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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

428 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 11:31:40.83 .net
至るだから動詞的に使っているよね。

429 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:06:45.83 .net
「至」は動詞ではない。
英語の「to」の様なもの。 A to B
「至」を日本語にする時に動詞として訳される。

430 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:23:59.30 .net
動詞かどうか関係なく、一々元に戻る理由がないな
漢文的には特に理由が無ければ順次続けて読むのが基本だよ。

431 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:44:53.48 .net
@「従郡至倭」
郡の先の倭に至るには 
郡を通って倭に至るには 
郡を経由して倭に至るには
郡より倭に至るには

A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」

B「南至投馬國水行二十日」 水行で20日かかる距離

C「南至邪馬壱國水行十日陸行一月」 水行で10日かかる距離と陸行千余里(=海行一月)

432 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 17:50:28.15 .net
A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」 郡から女王國までの道程12000余里

433 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:20.75 .net
平原の超大型内行花文鏡と数枚の方格規矩鏡の成分分析の結果が、
前漢鏡の範疇だということは、
甕棺墓勢力=百余國の王達の持っていた伝世鏡を全部取り上げて
改鋳したのかもしれませんね。

107年 桜馬場&井原鑓溝 無銘内行花文鏡 洛陽方格規矩鏡工招聘

2世紀中旬 倭国乱 甕棺勢力粛清 前漢鏡回収(伊都王伝世鏡除く※2

2世紀後半 卑弥呼擁立 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡へ改鋳(※1

240年 平原舶載内行花文鏡、青龍三年銘方格規矩鏡など伝来(※3

240年銅鏡百枚のうち、
青龍三年銘方格規矩鏡など、新興国の魏鏡に権威は無く、改鋳あるいは臣下配布
後漢鏡は貴重で、平原遺跡副葬や重要拠点(丹後一大率=籠神社)配布

卑弥呼の墓には、
※1 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡
※2 キ龍文鏡
※3 240年舶載内行花文鏡
などが副葬

舶載内行花文鏡(後漢鏡)は、政治的に重要なので、丹後一大率=籠神社などへ配布
青龍三年銘方格規矩鏡(魏鏡)は、単なる記念品で、卑弥呼の親族や旧来臣下へ配布

434 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:40:47.33 .net
3世紀後半 銅鏡百枚のうち魏鏡を改鋳して大型内行花文鏡(※4

※1 平原超大型内行花文鏡は
桜馬場&井原鑓溝の無銘内行花文鏡をモデルに、
甕棺墓王達から取り上げた前漢鏡を改鋳

※4 その他大型内行花文鏡は
平原舶載後漢内行花文鏡をモデルに、
銅鏡百枚中の魏鏡を改鋳

435 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:45:20.86 .net
>>431>>432
何が言いたいのか分からん?

436 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 18:47:00.56 .net
>>433>>434
くだらない妄想だな。

437 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:10:03.84 .net
>>436
反論になっていない。

438 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:23:58.16 .net
改鋳する必要ないし

439 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:25:32.09 .net
個人の妄想に反論の必要はないな
楽しんでください。

440 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 19:30:00.36 .net
>>438
材料が必要だろ?

441 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:57:44.87 .net
黄巾の乱が184年
公孫氏が189年ですから、
180年代に青銅原料の不足が始まります。

公孫氏と交易するしかなかったでしょう。
倭が公孫氏の勢力下に入ったというのは、青銅原料のため仕方なく腰を低くして接したのでしょうね。

一方の公孫氏側は、魏と敵対しているので、絹が手に入りません。
ここにも倭国の絹産業が栄える動機があったわけですね。

ちなみに鉄原料は朝鮮半島東南部から入手できるので
倭国そして伊都邪馬台国にとっては安定供給されます。

442 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 21:59:00.05 .net
邪馬台国に加盟して卑弥呼を共立した旧王達は、服従の証に代々の伝世銅鏡を献上して、
超大型内行花文鏡の作成に参加した。
共立の証ですね。

邪馬台国は朝鮮半島や公孫氏と交易できるので、
それなりに青銅原料を入手できますが、
南の狗奴国は鉄原料も青銅原料も完全に断たれます。

当時の北部九州で鉄鏡は使われていなかったようですから、
生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

