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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

473 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 09:21:24.99 .net
>>472

じゃ消えろ

474 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 10:54:29.20 .net
>>471
自分のスレでどうぞ。

475 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 12:27:25.68 .net
>>462
>鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、

☆三国志東夷伝韓条の記載と相反するようですが。
>國出鐵韓濊倭皆従取之

>>462
>4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
>>454
>3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

☆国産金属の使用は、鉄器が5世紀頃、青銅器は7世紀頃から、
というのがどの研究でも前提条件となっていますが、
何か新発見でもありましたかね?

476 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:41:56.44 .net
長登遺跡、中村遺跡、国秀遺跡などが6世紀以前から採掘されていたと考えられているが、年代は不詳。
749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

477 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 14:58:34.88 .net
>749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

7世紀に銅の採掘が開始されたからこそ、
8世紀に奈良の大仏が作られたと考えられていますね。

6世紀以前に「日本の銅が使われた銅製品」についての
成分分析報告があったら教えてください。
ましてや3世紀ともなると一大センセーションですけど。

478 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 15:26:30.52 .net
奈良の大仏は陸奥の国で金が見つかったから。

479 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 19:36:06.12 .net
まあ、定説では、国産銅は和銅年号からだね。

480 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:11:40.38 .net
定説は疑えということだよ。
単に畿内日本国の範囲で見つかったのは、という話で、倭国のことではない。

481 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 20:50:35.90 .net
疑ったところで証拠がなけりゃただの妄想なんだが

482 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:19:03.23 .net
キナイセツのことですね。わかります。

483 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 21:59:32.31 .net
キナイセツって言葉を使う人って、一人だけ?

484 :日本@名無史さん:2018/06/16(土) 23:02:37.18 .net
伊都クズ

485 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:38:53.86 .net
北部九州説だと伊都=筑紫の日向という基準点があるので、
記紀を読んでいくと面白いですね。

韓国に向かう、という点については既に考察されていますが、
笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。

筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
つまり陸続きなわけですね。
韓国に向かう立地を褒め称えた次に、笠沙の岬まで道が通じている、ということは、
笠沙の岬=東松浦半島、つまり末蘆国の交通要所なわけですね。

ニニギは天孫降臨した後に、笠沙の岬でコノハナノサクヤ姫に出会います。
考古学的には、宇木汲田〜柏崎の遺跡群に相当します。
伊都と密接に関係する遺跡群ですね。

文献・考古学・地理が全て絡み合って無理なく再現されます。

486 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:39:17.20 .net
コノハナノサクヤ姫は大山祇の娘とあり、
筑紫天孫族と、豊国大山祇(古代出雲)との政略結婚に見えます。

筑紫天孫族天神族は、
紀元前に若狭湾八岐大蛇を倒して扇谷遺跡を建設した、
日本海沿岸の覇者=アマテラス

豊国大山祇は、
山鹿貝塚から続く女王国で、筑紫より先行して東方進出していたけれども、
日本海制圧は鉄器筑紫に追い抜かれてしまい、
瀬戸内沿岸〜畿内へ事業展開していきます。

一書に、ニニギが笠沙の岬で美しい
鹿葦津姫(=コノハナサクヤ姫)に出会った際に、何者か尋ねたところ、
「天神が大山祇を娶って産んだ子です」と答えたとあります。

ということは、コノハナサクヤ姫は、
父親は、天神族、おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかで、
筑紫アマテラス王族直系の男系。
母親が、その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系。
ということなのでしょう。

487 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:50:33.28 .net
コノハナサクヤ姫の父親が、
唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかであれば、
壱岐対馬ルートを介した外交や交易を監督しており、
渡来系の技術者なども多数抱えていたはずです。
例えば、応神天皇が呉から縫工女4人を勧誘した際に、
途上の宗像氏がそのうち1人をゲットしたような感じです。

一方で、コノハナサクヤ姫の母親が、
その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系であれば、
瀬戸内〜畿内に荘園を所有しているはずです。
琵琶湖周辺もまた、下之郷遺跡以来、大山祇一族が体を張って開発して来た
重要エリアですね。先のスレで検討しましたが。

488 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:56:07.42 .net
猿田彦は、
旧伊都(吉武遺跡宮殿など)一万戸から、
新伊都(三雲遺跡高祖宮など)千戸へと、
天孫降臨するために日向峠を西へと越えるニニギ一行を
東から出迎えるわけです。

日没間近の夕日を背にして、猿田彦が現れるので、
猿田彦は背後からの夕日で光り輝くように見え、
その夕日はそのまま、日向峠から見て東方の、
早良平野=旧伊都=高天原=紀元前吉武遺跡宮殿と、
福岡平野=葦原那珂津国
を照らすわけです。

新伊都側から出迎えるということは、
猿田彦は、コノハナサクヤ姫の父親、
つまり唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
の配下であり、
もちろんコノハナサクヤ姫の父親とその配下の兵達と一緒に
ニニギ一行を出迎えに来た先頭にいたわけですね。

489 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 12:58:46.24 .net
>>485
>笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。
>筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
>つまり陸続きなわけですね。

