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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
- 1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
- https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
- 557 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:18:58.58 .net
- >>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。
伊都国 有千餘戸
奴国 有二萬餘戸
不彌国 有千餘家
全部合わせても、二万二千余にしかならないよ
>>552の「まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな 」は
どこに行ったんだ?
その場しのぎがしのげてないぞww
- 558 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 19:19:54.99 .net
- >>556
>頼むから確定してくれ。
畿内で事実上確定してるから安心してw
村おこしその他に気を使っているだけだから
- 559 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:38:44.48 .net
- 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
- 560 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 20:45:31.06 .net
- >>556
>頼むから確定してくれ。
「其山有丹」でとっくに確定済み。 だって、倭国(阿波)しか該当しないでしょ。 @阿波
- 561 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 22:58:23.71 .net
- >>553
罵倒だけでは意味が無いな。
3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?
- 562 :日本@名無史さん:2018/07/18(水) 23:11:22.59 .net
- 横だけど
・備中(津寺遺跡とか)
・出雲(青木遺跡とか)
・河内(久宝寺遺跡とか)
- 563 :562:2018/07/18(水) 23:26:21.14 .net
- ↑にあげてる遺跡名はおおまかな場所を探しやすくするためのもので、
必ずしも中心集落というつもりではないので、念のため
- 564 :周髀算經の記述内容はBC1120年頃には成立していた:2018/07/19(木) 03:12:33.11 .net
- >>556
>もうオレはジジイなんでなんとか
>生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。
邪馬台国は「官」1名「次官」3名の4名によって統治されている連合国だ。
其々の官の統治地域は、小郡 朝倉(浮羽) 三瀦 八女である。
擁立された卑弥呼はそれら4地域の中心地である久留米の城柵を都とした。
矢部川以南が邪馬台国と対立している狗奴国であることから、
(矢部川南岸以南は岩壁に岩穴を掘る横穴墓文化地域)
邪馬台国の官伊支馬の統治地域は八女である。
- 565 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:16:41.98 .net
- >>561
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 @阿波
- 566 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:25:09.85 .net
- 前の男王までは倭は筑紫(筑前)だけだったが、卑弥呼の時に肥国も参加して、卑弥呼は肥国から倭国全体の女王に共立されたのだと思う。
でもあくまでも倭としての王都は伊都だったので、卑弥呼は伊都またはそのすぐ近くにいたはず。
- 567 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 08:26:57.60 .net
- >>566
妄想はもういいから。 @阿波
- 568 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 16:57:22.24 .net
- >3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?
奴国の領域
佐賀平野中部西部・・・2万戸8万人
邪馬台国の領域
北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野東部(内陸部)・・・7万戸28万人
- 569 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 19:29:53.52 .net
- >>568
妄想はもういいから。 @阿波
- 570 :日本@名無史さん:2018/07/20(金) 02:30:47.39 .net
- 妄想は誰だ?
