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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

104 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 20:57:48.53 .net
>>103
それならそれで、107年に「漢委奴國王」を使って皇帝に初見したとしても、
帥升は、漢から委奴國王ではなく「倭国王」と認定されたのですから、
以後の封泥には「倭国王印」を使ったはずです。

全ての辺境王に金印を贈ったわけでは無いのですから、
金印で封泥をする必要はなく、
辺境王側で用意した印を漢魏側に登録しておけば、
それで以後はその印の封泥で通じるはずでは?

105 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:01:34.51 .net
魏は漢から禅譲を受けて外交関係も継承したので、卑弥呼も金親魏倭王印をもらうまでは漢委奴国王印を使ったはず。

106 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:05:08.76 .net
>>105
私も九州説なので、別にそれでいいのですが、
単純な話として、
中国側の史書において、
107年の帥升が倭国王と呼ばれているし、
魏志倭人伝に委奴国の言葉が出てこないので、純粋な疑問です。

107 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:15:50.63 .net
だから女王ってのは奴王の誤記なんだって

108 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:15:56.16 .net
漢委奴国王印が倭国王の印なんだよ。

109 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:19:08.89 .net
>>104
漢は倭に「漢委奴國王」の印を一度贈っているのですから
何回もは印を贈りません
帥升の記事にも印を貰ったなんて無い。

110 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:24:29.78 .net
妄想になるから不毛なことにいい加減気づけ。学問ではすでにないわ。

111 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:25:28.88 .net
漢には「漢委奴國王」で通用。
魏は漢から禅譲されてるから、最初は「漢委奴國王」で通用。
けれども魏に変わったのだから、印も「親魏倭王」に更新した。
だから二度目の帥升は印をもらっていないし、
二人目の台与も印をもらっていない。

112 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:25:47.95 .net
魏志倭人伝における倭の地理的定位
*野上 道男
h ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2015s/0/2015s_100012/_article/-char/ja/
対馬海峡の流速は0.5m/sec程度であり(九州大応用力学研WEB公開データ)、
速さがその4倍以下の人力船は大きく流される.
海図も羅針盤もなく航路距離は測定不可能な値である.
そこで倭人伝に記述されている里数は測量による直線距離であると判断される.
つまり天文測量である1寸千里法(周髀算経)で得られた短里による数値である.

帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(巨済島)まで七千余里、
女王国(邪馬台国)まで万二千余里、
倭地(狗邪韓国と邪馬台国の間)は(周旋)五千里と記述されている.
これらの3点はほぼN143E線上にある.
この方位線は子午線と、辺長比3:4:5のピタゴラス三角形を作る(周髀算経と九章算術で頻繁に使われている) .
帯方郡での内角は36.78度であり(N143.22E)、東南(N135E)
あるいは夏至の日出方向を東とする方位系での南(N150E)の近似である可能性が高い.

1.2万里は斜め距離であり、南北成分距離は、1.2万里x4/5=9600里である.
1寸千里によると日影長の差は9.6寸となる.帯方郡は中国の行政内であるので、
日影長による定位が行われていたはずである.
現在の知識では郡(沙里院)の緯度は38.5Nであり、日影長は21.53寸と計算できる.
それより9.6寸短い11.93寸という値が得られる緯度は31.92Nである.
方位N143E線と合わせると郡から1.2万里の点は宮崎平野南部となる.

測定誤差に配慮すれば、倭人伝では邪馬台国は九州南部にあったと認識されていたといえる.
それより詳しい比定は考古学の問題である.
漢文法に時制はなく、「邪馬台国女王之所都」は文意を補って、
邪馬台国はかって(倭)女王(卑弥呼)が都して(治めて)いたところである、
と読むべきであろう.
邪馬台国が倭国の首都であるとするのは明らかに誤読である.

