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邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)

1 :日本@名無史さん:2018/05/03(木) 22:15:11.66 .net
たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします

441 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 12:45:04.91 .net
>>440
>奈良は百済からの移民が住んでいただけ

そこへ8世紀に倭国(阿波)から倭人が大挙なだれ込んできた訳ですよね。  @阿波

442 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 14:35:15.18 .net
法隆寺は筑紫から移筑しただけ
奈良は百済の溜まり場

これだけは自信あるで

443 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 16:08:17.77 .net
>>442
>法隆寺は筑紫から移筑しただけ

何のために?  @阿波

444 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 16:41:30.16 .net
熊本が狗奴国というのは外せないな。
そうすると、邪馬台国はその北だ。

445 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:12:17.51 .net
>>442
筑紫法隆寺はどこに建っていたの?
大和の法隆寺と同規模の礎石が残ってるはずだけど

446 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:14:04.62 .net
>>442
あと法隆寺は何年に誰が大和へ移築したの?
推古朝にはすでに大和に若草伽藍が建てられているから
推古朝より前の時代ってことになるけど

447 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:27:20.08 .net
若草伽藍が火災にあった痕跡があるから
それを立て直すときに、
建築中だった観世音寺の一部を
移築したという説が多いね。

法隆寺の五重の塔の建材で
雨風にさらされない場所なのに
長い間雨風にさらされて
風化したものがあったそうだ。

移築元の建物は観世音寺に限らないが
なんらかの建築物から
移築したのは確定している。

448 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:28:35.07 .net
古事記に九州の四面として、筑紫国=白日別、豊国=豊日別、肥国=建日向日豊久士比泥別、熊曾国=建日別とある。
肥国は名前が異様に長いのと、名前の中に日向があることから、肥前・肥後・日向にまたがる大きな勢力だった可能性がある。

さらに、魏志倭人伝の中で大きな国として奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国の四国が挙げられている。この四国が上記の四面と重なるかもしれない。(投馬国は行程からも方角からもかなり苦しいけど)。

449 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:37:33.17 .net
時代的には弥生前期は川原を利用した
水田だができるところが限られるのと
洪水などで壊滅する危険がある。

弥生中期には扇状地と水路を利用した
丘陵地帯の水田になる。
おそらくは段々畑などもこの時代に開発されている。

弥生後期には低湿地の平野に農耕が進む。
泥濘地に水路を掘り、土砂を田畑に挙げて、
耕作域と水路域を分離するのである。

弥生中期までは丘陵地で比較的標高の高い
熊本平野や大宰府周辺が利用され
弥生後期になると福岡平野や
筑紫平野のような泥濘地に進出する。

450 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 18:48:28.90 .net
>>449
>弥生後期になると福岡平野や
>筑紫平野のような泥濘地に進出する。

で、「筑紫平野のような泥濘地に進出」した民衆の弥生後期の集落遺跡はどこ?  @阿波

451 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 19:08:46.33 .net
>>447
観世音寺が移築された可能性があるのは
天武・持統天皇によって再建された現在の法隆寺だろ
厩戸皇子によって建造された法隆寺=若草伽藍は最初から大和にあった

礎石の位置や大きさから検証した論文があるが
観世音寺と法隆寺で一致していないばかりか
法隆寺で使われている瓦に九州産のものが一枚もないことから
現在では否定されてたはず

452 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 19:12:38.75 .net
若草伽藍が消失して
現在の法隆寺が再建されたんでしょうね。

その時、あちこちの余った建材などが
取り寄せられたのでしょう。

453 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 20:18:10.71 .net
>>444
狗奴国は鹿児島県や宮崎県だろ。

454 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 20:38:55.65 .net
>>453
>狗奴国は鹿児島県や宮崎県だろ。

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

455 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 20:39:52.96 .net
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

456 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 20:41:37.25 .net
クナ国が熊襲国なら、宮崎から鹿児島。
熊襲国でないなら、どっかの豪族だろうけど
証明するのは難しそう。

