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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
- 629 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 12:57:56.42 .net
- >>626
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。
邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)
- 630 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 19:30:28.22 .net
- >>611
伊都国の説明だからおかしくないだろ。
- 631 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 20:33:12.61 .net
- 自動詞と他動詞の区別ができとらんな
英語はゼロ点だったろうな!
- 632 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:38:02.03 .net
- >>631
???
- 633 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 21:48:37.85 .net
- 世有王、皆統屬女王國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆女王国に統属していた。
世有王、皆統屬伊都國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆伊都国に統属していた。
- 634 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:16:52.32 .net
- >>616
>投馬国は里程が記載されていない。
>帯方郡から女王国までのルート上にない。
魏志倭人伝に書いてあるのは「自女王國以北、其戸數『道里』可得略載」であって
『里程』ではない
『道里』は日数でも表せる
投馬国は、戸数も道里も略載されているから、女王国より北だよ
- 635 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:53:44.67 .net
- 投馬国は里程が記録されていない。
郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。
- 636 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 07:56:54.19 .net
- >>634
日数を云うときは「旅程」だろ
- 637 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:20:58.56 .net
- >>636
>「旅程」
その通りだよ
「道里」というのは旅程という意味なんだから
- 638 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 12:23:13.52 .net
- >>635
>投馬国は里程が記録されていない。
>郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。
戸数と日数(道里)が、両方書かれているだろ
それに、郡使のお役目として、五万戸の倭国第二の大国はきちんと見て報告する必要があるし
そのために出雲経由のルートにしたのだろう
- 639 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:12:44.82 .net
- 投馬国は日程のみで里程の記載はない。
- 640 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 13:46:20.53 .net
- >名曰卑弥呼。。。
>有男弟佐治国。。。以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
>宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。。。
この伊都国かどこにあったのか知らぬが、
卑弥呼が住まいしていた環濠王宮の場所を教えてくれ。婢千人というからには、それなりの規模だったはず。
- 641 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 14:50:20.62 .net
- >>640英彦山
- 642 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:05:35.08 .net
- >>641
英彦山の何処にそんな遺跡があるんだ?
- 643 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:07:43.73 .net
- >>635
郡使が通過したルート上にないものを何で記載したんだ?
行ってもない所の情報をどうやって知ったんだ、超能力かw
- 644 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:13:02.95 .net
- >>640
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 @阿波
- 645 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 15:25:40.32 .net
- >>644
コザコザはよろしい、黙っとれ
卑弥呼と1000人の婢が住まいしたという環濠王宮はどこだ
今宿小学校のあたりか
それとも怡土国博物館のあたりか
- 646 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:15:18.91 .net
- >>645
発掘調査してくれ
未だ埋もれてるな。
- 647 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:49:49.19 .net
- >>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。 @阿波
- 648 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 17:57:31.77 .net
- >>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
- 649 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:01:44.17 .net
- >>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。
- 650 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:07:21.78 .net
- >>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。 @阿波
- 651 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:00.82 .net
- 怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。
- 652 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:12:36.74 .net
- >>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
- 653 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:18:59.01 .net
- >>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。
だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない
道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
- 654 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:22:03.57 .net
- >>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。 @阿波
- 655 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:24:46.16 .net
- >>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。
- 656 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:26:59.37 .net
- >>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。
- 657 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 18:59:30.49 .net
- >>656
>東至都護治所四千七百四十里、
↑
この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。
>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
↑
この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。
- 658 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:12:10.03 .net
- 怡土城
>奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、
文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。
>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
>怡土城は、奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、
及び他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡。
>>649 >>651
苦しい説明じゃのう。文献上で築城機関が特定されとるそうではないか。
明らかに時代が新しすぎるわ。
- 659 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:18:59.92 .net
- >>653
大月氏國の位置関係を説明した文ですね
大月氏國の東4740里で都護の治所に至る
大月氏國の西49日で安息に至る
大月氏國の南はケイ賓と接している
- 660 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:21:51.89 .net
- >>658
>>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
これ根拠がないいい加減な説ですね、朝鮮式山城・神籠石系山城の築城時期に付いては現在も不明ですよ。
信用ならない引用だな。
- 661 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:26:13.30 .net
- >仲哀天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。
>これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。
>今、伊都と言うのは訛っているのです。
>21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。
仲哀天皇の時代に「伊蘇(いそ)の国」と呼ぶようになり、
その後、これが訛って怡土(伊斗、伊都)などというようになったのだから、
これまた時代が新しすぎるわ。苦しいのう、、、、
- 662 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:31:37.03 .net
- 怡土は、高麗人の天の日鉾が下ったところというではないか。
なんで卑弥呼と一緒にするのか。
- 663 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:32:48.57 .net
- 奈良時代や戦国時代に築城したという記録があるだけで、いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。
- 664 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:33:16.69 .net
- >>658
天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。
とは書かれてるが新築なのか改築なのかは分からないですね。
- 665 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:36:31.92 .net
- >>660
何をおっしゃる。
ウィキを参照せよととのことだったから、参照・引用してやったのに・・・、
信用できぬのはオマイら高麗人。
- 666 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:37:00.91 .net
- >>661
神功皇后の実年代は卑弥呼より120年も後なのに、伊都の命名説話がある方がおかしい。
神功皇后の項だけはやたらと命名記事が多い。
魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
逆に言えば、奈良時代の日本人は、魏志倭人伝を九州の記事だと理解していたということ。
奈良の人たちにとって、魏志倭人伝は明らかに九州の話題だった。
- 667 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:38:30.16 .net
- >>662
天の日鉾の話はもっと後世の話。
福岡にはしばしば渡来人がやって来たというだけのこと。
- 668 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:40:55.83 .net
- 中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
福岡城のさらに下層にあったかもしれないが、筑紫の日向のクシフル山と呼ばれた高祖山であったかもしれない。
- 669 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:44:46.72 .net
- >>668
>中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
倭国(阿波)にも「筑紫城」の謂れ、あるよ。 @阿波
- 670 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:45:35.55 .net
- >>665
ウィキは参考にはなっても
そのまま信用はできないからね。
- 671 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:47:06.21 .net
- >>666
ならば、何も疑われそうなねつ造記事を入れることはなかったであろう。
伊蘇の国だったなどと言わず、
最初から伊都の国でしたー、と書けば、それで万事落着したはず。
そうしなかったのは、アメノヒボコの件は真実だったから、それを欺くようなウソは書けなかったんだよ。
- 672 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:49:05.56 .net
- 高祖神社の周りをもっと年代別に発掘調査するとおもしろいかもしれない。
目の前の三雲であれだけ発見が続くくらいだからね。
ただ、いかんせん290ヘクタールは広すぎて、予算が厳しそうだ。
- 673 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:52:00.45 .net
- そういえば、伊都城の一部とも言われる
高祖神社は神功皇后が再建したんだよね。
再建前は今の大門にあったらしい。
その大門は、伊都城の大門があったからだそうだ。
- 674 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:53:47.68 .net
- 天の日鉾も事実であったろう。
ただ、それとは別に倭国創建の説話があったということ。
卑弥呼がヤマト王権と平行する筑紫の王権だったからこそ、扱いに苦慮したんだよ。
天皇家の祖地である筑紫の日向も削れないし。
- 675 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:57:01.88 .net
- >>673
ということは、4世紀末に伊都城を再建した記録があるということ。
3世紀中頃に魏の使いが見た楼閣は伊都城のものであった可能性がある。
使いが滞在したのは、その大門の目の前の伊都国なのだから。
- 676 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 19:59:26.07 .net
- >>666
>魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
↑
こういうのを、語るに落ちる、という。
なんでミスりードをねらったんだろな。
糸島は「怡土・伊都」ですよー、ですから、倭人伝の伊都国はこのあたりだったのかもしれませんねー
と、記紀はミスリードしようとしたのです・・・、といいたいんだろ。
では聞くが、ホントの伊都国はどこにあったんだ。え、わからないってか。
そうだろな、それが明確になると困ることがあったんだよな〜。大和朝廷(と糸島市役所)は・・・。
- 677 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:16:30.36 .net
- >>657
>この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。
時々これを書くやつがいるけれど、道里の道に「方角」という意味はないぞ
「道里」で一語
例えば、《九章算術》の《均輸》に、計算問題としてこんなのが出ている
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?