広型銅矛や銅戈、銅鐸、場合によっては手持ちの銅鏡を溶かして、省エネで作ったのが
小型仿製鏡U型ですね。

443 :日本@名無史さん:2018/06/12(火) 22:00:49.86 .net
邪馬台国時代に分布する小型仿製鏡のうち、特に内行花文、日光系のものが、
狗奴国王の鏡でしょう。

邪馬台国側は、小さな王権鏡を作る動機がありませんから。

444 :日本@名無史さん:2018/06/14(木) 23:21:06.57 .net
>>442
>生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

鏡が必需品などという話は聞いたこともないが?

445 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:01:20.69 .net
使用している銅の量からすると贅沢品。

446 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:11:36.33 .net
鏡は生活必需品ではなく贅沢品で権威の象徴だな
呪術的な意味合いもあったんだろう

447 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:21:27.36 .net
当時の銅鏡は初級役人の給料で買えるくらいの値段

448 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 09:50:00.59 .net
>>447
それは漢や魏でのことでしょ、倭では金属製品は贅沢品で権威の象徴だったんじゃないの。

449 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:13:37.73 .net
それは交易を女王国が独占していたからだね

450 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 10:26:24.63 .net
輸入が途絶えたら転落必至の王権

451 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 11:30:51.90 .net
供給が止まれば価値が上がるんだけど。

452 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 13:15:14.45 .net
売れないだろ

453 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 13:51:05.80 .net
>>451
鉄は朝鮮半島の南部から手に入れられたけど公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。

454 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 18:18:20.62 .net
>>453
>公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。

3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

455 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 19:11:47.97 .net
国産の銅は698年に産出したものが始まりとされるじゃないかな。

456 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 19:56:50.05 .net
九州でも香春山で古くから採掘されている。
神功皇后が田油津姫を攻め滅ぼした理由の一つは香春山の銅だよ。

和銅年間に武蔵国から銅が出たのは、あくまでも畿内勢力の支配下では初めてということ。

457 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:01:03.94 .net
香春厨も妄想が酷い

458 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:37:35.72 .net
香春の採銅所が有名

459 :日本@名無史さん:2018/06/15(金) 22:39:35.75 .net
長門の登戸も
後代に銅銭製造の拠点だった。

460 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 00:00:08.81 .net
九州の銅も瀬戸内の銅も手に入れられなかった大和の弱小勢力w
鉄も絹もない
筑紫の倭国勢力が大和に侵攻するまで、大和は辺境の地だった

461 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 00:05:23.74 .net
九州の銅とか現時点で妄想でしかない

462 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 01:38:49.67 .net
鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
大和は蚊帳の外だけどね。

463 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 01:40:22.11 .net
根拠のない妄想

464 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 02:41:32.20 .net
瀬戸内沿岸で出土する銅鐸の銅は、瀬戸内沿岸産の銅

465 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:19:15.60 .net
>>463
ちっとは史料を読めよ。

466 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:20:25.21 .net
畿内、というか奈良盆地がいかに遅れていたかよくわかるな。
人は住んでいただろうが、3、4世紀に大和が覇権を握るわけはないな。

467 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:29:56.75 .net
>>465
どの史料?

468 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:53:01.08 .net
錫は神岡かな?

469 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 07:58:42.01 .net
http://zipansion.com/1S8qN

470 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 08:25:01.86 .net
ヒミコは誰なのか、キチッッと特定し、その居住地と墓を特定すること。
それをしていない纏向説も九州説も空想である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

ヒミコとはヒメ(踏鞴五十鈴)媛であり、住まわれたのは葛城である。
墓は大和盆地最上座の高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚で魏志倭人伝の記述通り、周囲に奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛である。

https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg

471 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 08:29:19.05 .net
「高天原にある日本最古の神社の境内」

何も難しい事はなかった。
卑弥呼の墓、単純明快な場所にあった。

472 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 09:02:55.63 .net
「俺様にはわかったあああ」系は、もうご馳走さま

473 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 09:21:24.99 .net
>>472

じゃ消えろ

474 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 10:54:29.20 .net
>>471
自分のスレでどうぞ。

475 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 12:27:25.68 .net
>>462
>鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、

☆三国志東夷伝韓条の記載と相反するようですが。
>國出鐵韓濊倭皆従取之

>>462
>4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
>>454
>3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

☆国産金属の使用は、鉄器が5世紀頃、青銅器は7世紀頃から、
というのがどの研究でも前提条件となっていますが、
何か新発見でもありましたかね?