アワ ワワワー 阿波
- 571 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:45:08.22 .net
- >>546
古代出雲=豊国の女王は8部族による「共立女王」だったわけですね。
そして実子相続ではない。
これが縄文から暮らしていた豊国を中心とする人々のしきたりだったとすると、
卑弥呼→宗女台与を共立した勢力というのも、古代出雲系の人々だったことになります。
人口比率としては
早くから遠賀式土器と共に東方へ入植していった
古代出雲系の人々が最多だったでしょうから、
天神族など甕棺墓エリートによる専制政治に対しての何らかの社会変革があったのでしょう。
三雲男王と、平原卑弥呼とは、親族であっても直列ではない可能性が高いでしょうね。
大山祇は銅戈将軍と一緒に瀬戸内〜畿内開発をしていたわけですから、
倭国乱では狗奴国側だったことになります。
しかし大山祇系の人々というのは広範囲にいるわけで、
邪馬台国側においても大山祇系の人々が活躍していたわけですね。
保元・平治の乱のような状況だったのでしょう。
- 572 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 08:48:34.71 .net
- 八雷神は神産みと関係なく元々存在していたわけです。
八山津見神と建御雷神がカグツチから産まれます。
八岐大蛇も元は古代出雲(豊国)と同根。
八上姫は古代出雲・新出雲(島根)旧伊勢(滋賀)瀬戸内沿岸(淡路島まで)を領有。
八咫鏡を作ったのは旧伊勢の熊野本遺跡出身の猿田彦一族。大山祇系の荘園お抱えの工人。
八上姫が対銅矛戦争で使用した旗印が平型銅剣。
降伏時に武装解除して献上したのが大量の武器銅剣。
逆に銅矛有力者が失脚した時の制圧軍の大将が、建御雷神で、使用武器は剣。
八、雷、剣。
- 573 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:14:23.21 .net
- 国津神は女系継承なんだよ。
実子相続ではないわけではない。
- 574 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:22:49.01 .net
- 実子相続ではない。というのは、
実子には相続させないという意味では無いですよ。
条件さえ合えば実子相続となる場合もあるでしょう。
大国主は女系継承ではありませんよね。
- 575 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:31:21.59 .net
- 大国主は婿養子だから、女系継承だよ。
スサノオにいびられていた話があったろ。
- 576 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:35:05.35 .net
- その場合、スサノオが女系継承という話になりますよ。
- 577 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 09:44:59.02 .net
- 出雲王朝だろ。
- 578 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 10:11:12.74 .net
- 直列ではない。
文身で身分や出身地が一目で分かる。人前に出ない。
同一資料にて委奴国王と倭国王は区別されている。
倭王であって倭国王ではなかった?
- 579 :日本@名無史さん:2018/07/22(日) 11:14:05.74 .net
- 倭王と倭国王は同じだよ。
- 580 :日本@名無史さん:2018/07/29(日) 04:57:15.25 .net
- スサノオは新羅
スは須恵器からも分かるように、金属を意味してた
新羅の「し」もスから来ていて金属由来
つまり新羅とは金属もっと言えば鉄の国と言う意味
邪馬台国は筑紫にあった
古来、あの地域を筑紫と呼んでた
- 581 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 10:52:38.52 .net
- >>578
>同一資料にて委奴国王と倭国王は区別されている。
これ、何のこと?
- 582 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 17:55:13.87 .net
- 人、いねーなぁ このスレは
- 583 :日本@名無史さん:2018/07/30(月) 18:13:32.22 .net
- 言い回しの揺らぎ。
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
- 584 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 20:47:29.86 .net
- 区別されてないよな?
- 585 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 21:58:25.70 .net
- されてないね。
倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。
- 586 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 11:10:35.30 .net
- >>585
>倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。
× 倭国=筑紫
○ 倭国=倭人の国 時代によって異なる
- 587 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 14:27:35.59 .net
- 倭人の土地は倭地だが、倭国ではない本州(邪馬台国から東に渡海したところ)を含んでしまう。
魏志倭人伝では倭国=邪馬台国とは区別されている。
- 588 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 18:44:12.62 .net
- >>587
>倭国=邪馬台国
これは明確に間違い
倭国の中の、女王の都するところの地名が邪馬台国
そして、倭地の中で女王の共立に参加した範囲が女王国であり、倭国
- 589 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 18:48:09.89 .net
- ただ、混乱を招きやすいのが、女王国が多義的に使われているところ
女王国=共立連合=倭国で大体書いてあるんだけれど、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の2ヶ所は、女王国=邪馬台国になっている
女王国=倭国で
女王国=邪馬台国なら
倭国=邪馬台国にしたくなるけれど、
「邪馬台国=『女王国』」≠「『女王国』=共立連合=倭国」
という関係になっている
- 590 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 19:51:45.84 .net
- 対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。
- 591 :日本@名無史さん:2018/08/03(金) 20:07:57.55 .net
- >>590
正解
- 592 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 13:35:57.82 .net
- >>590
>対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。
狗邪韓国も不彌国も投馬国も、女王国の北なんだよ
女王国を筑紫にしてしまうと、投馬国が入る余地がない
女王国=倭国の意味の時には、もっと広く取らないと破綻する
- 593 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 13:42:45.69 .net
- 投馬国は宮崎都万。
いい加減にしつこいぞ。
- 594 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:05:09.57 .net
- >>593
>投馬国は宮崎都万。
>いい加減にしつこいぞ。
だから、それだと、女王国より北にならないでしょ?