笠沙の岬は志賀島でしょう。
博多湾に傘のように被っています。
天浮橋は海の中道です。

木花咲耶姫の実家は志賀島の海神神社でしょう。
この氏族は、天孫族と姻戚を結びながらも東の遠賀川にまで追いやられていきます。
これが筑紫岡田の宮の豊国王家、後の岡の県主です。
木花咲耶姫の父である大山祇は天照ではなくイザナギの子なので、天照の兄弟です。
出雲に降ったスサノヲも天照の兄弟です。
筑紫、豊国、出雲は同一の氏族の分家同士ですね。

考古学的にも、これら日本海沿岸が栄えていた地域であり、倭国の中心は福岡です。
後漢書は倭国を朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡にあったと記録しています。

490 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:02:41.22 .net
先に検討しましたが、
猿田彦は比良山を崇める高島市熊野本遺跡出身の工人。
旧伊勢=琵琶湖周辺のうち、
比良山の周囲が、コノハナサクヤ姫の母親の荘園だったのでしょう。

猿田彦とは、
コノハナサクヤ姫の父親が得た、渡来系の工人そのもの、
あるいは、
渡来系の工人に師事した倭人工人。
そのどちらかなわけです。

だから漢から直輸入の円周計算法=咫を駆使している。

491 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:09:33.08 .net
山上の集落で工房を経営する猿田彦は、
山伏の祖とも言われているように、
木材を得るための森林管理の専門家でもあるわけです。

鼻が七咫というのは、丸い皮ふいごでしょう。
山伏のように大きなほら貝でもいいですが。
なんでそれが鼻かというと、
日本オオカミ、山犬、熊などの猛獣避けに鳴らしていたわけですね。

ニニギ一行も衛兵を従えていたでしょうが、
峠越えでは細長い隊列となって離れてしまい、心細い。
衛兵たちも平野の人間なので、細い峠道ではおどおどする。
日が沈んできて、獣の遠吠えなど聞こえてきたところに、

猿田彦が現れるわけです。

山中暮らしの猿田彦は、慣れた様子で皮ぶいこをぶうぶう鳴らして獣を払い、
その賑やかな姿に、
ニニギたちはまさに救いの神のように感じて、その後の扱いに大きく影響したのでしょう。

492 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:12:23.88 .net
>>489
私も昔はそう思っていましたが、
それだと天孫降臨した先の日向から陸続きであることを、
褒める理由がなくなります。

493 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:42:07.39 .net
猿田彦は海と山をともに照らす(支配する)と書いてあるので、博多湾を守る将軍職です。
福岡市早良区にズバリ猿田彦神社があります。
彼は福岡の旧勢力の代表として邇邇芸を王として迎え、伊都まで案内し、新王の高祖宮建設に奉仕したのです。
こうして成立したのが卑弥呼の前の男王「日向三代」の伊都国の倭王家です。

その後、倭国大乱により天孫族は筑紫を離れて、親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。
代わりに倭王に共立されたのが卑弥呼になります。
卑弥呼と神武の年代が近いことは、鴨厨さんの考察のとおりですが、大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

494 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:49:26.49 .net
>>493
>親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。

饒速日が先に王国を建設しているという大和の王国の痕跡は? それも妄想かね?  @阿波

495 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:51:16.36 .net
>大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

魏志倭人伝でも、
邪馬台国は邪馬台国(正確には、邪馬壹國=邪馬一国)

大倭(大和)
は明らかに区別されていますね。

496 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 13:56:25.76 .net
ニニギ(アマテラス)の兄である饒速日(スサノオ)は、
銅戈将軍として、考古学出土物そのままに、
大阪湾上陸作戦、安芸上陸作戦、越後信州攻略戦、と転戦していきます。

基本的に、畿内に作られる環濠集落+銅鐸というのは、
大山祇一族の事業ですから、
唐古鍵の長髄彦が首長なのではなく、
その妹の登美夜毘売(三炊屋媛)が女王であり、

唐古鍵女王と饒速日が結婚して、内陸と瀬戸内から、
大阪湾沿岸の最後の石剣部族を挟撃したということでしょう。

497 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:04:58.51 .net
スサノヲはあくまでも日本海にしか足跡がなく、むしろ朝鮮半島に渡ったりしてますね。
出雲がその拠点ですから。

瀬戸内の開拓は豊国から進出した大山祇(天照の兄弟)とその息子の三島神らの事績です。これはスサノヲとは別系統で、登美の鴨王家となります。
綿津見神社、三島神社、賀茂神社などがその拠点です。
当時はそのまま王宮や役所だったのでしょう。
京都、大阪、奈良がその主な範囲です。

そこに同居していたのが饒速日(天照の孫)であり、そこに筑紫を脱出した神武が合流します。

498 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:05:50.68 .net
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

499 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:07:01.39 .net
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

500 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:09:13.55 .net
大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

501 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:13.45 .net
大倭が出てきたので脱線しますが、
大物主というのは、
大国主の治世に海外から現れて、大国主が設置した、わけです。

現代の我々日本人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国、東はアメリカ合衆国です。

が、弥生時代の北部九州倭人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国ですが、東は本州や畿内なわけです。

少彦名や大物主など、海外からやって来た神々というのは、
朝鮮や中国からの可能性もありますが、
本州出身である、という可能性もあるわけです。

502 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:25:47.47 .net
北部九州説だと、
大国主は葦原那珂津国=福岡平野の有力者ですから、
須久岡本の主となります。