113 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:28:43.70 .net
「漢委奴國王」の様な印は一王朝が一度渡したら二度とは貰えない
なので貰った方は代々保管する
王朝が変わると卑弥呼のように新しい「親魏倭王」印がもらえる
壱与も晋が起こると使者を派遣して新たな印を貰おうとしている。

114 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:30:05.27 .net
野上 道男ってポンですねw

115 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:31:30.62 .net
>>112
と言うことは
九州南部の邪馬台国を都としていた卑弥呼は
魏代には
女王国である奴国いたと言うことだな。

116 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 21:48:11.57 .net
もうめちゃくちゃな妄想すぎるわw

117 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:10:46.84 .net
>里程は漢使(<楽浪土器)による長年の実測だから、
>里程における国名は漢代のものだろ。

>日程は魏使の見聞録だから、
>日程における国名は魏代のもの。

魏略逸文は里程のみで、見聞録が無いし、卑弥呼の墓や台与が出てこないから、
漢代の情報が主で、
正始元年(240年)に帰国した、梯儁等の簡単な話しか聞いていない。

魏志倭人伝は、日程が加わり、見聞録が加わり、卑弥呼の墓や台与まで出てくるから、
魏代の情報に更新された部分があり、
張政等の旅行日誌を陳寿が新たに参照している。


魏略逸文
>東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也
>其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王

>魏志倭人伝
東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国

118 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:12:04.10 .net
伊都国とは、高祖山を中心とする地域であり、
倭国の都であり続けた。

紀元前の伊都中心部は、高祖山の東。
旧伊都(委奴)。
吉武遺跡に宮殿があり、福岡平野側の奴国二万余戸と連続する、
万余戸の大都市であった。

紀元後に遷都した中心部が、高祖山の西。
我々の認識する伊都國。
高祖神社に宮殿があり、千戸の清浄な都。

大量の住人や工房によって汚染された奴国と日向峠で隔てて、
千戸に人数制限して、
千人の女性労働者による絹生産や、玉造工房など、
環境を汚さない産業のみ招聘。

119 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:12:59.68 .net
里程は漢代に楽浪郡史によって測定されたものだから、
漢代の各地国名を里程で連続記載。

半島南岸→対馬→壱岐→末路国東端上陸地点=筑前深江
が、全て東夷伝千里。

筑前深江駅から、県道49号線沿いに、東南陸行東夷伝五百里で、旧伊都。

120 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:15:06.13 .net
魏略逸文
漢代にはまだ、壱岐、末蘆、伊都、奴国その他に代々の王がいた。
つい最近までいたその王達が、卑弥呼を共立したという視点で書かれているから、

>其国王皆属女王也
倭国の各旧中小国の旧王達は皆、
(敵対する狗奴国男王ではなく)邪馬台国女王卑弥呼に属している。


魏志倭人伝
台与の時期まで記述した上で、
魏が密接に関わった上で、
邪馬台国女王と狗奴国王が覇を競う時代の視点で書かれているから、

>世有王 皆統属女王国
伊都国には魏の世に王(邪馬台国女王=親魏倭王)がいる。
倭国の皆は(敵対する狗奴国ではなく)女王国邪馬台国に属している。

121 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:15:37.07 .net
何でこんなにも平然と妄想を垂れ流すことができるのか

122 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:30:01.93 .net
>>121
反論になってないよ。

123 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:32:00.88 .net
記紀と魏志倭人伝は、同じ倭国の同じ時代の内容を含んでいるはず。
筑紫の日向の伊都のクジフル山(高祖山の隣)の高千穂宮(高祖神社)が倭国の王宮であるという記事で、両者は一致している。

124 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:32:30.04 .net
邪馬台国ヲタは文系だから理系の論理性に欠けるから平気で妄想垂れ流す。

125 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:36:05.93 .net
理系は理系で歴史学や考古学の方法論を知らないから妄想全開だけどな

126 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:41:30.15 .net
邪馬台国はもはやこれ歴史学ではなく、
素人の歴史ヲタがなんの根拠もなくあれやこれや妄想垂れ流してるだけになってるわ。

127 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:44:23.90 .net
>>112

野上 道男氏は老人性痴呆になってしまっている。

128 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:46:12.96 .net
歴史学や考古学に則った研究で大勢は決しつつある
自分の説が一番、学者なんて信じないと主張するキチが、
それを認めずに騒ぎ立てている、というのがこの板の現実

129 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:47:34.60 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)説は理系的な思考で根拠もしっかりしてますね。

130 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:49:16.94 .net
日本の歴史学や考古学は文系で情緒的で理論がハチャメチャですね
学問じゃなくて宗教的。