距離は全部日数で書かれているが、それを「道里」遠近と表現してるだろ?
日数書いてあっても、道里略載になるんだよ
- 678 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:18:24.29 .net
- >>663
>いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
>地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。
おれが、九州説が大嫌いなのは、こういうところ
結論ありきで、記録にないものを「あったはずだ」「ないわけがない」と
理由にならない理由をほざいて捏造する
大嫌い
- 679 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 21:39:12.08 .net
- 取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。
- 680 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 22:56:33.92 .net
- >>679
>取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。
「らしい」じゃなくてソースを出して!
- 681 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:10:29.89 .net
- 日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。
- 682 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:46:02.94 .net
- 九州諸将軍記
「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。
- 683 :日本@名無史さん:2018/08/16(木) 23:52:51.10 .net
- 日本書紀の年代だと卑弥呼の時代のことになってしまうけどね!
これで高祖宮が3ないし4世紀にはあったことがわかったね!
- 684 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:20:02.09 .net
- 江戸時代の文献、しかも軍記物を持ち出してきて
3・4世紀のことが分かると言ってしまう歴史学無知
- 685 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:25:33.95 .net
- 要するにケチつけたいだけなんだろ。
君みたいなのが日本史を暗黒に塗りつぶすのだろうな。
- 686 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 00:26:37.98 .net
- そのうちポツダム宣言受諾さえも信用できないと言い出すよ。
- 687 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 01:04:43.53 .net
- ミソも糞も持ち出すバカが日本史を暗黒に塗りつぶす
- 688 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:52:58.42 .net
- 反論できなくなると、関係のないことまで持ち出して罵倒に走るよな
九州説はレベルが低い
- 689 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 07:54:05.73 .net
- >>681
>日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。
そんなアホな。
役人が一生懸命、習字をしているような程度の文字文化だっただけ。 @阿波
- 690 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 08:20:29.19 .net
- 歴史とは結局のところ後世において記録したものに過ぎない。
それを否定するなら、歴史学は成り立たなくなる。
8世紀の史料は信用ならん、戦国時代の史料は信用ならん。
そのうち、昭和の史料は信用ならん、平成の史料は信用ならんとなるぞ。
現代のことでさえ、ほとんどは伝聞なんだ。
- 691 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 09:08:54.09 .net
- ↑と史料批判を理解できないチェリーピッカーが喚いています
- 692 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 10:57:54.01 .net
- >ポツダム宣言受諾
伊都国連呼ジジイの頭の中では、
日本の敗戦と伊都説がセットなんだろうな
- 693 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 12:48:20.96 .net
- >>690
同時代史料って知ってる?
- 694 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 13:34:03.91 .net
- >>693
それがほとんど失われている場合は、複数の後世の史料を比較する。
伊都が倭国の王都である筑紫の日向であり、高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
それを、一つ一つの根拠がわずかであるからといって潰していけば、全体像は見えなくなってしまう。
- 695 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 16:07:17.63 .net
- >>694
>高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
江戸中期の九州諸将軍記にもそんなことは書いてない
- 696 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:04:37.53 .net
- >>694
>一つ一つの根拠がわずかであるから
わずかならいいんだけど、妄想は根拠にならない
- 697 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 17:47:37.37 .net
- 複数の史料をつなげて書いているだけだよ。
創作した部分はほとんどない。
畿内説のテンプレよりは少ないはず。
- 698 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 18:59:35.06 .net
- >>697
>創作した部分はほとんどない。
創作してるんじゃんww
そもそも怡土城は、奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて
「築城された」って記録されてるんだぞ?
その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
8世紀以前に、怡土城があったと考えるべき理由はないし、記録はむしろなかったと判断する理由になる
- 699 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:03:03.72 .net
- >>698
>その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
神功皇后が再建したという記録があるよ。
- 700 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 19:52:53.55 .net
- >三韓征伐凱旋後、神功皇后は神恩に報いようと高祖神社神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。> ・・・←怡土城ではないぞ
>この地の県主・五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。>
>高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。>
どうやら糸島は、高麗人の巣窟らしい
- 701 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:00:25.18 .net
- 天皇家とこうくりが同祖だから(ぼぞっ)
- 702 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:03:07.19 .net
- >>699
>神功皇后が再建したという記録があるよ。
日本書紀だと思うけれど、原文を出して
- 703 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:04:42.66 .net
- >>702
九州諸将軍記
「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。
- 704 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:06:17.74 .net
- 高祖宮と伊都城はほぼ同じものだろ。
大門があったのだから、ただの神社ではなく防御機能を持った施設だったはず。
- 705 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:20:49.40 .net
- 高祖神社
<伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、
高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという>
- 706 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 20:30:42.56 .net
- 神社と城を勝手に同一視するのは文献無視
- 707 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 22:37:54.29 .net
- 高祖神社の発祥は神代で開始時期は不明。
神功皇后が現在の大門付近に社殿を建立。
伊都城の築造時に今の場所に移された。
- 708 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 22:57:05.66 .net
- つまり怡土城と高祖神社はまったく別の施設だな
- 709 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:02:02.76 .net
- 伊都城の中心の王宮が高祖宮
- 710 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:04:10.23 .net
- 立ち退かせてるのに?
頭おかしいだろ
- 711 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:06:07.54 .net
- ウソを取り繕うためにウソを重ねる、これが九州説脳クオリティ
- 712 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:06:31.96 .net
- 今の場所も伊都城の内側、むしろより神奈備の中腹の良い立地だよ。
- 713 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:09:29.30 .net
- 妄想しか語れない憐れな伊都クズ
- 714 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:12:13.69 .net
- 史料批判なんて知りません
都合の悪い類例・用例は無視します
でも専門家のいうことよりも自分の主張が優れてます
…即入院が必要なレベルだな
- 715 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:15:21.74 .net
- 立ち退かせてるというよりは
築城の区画整理と神社大規模化だろ
- 716 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:16:24.72 .net
- >>714
典型的六拾弐病患者
- 717 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:17:41.93 .net
- 城が4世紀にあったなんて根拠はどこにもないな
- 718 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:18:56.64 .net
- 博多湾に面して、福岡と糸島を両方に睨みを効かせることができる城だからね。
弥生時代の倭国王墓に囲まれた、まさに倭国の王城にふさわしい。
- 719 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:20:43.45 .net
- ほら、根拠を明らかにせずに結論だけw
学問じゃなく自分自身を信仰する宗教だなw
- 720 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:21:07.08 .net
- 筑紫の日向のクジフル山の高千穂宮は、九州で最大級の強固な山城でした。
- 721 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:21:43.81 .net
- 伊都クズのクズたる由縁が遺憾なく示される
- 722 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:22:31.03 .net
- 反論が弱々しいな。
- 723 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:22:31.36 .net
- 歴史オンチもここまでくると病気
- 724 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:23:26.73 .net
- 論理的思考ができないガイキチさんには反論しても理解できないからね
- 725 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:23:53.56 .net
- 伊都城以外のどこに王城を想定できる?