- 595 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:18:10.53 .net
- 投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ。
- 596 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 14:46:11.09 .net
- >>595
>投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ
つまり、そう読んではだめだってことだ
水行の起点は帯方郡ではない
南へ行くだけで着いたら、倭人在帶方「東南」大海之中とも矛盾するし、
不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと
「魏志倭人伝の中で話が合わない」
- 597 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 15:29:00.35 .net
- ここまでのまとめ=邪馬台国は畿内に在った
- 598 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 17:04:22.77 .net
- >>596
>つまり、そう読んではだめだってことだ
だから、投馬国が邪馬台国より北にあると考えると矛盾だらけになるんだよ。
- 599 :日本@名無史さん:2018/08/04(土) 17:05:22.45 .net
- >>596
>不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと
投馬国へは陸行がないのだから、上陸せずに海路を行くんだよ。
- 600 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:40:43.35 .net
- >>599
不彌國、玄界灘沿岸から水行して、投馬国の海岸に着くだけだろ?
陸行など入らない
- 601 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 07:57:34.35 .net
- 不弥国まで陸行しているじゃないか。
それはおかしい。
筑紫に上陸せずに南に水行して宮崎だよ。
- 602 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 16:16:55.10 .net
- >>601
>不弥国まで陸行しているじゃないか。
何を言ってるんだい?
普通に順次式で、不彌国から先が水行だけで陸行を含まないってだけだぞ?
魏使倭人伝の旅程記事、と言っているものは、地理・旅程記事であって、
倭国の地理の紹介も兼ねているから、実際の魏使の行程そのものを
記している訳ではない
途中で陸行が入るのがおかしいと言い出すなら、そもそも末慮国による必要はない
末慮国の位置を示すために、壱岐ー末慮ー伊都という行程で示してあるだけ
- 603 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 18:16:07.78 .net
- 投馬国の位置
投馬国は帯方郡から水行二十日で陸行はない。
水行二十日のルートは、
帯方郡→一支國→平戸島→西海→角力灘→天草灘→
→島原湾→有明海→有明海東岸(投馬國)
平戸島まで水行10日、
平戸島から九州西部海岸をぐるっと回って有明海東岸まで水行10日、
帯方郡から有明海東岸の投馬國まで合計水行20日。
九州西部海岸は潮流も速く(潮待ち時間が長い)風も強く(風待ち 逆風の時は進めない)、
波除け板だけの古代半構造船では、
1日に航海できる距離は平均20kmが限度である。
- 604 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 19:07:54.12 .net
- 遣唐使船が九州から直接上海に行くルートでは
距離千キロに対して平均20日ほど。
特に寄れる島などもないから、交代
して24時間航行を続けるしかない。
一日50kmなので一時間あたり2キロちょっと。
- 605 :日本@名無史さん:2018/08/05(日) 19:11:16.59 .net
- 朝鮮半島経由なら、壱岐、対馬、朝鮮半島と
随時休息が取れるだろうから
夜間は航行しなくて済む。
一日20km程度なら妥当なところかな。
もっと短いかもしれない。
風待ち、潮待ちも必要だからね。
- 606 :日本@名無史さん:2018/08/06(月) 11:19:38.66 .net
- >>603
>帯方郡から水行二十日で陸行はない。
これがまずおかしいんだって
旅程記事の途中で、起点が振り出しに戻るような文献が他に一例でもあるなら出して欲しい
一例もないはずだよ
- 607 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 20:07:55.14 .net
- >>606
同じ行程として読めばそうだが、日程記述に変更なるのに、直線的にただ読めばいいとは思えない
こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね
起点がどこかは意見に違いがあるだろうが
- 608 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 23:17:13.08 .net
- >>589
丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと
南至邪馬壹國 女王之所都・・・この女王は卑弥呼のこと
自女王國以北 其戸數道里可得略載・・・この女王國は伊都国のこと
此女王境界所盡・・・この女王は邪馬台国のこと
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王・・・この女王は卑弥呼のこと
自郡至女王國 萬二千餘里・・・この女王國は伊都国のこと
自女王國以北 特置一大率・・・この女王國は伊都国のこと
傳送文書 賜遣之物詣女王・・・この女王は卑弥呼のこと
女王國東渡海千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと
去女王四千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと
倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・この女王は卑弥呼のこと
詔書報倭女王 曰・・・この女王は卑弥呼のこと
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・この女王は卑弥呼のこと
- 609 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:40:32.31 .net
- >>607
後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。
起点は楽浪帯方です。
- 610 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:15:20.91 .net
- >>607
>直線的にただ読めばいいとは思えない
思えない、というのはただの感想ですね
根拠ではない
>こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね
多いというなら、実例をいくつか例示してくれ
- 611 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:18:50.51 .net
- >>608
>丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと
東南陸行五百里、到伊都國。(中略)有千餘戸。世有王、皆統屬伊都國。
おかしいと思わないかね?