131 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:52:52.72 .net
理系であっても、方法論を無視したらそれは単なる妄想でしかないのに、それすら理解できない頭だと意味ないな

132 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:55:14.24 .net
方法論を無視したらそれは単なる妄想でしかないのに・・・正に畿内説のことですね。

133 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:55:38.35 .net
公園の三角ベースでホームラン王になったから、
メジャーでもホームラン王になれるんだ、
と主張するくらい滑稽なんだがな

134 :本田:2018/05/14(月) 22:55:52.53 .net
2014年4月から2015年3月にかけて、
伊都国歴史博物館で「三国志」魏志 烏丸鮮卑東夷伝
の講義が12回開催されました。

講師は西谷正先生でした。

講義の中で先生は
「発掘調査の結果、邪馬台国は伊都付近には無い。」
とおっしゃってました。

詳しい説明はありませんでした。

先生は今、「海の道むなかた館」館長なので、
お近くに御住まいのかたは先生に質問できるかもしれません。

西谷正 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E6%AD%A3

135 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:57:29.25 .net
ついに伊都クズが学問そのものの否定をはじめたw
そりゃお前には難し過ぎたかも知れんがw

136 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 22:59:35.00 .net
畿内説とかに関わったら不幸になるよw

137 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:02:16.27 .net
などと言いつつ畿内説スレを荒らしまくっているくせになw

138 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:11:22.89 .net
伊都クズは理系であることだけが心の拠り所らしい

139 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:14:23.95 .net
理系とか文系とかの区別は無いんですけど
物事を理論的に考える必要があると思うんですよね
畿内説には理論も何も無くてただ畿内だ畿内だと結論しか無いんですよね。

140 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:21:13.92 .net
この板の九州説の書き込みを読んで論理的だと思えるなら、
君には論理的思考能力がないとあきらめた方がいい

141 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:23:39.70 .net
5CHでは誰の説だとか通説だから正しいとか権威とか通用しないですからね
主張の論理に誤りがないか証拠は有るかが問題。

142 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:24:45.86 .net
>>140
畿内説が論理的だと思えるなら論理的思考能力がないとあきらめたほうがいいですよw

143 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:26:03.91 .net
で九州説は根拠のない妄想を断定してばかりなのだがw

144 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:30:06.49 .net
>>142
現実が見えなくなっているおかしな人のいうことなんて全く説得力はないよ

145 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:32:03.39 .net
>>144自己紹介w

146 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:34:05.31 .net
マジに現実が見えてないんだな
御愁傷様

147 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:37:30.98 .net
>>146
貴方は自分で物事を考える能力を奪われ洗脳されているんですね

148 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:44:43.05 .net
>>147
洗脳とかw
発想が異常だなw

149 :日本@名無史さん:2018/05/14(月) 23:47:13.87 .net
自分が認められないのは周囲のせいばかりではない

150 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 00:52:46.07 .net
>>131
歴史学の方法論は自然科学から見たら杜撰極まりない。
それで邪馬台国は畿内などと嘯いても、何の根拠にもならない。

151 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 00:54:06.06 .net
>>137
>などと言いつつ畿内説スレを荒らしまくっているくせになw

ここは九州説のスレなんだが。

152 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 01:20:25.69 .net
畿内説を騙ったニセスレまで立ててる荒らしが何か?

153 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 01:35:22.33 .net
>>150
その杜撰極まりない歴史学の方法論で見ても、貴方の主張は杜撰極まりないって判定されているという現実を直視したら?

154 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 05:26:27.75 .net
>>120
>其国王皆属女王也
>倭国の各旧中小国の旧王達は皆、
>(敵対する狗奴国男王ではなく)邪馬台国女王卑弥呼に属している。

それだと当たり前すぎていちいち書く意味がなく不自然な文章になる
王の字は衍字で
「其国皆、属奴王也」
(対馬国から伊都国まで皆、奴国王に属している)

155 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 06:38:33.40 .net
>>125
方法論オンチの畿内説に言われてもなぁ。
半可通気取ってるだけなんだよなぁ

156 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 07:24:21.87 .net
>>152
被害妄想だな。

