
その形式は不明だが、
佐賀川上付近には、明治のころまで2000基もの古墳(古代墓)が残っていたそうだ。
今は、あらかた畑にされたり、ミカン山になったりしている。
そのどこかに王家の墓もあったのだろう。
惜しいことだ。

951 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:40:07.37 .net
>>943
>尼寺の築山古墳

墳長60メートル、横穴式石室の中期古墳

>川上の船山古墳

船塚古墳のことだな?
墳長115メートル、築造時期は古墳時代中期の5世紀中頃

>久池井の銚子塚古墳

墳長98メートル、築造時期は古墳時代中期初頭の4世紀末頃

どれもまさに「中古墳」で、地元豪族の首長墓だろ
古墳時代中期は、畿内では300メートル、400メートルの古墳を作ってる頃だ

全国的に見ても、特に大きくもない普通の古墳だし、
倭王の存在を裏付けるものではないよ

952 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:42:38.62 .net
>>950
>2000基もの古墳(古代墓)が残っていたそうだ。

2000人も倭王が居たと言うつもりはないんだろ?
王の墓というのは庶民の集団墓地とは隔絶した存在であって、
集団墓中に王の墓があると考えるのはナンセンス

953 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:44:24.09 .net
大きな墓が好きなのは吉備族だな
九州倭国とは関係ない

954 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:46:03.34 .net
>>950
>伊都国の代々の王の墓

三雲遺跡群にあるよ 
三雲南小路遺跡とか井原鑓溝遺跡とか

古墳時代に入っても、築山古墳、端山古墳と、三雲遺跡群の地に前方後円墳として
伊都国王墓(首長墓)が築かれている

955 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:47:06.89 .net
>>951
佐賀川上は伊都国(比定)だから、地元の一豪族で正解。
九州30国共立の「倭王」ではないよ。

956 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:49:51.76 .net
>>953
>大きな墓が好きなのは吉備族だな

そんなことはない
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
奈良盆地でも纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

北部九州でも、三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
古墳時代がお気に召さなければ、三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
奴国の須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

小さくても倭王の墓というのは通らないよ

957 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 09:51:14.42 .net
>>955
>佐賀川上は伊都国(比定)だから

佐賀川上が伊都国であると考える理由がない
以上

958 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:02:21.11 .net
>>956
>小さくても倭王の墓というのは通らないよ

平原は戦時中だから小粒なのはしょうがない

959 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:10:35.00 .net
>>957
佐賀川上が伊都国であると考える理由がない人もいるだろう。
がしかし、オレは
末羅国、伊都国、奴国、不彌国の4カ国相互間の方角・里数など、
様々な事実データを示して、その理由は大ありだと主張しているわけだ、

960 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:23:04.29 .net
伝承の通り、
馬韓流れの肥国邪馬台国が東に去った後は、
九州倭国の主導権は、旧の倭奴国に戻ったと考えるべきだろう。
そうすると、倭の五王時代にかけての王墓は、やはり筑紫の那方面に築かれたのではないか。

961 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:24:46.21 .net
三雲を踏襲したら、倭王の墓は方形周溝墓であるべき。
佐賀で方形周溝墓が見つかれば可能性はある。
ただし現状では平原遺跡の方が有力。

962 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:34:17.26 .net
三雲・平原は、筑紫大那国の王家の谷の一部だったと考えれば、万事納得できるな。

963 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 10:36:57.86 .net
そして魏の使いはその伊都国を目指してやって来た。

964 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:18:04.04 .net
>>961
>平原遺跡

その平原遺跡の5号墓にも1号墓にも、墳丘の軸船に合わせた大柱が立てられているのは
どう考えるの?
これは吉野ヶ里北墳丘墓と共通な葬送文化だけれど、三雲の王墓にはないものだよ

965 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:18:46.71 .net
×軸船⇒○軸線

966 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:30:19.06 .net
だから、以前から卑弥呼は肥国王家の一員で、三雲の天孫族の没落によってかわりに共立されたと言っている。

967 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:39:42.80 .net
筑紫の日向の高千穂宮(三雲)を脱出した天孫族が大和に行き、神武が即位した。
だから、神武は卑弥呼と近い世代なのも当然。
九州の卑弥呼と前後して、ヤマト王権も萌芽期を迎えるだろ。

卑弥呼の前の男王70〜80年は、細石神社のニニギと木花咲耶姫、高祖神社の彦火火出見らの筑紫の日向三代。
邪馬台国と並行して存在していた宮崎都万の投馬国は彦火火出見の兄の海幸の国で、隼人の祖だよ。

