2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

1 :九州王:2018/05/08(火) 23:37:02.50 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

607 :日本@名無史さん:2018/08/07(火) 20:07:55.14 .net
>>606
同じ行程として読めばそうだが、日程記述に変更なるのに、直線的にただ読めばいいとは思えない

こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

起点がどこかは意見に違いがあるだろうが

608 :日本@名無史さん:2018/08/10(金) 23:17:13.08 .net
>>589
丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと
南至邪馬壹國 女王之所都・・・この女王は卑弥呼のこと
自女王國以北 其戸數道里可得略載・・・この女王國は伊都国のこと
此女王境界所盡・・・この女王は邪馬台国のこと
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王・・・この女王は卑弥呼のこと
自郡至女王國 萬二千餘里・・・この女王國は伊都国のこと
自女王國以北 特置一大率・・・この女王國は伊都国のこと
傳送文書 賜遣之物詣女王・・・この女王は卑弥呼のこと
女王國東渡海千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと
去女王四千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと 
倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・この女王は卑弥呼のこと
詔書報倭女王 曰・・・この女王は卑弥呼のこと
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・この女王は卑弥呼のこと

609 :日本@名無史さん:2018/08/13(月) 19:40:32.31 .net
>>607
後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。
起点は楽浪帯方です。

610 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:15:20.91 .net
>>607
>直線的にただ読めばいいとは思えない

思えない、というのはただの感想ですね
根拠ではない

>こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

多いというなら、実例をいくつか例示してくれ

611 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:18:50.51 .net
>>608
>丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと

東南陸行五百里、到伊都國。(中略)有千餘戸。世有王、皆統屬伊都國。

おかしいと思わないかね?

612 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:23:16.21 .net
>>609
>後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、

ここで既に間違い
後漢書のここのその国は、倭国であって邪馬台国ではない

>九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。

魏使倭人伝に明記されていることをかって解釈でねじ曲げちゃダメだよ

>起点は楽浪帯方です。

結論ありきで逆算してもダメ
戸数も、投馬国の位置も矛盾するだけだよ

613 :日本@名無史さん:2018/08/14(火) 23:41:25.69 .net
投馬国の位置が矛盾て何?
投馬国が朝鮮半島南部だとかいう謎理論?

614 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 02:00:52.16 .net
女王国は奴国だ
そして奴国は山と川を持っていた
奴国は八女〜英彦山まで横に細く長い地域
金印に書いてある通り
伊都国は渡来系の墓場
呉系か他の系統かで争っていた

615 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:02:31.31 .net
>>613
投馬国は戸数、道里が略載されている、女王国以北の国

宮崎都万に持っていったら、九州説の主張する博多湾付近の
邪馬台国より南になっちゃうだろ
それに南に行くだけで邪馬台国に着くなら、倭人伝冒頭の
倭人在帶方「東南」大海之中、依山島爲國邑とも矛盾する

616 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 08:15:41.07 .net
投馬国は里程が記載されていない。
帯方郡から女王国までのルート上にない。

617 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:30:20.12 .net
>>616
その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国1万里10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り)〜宮崎都万1万里10日。

618 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:37:50.01 .net
>>617
>その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。

冗談にしても、そりゃ手漕ぎじゃ無理だろ。  @阿波

619 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:39:09.96 .net
伊都クズは、頭の中身も糸クズ

620 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 09:51:02.86 .net
>>618
おまい、「時間の問題」とはなんじゃ、お盆のせいで仏心がついたのか、、、

帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、
実際に必死で漕ぐのは川内あたりのわずかな区間よ
(ま、九州東岸の日向灘は、海岸ノッペリで潮が早すぎ、とても下れぬがな・・・)

621 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:00:56.03 .net
>>620
>帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
>潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、


そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波

622 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 10:22:53.95 .net
>>621

こういう人は、大胆な発想をするくせに、詰めが甘いんだよね。  @阿波

623 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:18:59.56 .net
>>621
気が利かぬやつだ
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、10日で1万里、到る宮崎都万国の港。
邪馬台国へは、ここで上陸し、東南陸行500里で佐賀川上の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。ここから南へひとっとび肥後邪馬台国女王之都に至る。この間2000里、ひと月の旅、

624 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:21:57.61 .net
>>623

相手を間違えた。  @阿波

625 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 11:51:29.84 .net
>>616-617

