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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

376 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 22:17:34.75 .net
>>375
>故に

そんな解釈のいる読み方は必要ないんだよ
記録がそういう形のものしかないから、里程と日程で書かれているだけ

起点を途中で戻すみたいな書き方はない

両方分かっているなら、投馬国までは何里だ?

377 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 22:29:08.65 .net
投馬までは行っていないから、里程はわからないんだよ。
日程は倭人からの聞き取り。
だから投馬が朝鮮半島である可能性はない。

378 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:11:31.76 .net
>>377
それは仮説であって事実ではない
一つの解釈でしかないから、根拠にはならないね

379 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:17:52.14 .net
>>376
投馬国までは7000里だよ
狗邪韓国は投馬国の中の国邑なんだ。

380 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:18:49.77 .net
>>379
根拠なし

381 :日本@名無史さん:2018/06/09(土) 23:28:11.07 .net
>>380
根拠は説明済なんですけど。

382 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 00:05:52.51 .net
>>379
>投馬国までは7000里だよ

こんなことは魏志倭人伝に書いてない。

383 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:02:27.24 .net
7000里に水行20日掛かったんだ。

384 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:15:24.25 .net
馬韓は統一されてないからね。
小国のどれかで足止め喰らったか、逆に盛大に接待を受けたか。

朝鮮通信使なんて対馬だけで1ヶ月。壱岐は一泊だけ。
釜山で病人が出て足止め喰らったりしてたし。

385 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:34:10.82 .net
魏使は馬韓の沖を通過してるだけで立ち寄ってないですから
途中で足止め喰らうことはないですね。

386 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 09:40:44.99 .net
>>385
帯方郡から狗邪韓国まで数百キロはあるので、寄港が必要でしょう。
意地でも上陸しなかったという理由が特にありませんし。

>循海岸水行

何度も往復しているのですから、沿岸の国々との友好もとれていて、
安全も確保されていたわけですし。

387 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 10:13:44.04 .net
途中の寄港地の描写もないし帯方郡から狗邪韓国までは一気に向かったのではないでしょうか
先任の太守弓遵は韓の反乱で死亡してますし、韓の治安は安定してなさそうですから。

388 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 10:16:14.09 .net
つまり、投馬国が半島ということはない。

389 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 11:27:03.02 .net
ないね

390 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 11:30:11.40 .net
>>388
何がつまり???
投馬国が半島ということはないの根拠は?

391 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 12:11:14.07 .net
お前はキナイコシと同類だな。
日本語の対話のリテラシーがない。
話の流れについてこれていない。

392 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:21:12.21 .net
数百キロを一気に向かえないでしょ。
寄港していることは確実。

393 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:22:53.31 .net
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7


速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね

394 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 13:57:30.12 .net
投馬国が出雲なら半島に領土があってもおかしくはないな

395 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 14:34:07.29 .net
半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

396 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 15:56:27.95 .net
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

〇漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

◎漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。

397 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 16:53:32.15 .net
魏志倭人伝は議題に使われていた地名で統一されている。
王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。

398 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:09:30.02 .net
本当に九州説はでたらめだなぁww

狗邪韓国と投馬国とは別に書いてあるのに同じだとか常識に合わない読み方を正しいと言い張るし

399 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:14:48.12 .net
九州説では投馬国は宮崎県。

400 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:28:27.48 .net
>>398
常識じゃなくて思い込みだね。

401 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:33:59.66 .net
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
○半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

△漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

×漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国で、魏代においても半島の倭人の国は狗邪韓国で変わっていない。

402 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:42:28.03 .net
投馬国への日程の方が邪馬台国への日程よりかかっているんだよ。

403 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 22:43:47.98 .net
×王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。

◎王都が倭奴国ではなく伊都国でもないと書いてある。
 王都は卑弥呼のいる邪馬台国内の何処か(久留米)。
 伊都国は以前の倭國の王都である。

404 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:08:19.95 .net
>>402
投馬国までは帯方郡から水行20日
邪馬台国へは投馬国から更に水行10日陸行1日。

>>403
邪馬台国内の伊都国が倭國の王都である。

405 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:12:09.23 .net
>>404
どちらの日程も帯方郡からだよ!
投馬国へは福岡で上陸せずに海路を宮崎まで南下するんだ!

406 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:29:33.15 .net
投馬国
郡から水行20日の道程(水行2万里=水行1千里×20日)

邪馬台国
郡から水行10日陸行1月の道程(水行1万里+陸行1千里)

水行1日≒1000里=80km
陸行1月=海行1月≒1000里=80km

407 :日本@名無史さん:2018/06/10(日) 23:41:24.49 .net
投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。

408 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 00:18:06.83 .net
>>407
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。

それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

投馬国までは何里だ?

409 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 01:00:50.54 .net
>>408
>それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

そもそもそんばことは書いてない!

410 :406:2018/06/11(月) 01:11:09.94 .net
投馬国は有明海東岸筑後平野沿岸部(大牟田〜筑後川河口)5万戸20万人

邪馬台国は筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で中心地は久留米 7万戸28万人


1戸構成人数は成人平均4人(戸主男1人、女平均3人)

411 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 04:10:57.93 .net
>>409
投馬国の南に邪馬台国ですよ。
>>408
韓は南を倭と接するから五千里になりますね。

412 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 06:17:14.51 .net
倉本一宏って、邪馬台国九州説で九州王朝シンパなのな

413 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:02:41.11 .net
>>405
漢文的には連続して読むのが基本ですから投馬国の次に邪馬台国ですよ
邪馬台国の日程を帯方郡からとする理由はなんですか?

414 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:19:28.40 .net
あなたも投馬国への日程は帯方郡からだと思っているのでしょう?

415 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:24:12.81 .net
里程も日程もそれぞれ帯方郡から連続して読むべきでしょう?
なんで投馬国と邪馬台国の日程をそれぞれ分けて帯方郡からとする理由が分からないな。

416 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 07:37:06.32 .net
日程はいずれも帯方郡からのものですよ。

417 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 08:19:05.79 .net
>>416
だからその根拠は?

418 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 11:20:14.36 .net
>>417

全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
各国間の道程距離里数の起点は前述の国になっている。

不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)
両者への全行程は帯方郡が起点になる。

419 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 11:50:56.90 .net
>>418
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。・・・何で不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国があると言えるのか?

>移動の動詞がない文・・・何のこと?

420 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 20:23:58.56 .net
>>418
>全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)

不弥国が邪馬台国なんじゃない?

421 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 20:41:53.16 .net
移動の動詞がある文  動詞:「行」「渡」
・・・東行至不彌國 東南陸行五百里至伊都國 又南渡千里至末蘆國

移動の動詞がない文 「至」は動詞ではない。
・・・東南至奴國 南至投馬國 南至邪馬壱國

422 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 21:12:35.85 .net
>>421
何で移動の動詞がないと
両者への全行程は帯方郡が起点になるの?

423 :日本@名無史さん:2018/06/11(月) 23:50:11.41 .net
で、投馬国はどこになるの?

424 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 00:21:49.89 .net
宮崎県

425 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 08:57:42.07 .net
至は方角や時間など何でも何なんに至ると使われる
南へ投馬国に至る、南へ邪馬台国に至る・・・理由なしには起点には戻らないよな
順次郡から投馬国が南へ至る水行20日、投馬国から邪馬台国が南へ至る水行10日陸行1月だよな。
移動の動詞がないと起点が戻るとか???

426 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 09:39:20.52 .net
投馬国に至った(ゴールした)なら、次の記事はまた振り出しからだよ。

427 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 11:01:07.39 .net
>>426
説明になってないな
至が動詞ではないなら投馬国にゴールではなく、「南の方へ20日水行すると投馬国に至る」との説明文でしょ。特に理由が無ければその後に続く文は更に先の説明文ですよ。

428 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 11:31:40.83 .net
至るだから動詞的に使っているよね。

429 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:06:45.83 .net
「至」は動詞ではない。
英語の「to」の様なもの。 A to B
「至」を日本語にする時に動詞として訳される。

430 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:23:59.30 .net
動詞かどうか関係なく、一々元に戻る理由がないな
漢文的には特に理由が無ければ順次続けて読むのが基本だよ。

431 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:44:53.48 .net
@「従郡至倭」
郡の先の倭に至るには 
郡を通って倭に至るには 
郡を経由して倭に至るには
郡より倭に至るには

A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」

B「南至投馬國水行二十日」 水行で20日かかる距離

C「南至邪馬壱國水行十日陸行一月」 水行で10日かかる距離と陸行千余里(=海行一月)

432 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:50:28.15 .net
A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」 郡から女王國までの道程12000余里

433 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:20.75 .net
平原の超大型内行花文鏡と数枚の方格規矩鏡の成分分析の結果が、
前漢鏡の範疇だということは、
甕棺墓勢力=百余國の王達の持っていた伝世鏡を全部取り上げて
改鋳したのかもしれませんね。

107年 桜馬場&井原鑓溝 無銘内行花文鏡 洛陽方格規矩鏡工招聘

2世紀中旬 倭国乱 甕棺勢力粛清 前漢鏡回収(伊都王伝世鏡除く※2

2世紀後半 卑弥呼擁立 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡へ改鋳(※1

240年 平原舶載内行花文鏡、青龍三年銘方格規矩鏡など伝来(※3

240年銅鏡百枚のうち、
青龍三年銘方格規矩鏡など、新興国の魏鏡に権威は無く、改鋳あるいは臣下配布
後漢鏡は貴重で、平原遺跡副葬や重要拠点(丹後一大率=籠神社)配布

卑弥呼の墓には、
※1 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡
※2 キ龍文鏡
※3 240年舶載内行花文鏡
などが副葬

舶載内行花文鏡(後漢鏡)は、政治的に重要なので、丹後一大率=籠神社などへ配布
青龍三年銘方格規矩鏡(魏鏡)は、単なる記念品で、卑弥呼の親族や旧来臣下へ配布

434 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:47.33 .net
3世紀後半 銅鏡百枚のうち魏鏡を改鋳して大型内行花文鏡(※4

※1 平原超大型内行花文鏡は
桜馬場&井原鑓溝の無銘内行花文鏡をモデルに、
甕棺墓王達から取り上げた前漢鏡を改鋳

※4 その他大型内行花文鏡は
平原舶載後漢内行花文鏡をモデルに、
銅鏡百枚中の魏鏡を改鋳

435 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:45:20.86 .net
>>431>>432
何が言いたいのか分からん?

436 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:47:00.56 .net
>>433>>434
くだらない妄想だな。

437 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:10:03.84 .net
>>436
反論になっていない。

438 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:23:58.16 .net
改鋳する必要ないし

439 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:25:32.09 .net
個人の妄想に反論の必要はないな
楽しんでください。

440 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:30:00.36 .net
>>438
材料が必要だろ?

441 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:57:44.87 .net
黄巾の乱が184年
公孫氏が189年ですから、
180年代に青銅原料の不足が始まります。

公孫氏と交易するしかなかったでしょう。
倭が公孫氏の勢力下に入ったというのは、青銅原料のため仕方なく腰を低くして接したのでしょうね。

一方の公孫氏側は、魏と敵対しているので、絹が手に入りません。
ここにも倭国の絹産業が栄える動機があったわけですね。

ちなみに鉄原料は朝鮮半島東南部から入手できるので
倭国そして伊都邪馬台国にとっては安定供給されます。

442 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:59:00.05 .net
邪馬台国に加盟して卑弥呼を共立した旧王達は、服従の証に代々の伝世銅鏡を献上して、
超大型内行花文鏡の作成に参加した。
共立の証ですね。

邪馬台国は朝鮮半島や公孫氏と交易できるので、
それなりに青銅原料を入手できますが、
南の狗奴国は鉄原料も青銅原料も完全に断たれます。

当時の北部九州で鉄鏡は使われていなかったようですから、
生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

広型銅矛や銅戈、銅鐸、場合によっては手持ちの銅鏡を溶かして、省エネで作ったのが
小型仿製鏡U型ですね。

443 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 22:00:49.86 .net
邪馬台国時代に分布する小型仿製鏡のうち、特に内行花文、日光系のものが、
狗奴国王の鏡でしょう。

邪馬台国側は、小さな王権鏡を作る動機がありませんから。

444 :日本@名無史さん:2018/06/14(木) 23:21:06.57 .net
>>442
>生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

鏡が必需品などという話は聞いたこともないが?

445 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:01:20.69 .net
使用している銅の量からすると贅沢品。

446 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:11:36.33 .net
鏡は生活必需品ではなく贅沢品で権威の象徴だな
呪術的な意味合いもあったんだろう

447 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:21:27.36 .net
当時の銅鏡は初級役人の給料で買えるくらいの値段

448 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:50:00.59 .net
>>447
それは漢や魏でのことでしょ、倭では金属製品は贅沢品で権威の象徴だったんじゃないの。

449 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:13:37.73 .net
それは交易を女王国が独占していたからだね

450 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:26:24.63 .net
輸入が途絶えたら転落必至の王権

451 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 11:30:51.90 .net
供給が止まれば価値が上がるんだけど。

452 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 13:15:14.45 .net
売れないだろ

453 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 13:51:05.80 .net
>>451
鉄は朝鮮半島の南部から手に入れられたけど公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。

454 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 18:18:20.62 .net
>>453
>公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。

3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

455 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 19:11:47.97 .net
国産の銅は698年に産出したものが始まりとされるじゃないかな。

456 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 19:56:50.05 .net
九州でも香春山で古くから採掘されている。
神功皇后が田油津姫を攻め滅ぼした理由の一つは香春山の銅だよ。

和銅年間に武蔵国から銅が出たのは、あくまでも畿内勢力の支配下では初めてということ。

457 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:01:03.94 .net
香春厨も妄想が酷い

458 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:37:35.72 .net
香春の採銅所が有名

459 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:39:35.75 .net
長門の登戸も
後代に銅銭製造の拠点だった。

460 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 00:00:08.81 .net
九州の銅も瀬戸内の銅も手に入れられなかった大和の弱小勢力w
鉄も絹もない
筑紫の倭国勢力が大和に侵攻するまで、大和は辺境の地だった

461 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 00:05:23.74 .net
九州の銅とか現時点で妄想でしかない

462 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 01:38:49.67 .net
鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
大和は蚊帳の外だけどね。

463 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 01:40:22.11 .net
根拠のない妄想

464 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 02:41:32.20 .net
瀬戸内沿岸で出土する銅鐸の銅は、瀬戸内沿岸産の銅

465 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:19:15.60 .net
>>463
ちっとは史料を読めよ。

466 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:20:25.21 .net
畿内、というか奈良盆地がいかに遅れていたかよくわかるな。
人は住んでいただろうが、3、4世紀に大和が覇権を握るわけはないな。

467 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:29:56.75 .net
>>465
どの史料?

468 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:53:01.08 .net
錫は神岡かな?

469 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:58:42.01 .net
http://zipansion.com/1S8qN

470 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 08:25:01.86 .net
ヒミコは誰なのか、キチッッと特定し、その居住地と墓を特定すること。
それをしていない纏向説も九州説も空想である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

ヒミコとはヒメ(踏鞴五十鈴)媛であり、住まわれたのは葛城である。
墓は大和盆地最上座の高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚で魏志倭人伝の記述通り、周囲に奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛である。

https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg

471 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 08:29:19.05 .net
「高天原にある日本最古の神社の境内」

何も難しい事はなかった。
卑弥呼の墓、単純明快な場所にあった。

472 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 09:02:55.63 .net
「俺様にはわかったあああ」系は、もうご馳走さま

473 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 09:21:24.99 .net
>>472

じゃ消えろ

474 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 10:54:29.20 .net
>>471
自分のスレでどうぞ。

475 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 12:27:25.68 .net
>>462
>鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、

☆三国志東夷伝韓条の記載と相反するようですが。
>國出鐵韓濊倭皆従取之

>>462
>4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
>>454
>3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

☆国産金属の使用は、鉄器が5世紀頃、青銅器は7世紀頃から、
というのがどの研究でも前提条件となっていますが、
何か新発見でもありましたかね?

476 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:41:56.44 .net
長登遺跡、中村遺跡、国秀遺跡などが6世紀以前から採掘されていたと考えられているが、年代は不詳。
749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

477 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:58:34.88 .net
>749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

7世紀に銅の採掘が開始されたからこそ、
8世紀に奈良の大仏が作られたと考えられていますね。

6世紀以前に「日本の銅が使われた銅製品」についての
成分分析報告があったら教えてください。
ましてや3世紀ともなると一大センセーションですけど。

478 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 15:26:30.52 .net
奈良の大仏は陸奥の国で金が見つかったから。

479 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 19:36:06.12 .net
まあ、定説では、国産銅は和銅年号からだね。

480 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:11:40.38 .net
定説は疑えということだよ。
単に畿内日本国の範囲で見つかったのは、という話で、倭国のことではない。

481 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:50:35.90 .net
疑ったところで証拠がなけりゃただの妄想なんだが

482 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:19:03.23 .net
キナイセツのことですね。わかります。

483 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:59:32.31 .net
キナイセツって言葉を使う人って、一人だけ?