457 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 20:46:24.23 .net
>>456
>証明するのは難しそう。

クナ国に相応しい弥生後期集落遺跡群がないからね。  @阿波

458 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 21:07:28.07 .net
法隆寺だけでなく般若寺やその他にたくさんの寺院が
奈良や京都に移築されたと思っている
話は逸れるが讃岐山城は九州からの避難場所
九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている

459 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 21:12:57.00 .net
>>458
>九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている

なんの理由で九州から避難したの?  @阿波

460 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 21:31:49.46 .net
邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。

461 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 21:49:35.59 .net
>>460
>邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。

なんか「畿内説」と同じく大風呂敷だね。   @阿波

462 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 22:26:22.21 .net
邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。

投馬国は筑後平野沿岸部だな。

奴国は佐賀平野中部西部だな。

不彌国は吉野ヶ里周辺だな。 吉野ヶ里遺跡近辺

伊都国は嘉瀬川扇状地だな。 肥前国庁跡惣座遺跡近辺

463 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 22:30:36.79 .net
>>462
>邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。

だから、その弥生後期集落遺跡群はどれ?  @阿波

464 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 23:05:26.30 .net
>>448
肥国と熊襲は名前が被っている。
実は肥国の王家が熊襲なんだ。

465 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 23:06:32.40 .net
>>451
瓦は重くて輸送コストがかかるが、そのほかの建材は輸送が可能。

466 :日本@名無史さん:2018/05/27(日) 23:38:52.31 .net
>>464
肥国には豊の字も入っているし、久士も筑紫のクシと見なせば
他の全ての国名を含んでいると見ることができる
これはどういうことだろうか

467 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 00:09:03.29 .net
筑紫の紫は中華の紫禁城からきてんだよ
中華では紫は高い身分の人の記し
日本にも滅多にない紫の地名
中華の影響を受けてたんだね


縁起では、黄泉から帰った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの地であるとし、宮地は住吉三神が生まれた浜であるという。この宮の神官は、古く、「佐伯氏」であった。

阿波伎原って筑紫にあったんだね

468 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 00:38:11.03 .net
筑紫の日向の阿波伎原って宮崎県じゃないからね
福岡県の日向峠あたり

筑紫の阿波岐原@ | 知っとうや2
アメーバブログの中にあります(うまくコピー出来ませんでした) 

469 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 00:45:48.87 .net
ついでに上記のブログの写真に三重県伊勢神宮の
元となった福岡県の二見が浦があります
これが元々の伊勢神宮です

470 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 04:07:21.29 .net
そうなんやで 福岡は阿波も出雲も大阪も京都も熊野もあるんやで
お隣の大分には吉野もあるやで

471 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 04:09:12.41 .net
ついで言うと神武東征は筑紫島で完結できるやで

472 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 07:20:40.57 .net
>>466
なるほど。
クシも入っているのか。
気がつかなかったな。

473 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 07:21:48.90 .net
>>470
佐賀にも吉野があるけど?

474 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 07:22:49.12 .net
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。

475 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 07:23:22.60 .net
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

476 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 09:14:46.61 .net
>>474>>475なんて纏まった文なんだ。素晴らしい
>>435にも書いたけど、卑弥呼が阿蘇の麓の柿原神社の
近くにいて若宮神社から船で諸国に行っていたって
伝説は当たってるような気がしたわ
海沿いの若宮神社にもそんな言い伝えが書いてありました
しかし、あんな田舎だったとは
もう少し調べてみます 

477 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 09:31:05.26 .net
>>473
熊本にも氷川町の吉野や熊本市の城南町に吉野山があるね。

478 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 09:38:10.65 .net
>>469
二見ヶ浦も九州には福岡以外にも豊後二見ヶ浦、八代の二見ヶ浦などがありますね
九州と伊勢神宮の繋がりをうかがわせるよね。

479 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 09:39:20.26 .net
>>476
阿呆玉

480 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 09:41:20.90 .net
人吉市紺屋町には伊勢大神宮ってのもあるな。