纒向になんかそんな遺構はないもんな。
- 726 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:24:40.36 .net
- 歴史学のルールを守れない伊都クズ
- 727 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:24:50.95 .net
- 魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述も、峰々に楼閣が連なる姿だとわかる。
- 728 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:25:49.24 .net
- >>725
その質問自体がアホ
- 729 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:26:40.43 .net
- >>727
また文献無視ですか?
- 730 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:27:45.09 .net
- 妄想チェリーピッカーは最強だな
なんたって自分のおかしさに気がつかないんだから
- 731 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:28:23.12 .net
- 少し古いけどバカの壁
- 732 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:30:13.16 .net
- 伊都クズ「歴史学の方法なんて知らん!俺様が正しい!」
周囲「かわいそうに…」
- 733 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:32:36.71 .net
- 糸島は、高麗人の巣窟!
- 734 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:33:12.16 .net
- これだけ妄想が得意なら、本書いて売ってみたら?
案外、ファンタジーとして受けるかもよ
- 735 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:34:15.87 .net
- >>734
紙の無駄
- 736 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:36:19.50 .net
- 高祖は詫蘇のなまり
古代氏族の詫蘇氏はどんな氏族でしょうかねぇ
- 737 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:41:49.47 .net
- 皇祖が降臨したからじゃない?
- 738 :736:2018/08/17(金) 23:42:10.64 .net
- 訂正 詫蘇→託杜
- 739 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:46:43.94 .net
- 伊都城が、倭王墓に囲まれた立地であることは、考古学的に明らかなわけだからね。
だったら王城が必要だろ?
吉武高木は王宮だけど、そこから数百年の後だから、もっと大きな王城があって然るべき。
- 740 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:49:17.66 .net
- >>736 >>738
ググったら怡土には宅蘇氏ってのがいたんだな
姓は吉士だから完全に渡来系
- 741 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:50:15.41 .net
- >>739
妄想100パー
- 742 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:53:06.55 .net
- 嘘はどれだけ重ねても嘘
妄想はどれだけ重ねても妄想
こんなことすら分かっていない人がいるようです
- 743 :日本@名無史さん:2018/08/17(金) 23:58:46.68 .net
- いろんなスレでいい加減な知識で書き込んでボコられてるのな
それでも現状を正しく認識しないのは自己暗示が強いのか
状況を把握できないほどの馬鹿なのか
- 744 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:08:30.64 .net
- 糸島は博多湾の入り口にあり
交易や水軍の船舶の把握に優位な位置にあり
望楼のあった高祖山からは
博多湾全域が見渡せる。
軍事拠点として有効である。
- 745 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:31:24.08 .net
- 糸島は高麗人の巣窟、
軍事拠点としてさぞかし重要だったことだろう
- 746 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 00:32:26.88 .net
- 邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。
- 747 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 01:09:23.68 .net
- >>746
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
いろんなところで何度も書いているんだが、
魏志倭人伝を含め史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、
頭をひねって解釈しないと読み取れないような書き方はしてないんだよ
読み取らなければならない内容は最初から書いてない
それを読み取ったという主張は、結論ありきで結論に寄せていますという
告白に他ならない
>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが
呼びません
伊都国、奴国と邪馬台国を重ねるのは、単なる二重帳簿詐欺
- 748 :九州王:2018/08/18(土) 06:55:37.74 .net
- >>746
>>747
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
流石にそれは無理だな。それを判断するには考古学的なものに頼るさかないだろう。
>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。
伊都国と奴国が女王国の中心地であったことは読み取れますね。
- 749 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 06:56:35.41 .net
- 訂正
さ→し
- 750 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 07:37:01.92 .net
- 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
- 751 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 08:01:09.53 .net
- 746 名前:日本@名無史さん 2018/08/18(土) 00:32:26.88
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
典型的な差魏志の口上だな
- 752 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 17:24:20.54 .net
- 糸島の「高祖」の読みは「たかす」
高祖神とかの、「こうそ」とは別物
- 753 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 18:09:44.68 .net
- 意味はほぼ同じ。
掛詞だな。
- 754 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 18:12:28.89 .net
- 梯儁、張政は倭国内で報告書を作成したが検閲にあったため軍事情報等を
暗号にして挿入した。そのため、魏志は両名の記述をそのまま引用する必要があり、
交互に入れたために記述に不統一性が生じた。
まず、投馬国と対海国は発音が大体同じでツマ国(対馬)を表している。
女王国については、都市別に追うと、帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末廬国
→伊都国→奴国→不弥国という経路であり、伊都国には女王がいるという記述が
ある一方、帯方郡から南に水行20日で投馬国(対馬)、投馬国から水行10日陸行1月で
邪馬壱国に行き着くという記述が別にある。投馬国は対馬、壱岐、呼子、松浦辺りの
領域で5万戸、邪馬壱国は伊都から東部一帯で7万戸であり、女王国は島、沿岸部の
投馬国、都がある陸部の邪馬壱国という両国で構成されているということであろう。
時間差のある別々の報告書のもののため、長官、副官は異なっている。
とか妄想してみた。暗号をどう解くのかは知らね(゚听)
- 755 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 20:42:42.87 .net
- >>753
>意味はほぼ同じ。
>掛詞だな。
また適当なことをw
宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに
- 756 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 20:45:19.84 .net
- >>754
>検閲にあったため軍事情報等を
>暗号にして挿入した。
誰が、何のために、検閲したんだ?wwwww
もう、デタラメしか書けなくなったのか?w
- 757 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 21:11:34.17 .net
- >>755
>宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに
ソースは?
- 758 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 22:23:56.50 .net
- >>757
>ソースは?
Wikipediaでもこれくらい出てるよ
自分でちったぁ調べたらどうだい?
『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、
「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が
知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・
「高礒(高磯)」が関連づけられる
- 759 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 23:13:49.58 .net
- そんな後世の文書はあてになりません。
- 760 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 23:26:18.41 .net
- 糸島は、渡来高麗人の巣窟
- 761 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 00:59:26.40 .net
- >>756
誰が何のためは妄想で補完するところだよ。
自分は暗号とか関心ないし。
>>759
後世の文章が当てにならないじゃそこで思考停止
じゃん。停止したい奴は停止すればいいんだけど。
んじゃ、ROMに戻るか。
- 762 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:01:41.93 .net
- 畿内説の真似をしたまでさ。
彼らは都合よく二枚舌を使い分ける。
- 763 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:20:37.83 .net
- >>759
>そんな後世の文書はあてになりません。
何を言ってるんだ?
現代の高祖山という地名の語源を調べるのに和名抄が後世ってことはないだろ?
九州糸島説の主張では、今の高祖山はかつての日向山で怡土城であって、
古来高祖山だったとは言ってないだろうが?
- 764 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 01:22:42.78 .net
- >>761
>誰が何のためは妄想で補完するところだよ。
では科学ではないな
学問(文系)の日本史板で、妄想を論拠に出すなら、相手にされず軽蔑されるだけ
- 765 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 05:55:33.92 .net
- 伊都クズの頭の中では
平原の時代より和名抄は新しい!