考古学的には、
紀元前に、吉武高木王(高木神)=アマテラスが、
配下の王族将軍スサノオを派遣して、日本海沿岸を制圧。

紀元前後に葦原那珂津国が新興してきて、
中広型銅矛が、主に瀬戸内沿岸へと侵攻。
播磨を拠点とする広型銅剣と戦い、荒神谷遺跡で降伏調印式を行います。

中広型銅矛が失脚してから、
銅戈が大阪湾上陸作戦を行います。

503 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:27:04.85 .net
大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
の活動範囲は、
紀元前からの筑紫アマテラス領域=北部九州〜日本海沿岸と、
紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸

瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
大阪湾にはまだ上陸していません。

また、銅矛銅剣戦争のあおりで、大山祇銅剣祭祀は下之郷遺跡を一旦放棄しており、
畿内内陸からは北部九州勢力は一時遠のいているわけです。

考古学的に判明しているこの状況下で、
大国主が大物主を据えたわけですね。

504 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:28:11.44 .net
硯の出土状況を見て見ますと、
伊都三雲遺跡、奴国那珂比恵遺跡など邪馬台国中枢の沿岸遺跡に加えて、
内陸の筑前町からも硯が複数出土しています。

伊都などに一大率という北部支配機構があったのと同様に、
筑前町などにも南部支配機構があったわけですね。
一方が都庁でもう一方は府庁のようなものです。

庄内式など土器の流れを見ても、
一番集中するのは那珂川流域ですが、
大分から上陸して、川沿いに日田などを経て筑後へと入る流れも判明しています。

以上から、北部九州説における大国主=中広型銅矛が設置した
大物主とは、
筑前町の旧三輪町に設置された、大倭という交易職であり、

当然のことながら、弥生時代の総合商社である大山祇一族が
その運営に深く関わっており、

饒速日銅戈将軍が大阪湾上陸を果たして本格的に畿内侵入をすると、
交易の舞台が畿内へと移動したわけですね。

505 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:54:07.10 .net
>>498
>いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも倭国(阿波)を発った忌部一族にその起源があることになる。  @阿波

506 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:55:49.55 .net
>>500
>大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

北部九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の資格なし。  @阿波

507 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 14:59:11.44 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   @阿波
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR

508 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:13:18.90 .net
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
>の活動範囲は、
>紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸
>瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
>大阪湾にはまだ上陸していません。

よくわからないけど、大山祇は伊予まで、その息子の三島神は摂津にいるのに反映されているのかもしれないですね。
彼ら瀬戸内や畿内の開拓の祖の実年代もなんとなくわかりますね。
その少し後に神武が畿内に入るので、平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

509 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:20:58.35 .net
>>508
>平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

510 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:37:31.14 .net
>>508
大山祇は元は遠賀川流域(古代出雲=豊国)が本貫でしょうね。
西に筑紫がいるので、大山祇は東へ進出したわけです。

筑紫天神族と婚姻を繰り返してお互い協力したのはいいものの、
筑紫で政争が起きるたびに巻き込まれて、領土を筑紫倭国へと組み込まれていった、
ということでしょう。

大山祇が伊予までに見えるのは、
大山祇女王国として独立していたのは大国主との戦争までだからで、
(銅剣分布域)
その後は大山祇系列の部族として、相変わらず東方開拓をしていたのでしょう。
大山祇の系譜である様々な神や部族がそれですね。

大山祇一族は最後の最後は畿内に独自国を作ったかもしれませんが、

失脚した大国主末裔が関東方面に入り、
愛知県まで先に分布してしまっていたので、

倭国乱で狗奴国側について敗北した時点で
大山祇末裔の独立可能性は断たれ、
あとは邪馬台国系倭国に吸収されてしまいます。

511 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:48:51.53 .net
九州における大国主の系譜は木花咲耶姫で早々に天孫族に吸収されていますね。
畿内においては長髄彦が倒されて実権を失ったようです。

512 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:07.20 .net
北部九州教の信者が読経してるな

513 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:49:38.59 .net
違った。
大国主ではなく大山祇。

514 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 15:50:08.13 .net
>>512
畿内説論者は何も語ることができない。
哀れだ。

515 :日本@名無史さん:2018/06/23(土) 16:18:29.73 .net
>>511

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 

516 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:42:22.23 .net
出土分布が極端に偏っている地域というのは示唆的なわけです。

たとえば阿波です。
銅鐸は沢山出土していますが、
祭祀型武器は銅剣だけで、銅矛も銅戈も出土していません。

北部九州説なら、説明ができます。

神代出雲(=豊国日本海沿岸)出身の大山祇一族が瀬戸内沿岸の開発に乗り出した。
西の大分や愛媛などに拠点を置いているので、
東に突出して、畿内大阪湾石剣部族と海を隔てて面する阿波の最前線集落には、
Jアラート=銅鐸を配備した。

だから同じ四国の瀬戸内沿岸でも
東の徳島には銅鐸があって、
西の愛媛には銅鐸が無い。

愛媛の銅剣集落群は、大山祇一族の瀬戸内拠点だったわけですね。
攻める側だから、銅鐸は必要ないわけです。

517 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:43:30.03 .net
中広型銅矛大国主と、大山祇女王八上姫が、夫婦喧嘩の銅矛銅剣戦争をおっぱじめたので、
中広型銅矛祭祀に対抗して、瀬戸内大山祇は平型銅剣祭祀を始めた。
戦国武将の旗印みたいなものです。
敵味方の識別のために軍舟の舳先にでも掲げていたのでしょう。

出撃前に2本並べて戦勝祈願を行って1本埋納し、
勝利占領したら、勝利祈念式典を行って、もう1本を占領地に埋納します。
鳥居の原型ですね。

阿波に銅矛が出土しないのはなぜか?