476 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:41:56.44 .net
長登遺跡、中村遺跡、国秀遺跡などが6世紀以前から採掘されていたと考えられているが、年代は不詳。
749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

477 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:58:34.88 .net
>749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

7世紀に銅の採掘が開始されたからこそ、
8世紀に奈良の大仏が作られたと考えられていますね。

6世紀以前に「日本の銅が使われた銅製品」についての
成分分析報告があったら教えてください。
ましてや3世紀ともなると一大センセーションですけど。

478 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 15:26:30.52 .net
奈良の大仏は陸奥の国で金が見つかったから。

479 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 19:36:06.12 .net
まあ、定説では、国産銅は和銅年号からだね。

480 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:11:40.38 .net
定説は疑えということだよ。
単に畿内日本国の範囲で見つかったのは、という話で、倭国のことではない。

481 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:50:35.90 .net
疑ったところで証拠がなけりゃただの妄想なんだが

482 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:19:03.23 .net
キナイセツのことですね。わかります。

483 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:59:32.31 .net
キナイセツって言葉を使う人って、一人だけ?

484 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 23:02:37.18 .net
伊都クズ

485 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:38:53.86 .net
北部九州説だと伊都=筑紫の日向という基準点があるので、
記紀を読んでいくと面白いですね。

韓国に向かう、という点については既に考察されていますが、
笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。

筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
つまり陸続きなわけですね。
韓国に向かう立地を褒め称えた次に、笠沙の岬まで道が通じている、ということは、
笠沙の岬=東松浦半島、つまり末蘆国の交通要所なわけですね。

ニニギは天孫降臨した後に、笠沙の岬でコノハナノサクヤ姫に出会います。
考古学的には、宇木汲田〜柏崎の遺跡群に相当します。
伊都と密接に関係する遺跡群ですね。

文献・考古学・地理が全て絡み合って無理なく再現されます。

486 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:39:17.20 .net
コノハナノサクヤ姫は大山祇の娘とあり、
筑紫天孫族と、豊国大山祇(古代出雲)との政略結婚に見えます。

筑紫天孫族天神族は、
紀元前に若狭湾八岐大蛇を倒して扇谷遺跡を建設した、
日本海沿岸の覇者=アマテラス

豊国大山祇は、
山鹿貝塚から続く女王国で、筑紫より先行して東方進出していたけれども、
日本海制圧は鉄器筑紫に追い抜かれてしまい、
瀬戸内沿岸〜畿内へ事業展開していきます。

一書に、ニニギが笠沙の岬で美しい
鹿葦津姫(=コノハナサクヤ姫)に出会った際に、何者か尋ねたところ、
「天神が大山祇を娶って産んだ子です」と答えたとあります。

ということは、コノハナサクヤ姫は、
父親は、天神族、おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかで、
筑紫アマテラス王族直系の男系。
母親が、その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系。
ということなのでしょう。

487 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:50:33.28 .net
コノハナサクヤ姫の父親が、
唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかであれば、
壱岐対馬ルートを介した外交や交易を監督しており、
渡来系の技術者なども多数抱えていたはずです。
例えば、応神天皇が呉から縫工女4人を勧誘した際に、
途上の宗像氏がそのうち1人をゲットしたような感じです。

一方で、コノハナサクヤ姫の母親が、
その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系であれば、
瀬戸内〜畿内に荘園を所有しているはずです。
琵琶湖周辺もまた、下之郷遺跡以来、大山祇一族が体を張って開発して来た
重要エリアですね。先のスレで検討しましたが。

488 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:56:07.42 .net
猿田彦は、
旧伊都(吉武遺跡宮殿など)一万戸から、
新伊都(三雲遺跡高祖宮など)千戸へと、
天孫降臨するために日向峠を西へと越えるニニギ一行を
東から出迎えるわけです。

