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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

353 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 18:55:19.24 .net
>あからさまな国産とわかる練習作が無くて、
>いきなり舶載かどうか迷う高いレベルに達しているわけです。

>つまり、107年の朝貢時に、洛陽で方格規矩鏡の職人をスカウトしてきたわけですね。

咫尺(漢尺)の伝来ですね。
見よう見まねの不出来な国産方格規矩鏡が存在しないことによって、
考古学的に証明されたわけです。

桜馬場遺跡(=井原鑓溝)の内行花文鏡をベースに
伊都王権の象徴的神鏡を作るよう命令が下って、
漢尺で直径二尺の内行花文鏡を作り上げたのでしょうね。

その入れ物を作る時に、容器の寸法の指図は、
直径二尺の円板を2枚(底と蓋)と、
八咫×半尺の長方形板を1枚(側板)
です。

354 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 19:43:41.30 .net
>>349
出土遺物からわかるように、弥生九州倭国では、
鉄器があって、絹の衣服を着ていたわけですね。
硯があって文字もある先進国家だったわけです。

それが九州倭国を出ると、一気に不便になるわけです。
東に渡海した、日本海沿岸の倭種地域なら、まだ鉄器も絹もありますが、
それ以外の地域だと、鉄器も皆無か痕跡だけで、
北部九州で言うと、500年くらい昔の菜畑遺跡の生活レベルまで落ちるわけです。

現代の感覚で言うと、
電化製品に囲まれて過ごしている我々が、
アフリカ奥地の寒村に放り出されるようなものです。

東征将軍スサノオなどであれば、
国家事業として、自分専用に鉄器を運ばせることができたでしょう。
各種の東征古墳の副葬品ですね。

しかし、左遷組や失脚組となれば、国家の支援は無い。
倭国の勢力範囲外に落ちのびて、
鉄器なし絹なしの未開人=毛人と同様の生活になってしまうわけです。

355 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 19:44:03.42 .net
出土遺物からわかることがもう一つあります。

弥生先進国である北部九州倭国は、
東方の各地を占領しては、そこからの租庸調を献上させていた、ということです。

平安京に広大な水田があったわけではありませんよね。
各地からの租庸調で首都の貴族以下人々は暮らしていました。
同じことで、伊都を頂点とする北部九州倭国も、
各地からの租庸調で七万戸を養っていたわけです。
土器の流れから明らかです。

祭祀用武器
鉄工遺跡(鉄原料は北部九州経由、鉄製品は北部九州に集中)
の分布からも
北部九州倭国が東方へ荘園を拡大していったことは明らかです。

356 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 19:44:41.50 .net
何が言いたいかというと、甕棺墓です。

北部九州倭国の貴族は、
鉄器や絹に囲まれて、
壱岐対馬経由で楽浪中国との交易も独占して、
東方からの租庸調があって、
まさにこの世の春を謳歌していたわけです。

寿命を全うして、生まれ変わるとしたら、
当然また「北部九州倭国に生まれたい」わけですね。

だから、同じ倭人であっても、
北部九州で亡くなった場合は、
北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。

九州外で亡くなった場合は、
これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。
魂が船に乗って、北部九州へ帰れますように、
という切実な想いですね。

357 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 20:51:39.83 .net
>>356
>北部九州で亡くなった場合は、
>北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。
>九州外で亡くなった場合は、
>これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。

目から鱗だ。
斬新だ。

358 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 21:39:32.72 .net
前スレで、大国主の生涯について考察しましたが、
その続きです。

大国主=八千矛神=中広型銅矛が、
第〇〇代東征将軍スサノオとなって幕府を開いたのが最高位で、
倭国王アマテラスにはなれなかった。

だからアマテラス一族ではなく、漢皇帝の権威を借りて、
倭国王=1世紀伊都国王に承認してもらった。


最古の王族=吉武遺跡(伊都)=アマテラスと、
振興の勢力=須久遺跡(那国)=オオクニヌシが、
お互いに呪文をかけあっているわけですね。

<伊都>アマテラスは、振興の那珂川那国オオクニヌシを抑えるために、
「那」ではなく、「奴」の字に置き換える呪術をかけた。
魏代伊都が魏使との外交時に使った文字は、「奴」国です。
魏ではなく、伊都が奴国と表記したわけですね。