484 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 23:02:37.18 .net
伊都クズ

485 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:38:53.86 .net
北部九州説だと伊都=筑紫の日向という基準点があるので、
記紀を読んでいくと面白いですね。

韓国に向かう、という点については既に考察されていますが、
笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。

筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
つまり陸続きなわけですね。
韓国に向かう立地を褒め称えた次に、笠沙の岬まで道が通じている、ということは、
笠沙の岬=東松浦半島、つまり末蘆国の交通要所なわけですね。

ニニギは天孫降臨した後に、笠沙の岬でコノハナノサクヤ姫に出会います。
考古学的には、宇木汲田〜柏崎の遺跡群に相当します。
伊都と密接に関係する遺跡群ですね。

文献・考古学・地理が全て絡み合って無理なく再現されます。

486 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:39:17.20 .net
コノハナノサクヤ姫は大山祇の娘とあり、
筑紫天孫族と、豊国大山祇(古代出雲)との政略結婚に見えます。

筑紫天孫族天神族は、
紀元前に若狭湾八岐大蛇を倒して扇谷遺跡を建設した、
日本海沿岸の覇者=アマテラス

豊国大山祇は、
山鹿貝塚から続く女王国で、筑紫より先行して東方進出していたけれども、
日本海制圧は鉄器筑紫に追い抜かれてしまい、
瀬戸内沿岸〜畿内へ事業展開していきます。

一書に、ニニギが笠沙の岬で美しい
鹿葦津姫(=コノハナサクヤ姫)に出会った際に、何者か尋ねたところ、
「天神が大山祇を娶って産んだ子です」と答えたとあります。

ということは、コノハナサクヤ姫は、
父親は、天神族、おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかで、
筑紫アマテラス王族直系の男系。
母親が、その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系。
ということなのでしょう。

487 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:50:33.28 .net
コノハナサクヤ姫の父親が、
唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかであれば、
壱岐対馬ルートを介した外交や交易を監督しており、
渡来系の技術者なども多数抱えていたはずです。
例えば、応神天皇が呉から縫工女4人を勧誘した際に、
途上の宗像氏がそのうち1人をゲットしたような感じです。

一方で、コノハナサクヤ姫の母親が、
その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系であれば、
瀬戸内〜畿内に荘園を所有しているはずです。
琵琶湖周辺もまた、下之郷遺跡以来、大山祇一族が体を張って開発して来た
重要エリアですね。先のスレで検討しましたが。

488 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:56:07.42 .net
猿田彦は、
旧伊都(吉武遺跡宮殿など)一万戸から、
新伊都(三雲遺跡高祖宮など)千戸へと、
天孫降臨するために日向峠を西へと越えるニニギ一行を
東から出迎えるわけです。

日没間近の夕日を背にして、猿田彦が現れるので、
猿田彦は背後からの夕日で光り輝くように見え、
その夕日はそのまま、日向峠から見て東方の、
早良平野=旧伊都=高天原=紀元前吉武遺跡宮殿と、
福岡平野=葦原那珂津国
を照らすわけです。

新伊都側から出迎えるということは、
猿田彦は、コノハナサクヤ姫の父親、
つまり唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
の配下であり、
もちろんコノハナサクヤ姫の父親とその配下の兵達と一緒に
ニニギ一行を出迎えに来た先頭にいたわけですね。

489 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:58:46.24 .net
>>485
>笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。
>筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
>つまり陸続きなわけですね。

笠沙の岬は志賀島でしょう。
博多湾に傘のように被っています。
天浮橋は海の中道です。

木花咲耶姫の実家は志賀島の海神神社でしょう。
この氏族は、天孫族と姻戚を結びながらも東の遠賀川にまで追いやられていきます。
これが筑紫岡田の宮の豊国王家、後の岡の県主です。
木花咲耶姫の父である大山祇は天照ではなくイザナギの子なので、天照の兄弟です。
出雲に降ったスサノヲも天照の兄弟です。
筑紫、豊国、出雲は同一の氏族の分家同士ですね。

考古学的にも、これら日本海沿岸が栄えていた地域であり、倭国の中心は福岡です。
後漢書は倭国を朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡にあったと記録しています。

490 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:02:41.22 .net
先に検討しましたが、
猿田彦は比良山を崇める高島市熊野本遺跡出身の工人。
旧伊勢=琵琶湖周辺のうち、
比良山の周囲が、コノハナサクヤ姫の母親の荘園だったのでしょう。

猿田彦とは、
コノハナサクヤ姫の父親が得た、渡来系の工人そのもの、
あるいは、
渡来系の工人に師事した倭人工人。
そのどちらかなわけです。

だから漢から直輸入の円周計算法=咫を駆使している。

491 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:09:33.08 .net
山上の集落で工房を経営する猿田彦は、
山伏の祖とも言われているように、
木材を得るための森林管理の専門家でもあるわけです。

鼻が七咫というのは、丸い皮ふいごでしょう。
山伏のように大きなほら貝でもいいですが。
なんでそれが鼻かというと、
日本オオカミ、山犬、熊などの猛獣避けに鳴らしていたわけですね。

ニニギ一行も衛兵を従えていたでしょうが、
峠越えでは細長い隊列となって離れてしまい、心細い。
衛兵たちも平野の人間なので、細い峠道ではおどおどする。
日が沈んできて、獣の遠吠えなど聞こえてきたところに、

猿田彦が現れるわけです。

山中暮らしの猿田彦は、慣れた様子で皮ぶいこをぶうぶう鳴らして獣を払い、
その賑やかな姿に、
ニニギたちはまさに救いの神のように感じて、その後の扱いに大きく影響したのでしょう。

492 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:12:23.88 .net
>>489
私も昔はそう思っていましたが、
それだと天孫降臨した先の日向から陸続きであることを、
褒める理由がなくなります。

493 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:42:07.39 .net
猿田彦は海と山をともに照らす(支配する)と書いてあるので、博多湾を守る将軍職です。
福岡市早良区にズバリ猿田彦神社があります。
彼は福岡の旧勢力の代表として邇邇芸を王として迎え、伊都まで案内し、新王の高祖宮建設に奉仕したのです。
こうして成立したのが卑弥呼の前の男王「日向三代」の伊都国の倭王家です。

その後、倭国大乱により天孫族は筑紫を離れて、親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。
代わりに倭王に共立されたのが卑弥呼になります。
卑弥呼と神武の年代が近いことは、鴨厨さんの考察のとおりですが、大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

494 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:49:26.49 .net
>>493
>親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。

饒速日が先に王国を建設しているという大和の王国の痕跡は? それも妄想かね?  @阿波

495 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:51:16.36 .net
>大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

魏志倭人伝でも、
邪馬台国は邪馬台国(正確には、邪馬壹國=邪馬一国)

大倭(大和)
は明らかに区別されていますね。

496 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:56:25.76 .net
ニニギ(アマテラス)の兄である饒速日(スサノオ)は、
銅戈将軍として、考古学出土物そのままに、
大阪湾上陸作戦、安芸上陸作戦、越後信州攻略戦、と転戦していきます。

基本的に、畿内に作られる環濠集落+銅鐸というのは、
大山祇一族の事業ですから、
唐古鍵の長髄彦が首長なのではなく、
その妹の登美夜毘売(三炊屋媛)が女王であり、

唐古鍵女王と饒速日が結婚して、内陸と瀬戸内から、
大阪湾沿岸の最後の石剣部族を挟撃したということでしょう。

497 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:04:58.51 .net
スサノヲはあくまでも日本海にしか足跡がなく、むしろ朝鮮半島に渡ったりしてますね。
出雲がその拠点ですから。

瀬戸内の開拓は豊国から進出した大山祇(天照の兄弟)とその息子の三島神らの事績です。これはスサノヲとは別系統で、登美の鴨王家となります。
綿津見神社、三島神社、賀茂神社などがその拠点です。
当時はそのまま王宮や役所だったのでしょう。
京都、大阪、奈良がその主な範囲です。

そこに同居していたのが饒速日(天照の孫)であり、そこに筑紫を脱出した神武が合流します。

498 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:05:50.68 .net
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

499 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:07:01.39 .net
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

500 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:09:13.55 .net
大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

501 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:13.45 .net
大倭が出てきたので脱線しますが、
大物主というのは、
大国主の治世に海外から現れて、大国主が設置した、わけです。

現代の我々日本人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国、東はアメリカ合衆国です。

が、弥生時代の北部九州倭人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国ですが、東は本州や畿内なわけです。

少彦名や大物主など、海外からやって来た神々というのは、
朝鮮や中国からの可能性もありますが、
本州出身である、という可能性もあるわけです。

502 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:47.47 .net
北部九州説だと、
大国主は葦原那珂津国=福岡平野の有力者ですから、
須久岡本の主となります。

考古学的には、
紀元前に、吉武高木王(高木神)=アマテラスが、
配下の王族将軍スサノオを派遣して、日本海沿岸を制圧。

紀元前後に葦原那珂津国が新興してきて、
中広型銅矛が、主に瀬戸内沿岸へと侵攻。
播磨を拠点とする広型銅剣と戦い、荒神谷遺跡で降伏調印式を行います。

中広型銅矛が失脚してから、
銅戈が大阪湾上陸作戦を行います。

503 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:27:04.85 .net
大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
の活動範囲は、
紀元前からの筑紫アマテラス領域=北部九州〜日本海沿岸と、
紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸

瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
大阪湾にはまだ上陸していません。

また、銅矛銅剣戦争のあおりで、大山祇銅剣祭祀は下之郷遺跡を一旦放棄しており、
畿内内陸からは北部九州勢力は一時遠のいているわけです。

考古学的に判明しているこの状況下で、
大国主が大物主を据えたわけですね。

504 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:28:11.44 .net
硯の出土状況を見て見ますと、
伊都三雲遺跡、奴国那珂比恵遺跡など邪馬台国中枢の沿岸遺跡に加えて、
内陸の筑前町からも硯が複数出土しています。

伊都などに一大率という北部支配機構があったのと同様に、
筑前町などにも南部支配機構があったわけですね。
一方が都庁でもう一方は府庁のようなものです。

庄内式など土器の流れを見ても、
一番集中するのは那珂川流域ですが、
大分から上陸して、川沿いに日田などを経て筑後へと入る流れも判明しています。

以上から、北部九州説における大国主=中広型銅矛が設置した
大物主とは、
筑前町の旧三輪町に設置された、大倭という交易職であり、

当然のことながら、弥生時代の総合商社である大山祇一族が
その運営に深く関わっており、

饒速日銅戈将軍が大阪湾上陸を果たして本格的に畿内侵入をすると、
交易の舞台が畿内へと移動したわけですね。

505 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:54:07.10 .net
>>498
>いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも倭国(阿波)を発った忌部一族にその起源があることになる。  @阿波

506 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:55:49.55 .net
>>500
>大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

北部九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の資格なし。  @阿波

507 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:59:11.44 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   @阿波
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR

508 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:13:18.90 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
>の活動範囲は、
>紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸
>瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
>大阪湾にはまだ上陸していません。

よくわからないけど、大山祇は伊予まで、その息子の三島神は摂津にいるのに反映されているのかもしれないですね。
彼ら瀬戸内や畿内の開拓の祖の実年代もなんとなくわかりますね。
その少し後に神武が畿内に入るので、平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

509 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:20:58.35 .net
>>508
>平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

510 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:37:31.14 .net
>>508
大山祇は元は遠賀川流域(古代出雲=豊国)が本貫でしょうね。
西に筑紫がいるので、大山祇は東へ進出したわけです。

筑紫天神族と婚姻を繰り返してお互い協力したのはいいものの、
筑紫で政争が起きるたびに巻き込まれて、領土を筑紫倭国へと組み込まれていった、
ということでしょう。

大山祇が伊予までに見えるのは、
大山祇女王国として独立していたのは大国主との戦争までだからで、
(銅剣分布域)
その後は大山祇系列の部族として、相変わらず東方開拓をしていたのでしょう。
大山祇の系譜である様々な神や部族がそれですね。

大山祇一族は最後の最後は畿内に独自国を作ったかもしれませんが、

失脚した大国主末裔が関東方面に入り、
愛知県まで先に分布してしまっていたので、

倭国乱で狗奴国側について敗北した時点で
大山祇末裔の独立可能性は断たれ、
あとは邪馬台国系倭国に吸収されてしまいます。

511 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:48:51.53 .net
九州における大国主の系譜は木花咲耶姫で早々に天孫族に吸収されていますね。
畿内においては長髄彦が倒されて実権を失ったようです。

512 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:07.20 .net
北部九州教の信者が読経してるな

513 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:38.59 .net
違った。
大国主ではなく大山祇。

514 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:50:08.13 .net
>>512
畿内説論者は何も語ることができない。
哀れだ。

515 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 16:18:29.73 .net
>>511

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

516 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:42:22.23 .net
出土分布が極端に偏っている地域というのは示唆的なわけです。

たとえば阿波です。
銅鐸は沢山出土していますが、
祭祀型武器は銅剣だけで、銅矛も銅戈も出土していません。

北部九州説なら、説明ができます。

神代出雲(=豊国日本海沿岸)出身の大山祇一族が瀬戸内沿岸の開発に乗り出した。
西の大分や愛媛などに拠点を置いているので、
東に突出して、畿内大阪湾石剣部族と海を隔てて面する阿波の最前線集落には、
Jアラート=銅鐸を配備した。

だから同じ四国の瀬戸内沿岸でも
東の徳島には銅鐸があって、
西の愛媛には銅鐸が無い。

愛媛の銅剣集落群は、大山祇一族の瀬戸内拠点だったわけですね。
攻める側だから、銅鐸は必要ないわけです。

517 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:43:30.03 .net
中広型銅矛大国主と、大山祇女王八上姫が、夫婦喧嘩の銅矛銅剣戦争をおっぱじめたので、
中広型銅矛祭祀に対抗して、瀬戸内大山祇は平型銅剣祭祀を始めた。
戦国武将の旗印みたいなものです。
敵味方の識別のために軍舟の舳先にでも掲げていたのでしょう。

出撃前に2本並べて戦勝祈願を行って1本埋納し、
勝利占領したら、勝利祈念式典を行って、もう1本を占領地に埋納します。
鳥居の原型ですね。

阿波に銅矛が出土しないのはなぜか?