瀬戸内平型銅剣分布域というのは、大山祇女王の八上姫が統率する独立国家だったからです。

愛媛あるいは兵庫かもしれませんが、銅鐸の無い場所が拠点。
激しい戦いの末に、愛媛は占領される=愛媛に中広型銅矛埋納
中広型銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内沿岸の制海権を中広型銅矛に奪われる

結果、大山祇女王国は全面降伏して、
日本海側の大山祇拠点だった島根荒神谷遺跡で降伏調印式を行ったわけです。

八上姫が降伏したら、八上姫の領土は全て降伏するわけですから、
阿波を中広型銅矛軍が直接攻撃=中広型銅矛を埋納、することはなく、
自動的に阿波も中広型銅矛の支配下に入ったわけですね。

日本政府が降伏してGHQが東京にやって来たら、
自動的に日本全土がGHQの支配下に入ったのと同じことです。

だから愛媛には銅矛が出土するのに、阿波には出土しない。
出土する必要が無いわけです。

518 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 22:45:50.80 .net
阿波は海を挟んで大阪湾と向かい合っているのに、
銅鐸はあるのに銅戈は出ない。

これも北部九州説なら説明がつきます。

中広型銅矛大国主が筑紫で失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略を開始します。

愛媛や阿波は大国主と八上姫の夫婦喧嘩の結果、
既に北部九州倭国の支配下に入っているので、
新たに銅戈が占領して勝利の埋納をする必要が無い。
だから出土しないわけです。

また、出土しないことから逆に、出陣式も行われていない。

瀬戸内沿岸には、大阪湾上陸作戦に出陣できるような軍隊は当時存在せず、
九州の銅戈埋納地から饒速日軍が出陣したか、
あるいは
畿内の銅戈埋納地から大山祇軍が出陣したか、
ということですね。

519 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:02:06.61 .net
大山祇の活動を四国瀬戸内沿岸だけ見てみると、

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

1世紀早期
 中広型銅矛と戦争
 平型銅剣祭祀
 筑紫との物量差は大きく、短期間で決着がついたので、
 西に銅鐸配備して睨み合うような時期はなかった
 青銅原料があっという間に尽きて、土製祭祀銅剣や木製矛

1世紀前半以降
 高地性集落を建設して炭を作り、淡路島鉄工所へ供給
 大国主失脚までは嫌々ながら
 大国主失脚後は饒速日と協力的に
 木材&炭供給をしているのだから、大阪湾攻略戦への兵員供給免除

520 :日本@名無史さん:2018/06/26(火) 23:07:21.31 .net
紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 「東」の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備


ずっと上の>>488でも猿田彦が「西」から出迎える、ですね、
あちこち間違えてすみません。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


521 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:01:13.69 .net
コノハナサクヤ姫について書いたと思っていて、書いていませんでした。

天孫降臨したニニギが、
笠沙の岬で出会ったコノハナサクヤ姫と結婚して、
一夜を共にする。
一夜を共にしただけなのに、コノハナサクヤ姫が妊娠したと言うので、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるわけですね。

これは妙な話ですよね。
国津神のトップであるオオクニヌシが討たれて、
それから天孫降臨して、
支配者となったニニギの后なわけです。

天神と大山祇の娘で、しかも、
大王ニニギの后に手を出す国津神なんてありえないわけです。
嫌疑だけでも討たれるレベルですよね。

つまりこれは、
まだ国津神が勢力を持っていて、
天神族の娘に夜這いをかけてもおかしくないような時代が、
女性が妊娠出産しうる10ヶ月のうちにあった、

オオクニヌシが失脚したのは、
コノハナサクヤ姫が妊娠を報告した時から、
10ヶ月以内だった、ということですね。

522 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:02:59.08 .net
そしてオシホミミについてですが、
最初はアマテラスからオシホミミに葦原中国を治めるよう命令が下り、
天の浮橋から葦原中国を覗いてみたところ、
葦原中国は大変騒がしくて手に負えない、と言って断るわけですね。

そしてすったもんだの末に、
出雲(なぜか出雲にいる)のオオクニヌシが討たれて、
再度オシホミミに命が下ると、
すったもんだの間に、子のニニギが生まれたので、ニニギを降臨させましょう、
ということになるわけです。

降臨したニニギが結婚した相手に、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるということは、
オオクニヌシの失脚から、ニニギが結婚するまでは10ヶ月以内なわけですから、
ニニギが生まれたというのは、
ニニギが元服したということであり、
(古代の子供は幽体であり、成人して初めて人間となる)
古代の元服は12-15歳。

后を娶って子作りをして、一人前の男として后に嫌疑までかけるからには、
結婚した時には15歳と考えられるわけです。

神話からは、
ああ、オオクニヌシ失脚からコノハナサクヤ姫妊娠までは10ヶ月以内ね、
その間にニニギは15歳になったのね、
というだけの話ですが、
北部九州説だと考古学に投影できるわけです。