<那国>その前の時代の、大国主が朝貢する時には、
本来であれば、漢伊都国王となるべきところを、
委奴としたわけです。
漢ではなく、那国大国主が、さんざん奴国として卑下されたのを
逆手にとって、伊都を委奴=馬鹿にしてきた奴国に委ねるんだよ、
としたわけです。

任那という文字が残っています。
那国に任せるということですね。
日本各地に残るのも、奴珂ではなく、「那」珂です。

359 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 21:43:37.63 .net
振興の須久に対して、
須久大国主とオオヤマツミ女王八上姫(因幡=稲場=鐘崎)が婚姻して、
勢力拡大しようとしたのを、

吉武アマテラス一族が警戒して、
須久大国主と 須勢理姫を結婚させて、取り込んだわけです。

日本海沿岸アマテラスと、
瀬戸内沿岸オオヤマツミの政治的綱引きですね。

その結果、
筑紫の吉武アマテラス+須久大国主(中広型銅矛)vs瀬戸内オオヤマツミ(銅剣)
の戦いとなり、
当然のことながら、中広型銅矛が圧勝します。

360 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 21:48:35.71 .net
大国主は、漢使による金印授与イベントのために、
吉武遺跡宮殿までの県道49号線整備に
自領福岡平野の木材を大量伐採して、洪水疫病を引き起こして失脚します。

大国主には180柱の子供がいたそうです。
旧百余国ですから、ほとんどの国の姫、
あるいはオオヤマツミ系だと女王に子供を産ませたわけです。
それが夷=夷守=ヒナモリであり、
徳川幕府と同じく、大国主の子孫が各国の支配者にすり替わっていった。

けれども、大国主が失脚してしまい、
ニニギ新伊都政府に恭順したのが、魏志倭人伝にある「副官」のヒナモリ。

しかし、恭順せずに落ちていった夷もいたわけです。

361 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 21:54:14.35 .net
大国主失脚時の倭国勢力範囲は、
日本海沿岸は越まで。
越後には、沼河姫と大国主の間に産まれたタケミナカタがいます。

吉武伊都アマテラスにとっての、東征将軍スサノオが、
須久大国主(スサノオ就任)にとっての、辺境攻略隊長タケミナカタですね。

瀬戸内沿岸は、淡路島まで。
大阪湾沿岸には、最後の石剣部族が残っていて、
これは今から銅戈将軍ニギハヤヒ(大国主の次のスサノオ将軍です)が調略します。

瀬戸内沿岸は銅剣オオヤマツミの勢力圏です。

362 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 21:59:06.75 .net
よって、
大国主の子孫のうち、ニニギ新伊都政府に恭順するのをよしとしない集団は、
日本海沿岸を北上して、
川沿いに内陸へと逃げていくことになります。

関東ですね。

越後から信州には、タケミナカタが腰を据えて、
能登半島を盾にして、伊都政府に武力抵抗します。

畿内にはまだ石剣部族がおり、銅戈ニギハヤヒと戦争して緩衝材となってくれます。
オオヤマツミ環濠集落はまだ点状に入りこんでいるだけで、
愛知県が大国主残党とオオヤマツミとの接触地域になり、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、睨み合うわけです。

この状態が百年ほど続きますが、
越後信州タケミナカタの敗退。
大阪湾石剣部族の敗退と、オオヤマツミ領土を通過しての
銅戈ニギハヤヒ軍の朝日遺跡進軍。
によって、関東の大国主残党は降伏します。

363 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 22:05:36.64 .net
大国主残党の運命はここで潰えて、本来なら生口などとして
屈辱の歴史を迎えるはずでした。
畿内へ向かって、伊勢など東国の土器が移動していきます。
降伏したわけです。

しかし、倭国乱が起きます。

筑紫において、
筑前邪馬台国+オオワダツミ+日本海沿岸
vs
筑後狗奴国+オオヤマツミ+瀬戸内
の大戦乱が起きたわけです。

当初は狗奴国有利だったため、
邪馬台国は、狗奴国側についた銅戈と戦っていたタケミナカタに同盟を打診します。

結果として、邪馬台国+タケミナカタが勝利したので、
那珂川は那珂川であり、奴禍川などにはなったり、消えたりしなかったわけです。

364 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 22:10:18.54 .net
大国主時代に、
吉武アマテラス+須久大国主 vs 瀬戸内オオヤマツミ