瀬戸内平型銅剣分布域というのは、大山祇女王の八上姫が統率する独立国家だったからです。

愛媛あるいは兵庫かもしれませんが、銅鐸の無い場所が拠点。
激しい戦いの末に、愛媛は占領される=愛媛に中広型銅矛埋納
中広型銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内沿岸の制海権を中広型銅矛に奪われる

結果、大山祇女王国は全面降伏して、
日本海側の大山祇拠点だった島根荒神谷遺跡で降伏調印式を行ったわけです。

八上姫が降伏したら、八上姫の領土は全て降伏するわけですから、
阿波を中広型銅矛軍が直接攻撃=中広型銅矛を埋納、することはなく、
自動的に阿波も中広型銅矛の支配下に入ったわけですね。

日本政府が降伏してGHQが東京にやって来たら、
自動的に日本全土がGHQの支配下に入ったのと同じことです。

だから愛媛には銅矛が出土するのに、阿波には出土しない。
出土する必要が無いわけです。

518 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:45:50.80 .net
阿波は海を挟んで大阪湾と向かい合っているのに、
銅鐸はあるのに銅戈は出ない。

これも北部九州説なら説明がつきます。

中広型銅矛大国主が筑紫で失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略を開始します。

愛媛や阿波は大国主と八上姫の夫婦喧嘩の結果、
既に北部九州倭国の支配下に入っているので、
新たに銅戈が占領して勝利の埋納をする必要が無い。
だから出土しないわけです。

また、出土しないことから逆に、出陣式も行われていない。

瀬戸内沿岸には、大阪湾上陸作戦に出陣できるような軍隊は当時存在せず、
九州の銅戈埋納地から饒速日軍が出陣したか、
あるいは
畿内の銅戈埋納地から大山祇軍が出陣したか、
ということですね。

519 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:02:06.61 .net
大山祇の活動を四国瀬戸内沿岸だけ見てみると、

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

1世紀早期
 中広型銅矛と戦争
 平型銅剣祭祀
 筑紫との物量差は大きく、短期間で決着がついたので、
 西に銅鐸配備して睨み合うような時期はなかった
 青銅原料があっという間に尽きて、土製祭祀銅剣や木製矛

1世紀前半以降
 高地性集落を建設して炭を作り、淡路島鉄工所へ供給
 大国主失脚までは嫌々ながら
 大国主失脚後は饒速日と協力的に
 木材&炭供給をしているのだから、大阪湾攻略戦への兵員供給免除

520 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:07:21.31 .net
紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 「東」の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備


ずっと上の>>488でも猿田彦が「西」から出迎える、ですね、
あちこち間違えてすみません。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


521 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:01:13.69 .net
コノハナサクヤ姫について書いたと思っていて、書いていませんでした。

天孫降臨したニニギが、
笠沙の岬で出会ったコノハナサクヤ姫と結婚して、
一夜を共にする。
一夜を共にしただけなのに、コノハナサクヤ姫が妊娠したと言うので、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるわけですね。

これは妙な話ですよね。
国津神のトップであるオオクニヌシが討たれて、
それから天孫降臨して、
支配者となったニニギの后なわけです。

天神と大山祇の娘で、しかも、
大王ニニギの后に手を出す国津神なんてありえないわけです。
嫌疑だけでも討たれるレベルですよね。

つまりこれは、
まだ国津神が勢力を持っていて、
天神族の娘に夜這いをかけてもおかしくないような時代が、
女性が妊娠出産しうる10ヶ月のうちにあった、

オオクニヌシが失脚したのは、
コノハナサクヤ姫が妊娠を報告した時から、
10ヶ月以内だった、ということですね。

522 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:02:59.08 .net
そしてオシホミミについてですが、
最初はアマテラスからオシホミミに葦原中国を治めるよう命令が下り、
天の浮橋から葦原中国を覗いてみたところ、
葦原中国は大変騒がしくて手に負えない、と言って断るわけですね。

そしてすったもんだの末に、
出雲(なぜか出雲にいる)のオオクニヌシが討たれて、
再度オシホミミに命が下ると、
すったもんだの間に、子のニニギが生まれたので、ニニギを降臨させましょう、
ということになるわけです。

降臨したニニギが結婚した相手に、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるということは、
オオクニヌシの失脚から、ニニギが結婚するまでは10ヶ月以内なわけですから、
ニニギが生まれたというのは、
ニニギが元服したということであり、
(古代の子供は幽体であり、成人して初めて人間となる)
古代の元服は12-15歳。

后を娶って子作りをして、一人前の男として后に嫌疑までかけるからには、
結婚した時には15歳と考えられるわけです。

神話からは、
ああ、オオクニヌシ失脚からコノハナサクヤ姫妊娠までは10ヶ月以内ね、
その間にニニギは15歳になったのね、
というだけの話ですが、
北部九州説だと考古学に投影できるわけです。

523 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:06:11.51 .net
紀元前に吉武高木王(初代アマテラス)が田熊石畑遺跡(初代スサノオ)を派遣して
日本海沿岸を制圧。(丹後扇谷遺跡の長期運営)

紀元0年前後に那珂川流域が振興してきて、
上流の高級住宅地・須久岡本から中広型銅矛王(オオクニヌシ)を輩出。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は、 平型銅剣女王(ヤガミヒメ)を裏切ってスサノオに就任し、
夫婦喧嘩の末に平型銅剣女王国(旧出雲・新出雲・瀬戸内沿岸)を降伏させて占領。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は 那珂川流域の人口爆発・工房乱立を抑制できず、
森林長官のスクナヒコナが死去すると、敵対するオオヤマツミは助けてくれず、
領内の森林荒廃。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)はスサノオ将軍職に満足せず、
アマテラス就任を希望するが、天神族から許可が下りず、
漢皇帝に朝貢して金印入手。
漢使来訪(57年)のため福岡県道49号線沿いを整備するのに領内木材を大量緊急伐採。
57-58年の普通レベルの豪雨で土石流発生。続いて疫病発生。

荒廃した福岡平野から須久岡本の中広型銅矛王(オオクニヌシ)は古代出雲の宗像へ脱出。
早良平野から旧伊都吉武の天神族は新伊都糸島へ脱出。

立岩遺跡(オシホミミ)は天の浮橋=海の中道から、那珂川流域を見渡したところ、
被災民と疫病人で阿鼻叫喚の有様で、
これはヤバイだろうと引き返した。

自領の兵力が消失した中広型銅矛王(オオクニヌシ)を、
越後のタケミナカタなどが救援に来る前に、
筑紫天神族が出兵して制圧。だから勝負が早かった。

立岩遺跡(オシホミミ)は自らは立たず、息子のニニギ(三雲南小路1号墓)を推薦擁立。
ニニギ(三雲南小路1号墓)は、笠沙の岬(柏崎)のコノハナサクヤ(三雲南小路2号墓)と結婚。

524 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:08:39.32 .net
文献と、北部九州説を、考古学に投影すると、

大集落と工房群が密集していた那珂川流域の須久岡本王が、
金印授与のために無理に無理を重ねて森林乱伐して、洪水疫病を起こして自滅した。

自滅してからは、東の古代出雲の宗像へ避難したのだから、
西にある唐津の柏崎の姫にちょっかいを出せたはずが無く、

三雲南小路1号墓王が15歳で吉武から三雲に遷都して
柏崎の姫と結婚するのは、
古代出雲で須久岡本王が討たれた時より前の、
那珂川洪水から10ヶ月以内。

525 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:11:37.90 .net
比恵那珂遺跡の洪水層の上=57・58年より前
比恵那珂遺跡の洪水層の下=57・58年より後

吉武宮殿の政治的利用期間は57まで
三雲が倭国首都となったのは、58年
(三国志東夷伝倭人条と合致)

三雲南小路1号墓王は58年に約15歳で倭国王に就任。
妻の三雲南小路2号墓王妃は柏崎遺跡の姫で、父は吉武王の男系、母は豊国大山祇の女系

三雲南小路1号墓王は43年頃生まれ
その長男は58-59年生まれ

三男は3つ子同時出産と考えるなら、同じく58-59年生まれ。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の孫)
火事伝記を生まれについての夫婦喧嘩のごたごたと考えるなら、生まれはもっと後になる。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の三男)

中広型銅矛は57年より前
祭祀型銅戈は58年より後

58+70-80=122-138、がXデー

526 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:39:52.28 .net
邇邇芸は降臨した時は子供用の着ぐるみに包まれた幼児。
木花咲耶姫との婚姻は10年は後でしょう。
それに弥生時代の通い婚なので、通わなかった他の日に他の男(自分の一族以外は全員が国津神)が通わなかった保証はない。
後世の入内を想像してはいけない。

527 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:08:31.28 .net
平定された天孫族が支配する世の中で
国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

528 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:10:44.45 .net
天孫族が支配する世の中で
平定された国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

529 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:17:32.09 .net
>自分の一族以外は全員が国津神

天津神と国津神を対比すると、
あたかもそのような錯覚を覚えますが、
それも妙なわけですね。

そもそもは、天津神が大山祇と婚姻を結んで
八岐大蛇を成敗したわけです。
大三島の大山祇総本社は天津神仕様ですね。

後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の世界に、大国主が現れて、いろいろ頑張ったけれども、
ある日失脚して、結局は天津神がニニギを大王に立てた。
と読むのも一理あるわけです。

530 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 06:19:45.16 .net
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


531 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 07:29:51.10 .net
>>529
>後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の一族以外はすべて国津神です。
大国主の系統だけでが国津神はありません。
なので、天孫が即位しても、多数の国津神がいたわけです。
邇邇芸のセリフは、「何処の馬の骨とも知れない男の子だろう」程度の意味です。
そもそも木花咲耶姫と一夜しか関係を持っていない点も、入内ではなく、通い婚であったことを示唆しています。
何しろ弥生時代の当時は王族でさえも小さな高床建物に一人一人住んでいたはずです。

>>528
>大国主=葦原色許男神
>失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

これは、大国主の名前に複数の人物が集合されているせいもあります。
あと、貴族という身分制度はなく、各地の環濠集落の首長くらいがほとんどかと思います。

532 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 07:50:41.54 .net
>>531
記紀の解釈だけでは説得力に欠けますよ。
記紀に沿った物証が伴わなければ、単なる妄想。  @阿波

533 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:19:25.58 .net
唐津=笠沙岬
新伊都=筑紫の日向=糸島平野
旧伊都=高天原=早良平野
葦原那珂津国=福岡平野(板付遺跡)

古代出雲=豊前の日本海沿岸
出雲(筑紫倭人にとっての東隣り倭種地域)は時代と共に東へと移動

超古代出雲=宗像など遠賀川より西
超古代伯耆=遠賀川より東

稲場=鐘崎

534 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:20:40.62 .net
山鹿貝塚から出土した巫女指導者の遺体からは、
「埋葬後」に骨が抜き取られていたことがわかっています。

宗教的な理由から、遺体に刃物を入れて傷つけることが良しとされず、
一旦埋葬して時間をおいて遺体が腐乱して柔らかく溶けてから、
神職者が荘厳な儀式とともに墓を開けて、
素手でそっと骨を抜き取ったのでしょう。

身に着けていた装飾品などは荒らされていませんから、
神聖なる宗教的儀式であって、
抜き取った骨は、神事における神器、お守りなどに使われていたと考えられています。

以上が考古学的にわかっているわけですが、
記紀にありますよね。

535 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:21:26.68 .net
イザナギはイザナミの遺体を出雲の国境に埋葬します。
出雲と伯耆の国境ということですから、
超古代は、豊国の日本海沿岸のうち、
葦原那珂津国の東隣り、宗像など遠賀川より西が、超古代出雲。
遠賀川より東が、超古代伯耆だったと考えられます。

山鹿貝塚もその辺りですから、
イザナミは縄文時代から続く遠賀川流域を中心とする
豊国縄文人国家の巫女女王で、
生まれ故郷の聖地に埋葬されたのでしょう。

国家を想定する理由は、
イザナミご遺体からの骨取り神事を覗いたイザナギを、
八雷神部族全部が追いかけたからです。

部族がバラバラなら、イザナミの部族だけが追いかけてくるはずです。
カモさんの先祖がここに入っているので、そういうことなのですね。
豊国日本海沿岸の河川のどれかが出身流域でしょう。

536 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:22:18.67 .net
亡き妻を一目見たいと思って覗き見したものの、
変わり果てた姿に驚いて声を上げてしまった。
イザナギは葦原那珂津国に逃げ込んで、岩で蓋をするわけです。

神様なのですから、高天原に逃げ込むかと思いきや、
葦原那珂津国です。
つまりイザナギは福岡平野も領有していたわけです。
筑紫イザナギと、豊国出雲イザナミですね。

イザナミは豊国出雲出身の巫女なので、死後は骨取り神事が待っている。
そんな姿を夫に見られたくないという個人的な理由もあったでしょうけれども、
骨取り神事は、限られた神職と一族関係者しか見てはいけない、
という出雲部族での宗教的ルールがあったのでしょうね。

部外者に見られたら、大いなる祟りがある、ということだったのでしょう。

古代人にとって祟りは本当に存在します。
禁を犯して、その後に病気になった時、大雨あるいは日照りになった時、
それは古代人にとっては祟りです。

だから怒って全部族総出で追いかけてきたわけですね。

537 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:23:15.83 .net
出雲イザナミは超古代出雲と超古代伯耆の間、おそらく遠賀川河口周囲にあった、
山鹿貝塚近傍の聖地に骨取り神事のため葬られました。

一方のイザナギは、葦原那珂津国ではなく、
筑紫の日向まで移動してから禊をします。

つまり、筑紫イザナギにとっての、祓いをする聖地は、
筑紫の日向にあった、ということです。
超古代から聖地だったので、筑紫の日向=伊都の官は、禰宜に通じる爾支なわけですね。

538 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:23:57.95 .net
考古学的には、
菜畑遺跡からの唐津〜糸島がイザナギ系。元は壱岐でしょうか。
山鹿貝塚からの稲作導入して、遠賀式土器を伴って稲作を全国拡散したのがイザナミ系。

時々喧嘩しながらも婚姻して、
板付遺跡からは大陸系と縄文系の双方が出土します。
甕棺墓から矛も見つかっていますね。
環濠集落ということは、
おそらくですが、壱岐〜唐津〜糸島のイザナギ系と、遠賀イザナミ系が同盟して、
北部九州の他の勢力を征服していったのでしょう。

また、縄文時代の山鹿貝塚の骨取り神事が、イザナミにつながり、
大山祇女王国までつながるということは、
遠賀式土器の人々はイザナミと同根であり、
出雲大山祇と若狭湾八岐大蛇の戦いも、大元は同じ古代出雲=豊国出身の部族同士の
日本海沿岸支配権をめぐる争いだったことになりますね。

539 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 19:19:35.81 .net
素晴らしいですね。
筑紫王家と豊国王家の姻戚関係は邇邇芸以降の代で明白ですが、それ以前のイザナギの代からの伝統であったことになります。
那珂川流域と遠賀川流域はそれぞれ独自の文化を維持したまま共存していましたが、その関係が記紀において明確に個人名とともに記録されていたことになります。
倭国の拡大とともに出雲の地名が九州から本州に移動した経過も明らかにしてあります。
矛盾がない完璧な考察だと思います。

540 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:14:09.77 .net
完璧な既知の外w
考古学的?

時系列的に
伊弉冉伊弉諾が2万年前〜BC1000以前
天照 大国主 BC1000
神武 BC1000〜BC600 奈良で即位
事績は創作w

遠賀川式は稲作に拘泥する必要はなく、
神武以降の山陰瀬戸内海の中国地方から東西北への広がり
しかし、BC2〜300年、九州は銅鐸時代に再度断絶する。
古墳時代への進化は九州より吉備、出雲側が先

九州については、前漢〜公孫氏との繋がりは、本州諸国とは違う
九州の豊富な考古資料が明かすが、本州側の青銅器他の史料の出自は何故謎なのか。

金印の57年九州委奴国〜247年邪馬台国 と 
300年?纏向遷都に繋がる 吉備出雲畿内勢力は、明らかに並立するが
これを、うやむやにしているのが、日本古代史の癌、邪馬台国論争である。

愚の骨頂が、いいかげん無理スンナw の九州東遷説。
で、出雲と伯耆 が 九州? 矛盾がない完璧な考察です、感動すますたwww

541 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:35:44.22 .net
8世紀に書かれた記紀の記述内容で3世紀の邪馬台国論争をするのは馬鹿げていますね。

542 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:45:49.64 .net
>>540
そんなデタラメでスカスカな年代が信じられるわけない。

543 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 10:12:24.89 .net
デタラメでスカスカな年代?

2万年前〜BC1000 氷河期〜縄文時代
弥生時代、菜畑〜板付遠賀川〜BC600東方拡大
農地、墾田の私有、領有で縄文共産制の崩壊〜核家族化、人口減少〜弥生化の過程

BC300〜 
本州 銅鐸時代、地域集落の連携、法、軍事の発達 地方王権の成立
200〜300年 中央集権〜古墳時代
九州 地域集落の発展と連携、余剰人員の東方進出? 四郡 漢の影響 青銅器時代
57年〜247年 金印〜邪馬台国時代

2〜300年 大和朝廷の関東以西統一 200〜350 半島進出百済新羅建国
4〜500年 倭の五王 南朝と半島利権交渉、540 任那割譲
600年 北朝、隋唐成立 660 百済滅亡

中国史、半島史、考古学に比定可能な、この時系列は実在であって
記紀の天皇年号による、無理無理、創作事績は全く当てはめる必要が無い。

神功皇后記に卑弥呼の朝貢の史実が併記されるが年代と事績の一致は無い。
銅鐸時代と倭の五王時代を知らない。 記紀の限界は500年。 
中国が南朝による統一であれば、倭の五王は歴史化したかもしれない。
白村江海戦は、朝鮮半島38度線を日本と南朝の隋唐?で分断したかもしれないwww

しかし、これ、スカスカが正解。

544 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 17:03:56.26 .net
>>543
妄想年表w

545 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 19:24:16.26 .net
蛆の集る遺体に八雷神というのが落差が大きすぎて違和感があったのですが、
山鹿貝塚で謎が解けましたね。

逆に山鹿貝塚の巫女指導者の骨があちこち抜き取られているのも、
説話で謎が解けましたね。

縄文時代から続いていた風習。
弥生時代に入る頃には、
古代出雲(超古代出雲+超古代伯耆、豊国の日本海沿岸)には8部族がいて、
巫女指導者を頂いて結束していた。

巫女指導者が無くなると、骨取り神事が行われる。
8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始。
一度埋葬したのを掘り返すから、蛆はいても、蠅は飛んでいない。

最も腐敗が進んでいる部位
=最も早く来世へと生まれ変わる部位
=その部位の骨を担当する部族に、「次の巫女指導者が転生する」
ダライ・ラマに似ていますね。

古代豊国の、縄文文化を色濃く受け継いだ風習を、
壱岐対馬経由で海外と通じた先進的な部族が見ると、
ギリシャ出身の小泉八雲が日本を「死者の支配する国」と捉えたのと同じように
「黄泉の国」と惧れを感じたのでしょうね。

546 :日本@名無史さん:2018/07/08(日) 12:22:03.53 .net
>>544
>山鹿貝塚で謎が解けましたね

>>545
>8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始

8部族って、具体的には?