肥国から肥後熊本の卑弥弓呼が出て、卑弥呼とお家騒動。
筑前筑後肥前を抑えた卑弥呼の前線基地が基肄城、大野城。
熊襲側の城が菊池城。
卑弥呼の王城は伊都城(高千穂宮、高祖宮)。

968 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:47:15.14 .net
>>967
時代・時間軸・時系列の感覚がハチャメチャ

969 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:54:05.12 .net
記紀の時間軸は引き伸ばされているんだよ。
天皇一代あたり十数年とすると、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。
これは畿内説でも鴨厨氏らが唱えているよね。
邪馬台国と並行してヤマト王権が発足するし、その少し前から纒向にニギハヤヒら物部氏がいて、三輪山には出雲から流れてきた事代主(の末裔)がいた。
神代というのが、中国の後漢と並行する時代で、漢委奴国王印をもらったのがニニギ?

970 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 12:58:17.86 .net
纒向、箸墓は物部氏のもの
神武は卑弥呼と同世代
伊都国の王は日向三代
筑紫の日向は筑前
卑弥呼は肥前の出身、壹與も肥前
イザナギの矛による国生みは能古島から、禊は筑紫の日向の小戸

すべて辻褄があう。

971 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:18:18.64 .net
>>966
>だから、以前から卑弥呼は肥国王家の一員で、三雲の天孫族の没落によってかわりに共立されたと言っている。

その「だから」はどことつながるんだ?
吉野ヶ里の北墳丘墓に葬られた吉野ヶ里の首長も、肥後王家の一員だと主張するのかい?

972 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:21:31.39 .net
>>970
あらかた福岡県内で済まそうとしてるな
福岡県人会活動報告乙

973 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:21:47.73 .net
>>969
>天皇一代あたり十数年とすると、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。

系譜研究の第一人者、というか現在一人しかいない宝賀寿男氏は、
神武は崇神(邪馬台国時代)の5世代前としているよ

5世代で100年くらい前にはなるだろう
末子相続なら150年くらいかな

974 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:24:22.35 .net
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。

​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、

「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。

11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。

神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。


975 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:38:32.30 .net
古代天皇は全部架空

976 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 13:42:01.83 .net
>>974
これは無駄な計算だと何度言えば
・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

最初の25代平均の時点で、分母が大きくなるから、それに数代足しても
数値はほぼ変わらない
独立ではない数字をいくら並べても、たまたまそうなった、以上のことは言えない
統計を知らないなら、統計の体を借りてウソを振りまくなと言うに


977 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 14:04:58.27 .net
何が言いたいの?
神武が卑弥呼と同世代だという結論に変わりはないでしょ?

978 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 14:08:30.59 .net
>>972
ちゃんと佐賀、熊本、宮崎も入れてますよ。
卑弥呼と壹與は佐賀の人間だけれども、倭の王都は福岡だったということ。
弥生時代の特徴である稲作が上陸したのが玄界灘沿岸、吉武高木に倭国最初の王権が成立し、邪馬台国時代でも最大の国邑は奴国。

979 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 14:10:46.19 .net
>>971
>吉野ヶ里の北墳丘墓に葬られた吉野ヶ里の首長も、肥後王家の一員だと主張するのかい?

有明海沿岸の肥国の中ではかなり大きい集落ですからね。
当然想定するべきです。
壹與の時代は川上の方が中心だったとは思いますけど。

980 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 15:20:58.63 .net
>>978
終始一貫して、倭の王都は福岡だったということなら、
倭国の大乱もなく、邪馬台国の台頭もなくて、九州の古代史はもっと単純だっただろうねえ

981 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 15:26:38.46 .net
いやいや、福岡の周りは戦乱の跡だらけですよ。
王統が天孫族から女系の肥国国津神に代わったなら、かなりの混乱があったでしょう。
しかも肥国の中でも肥後狗奴国が反旗を翻して、混乱は卑弥呼の治世に及び、完全なる収束は壹與の即位を待たなくてはいけませんでした。

982 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 16:22:10.62 .net
>>981
ひと口に肥後狗奴国といっても、肥後は広大だから見当がつかぬ。
やはり、緑川湿地帯以南の肥後南部(御船・甲佐・宇土・宇城・八代など)に限定されてたんじゃないだろうか。

983 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 16:24:36.31 .net
菊池彦の名前が残っているから、少なくともそこまでは狗奴国