大国主が失脚して、
伊都ニニギ
銅戈ニギハヤヒ+オオヤマツミ
vs
大阪湾石剣部族(大国主系とは無関係)
タケミナカタ+関東大国主残党

倭国乱が起きて、
伊都+オオワダツミ+タケミナカタ・大国主残党
vs 筑後肥後+オオヤマツミ

オオヤマツミと大国主は、八上姫との喧嘩以来ずっと
仲たがいし続けていたわけです。
敵味方がハッキリしていますね。

365 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 22:18:01.02 .net
超長くなって申し訳ありません。

ようやく本題(>>356)に戻りますが、
関東の前方後方墳とは、大国主残党の墓なわけです。

肥前のは、伊都ニニギに恭順した夷のもの。
出雲のもそうです。
(出雲は本来オオヤマツミ領土なのですが、中広型銅矛vs銅剣戦争の時に大国主が奪ったのでしょう)
大勢の夷が、泣く泣くひれ伏して、下戸あるいはその下の身分となったのが、
倭国乱のときに名誉回復したわけですね。

とういことは、
東日本に分布する舟側棺というのは、
那珂川流域、那国において優雅に暮らしていた大国主一族が、
一晩の洪水によって失脚し、
あれよあれよという間に関東まで落ちのびて、そこで侘しい未開人生活を送りながら、
漢から金印まで授与された輝かしい栄光の過去を想いながら、
いつか北部九州倭国へ帰れる日を夢見て、眠りについた。

そのような念のこもった棺ということです。

最大限の敬意が必要でしょうね。

366 :日本@名無史さん:2018/06/08(金) 23:15:32.16 .net
弥生時代の謎として、
高地性集落
銅鐸
甕棺墓
があります。

鉄工遺跡の発見によって、
高地性集落とは、木材から炭を作るための施設。
現代の採油所であることがわかりました。

銅鐸も、前スレで考察したように、
石剣地域に入植していく倭種環濠集落が、
収穫期の襲撃に備えて配備したJアラートであることがわかりました。

普段は乾土に埋めて劣化を防ぎ、収穫期に取り出して設置する。
高台に偽装して設置して、敵襲があれば銅鐸を鳴らして集落民を環濠の中へ避難させる。
銅鐸を鳴らし終えたらそのまま獣道を走って、近隣の集落などへ救援を呼びに行く、
というシステム。

甕棺墓は、何一つ不自由なく優雅に暮らしていた北部九州倭国の貴人が、
生まれ変わってもまた北部九州倭国に生まれ変わりたいという祈りを込めた葬儀。

あとは、なぜその甕棺墓が急速に廃れて、平原遺跡の卑弥呼女王が
木棺墓に入ったか?ですね。
卑弥呼が丹後の太田南遺跡1号墓の一大率長官の娘であることと関係があるとは思われますが。

367 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 15:01:16.93 .net
放射説は漢文的にありえない

368 :九州王:2018/06/09(土) 16:25:06.31 .net
>放射説は漢文的にありえない

そうですね、漢文的には連続して読むべきで放射説はあり得ませんね
但し距離(里)と時間(日)が連続して書かれてる場合は同じ行程を距離と時間で説明してるんですね。

369 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 17:02:18.01 .net
イミフ

370 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 17:37:16.19 .net
つまり日程はあくまでも帯方郡からの記録。
邪馬台国は九州北部ということだ。

371 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 17:50:23.19 .net
そういう根拠は?

372 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 18:18:36.73 .net
すぐ上に書いてあるけど?

373 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 18:21:13.78 .net
ナイワー

374 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 18:43:28.38 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM

375 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 18:44:38.52 .net
目的地までの行程を最初は距離(里)で書いて途中から時間(日)で書いたら目的地までの距離も時間も分からない
だから正常な思考の持ち主は目的地までの行程を最初は距離(里)で書いて途中から時間(日)で書いたりしない
故に距離(里)と時間(日)が連続して書かれてる場合は同じ行程を距離と時間で説明してるんです。

376 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 22:17:34.75 .net
>>375
>故に

そんな解釈のいる読み方は必要ないんだよ
記録がそういう形のものしかないから、里程と日程で書かれているだけ

起点を途中で戻すみたいな書き方はない

両方分かっているなら、投馬国までは何里だ?