日没間近の夕日を背にして、猿田彦が現れるので、
猿田彦は背後からの夕日で光り輝くように見え、
その夕日はそのまま、日向峠から見て東方の、
早良平野=旧伊都=高天原=紀元前吉武遺跡宮殿と、
福岡平野=葦原那珂津国
を照らすわけです。

新伊都側から出迎えるということは、
猿田彦は、コノハナサクヤ姫の父親、
つまり唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
の配下であり、
もちろんコノハナサクヤ姫の父親とその配下の兵達と一緒に
ニニギ一行を出迎えに来た先頭にいたわけですね。

489 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:58:46.24 .net
>>485
>笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。
>筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
>つまり陸続きなわけですね。

笠沙の岬は志賀島でしょう。
博多湾に傘のように被っています。
天浮橋は海の中道です。

木花咲耶姫の実家は志賀島の海神神社でしょう。
この氏族は、天孫族と姻戚を結びながらも東の遠賀川にまで追いやられていきます。
これが筑紫岡田の宮の豊国王家、後の岡の県主です。
木花咲耶姫の父である大山祇は天照ではなくイザナギの子なので、天照の兄弟です。
出雲に降ったスサノヲも天照の兄弟です。
筑紫、豊国、出雲は同一の氏族の分家同士ですね。

考古学的にも、これら日本海沿岸が栄えていた地域であり、倭国の中心は福岡です。
後漢書は倭国を朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡にあったと記録しています。

490 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:02:41.22 .net
先に検討しましたが、
猿田彦は比良山を崇める高島市熊野本遺跡出身の工人。
旧伊勢=琵琶湖周辺のうち、
比良山の周囲が、コノハナサクヤ姫の母親の荘園だったのでしょう。

猿田彦とは、
コノハナサクヤ姫の父親が得た、渡来系の工人そのもの、
あるいは、
渡来系の工人に師事した倭人工人。
そのどちらかなわけです。

だから漢から直輸入の円周計算法=咫を駆使している。

491 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:09:33.08 .net
山上の集落で工房を経営する猿田彦は、
山伏の祖とも言われているように、
木材を得るための森林管理の専門家でもあるわけです。

鼻が七咫というのは、丸い皮ふいごでしょう。
山伏のように大きなほら貝でもいいですが。
なんでそれが鼻かというと、
日本オオカミ、山犬、熊などの猛獣避けに鳴らしていたわけですね。

ニニギ一行も衛兵を従えていたでしょうが、
峠越えでは細長い隊列となって離れてしまい、心細い。
衛兵たちも平野の人間なので、細い峠道ではおどおどする。
日が沈んできて、獣の遠吠えなど聞こえてきたところに、

猿田彦が現れるわけです。

山中暮らしの猿田彦は、慣れた様子で皮ぶいこをぶうぶう鳴らして獣を払い、
その賑やかな姿に、
ニニギたちはまさに救いの神のように感じて、その後の扱いに大きく影響したのでしょう。

492 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:12:23.88 .net
>>489
私も昔はそう思っていましたが、
それだと天孫降臨した先の日向から陸続きであることを、
褒める理由がなくなります。

493 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:42:07.39 .net
猿田彦は海と山をともに照らす(支配する)と書いてあるので、博多湾を守る将軍職です。
福岡市早良区にズバリ猿田彦神社があります。
彼は福岡の旧勢力の代表として邇邇芸を王として迎え、伊都まで案内し、新王の高祖宮建設に奉仕したのです。
こうして成立したのが卑弥呼の前の男王「日向三代」の伊都国の倭王家です。

その後、倭国大乱により天孫族は筑紫を離れて、親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。
代わりに倭王に共立されたのが卑弥呼になります。
卑弥呼と神武の年代が近いことは、鴨厨さんの考察のとおりですが、大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

494 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:49:26.49 .net
>>493
>親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。

饒速日が先に王国を建設しているという大和の王国の痕跡は? それも妄想かね?  @阿波

495 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:51:16.36 .net
>大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

魏志倭人伝でも、
邪馬台国は邪馬台国(正確には、邪馬壹國=邪馬一国)