と判断したんだろ
バカ丸出しだな
- 766 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:08:55.19 .net
- 和名抄は10世紀だろ
平原の時代より700年後のものだろ。
- 767 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:23:08.75 .net
- 畿内説はいつもダブルスタンダード
- 768 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 08:59:55.46 .net
- 糸島は、高麗人の植民地
- 769 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 10:11:01.08 .net
- >>766
和名抄には高祖はなく託杜
高祖の地名が確認できるのはそれより後
時系列で考えれば一目瞭然
和名抄が新しいから〜とかいう主張はアホ
- 770 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 11:45:15.19 .net
- >>767
>畿内説はいつもダブルスタンダード
そして、自分が言われて口惜しかった批判をオウム返しで書き込んで満足するw
もちろんどこがダブスタなのかという「具体的な指摘は」なしで、だ
- 771 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 11:48:08.68 .net
- >>766
>平原の時代より700年後のものだろ。
細かいことだけど、「800年」くらいだと思うよ
平原1号墓のあと3,4号墓が家族墓地の平原遺跡に作られているから、
古墳時代まで1世代以上あることが分かる
平原1号墓は、九州説のいう年代よりも古い
- 772 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 13:28:57.81 .net
- >>771
その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
- 773 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:34:15.38 .net
- 糸島は高麗人アメノヒボコの植民地
平原は、高麗人の墓場
- 774 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 14:48:39.40 .net
- 平原遺跡は中国の影響の方がはるかに強い。
- 775 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 15:32:37.71 .net
- >>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
副葬品で、細かい年代比定ができる異物はないだろ?
年代指標として一番あてになる舶載鏡は、やたら古いのが2枚だけだし
- 776 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 15:49:24.68 .net
- >>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
お墓より、重要なのは卑弥呼の時代の集落遺跡だよ。 @阿波
- 777 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 16:25:58.32 .net
- 耳璫は魏晋代以降
- 778 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:22:20.68 .net
- イト国は倭の五王のうちの1人
イト国と邪馬台国は別々
イト国の下に邪馬台国あり
- 779 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 17:25:05.71 .net
- >>778
妄想がすごいな
世有王、皆統屬女王國。を言いたいのだろうが、松本清張以来、『A統属B』を
「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが、
三国志においてそのような用例は無いということが解っている。
伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。
- 780 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:12:03.74 .net
- >>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
です、女王国が伊都国です。
- 781 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:15:17.58 .net
- >>750
明らかに間違っているのは
不彌国 福岡市東区(香椎宮) と投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
倭人伝の記述通りに進むと不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面だし
投馬国は朝鮮半島です。
- 782 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 18:33:01.12 .net
- >>781
>不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面
そこまでは100里ではとおすぐる
- 783 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:06:52.54 .net
- 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
- 784 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:08:43.70 .net
- >>780
魏略に添えばそうなるよな
- 785 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:11:44.70 .net
- >>781
ご意見ありがとうございます。
不弥国へは、魏志倭人伝の方角が若干間違っているという解釈です。
ただし、香椎宮が当時にあったかどうかがそもそも不明なので、あくまでも暫定的なものです。
あと、投馬国はすでに何度も説明していますので省略しますね。
- 786 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 19:21:59.98 .net
- >>785
自作自演、おっかれさん
- 787 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 22:43:45.96 .net
- >>780
>女王国が伊都国です。
それが二重帳簿詐欺
伊都国は女王国の端っこの方の一部で、一大率を派遣される遠地
- 788 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 22:46:05.47 .net
- で、高祖山の語源が「託杜 」、「宅蘇」だってのはいいな
- 789 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:06:16.28 .net
- ずっと後世の不確かな情報で強弁するつもり?
- 790 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:09:29.35 .net
- 託杜が存在していた時代以前には高祖が存在していた証拠ない
歴史オンチには理解できないだろうが歴史学的にはこれで決まり
- 791 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:33:14.79 .net
- まあ、上古における名称は日向山や久慈古山なんだろうからな。
- 792 :日本@名無史さん:2018/08/19(日) 23:49:57.97 .net
- >>791
どこの山が?
- 793 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:30:29.38 .net
- >>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)
- 794 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:34:16.77 .net
- 修正
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
その通りですね。
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)
- 795 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:42:00.97 .net
- 馬投國w 相変らずのチョンボジジイ
- 796 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:44:18.27 .net
- 対案
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
その通りですね。
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国(邪馬壹國)は、伊都国 奴国 不弥国の連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の宮城が置かれたのが、邪馬壹國の国内。
- 797 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:52:32.51 .net
- 女王國の位置(奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国)
筑後平野ほゞ全域
奴國
佐賀平野中部西部
不彌國
佐賀平野東部(吉野ヶ里近辺)
馬投國
有明海沿岸部筑後平野(大牟田以北)
邪馬壹國
有明海内陸部筑後平野と筑後川中流平野(北野地域)
参考
伊都國
佐賀平野中北部(嘉瀬川扇状地の北部)
- 798 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 00:55:26.32 .net
- 修正
× 筑後平野ほゞ全域
◎ 筑紫平野ほゞ全域
- 799 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 07:02:03.16 .net
- >>789
>筑紫平野ほゞ全域
九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波
- 800 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:24:38.36 .net
- >>787
邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
邪馬壹國中最大の国邑が奴國で女王国卑弥呼の都が伊都国
邪馬壹國側に卑弥呼の都が在ったから「邪馬壹國 女王之所都」と記された
投馬國には女王国の都がないってこと。
女王国とは伊都國と奴國のことである
一大率を朝鮮海峡付近の国々に置いて支配していた。
- 801 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 08:30:31.42 .net
- >>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波
- 802 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 12:05:54.79 .net
- >>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
これが通ると思ってるところがすごいな
朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ
のっけからおかしいし、最後までおかしい
コメ番もちょうど800だし、嘘八百でちょうどいいってか?
- 803 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:11:12.88 .net
- 朝鮮海峡って、対馬海峡のことか?
投馬国半島説の背景が透けて見えるよ。
やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。
- 804 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 13:20:38.28 .net
- >>803
>やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。
そんな妄想、いいわけないだろ。 九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波
- 805 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 14:22:01.24 .net
- >>803
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県
よそのスレでの確定事項だが、
日数も道里の表現として普通に使われている
つまり、投馬国の
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
も、道里、戸数が略載されている、女王国以北の国ということになる
投馬国が宮崎都万だと、北部九州説と矛盾するよ
道里が日数でもよい例示
《九章算術》[西漢 - 新] 紀元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?
各県から輸所までの日数が書かれているのを、「道里」と表現している
- 806 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 14:59:44.59 .net
- 「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
- 807 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 15:08:22.78 .net
- >>805
>よそのスレでの確定事項だが、
お前の頭の中ではそうなんだろうよ。
- 808 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 15:55:04.15 .net
- 九州説に漢文は無理
- 809 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:18:25.48 .net
- 日数しか問題文に書かれていない
その上で「道里遠近」を考えろとしている
日数が、道里と表現されていることは、漢文を習いたての中学生でも分かるぞ
- 810 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:19:58.83 .net
- >>806
>「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
《九章算術》は、大陸の国内向け文書で、夷人は出てこないよ
>>805に対するレスじゃないのかもしれないけれど、念のため
- 811 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 16:36:23.09 .net
- 「倭人も里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
- 812 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 17:22:39.74 .net
- >>802
>朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ
根拠はなんだね?君の思い込みだろ。
- 813 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 17:26:52.77 .net
- >>811
よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地は倭人からの伝聞のみ。
邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。
- 814 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:20:00.27 .net
- >>813
>よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地
基本的に認識がおかしい。
- 815 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:46:12.38 .net
- >>813
>邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。
邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?