523 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:06:11.51 .net
紀元前に吉武高木王(初代アマテラス)が田熊石畑遺跡(初代スサノオ)を派遣して
日本海沿岸を制圧。(丹後扇谷遺跡の長期運営)

紀元0年前後に那珂川流域が振興してきて、
上流の高級住宅地・須久岡本から中広型銅矛王(オオクニヌシ)を輩出。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は、 平型銅剣女王(ヤガミヒメ)を裏切ってスサノオに就任し、
夫婦喧嘩の末に平型銅剣女王国(旧出雲・新出雲・瀬戸内沿岸)を降伏させて占領。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は 那珂川流域の人口爆発・工房乱立を抑制できず、
森林長官のスクナヒコナが死去すると、敵対するオオヤマツミは助けてくれず、
領内の森林荒廃。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)はスサノオ将軍職に満足せず、
アマテラス就任を希望するが、天神族から許可が下りず、
漢皇帝に朝貢して金印入手。
漢使来訪(57年)のため福岡県道49号線沿いを整備するのに領内木材を大量緊急伐採。
57-58年の普通レベルの豪雨で土石流発生。続いて疫病発生。

荒廃した福岡平野から須久岡本の中広型銅矛王(オオクニヌシ)は古代出雲の宗像へ脱出。
早良平野から旧伊都吉武の天神族は新伊都糸島へ脱出。

立岩遺跡(オシホミミ)は天の浮橋=海の中道から、那珂川流域を見渡したところ、
被災民と疫病人で阿鼻叫喚の有様で、
これはヤバイだろうと引き返した。

自領の兵力が消失した中広型銅矛王(オオクニヌシ)を、
越後のタケミナカタなどが救援に来る前に、
筑紫天神族が出兵して制圧。だから勝負が早かった。

立岩遺跡(オシホミミ)は自らは立たず、息子のニニギ(三雲南小路1号墓)を推薦擁立。
ニニギ(三雲南小路1号墓)は、笠沙の岬(柏崎)のコノハナサクヤ(三雲南小路2号墓)と結婚。

524 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:08:39.32 .net
文献と、北部九州説を、考古学に投影すると、

大集落と工房群が密集していた那珂川流域の須久岡本王が、
金印授与のために無理に無理を重ねて森林乱伐して、洪水疫病を起こして自滅した。

自滅してからは、東の古代出雲の宗像へ避難したのだから、
西にある唐津の柏崎の姫にちょっかいを出せたはずが無く、

三雲南小路1号墓王が15歳で吉武から三雲に遷都して
柏崎の姫と結婚するのは、
古代出雲で須久岡本王が討たれた時より前の、
那珂川洪水から10ヶ月以内。

525 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:11:37.90 .net
比恵那珂遺跡の洪水層の上=57・58年より前
比恵那珂遺跡の洪水層の下=57・58年より後

吉武宮殿の政治的利用期間は57まで
三雲が倭国首都となったのは、58年
(三国志東夷伝倭人条と合致)

三雲南小路1号墓王は58年に約15歳で倭国王に就任。
妻の三雲南小路2号墓王妃は柏崎遺跡の姫で、父は吉武王の男系、母は豊国大山祇の女系

三雲南小路1号墓王は43年頃生まれ
その長男は58-59年生まれ

三男は3つ子同時出産と考えるなら、同じく58-59年生まれ。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の孫)
火事伝記を生まれについての夫婦喧嘩のごたごたと考えるなら、生まれはもっと後になる。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の三男)

中広型銅矛は57年より前
祭祀型銅戈は58年より後

58+70-80=122-138、がXデー

526 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 01:39:52.28 .net
邇邇芸は降臨した時は子供用の着ぐるみに包まれた幼児。
木花咲耶姫との婚姻は10年は後でしょう。
それに弥生時代の通い婚なので、通わなかった他の日に他の男(自分の一族以外は全員が国津神)が通わなかった保証はない。
後世の入内を想像してはいけない。

527 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:08:31.28 .net
平定された天孫族が支配する世の中で
国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

528 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:10:44.45 .net
天孫族が支配する世の中で
平定された国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

529 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 02:17:32.09 .net
>自分の一族以外は全員が国津神

天津神と国津神を対比すると、
あたかもそのような錯覚を覚えますが、
それも妙なわけですね。

そもそもは、天津神が大山祇と婚姻を結んで
八岐大蛇を成敗したわけです。
大三島の大山祇総本社は天津神仕様ですね。

後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の世界に、大国主が現れて、いろいろ頑張ったけれども、
ある日失脚して、結局は天津神がニニギを大王に立てた。
と読むのも一理あるわけです。

530 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 06:19:45.16 .net
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


531 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 07:29:51.10 .net
>>529
>後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の一族以外はすべて国津神です。
大国主の系統だけでが国津神はありません。
なので、天孫が即位しても、多数の国津神がいたわけです。
邇邇芸のセリフは、「何処の馬の骨とも知れない男の子だろう」程度の意味です。
そもそも木花咲耶姫と一夜しか関係を持っていない点も、入内ではなく、通い婚であったことを示唆しています。
何しろ弥生時代の当時は王族でさえも小さな高床建物に一人一人住んでいたはずです。