157 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 08:47:35.15 .net
畿内説はいくら声高に主張しても世間に受け入れられていない。
それは、なんの根拠もなく邪馬台国と関係がない妄想ばかり述べているから。
魏志倭人伝を信用しないで邪馬台国論争など、不毛なだけ。

158 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 09:06:25.05 .net
現実がまるで見えていないのか
あるいは息を吐くようにウソを吐いているのか

159 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 11:06:15.16 .net
畿内説とか全く説得力が無いからな
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)が世間に知られれば終わりだな。

160 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 17:57:57.87 .net
女王國は筑紫平野に在った(王都は筑紫平野の中央 久留米)

161 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 18:09:53.44 .net
なんの証拠もない自分勝手な妄想でこいつが犯人だと言ってるようなもんだぞ

162 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:27:18.94 .net
女王國筑紫平野説は緻密に組み立てられた説です。

女王王都久留米説に対応する3世紀の遺跡は未発見です。
多利思北孤の都も久留米です。

女王卑弥呼の墓は祇園山古墳になります。

163 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:28:58.20 .net
まったく緻密に思えない件

164 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:35:07.68 .net
やけくそに思える件

165 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:39:26.41 .net
>>162
免田式土器や小型仿製鏡U型など、
邪馬台国時代に久留米と熊本は同じ経済圏にあります。
よって、そういうことだと思われます。

166 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:52:10.91 .net
久留米が邪馬台国王都なら、
南の熊本から北上するに当たって、まずは久留米が立ち塞がりますから、
久留米から西へ向かう吉野ケ里遺跡は勢力を維持していたでしょうし、
久留米から東北すぐの平塚川添遺跡は鉄器を全回収して放棄されたりしなかったでしょう。

167 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 22:53:59.16 .net
倭國王帥升の都は米多國(倭面土國)で吉野ヶ里遺跡になります。2世紀初頭

倭奴國は107年(永初元年)に帥升によって滅ぼされました。
帥升は倭奴國の捕虜を生口百六十人として安帝に獻じた。

168 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:03:35.35 .net
倭面土ってなんとなくヤマトっぽい

169 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:10:10.44 .net
吉野ヶ里は単なる筑紫勢力の前線環濠集落で、
当時は有明海に面していて、長崎に逃げ込んだ建御名方と海上でやり合っていたのでしょう。
筑紫は北と東に軍事力を振り向けていましたから。

170 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:19:09.80 .net
久留米は邪馬台国の王都ではありません。女王國の王都です。
卑弥呼の居所です。

邪馬台国は4ヶ国連合国です。
小郡・朝倉浮羽・久留米三潴・八女の4地域です。
邪馬台国の盟主は八女です。

171 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:20:45.22 .net
これ、大真面目で考えてるんだろうな
合掌

172 :九州王:2018/05/15(火) 23:26:37.33 .net
九州王朝大好きさんは自分のスレを立てれば?
内容が違うので混乱します。

173 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:29:47.09 .net
倭国本軍は筑紫から北や東に進軍したという意味です。
西方面には伊万里に銅戈が一本出ているくらいです。

長崎は直線距離では近いように見えて、
沿岸航海とはいえ外洋部分を長距離移動しなければなりませんし、
攻め込んでも島原などへ逃げ込まれると追いきれません。

肥前は基本的には大国主勢力が先に拡散していたのですが、
筑紫で大国主が失脚した。
佐賀は事代主系が主で、降伏した。吉野ヶ里に伊都王配下の支配官が着任。
長崎には武力抵抗を選んだ建御名方系が集結して、筑紫本軍がいない吉野ヶ里に対してやや優勢な年月を送ったわけです。

174 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:30:06.18 .net
邪馬台国九州説と大して変わらん。
つまりは九州に倭国という国があったということだからな。

175 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:33:07.53 .net
>>174
んなもん当たり前。
今ホットなのはその他の傍国がどこかとか、
狗奴国がどこかとか、そこらへん。

176 :日本@名無史さん:2018/05/15(火) 23:55:18.39 .net
狗奴国は熊本一択

177 :日本@名無史さん:2018/05/16(水) 07:50:21.97 .net
筑紫に大国主は保留するとしても、佐賀に事代主とか言われると、妄想としか言いようがない。