481 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 10:08:47.34 .net
>>473
古田武彦に花と饅頭でもそなえてろ

482 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 13:01:03.94 .net
古田先生と言えば、東日流外三郡誌ですよね

483 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 13:11:49.14 .net
>>476

若宮神社ですか。
調べてみます。

伊勢の起源は明らかに九州ですよね。

484 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 13:12:06.12 .net
>>482

残念ながら津軽は関係ないですね。

485 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 13:21:31.84 .net
>>484

>残念ながら津軽は関係ないですね。

それが関係あるのです。
古田武彦氏は偽書であることが明白な東日流外三郡誌を真書と主張しておられました。

古田の電波を信じる人を啓発するためには、彼が東日流外三郡誌wを真書とした黒歴史を周知するべきですね。

486 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 13:32:20.67 .net
古田武彦氏は正しいことも言ってるけど
間違ったことも言ってたな
年寄りだったから一度言ったことはなかなか訂正しない人だった。

487 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 15:20:18.90 .net
>>486
正しいことって?

488 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 15:27:45.57 .net
>>483佐賀県の黒川町の若宮神社
熊本県との境目

489 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 15:51:10.64 .net
>>486
正しかったのは倭国は筑紫。

東日流外三郡誌を持ち出したのは間違い。

490 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 17:51:19.17 .net
>>474神武東征の出発かあ
対馬の周りや玄海灘は潮の流れ早いからなあ
手漕き船だから、もっと西から出発してるよ

491 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 18:47:59.83 .net
西?
長崎になってしまう。

492 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 21:12:36.17 .net
実際に古い記録では、豊前国一宮は現在の宇佐神宮ではなく、当社を指す場合があるという。

もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった三社が、和銅2年(709年)に現在地に移設したのが、現在の当社。

その際は香春宮と呼ばれた。それ以前の三社それぞれの創祀・創建は不詳。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のこと。

これは大和国の主要な大社である大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)などと比べても極めて早い段階となる。

山城の平安京に遷都した後の平安時代は、大和国の古社への崇敬が若干衰えるとも指摘されるが、それを加味したとしても、いずれも二十二社の名だたる名社。

それを押さえての神階の高さから考えると、豊前国のもとの一宮というのもあながち的外れではない。

順徳天皇の建暦2年(1212年)8月21日の宣旨、後嵯峨天皇の寛元元年(1243年)10月8日の宣旨などでは、33年に一度の造営や、当社造営が当国課役とする旨の内容が見られる。

文永6年(1269年)3月23日の下知では、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀に、必ず国司代を参向させることなどが記されている。

『延喜式』神名帳における格に関わらず、中世においても朝廷や武家からの崇敬が厚かったことがうかがえる。

御祭神は、三社の御祭神である辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。『日本三代実録』では、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。

当社の社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。

辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。

493 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 21:27:23.77 .net
辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。

また、辛国は三韓征伐を指し、名前の類似から神功皇后に充てるものもある。他に、道鏡や染色に関する技術集団の、新羅系の赤染氏との関係が指摘される。

河内国大県郡の式内社に、赤染氏(常世連)の祖神である常世岐姫命を祀る常世岐姫神社(八王子神社)がある。辛国息長大姫大目命と常世岐姫命は同神の可能性もある。

「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」とある。

豊比売命は近くの古宮八幡神社の御祭神でもあり、豊玉毘売命に相当することになるが、豊玉毘売命が住吉三神の母というのはあまり言われない。

5月5日の当社の例祭の際は、古宮八幡神社から豊比売命が当社に下向する。古宮八幡神社が当社の元宮であるとの指摘もある。

文化財として、神社縁起書三巻、楠正成奉納の鈴及鏃、伝教大師奉納の捻珠がある。

494 :日本@名無史さん:2018/05/28(月) 22:41:45.26 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

495 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 01:38:24.45 .net
>>494
文章が長いから支持されない。
三行でまとめたら?