547 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 13:48:32.92 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

WFM

548 :日本@名無史さん:2018/07/14(土) 00:43:15.90 .net
アゲ

549 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 20:06:34.59 .net
このスレもすぐ過疎るなぁ

まあ、伊都国説に興味のあるやつも、そうそういないかw

550 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 22:04:51.42 .net
議論の余地もなく鉄板だからだよ。

551 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 10:01:39.60 .net
>>550
>議論の余地もなく鉄板だからだよ。

そうだね
伊都国と邪馬台国が別に書いてあるのを無視しないと成り立たない時点で、
九州説の中でも雑魚中の雑魚だしw

議論の余地もなく、「鉄板のトンデモ」だから、誰も興味を持ちゃしないww

552 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 18:39:16.96 .net
>>551
代案を示したいなら、
まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

もちろん、文化的に発展していないと話にならない。邪馬台国は「都」なんだから

伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい

553 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 14:57:06.95 .net
>>552
>伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい

どこが?
自分で自分を否定するのがマイブームなの?

>まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

伊都国の人口はたったの「有千餘戸」だぞ?

伊都国説推しには、クズしかいないのかな?

554 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 16:49:03.07 .net
邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。

555 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 17:01:33.65 .net
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で

それにしては、遺跡がお粗末だね。  邪馬台国が泣いてるよ。  @阿波

556 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:13:09.32 .net
もうオレはジジイなんでなんとか
生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。
九州でも機内でもアワでも構わん。

頼むから確定してくれ。

557 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:18:58.58 .net
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。

伊都国 有千餘戸
奴国  有二萬餘戸
不彌国 有千餘家

全部合わせても、二万二千余にしかならないよ

>>552の「まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな 」は
どこに行ったんだ?

その場しのぎがしのげてないぞww

558 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:19:54.99 .net
>>556
>頼むから確定してくれ。

畿内で事実上確定してるから安心してw
村おこしその他に気を使っているだけだから

559 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:38:44.48 .net
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

560 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:45:31.06 .net
>>556
>頼むから確定してくれ。

「其山有丹」でとっくに確定済み。 だって、倭国(阿波)しか該当しないでしょ。  @阿波

561 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 22:58:23.71 .net
>>553
罵倒だけでは意味が無いな。
3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

562 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 23:11:22.59 .net
横だけど
・備中(津寺遺跡とか)
・出雲(青木遺跡とか)
・河内(久宝寺遺跡とか)

563 :562:2018/07/18(水) 23:26:21.14 .net
↑にあげてる遺跡名はおおまかな場所を探しやすくするためのもので、
必ずしも中心集落というつもりではないので、念のため

564 :周髀算經の記述内容はBC1120年頃には成立していた:2018/07/19(木) 03:12:33.11 .net
>>556
>もうオレはジジイなんでなんとか
>生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。

邪馬台国は「官」1名「次官」3名の4名によって統治されている連合国だ。
其々の官の統治地域は、小郡 朝倉(浮羽) 三瀦 八女である。
擁立された卑弥呼はそれら4地域の中心地である久留米の城柵を都とした。

矢部川以南が邪馬台国と対立している狗奴国であることから、
(矢部川南岸以南は岩壁に岩穴を掘る横穴墓文化地域)
邪馬台国の官伊支馬の統治地域は八女である。

565 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:16:41.98 .net
>>561
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波

566 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:25:09.85 .net
前の男王までは倭は筑紫(筑前)だけだったが、卑弥呼の時に肥国も参加して、卑弥呼は肥国から倭国全体の女王に共立されたのだと思う。
でもあくまでも倭としての王都は伊都だったので、卑弥呼は伊都またはそのすぐ近くにいたはず。

567 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:26:57.60 .net
>>566
妄想はもういいから。  @阿波

568 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 16:57:22.24 .net
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

奴国の領域
佐賀平野中部西部・・・2万戸8万人

邪馬台国の領域
北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野東部(内陸部)・・・7万戸28万人

569 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 19:29:53.52 .net
>>568
妄想はもういいから。  @阿波

570 :日本@名無史さん:2018/07/20(金) 02:30:47.39 .net
妄想は誰だ?  

 アワ ワワワー 阿波

571 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:45:08.22 .net
>>546
古代出雲=豊国の女王は8部族による「共立女王」だったわけですね。
そして実子相続ではない。
これが縄文から暮らしていた豊国を中心とする人々のしきたりだったとすると、
卑弥呼→宗女台与を共立した勢力というのも、古代出雲系の人々だったことになります。

人口比率としては
早くから遠賀式土器と共に東方へ入植していった
古代出雲系の人々が最多だったでしょうから、
天神族など甕棺墓エリートによる専制政治に対しての何らかの社会変革があったのでしょう。
三雲男王と、平原卑弥呼とは、親族であっても直列ではない可能性が高いでしょうね。

大山祇は銅戈将軍と一緒に瀬戸内〜畿内開発をしていたわけですから、
倭国乱では狗奴国側だったことになります。
しかし大山祇系の人々というのは広範囲にいるわけで、
邪馬台国側においても大山祇系の人々が活躍していたわけですね。
保元・平治の乱のような状況だったのでしょう。

572 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:48:34.71 .net
八雷神は神産みと関係なく元々存在していたわけです。
八山津見神と建御雷神がカグツチから産まれます。
八岐大蛇も元は古代出雲(豊国)と同根。
八上姫は古代出雲・新出雲(島根)旧伊勢(滋賀)瀬戸内沿岸(淡路島まで)を領有。
八咫鏡を作ったのは旧伊勢の熊野本遺跡出身の猿田彦一族。大山祇系の荘園お抱えの工人。

八上姫が対銅矛戦争で使用した旗印が平型銅剣。
降伏時に武装解除して献上したのが大量の武器銅剣。

逆に銅矛有力者が失脚した時の制圧軍の大将が、建御雷神で、使用武器は剣。

八、雷、剣。

573 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:14:23.21 .net
国津神は女系継承なんだよ。
実子相続ではないわけではない。

574 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:22:49.01 .net
実子相続ではない。というのは、
実子には相続させないという意味では無いですよ。
条件さえ合えば実子相続となる場合もあるでしょう。

大国主は女系継承ではありませんよね。

575 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:31:21.59 .net
大国主は婿養子だから、女系継承だよ。
スサノオにいびられていた話があったろ。

576 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:35:05.35 .net
その場合、スサノオが女系継承という話になりますよ。

577 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:44:59.02 .net
出雲王朝だろ。

578 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 10:11:12.74 .net
直列ではない。
文身で身分や出身地が一目で分かる。人前に出ない。
同一資料にて委奴国王と倭国王は区別されている。
倭王であって倭国王ではなかった?

579 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 11:14:05.74 .net
倭王と倭国王は同じだよ。

580 :日本@名無史さん:2018/07/29(日) 04:57:15.25 .net
スサノオは新羅
スは須恵器からも分かるように、金属を意味してた
新羅の「し」もスから来ていて金属由来
つまり新羅とは金属もっと言えば鉄の国と言う意味

邪馬台国は筑紫にあった
古来、あの地域を筑紫と呼んでた

581 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 10:52:38.52 .net
>>578
>同一資料にて委奴国王と倭国王は区別されている。

これ、何のこと?

582 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 17:55:13.87 .net
人、いねーなぁ このスレは

583 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 18:13:32.22 .net
言い回しの揺らぎ。

旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

584 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 20:47:29.86 .net
区別されてないよな?

585 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 21:58:25.70 .net
されてないね。
倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。

586 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 11:10:35.30 .net
>>585
>倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。

× 倭国=筑紫
○ 倭国=倭人の国 時代によって異なる

587 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 14:27:35.59 .net
倭人の土地は倭地だが、倭国ではない本州(邪馬台国から東に渡海したところ)を含んでしまう。
魏志倭人伝では倭国=邪馬台国とは区別されている。

588 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 18:44:12.62 .net
>>587
>倭国=邪馬台国

これは明確に間違い
倭国の中の、女王の都するところの地名が邪馬台国

そして、倭地の中で女王の共立に参加した範囲が女王国であり、倭国

589 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 18:48:09.89 .net
ただ、混乱を招きやすいのが、女王国が多義的に使われているところ

女王国=共立連合=倭国で大体書いてあるんだけれど、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の2ヶ所は、女王国=邪馬台国になっている

女王国=倭国で
女王国=邪馬台国なら
倭国=邪馬台国にしたくなるけれど、
「邪馬台国=『女王国』」≠「『女王国』=共立連合=倭国」
という関係になっている

590 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 19:51:45.84 .net
対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。

591 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 20:07:57.55 .net
>>590
正解

592 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 13:35:57.82 .net
>>590
>対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。

狗邪韓国も不彌国も投馬国も、女王国の北なんだよ
女王国を筑紫にしてしまうと、投馬国が入る余地がない

女王国=倭国の意味の時には、もっと広く取らないと破綻する

593 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 13:42:45.69 .net
投馬国は宮崎都万。
いい加減にしつこいぞ。

594 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:05:09.57 .net
>>593
>投馬国は宮崎都万。
>いい加減にしつこいぞ。

だから、それだと、女王国より北にならないでしょ?

595 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:18:10.53 .net
投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ。

596 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:46:11.09 .net
>>595
>投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ

つまり、そう読んではだめだってことだ
水行の起点は帯方郡ではない

南へ行くだけで着いたら、倭人在帶方「東南」大海之中とも矛盾するし、
不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと
「魏志倭人伝の中で話が合わない」

597 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 15:29:00.35 .net
ここまでのまとめ=邪馬台国は畿内に在った

598 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 17:04:22.77 .net
>>596
>つまり、そう読んではだめだってことだ

だから、投馬国が邪馬台国より北にあると考えると矛盾だらけになるんだよ。

599 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 17:05:22.45 .net
>>596
>不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと

投馬国へは陸行がないのだから、上陸せずに海路を行くんだよ。

600 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:40:43.35 .net
>>599
不彌國、玄界灘沿岸から水行して、投馬国の海岸に着くだけだろ?
陸行など入らない

601 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:57:34.35 .net
不弥国まで陸行しているじゃないか。
それはおかしい。
筑紫に上陸せずに南に水行して宮崎だよ。

602 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 16:16:55.10 .net
>>601
>不弥国まで陸行しているじゃないか。

何を言ってるんだい?
普通に順次式で、不彌国から先が水行だけで陸行を含まないってだけだぞ?

魏使倭人伝の旅程記事、と言っているものは、地理・旅程記事であって、
倭国の地理の紹介も兼ねているから、実際の魏使の行程そのものを
記している訳ではない

途中で陸行が入るのがおかしいと言い出すなら、そもそも末慮国による必要はない
末慮国の位置を示すために、壱岐ー末慮ー伊都という行程で示してあるだけ

603 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 18:16:07.78 .net
投馬国の位置

投馬国は帯方郡から水行二十日で陸行はない。
水行二十日のルートは、
帯方郡→一支國→平戸島→西海→角力灘→天草灘→
→島原湾→有明海→有明海東岸(投馬國)

平戸島まで水行10日、
平戸島から九州西部海岸をぐるっと回って有明海東岸まで水行10日、
帯方郡から有明海東岸の投馬國まで合計水行20日。

九州西部海岸は潮流も速く(潮待ち時間が長い)風も強く(風待ち 逆風の時は進めない)、
波除け板だけの古代半構造船では、
1日に航海できる距離は平均20kmが限度である。

604 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 19:07:54.12 .net
遣唐使船が九州から直接上海に行くルートでは
距離千キロに対して平均20日ほど。
特に寄れる島などもないから、交代
して24時間航行を続けるしかない。

一日50kmなので一時間あたり2キロちょっと。

605 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 19:11:16.59 .net
朝鮮半島経由なら、壱岐、対馬、朝鮮半島と
随時休息が取れるだろうから
夜間は航行しなくて済む。

一日20km程度なら妥当なところかな。
もっと短いかもしれない。
風待ち、潮待ちも必要だからね。

606 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 11:19:38.66 .net
>>603
>帯方郡から水行二十日で陸行はない。

これがまずおかしいんだって
旅程記事の途中で、起点が振り出しに戻るような文献が他に一例でもあるなら出して欲しい

一例もないはずだよ

607 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 20:07:55.14 .net
>>606
同じ行程として読めばそうだが、日程記述に変更なるのに、直線的にただ読めばいいとは思えない

こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

起点がどこかは意見に違いがあるだろうが

608 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 23:17:13.08 .net
>>589
丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと
南至邪馬壹國 女王之所都・・・この女王は卑弥呼のこと
自女王國以北 其戸數道里可得略載・・・この女王國は伊都国のこと
此女王境界所盡・・・この女王は邪馬台国のこと
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王・・・この女王は卑弥呼のこと
自郡至女王國 萬二千餘里・・・この女王國は伊都国のこと
自女王國以北 特置一大率・・・この女王國は伊都国のこと
傳送文書 賜遣之物詣女王・・・この女王は卑弥呼のこと
女王國東渡海千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと
去女王四千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと 
倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・この女王は卑弥呼のこと
詔書報倭女王 曰・・・この女王は卑弥呼のこと
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・この女王は卑弥呼のこと

609 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:40:32.31 .net
>>607
後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。
起点は楽浪帯方です。

610 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:15:20.91 .net
>>607
>直線的にただ読めばいいとは思えない

思えない、というのはただの感想ですね
根拠ではない

>こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

多いというなら、実例をいくつか例示してくれ

611 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:18:50.51 .net
>>608
>丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと

東南陸行五百里、到伊都國。(中略)有千餘戸。世有王、皆統屬伊都國。

おかしいと思わないかね?

612 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:23:16.21 .net
>>609
>後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、

ここで既に間違い
後漢書のここのその国は、倭国であって邪馬台国ではない

>九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。

魏使倭人伝に明記されていることをかって解釈でねじ曲げちゃダメだよ

>起点は楽浪帯方です。

結論ありきで逆算してもダメ
戸数も、投馬国の位置も矛盾するだけだよ

613 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:41:25.69 .net
投馬国の位置が矛盾て何?
投馬国が朝鮮半島南部だとかいう謎理論?

614 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 02:00:52.16 .net
女王国は奴国だ
そして奴国は山と川を持っていた
奴国は八女〜英彦山まで横に細く長い地域
金印に書いてある通り
伊都国は渡来系の墓場
呉系か他の系統かで争っていた

615 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:02:31.31 .net
>>613
投馬国は戸数、道里が略載されている、女王国以北の国

宮崎都万に持っていったら、九州説の主張する博多湾付近の
邪馬台国より南になっちゃうだろ
それに南に行くだけで邪馬台国に着くなら、倭人伝冒頭の
倭人在帶方「東南」大海之中、依山島爲國邑とも矛盾する

616 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:15:41.07 .net
投馬国は里程が記載されていない。
帯方郡から女王国までのルート上にない。

617 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:30:20.12 .net
>>616
その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国1万里10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り)〜宮崎都万1万里10日。

618 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:37:50.01 .net
>>617
>その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。

冗談にしても、そりゃ手漕ぎじゃ無理だろ。  @阿波

619 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:39:09.96 .net
伊都クズは、頭の中身も糸クズ

620 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:51:02.86 .net
>>618
おまい、「時間の問題」とはなんじゃ、お盆のせいで仏心がついたのか、、、

帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、
実際に必死で漕ぐのは川内あたりのわずかな区間よ
(ま、九州東岸の日向灘は、海岸ノッペリで潮が早すぎ、とても下れぬがな・・・)

621 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:00:56.03 .net
>>620
>帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
>潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、


そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波

622 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:22:53.95 .net
>>621

こういう人は、大胆な発想をするくせに、詰めが甘いんだよね。  @阿波

623 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:18:59.56 .net
>>621
気が利かぬやつだ
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、10日で1万里、到る宮崎都万国の港。
邪馬台国へは、ここで上陸し、東南陸行500里で佐賀川上の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。ここから南へひとっとび肥後邪馬台国女王之都に至る。この間2000里、ひと月の旅、

624 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:21:57.61 .net
>>623

相手を間違えた。  @阿波

625 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:51:29.84 .net
>>616-617

その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の有明海東岸だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国 水行10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り 早瀬瀬戸経由)〜福岡県みやま市瀬高 水行10日。

626 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:18:59.77 .net
>>625

そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波

627 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:39:13.93 .net
そうか。
関門海峡が3世紀には通過出来なかったと言われているのでどうするのかと思っていたが、九州西岸沿いに回ればいいのか。
帯方郡からだと、えんえんと南下するように見える。
納得した。

628 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:56:37.35 .net
>>625

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)

629 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:57:56.42 .net
>>626

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)

630 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:30:28.22 .net
>>611
伊都国の説明だからおかしくないだろ。

631 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 20:33:12.61 .net
自動詞と他動詞の区別ができとらんな
英語はゼロ点だったろうな!