大倭(大和)
は明らかに区別されていますね。

496 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:56:25.76 .net
ニニギ(アマテラス)の兄である饒速日(スサノオ)は、
銅戈将軍として、考古学出土物そのままに、
大阪湾上陸作戦、安芸上陸作戦、越後信州攻略戦、と転戦していきます。

基本的に、畿内に作られる環濠集落+銅鐸というのは、
大山祇一族の事業ですから、
唐古鍵の長髄彦が首長なのではなく、
その妹の登美夜毘売(三炊屋媛)が女王であり、

唐古鍵女王と饒速日が結婚して、内陸と瀬戸内から、
大阪湾沿岸の最後の石剣部族を挟撃したということでしょう。

497 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:04:58.51 .net
スサノヲはあくまでも日本海にしか足跡がなく、むしろ朝鮮半島に渡ったりしてますね。
出雲がその拠点ですから。

瀬戸内の開拓は豊国から進出した大山祇(天照の兄弟)とその息子の三島神らの事績です。これはスサノヲとは別系統で、登美の鴨王家となります。
綿津見神社、三島神社、賀茂神社などがその拠点です。
当時はそのまま王宮や役所だったのでしょう。
京都、大阪、奈良がその主な範囲です。

そこに同居していたのが饒速日(天照の孫)であり、そこに筑紫を脱出した神武が合流します。

498 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:05:50.68 .net
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

499 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:07:01.39 .net
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

500 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:09:13.55 .net
大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

501 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:13.45 .net
大倭が出てきたので脱線しますが、
大物主というのは、
大国主の治世に海外から現れて、大国主が設置した、わけです。

現代の我々日本人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国、東はアメリカ合衆国です。

が、弥生時代の北部九州倭人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国ですが、東は本州や畿内なわけです。

少彦名や大物主など、海外からやって来た神々というのは、
朝鮮や中国からの可能性もありますが、
本州出身である、という可能性もあるわけです。

502 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:47.47 .net
北部九州説だと、
大国主は葦原那珂津国=福岡平野の有力者ですから、
須久岡本の主となります。

考古学的には、
紀元前に、吉武高木王(高木神)=アマテラスが、
配下の王族将軍スサノオを派遣して、日本海沿岸を制圧。

紀元前後に葦原那珂津国が新興してきて、
中広型銅矛が、主に瀬戸内沿岸へと侵攻。
播磨を拠点とする広型銅剣と戦い、荒神谷遺跡で降伏調印式を行います。

中広型銅矛が失脚してから、
銅戈が大阪湾上陸作戦を行います。

503 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:27:04.85 .net
大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
の活動範囲は、
紀元前からの筑紫アマテラス領域=北部九州〜日本海沿岸と、
紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸

瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
大阪湾にはまだ上陸していません。

また、銅矛銅剣戦争のあおりで、大山祇銅剣祭祀は下之郷遺跡を一旦放棄しており、
畿内内陸からは北部九州勢力は一時遠のいているわけです。

考古学的に判明しているこの状況下で、
大国主が大物主を据えたわけですね。

504 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:28:11.44 .net
硯の出土状況を見て見ますと、
伊都三雲遺跡、奴国那珂比恵遺跡など邪馬台国中枢の沿岸遺跡に加えて、
内陸の筑前町からも硯が複数出土しています。

伊都などに一大率という北部支配機構があったのと同様に、
筑前町などにも南部支配機構があったわけですね。
一方が都庁でもう一方は府庁のようなものです。

庄内式など土器の流れを見ても、
一番集中するのは那珂川流域ですが、
大分から上陸して、川沿いに日田などを経て筑後へと入る流れも判明しています。

以上から、北部九州説における大国主=中広型銅矛が設置した
大物主とは、
筑前町の旧三輪町に設置された、大倭という交易職であり、

当然のことながら、弥生時代の総合商社である大山祇一族が
その運営に深く関わっており、

饒速日銅戈将軍が大阪湾上陸を果たして本格的に畿内侵入をすると、
交易の舞台が畿内へと移動したわけですね。

505 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:54:07.10 .net
>>498
>いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも倭国(阿波)を発った忌部一族にその起源があることになる。  @阿波

506 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:55:49.55 .net
>>500
>大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