377 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 22:29:08.65 .net
投馬までは行っていないから、里程はわからないんだよ。
日程は倭人からの聞き取り。
だから投馬が朝鮮半島である可能性はない。

378 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:11:31.76 .net
>>377
それは仮説であって事実ではない
一つの解釈でしかないから、根拠にはならないね

379 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:17:52.14 .net
>>376
投馬国までは7000里だよ
狗邪韓国は投馬国の中の国邑なんだ。

380 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:18:49.77 .net
>>379
根拠なし

381 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:28:11.07 .net
>>380
根拠は説明済なんですけど。

382 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 00:05:52.51 .net
>>379
>投馬国までは7000里だよ

こんなことは魏志倭人伝に書いてない。

383 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:02:27.24 .net
7000里に水行20日掛かったんだ。

384 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:15:24.25 .net
馬韓は統一されてないからね。
小国のどれかで足止め喰らったか、逆に盛大に接待を受けたか。

朝鮮通信使なんて対馬だけで1ヶ月。壱岐は一泊だけ。
釜山で病人が出て足止め喰らったりしてたし。

385 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:34:10.82 .net
魏使は馬韓の沖を通過してるだけで立ち寄ってないですから
途中で足止め喰らうことはないですね。

386 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:40:44.99 .net
>>385
帯方郡から狗邪韓国まで数百キロはあるので、寄港が必要でしょう。
意地でも上陸しなかったという理由が特にありませんし。

>循海岸水行

何度も往復しているのですから、沿岸の国々との友好もとれていて、
安全も確保されていたわけですし。

387 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 10:13:44.04 .net
途中の寄港地の描写もないし帯方郡から狗邪韓国までは一気に向かったのではないでしょうか
先任の太守弓遵は韓の反乱で死亡してますし、韓の治安は安定してなさそうですから。

388 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 10:16:14.09 .net
つまり、投馬国が半島ということはない。

389 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 11:27:03.02 .net
ないね

390 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 11:30:11.40 .net
>>388
何がつまり???
投馬国が半島ということはないの根拠は?

391 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 12:11:14.07 .net
お前はキナイコシと同類だな。
日本語の対話のリテラシーがない。
話の流れについてこれていない。

392 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:21:12.21 .net
数百キロを一気に向かえないでしょ。
寄港していることは確実。

393 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:22:53.31 .net
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7


速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね

394 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:57:30.12 .net
投馬国が出雲なら半島に領土があってもおかしくはないな

395 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 14:34:07.29 .net
半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

396 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 15:56:27.95 .net
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

〇漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

◎漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。

397 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 16:53:32.15 .net
魏志倭人伝は議題に使われていた地名で統一されている。
王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。

398 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:09:30.02 .net
本当に九州説はでたらめだなぁww

狗邪韓国と投馬国とは別に書いてあるのに同じだとか常識に合わない読み方を正しいと言い張るし

399 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:14:48.12 .net
九州説では投馬国は宮崎県。

400 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:28:27.48 .net
>>398
常識じゃなくて思い込みだね。

401 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:33:59.66 .net
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
○半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

△漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

×漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国で、魏代においても半島の倭人の国は狗邪韓国で変わっていない。

402 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:42:28.03 .net
投馬国への日程の方が邪馬台国への日程よりかかっているんだよ。

403 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:43:47.98 .net
×王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。

◎王都が倭奴国ではなく伊都国でもないと書いてある。
 王都は卑弥呼のいる邪馬台国内の何処か(久留米)。
 伊都国は以前の倭國の王都である。

404 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:08:19.95 .net
>>402
投馬国までは帯方郡から水行20日
邪馬台国へは投馬国から更に水行10日陸行1日。

>>403
邪馬台国内の伊都国が倭國の王都である。

405 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:12:09.23 .net
>>404
どちらの日程も帯方郡からだよ!
投馬国へは福岡で上陸せずに海路を宮崎まで南下するんだ!

406 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:29:33.15 .net
投馬国
郡から水行20日の道程(水行2万里=水行1千里×20日)

邪馬台国
郡から水行10日陸行1月の道程(水行1万里+陸行1千里)

水行1日≒1000里=80km
陸行1月=海行1月≒1000里=80km

407 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:41:24.49 .net
投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。

408 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 00:18:06.83 .net
>>407
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。

それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

投馬国までは何里だ?