632 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:38:02.03 .net
>>631
???

633 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:48:37.85 .net
世有王、皆統屬女王國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆女王国に統属していた。

世有王、皆統屬伊都國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆伊都国に統属していた。

634 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:16:52.32 .net
>>616
>投馬国は里程が記載されていない。
>帯方郡から女王国までのルート上にない。

魏志倭人伝に書いてあるのは「自女王國以北、其戸數『道里』可得略載」であって
『里程』ではない

『道里』は日数でも表せる

投馬国は、戸数も道里も略載されているから、女王国より北だよ

635 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:53:44.67 .net
投馬国は里程が記録されていない。
郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。

636 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:56:54.19 .net
>>634
日数を云うときは「旅程」だろ

637 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:20:58.56 .net
>>636
>「旅程」

その通りだよ
「道里」というのは旅程という意味なんだから

638 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:23:13.52 .net
>>635
>投馬国は里程が記録されていない。
>郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。

戸数と日数(道里)が、両方書かれているだろ
それに、郡使のお役目として、五万戸の倭国第二の大国はきちんと見て報告する必要があるし
そのために出雲経由のルートにしたのだろう

639 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:12:44.82 .net
投馬国は日程のみで里程の記載はない。

640 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:46:20.53 .net
>名曰卑弥呼。。。
>有男弟佐治国。。。以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
>宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。。。

この伊都国かどこにあったのか知らぬが、
卑弥呼が住まいしていた環濠王宮の場所を教えてくれ。婢千人というからには、それなりの規模だったはず。

641 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 14:50:20.62 .net
>>640英彦山

642 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:05:35.08 .net
>>641
英彦山の何処にそんな遺跡があるんだ?

643 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:07:43.73 .net
>>635
郡使が通過したルート上にないものを何で記載したんだ?
行ってもない所の情報をどうやって知ったんだ、超能力かw

644 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:13:02.95 .net
>>640

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波

645 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:25:40.32 .net
>>644
コザコザはよろしい、黙っとれ

卑弥呼と1000人の婢が住まいしたという環濠王宮はどこだ
今宿小学校のあたりか
それとも怡土国博物館のあたりか

646 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:15:18.91 .net
>>645
発掘調査してくれ
未だ埋もれてるな。

647 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:49:49.19 .net
>>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。  @阿波

648 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:57:31.77 .net
>>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。

649 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:01:44.17 .net
>>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。

650 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:07:21.78 .net
>>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。


書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。  @阿波

651 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:00.82 .net
怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。

652 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:36.74 .net
>>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。

653 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:18:59.01 .net
>>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。

だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない

道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。

654 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:22:03.57 .net
>>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。

途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。  @阿波

655 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:24:46.16 .net
>>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。

656 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:26:59.37 .net
>>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。

657 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:59:30.49 .net
>>656
>東至都護治所四千七百四十里、

この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。


>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。

この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。

658 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:12:10.03 .net
怡土城
>奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、
文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。

>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
>怡土城は、奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、
及び他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡。

>>649 >>651
苦しい説明じゃのう。文献上で築城機関が特定されとるそうではないか。
明らかに時代が新しすぎるわ。

659 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:18:59.92 .net
>>653
大月氏國の位置関係を説明した文ですね
大月氏國の東4740里で都護の治所に至る
大月氏國の西49日で安息に至る
大月氏國の南はケイ賓と接している

660 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:21:51.89 .net
>>658
>>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、

これ根拠がないいい加減な説ですね、朝鮮式山城・神籠石系山城の築城時期に付いては現在も不明ですよ。
信用ならない引用だな。

661 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:26:13.30 .net
>仲哀天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。
>これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。
>今、伊都と言うのは訛っているのです。
>21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

仲哀天皇の時代に「伊蘇(いそ)の国」と呼ぶようになり、
その後、これが訛って怡土(伊斗、伊都)などというようになったのだから、
これまた時代が新しすぎるわ。苦しいのう、、、、

662 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:31:37.03 .net
怡土は、高麗人の天の日鉾が下ったところというではないか。
なんで卑弥呼と一緒にするのか。

663 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:32:48.57 .net
奈良時代や戦国時代に築城したという記録があるだけで、いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。

664 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:33:16.69 .net
>>658
天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。
とは書かれてるが新築なのか改築なのかは分からないですね。

665 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:36:31.92 .net
>>660
何をおっしゃる。
ウィキを参照せよととのことだったから、参照・引用してやったのに・・・、
信用できぬのはオマイら高麗人。

666 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:37:00.91 .net
>>661
神功皇后の実年代は卑弥呼より120年も後なのに、伊都の命名説話がある方がおかしい。
神功皇后の項だけはやたらと命名記事が多い。
魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
逆に言えば、奈良時代の日本人は、魏志倭人伝を九州の記事だと理解していたということ。
奈良の人たちにとって、魏志倭人伝は明らかに九州の話題だった。

667 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:38:30.16 .net
>>662
天の日鉾の話はもっと後世の話。
福岡にはしばしば渡来人がやって来たというだけのこと。

668 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:40:55.83 .net
中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
福岡城のさらに下層にあったかもしれないが、筑紫の日向のクシフル山と呼ばれた高祖山であったかもしれない。

669 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:44:46.72 .net
>>668
>中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。


倭国(阿波)にも「筑紫城」の謂れ、あるよ。  @阿波

670 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:45:35.55 .net
>>665
ウィキは参考にはなっても
そのまま信用はできないからね。

671 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:47:06.21 .net
>>666
ならば、何も疑われそうなねつ造記事を入れることはなかったであろう。
伊蘇の国だったなどと言わず、
最初から伊都の国でしたー、と書けば、それで万事落着したはず。
そうしなかったのは、アメノヒボコの件は真実だったから、それを欺くようなウソは書けなかったんだよ。

672 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:49:05.56 .net
高祖神社の周りをもっと年代別に発掘調査するとおもしろいかもしれない。
目の前の三雲であれだけ発見が続くくらいだからね。
ただ、いかんせん290ヘクタールは広すぎて、予算が厳しそうだ。

673 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:52:00.45 .net
そういえば、伊都城の一部とも言われる
高祖神社は神功皇后が再建したんだよね。
再建前は今の大門にあったらしい。
その大門は、伊都城の大門があったからだそうだ。

674 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:53:47.68 .net
天の日鉾も事実であったろう。
ただ、それとは別に倭国創建の説話があったということ。
卑弥呼がヤマト王権と平行する筑紫の王権だったからこそ、扱いに苦慮したんだよ。
天皇家の祖地である筑紫の日向も削れないし。

675 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:57:01.88 .net
>>673
ということは、4世紀末に伊都城を再建した記録があるということ。
3世紀中頃に魏の使いが見た楼閣は伊都城のものであった可能性がある。
使いが滞在したのは、その大門の目の前の伊都国なのだから。

676 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:59:26.07 .net
>>666
>魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。

こういうのを、語るに落ちる、という。

なんでミスりードをねらったんだろな。
糸島は「怡土・伊都」ですよー、ですから、倭人伝の伊都国はこのあたりだったのかもしれませんねー
と、記紀はミスリードしようとしたのです・・・、といいたいんだろ。

では聞くが、ホントの伊都国はどこにあったんだ。え、わからないってか。
そうだろな、それが明確になると困ることがあったんだよな〜。大和朝廷(と糸島市役所)は・・・。

677 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:16:30.36 .net
>>657
>この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。

時々これを書くやつがいるけれど、道里の道に「方角」という意味はないぞ
「道里」で一語

例えば、《九章算術》の《均輸》に、計算問題としてこんなのが出ている
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?

距離は全部日数で書かれているが、それを「道里」遠近と表現してるだろ?
日数書いてあっても、道里略載になるんだよ

678 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:18:24.29 .net
>>663
>いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
>地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。

おれが、九州説が大嫌いなのは、こういうところ
結論ありきで、記録にないものを「あったはずだ」「ないわけがない」と
理由にならない理由をほざいて捏造する

大嫌い

679 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:39:12.08 .net
取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。

680 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 22:56:33.92 .net
>>679
>取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。

「らしい」じゃなくてソースを出して!

681 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:10:29.89 .net
日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。

682 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:46:02.94 .net
九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。

683 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:52:51.10 .net
日本書紀の年代だと卑弥呼の時代のことになってしまうけどね!
これで高祖宮が3ないし4世紀にはあったことがわかったね!

684 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:20:02.09 .net
江戸時代の文献、しかも軍記物を持ち出してきて
3・4世紀のことが分かると言ってしまう歴史学無知

685 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:25:33.95 .net
要するにケチつけたいだけなんだろ。
君みたいなのが日本史を暗黒に塗りつぶすのだろうな。

686 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:26:37.98 .net
そのうちポツダム宣言受諾さえも信用できないと言い出すよ。

687 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 01:04:43.53 .net
ミソも糞も持ち出すバカが日本史を暗黒に塗りつぶす

688 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:52:58.42 .net
反論できなくなると、関係のないことまで持ち出して罵倒に走るよな
九州説はレベルが低い

689 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:54:05.73 .net
>>681
>日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。

そんなアホな。
役人が一生懸命、習字をしているような程度の文字文化だっただけ。  @阿波

690 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 08:20:29.19 .net
歴史とは結局のところ後世において記録したものに過ぎない。
それを否定するなら、歴史学は成り立たなくなる。
8世紀の史料は信用ならん、戦国時代の史料は信用ならん。
そのうち、昭和の史料は信用ならん、平成の史料は信用ならんとなるぞ。
現代のことでさえ、ほとんどは伝聞なんだ。

691 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 09:08:54.09 .net
↑と史料批判を理解できないチェリーピッカーが喚いています

692 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 10:57:54.01 .net
>ポツダム宣言受諾

伊都国連呼ジジイの頭の中では、
日本の敗戦と伊都説がセットなんだろうな

693 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 12:48:20.96 .net
>>690
同時代史料って知ってる?

694 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 13:34:03.91 .net
>>693
それがほとんど失われている場合は、複数の後世の史料を比較する。
伊都が倭国の王都である筑紫の日向であり、高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
それを、一つ一つの根拠がわずかであるからといって潰していけば、全体像は見えなくなってしまう。

695 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 16:07:17.63 .net
>>694
>高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。

江戸中期の九州諸将軍記にもそんなことは書いてない

696 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:04:37.53 .net
>>694
>一つ一つの根拠がわずかであるから

わずかならいいんだけど、妄想は根拠にならない

697 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:47:37.37 .net
複数の史料をつなげて書いているだけだよ。
創作した部分はほとんどない。
畿内説のテンプレよりは少ないはず。

698 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 18:59:35.06 .net
>>697
>創作した部分はほとんどない。

創作してるんじゃんww

そもそも怡土城は、奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて
「築城された」って記録されてるんだぞ?

その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
8世紀以前に、怡土城があったと考えるべき理由はないし、記録はむしろなかったと判断する理由になる

699 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:03:03.72 .net
>>698
>その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう

神功皇后が再建したという記録があるよ。

700 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:52:53.55 .net
>三韓征伐凱旋後、神功皇后は神恩に報いようと高祖神社神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。> ・・・←怡土城ではないぞ

>この地の県主・五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。>
>高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。>

どうやら糸島は、高麗人の巣窟らしい

701 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:00:25.18 .net
天皇家とこうくりが同祖だから(ぼぞっ)

702 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:03:07.19 .net
>>699
>神功皇后が再建したという記録があるよ。

日本書紀だと思うけれど、原文を出して

703 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:04:42.66 .net
>>702

九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。

704 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:06:17.74 .net
高祖宮と伊都城はほぼ同じものだろ。
大門があったのだから、ただの神社ではなく防御機能を持った施設だったはず。

705 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:20:49.40 .net
高祖神社
<伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、
高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという>

706 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:30:42.56 .net
神社と城を勝手に同一視するのは文献無視

707 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 22:37:54.29 .net
高祖神社の発祥は神代で開始時期は不明。
神功皇后が現在の大門付近に社殿を建立。
伊都城の築造時に今の場所に移された。

708 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 22:57:05.66 .net
つまり怡土城と高祖神社はまったく別の施設だな

709 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:02:02.76 .net
伊都城の中心の王宮が高祖宮

710 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:04:10.23 .net
立ち退かせてるのに?
頭おかしいだろ

711 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:06:07.54 .net
ウソを取り繕うためにウソを重ねる、これが九州説脳クオリティ

712 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:06:31.96 .net
今の場所も伊都城の内側、むしろより神奈備の中腹の良い立地だよ。

713 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:09:29.30 .net
妄想しか語れない憐れな伊都クズ

714 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:12:13.69 .net
史料批判なんて知りません
都合の悪い類例・用例は無視します
でも専門家のいうことよりも自分の主張が優れてます

…即入院が必要なレベルだな

715 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:15:21.74 .net
立ち退かせてるというよりは
築城の区画整理と神社大規模化だろ

716 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:16:24.72 .net
>>714
典型的六拾弐病患者

717 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:17:41.93 .net
城が4世紀にあったなんて根拠はどこにもないな

718 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:18:56.64 .net
博多湾に面して、福岡と糸島を両方に睨みを効かせることができる城だからね。
弥生時代の倭国王墓に囲まれた、まさに倭国の王城にふさわしい。

719 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:20:43.45 .net
ほら、根拠を明らかにせずに結論だけw
学問じゃなく自分自身を信仰する宗教だなw

720 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:21:07.08 .net
筑紫の日向のクジフル山の高千穂宮は、九州で最大級の強固な山城でした。

721 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:21:43.81 .net
伊都クズのクズたる由縁が遺憾なく示される

722 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:22:31.03 .net
反論が弱々しいな。

723 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:22:31.36 .net
歴史オンチもここまでくると病気

724 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:23:26.73 .net
論理的思考ができないガイキチさんには反論しても理解できないからね

725 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:23:53.56 .net
伊都城以外のどこに王城を想定できる?
纒向になんかそんな遺構はないもんな。

726 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:24:40.36 .net
歴史学のルールを守れない伊都クズ

727 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:24:50.95 .net
魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述も、峰々に楼閣が連なる姿だとわかる。

728 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:25:49.24 .net
>>725
その質問自体がアホ

729 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:26:40.43 .net
>>727
また文献無視ですか?

730 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:27:45.09 .net
妄想チェリーピッカーは最強だな
なんたって自分のおかしさに気がつかないんだから

731 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:28:23.12 .net
少し古いけどバカの壁

732 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:30:13.16 .net
伊都クズ「歴史学の方法なんて知らん!俺様が正しい!」

周囲「かわいそうに…」

733 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:32:36.71 .net
糸島は、高麗人の巣窟!

734 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:33:12.16 .net
これだけ妄想が得意なら、本書いて売ってみたら?
案外、ファンタジーとして受けるかもよ

735 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:34:15.87 .net
>>734
紙の無駄

736 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:36:19.50 .net
高祖は詫蘇のなまり
古代氏族の詫蘇氏はどんな氏族でしょうかねぇ

737 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:41:49.47 .net
皇祖が降臨したからじゃない?