984 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 16:50:51.89 .net
菊池の名前は、11世紀に下向土着した士族菊池氏の名からきたもの。
菊池市には、その前からククチ城というのがあったが、
ククチ(木口)とは新羅から渡来した築城木工作集団の名前で、本拠地は尼崎市久々知。
倭人伝の狗古智卑狗も、おそらく新羅系の渡来人で、九州中南部のどこかにいたのだろうが、
それと菊池市のククチ城は時代が数百年ちがうな。

985 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 16:51:37.53 .net
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

986 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 18:22:37.90 .net
>>976

ならば、
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
で、何か不都合あるのか。
自分が数値出さないで何を偉そうに言ってるんだ。


987 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 19:23:19.41 .net
そうだね。
卑弥呼と神武が近い年代だという点に異論はない。

988 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 20:12:37.98 .net
邪馬台国は「馬」で、馬韓の流れ・・・、
狗奴国は「ククチ」で、新羅の流れ・・・、
ゆえに何かと折り合いが悪く、陳寿からは「素より不和」と評されたのであろうな

989 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 21:46:09.06 .net
出してる数値に意味がないのに

990 :日本@名無史さん:2018/09/29(土) 22:07:55.15 .net
反論になっていない

991 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 00:02:38.60 .net
皇極が譲位しなかったら?
天武が簒奪しなかったら?
孝謙が譲位しなかったら?
陽成が退位させられなかったら?

皇位の在り方が全く変わってしまっているのに
十把一絡げにしてる時点で暴論なんだがな

992 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 05:47:38.44 .net
古代は架空の天皇だらけなので無意味

993 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 07:12:14.12 .net
十把一絡げにしてデータ処理したときに見えてくるものを探す・・・、
それが統計学なのだが。

994 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 08:25:36.33 .net
肥後熊本・菊池市のいわれ(ククチ、久々知)
>平安時代初期の続日本紀には、文武天皇(698)の條に、太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城(皆、朝鮮式山城)を繕いせしむの記述がある。
>また奈良時代の天平勝宝元年(749)に、奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された奴婢帖には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。
>平安時代中期の承平年間(931–938)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではここの地名を「久々知」と註している。
>これらのことから、上代から古代にかけ、この地は「くくち」と呼ばれ「久々知、鞠智」と表記していたことがわかる。
>なお康保四年(967)の延喜式には「菊池」の名があることから、この頃までには「久々知、鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたと考えられる。

995 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 09:17:30.99 .net
肥後熊本・菊池一族
起源
>菊池氏は、寛仁3年(1019)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫の藤原則隆が肥後国に下向し、
>土着して藤原姓(藤原北家)を自称したものとされ、各種系図もこれに沿った内容となっている。

>しかし昭和34年(1959)志方正和は、公家が残した日記や源氏物語を研究した結果、
>藤原隆家の下で大宰少弐であった則隆の父・藤原政則が「肥後国住人」と記されていることをもって、
>藤原政則と則隆の代の1070年頃に菊池市周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている

996 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 11:43:01.16 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

997 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 16:08:39.38 .net
>>986
>自分が数値出さないで何を偉そうに言ってるんだ。

じゃあ出そうか?
天皇の在位期間の記録として、確実なのは継体天皇以降
継体天皇が26代だから、30代分、55代文徳天皇までの在位期間の平均と分散、標準誤差を示すと
平均 11.4年
分散 74.9年
標準誤差 1.58 となる
ここでは30代分の平均を取っているので、自由度29のt分布の値から
標準誤差の2.045倍が、98%信頼区間の幅となるので、
30代分の在位期間の95%信頼区間は、11.4±1.58×2.045で
(8.17〜14.63)年となる

継体天皇が、第26代天皇なので、神武天皇まで25代分を継体天皇即位年の507年から遡ると
141年から303年の間となる
幅が160年以上もあったら、意味ないだろ?

998 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 16:09:35.91 .net
× 標準誤差の2.045倍が、98%信頼区間の幅となるので、
○ 標準誤差の2.045倍が、95%信頼区間の幅となるので、

999 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 16:11:41.19 .net
継体天皇以降の期間は、兄弟相続の多い期間なので、
実際にはもっと遡ることになるぞ

まあそれも、記紀の系譜が正しかったとしたら、の話だから、
その意味でもあまり意味がない

1000 :日本@名無史さん:2018/09/30(日) 16:12:24.80 .net
次スレ立てるの?
まあ、九州説のスレが一つあってもいいとは思うけれど

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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