南至投馬國 水行二十日。
官曰彌彌、副曰彌彌那利。 可五萬餘戸。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
投馬国の旅程記事と、邪馬台国の旅程記事は、
完全に構造が同じで対応関係がはっきりしている
この二つについて、異なる読み方をする人は、インチキ読みだと思えばいい
- 816 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:52:22.59 .net
- >>812
>根拠はなんだね?君の思い込みだろ。
ほらよ
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
韓条 弁辰
大國四五千家、小國六七百家
半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ
少し広げて韓全体で見ても
大國萬餘家、小國數千家
で、数万の大国はない
九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ
朝鮮半島に、五万戸の大国はないと烏丸鮮卑東夷傳そのものに書いてある
- 817 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 18:55:24.14 .net
- >>815
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月。
>自郡至女王国万二千余里。
普通は、この2文を以て、郡から邪馬台国の都までの日程及び里程と解釈するんだがなあ。
- 818 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:06:55.25 .net
- 普通は、 ×
特殊な人は、 ○
- 819 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:23:15.44 .net
- 女王国と邪馬台国は一致しないからね
北海道=札幌じゃないのと一緒
- 820 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:27:44.03 .net
- 東京から北海道まで900キロ
東京から函館まで680キロとあるからといって、
東京から札幌まで900キロじゃないし、
函館から札幌まで、220キロでもない
東京から札幌までは830キロだし、
函館から札幌までは150キロ
- 821 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:45:29.30 .net
- 女王国と邪馬台国は一致すると考えれば、万事めでたく解決するんだがなあ。
- 822 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:49:03.76 .net
- >>815
>邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?
お前は魏志倭人伝のどこを読んでいるんだ?
- 823 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:50:23.61 .net
- >>816
>半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ
それは同意するけど、
>九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ
投馬国が半島だなどと言っているのは、九州説のごく一部だ。
一緒にされると迷惑だ。
- 824 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:51:34.40 .net
- >>819
道都=札幌
くらいの意味だよ。
- 825 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 19:53:09.14 .net
- もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
つまり邪馬台国は九州にあった。
- 826 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 20:49:43.81 .net
- >>825
>もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
そんなことはどこにも書いてない
そして、仮定の話として短里があったとして、短里が76メートルとすると
九州上陸まで10000里で残り2000里は150キロほどになる
末慮国や博多湾沿岸から筑紫平野の有明海沿岸まで50キロしかない
伊都国、奴国に邪馬台国を持ってくるのは無理な数字しか出ないよ
萬二千里は女王国までであって、邪馬台国までではない
まずそこをきちんと把握しよう
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
- 827 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:09:06.16 .net
- 隋の時代には短里をやめたからだよ。
- 828 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:22:12.49 .net
- >>827
>隋の時代には短里をやめたからだよ。
短里をやめたら、萬二千里が萬四千里になるのか?
短里ってのは、15%くらい短いだけだっけ?
- 829 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:28:22.25 .net
- 一万四千里は長安からだね。
- 830 :日本@名無史さん:2018/08/20(月) 21:56:56.50 .net
- 帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までのを距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と
所要時間(20日+10日+1日(1日は1月の誤記))と
総距離(12,000里)とで3重に併記している。
旁國(奴国から奴国まで)を通過する21か国の国名と
総距離(5,000里)とで2重に併記している。
女王国から裸国、黒歯国までも同じ行程を距離(4,000里)と
時間(1年は12日を12月1と見間違えての誤記)とで2重に併記している。
陳寿は丁寧に説明している。
- 831 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:05:48.24 .net
- >>829
つまり、実測値ではない数値が使われ続けているってことだ
さすがに唐代に短里があったとは言わないだろ? 九州説でも?
- 832 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:08:03.90 .net
- >>830
>1日(1日は1月の誤記)
こういうご都合主義の捏造をしないと成りたたないのが九州説
末慮国から奴国まで1日で行けるのかい?
- 833 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 00:10:18.67 .net
- だから、唐代では記述が変わるんだろ。
- 834 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:08:59.03 .net
- 帯方郡起点が長安起点になって、2千里しか違わないってことは、
半島の付け根の方から萬二千里ってのは変わってない扱いだぞ
でも、唐代に短里や東夷伝里がないには認めるんだろ?
だったら同じ里程の魏志倭人伝でも短里なんてないんだよ
- 835 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:18:18.41 .net
- 意味わからん
勝手な謎論理を展開しても説得力ないよ
- 836 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 01:23:26.97 .net
- 「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」(隋書)
だから唐代に書かれた隋書では変ってないな
- 837 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 10:55:16.29 .net
- それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?
- 838 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 12:19:25.16 .net
- >>832
漢や三国時代は文書は木簡や竹簡に書かれていた
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
同じように一大國も一支國の誤記であろう
幾ら文字が染みても南を東とは見誤る可能性はないけどね。
- 839 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:00:21.71 .net
- >>838
>文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
でもそうすると、北部九州説の行程論と合わないよ?
末慮国から伊都国、奴国、不彌国までの陸行七百里を、
1日で踏破したという主張をするのかい?
一大率のいる伊都国も足早に素通りして?
この辺も、ウソにウソを重ねている状態になっているのに早く気づくといいね
そもそもの短里が捏造なんだから
それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?
- 840 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:08:03.25 .net
- 『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀では
十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里
普通の里なら欝陵島が40q四方(1600 km²)となってしまうが、短里なら約8q四方(約64km²)となり72.82 km²の現実の欝陵島と近い値になる。
- 841 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:14:25.29 .net
- >>839
宿泊地は伊都国だと書かれているから
末慮国から伊都国までの陸行五百里(40q)を、
1日で踏破したという主張ですけど?
時速4q/hで10時間
十分に1日で行けますよね
何か問題ありますか?
- 842 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:38:35.12 .net
- >>841
だとすると、伊都国までで終着ということになるけれど、
合計は萬五百里にしかならないよ?
残りの千五百里は関係ないってことにするのかい?
それとも、最初から萬二千里は、邪馬台国の比定地を考えるのには
意味がないというのに同意するのかい
- 843 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:40:05.58 .net
- >>840
ごめん12世紀の成立の三国史記は考慮に入れてない
- 844 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 13:48:31.31 .net
- 文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高かったら
画数が多い漢字は字が潰れまくりだな
行程で比定するのは無理だな
- 845 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 14:09:24.48 .net
- >>841
ひとつ取り繕うと、ひとつ以前の主張と矛盾するのが分かるかい?
九州説の行程パズルは、無理読みの寄木細工なんだよ
部分部分では尤もらしく言い繕っても、結局各部で矛盾する
- 846 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 14:20:50.34 .net
- 何も矛盾なんかないよ?
畿内説は矛盾を解決するために魏志倭人伝を無視しているみたいだけどねw
- 847 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 15:06:29.84 .net
- >>846
>何も矛盾なんかないよ?
これまでの九州説の主張まとめ
邪馬台国までの里程は魏志倭人伝には書いてないに対して
九「萬二千里が、邪馬台国までの里数、里数と日数が両方書いてある」
同じ旅程の里数と日数だとすると、陸行一月は北部九州ではおかしいに対して
九「一月は一日の間違いだから大丈夫」
一日の間違いだと、末慮国から不彌国まで一日で行くことになりおかしいに対して
九「伊都国までだから、一日で行ける」
伊都国までなら萬五百里、邪馬台国まで萬二千里と言っていたのと矛盾する
今のところこれには返答してないね
- 848 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:35:13.60 .net
- 思いっきり矛盾してるのを突きつけられたら黙っちゃったかな?
- 849 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:46:26.42 .net
- 予想される反論
「それ言ったのは俺じゃない。」
- 850 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 16:59:11.00 .net
- まあ、
「女王国の首都は伊都国」
「邪馬台国は伊都国奴国周辺」
「水行は帯方郡起点で、日数と里数は並列表記」
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」
って、さんざん言ってきてるからねぇ
「邪馬台国は伊都国奴国周辺」と
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」は
単純な足し算で、矛盾してるってことがすぐ分かる
これを解消するのが、島巡り仮説だけれど、
いまさら島巡り仮説を言うやつもいないだろ
- 851 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:26:04.14 .net
- >>842
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までの距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)
丁度12000里ですが。
- 852 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:27:00.28 .net
- >>850
島巡り仮説を否定する根拠は?