178 :日本@名無史さん:2018/05/16(水) 15:09:49.13 .net
狗奴國勢力の範囲

矢部川南岸〜緑川北岸 熊本県北部 中心地は菊池盆地 東鯷人二十餘國の北部地域

東鯷人二十餘國の範囲  横穴式墓と河童伝説の分布地
矢部川南岸以南・菊池盆地・熊本平野・八代海沿岸・人吉盆地 

179 :岡上 :2018/05/16(水) 20:26:33.45 .net
>>120
うーん、魏略を独立に読む視点を主張していて、
なぜそのアイデアが明確な形で出てこなかったのかと、ちょっと後悔しています。

小首長たる「ヒコ」が共立時には王として、共立後は官として描写されていたんですね。
例の論考は、ちょっとだけ加筆しますので、注付きで、ネタ採用させて頂きたいともおもいます。

ご報告まで

180 :九州王:2018/05/17(木) 21:19:22.79 .net
>>179
後漢書も卑弥呼共立以前の視点で書かれてるから
「國皆稱王丗丗傳統」と書かれてますね。

181 :九州王:2018/05/17(木) 21:22:19.98 .net
>>176
熊本も邪馬壹國にいれてよw
魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。

182 :九州王:2018/05/17(木) 21:24:26.01 .net
>>170
久留米は邪馬台国の王都でも女王國の王都でもありませんし
卑弥呼の居所でもありません。
久留米は傍国の中の一国です。

183 :日本@名無史さん:2018/05/17(木) 21:58:51.54 .net
>魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。

魏志倭人伝の記述ではなく、墓の形式分布から文化の境界を推定します。

邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は、横穴墓の北限である矢部川南岸になります。

狗奴國勢力は、東鯷人二十餘國の北部地域になります。

184 :日本@名無史さん:2018/05/17(木) 22:09:17.05 .net
春日市御供田遺跡

185 :伊都国女王:2018/05/17(木) 22:18:42.47 .net
>>181
熊本は狗奴国

186 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 14:42:24.49 .net
>>181
>>185

狗奴国は熊本県の北部1/3

187 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 18:27:28.43 .net
>>183
古代考古学全般に言えるが、
墓の規格だけで「国の勢力圏」を決める方法が適切かどうか疑問

そもそも邪馬台国は「共立」だの「連合政権」だの言っておきながら、
墓の規格を統一できるほど強権だとは矛盾していることである
古代日本には様々な「神」が祀られ、すべて皇室に帰結するわけではないことを
みても、また後の武士の時代でも、各武家ごとに代々の宗派はあり、主君に臣従したからといって、主君と同じ宗派になるわけではないことをみても、
宗教だけで主従関係や支配範囲をみることは適切とは言えない

お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか?

188 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 18:43:59.49 .net
>>187
>お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか?

だから、倭国(阿波)を発った忌部一族が、倭国(阿波)墳墓工法を拡散しただけのこと。  薄型軽量土器も同じ。  @阿波

189 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 19:20:22.83 .net
>>187
>お墓を作る技術者集団
オオヤマツミですね。

190 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 19:44:57.89 .net
>>189
えええ

日本語って不思議だなあ。

191 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 21:36:43.75 .net
狗奴国は熊本県の北部1/6の地域

192 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 22:59:18.15 .net
>>187
それには同意です
葬送文化や宗教の広がりでしょうね

ただ、"広がる"にはそれなりの交流が必要となるので、参考程度にはなるかと

つまり傍国の候補地には間違いないと思います

しかし、連合国の範囲はここまでという線引きは難しいですね

193 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 23:07:05.92 .net
>連合国の範囲

同じ文化圏の範囲だろ。
鉄器があって、中国朱があって、その範囲だよ。

194 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 23:09:09.99 .net
纒向は含まれないのですね?