北部九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の資格なし。  @阿波

507 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:59:11.44 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   @阿波
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR

508 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:13:18.90 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
>の活動範囲は、
>紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸
>瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
>大阪湾にはまだ上陸していません。

よくわからないけど、大山祇は伊予まで、その息子の三島神は摂津にいるのに反映されているのかもしれないですね。
彼ら瀬戸内や畿内の開拓の祖の実年代もなんとなくわかりますね。
その少し後に神武が畿内に入るので、平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

509 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:20:58.35 .net
>>508
>平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

510 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:37:31.14 .net
>>508
大山祇は元は遠賀川流域(古代出雲=豊国)が本貫でしょうね。
西に筑紫がいるので、大山祇は東へ進出したわけです。

筑紫天神族と婚姻を繰り返してお互い協力したのはいいものの、
筑紫で政争が起きるたびに巻き込まれて、領土を筑紫倭国へと組み込まれていった、
ということでしょう。

大山祇が伊予までに見えるのは、
大山祇女王国として独立していたのは大国主との戦争までだからで、
(銅剣分布域)
その後は大山祇系列の部族として、相変わらず東方開拓をしていたのでしょう。
大山祇の系譜である様々な神や部族がそれですね。

大山祇一族は最後の最後は畿内に独自国を作ったかもしれませんが、

失脚した大国主末裔が関東方面に入り、
愛知県まで先に分布してしまっていたので、

倭国乱で狗奴国側について敗北した時点で
大山祇末裔の独立可能性は断たれ、
あとは邪馬台国系倭国に吸収されてしまいます。

511 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:48:51.53 .net
九州における大国主の系譜は木花咲耶姫で早々に天孫族に吸収されていますね。
畿内においては長髄彦が倒されて実権を失ったようです。

512 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:07.20 .net
北部九州教の信者が読経してるな

513 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:38.59 .net
違った。
大国主ではなく大山祇。

514 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:50:08.13 .net
>>512
畿内説論者は何も語ることができない。
哀れだ。

515 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 16:18:29.73 .net
>>511

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

516 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:42:22.23 .net
出土分布が極端に偏っている地域というのは示唆的なわけです。

たとえば阿波です。
銅鐸は沢山出土していますが、
祭祀型武器は銅剣だけで、銅矛も銅戈も出土していません。

北部九州説なら、説明ができます。

神代出雲(=豊国日本海沿岸)出身の大山祇一族が瀬戸内沿岸の開発に乗り出した。
西の大分や愛媛などに拠点を置いているので、
東に突出して、畿内大阪湾石剣部族と海を隔てて面する阿波の最前線集落には、
Jアラート=銅鐸を配備した。

だから同じ四国の瀬戸内沿岸でも
東の徳島には銅鐸があって、
西の愛媛には銅鐸が無い。

愛媛の銅剣集落群は、大山祇一族の瀬戸内拠点だったわけですね。
攻める側だから、銅鐸は必要ないわけです。

517 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:43:30.03 .net
中広型銅矛大国主と、大山祇女王八上姫が、夫婦喧嘩の銅矛銅剣戦争をおっぱじめたので、
中広型銅矛祭祀に対抗して、瀬戸内大山祇は平型銅剣祭祀を始めた。
戦国武将の旗印みたいなものです。
敵味方の識別のために軍舟の舳先にでも掲げていたのでしょう。

出撃前に2本並べて戦勝祈願を行って1本埋納し、
勝利占領したら、勝利祈念式典を行って、もう1本を占領地に埋納します。
鳥居の原型ですね。

阿波に銅矛が出土しないのはなぜか?