- 612 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:23:16.21 .net
- >>609
>後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、
ここで既に間違い
後漢書のここのその国は、倭国であって邪馬台国ではない
>九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。
魏使倭人伝に明記されていることをかって解釈でねじ曲げちゃダメだよ
>起点は楽浪帯方です。
結論ありきで逆算してもダメ
戸数も、投馬国の位置も矛盾するだけだよ
- 613 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:41:25.69 .net
- 投馬国の位置が矛盾て何?
投馬国が朝鮮半島南部だとかいう謎理論?
- 614 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 02:00:52.16 .net
- 女王国は奴国だ
そして奴国は山と川を持っていた
奴国は八女〜英彦山まで横に細く長い地域
金印に書いてある通り
伊都国は渡来系の墓場
呉系か他の系統かで争っていた
- 615 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:02:31.31 .net
- >>613
投馬国は戸数、道里が略載されている、女王国以北の国
宮崎都万に持っていったら、九州説の主張する博多湾付近の
邪馬台国より南になっちゃうだろ
それに南に行くだけで邪馬台国に着くなら、倭人伝冒頭の
倭人在帶方「東南」大海之中、依山島爲國邑とも矛盾する
- 616 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:15:41.07 .net
- 投馬国は里程が記載されていない。
帯方郡から女王国までのルート上にない。
- 617 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:30:20.12 .net
- >>616
その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国1万里10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り)〜宮崎都万1万里10日。
- 618 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:37:50.01 .net
- >>617
>その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。
冗談にしても、そりゃ手漕ぎじゃ無理だろ。 @阿波
- 619 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:39:09.96 .net
- 伊都クズは、頭の中身も糸クズ
- 620 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:51:02.86 .net
- >>618
おまい、「時間の問題」とはなんじゃ、お盆のせいで仏心がついたのか、、、
帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、
実際に必死で漕ぐのは川内あたりのわずかな区間よ
(ま、九州東岸の日向灘は、海岸ノッペリで潮が早すぎ、とても下れぬがな・・・)
- 621 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:00:56.03 .net
- >>620
>帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
>潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、
そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば? 面倒くさい。 @阿波
- 622 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:22:53.95 .net
- >>621
こういう人は、大胆な発想をするくせに、詰めが甘いんだよね。 @阿波
- 623 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:18:59.56 .net
- >>621
気が利かぬやつだ
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、10日で1万里、到る宮崎都万国の港。
邪馬台国へは、ここで上陸し、東南陸行500里で佐賀川上の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。ここから南へひとっとび肥後邪馬台国女王之都に至る。この間2000里、ひと月の旅、
- 624 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:21:57.61 .net
- >>623
相手を間違えた。 @阿波
- 625 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:51:29.84 .net
- >>616-617
その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の有明海東岸だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国 水行10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り 早瀬瀬戸経由)〜福岡県みやま市瀬高 水行10日。
- 626 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:18:59.77 .net
- >>625
そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば? 面倒くさい。 @阿波
- 627 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:39:13.93 .net
- そうか。
関門海峡が3世紀には通過出来なかったと言われているのでどうするのかと思っていたが、九州西岸沿いに回ればいいのか。
帯方郡からだと、えんえんと南下するように見える。
納得した。
- 628 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:56:37.35 .net
- >>625
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。
邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)
- 629 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:57:56.42 .net
- >>626
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。
邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)
- 630 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:30:28.22 .net
- >>611
伊都国の説明だからおかしくないだろ。
- 631 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 20:33:12.61 .net
- 自動詞と他動詞の区別ができとらんな
英語はゼロ点だったろうな!