- 853 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:33:26.57 .net
- >>850
少なくとも、島の大きさの分は入ってないな
論じても正解は陳寿にしかわからんから、あんまり重視してないが…
陳寿は算数はできたと思うので九州説のが妥当とは思う
- 854 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:37:50.29 .net
- はいはい、自演乙
- 855 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:38:26.20 .net
- 島巡り仮説的なものが、他の地理旅程記事で見つけられたら教えてくれww
- 856 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 17:40:21.07 .net
- 島巡り仮説の欠点はね、島の大きさは、旅程としては書かれていないってことなんだ
それに、韓が方四千里と書かれているからといって、
韓を通過する旅程で書かれてもない8千里を足したりはしないだろ?
- 857 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:02:12.66 .net
- そして、島巡り仮説の最大の欠点は、そう読む必然性がまったくないこと
- 858 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:03:02.51 .net
- 島巡り仮説の存在理由が、1500里を消費すること以外に何もないからね
- 859 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:04:18.65 .net
- それと、島巡り仮説を使っても、伊都国が邪馬台国の首都にはならない
島巡り仮説を使っても、100里余るから、奴国まで行くしかない
そうすると、邪馬台国の首都は伊都国というのと齟齬が出る
- 860 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 18:22:57.21 .net
- 途中の里程の表記に「余り」があるよ。
- 861 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:28:02.06 .net
- 古田史学の会のウェブページに書いてあった文章
「このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、
つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。
この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」により、対海国(対馬・下県郡)
800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を『見つける』ことが出来たのです。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/himika26.html
『 』は私が付けた
正直だよね
『見つけた』って書いてるww
つまり、普通に読んだらそうは読めないってこと
史書に限らず、多くの文書は読む人に情報を伝えるために書かれているのだから、
暗号書や判じ物でもない限り、普通に読んで内容が読み取れるように書かれている
見つけなきゃならないような読み方は、作者・編者の意図から外れている
島めぐり半周読法は、無理読みの代表
- 862 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:29:31.36 .net
- あと、島めぐり読法を「見つけた」古田史学の会の見解では、邪馬台国は
不彌国に距離0で接してすぐ南にあるらしいよ
伊都国・奴国とは重ねないww
- 863 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 21:53:18.82 .net
- >>855
中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。
>>859
島巡り仮説を使うと伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。
>>862
古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです
島巡り仮説が正しいと考えられる分け。
@倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
行程を合計すれば12000里になるはずである
島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。
A島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。
B島巡り仮説でなく島の面積とすると現実の面積と著しく合わない。
- 864 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 22:13:17.49 .net
- https://donutsmagazine.com/interview/dj-masato/
- 865 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:29:42.16 .net
- >>863
>島巡り仮説を「使うと」伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。
語るに落ちてるねぇ
結論ありきの逆算でしかないってw
- 866 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:32:06.13 .net
- >>863
>中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。
ならば、島巡りを旅程に算入するなどという特殊事情がもしあるなら
必ずその旨明記されてるだろ?
他例からの類推や常識は通用しないんだから
つまり、注記も特記事項もない時点で、そんな読み方はないんだよ!
- 867 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:34:02.43 .net
- >>863
>古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです
どこがどう間違っているのか具体的に言わないなら、ただの難癖で意味なしだよ
島巡り仮説を教えてくれた恩人に対する礼儀がなってないなw
- 868 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:34:42.09 .net
- >>866
だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。
- 869 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:36:34.14 .net
- >>863
>?倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
>行程を合計すれば12000里になるはずである
>島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。
これはただの循環論法で、結論を理由だと言い張ってるだけ
「答えが合うように計算したら、答えがあってるから計算が正しい」
これと同じことしか言ってない
意味ないだろ?
根拠にも理由にもなってない
- 870 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:36:53.03 .net
- 結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。
それでいいじゃん。
それが魏志倭人伝の世界観なんだよ。
- 871 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:38:39.82 .net
- >>867
島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる
更に次は末廬国と伊都国の国境までが500里となり
次の100里で伊都国と奴国の国境までとなる。
- 872 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:39:43.63 .net
- >>863
>?島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
>「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。
これも大うそだねえ
島巡りをしようがしまいが、外洋航路には関係ない
島巡りをしたから到着地点が変わるなんてことはない
呼子にしたところで、伊都国は東南にはならないし、
呼子から東南方向に歩き出したらすぐに海だ
- 873 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:40:24.51 .net
- >>869
どこが循環論法なんだ?
何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?
- 874 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:42:38.84 .net
- >>872
呼子からほぼ南方向に歩き
唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ
だから東南。
- 875 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:45:05.73 .net
- >>868
>だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。
頭悪い人なのかな?
「だから」になってない
渡海経路に島巡りで距離に算入するという注記も注釈もない理由になってない
魏志倭人伝は《九章算術》のような「算書」じゃないんだから、
合計があるから計算しろという書き方はない
- 876 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:48:00.20 .net
- >>870
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。
つまり、意味のない数字だって認めるんだな?
ならば、邪馬台国の比定地探しには使えない
九州説の唯一の拠り所の行程パズルに意味はないと認めるんだね!
九州説は成立しないってことで、終了!
お疲れ様でした
- 877 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:51:27.47 .net
- >>871
>島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる
また適当なことを書いてるなw
むしろ島巡り仮説に忠実に従えば、壱岐の南岸を東の端まで航行しなきゃならないから
東松浦半島からは離れていくぞ
対馬海流でも東に流されるし、東松浦半島に着くためには思いっきり海流に逆らわないと行けない
無茶をさせるねぇ
- 878 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:54:36.14 .net
- >>876
魏志倭人伝は、九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。
畿内が出てくる余地はない。
- 879 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:10:48.57 .net
- >>874
>呼子からほぼ南方向に歩き
>唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ
またデタラメ書いてる
唐津から東に行っても伊都国には着かない
その後、北に行かないとダメ
>だから東南。
だから、東南にはならないんだよ、どうやってもな
- 880 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:12:19.38 .net
- >>878
>九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。
その「前提」は、九州説の頭の中にしかない
まあ、言ってしまえば妄想の類いだよな
- 881 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:16:55.08 .net
- >>873
>どこが循環論法なんだ?
>何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?
その萬二千里に合わせるための島巡り仮説だって白状してるじゃないか
そこで、理由と根拠が循環してるんだよ
実際、萬千三百里だったら、島の二辺じゃなくて、一辺を算入するって言うだけだろ?
結論に合わせて計算法を変えてるんだから、計算が合うから正しいなんてのは通らない
- 882 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 00:47:13.46 .net
- >>878
妄想ではないと思うよ
足し算ができれば、普通は九州説になるからね
- 883 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 01:29:42.98 .net
- 行程は九州説でも住んでるところによって読み方が違うからな
学問じゃないしお爺さんがパズルで遊ぶのはべつにいいと思う
- 884 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 04:16:01.92 .net
- >>882
足し算もできない九州じいちゃん痛ましい
- 885 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:09:00.33 .net
- ムサシは死んだ
フルタも死んだ
九州王朝説も、死んじまったのだ。。。
- 886 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:11:01.16 .net
- >>882
>足し算ができれば、普通は九州説になるからね
行程がどうこう言う前に、邪馬台国論争はとっくに決着済み。
そして、九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の参加資格は端から無し。 @阿波
- 887 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:22:33.65 .net
- どう計算しても畿内にはならないからといって、ちゃぶ台を返そうとするなよ。
畿内説の負けは確定しているんだよ。
- 888 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 07:48:12.63 .net
- 当時、九州には
半島・大陸と交流できる強大な「倭国」があり、大勢の「倭人」が住んでいた。
かたや大和は片田舎の小国で、僅かばかりの倭種が細々と暮らしているに過ぎなかった。
にもかかわらず、フルタは、
畿内大和には、すでに強大な諸国が台頭して、一大帝国を形成していた。
その対抗軸として、九州福岡辺りに弱小の女酋国家があり、支援を売るべく大陸に媚を売っていた。
それが「九州王朝」の卑弥呼であった・・・。
このようなロジックで、倭人伝を講釈しようとしていたかのように読める。
内心は、あくまで畿内大和王朝が主、田舎九州王朝は従、にすぎなかったのであろう。
- 889 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 08:41:25.53 .net
- >>875
君の方が頭悪いんだよ
「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
だから各行程距離を合計すれば12000里になる
計算の合わないことを陳寿は書かない
つまり島巡りで距離に算入するという注記が「自郡至女王國 萬二千餘里」なんだよ。
>>877
意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。
>>879
現地で確認してみてください
君の言ってることの方がデタラメだよ。
>>881
島の二辺ですよ?