738 :736:2018/08/17(金) 23:42:10.64 .net
訂正 詫蘇→託杜

739 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:46:43.94 .net
伊都城が、倭王墓に囲まれた立地であることは、考古学的に明らかなわけだからね。
だったら王城が必要だろ?
吉武高木は王宮だけど、そこから数百年の後だから、もっと大きな王城があって然るべき。

740 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:49:17.66 .net
>>736 >>738
ググったら怡土には宅蘇氏ってのがいたんだな
姓は吉士だから完全に渡来系

741 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:50:15.41 .net
>>739
妄想100パー

742 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:53:06.55 .net
嘘はどれだけ重ねても嘘
妄想はどれだけ重ねても妄想
こんなことすら分かっていない人がいるようです

743 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:58:46.68 .net
いろんなスレでいい加減な知識で書き込んでボコられてるのな
それでも現状を正しく認識しないのは自己暗示が強いのか
状況を把握できないほどの馬鹿なのか

744 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:08:30.64 .net
糸島は博多湾の入り口にあり
交易や水軍の船舶の把握に優位な位置にあり
望楼のあった高祖山からは
博多湾全域が見渡せる。

軍事拠点として有効である。

745 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:31:24.08 .net
糸島は高麗人の巣窟、
軍事拠点としてさぞかし重要だったことだろう

746 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:32:26.88 .net
邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。

747 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 01:09:23.68 .net
>>746
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

いろんなところで何度も書いているんだが、
魏志倭人伝を含め史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、
頭をひねって解釈しないと読み取れないような書き方はしてないんだよ

読み取らなければならない内容は最初から書いてない

それを読み取ったという主張は、結論ありきで結論に寄せていますという
告白に他ならない

>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが

呼びません
伊都国、奴国と邪馬台国を重ねるのは、単なる二重帳簿詐欺

748 :九州王:2018/08/18(土) 06:55:37.74 .net
>>746
>>747
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

流石にそれは無理だな。それを判断するには考古学的なものに頼るさかないだろう。

>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。

伊都国と奴国が女王国の中心地であったことは読み取れますね。

749 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 06:56:35.41 .net
訂正
さ→し

750 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 07:37:01.92 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

751 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 08:01:09.53 .net
746 名前:日本@名無史さん 2018/08/18(土) 00:32:26.88
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

典型的な差魏志の口上だな

752 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 17:24:20.54 .net
糸島の「高祖」の読みは「たかす」

高祖神とかの、「こうそ」とは別物

753 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 18:09:44.68 .net
意味はほぼ同じ。
掛詞だな。

754 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 18:12:28.89 .net
梯儁、張政は倭国内で報告書を作成したが検閲にあったため軍事情報等を
暗号にして挿入した。そのため、魏志は両名の記述をそのまま引用する必要があり、
交互に入れたために記述に不統一性が生じた。

まず、投馬国と対海国は発音が大体同じでツマ国(対馬)を表している。

女王国については、都市別に追うと、帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末廬国
→伊都国→奴国→不弥国という経路であり、伊都国には女王がいるという記述が
ある一方、帯方郡から南に水行20日で投馬国(対馬)、投馬国から水行10日陸行1月で
邪馬壱国に行き着くという記述が別にある。投馬国は対馬、壱岐、呼子、松浦辺りの
領域で5万戸、邪馬壱国は伊都から東部一帯で7万戸であり、女王国は島、沿岸部の
投馬国、都がある陸部の邪馬壱国という両国で構成されているということであろう。

時間差のある別々の報告書のもののため、長官、副官は異なっている。

とか妄想してみた。暗号をどう解くのかは知らね(゚听)

755 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 20:42:42.87 .net
>>753
>意味はほぼ同じ。
>掛詞だな。

また適当なことをw

宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに

756 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 20:45:19.84 .net
>>754
>検閲にあったため軍事情報等を
>暗号にして挿入した。

誰が、何のために、検閲したんだ?wwwww
もう、デタラメしか書けなくなったのか?w

757 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 21:11:34.17 .net
>>755
>宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに

ソースは?

758 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 22:23:56.50 .net
>>757
>ソースは?

Wikipediaでもこれくらい出てるよ
自分でちったぁ調べたらどうだい?


『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、
「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が
知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・
「高礒(高磯)」が関連づけられる

759 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 23:13:49.58 .net
そんな後世の文書はあてになりません。

760 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 23:26:18.41 .net
糸島は、渡来高麗人の巣窟

761 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 00:59:26.40 .net
>>756
誰が何のためは妄想で補完するところだよ。

自分は暗号とか関心ないし。

>>759
後世の文章が当てにならないじゃそこで思考停止
じゃん。停止したい奴は停止すればいいんだけど。

んじゃ、ROMに戻るか。

762 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:01:41.93 .net
畿内説の真似をしたまでさ。
彼らは都合よく二枚舌を使い分ける。

763 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:20:37.83 .net
>>759
>そんな後世の文書はあてになりません。

何を言ってるんだ?
現代の高祖山という地名の語源を調べるのに和名抄が後世ってことはないだろ?

九州糸島説の主張では、今の高祖山はかつての日向山で怡土城であって、
古来高祖山だったとは言ってないだろうが?

764 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:22:42.78 .net
>>761
>誰が何のためは妄想で補完するところだよ。

では科学ではないな
学問(文系)の日本史板で、妄想を論拠に出すなら、相手にされず軽蔑されるだけ

765 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 05:55:33.92 .net
伊都クズの頭の中では
平原の時代より和名抄は新しい!
と判断したんだろ

バカ丸出しだな

766 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:08:55.19 .net
和名抄は10世紀だろ
平原の時代より700年後のものだろ。

767 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:23:08.75 .net
畿内説はいつもダブルスタンダード

768 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:59:55.46 .net
糸島は、高麗人の植民地

769 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 10:11:01.08 .net
>>766
和名抄には高祖はなく託杜
高祖の地名が確認できるのはそれより後
時系列で考えれば一目瞭然
和名抄が新しいから〜とかいう主張はアホ

770 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 11:45:15.19 .net
>>767
>畿内説はいつもダブルスタンダード

そして、自分が言われて口惜しかった批判をオウム返しで書き込んで満足するw
もちろんどこがダブスタなのかという「具体的な指摘は」なしで、だ

771 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 11:48:08.68 .net
>>766
>平原の時代より700年後のものだろ。

細かいことだけど、「800年」くらいだと思うよ
平原1号墓のあと3,4号墓が家族墓地の平原遺跡に作られているから、
古墳時代まで1世代以上あることが分かる

平原1号墓は、九州説のいう年代よりも古い

772 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 13:28:57.81 .net
>>771
その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。

773 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:34:15.38 .net
糸島は高麗人アメノヒボコの植民地
平原は、高麗人の墓場

774 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:48:39.40 .net
平原遺跡は中国の影響の方がはるかに強い。

775 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 15:32:37.71 .net
>>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。

副葬品で、細かい年代比定ができる異物はないだろ?
年代指標として一番あてになる舶載鏡は、やたら古いのが2枚だけだし

776 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 15:49:24.68 .net
>>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。


お墓より、重要なのは卑弥呼の時代の集落遺跡だよ。  @阿波

777 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 16:25:58.32 .net
耳璫は魏晋代以降

778 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:22:20.68 .net
イト国は倭の五王のうちの1人
イト国と邪馬台国は別々
イト国の下に邪馬台国あり

779 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:25:05.71 .net
>>778
妄想がすごいな

世有王、皆統屬女王國。を言いたいのだろうが、松本清張以来、『A統属B』を
「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが、
三国志においてそのような用例は無いということが解っている。

伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。

780 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:12:03.74 .net
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
です、女王国が伊都国です。

781 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:15:17.58 .net
>>750
明らかに間違っているのは
不彌国 福岡市東区(香椎宮) と投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)

倭人伝の記述通りに進むと不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面だし
投馬国は朝鮮半島です。

782 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:33:01.12 .net
>>781
>不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面
そこまでは100里ではとおすぐる

783 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:06:52.54 .net
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

784 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:08:43.70 .net
>>780
魏略に添えばそうなるよな

785 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:11:44.70 .net
>>781
ご意見ありがとうございます。
不弥国へは、魏志倭人伝の方角が若干間違っているという解釈です。
ただし、香椎宮が当時にあったかどうかがそもそも不明なので、あくまでも暫定的なものです。

あと、投馬国はすでに何度も説明していますので省略しますね。

786 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:21:59.98 .net
>>785
自作自演、おっかれさん

787 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 22:43:45.96 .net
>>780
>女王国が伊都国です。

それが二重帳簿詐欺
伊都国は女王国の端っこの方の一部で、一大率を派遣される遠地

788 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 22:46:05.47 .net
で、高祖山の語源が「託杜 」、「宅蘇」だってのはいいな

789 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:06:16.28 .net
ずっと後世の不確かな情報で強弁するつもり?

790 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:09:29.35 .net
託杜が存在していた時代以前には高祖が存在していた証拠ない
歴史オンチには理解できないだろうが歴史学的にはこれで決まり

791 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:33:14.79 .net
まあ、上古における名称は日向山や久慈古山なんだろうからな。

792 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:49:57.97 .net
>>791

どこの山が?

793 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:30:29.38 .net
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

違いますよ

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)

794 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:34:16.77 .net
修正
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

その通りですね。

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)

795 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:42:00.97 .net
馬投國w 相変らずのチョンボジジイ

796 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:44:18.27 .net
対案

>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

その通りですね。

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国(邪馬壹國)は、伊都国 奴国 不弥国の連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の宮城が置かれたのが、邪馬壹國の国内。

797 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:52:32.51 .net
女王國の位置(奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国)
筑後平野ほゞ全域

奴國
佐賀平野中部西部

不彌國
佐賀平野東部(吉野ヶ里近辺)

馬投國
有明海沿岸部筑後平野(大牟田以北)

邪馬壹國
有明海内陸部筑後平野と筑後川中流平野(北野地域)

参考
伊都國
佐賀平野中北部(嘉瀬川扇状地の北部)

798 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:55:26.32 .net
修正
× 筑後平野ほゞ全域

◎ 筑紫平野ほゞ全域

799 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 07:02:03.16 .net
>>789
>筑紫平野ほゞ全域


九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波

800 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:24:38.36 .net
>>787
邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
邪馬壹國中最大の国邑が奴國で女王国卑弥呼の都が伊都国
邪馬壹國側に卑弥呼の都が在ったから「邪馬壹國 女王之所都」と記された
投馬國には女王国の都がないってこと。
女王国とは伊都國と奴國のことである
一大率を朝鮮海峡付近の国々に置いて支配していた。

801 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:30:31.42 .net
>>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域


九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波

802 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 12:05:54.79 .net
>>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域

これが通ると思ってるところがすごいな
朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ

のっけからおかしいし、最後までおかしい

コメ番もちょうど800だし、嘘八百でちょうどいいってか?

803 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:11:12.88 .net
朝鮮海峡って、対馬海峡のことか?
投馬国半島説の背景が透けて見えるよ。
やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。

804 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:20:38.28 .net
>>803
>やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。

そんな妄想、いいわけないだろ。  九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波   

805 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 14:22:01.24 .net
>>803
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県

よそのスレでの確定事項だが、
日数も道里の表現として普通に使われている

つまり、投馬国の
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
も、道里、戸数が略載されている、女王国以北の国ということになる

投馬国が宮崎都万だと、北部九州説と矛盾するよ


道里が日数でもよい例示
《九章算術》[西漢 - 新] 紀元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?

各県から輸所までの日数が書かれているのを、「道里」と表現している

806 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 14:59:44.59 .net
「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」

807 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 15:08:22.78 .net
>>805
>よそのスレでの確定事項だが、

お前の頭の中ではそうなんだろうよ。

808 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 15:55:04.15 .net
九州説に漢文は無理

809 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:18:25.48 .net
日数しか問題文に書かれていない
その上で「道里遠近」を考えろとしている

日数が、道里と表現されていることは、漢文を習いたての中学生でも分かるぞ

810 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:19:58.83 .net
>>806
>「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」

《九章算術》は、大陸の国内向け文書で、夷人は出てこないよ
>>805に対するレスじゃないのかもしれないけれど、念のため

811 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:36:23.09 .net
「倭人も里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」

812 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 17:22:39.74 .net
>>802
>朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ

根拠はなんだね?君の思い込みだろ。

813 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 17:26:52.77 .net
>>811
よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地は倭人からの伝聞のみ。
邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。

814 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:20:00.27 .net
>>813
>よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地

基本的に認識がおかしい。

815 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:46:12.38 .net
>>813
>邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。

邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?

南至投馬國                   水行二十日。
官曰彌彌、副曰彌彌那利。            可五萬餘戸。
南至邪馬壹國 女王之所都            水行十日陸行一月 
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

投馬国の旅程記事と、邪馬台国の旅程記事は、
完全に構造が同じで対応関係がはっきりしている

この二つについて、異なる読み方をする人は、インチキ読みだと思えばいい

816 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:52:22.59 .net
>>812
>根拠はなんだね?君の思い込みだろ。

ほらよ
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
韓条 弁辰
大國四五千家、小國六七百家

半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ

少し広げて韓全体で見ても
大國萬餘家、小國數千家
で、数万の大国はない

九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ

朝鮮半島に、五万戸の大国はないと烏丸鮮卑東夷傳そのものに書いてある

817 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:55:24.14 .net
>>815
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月。
>自郡至女王国万二千余里。

普通は、この2文を以て、郡から邪馬台国の都までの日程及び里程と解釈するんだがなあ。

818 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:06:55.25 .net
普通は、     ×

特殊な人は、 ○

819 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:23:15.44 .net
女王国と邪馬台国は一致しないからね

北海道=札幌じゃないのと一緒

820 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:27:44.03 .net
東京から北海道まで900キロ
東京から函館まで680キロとあるからといって、
東京から札幌まで900キロじゃないし、
函館から札幌まで、220キロでもない

東京から札幌までは830キロだし、
函館から札幌までは150キロ

821 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:45:29.30 .net
女王国と邪馬台国は一致すると考えれば、万事めでたく解決するんだがなあ。

822 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:49:03.76 .net
>>815
>邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?

お前は魏志倭人伝のどこを読んでいるんだ?

823 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:50:23.61 .net
>>816
>半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ

それは同意するけど、

>九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ

投馬国が半島だなどと言っているのは、九州説のごく一部だ。
一緒にされると迷惑だ。

824 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:51:34.40 .net
>>819
道都=札幌
くらいの意味だよ。

825 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:53:09.14 .net
もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
つまり邪馬台国は九州にあった。

826 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 20:49:43.81 .net
>>825
>もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。

そんなことはどこにも書いてない

そして、仮定の話として短里があったとして、短里が76メートルとすると
九州上陸まで10000里で残り2000里は150キロほどになる

末慮国や博多湾沿岸から筑紫平野の有明海沿岸まで50キロしかない

伊都国、奴国に邪馬台国を持ってくるのは無理な数字しか出ないよ

萬二千里は女王国までであって、邪馬台国までではない
まずそこをきちんと把握しよう

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ

827 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:09:06.16 .net
隋の時代には短里をやめたからだよ。

828 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:22:12.49 .net
>>827
>隋の時代には短里をやめたからだよ。

短里をやめたら、萬二千里が萬四千里になるのか?
短里ってのは、15%くらい短いだけだっけ?

829 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:28:22.25 .net
一万四千里は長安からだね。

830 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:56:56.50 .net
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までのを距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と
所要時間(20日+10日+1日(1日は1月の誤記))と
総距離(12,000里)とで3重に併記している。

旁國(奴国から奴国まで)を通過する21か国の国名と
総距離(5,000里)とで2重に併記している。

女王国から裸国、黒歯国までも同じ行程を距離(4,000里)と
時間(1年は12日を12月1と見間違えての誤記)とで2重に併記している。

陳寿は丁寧に説明している。

831 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:05:48.24 .net
>>829
つまり、実測値ではない数値が使われ続けているってことだ
さすがに唐代に短里があったとは言わないだろ? 九州説でも?

832 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:08:03.90 .net
>>830
>1日(1日は1月の誤記)

こういうご都合主義の捏造をしないと成りたたないのが九州説
末慮国から奴国まで1日で行けるのかい?

833 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:10:18.67 .net
だから、唐代では記述が変わるんだろ。

834 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:08:59.03 .net
帯方郡起点が長安起点になって、2千里しか違わないってことは、
半島の付け根の方から萬二千里ってのは変わってない扱いだぞ

でも、唐代に短里や東夷伝里がないには認めるんだろ?
だったら同じ里程の魏志倭人伝でも短里なんてないんだよ

835 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:18:18.41 .net
意味わからん
勝手な謎論理を展開しても説得力ないよ

836 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:23:26.97 .net
「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」(隋書)
だから唐代に書かれた隋書では変ってないな

837 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 10:55:16.29 .net
それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?

838 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 12:19:25.16 .net
>>832
漢や三国時代は文書は木簡や竹簡に書かれていた
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
同じように一大國も一支國の誤記であろう
幾ら文字が染みても南を東とは見誤る可能性はないけどね。

839 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:00:21.71 .net
>>838
>文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い

でもそうすると、北部九州説の行程論と合わないよ?

末慮国から伊都国、奴国、不彌国までの陸行七百里を、
1日で踏破したという主張をするのかい?

一大率のいる伊都国も足早に素通りして?

この辺も、ウソにウソを重ねている状態になっているのに早く気づくといいね
そもそもの短里が捏造なんだから

それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?

840 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:08:03.25 .net
『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀では
十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 

普通の里なら欝陵島が40q四方(1600 km²)となってしまうが、短里なら約8q四方(約64km²)となり72.82 km²の現実の欝陵島と近い値になる。

841 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:14:25.29 .net
>>839
宿泊地は伊都国だと書かれているから
末慮国から伊都国までの陸行五百里(40q)を、
1日で踏破したという主張ですけど?
時速4q/hで10時間
十分に1日で行けますよね
何か問題ありますか?