その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の有明海東岸だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国 水行10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り 早瀬瀬戸経由)〜福岡県みやま市瀬高 水行10日。

626 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:18:59.77 .net
>>625

そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波

627 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:39:13.93 .net
そうか。
関門海峡が3世紀には通過出来なかったと言われているのでどうするのかと思っていたが、九州西岸沿いに回ればいいのか。
帯方郡からだと、えんえんと南下するように見える。
納得した。

628 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:56:37.35 .net
>>625

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)

629 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:57:56.42 .net
>>626

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)

630 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:30:28.22 .net
>>611
伊都国の説明だからおかしくないだろ。

631 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 20:33:12.61 .net
自動詞と他動詞の区別ができとらんな
英語はゼロ点だったろうな!

632 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:38:02.03 .net
>>631
???

633 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:48:37.85 .net
世有王、皆統屬女王國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆女王国に統属していた。

世有王、皆統屬伊都國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆伊都国に統属していた。

634 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:16:52.32 .net
>>616
>投馬国は里程が記載されていない。
>帯方郡から女王国までのルート上にない。

魏志倭人伝に書いてあるのは「自女王國以北、其戸數『道里』可得略載」であって
『里程』ではない

『道里』は日数でも表せる

投馬国は、戸数も道里も略載されているから、女王国より北だよ

635 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:53:44.67 .net
投馬国は里程が記録されていない。
郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。

636 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:56:54.19 .net
>>634
日数を云うときは「旅程」だろ

637 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:20:58.56 .net
>>636
>「旅程」

その通りだよ
「道里」というのは旅程という意味なんだから

638 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:23:13.52 .net
>>635
>投馬国は里程が記録されていない。
>郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。

戸数と日数(道里)が、両方書かれているだろ
それに、郡使のお役目として、五万戸の倭国第二の大国はきちんと見て報告する必要があるし
そのために出雲経由のルートにしたのだろう

639 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:12:44.82 .net
投馬国は日程のみで里程の記載はない。

640 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:46:20.53 .net
>名曰卑弥呼。。。
>有男弟佐治国。。。以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
>宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。。。

この伊都国かどこにあったのか知らぬが、
卑弥呼が住まいしていた環濠王宮の場所を教えてくれ。婢千人というからには、それなりの規模だったはず。

641 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 14:50:20.62 .net
>>640英彦山

642 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:05:35.08 .net
>>641
英彦山の何処にそんな遺跡があるんだ?

643 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:07:43.73 .net
>>635
郡使が通過したルート上にないものを何で記載したんだ?
行ってもない所の情報をどうやって知ったんだ、超能力かw

644 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:13:02.95 .net
>>640

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波

645 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:25:40.32 .net
>>644
コザコザはよろしい、黙っとれ

卑弥呼と1000人の婢が住まいしたという環濠王宮はどこだ
今宿小学校のあたりか
それとも怡土国博物館のあたりか

646 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:15:18.91 .net
>>645
発掘調査してくれ
未だ埋もれてるな。

647 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:49:49.19 .net
>>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。  @阿波

648 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:57:31.77 .net
>>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。

649 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:01:44.17 .net
>>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。

650 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:07:21.78 .net
>>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。


書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。  @阿波

651 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:00.82 .net
怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。

652 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:36.74 .net
>>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。

653 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:18:59.01 .net
>>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。

だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない

道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。

654 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:22:03.57 .net
>>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。

途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。  @阿波

655 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:24:46.16 .net
>>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。

656 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:26:59.37 .net
>>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。

657 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:59:30.49 .net
>>656
>東至都護治所四千七百四十里、

この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。


>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。

この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。

658 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:12:10.03 .net
怡土城
>奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、
文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。

>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
>怡土城は、奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、
及び他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡。

>>649 >>651
苦しい説明じゃのう。文献上で築城機関が特定されとるそうではないか。
明らかに時代が新しすぎるわ。

659 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:18:59.92 .net
>>653
大月氏國の位置関係を説明した文ですね
大月氏國の東4740里で都護の治所に至る
大月氏國の西49日で安息に至る
大月氏國の南はケイ賓と接している

660 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:21:51.89 .net
>>658
>>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、