>>528
>大国主=葦原色許男神
>失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

これは、大国主の名前に複数の人物が集合されているせいもあります。
あと、貴族という身分制度はなく、各地の環濠集落の首長くらいがほとんどかと思います。

532 :日本@名無史さん:2018/06/27(水) 07:50:41.54 .net
>>531
記紀の解釈だけでは説得力に欠けますよ。
記紀に沿った物証が伴わなければ、単なる妄想。  @阿波

533 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:19:25.58 .net
唐津=笠沙岬
新伊都=筑紫の日向=糸島平野
旧伊都=高天原=早良平野
葦原那珂津国=福岡平野(板付遺跡)

古代出雲=豊前の日本海沿岸
出雲(筑紫倭人にとっての東隣り倭種地域)は時代と共に東へと移動

超古代出雲=宗像など遠賀川より西
超古代伯耆=遠賀川より東

稲場=鐘崎

534 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:20:40.62 .net
山鹿貝塚から出土した巫女指導者の遺体からは、
「埋葬後」に骨が抜き取られていたことがわかっています。

宗教的な理由から、遺体に刃物を入れて傷つけることが良しとされず、
一旦埋葬して時間をおいて遺体が腐乱して柔らかく溶けてから、
神職者が荘厳な儀式とともに墓を開けて、
素手でそっと骨を抜き取ったのでしょう。

身に着けていた装飾品などは荒らされていませんから、
神聖なる宗教的儀式であって、
抜き取った骨は、神事における神器、お守りなどに使われていたと考えられています。

以上が考古学的にわかっているわけですが、
記紀にありますよね。

535 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:21:26.68 .net
イザナギはイザナミの遺体を出雲の国境に埋葬します。
出雲と伯耆の国境ということですから、
超古代は、豊国の日本海沿岸のうち、
葦原那珂津国の東隣り、宗像など遠賀川より西が、超古代出雲。
遠賀川より東が、超古代伯耆だったと考えられます。

山鹿貝塚もその辺りですから、
イザナミは縄文時代から続く遠賀川流域を中心とする
豊国縄文人国家の巫女女王で、
生まれ故郷の聖地に埋葬されたのでしょう。

国家を想定する理由は、
イザナミご遺体からの骨取り神事を覗いたイザナギを、
八雷神部族全部が追いかけたからです。

部族がバラバラなら、イザナミの部族だけが追いかけてくるはずです。
カモさんの先祖がここに入っているので、そういうことなのですね。
豊国日本海沿岸の河川のどれかが出身流域でしょう。

536 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:22:18.67 .net
亡き妻を一目見たいと思って覗き見したものの、
変わり果てた姿に驚いて声を上げてしまった。
イザナギは葦原那珂津国に逃げ込んで、岩で蓋をするわけです。

神様なのですから、高天原に逃げ込むかと思いきや、
葦原那珂津国です。
つまりイザナギは福岡平野も領有していたわけです。
筑紫イザナギと、豊国出雲イザナミですね。

イザナミは豊国出雲出身の巫女なので、死後は骨取り神事が待っている。
そんな姿を夫に見られたくないという個人的な理由もあったでしょうけれども、
骨取り神事は、限られた神職と一族関係者しか見てはいけない、
という出雲部族での宗教的ルールがあったのでしょうね。

部外者に見られたら、大いなる祟りがある、ということだったのでしょう。

古代人にとって祟りは本当に存在します。
禁を犯して、その後に病気になった時、大雨あるいは日照りになった時、
それは古代人にとっては祟りです。

だから怒って全部族総出で追いかけてきたわけですね。

537 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:23:15.83 .net
出雲イザナミは超古代出雲と超古代伯耆の間、おそらく遠賀川河口周囲にあった、
山鹿貝塚近傍の聖地に骨取り神事のため葬られました。

一方のイザナギは、葦原那珂津国ではなく、
筑紫の日向まで移動してから禊をします。

つまり、筑紫イザナギにとっての、祓いをする聖地は、
筑紫の日向にあった、ということです。
超古代から聖地だったので、筑紫の日向=伊都の官は、禰宜に通じる爾支なわけですね。

538 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 18:23:57.95 .net
考古学的には、
菜畑遺跡からの唐津〜糸島がイザナギ系。元は壱岐でしょうか。
山鹿貝塚からの稲作導入して、遠賀式土器を伴って稲作を全国拡散したのがイザナミ系。

時々喧嘩しながらも婚姻して、
板付遺跡からは大陸系と縄文系の双方が出土します。
甕棺墓から矛も見つかっていますね。
環濠集落ということは、
おそらくですが、壱岐〜唐津〜糸島のイザナギ系と、遠賀イザナミ系が同盟して、
北部九州の他の勢力を征服していったのでしょう。

また、縄文時代の山鹿貝塚の骨取り神事が、イザナミにつながり、
大山祇女王国までつながるということは、
遠賀式土器の人々はイザナミと同根であり、
出雲大山祇と若狭湾八岐大蛇の戦いも、大元は同じ古代出雲=豊国出身の部族同士の
日本海沿岸支配権をめぐる争いだったことになりますね。

539 :日本@名無史さん:2018/06/30(土) 19:19:35.81 .net
素晴らしいですね。
筑紫王家と豊国王家の姻戚関係は邇邇芸以降の代で明白ですが、それ以前のイザナギの代からの伝統であったことになります。
那珂川流域と遠賀川流域はそれぞれ独自の文化を維持したまま共存していましたが、その関係が記紀において明確に個人名とともに記録されていたことになります。
倭国の拡大とともに出雲の地名が九州から本州に移動した経過も明らかにしてあります。
矛盾がない完璧な考察だと思います。

540 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:14:09.77 .net
完璧な既知の外w
考古学的?