- 632 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:38:02.03 .net
- >>631
???
- 633 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:48:37.85 .net
- 世有王、皆統屬女王國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆女王国に統属していた。
世有王、皆統屬伊都國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆伊都国に統属していた。
- 634 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:16:52.32 .net
- >>616
>投馬国は里程が記載されていない。
>帯方郡から女王国までのルート上にない。
魏志倭人伝に書いてあるのは「自女王國以北、其戸數『道里』可得略載」であって
『里程』ではない
『道里』は日数でも表せる
投馬国は、戸数も道里も略載されているから、女王国より北だよ
- 635 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:53:44.67 .net
- 投馬国は里程が記録されていない。
郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。
- 636 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:56:54.19 .net
- >>634
日数を云うときは「旅程」だろ
- 637 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:20:58.56 .net
- >>636
>「旅程」
その通りだよ
「道里」というのは旅程という意味なんだから
- 638 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:23:13.52 .net
- >>635
>投馬国は里程が記録されていない。
>郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。
戸数と日数(道里)が、両方書かれているだろ
それに、郡使のお役目として、五万戸の倭国第二の大国はきちんと見て報告する必要があるし
そのために出雲経由のルートにしたのだろう
- 639 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:12:44.82 .net
- 投馬国は日程のみで里程の記載はない。
- 640 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:46:20.53 .net
- >名曰卑弥呼。。。
>有男弟佐治国。。。以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
>宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。。。
この伊都国かどこにあったのか知らぬが、
卑弥呼が住まいしていた環濠王宮の場所を教えてくれ。婢千人というからには、それなりの規模だったはず。
- 641 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 14:50:20.62 .net
- >>640英彦山
- 642 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:05:35.08 .net
- >>641
英彦山の何処にそんな遺跡があるんだ?
- 643 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:07:43.73 .net
- >>635
郡使が通過したルート上にないものを何で記載したんだ?
行ってもない所の情報をどうやって知ったんだ、超能力かw
- 644 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:13:02.95 .net
- >>640
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 @阿波
- 645 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:25:40.32 .net
- >>644
コザコザはよろしい、黙っとれ
卑弥呼と1000人の婢が住まいしたという環濠王宮はどこだ
今宿小学校のあたりか
それとも怡土国博物館のあたりか
- 646 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:15:18.91 .net
- >>645
発掘調査してくれ
未だ埋もれてるな。
- 647 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:49:49.19 .net
- >>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。 @阿波
- 648 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:57:31.77 .net
- >>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
- 649 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:01:44.17 .net
- >>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。
- 650 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:07:21.78 .net
- >>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。 @阿波
- 651 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:00.82 .net
- 怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。
- 652 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:36.74 .net
- >>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
- 653 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:18:59.01 .net
- >>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。
だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない
道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
- 654 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:22:03.57 .net
- >>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。 @阿波
- 655 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:24:46.16 .net
- >>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。
- 656 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:26:59.37 .net
- >>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。
- 657 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:59:30.49 .net
- >>656
>東至都護治所四千七百四十里、
↑
この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。
>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
↑
この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。
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