842 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:38:35.12 .net
>>841
だとすると、伊都国までで終着ということになるけれど、
合計は萬五百里にしかならないよ?

残りの千五百里は関係ないってことにするのかい?

それとも、最初から萬二千里は、邪馬台国の比定地を考えるのには
意味がないというのに同意するのかい

843 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:40:05.58 .net
>>840
ごめん12世紀の成立の三国史記は考慮に入れてない

844 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:48:31.31 .net
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高かったら
画数が多い漢字は字が潰れまくりだな
行程で比定するのは無理だな

845 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 14:09:24.48 .net
>>841
ひとつ取り繕うと、ひとつ以前の主張と矛盾するのが分かるかい?

九州説の行程パズルは、無理読みの寄木細工なんだよ

部分部分では尤もらしく言い繕っても、結局各部で矛盾する

846 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 14:20:50.34 .net
何も矛盾なんかないよ?
畿内説は矛盾を解決するために魏志倭人伝を無視しているみたいだけどねw

847 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:06:29.84 .net
>>846
>何も矛盾なんかないよ?

これまでの九州説の主張まとめ

邪馬台国までの里程は魏志倭人伝には書いてないに対して
九「萬二千里が、邪馬台国までの里数、里数と日数が両方書いてある」

同じ旅程の里数と日数だとすると、陸行一月は北部九州ではおかしいに対して
九「一月は一日の間違いだから大丈夫」

一日の間違いだと、末慮国から不彌国まで一日で行くことになりおかしいに対して
九「伊都国までだから、一日で行ける」

伊都国までなら萬五百里、邪馬台国まで萬二千里と言っていたのと矛盾する

今のところこれには返答してないね

848 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:35:13.60 .net
思いっきり矛盾してるのを突きつけられたら黙っちゃったかな?

849 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:46:26.42 .net
予想される反論
「それ言ったのは俺じゃない。」

850 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:59:11.00 .net
まあ、
「女王国の首都は伊都国」
「邪馬台国は伊都国奴国周辺」
「水行は帯方郡起点で、日数と里数は並列表記」
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」
って、さんざん言ってきてるからねぇ

「邪馬台国は伊都国奴国周辺」と
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」は
単純な足し算で、矛盾してるってことがすぐ分かる

これを解消するのが、島巡り仮説だけれど、
いまさら島巡り仮説を言うやつもいないだろ

851 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:26:04.14 .net
>>842
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までの距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)
丁度12000里ですが。

852 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:27:00.28 .net
>>850
島巡り仮説を否定する根拠は?

853 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:33:26.57 .net
>>850
少なくとも、島の大きさの分は入ってないな

論じても正解は陳寿にしかわからんから、あんまり重視してないが…
陳寿は算数はできたと思うので九州説のが妥当とは思う

854 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:37:50.29 .net
はいはい、自演乙

855 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:38:26.20 .net
島巡り仮説的なものが、他の地理旅程記事で見つけられたら教えてくれww

856 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:40:21.07 .net
島巡り仮説の欠点はね、島の大きさは、旅程としては書かれていないってことなんだ

それに、韓が方四千里と書かれているからといって、
韓を通過する旅程で書かれてもない8千里を足したりはしないだろ?

857 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:02:12.66 .net
そして、島巡り仮説の最大の欠点は、そう読む必然性がまったくないこと

858 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:03:02.51 .net
島巡り仮説の存在理由が、1500里を消費すること以外に何もないからね

859 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:04:18.65 .net
それと、島巡り仮説を使っても、伊都国が邪馬台国の首都にはならない
島巡り仮説を使っても、100里余るから、奴国まで行くしかない

そうすると、邪馬台国の首都は伊都国というのと齟齬が出る

860 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:22:57.21 .net
途中の里程の表記に「余り」があるよ。

861 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:28:02.06 .net
古田史学の会のウェブページに書いてあった文章
「このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、
 つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。
 この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」により、対海国(対馬・下県郡)
 800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を『見つける』ことが出来たのです。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/himika26.html
『 』は私が付けた

正直だよね
『見つけた』って書いてるww

つまり、普通に読んだらそうは読めないってこと

史書に限らず、多くの文書は読む人に情報を伝えるために書かれているのだから、
暗号書や判じ物でもない限り、普通に読んで内容が読み取れるように書かれている

見つけなきゃならないような読み方は、作者・編者の意図から外れている

島めぐり半周読法は、無理読みの代表

862 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:29:31.36 .net
あと、島めぐり読法を「見つけた」古田史学の会の見解では、邪馬台国は
不彌国に距離0で接してすぐ南にあるらしいよ

伊都国・奴国とは重ねないww

863 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 21:53:18.82 .net
>>855
中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。
>>859
島巡り仮説を使うと伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。
>>862
古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです

島巡り仮説が正しいと考えられる分け。
@倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
行程を合計すれば12000里になるはずである
島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。

A島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。

B島巡り仮説でなく島の面積とすると現実の面積と著しく合わない。

864 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 22:13:17.49 .net
https://donutsmagazine.com/interview/dj-masato/

865 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:29:42.16 .net
>>863
>島巡り仮説を「使うと」伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。

語るに落ちてるねぇ
結論ありきの逆算でしかないってw

866 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:32:06.13 .net
>>863
>中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。

ならば、島巡りを旅程に算入するなどという特殊事情がもしあるなら
必ずその旨明記されてるだろ?
他例からの類推や常識は通用しないんだから

つまり、注記も特記事項もない時点で、そんな読み方はないんだよ!

867 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:34:02.43 .net
>>863
>古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです

どこがどう間違っているのか具体的に言わないなら、ただの難癖で意味なしだよ
島巡り仮説を教えてくれた恩人に対する礼儀がなってないなw

868 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:34:42.09 .net
>>866
だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。

869 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:36:34.14 .net
>>863
>?倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
>行程を合計すれば12000里になるはずである
>島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。

これはただの循環論法で、結論を理由だと言い張ってるだけ

「答えが合うように計算したら、答えがあってるから計算が正しい」
これと同じことしか言ってない
意味ないだろ?
根拠にも理由にもなってない

870 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:36:53.03 .net
結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。
それでいいじゃん。
それが魏志倭人伝の世界観なんだよ。

871 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:38:39.82 .net
>>867
島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる
更に次は末廬国と伊都国の国境までが500里となり
次の100里で伊都国と奴国の国境までとなる。

872 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:39:43.63 .net
>>863
>?島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
>「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。

これも大うそだねえ
島巡りをしようがしまいが、外洋航路には関係ない
島巡りをしたから到着地点が変わるなんてことはない

呼子にしたところで、伊都国は東南にはならないし、
呼子から東南方向に歩き出したらすぐに海だ

873 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:40:24.51 .net
>>869
どこが循環論法なんだ?
何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?

874 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:42:38.84 .net
>>872
呼子からほぼ南方向に歩き
唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ
だから東南。

875 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:45:05.73 .net
>>868
>だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。

頭悪い人なのかな?
「だから」になってない

渡海経路に島巡りで距離に算入するという注記も注釈もない理由になってない

魏志倭人伝は《九章算術》のような「算書」じゃないんだから、
合計があるから計算しろという書き方はない

876 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:48:00.20 .net
>>870
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。

つまり、意味のない数字だって認めるんだな?
ならば、邪馬台国の比定地探しには使えない
九州説の唯一の拠り所の行程パズルに意味はないと認めるんだね!

九州説は成立しないってことで、終了!
お疲れ様でした

877 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:51:27.47 .net
>>871
>島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる

また適当なことを書いてるなw

むしろ島巡り仮説に忠実に従えば、壱岐の南岸を東の端まで航行しなきゃならないから
東松浦半島からは離れていくぞ

対馬海流でも東に流されるし、東松浦半島に着くためには思いっきり海流に逆らわないと行けない
無茶をさせるねぇ

878 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:54:36.14 .net
>>876
魏志倭人伝は、九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。
畿内が出てくる余地はない。

879 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:10:48.57 .net
>>874
>呼子からほぼ南方向に歩き
>唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ

またデタラメ書いてる
唐津から東に行っても伊都国には着かない
その後、北に行かないとダメ

>だから東南。

だから、東南にはならないんだよ、どうやってもな

880 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:12:19.38 .net
>>878
>九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。

その「前提」は、九州説の頭の中にしかない
まあ、言ってしまえば妄想の類いだよな

881 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:16:55.08 .net
>>873
>どこが循環論法なんだ?
>何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?

その萬二千里に合わせるための島巡り仮説だって白状してるじゃないか
そこで、理由と根拠が循環してるんだよ

実際、萬千三百里だったら、島の二辺じゃなくて、一辺を算入するって言うだけだろ?
結論に合わせて計算法を変えてるんだから、計算が合うから正しいなんてのは通らない

882 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:47:13.46 .net
>>878
妄想ではないと思うよ
足し算ができれば、普通は九州説になるからね

883 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 01:29:42.98 .net
行程は九州説でも住んでるところによって読み方が違うからな
学問じゃないしお爺さんがパズルで遊ぶのはべつにいいと思う

884 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 04:16:01.92 .net
>>882
足し算もできない九州じいちゃん痛ましい

885 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:09:00.33 .net
ムサシは死んだ
フルタも死んだ
九州王朝説も、死んじまったのだ。。。

886 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:11:01.16 .net
>>882
>足し算ができれば、普通は九州説になるからね


行程がどうこう言う前に、邪馬台国論争はとっくに決着済み。 
そして、九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の参加資格は端から無し。  @阿波


887 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:22:33.65 .net
どう計算しても畿内にはならないからといって、ちゃぶ台を返そうとするなよ。
畿内説の負けは確定しているんだよ。

888 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:48:12.63 .net
当時、九州には
半島・大陸と交流できる強大な「倭国」があり、大勢の「倭人」が住んでいた。
かたや大和は片田舎の小国で、僅かばかりの倭種が細々と暮らしているに過ぎなかった。

にもかかわらず、フルタは、
畿内大和には、すでに強大な諸国が台頭して、一大帝国を形成していた。
その対抗軸として、九州福岡辺りに弱小の女酋国家があり、支援を売るべく大陸に媚を売っていた。
それが「九州王朝」の卑弥呼であった・・・。
このようなロジックで、倭人伝を講釈しようとしていたかのように読める。
内心は、あくまで畿内大和王朝が主、田舎九州王朝は従、にすぎなかったのであろう。

889 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 08:41:25.53 .net
>>875
君の方が頭悪いんだよ
「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
だから各行程距離を合計すれば12000里になる
計算の合わないことを陳寿は書かない
つまり島巡りで距離に算入するという注記が「自郡至女王國 萬二千餘里」なんだよ。
>>877
意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。
>>879
現地で確認してみてください
君の言ってることの方がデタラメだよ。
>>881
島の二辺ですよ?
>>883
パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ
倭人伝の研究を放棄したら邪馬台国論争にならない。

890 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 08:43:39.40 .net
>つまり、唐代にいたっても、実測地と関係のない里程が書かれていたということで、
それを参考に比定地を探しても意味がないってことだ<

「唐代の実測」の記録はないんだから、唐代学者は、魏志の実測記録を参考にする。
当たり前の事。

大和説は、唐代の里記載の上でも、嘘つき騙しの行程パズル以外、何も根拠がない 。

891 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:26:10.18 .net
>>889

韓国、北部九州は起源に関する個人研究は盛んだね

892 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:27:17.69 .net
>>889
>「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
>だから各行程距離を合計すれば12000里になる

これについては、>>870
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。

って書いてるだろ
実測値でもないし意味のある数字じゃない

893 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:29:37.54 .net
>>889
>意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。

島めぐり仮説では、島の二辺をたどらなくちゃいけないから、
壱岐の北西端について、西の辺を南下して南西端で東に向かって
南東端から南下しないといけないんだろ

894 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:32:33.57 .net
>>889
>島の二辺ですよ?

それは、たまたま萬二千里と書いてあるから島の二辺としてるだけで
たまたま萬千三百里だったら、島の一辺を算入するって計算するだけだよって話

結論に合わせて二辺にしてるだけで、何の根拠もない
結論に合わせて計算してるのに、計算が合うから正しいと言い張るのはただの循環論法

895 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:34:49.08 .net
>>889
>パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ

正しい読み方を「研究」する時点で、方法論として間違ってるんだよ
魏志倭人伝の「正しくないところを確認する」までならいいけれど、
「こう読んだら正しい」を言い出したら、それはただのパズル

根拠のないただのお遊びにしかならない

896 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:52:26.48 .net
いやあ、今どき本気で島巡り仮説を主張するやつがいるとは思いもよらなかったよ

どうやっても正当性を示せない数字遊びしか、九州説の頼れるものはないんだな
改めて、九州説の追い込まれ具合が如実になったな

897 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:03:55.71 .net
「認知症の発症リスクを最も下げるものは何か」という大規模な実験が、
トロント大学のDr.Raza Naqvi率いる科学者たちによって行われて
成果を発揮したのが、パズルによる脳トレーニングだったということだから
行程パズルも悪くは無いけれども、どうしても1パターンになってしまうから
いろんなパズルをやったほうがいいと思う

898 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:21:12.06 .net
>>892
どこが結論ありきなんだ
陳寿は「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いておきながら
12000里の内訳を書いてないなんて有り得ないっですよ。
>>895
矛盾ない読み方が正しいんです。
>>896
結局島巡り仮説を否定する根拠は畿内説に都合が悪いからだけですね。

899 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:27:02.40 .net
>>894
方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
縦横二辺じゃないといけませんよ
魏使が通過した距離。

900 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:33:02.55 .net
>>899
>方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
>縦横二辺じゃないといけませんよ

いけませんよ、という言葉こそ、問うに落ちず語るに落ちたことの証明

901 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:36:08.93 .net
>>900
何で?
縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???

902 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:49:39.01 .net
島を通過するのにわざわざ島の2辺に沿って進むのか?
バカじゃねーの?

903 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 13:01:56.98 .net
中国史書の、地理・旅程記事は、国の中心点と中心点の間の距離と方角で示すのが基本
まあ、古代のことや、長距離になるとそこまで正確でもないけれど、基本はそういう書き方になってる

九州説のいう、国の端に着くところまで、とか、出発方向、とか、島の二辺をめぐる、とか
いうのは全て、他例を一つも挙げることなく、結論ありきからの逆算を、こう読めば正しいと
言い張っているだけの循環論法

決して正しいことを客観的論理的に示すことのできない牽強付会の強弁に過ぎない

904 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 14:30:27.12 .net
>>901
>縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???

航路の途中の島の横を通るのだから、一辺の長さを加えるのが当然でしょ???
と何の差異もないんだよ

要するに、如何様にでも説明は付けられる
それを結論からの逆算で、二辺としているだけで合理的な理由は何もない

今余っているのが1500里だから、二辺と言っているだけで
余っているのが800里だったら、「それぞれの島の1辺を加える」っていうだけだよ

905 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 14:56:37.91 .net
>>903
中国は大陸国家ですから島から島への旅程記事の例がないだけ。
>>904
今の航海なら島に近づかずいて航海する必要はないが
昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある
数学に強ければ正確に距離を算出できるけど
計算できなかったので簡易的に二辺としているだけ。

906 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:02:52.48 .net
>>905
>昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある

こんなこと書いていて、恥ずかしくならないの?

907 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:09:20.59 .net
仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
おかしいと思わないのかい?

渡海千里3回は、全て、南方向で書いてある(最後は明記はしてない)
朝鮮半島の海岸沿いのときは乍南乍東ときちんと、東にも行くことを明記している

島の二辺で、南側を東に行く行程が書いてないのはどうしてだ?
島に沿って南にいくなら、一辺分だけの方が筋が通ってるじゃないか?

どちらにしても、島めぐり仮説ってのは「九州説ってこんなバカなことを
根拠にしてるんだぜ」という文脈でしか、言及されないものだと
早く自覚できるといいね

島めぐり仮説で検索をかけてごらんw

908 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:11:59.32 .net
>>907の補足
「仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
 おかしいと思わないのかい? 」

もう少し分かりやすく書こうか

外洋船なんだから、外洋から目的の港につけて、目的の港から出航するだけだよ
島を半周する必要はない

909 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:11:29.62 .net
島の2辺を加えた場合、海峡間水行は4400里になるんだけど、
里数と日数の重ね読み案では
水行を1日千里として「水行十日」を郡からスタートにして
1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?

910 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:14:45.28 .net
「水行10日、陸行1月」っていうのは、水行の後に陸行したという意味じゃ無くて
水行したり、陸行したりした、それぞれの合計日数らしいよ

911 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:20:27.80 .net
>>908
外洋船と言っても沿岸航海ですから
陸地の見える範囲内での航海
海峡の一番狭い所を渡り最寄りの港に入港して次の港へ
必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。
>>909
海峡間水行は4400里でここを10日で渡った
>1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?
私は知りません、別の人が言ったことでは?