195 :日本@名無史さん:2018/05/18(金) 23:11:21.89 .net
当たり前だ。

196 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 20:12:07.46 .net
中国朱で思い出しましたが、楯築墳丘墓。

よく、同時代最大の楯築墳丘墓を持ち出して、
北部九州の王墓など小さくて物の数ではない。
瀬戸内にすら巨大な墳丘墓を作る権力者がいたのだぞ。
などとおっしゃる方がいますが、
全くの見当違いですよね。

同じ倉敷市の、楯築墳丘墓のすぐ下に、有名な上東遺跡があります。

そうです。
洪水によって埋まって、当時の生活用具がそのまま出土した、
タイムカプセルのような貴重な遺跡です。

この上東遺跡には、鉄器がありません。
つまり、楯築墳丘墓を作った領民は、
鉄器を使っていなかったわけです。

197 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 20:13:25.22 .net
楯築墳丘墓は、まさに卑弥呼の時代の墓ですが、
木槨があり、
副葬品は、鉄剣1、ガラス玉と管玉、土製勾玉、大量の朱(おそらく中国朱)
銅鏡はありません。

おそらく中国朱を持つ武将墓が、
狗奴国王がまだ健在の卑弥呼時代に、
鉄器のない領民によって作られた。

そうです。
北部九州邪馬台国による瀬戸内海占領しかありえないわけですね。

198 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 20:18:27.80 .net
四隅突出型墳丘墓が邪馬台国の派遣した地方官であることも、
何度も示してきました。

楯築墳丘墓もまた、非常に貴重な上東遺跡によって、
鉄器の無い領民を邪馬台国軍が征服した武将墓であることが明らかなわけです。

これは説ではなく、考古学出土物から判明する結果です。

以上からわかるのは、
少なくとも弥生時代にあっては、墓の大きさは重要ではない。
権力の大きさはやはり副葬品で論じるべきである。

楯築墳丘墓に中国朱があるのであれば、
邪馬台国は、魏に朝貢する前から中国朱を入手できていた。
ということは、公孫氏と交易をしており、
魏など中国本土の情報を逐一入手していた、ということもわかります。

次には鳴門の萩原墳墓群にも同じく円墳と中国朱が到達するわけです。

199 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 20:31:19.71 .net
前スレで検討しましたが、
銅鐸とは、倭種倭人が開拓最前線の環濠集落に配備したJアラートなわけです。

それが、岡山市周囲には少ない。

もともとの古代出雲=豊国日本海沿岸の本拠地を筑紫勢力、
主に東征将軍スサノオの基地として奪われてゆき、
瀬戸内へと活路を見出したオオヤマツミ一族が、
新たに拠点としたのが岡山市周囲だった。

だから、岡山市にはオオヤマツミ主力がいるので、銅鐸が必要なかったわけです。

これも前スレで論じましたが、
時代を経て、倭国大乱で瀬戸内オオヤマツミは狗奴国側についた。

その本拠地が邪馬台国水軍によって攻め落とされて、
その領民が作らされたのが、楯築墳丘墓ということでしょう。

200 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 20:41:56.74 .net
淡路島に舟木遺跡や五斗長垣内遺跡といった鉄工房が運営されていました。
鉄原料は全て朝鮮半島から北部九州経由で輸入される。
それが淡路島に運び込まれ、その製品はまた、北部九州へと運ばれたわけです。

その経路上に上東遺跡がある。

誰がどう見ても明らかです。
舟木遺跡も五斗長垣内遺跡も、同時代の筑紫王、
つまり三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡の王が運営していたわけですね。

さらに、祭祀型銅戈です。
北部九州と、大阪湾沿岸に分布します。
間の瀬戸内はほぼスルーされています。

祭祀型武器がこのように両端で出土するのですから、
文明的に三百年ほど先行している北部九州倭国が東征(東遷ではありません)したことが
明らかなわけです。

北部九州側でも出土するのですから、
出陣式で祭祀を行って埋納し、占領地で祭祀を行って埋納したこともわかります。

二本の銅戈(銅矛)銅矛を並べて出陣式をする。
鳥居の形ですね。
もとは中広型銅矛から始まった祭祀形式ですから、つまりは八千矛神=大国主が
始めた祭祀形式なわけです。
記紀にいろいろ関連事項が出てきます。

さらに高地性集落が、瀬戸内海沿岸を東進して、大阪湾沿岸へと上陸していきます。
森林を管理して、炭を作っていたわけですね。

201 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 23:00:24.69 .net
祭祀型武器の分布も情報を与えてくれます。