>>883
パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ
倭人伝の研究を放棄したら邪馬台国論争にならない。
- 890 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 08:43:39.40 .net
- >つまり、唐代にいたっても、実測地と関係のない里程が書かれていたということで、
それを参考に比定地を探しても意味がないってことだ<
「唐代の実測」の記録はないんだから、唐代学者は、魏志の実測記録を参考にする。
当たり前の事。
大和説は、唐代の里記載の上でも、嘘つき騙しの行程パズル以外、何も根拠がない 。
- 891 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:26:10.18 .net
- >>889
韓国、北部九州は起源に関する個人研究は盛んだね
- 892 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:27:17.69 .net
- >>889
>「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
>だから各行程距離を合計すれば12000里になる
これについては、>>870 が
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。
って書いてるだろ
実測値でもないし意味のある数字じゃない
- 893 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:29:37.54 .net
- >>889
>意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。
島めぐり仮説では、島の二辺をたどらなくちゃいけないから、
壱岐の北西端について、西の辺を南下して南西端で東に向かって
南東端から南下しないといけないんだろ
- 894 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:32:33.57 .net
- >>889
>島の二辺ですよ?
それは、たまたま萬二千里と書いてあるから島の二辺としてるだけで
たまたま萬千三百里だったら、島の一辺を算入するって計算するだけだよって話
結論に合わせて二辺にしてるだけで、何の根拠もない
結論に合わせて計算してるのに、計算が合うから正しいと言い張るのはただの循環論法
- 895 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:34:49.08 .net
- >>889
>パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ
正しい読み方を「研究」する時点で、方法論として間違ってるんだよ
魏志倭人伝の「正しくないところを確認する」までならいいけれど、
「こう読んだら正しい」を言い出したら、それはただのパズル
根拠のないただのお遊びにしかならない
- 896 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 11:52:26.48 .net
- いやあ、今どき本気で島巡り仮説を主張するやつがいるとは思いもよらなかったよ
どうやっても正当性を示せない数字遊びしか、九州説の頼れるものはないんだな
改めて、九州説の追い込まれ具合が如実になったな
- 897 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:03:55.71 .net
- 「認知症の発症リスクを最も下げるものは何か」という大規模な実験が、
トロント大学のDr.Raza Naqvi率いる科学者たちによって行われて
成果を発揮したのが、パズルによる脳トレーニングだったということだから
行程パズルも悪くは無いけれども、どうしても1パターンになってしまうから
いろんなパズルをやったほうがいいと思う
- 898 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:21:12.06 .net
- >>892
どこが結論ありきなんだ
陳寿は「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いておきながら
12000里の内訳を書いてないなんて有り得ないっですよ。
>>895
矛盾ない読み方が正しいんです。
>>896
結局島巡り仮説を否定する根拠は畿内説に都合が悪いからだけですね。
- 899 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:27:02.40 .net
- >>894
方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
縦横二辺じゃないといけませんよ
魏使が通過した距離。
- 900 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:33:02.55 .net
- >>899
>方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
>縦横二辺じゃないといけませんよ
いけませんよ、という言葉こそ、問うに落ちず語るに落ちたことの証明
- 901 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:36:08.93 .net
- >>900
何で?
縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???
- 902 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 12:49:39.01 .net
- 島を通過するのにわざわざ島の2辺に沿って進むのか?
バカじゃねーの?
- 903 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 13:01:56.98 .net
- 中国史書の、地理・旅程記事は、国の中心点と中心点の間の距離と方角で示すのが基本
まあ、古代のことや、長距離になるとそこまで正確でもないけれど、基本はそういう書き方になってる
九州説のいう、国の端に着くところまで、とか、出発方向、とか、島の二辺をめぐる、とか
いうのは全て、他例を一つも挙げることなく、結論ありきからの逆算を、こう読めば正しいと
言い張っているだけの循環論法
決して正しいことを客観的論理的に示すことのできない牽強付会の強弁に過ぎない
- 904 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 14:30:27.12 .net
- >>901
>縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???
航路の途中の島の横を通るのだから、一辺の長さを加えるのが当然でしょ???
と何の差異もないんだよ
要するに、如何様にでも説明は付けられる
それを結論からの逆算で、二辺としているだけで合理的な理由は何もない
今余っているのが1500里だから、二辺と言っているだけで
余っているのが800里だったら、「それぞれの島の1辺を加える」っていうだけだよ
- 905 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 14:56:37.91 .net
- >>903
中国は大陸国家ですから島から島への旅程記事の例がないだけ。
>>904
今の航海なら島に近づかずいて航海する必要はないが
昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある
数学に強ければ正確に距離を算出できるけど
計算できなかったので簡易的に二辺としているだけ。
- 906 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:02:52.48 .net
- >>905
>昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある
こんなこと書いていて、恥ずかしくならないの?
- 907 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:09:20.59 .net
- 仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
おかしいと思わないのかい?
渡海千里3回は、全て、南方向で書いてある(最後は明記はしてない)
朝鮮半島の海岸沿いのときは乍南乍東ときちんと、東にも行くことを明記している
島の二辺で、南側を東に行く行程が書いてないのはどうしてだ?
島に沿って南にいくなら、一辺分だけの方が筋が通ってるじゃないか?
どちらにしても、島めぐり仮説ってのは「九州説ってこんなバカなことを
根拠にしてるんだぜ」という文脈でしか、言及されないものだと
早く自覚できるといいね
島めぐり仮説で検索をかけてごらんw
- 908 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 15:11:59.32 .net
- >>907の補足
「仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
おかしいと思わないのかい? 」
もう少し分かりやすく書こうか
外洋船なんだから、外洋から目的の港につけて、目的の港から出航するだけだよ
島を半周する必要はない
- 909 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:11:29.62 .net
- 島の2辺を加えた場合、海峡間水行は4400里になるんだけど、
里数と日数の重ね読み案では
水行を1日千里として「水行十日」を郡からスタートにして
1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?
- 910 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:14:45.28 .net
- 「水行10日、陸行1月」っていうのは、水行の後に陸行したという意味じゃ無くて
水行したり、陸行したりした、それぞれの合計日数らしいよ
- 911 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:20:27.80 .net
- >>908
外洋船と言っても沿岸航海ですから
陸地の見える範囲内での航海
海峡の一番狭い所を渡り最寄りの港に入港して次の港へ
必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。
>>909
海峡間水行は4400里でここを10日で渡った
>1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?
私は知りません、別の人が言ったことでは?
- 912 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:22:34.44 .net
- >>910
どこからどこまでを「水行十日陸行一月」したの?