912 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:22:34.44 .net
>>910

どこからどこまでを「水行十日陸行一月」したの?
九州説は人によって違うんだけど

913 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:27:02.16 .net
>>911

水行二十日の投馬國を朝鮮半島な
九州説でも特殊な人間だけだよな

914 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:54:18.88 .net
投馬國を朝鮮半島側に比定してるのは朝鮮の人なんだろうけど
糸島側の遺跡のことはあるていど日本人の九州説も知ってるから
朝鮮半島側の5万戸の領域の遺跡を提示して九州説とは別名の説にしたほうがいいよ
九州説としてレスすると会話が紛らわしい

915 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:58:36.64 .net
>>913
倭人伝の記述に従えばそうなる
水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)
更に水行十日陸行一日(月)、5000里で邪馬壹國(伊都国、奴国)

916 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:00:09.94 .net
>>914
生粋の熊本県民ですw

917 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:04:36.53 .net
>>915

なぜ「水行十日陸行一月」の後の「日」だけ字が滲んで「月」になったの?
中国の竹書に書かれた他文献の「月」も「日」が滲んでるという説?

918 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:12:09.79 .net
>>916

熊本駅西側もコリア系がけっこう多かったみたいだけど
北部九州側の7万戸に2万戸も含まれてるなら
朝鮮半島側と九州側とどっこいの領域だな
朝鮮半島側の倭国の投馬國遺跡群を提示してよ

919 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:14:34.74 .net
>>915
総時間を示すのに水行が二回も出たらまずいだろう。
読み方が違うんだよ。

920 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:15:37.97 .net
無茶いうな

921 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:20:07.44 .net
>>915
>水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)

ここでも二重帳簿詐欺をするのか?

狗邪韓國と投馬国は別の国だろ?
それに狗邪が倭人の国だったら、狗邪倭国だろうに

狗邪韓國は烏丸鮮卑東夷傳の弁辰にある弁辰狗邪國だろう

そして、弁、辰韓、合二十四國のうち、大國四五千家、小國六七百家だから、
半島南部にはどうやっても五万戸の国は入らない

半島南部投馬国説は成り立たない

922 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:22:06.74 .net
>>911
>必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。

そういう妄想はいいから
対馬や壱岐の、「島の北の港」遺跡なんてないだろ?

923 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:22:21.10 .net
今後は九州説と区別するために名称を熊コリアン伊都説にして
朝鮮半島の考古中心の研究が課題だな

924 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:26:07.90 .net
よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな

つまり
投馬国
「南至投馬國、水行二十日」「可五萬餘戶」
邪馬台国
「南至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月。」「可七萬餘戶」
で両方とも、道里、戸数が略載されている

つまり、投馬国は自女王國以北、其戶數道里可得略載の中に入る、
邪馬台国より北の国

北部九州説はここで破綻する

925 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:29:41.08 .net
>>924
>北部九州説はここで破綻する


とっくに「其山有丹」で破綻してるよ。  @阿波


926 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:35:23.91 .net
>>917
隋書の月も日だろうな。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」

927 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:40:45.31 .net
>>924
>よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな

詐欺師

928 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:41:25.84 .net
>>926

唐の時代のも月も滲んでるのかw
熊コリの課題は半島の考古と滲んだ月の収集

929 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:44:21.65 .net
>>921
狗邪韓國と弁辰狗邪國が同じ国だとの根拠はない
単に名称が似ているから同じじゃねえってぐらい。

入らないってのは思い込みです。
>>922
港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。
>>924
邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。

930 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:54:23.83 .net
>>929
狗邪韓国は船がつけるくらいの小さな港町だったんだろうなあ。
5万戸の領土なんかじゃないよなあ。
リアス海岸にへばりつく集落だろうな。
つまり投馬国は宮崎。

931 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:58:25.39 .net
>>930
宮崎の次は?

932 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:40:22.48 .net
>>927
>詐欺師

あーここに出たか
反論一つできないときの、根拠なしの一言レス!w

《九章算術》[西漢 - 新] 公元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?

各県から輸所までの、日数が書かれているのを、「道里」と表現しているのが分かるな?
「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる
「道里」は「里数」とは限らない

933 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:41:20.39 .net
>>929
>港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。

つまり実証もできないものを勝手に言い張ってるだけの根拠なしってことだな

934 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:42:13.00 .net
>>929
>入らないってのは思い込みです。

つ大國四五千家、小國六七百家

五万戸の大国はない

935 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:43:29.08 .net
>>929
>邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。

いくらそんな二重帳簿詐欺をしても、今度は可七萬餘戶が矛盾する
北部九州説は、無理矛盾だらけを強弁しているだけ

936 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:01:06.27 .net
>>932
>「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる

東夷の人は道里を知らず、日を以て計るのみ
倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ
よって、やむを得ず、道里の代替に日数を以て示したのだ

937 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:05:21.51 .net
>>936
>代替に日数を以て

日数を以って道里を略載したんだろ?
何も問題ないな

里数を知っている漢土の県の話でも、輸所までの道里を日数で普通に表してるんだから
何も問題のない、普通の表記法ってこと

つまり、投馬国は「自女王國以北、其戶數道里可得略載」の国

938 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:10:51.04 .net
島巡り合算て古田君の真骨頂やな?
まあ個人的には眉唾やけど(ごめん
ただし東夷伝には方◯◯◯里が国同士の位置関係距離感表現するにあたり重要な因子やな?

夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。戶八萬

高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。

東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千

挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。


陳君の島ふたつの方◯◯里表記の意味これ如何に?
つうか2辺たすと満二千どこや?出雲?

939 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:15:05.45 .net
ダックは卑弥呼さんと邪馬壱切り離せば正解なんやけどな(残念や

940 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:20:17.61 .net
>>937
里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ

やっぱり倭人も、そこを理解できないんだなww

941 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:29:00.27 .net
あーそうか
厳密には千里は渡海距離やね?
島巡り分は別かもなー
ただし伊都は伊都で卑弥呼さんの都で邪馬壱ではないなー

942 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:29:15.55 .net
>>936

>倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ

「夷人不知里數」隋書

夷人(倭人)は里数を知らない

943 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:40:49.04 .net
>>926
「其南海行三月 有𨈭牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
これも日の誤記だな。

944 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:41:14.15 .net
お?
ダックの技決まったな?
1本!それまで!

945 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:43:26.25 .net
>>943
それはどうやろ?ご都合主義や?

946 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:44:27.27 .net
>>934
投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。
>>935
可七萬餘戶の邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

947 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:44:54.17 .net
【ヒトラーも、ユダヤ】 トランプ大統領、ペンス副大統領「キリスト再臨の為にイスラエルは造られた」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534902628/l50

ほら、やっぱり陰謀論の言う通りだ

948 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:45:55.02 .net
隋書て信濃まで旅行しはったやつやろ?

949 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:45:59.33 .net
>>945
朝鮮半島から𨈭牟羅國(済州島)へは3日もあれば渡れるよ。 

950 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:46:36.65 .net
>>943
>里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ

《九章算術》《均輸》 の問題は、最初から最後まで日数
代替品とかではなく、道里遠近そのものが日数

道里というのが、今でいう距離とほぼ同じ意味の熟語として使われてるんだよ

951 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:49:52.50 .net
>>938
>夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。

夫餘は、長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と東は挹婁と西は鮮卑と接し着たには弱水がある
方は二千里ばかり

二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど

952 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:50:55.32 .net
>>946
>投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。

それ、どの辺?
半島南部には、そんなに広い平野部もないんだが?

953 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:51:51.31 .net
あー
済州島の話でしたか
なんか勘違いしてた(ごめん

954 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:52:19.05 .net
>>946
>旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

其餘旁國遠絕、不可得詳。って書いてあるんだから、人口の分からない国がいくらあっても
邪馬台国の人口は分からないだろ

955 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:52:54.69 .net
>>950
>夷人(倭人)は里数を知らない
    ↑
これが目に入らぬのか
おぬしもノー天気なやからだ


956 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:55:01.61 .net
>二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど<

ん?
島巡りの舟の話ちゃいますよ?
少し考えてからレスしはったらえええよ?

957 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:01:58.58 .net
済州島に5万戸も入らないよ。
宮崎平野くらいなくちゃ。
福岡平野と筑後平野と佐賀平野を足した邪馬台国が7万戸なんだから。

958 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:05:08.96 .net
>>955
>これが目に入らぬのか
>おぬしもノー天気なやからだ

それ、話題の本筋からずらされてるから

今話題にしてるのは、大陸の紀元前の算書で、
日数が普通に道里として書かれていること

959 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:06:29.28 .net
>>956
>島巡りの舟の話ちゃいますよ?
>少し考えてからレスしはったらえええよ?

もちろん、島めぐりの船の話と違うよ?
国の間の距離は、国の中心間の距離で書かれてるってこと
方二千里とかは関係ない

960 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:07:43.22 .net
>>954

だから"可"の記述なんだろうよ

961 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:13:25.33 .net
>>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ

962 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:21:56.59 .net
>>961

この爺さんは何が言いたいのかわからんな

963 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:27:04.26 .net
漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す

964 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:40:20.97 .net
>>963
>漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
>夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す

それでいいよ?
日数を「道里じゃない」とか言う人がいるから、それを確認してるだけ

965 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:43:54.90 .net
>>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今(5ちゃんで)、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ

966 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:46:05.97 .net
>>965

だから何?

967 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:46:25.20 .net
>>959
まあ落ち着いて下記読みなはれ
玄菟と夫餘と挹婁の関係に絞ってみた
中心同士やったら玄菟と挹婁が二千以下になって夫餘の方可二千里が収まらん?

夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西

挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。

968 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:52:17.93 .net
>>966
結局、おぬしも東夷の倭人の血筋だったってことよ。最後まで言わすな!

969 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:56:34.09 .net
>>968

うん、それで何?

970 :967:2018/08/22(水) 20:58:29.12 .net
国境がひしめきあってない世界やったらお互いの辺境同士の距離表現かもよ?

971 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:01:22.06 .net
>>957
宮崎平野にも5万戸も入らないよ。

972 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:07:49.40 .net
7万戸は出雲か吉備か河内やな?
狗奴国が吉備から近江が有力やから出雲に一票

973 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:36:50.04 .net
出雲は倭種
吉備、河内は裸國 黒齒國。

974 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:41:56.06 .net
投馬国は出雲
大牟田、南関あたり?から南が狗奴国

975 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:49:19.18 .net
卑弥呼さんのときは女王国は筑紫目線だから出雲も渡海千里の倭種や
でも陳君や壱与ちゃんの時は押しも押されぬ邪馬壱となるんよ?

976 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:39:14.61 .net
>>973
>裸國 黒齒國。

実在しない伝説の国を、日本列島上に置こうとする人はトンデモ

977 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:44:16.01 .net
>>975
>邪馬壱

これ、なんて読むの?
日本では、万葉集をはじめ、記紀の中の歌も含め上代の日本語が伝えられているが、
上代に母音の連続する言葉はないそうだよ

「邪馬壱」で何て読むつもり?

978 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:45:33.85 .net
>>968
そうやって、投馬国が戸数道里が略載されている国だってことから
話をそらそうとしてるんだろ?

979 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:46:16.55 .net
壱にもトの音があるそうだから、ヤマト

980 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:44:17.65 .net
>>979
>壱にもトの音があるそうだから、ヤマト

では邪馬台国(ヤマト国)で何も問題ないなw

981 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:52:49.21 .net
倭と書いてヤマトと読み、九州北部から日本海沿岸にかけてのこと。

982 :975:2018/08/23(木) 05:52:09.69 .net
>>977
おはようさん
倭人がヤマネいうてたのをききとらんかったんやろ
出雲市山根(わりとマジレス

983 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 08:38:48.22 .net
>>976
「去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
女王を去る4000里また裸國、黒齒國がある、また在る場所はその南東に船行で一年くらいで至るか。
この船行一年は船行十二日を船行十二月と見誤ったものであろう
距離で4000里、約320q、船で十二日の所に裸國、黒齒國がある
裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。 

984 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 11:09:41.10 .net
>>983
>裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。

むちゃくちゃ書いてるなw

黒歯国、裸国辺りは、魏使からの報告ではなく淮南子墬形訓からの情報

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「K齒民」、玄股民、毛民、勞民;

倭国が東の世界の端で、そこから
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」がある

985 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 14:45:00.73 .net
日本人じゃないからな

986 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 15:32:28.38 .net
>>984
裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。

987 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 16:45:31.68 .net
>>986
>裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。

実体がないのに、拝借も何もないだろうに
そうまでして、自分の非を認めるのがいやなのかい?

988 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 16:49:49.28 .net
フランス学者のピエール・ユアール(Pierre Huard)とモーリス・デュラン(Maurice Durand)によると、
東アジアにおけるお歯黒文化の範囲は
「南はインドネシア、東はソロモン・マリアナ諸島、北は日本、西は中国南部とインド南部である。
インドシナではこの習慣は北緯 25 度 35 分を超えない」という。
ベトナムの考古学者はホン河・マー河流域におけるドンソン時代(紀元前第 1 ミレニアム)の遺跡で
黒く染められた人骨歯牙を数多く見つけた。
ドンソン文化とほぼ同時期の中部ベトナム平野部を中心に、
甕棺葬と、有角式や双獣頭式の玦状耳飾りを指標とし、
各種の鉄器、紅玉髄や瑪瑙、そしてガラスビーズを伴うサーフィン文化が確認されている。

989 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:43:50.69 .net
>>988
いろいろ書いてくれてるけど、弥生時代の日本にお歯黒文化が
あったって話にはならないよね?

吉備河内が裸國 黒齒國という>>983は、トンデモだろ?

990 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:51:08.86 .net
>>989

まあ、あったとしたらベトナムの紀元前の遺跡で見つかっている文化と共通性がある
北部九州甕棺分布地域には一部あった可能性はなくはないだろうね

991 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:01:26.06 .net
日本のお歯黒文化はいつ始まったんだ?

992 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:07:24.25 .net
調べたら、古墳時代にはお歯黒があり、遺体や埴輪に痕跡があるのだそうだ。
少なくとも3世紀半ばにはあったとさ。
鑑真が奈良時代に持ち込んだ技法が優れていたが、それより前から風習そのものはあったとのこと。

993 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:09:38.13 .net
キナイコシの「ないない」主張がまた始まった。

994 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:14:01.00 .net
>>992

6世紀の東大阪の大藪古墳だな
『和名類聚抄』には、「歯黒国、在東海中、其土俗以草染歯、故曰黒歯 俗云波久路女」
と記される。

995 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:28:28.21 .net
ただ、一次情報がない
ポーラ化粧品のウェブページですら、
「縄文時代の古墳から発掘された人骨や埴輪に、お歯黒の形跡を見ることができます。
 3世紀末に記された中国の『魏書』(通称:魏志倭人伝)に
「黒歯国東海中に有り」と記載されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺えます。」

などと書いてあり、「縄文時代の古墳」とか、「3世紀」の典拠が結局魏志倭人伝だったりとか、
みんな、どこかで読んだことの二次情報ばかり

埴輪、鉄漿で検索しても、鉄漿を表現していると考えられる埴輪はヒットしない

996 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:35:26.06 .net
ありがとう
大藪古墳、調べたよ

「北側の棺内に5体、南側の棺に2体、玄室前部に1体、羨道(せんどう)部に3体以上、
 計11体以上の人骨が埋葬されていた。石棺内の人骨は、追葬の際、先葬者の遺骨を
 集めて収納したものと認められ、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)における
 多人数埋葬の一つのあり方を示すものとして有名。
 
 『形質人類学者島五郎の鑑定』によると、
 熟年・壮年期の人骨10体のうち6体までの歯牙(しが)には
 黒色彩色が施されていた『らしい』。」

どうやら一次情報はこれだけみたいだね

島五郎先生は、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学医学部)の解剖学の教授で
「高松塚古墳出土人骨の研究」をした人だそうだ

大藪古墳以外の、古墳時代の鉄漿の例はどうやら見つからないようだね
大藪古墳は古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)

3世紀っていうのは、先のポーラ化粧品のページのような、伝聞だけのようだ

997 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:38:05.88 .net
日本に黒歯国があったっていうのは、やはり無理だろう

魏志倭人伝でも「又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」と
倭国から遠く離れた国として書いてるんだし

998 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:39:02.13 .net
>>993
>キナイコシ

糸クズ「キナイコシ」はこんなところにも湧いてるのかww

999 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:48:10.84 .net
倭国(九州)から遠く離れた黒歯国(大阪)だけの習慣だったのかもね。

1000 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:05:15.53 .net
卑弥呼さんの都が伊都で壱与ちゃんの都が出雲の邪馬壱だったことを御理解頂きました?
1000ゲット?

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