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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

26 :日本@名無史さん:2018/05/12(土) 16:03:56.39 .net
大山祇と綿津見は別物でしょう。
大山祇は豊国土着もしくは筑紫から最初期に豊国〜日本海沿岸へ開拓していった
倭種一族。
綿津見は筑紫以北出身で後追いの倭人でしょうね。

豊国→日本海→瀬戸内→畿内と、
石器青銅器の大山祇がせっせと開拓しては、後から来た筑紫倭人が乗り込んできて、
最初は同盟→筑紫王家の争いに巻き込まれて領土割譲
の繰り返しという、ちょっとかわいそうな経過を辿ったのでしょう。

肥国が開拓されるのは考古学的には福岡県よりはだいぶ遅いですよね。
海沿いに日本海沿岸の方が先に開拓されて、肥国はその後です。
肥後の副葬品が充実してくるのは邪馬台国より後の4世紀からです。
肥国王家というか肥国支配者というのは、
もちろん饒速日その人ではなく、饒速日の子孫のことです。

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