時系列的に
伊弉冉伊弉諾が2万年前〜BC1000以前
天照 大国主 BC1000
神武 BC1000〜BC600 奈良で即位
事績は創作w

遠賀川式は稲作に拘泥する必要はなく、
神武以降の山陰瀬戸内海の中国地方から東西北への広がり
しかし、BC2〜300年、九州は銅鐸時代に再度断絶する。
古墳時代への進化は九州より吉備、出雲側が先

九州については、前漢〜公孫氏との繋がりは、本州諸国とは違う
九州の豊富な考古資料が明かすが、本州側の青銅器他の史料の出自は何故謎なのか。

金印の57年九州委奴国〜247年邪馬台国 と 
300年?纏向遷都に繋がる 吉備出雲畿内勢力は、明らかに並立するが
これを、うやむやにしているのが、日本古代史の癌、邪馬台国論争である。

愚の骨頂が、いいかげん無理スンナw の九州東遷説。
で、出雲と伯耆 が 九州? 矛盾がない完璧な考察です、感動すますたwww

541 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:35:44.22 .net
8世紀に書かれた記紀の記述内容で3世紀の邪馬台国論争をするのは馬鹿げていますね。

542 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 08:45:49.64 .net
>>540
そんなデタラメでスカスカな年代が信じられるわけない。

543 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 10:12:24.89 .net
デタラメでスカスカな年代?

2万年前〜BC1000 氷河期〜縄文時代
弥生時代、菜畑〜板付遠賀川〜BC600東方拡大
農地、墾田の私有、領有で縄文共産制の崩壊〜核家族化、人口減少〜弥生化の過程

BC300〜 
本州 銅鐸時代、地域集落の連携、法、軍事の発達 地方王権の成立
200〜300年 中央集権〜古墳時代
九州 地域集落の発展と連携、余剰人員の東方進出? 四郡 漢の影響 青銅器時代
57年〜247年 金印〜邪馬台国時代

2〜300年 大和朝廷の関東以西統一 200〜350 半島進出百済新羅建国
4〜500年 倭の五王 南朝と半島利権交渉、540 任那割譲
600年 北朝、隋唐成立 660 百済滅亡

中国史、半島史、考古学に比定可能な、この時系列は実在であって
記紀の天皇年号による、無理無理、創作事績は全く当てはめる必要が無い。

神功皇后記に卑弥呼の朝貢の史実が併記されるが年代と事績の一致は無い。
銅鐸時代と倭の五王時代を知らない。 記紀の限界は500年。 
中国が南朝による統一であれば、倭の五王は歴史化したかもしれない。
白村江海戦は、朝鮮半島38度線を日本と南朝の隋唐?で分断したかもしれないwww

しかし、これ、スカスカが正解。

544 :日本@名無史さん:2018/07/01(日) 17:03:56.26 .net
>>543
妄想年表w

545 :日本@名無史さん:2018/07/06(金) 19:24:16.26 .net
蛆の集る遺体に八雷神というのが落差が大きすぎて違和感があったのですが、
山鹿貝塚で謎が解けましたね。

逆に山鹿貝塚の巫女指導者の骨があちこち抜き取られているのも、
説話で謎が解けましたね。

縄文時代から続いていた風習。
弥生時代に入る頃には、
古代出雲(超古代出雲+超古代伯耆、豊国の日本海沿岸)には8部族がいて、
巫女指導者を頂いて結束していた。

巫女指導者が無くなると、骨取り神事が行われる。
8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始。
一度埋葬したのを掘り返すから、蛆はいても、蠅は飛んでいない。

最も腐敗が進んでいる部位
=最も早く来世へと生まれ変わる部位
=その部位の骨を担当する部族に、「次の巫女指導者が転生する」
ダライ・ラマに似ていますね。

古代豊国の、縄文文化を色濃く受け継いだ風習を、
壱岐対馬経由で海外と通じた先進的な部族が見ると、
ギリシャ出身の小泉八雲が日本を「死者の支配する国」と捉えたのと同じように
「黄泉の国」と惧れを感じたのでしょうね。

546 :日本@名無史さん:2018/07/08(日) 12:22:03.53 .net
>>544
>山鹿貝塚で謎が解けましたね

>>545
>8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始

8部族って、具体的には?

547 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 13:48:32.92 .net
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念のためにのせておきます
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548 :日本@名無史さん:2018/07/14(土) 00:43:15.90 .net
アゲ

549 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 20:06:34.59 .net
このスレもすぐ過疎るなぁ

まあ、伊都国説に興味のあるやつも、そうそういないかw

550 :日本@名無史さん:2018/07/16(月) 22:04:51.42 .net
議論の余地もなく鉄板だからだよ。

551 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 10:01:39.60 .net
>>550
>議論の余地もなく鉄板だからだよ。

そうだね
伊都国と邪馬台国が別に書いてあるのを無視しないと成り立たない時点で、
九州説の中でも雑魚中の雑魚だしw

議論の余地もなく、「鉄板のトンデモ」だから、誰も興味を持ちゃしないww

552 :日本@名無史さん:2018/07/17(火) 18:39:16.96 .net
>>551
代案を示したいなら、
まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

もちろん、文化的に発展していないと話にならない。邪馬台国は「都」なんだから

伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい

553 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 14:57:06.95 .net
>>552
>伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい

どこが?
自分で自分を否定するのがマイブームなの?

>まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

伊都国の人口はたったの「有千餘戸」だぞ?

伊都国説推しには、クズしかいないのかな?

554 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 16:49:03.07 .net
邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。

555 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 17:01:33.65 .net
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で

それにしては、遺跡がお粗末だね。  邪馬台国が泣いてるよ。  @阿波

556 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:13:09.32 .net
もうオレはジジイなんでなんとか
生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。
九州でも機内でもアワでも構わん。

頼むから確定してくれ。

557 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:18:58.58 .net
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。

伊都国 有千餘戸
奴国  有二萬餘戸
不彌国 有千餘家

全部合わせても、二万二千余にしかならないよ

>>552の「まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな 」は
どこに行ったんだ?

その場しのぎがしのげてないぞww

558 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:19:54.99 .net
>>556
>頼むから確定してくれ。

畿内で事実上確定してるから安心してw
村おこしその他に気を使っているだけだから

559 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:38:44.48 .net
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

560 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:45:31.06 .net
>>556
>頼むから確定してくれ。

「其山有丹」でとっくに確定済み。 だって、倭国(阿波)しか該当しないでしょ。  @阿波

561 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 22:58:23.71 .net
>>553
罵倒だけでは意味が無いな。
3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

562 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 23:11:22.59 .net
横だけど
・備中(津寺遺跡とか)
・出雲(青木遺跡とか)
・河内(久宝寺遺跡とか)

563 :562:2018/07/18(水) 23:26:21.14 .net
↑にあげてる遺跡名はおおまかな場所を探しやすくするためのもので、
必ずしも中心集落というつもりではないので、念のため

564 :周髀算經の記述内容はBC1120年頃には成立していた:2018/07/19(木) 03:12:33.11 .net
>>556
>もうオレはジジイなんでなんとか
>生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。

邪馬台国は「官」1名「次官」3名の4名によって統治されている連合国だ。
其々の官の統治地域は、小郡 朝倉(浮羽) 三瀦 八女である。
擁立された卑弥呼はそれら4地域の中心地である久留米の城柵を都とした。

矢部川以南が邪馬台国と対立している狗奴国であることから、
(矢部川南岸以南は岩壁に岩穴を掘る横穴墓文化地域)
邪馬台国の官伊支馬の統治地域は八女である。

565 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:16:41.98 .net
>>561
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波

566 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:25:09.85 .net
前の男王までは倭は筑紫(筑前)だけだったが、卑弥呼の時に肥国も参加して、卑弥呼は肥国から倭国全体の女王に共立されたのだと思う。
でもあくまでも倭としての王都は伊都だったので、卑弥呼は伊都またはそのすぐ近くにいたはず。

567 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:26:57.60 .net
>>566
妄想はもういいから。  @阿波

568 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 16:57:22.24 .net
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

奴国の領域
佐賀平野中部西部・・・2万戸8万人

邪馬台国の領域
北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野東部(内陸部)・・・7万戸28万人

569 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 19:29:53.52 .net
>>568
妄想はもういいから。  @阿波

570 :日本@名無史さん:2018/07/20(金) 02:30:47.39 .net
妄想は誰だ?  

 アワ ワワワー 阿波

571 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:45:08.22 .net
>>546
古代出雲=豊国の女王は8部族による「共立女王」だったわけですね。
そして実子相続ではない。
これが縄文から暮らしていた豊国を中心とする人々のしきたりだったとすると、
卑弥呼→宗女台与を共立した勢力というのも、古代出雲系の人々だったことになります。

人口比率としては
早くから遠賀式土器と共に東方へ入植していった
古代出雲系の人々が最多だったでしょうから、
天神族など甕棺墓エリートによる専制政治に対しての何らかの社会変革があったのでしょう。
三雲男王と、平原卑弥呼とは、親族であっても直列ではない可能性が高いでしょうね。

大山祇は銅戈将軍と一緒に瀬戸内〜畿内開発をしていたわけですから、
倭国乱では狗奴国側だったことになります。
しかし大山祇系の人々というのは広範囲にいるわけで、
邪馬台国側においても大山祇系の人々が活躍していたわけですね。
保元・平治の乱のような状況だったのでしょう。

572 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:48:34.71 .net
八雷神は神産みと関係なく元々存在していたわけです。
八山津見神と建御雷神がカグツチから産まれます。
八岐大蛇も元は古代出雲(豊国)と同根。
八上姫は古代出雲・新出雲(島根)旧伊勢(滋賀)瀬戸内沿岸(淡路島まで)を領有。
八咫鏡を作ったのは旧伊勢の熊野本遺跡出身の猿田彦一族。大山祇系の荘園お抱えの工人。

八上姫が対銅矛戦争で使用した旗印が平型銅剣。
降伏時に武装解除して献上したのが大量の武器銅剣。

逆に銅矛有力者が失脚した時の制圧軍の大将が、建御雷神で、使用武器は剣。

八、雷、剣。

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