これ根拠がないいい加減な説ですね、朝鮮式山城・神籠石系山城の築城時期に付いては現在も不明ですよ。
信用ならない引用だな。

661 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:26:13.30 .net
>仲哀天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。
>これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。
>今、伊都と言うのは訛っているのです。
>21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

仲哀天皇の時代に「伊蘇(いそ)の国」と呼ぶようになり、
その後、これが訛って怡土(伊斗、伊都)などというようになったのだから、
これまた時代が新しすぎるわ。苦しいのう、、、、

662 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:31:37.03 .net
怡土は、高麗人の天の日鉾が下ったところというではないか。
なんで卑弥呼と一緒にするのか。

663 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:32:48.57 .net
奈良時代や戦国時代に築城したという記録があるだけで、いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。

664 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:33:16.69 .net
>>658
天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。
とは書かれてるが新築なのか改築なのかは分からないですね。

665 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:36:31.92 .net
>>660
何をおっしゃる。
ウィキを参照せよととのことだったから、参照・引用してやったのに・・・、
信用できぬのはオマイら高麗人。

666 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:37:00.91 .net
>>661
神功皇后の実年代は卑弥呼より120年も後なのに、伊都の命名説話がある方がおかしい。
神功皇后の項だけはやたらと命名記事が多い。
魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
逆に言えば、奈良時代の日本人は、魏志倭人伝を九州の記事だと理解していたということ。
奈良の人たちにとって、魏志倭人伝は明らかに九州の話題だった。

667 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:38:30.16 .net
>>662
天の日鉾の話はもっと後世の話。
福岡にはしばしば渡来人がやって来たというだけのこと。

668 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:40:55.83 .net
中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
福岡城のさらに下層にあったかもしれないが、筑紫の日向のクシフル山と呼ばれた高祖山であったかもしれない。

669 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:44:46.72 .net
>>668
>中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。


倭国(阿波)にも「筑紫城」の謂れ、あるよ。  @阿波

670 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:45:35.55 .net
>>665
ウィキは参考にはなっても
そのまま信用はできないからね。

671 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:47:06.21 .net
>>666
ならば、何も疑われそうなねつ造記事を入れることはなかったであろう。
伊蘇の国だったなどと言わず、
最初から伊都の国でしたー、と書けば、それで万事落着したはず。
そうしなかったのは、アメノヒボコの件は真実だったから、それを欺くようなウソは書けなかったんだよ。

672 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:49:05.56 .net
高祖神社の周りをもっと年代別に発掘調査するとおもしろいかもしれない。
目の前の三雲であれだけ発見が続くくらいだからね。
ただ、いかんせん290ヘクタールは広すぎて、予算が厳しそうだ。

673 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:52:00.45 .net
そういえば、伊都城の一部とも言われる
高祖神社は神功皇后が再建したんだよね。
再建前は今の大門にあったらしい。
その大門は、伊都城の大門があったからだそうだ。

674 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:53:47.68 .net
天の日鉾も事実であったろう。
ただ、それとは別に倭国創建の説話があったということ。
卑弥呼がヤマト王権と平行する筑紫の王権だったからこそ、扱いに苦慮したんだよ。
天皇家の祖地である筑紫の日向も削れないし。

675 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:57:01.88 .net
>>673
ということは、4世紀末に伊都城を再建した記録があるということ。
3世紀中頃に魏の使いが見た楼閣は伊都城のものであった可能性がある。
使いが滞在したのは、その大門の目の前の伊都国なのだから。

676 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:59:26.07 .net
>>666
>魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。

こういうのを、語るに落ちる、という。

なんでミスりードをねらったんだろな。
糸島は「怡土・伊都」ですよー、ですから、倭人伝の伊都国はこのあたりだったのかもしれませんねー
と、記紀はミスリードしようとしたのです・・・、といいたいんだろ。

では聞くが、ホントの伊都国はどこにあったんだ。え、わからないってか。
そうだろな、それが明確になると困ることがあったんだよな〜。大和朝廷(と糸島市役所)は・・・。

677 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:16:30.36 .net
>>657
>この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。

時々これを書くやつがいるけれど、道里の道に「方角」という意味はないぞ
「道里」で一語

例えば、《九章算術》の《均輸》に、計算問題としてこんなのが出ている
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?