409 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 01:00:50.54 .net
>>408
>それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

そもそもそんばことは書いてない!

410 :406:2018/06/11(月) 01:11:09.94 .net
投馬国は有明海東岸筑後平野沿岸部(大牟田〜筑後川河口)5万戸20万人

邪馬台国は筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で中心地は久留米 7万戸28万人


1戸構成人数は成人平均4人(戸主男1人、女平均3人)

411 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 04:10:57.93 .net
>>409
投馬国の南に邪馬台国ですよ。
>>408
韓は南を倭と接するから五千里になりますね。

412 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 06:17:14.51 .net
倉本一宏って、邪馬台国九州説で九州王朝シンパなのな

413 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:02:41.11 .net
>>405
漢文的には連続して読むのが基本ですから投馬国の次に邪馬台国ですよ
邪馬台国の日程を帯方郡からとする理由はなんですか?

414 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:19:28.40 .net
あなたも投馬国への日程は帯方郡からだと思っているのでしょう?

415 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:24:12.81 .net
里程も日程もそれぞれ帯方郡から連続して読むべきでしょう?
なんで投馬国と邪馬台国の日程をそれぞれ分けて帯方郡からとする理由が分からないな。

416 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:37:06.32 .net
日程はいずれも帯方郡からのものですよ。

417 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 08:19:05.79 .net
>>416
だからその根拠は?

418 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 11:20:14.36 .net
>>417

全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
各国間の道程距離里数の起点は前述の国になっている。

不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)
両者への全行程は帯方郡が起点になる。

419 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 11:50:56.90 .net
>>418
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。・・・何で不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国があると言えるのか?

>移動の動詞がない文・・・何のこと?

420 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 20:23:58.56 .net
>>418
>全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)

不弥国が邪馬台国なんじゃない?

421 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 20:41:53.16 .net
移動の動詞がある文  動詞:「行」「渡」
・・・東行至不彌國 東南陸行五百里至伊都國 又南渡千里至末蘆國

移動の動詞がない文 「至」は動詞ではない。
・・・東南至奴國 南至投馬國 南至邪馬壱國

422 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 21:12:35.85 .net
>>421
何で移動の動詞がないと
両者への全行程は帯方郡が起点になるの?

423 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 23:50:11.41 .net
で、投馬国はどこになるの?

424 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 00:21:49.89 .net
宮崎県

425 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 08:57:42.07 .net
至は方角や時間など何でも何なんに至ると使われる
南へ投馬国に至る、南へ邪馬台国に至る・・・理由なしには起点には戻らないよな
順次郡から投馬国が南へ至る水行20日、投馬国から邪馬台国が南へ至る水行10日陸行1月だよな。
移動の動詞がないと起点が戻るとか???

426 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 09:39:20.52 .net
投馬国に至った(ゴールした)なら、次の記事はまた振り出しからだよ。

427 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 11:01:07.39 .net
>>426
説明になってないな
至が動詞ではないなら投馬国にゴールではなく、「南の方へ20日水行すると投馬国に至る」との説明文でしょ。特に理由が無ければその後に続く文は更に先の説明文ですよ。

428 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 11:31:40.83 .net
至るだから動詞的に使っているよね。

429 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:06:45.83 .net
「至」は動詞ではない。
英語の「to」の様なもの。 A to B
「至」を日本語にする時に動詞として訳される。

430 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:23:59.30 .net
動詞かどうか関係なく、一々元に戻る理由がないな
漢文的には特に理由が無ければ順次続けて読むのが基本だよ。

431 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:44:53.48 .net
@「従郡至倭」
郡の先の倭に至るには 
郡を通って倭に至るには 
郡を経由して倭に至るには
郡より倭に至るには

A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」

B「南至投馬國水行二十日」 水行で20日かかる距離

C「南至邪馬壱國水行十日陸行一月」 水行で10日かかる距離と陸行千余里(=海行一月)

432 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:50:28.15 .net
A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」 郡から女王國までの道程12000余里

433 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:20.75 .net
平原の超大型内行花文鏡と数枚の方格規矩鏡の成分分析の結果が、
前漢鏡の範疇だということは、
甕棺墓勢力=百余國の王達の持っていた伝世鏡を全部取り上げて
改鋳したのかもしれませんね。