北部九州を中心として、新たに分布する祭祀型武器が、入っていかない地域
=北部九州倭国が既に領土とした地域
なわけです。

紀元前に丹後半島に扇谷遺跡が営まれることから、
紀元前の日本海沿岸は、壱岐対馬⇔北部九州⇔丹後半島まで、
長期安定的に統一支配されていたことが確定します。

この後から祭祀型武器が登場します。

中広型銅矛(オオクニヌシ)は、瀬戸内海を東征しますが、
本来は北部九州から近いはずの日本海沿岸には入っていきません。
つまり、中広型銅矛が登場する以前に、北部九州から日本海沿岸は統一されて、
中広型銅矛は、新たに瀬戸内海を淡路島南あわじ市まで東征したわけです。

銅戈は、瀬戸内海には分布せず、
北部九州と大阪湾沿岸に分布します。
銅戈の分布先を見れば、
銅戈の時代に、北部九州倭国は、
南は熊本鹿児島へ、日本海沿岸を抜けて長野県柳沢遺跡へ、
そして瀬戸内海を抜けてついに大阪湾上陸し、さらに朝日遺跡まで進軍したわけです。

その次の広型銅矛は、宮崎県から四国の太平洋沿岸なわけですね。

202 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 23:01:40.34 .net
ちなみに、広型銅矛は、鋳型から推定される、作られたはずの数に比べて、
出土している数が少ないことがわかっています。

なぜなら、広型銅矛を埋めた場所の記憶が残っているうちに、
倭国大乱が起きたわけですね。
ですから、狗奴国側の筑後肥後豊後〜瀬戸内〜畿内においては、
筑前邪馬台国と敵対して朝鮮半島からの金属供給路が断たれたために、
広型銅矛を掘り起こして溶かして銅鏃など武器に再利用したわけです。

また、神籠石から広型銅矛が出ていますから、
神籠石というのは、倭国乱に備えて、主には狗奴国側が建設した防御施設であり、
北部九州における神籠石というのが、早期における
邪馬台国と狗奴国の境界線なわけです。

203 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 23:12:37.69 .net
銅鐸からも情報が得られます。

前スレで考察したように、
銅鐸は、倭人倭種が東方の開拓最前線の環濠集落に配備するJアラート。
九州本国から遥か遠いので、襲われたら銅鐸を鳴らして全員で籠城するしかないわけです。

突線鈕1式までの銅鐸は、
主にオオヤマツミ一族が、若狭湾八岐大蛇一族などの、石剣部族の領域へ食いこんで
形成した環濠集落に配備されたものでしょう。

ちなみに、石剣部族というのも農耕部族ですから、もとはといえば北部九州から
遠賀式土器を伴って東進した人たちです。
八岐大蛇がかろうじて残っているくらいで、神としては消え去りました。

石剣部族の最後が、銅戈による大阪湾攻略です。

それまでの畿内には、オオヤマツミが部族として入りこんでいただけ。
最大のものが下之郷遺跡などです。

北部九州倭国本国が、初めて本腰を入れて畿内攻略をしたのが、銅戈。

瀬戸内海側から銅戈。
琵琶湖〜川沿いに内陸側から、オオヤマツミ。
よって、長髄彦はそういうことでしょうし、
大物主擁立とは、大阪湾上陸作戦に協力してくれた御礼でしょう。

204 :日本@名無史さん:2018/05/19(土) 23:27:28.45 .net
突線鈕2式以降の、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸。

よく、九州銅矛が、畿内銅鐸を攻め滅ぼしたという設定がありますが、
これは間違いであることが明らかです。

青銅原料も北部九州を経て供給されるのですから、
銅鐸が北部九州と敵対していたのなら、銅鐸はどんどん小さくなっていったはずです。
しかし、近畿式銅鐸は逆にどんどん巨大化していきます。
銅鏡なら何十何百枚に相当するのだろうという容積の青銅器です。

つまり、近畿式銅鐸とは、勝者の銅鐸です。
大型化して、本来の用途であるJアラートの役割を終えて、
祭祀青銅器となっていきます。

一方の三遠式銅鐸は、大型化する前に消滅する。
しかも使用された形跡がある。

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