距離は全部日数で書かれているが、それを「道里」遠近と表現してるだろ?
日数書いてあっても、道里略載になるんだよ

678 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:18:24.29 .net
>>663
>いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
>地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。

おれが、九州説が大嫌いなのは、こういうところ
結論ありきで、記録にないものを「あったはずだ」「ないわけがない」と
理由にならない理由をほざいて捏造する

大嫌い

679 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:39:12.08 .net
取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。

680 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 22:56:33.92 .net
>>679
>取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。

「らしい」じゃなくてソースを出して!

681 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:10:29.89 .net
日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。

682 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:46:02.94 .net
九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。

683 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:52:51.10 .net
日本書紀の年代だと卑弥呼の時代のことになってしまうけどね!
これで高祖宮が3ないし4世紀にはあったことがわかったね!

684 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:20:02.09 .net
江戸時代の文献、しかも軍記物を持ち出してきて
3・4世紀のことが分かると言ってしまう歴史学無知

685 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:25:33.95 .net
要するにケチつけたいだけなんだろ。
君みたいなのが日本史を暗黒に塗りつぶすのだろうな。

686 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:26:37.98 .net
そのうちポツダム宣言受諾さえも信用できないと言い出すよ。

687 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 01:04:43.53 .net
ミソも糞も持ち出すバカが日本史を暗黒に塗りつぶす

688 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:52:58.42 .net
反論できなくなると、関係のないことまで持ち出して罵倒に走るよな
九州説はレベルが低い

689 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:54:05.73 .net
>>681
>日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。

そんなアホな。
役人が一生懸命、習字をしているような程度の文字文化だっただけ。  @阿波

690 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 08:20:29.19 .net
歴史とは結局のところ後世において記録したものに過ぎない。
それを否定するなら、歴史学は成り立たなくなる。
8世紀の史料は信用ならん、戦国時代の史料は信用ならん。
そのうち、昭和の史料は信用ならん、平成の史料は信用ならんとなるぞ。
現代のことでさえ、ほとんどは伝聞なんだ。

691 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 09:08:54.09 .net
↑と史料批判を理解できないチェリーピッカーが喚いています

692 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 10:57:54.01 .net
>ポツダム宣言受諾

伊都国連呼ジジイの頭の中では、
日本の敗戦と伊都説がセットなんだろうな

693 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 12:48:20.96 .net
>>690
同時代史料って知ってる?

694 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 13:34:03.91 .net
>>693
それがほとんど失われている場合は、複数の後世の史料を比較する。
伊都が倭国の王都である筑紫の日向であり、高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
それを、一つ一つの根拠がわずかであるからといって潰していけば、全体像は見えなくなってしまう。

695 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 16:07:17.63 .net
>>694
>高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。

江戸中期の九州諸将軍記にもそんなことは書いてない

696 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:04:37.53 .net
>>694
>一つ一つの根拠がわずかであるから

わずかならいいんだけど、妄想は根拠にならない

697 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:47:37.37 .net
複数の史料をつなげて書いているだけだよ。
創作した部分はほとんどない。
畿内説のテンプレよりは少ないはず。

698 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 18:59:35.06 .net
>>697
>創作した部分はほとんどない。

創作してるんじゃんww

そもそも怡土城は、奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて
「築城された」って記録されてるんだぞ?

その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
8世紀以前に、怡土城があったと考えるべき理由はないし、記録はむしろなかったと判断する理由になる

699 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:03:03.72 .net
>>698
>その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう

神功皇后が再建したという記録があるよ。

700 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:52:53.55 .net
>三韓征伐凱旋後、神功皇后は神恩に報いようと高祖神社神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。> ・・・←怡土城ではないぞ

>この地の県主・五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。>
>高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。>

どうやら糸島は、高麗人の巣窟らしい

701 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:00:25.18 .net
天皇家とこうくりが同祖だから(ぼぞっ)

702 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:03:07.19 .net
>>699
>神功皇后が再建したという記録があるよ。

日本書紀だと思うけれど、原文を出して

703 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:04:42.66 .net
>>702

九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。

704 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:06:17.74 .net
高祖宮と伊都城はほぼ同じものだろ。
大門があったのだから、ただの神社ではなく防御機能を持った施設だったはず。

705 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:20:49.40 .net
高祖神社
<伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、
高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという>

706 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:30:42.56 .net
神社と城を勝手に同一視するのは文献無視

総レス数 1001
358 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200