瀬戸内平型銅剣分布域というのは、大山祇女王の八上姫が統率する独立国家だったからです。

愛媛あるいは兵庫かもしれませんが、銅鐸の無い場所が拠点。
激しい戦いの末に、愛媛は占領される=愛媛に中広型銅矛埋納
中広型銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内沿岸の制海権を中広型銅矛に奪われる

結果、大山祇女王国は全面降伏して、
日本海側の大山祇拠点だった島根荒神谷遺跡で降伏調印式を行ったわけです。

八上姫が降伏したら、八上姫の領土は全て降伏するわけですから、
阿波を中広型銅矛軍が直接攻撃=中広型銅矛を埋納、することはなく、
自動的に阿波も中広型銅矛の支配下に入ったわけですね。

日本政府が降伏してGHQが東京にやって来たら、
自動的に日本全土がGHQの支配下に入ったのと同じことです。

だから愛媛には銅矛が出土するのに、阿波には出土しない。
出土する必要が無いわけです。

518 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:45:50.80 .net
阿波は海を挟んで大阪湾と向かい合っているのに、
銅鐸はあるのに銅戈は出ない。

これも北部九州説なら説明がつきます。

中広型銅矛大国主が筑紫で失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略を開始します。

愛媛や阿波は大国主と八上姫の夫婦喧嘩の結果、
既に北部九州倭国の支配下に入っているので、
新たに銅戈が占領して勝利の埋納をする必要が無い。
だから出土しないわけです。

また、出土しないことから逆に、出陣式も行われていない。

瀬戸内沿岸には、大阪湾上陸作戦に出陣できるような軍隊は当時存在せず、
九州の銅戈埋納地から饒速日軍が出陣したか、
あるいは
畿内の銅戈埋納地から大山祇軍が出陣したか、
ということですね。

519 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:02:06.61 .net
大山祇の活動を四国瀬戸内沿岸だけ見てみると、

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

1世紀早期
 中広型銅矛と戦争
 平型銅剣祭祀
 筑紫との物量差は大きく、短期間で決着がついたので、
 西に銅鐸配備して睨み合うような時期はなかった
 青銅原料があっという間に尽きて、土製祭祀銅剣や木製矛

1世紀前半以降
 高地性集落を建設して炭を作り、淡路島鉄工所へ供給
 大国主失脚までは嫌々ながら
 大国主失脚後は饒速日と協力的に
 木材&炭供給をしているのだから、大阪湾攻略戦への兵員供給免除

520 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:07:21.31 .net
紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 「東」の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備


ずっと上の>>488でも猿田彦が「西」から出迎える、ですね、
あちこち間違えてすみません。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


521 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:01:13.69 .net
コノハナサクヤ姫について書いたと思っていて、書いていませんでした。

天孫降臨したニニギが、
笠沙の岬で出会ったコノハナサクヤ姫と結婚して、
一夜を共にする。
一夜を共にしただけなのに、コノハナサクヤ姫が妊娠したと言うので、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるわけですね。

これは妙な話ですよね。
国津神のトップであるオオクニヌシが討たれて、
それから天孫降臨して、
支配者となったニニギの后なわけです。

天神と大山祇の娘で、しかも、
大王ニニギの后に手を出す国津神なんてありえないわけです。
嫌疑だけでも討たれるレベルですよね。

つまりこれは、
まだ国津神が勢力を持っていて、
天神族の娘に夜這いをかけてもおかしくないような時代が、
女性が妊娠出産しうる10ヶ月のうちにあった、

オオクニヌシが失脚したのは、
コノハナサクヤ姫が妊娠を報告した時から、
10ヶ月以内だった、ということですね。

522 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:02:59.08 .net
そしてオシホミミについてですが、
最初はアマテラスからオシホミミに葦原中国を治めるよう命令が下り、
天の浮橋から葦原中国を覗いてみたところ、
葦原中国は大変騒がしくて手に負えない、と言って断るわけですね。

そしてすったもんだの末に、
出雲(なぜか出雲にいる)のオオクニヌシが討たれて、
再度オシホミミに命が下ると、
すったもんだの間に、子のニニギが生まれたので、ニニギを降臨させましょう、
ということになるわけです。

降臨したニニギが結婚した相手に、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるということは、
オオクニヌシの失脚から、ニニギが結婚するまでは10ヶ月以内なわけですから、
ニニギが生まれたというのは、
ニニギが元服したということであり、
(古代の子供は幽体であり、成人して初めて人間となる)
古代の元服は12-15歳。

后を娶って子作りをして、一人前の男として后に嫌疑までかけるからには、
結婚した時には15歳と考えられるわけです。

神話からは、
ああ、オオクニヌシ失脚からコノハナサクヤ姫妊娠までは10ヶ月以内ね、
その間にニニギは15歳になったのね、
というだけの話ですが、
北部九州説だと考古学に投影できるわけです。