496 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 02:15:50.64 .net
そんなに短くしたら、根拠としている文章の部分が消えてしまう。
上の文章の特徴は、既知の話の解釈の変更のみであり、オリジナルの部分がほとんどないことなんだ。
記紀の話は、視点を変えるだけでガラリと印象が変わる。

497 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 02:42:35.88 .net
根拠なんてどこにあるの?

498 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 03:34:25.69 .net
>>494書き込の最後の方に少し意義あり
筑紫では
応神との関係がある人の古墳の上に八幡が多く
応神より前の王の墓の上には熊野が多い
筑紫の諏訪に限っては自由気ままに神を祀っているふしもある
700年代より前は筑紫の一宮は香春神社だった
 

499 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 03:44:46.09 .net
>>498間違えました、諏訪→宇佐 

500 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 07:25:17.93 .net
>>498
コメントありがとうございます。
香春、宇佐は豊前ではないでしょうか?
香春から宇佐への権威の変遷の背景として、邪馬台国体制の消滅があったのではないかということです。
表現については、分かりやすくすることを検討します。

501 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 08:44:38.58 .net
宇佐の元は薦神社らしいしあと御許山。

502 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 09:17:57.42 .net
香春山が古代において最大級の銅の産地であっことも重要なポイント。
畿内政権にとっては和銅年間の秩父での銅が最初だが、それより遥か前から九州倭国では銅を香春山で生産していた。
鉄は朝鮮半島から輸入していた。

503 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 09:36:13.26 .net
香春の山を削ってるのは
出てきたものがとんでもないものだったからとか?

504 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 10:38:35.47 .net
遺跡はあんなに深くにはないよ。
あれはただ採掘しているだけ。

505 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 11:12:26.54 .net
>>503
その昔 財政難から香春岳を売ろうとした行政側に一人の議員さんが「神の山を売るとはけしからん」と抗議したそうだ。
その議員さんは斬り殺されたとか。福永さんの講演で語られていました。
だからこそ歴史を取り戻さないといけないのかも知れません。

506 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 11:26:58.24 .net
>>501
宇佐八幡宮の元は大分八幡宮だよ。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』に筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とある

507 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 11:33:21.86 .net
>>506
それは知っている。
それはあくまでも八幡神の移動であり、より古い香春の神からの権力の以降がそれ以前にあっただろうということ。
その実態が、神功皇后による田油津姫の攻略だろう。

508 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 11:40:28.99 .net
仲哀が天津神の末裔、田油津姫が国津神の末裔なら、その両者を滅ぼした武内宿禰と神功皇后は、まさしく筑紫倭国の覇者であり、倭武そのものだ。
武内は隠語で住吉の神と呼ばれるが、住吉神社は筑前一宮。
さらに筑後一宮の高良大社も、末社はすべて武内を祭り、事実上は高良の神でもある。
肥前一宮も、壹與の河上神社から八幡神社にかわっている。
肥前一宮は前述の通り。
旧邪馬台国のすべての一宮は、武内と神功皇后を祭る宮になった。
完全な政権交代が完了した。

509 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 11:41:17.94 .net
>>508
>肥前一宮は前述の通り。

おっと、豊前一宮ね。

510 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:30:22.41 .net
はじめは万葉集読んで何だか怪しいって興味もって
色々な伝承やサイトをみて
流れ流れて、こんなスレにも来て色々勉強なりました。

皆さんありがとうm(__)mペコリ

私の父が香春でしたし、祖母も京都郡や田川の地主だったから
余計に興味もって見ていたんだと思います
今は父も祖母も天国ですが、
これからも興味もっていきたいと思っています
これからも新しい発見もあるかも知れませんし
九州の歴史がどうなるか判りませんが、楽しみにしておきます
読んでみて本当にワクワクしました。楽しかった
これからも頑張って書いて頂けたら嬉しいです
宜しくお願い致します

511 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:43:19.87 .net
こちらこそ、読んでくれてありがとう。
テレビとかで見ると、のどかな田舎に見えるけど、3〜4世紀には倭の中心だったんですね。

512 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:44:42.08 .net
うんこ

513 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 12:47:02.86 .net
倭面土国や倭奴国や黒歯国や侏儒国など、
JAPの国名にはプリミティブでモンキッシュな
イメージが強いですね

土人や猿人の住む国だったのでしょう
今でもそうですが

514 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 13:36:17.08 .net
とあるスレで言ってる人がいたんだけど、
倭国からの使者というのは、どこの国の人なんだろう?中近東?