107年 桜馬場&井原鑓溝 無銘内行花文鏡 洛陽方格規矩鏡工招聘

2世紀中旬 倭国乱 甕棺勢力粛清 前漢鏡回収(伊都王伝世鏡除く※2

2世紀後半 卑弥呼擁立 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡へ改鋳(※1

240年 平原舶載内行花文鏡、青龍三年銘方格規矩鏡など伝来(※3

240年銅鏡百枚のうち、
青龍三年銘方格規矩鏡など、新興国の魏鏡に権威は無く、改鋳あるいは臣下配布
後漢鏡は貴重で、平原遺跡副葬や重要拠点(丹後一大率=籠神社)配布

卑弥呼の墓には、
※1 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡
※2 キ龍文鏡
※3 240年舶載内行花文鏡
などが副葬

舶載内行花文鏡(後漢鏡)は、政治的に重要なので、丹後一大率=籠神社などへ配布
青龍三年銘方格規矩鏡(魏鏡)は、単なる記念品で、卑弥呼の親族や旧来臣下へ配布

434 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:47.33 .net
3世紀後半 銅鏡百枚のうち魏鏡を改鋳して大型内行花文鏡(※4

※1 平原超大型内行花文鏡は
桜馬場&井原鑓溝の無銘内行花文鏡をモデルに、
甕棺墓王達から取り上げた前漢鏡を改鋳

※4 その他大型内行花文鏡は
平原舶載後漢内行花文鏡をモデルに、
銅鏡百枚中の魏鏡を改鋳

435 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:45:20.86 .net
>>431>>432
何が言いたいのか分からん?

436 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:47:00.56 .net
>>433>>434
くだらない妄想だな。

437 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:10:03.84 .net
>>436
反論になっていない。

438 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:23:58.16 .net
改鋳する必要ないし

439 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:25:32.09 .net
個人の妄想に反論の必要はないな
楽しんでください。

440 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:30:00.36 .net
>>438
材料が必要だろ?

441 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:57:44.87 .net
黄巾の乱が184年
公孫氏が189年ですから、
180年代に青銅原料の不足が始まります。

公孫氏と交易するしかなかったでしょう。
倭が公孫氏の勢力下に入ったというのは、青銅原料のため仕方なく腰を低くして接したのでしょうね。

一方の公孫氏側は、魏と敵対しているので、絹が手に入りません。
ここにも倭国の絹産業が栄える動機があったわけですね。

ちなみに鉄原料は朝鮮半島東南部から入手できるので
倭国そして伊都邪馬台国にとっては安定供給されます。

442 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:59:00.05 .net
邪馬台国に加盟して卑弥呼を共立した旧王達は、服従の証に代々の伝世銅鏡を献上して、
超大型内行花文鏡の作成に参加した。
共立の証ですね。

邪馬台国は朝鮮半島や公孫氏と交易できるので、
それなりに青銅原料を入手できますが、
南の狗奴国は鉄原料も青銅原料も完全に断たれます。

当時の北部九州で鉄鏡は使われていなかったようですから、
生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

広型銅矛や銅戈、銅鐸、場合によっては手持ちの銅鏡を溶かして、省エネで作ったのが
小型仿製鏡U型ですね。

443 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 22:00:49.86 .net
邪馬台国時代に分布する小型仿製鏡のうち、特に内行花文、日光系のものが、
狗奴国王の鏡でしょう。

邪馬台国側は、小さな王権鏡を作る動機がありませんから。

444 :日本@名無史さん:2018/06/14(木) 23:21:06.57 .net
>>442
>生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

鏡が必需品などという話は聞いたこともないが?

445 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:01:20.69 .net
使用している銅の量からすると贅沢品。

446 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:11:36.33 .net
鏡は生活必需品ではなく贅沢品で権威の象徴だな
呪術的な意味合いもあったんだろう

447 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:21:27.36 .net
当時の銅鏡は初級役人の給料で買えるくらいの値段

448 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:50:00.59 .net
>>447
それは漢や魏でのことでしょ、倭では金属製品は贅沢品で権威の象徴だったんじゃないの。

449 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:13:37.73 .net
それは交易を女王国が独占していたからだね

450 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:26:24.63 .net
輸入が途絶えたら転落必至の王権

451 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 11:30:51.90 .net
供給が止まれば価値が上がるんだけど。

452 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 13:15:14.45 .net
売れないだろ

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