523 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:06:11.51 .net
紀元前に吉武高木王(初代アマテラス)が田熊石畑遺跡(初代スサノオ)を派遣して
日本海沿岸を制圧。(丹後扇谷遺跡の長期運営)

紀元0年前後に那珂川流域が振興してきて、
上流の高級住宅地・須久岡本から中広型銅矛王(オオクニヌシ)を輩出。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は、 平型銅剣女王(ヤガミヒメ)を裏切ってスサノオに就任し、
夫婦喧嘩の末に平型銅剣女王国(旧出雲・新出雲・瀬戸内沿岸)を降伏させて占領。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は 那珂川流域の人口爆発・工房乱立を抑制できず、
森林長官のスクナヒコナが死去すると、敵対するオオヤマツミは助けてくれず、
領内の森林荒廃。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)はスサノオ将軍職に満足せず、
アマテラス就任を希望するが、天神族から許可が下りず、
漢皇帝に朝貢して金印入手。
漢使来訪(57年)のため福岡県道49号線沿いを整備するのに領内木材を大量緊急伐採。
57-58年の普通レベルの豪雨で土石流発生。続いて疫病発生。

荒廃した福岡平野から須久岡本の中広型銅矛王(オオクニヌシ)は古代出雲の宗像へ脱出。
早良平野から旧伊都吉武の天神族は新伊都糸島へ脱出。

立岩遺跡(オシホミミ)は天の浮橋=海の中道から、那珂川流域を見渡したところ、
被災民と疫病人で阿鼻叫喚の有様で、
これはヤバイだろうと引き返した。

自領の兵力が消失した中広型銅矛王(オオクニヌシ)を、
越後のタケミナカタなどが救援に来る前に、
筑紫天神族が出兵して制圧。だから勝負が早かった。

立岩遺跡(オシホミミ)は自らは立たず、息子のニニギ(三雲南小路1号墓)を推薦擁立。
ニニギ(三雲南小路1号墓)は、笠沙の岬(柏崎)のコノハナサクヤ(三雲南小路2号墓)と結婚。

524 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:08:39.32 .net
文献と、北部九州説を、考古学に投影すると、

大集落と工房群が密集していた那珂川流域の須久岡本王が、
金印授与のために無理に無理を重ねて森林乱伐して、洪水疫病を起こして自滅した。

自滅してからは、東の古代出雲の宗像へ避難したのだから、
西にある唐津の柏崎の姫にちょっかいを出せたはずが無く、

三雲南小路1号墓王が15歳で吉武から三雲に遷都して
柏崎の姫と結婚するのは、
古代出雲で須久岡本王が討たれた時より前の、
那珂川洪水から10ヶ月以内。

525 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:11:37.90 .net
比恵那珂遺跡の洪水層の上=57・58年より前
比恵那珂遺跡の洪水層の下=57・58年より後

吉武宮殿の政治的利用期間は57まで
三雲が倭国首都となったのは、58年
(三国志東夷伝倭人条と合致)

三雲南小路1号墓王は58年に約15歳で倭国王に就任。
妻の三雲南小路2号墓王妃は柏崎遺跡の姫で、父は吉武王の男系、母は豊国大山祇の女系

三雲南小路1号墓王は43年頃生まれ
その長男は58-59年生まれ

三男は3つ子同時出産と考えるなら、同じく58-59年生まれ。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の孫)
火事伝記を生まれについての夫婦喧嘩のごたごたと考えるなら、生まれはもっと後になる。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の三男)

中広型銅矛は57年より前
祭祀型銅戈は58年より後

58+70-80=122-138、がXデー

526 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:39:52.28 .net
邇邇芸は降臨した時は子供用の着ぐるみに包まれた幼児。
木花咲耶姫との婚姻は10年は後でしょう。
それに弥生時代の通い婚なので、通わなかった他の日に他の男(自分の一族以外は全員が国津神)が通わなかった保証はない。
後世の入内を想像してはいけない。

527 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:08:31.28 .net
平定された天孫族が支配する世の中で
国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

528 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:10:44.45 .net
天孫族が支配する世の中で
平定された国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

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