『倭 新羅 百済 高句麗』ググると画像が出てくるはず

515 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 17:55:36.85 .net
記憶が曖昧なんだけど
香春神社か仲哀峠の近く?で古い瓦が沢山でたって
ニュースだか資料を読んだことあったんですが
あれは何の建物の瓦だったのでしょうか?
まさか法隆寺?

516 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 19:36:34.98 .net
>>515
いつの話?

517 :日本@名無史さん:2018/05/29(火) 19:48:05.98 .net
https://www.town.chikujo.fukuoka.jp/s004/010/h27/2711/kouhou132-15.pdf

518 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 00:35:57.02 .net
平気で嘘をつく病気がある?大人の虚言癖の心理・原因と対処法!

http://lovely-media.jp/posts/2166

519 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 04:40:34.24 .net
倭の最後の王
薩邪夜について知りたいけどわからない

520 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 05:26:06.96 .net
そんな人いないから当然だ

521 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 07:22:51.07 .net
あちこちに記録はあるから、いたことは確かだ。
ただ、畿内説にとってはもっとも都合が悪い人物だな。

522 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 07:48:48.08 .net
さちやま=薩野馬=薩邪麻
間違いない鍵を握る人なのに資料が少ない
存在したら都合の悪い人達によって全力で消されたのかもねえ

523 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 07:54:08.00 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

524 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 07:54:35.29 .net
幸山?
祥山?

525 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 09:05:51.97 .net
>>523
ラノベ?

526 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 09:38:09.18 .net
ただ単に、捕虜になった、筑紫君の人ってだけだよ
都合が悪いも何も、大和朝廷から君姓を下賜された、ただの地方豪族

527 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 10:13:55.03 .net
>>526ただの地方豪族を8年間も捕虜にしねえだろ
この薩夜麻が知りたい
この人に感想を聞きたいくらいなのに
 

528 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 10:28:51.59 .net
>>527
一般兵士だって、なるわ

529 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 10:40:03.88 .net
単にその他大勢と一緒に捕虜になって、その他大勢と一緒に返却されて、
とりあえず、君姓の豪族だから名前が残った

その程度の人物だよ
それ以上のどんな「意味をつけたい」と思うんだ?ww

530 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 11:55:35.27 .net
だから畿内説は来るなって

531 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 12:52:02.51 .net
この薩夜麻が翌年起きた壬申の乱での高市皇子だな。

532 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 12:52:57.37 .net
捕虜になっていた間に、近江京にいられるんだw

533 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 12:57:42.66 .net
サチヤマを返すために、自分が残留した人がいたな。
サチヤマが重要人物なのは間違いない。

534 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 13:01:36.61 .net
日本書紀では7世紀末の出来事は順序を入れ替えたり人物を合成したり分けたり
場所を変えたり、都合の悪いことは書かないとか色々手を加えてますね。

535 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 13:02:08.60 .net
田舎とはいえ殿様だからね

536 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 13:08:44.12 .net
壬申の乱の舞台も本当は北部九州地域なんだ。

537 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 13:56:28.17 .net
輝かしい歴史の割には現在は減退しすぎて無いか?

538 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 15:40:39.29 .net
>>536
奈良では成立しないからな
阿波では辻褄が合わない

539 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 15:45:16.01 .net
>>530
でも畿内説スレには来るんだろ、ほんとに九州関係者は自分勝手だぬ

540 :日本@名無史さん:2018/05/30(水) 16:41:05.54 .net
>>537
都が移れば徐々に衰退するけど
それでも博多とかは古代から現在まで繁栄し続けてるね。

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