九州説は人によって違うんだけど
- 913 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:27:02.16 .net
- >>911
水行二十日の投馬國を朝鮮半島な
九州説でも特殊な人間だけだよな
- 914 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:54:18.88 .net
- 投馬國を朝鮮半島側に比定してるのは朝鮮の人なんだろうけど
糸島側の遺跡のことはあるていど日本人の九州説も知ってるから
朝鮮半島側の5万戸の領域の遺跡を提示して九州説とは別名の説にしたほうがいいよ
九州説としてレスすると会話が紛らわしい
- 915 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 16:58:36.64 .net
- >>913
倭人伝の記述に従えばそうなる
水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)
更に水行十日陸行一日(月)、5000里で邪馬壹國(伊都国、奴国)
- 916 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:00:09.94 .net
- >>914
生粋の熊本県民ですw
- 917 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:04:36.53 .net
- >>915
なぜ「水行十日陸行一月」の後の「日」だけ字が滲んで「月」になったの?
中国の竹書に書かれた他文献の「月」も「日」が滲んでるという説?
- 918 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:12:09.79 .net
- >>916
熊本駅西側もコリア系がけっこう多かったみたいだけど
北部九州側の7万戸に2万戸も含まれてるなら
朝鮮半島側と九州側とどっこいの領域だな
朝鮮半島側の倭国の投馬國遺跡群を提示してよ
- 919 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:14:34.74 .net
- >>915
総時間を示すのに水行が二回も出たらまずいだろう。
読み方が違うんだよ。
- 920 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:15:37.97 .net
- 無茶いうな
- 921 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:20:07.44 .net
- >>915
>水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)
ここでも二重帳簿詐欺をするのか?
狗邪韓國と投馬国は別の国だろ?
それに狗邪が倭人の国だったら、狗邪倭国だろうに
狗邪韓國は烏丸鮮卑東夷傳の弁辰にある弁辰狗邪國だろう
そして、弁、辰韓、合二十四國のうち、大國四五千家、小國六七百家だから、
半島南部にはどうやっても五万戸の国は入らない
半島南部投馬国説は成り立たない
- 922 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:22:06.74 .net
- >>911
>必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。
そういう妄想はいいから
対馬や壱岐の、「島の北の港」遺跡なんてないだろ?
- 923 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:22:21.10 .net
- 今後は九州説と区別するために名称を熊コリアン伊都説にして
朝鮮半島の考古中心の研究が課題だな
- 924 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:26:07.90 .net
- よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな
つまり
投馬国
「南至投馬國、水行二十日」「可五萬餘戶」
邪馬台国
「南至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月。」「可七萬餘戶」
で両方とも、道里、戸数が略載されている
つまり、投馬国は自女王國以北、其戶數道里可得略載の中に入る、
邪馬台国より北の国
北部九州説はここで破綻する
- 925 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:29:41.08 .net
- >>924
>北部九州説はここで破綻する
とっくに「其山有丹」で破綻してるよ。 @阿波
- 926 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:35:23.91 .net
- >>917
隋書の月も日だろうな。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」
- 927 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:40:45.31 .net
- >>924
>よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな
詐欺師
- 928 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:41:25.84 .net
- >>926
唐の時代のも月も滲んでるのかw
熊コリの課題は半島の考古と滲んだ月の収集
- 929 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:44:21.65 .net
- >>921
狗邪韓國と弁辰狗邪國が同じ国だとの根拠はない
単に名称が似ているから同じじゃねえってぐらい。
入らないってのは思い込みです。
>>922
港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。
>>924
邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。
- 930 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:54:23.83 .net
- >>929
狗邪韓国は船がつけるくらいの小さな港町だったんだろうなあ。
5万戸の領土なんかじゃないよなあ。
リアス海岸にへばりつく集落だろうな。
つまり投馬国は宮崎。
- 931 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 17:58:25.39 .net
- >>930
宮崎の次は?
- 932 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:40:22.48 .net
- >>927
>詐欺師
あーここに出たか
反論一つできないときの、根拠なしの一言レス!w
《九章算術》[西漢 - 新] 公元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?
各県から輸所までの、日数が書かれているのを、「道里」と表現しているのが分かるな?
「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる
「道里」は「里数」とは限らない
- 933 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:41:20.39 .net
- >>929
>港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。
つまり実証もできないものを勝手に言い張ってるだけの根拠なしってことだな
- 934 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:42:13.00 .net
- >>929
>入らないってのは思い込みです。
つ大國四五千家、小國六七百家
五万戸の大国はない
- 935 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 18:43:29.08 .net
- >>929
>邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。
いくらそんな二重帳簿詐欺をしても、今度は可七萬餘戶が矛盾する
北部九州説は、無理矛盾だらけを強弁しているだけ
- 936 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:01:06.27 .net
- >>932
>「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる
東夷の人は道里を知らず、日を以て計るのみ
倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ
よって、やむを得ず、道里の代替に日数を以て示したのだ
- 937 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:05:21.51 .net
- >>936
>代替に日数を以て
日数を以って道里を略載したんだろ?
何も問題ないな
里数を知っている漢土の県の話でも、輸所までの道里を日数で普通に表してるんだから
何も問題のない、普通の表記法ってこと
つまり、投馬国は「自女王國以北、其戶數道里可得略載」の国
- 938 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:10:51.04 .net
- 島巡り合算て古田君の真骨頂やな?
まあ個人的には眉唾やけど(ごめん
ただし東夷伝には方◯◯◯里が国同士の位置関係距離感表現するにあたり重要な因子やな?
夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。戶八萬
高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千
挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。
陳君の島ふたつの方◯◯里表記の意味これ如何に?
つうか2辺たすと満二千どこや?出雲?
- 939 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:15:05.45 .net
- ダックは卑弥呼さんと邪馬壱切り離せば正解なんやけどな(残念や
- 940 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:20:17.61 .net
- >>937
里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ
やっぱり倭人も、そこを理解できないんだなww
- 941 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:29:00.27 .net
- あーそうか
厳密には千里は渡海距離やね?
島巡り分は別かもなー
ただし伊都は伊都で卑弥呼さんの都で邪馬壱ではないなー
- 942 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:29:15.55 .net
- >>936
>倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ
「夷人不知里數」隋書
夷人(倭人)は里数を知らない
- 943 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:40:49.04 .net
- >>926
「其南海行三月 有𨈭牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
これも日の誤記だな。
- 944 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:41:14.15 .net
- お?
ダックの技決まったな?
1本!それまで!
- 945 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:43:26.25 .net
- >>943
それはどうやろ?ご都合主義や?
- 946 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:44:27.27 .net
- >>934
投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。
>>935
可七萬餘戶の邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
- 947 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:44:54.17 .net
- 【ヒトラーも、ユダヤ】 トランプ大統領、ペンス副大統領「キリスト再臨の為にイスラエルは造られた」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534902628/l50
ほら、やっぱり陰謀論の言う通りだ
- 948 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:45:55.02 .net
- 隋書て信濃まで旅行しはったやつやろ?
- 949 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:45:59.33 .net
- >>945
朝鮮半島から𨈭牟羅國(済州島)へは3日もあれば渡れるよ。
- 950 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:46:36.65 .net
- >>943
>里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ
《九章算術》《均輸》 の問題は、最初から最後まで日数
代替品とかではなく、道里遠近そのものが日数
道里というのが、今でいう距離とほぼ同じ意味の熟語として使われてるんだよ
- 951 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:49:52.50 .net
- >>938
>夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。
夫餘は、長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と東は挹婁と西は鮮卑と接し着たには弱水がある
方は二千里ばかり
二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど
- 952 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:50:55.32 .net
- >>946
>投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。
それ、どの辺?
半島南部には、そんなに広い平野部もないんだが?
- 953 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:51:51.31 .net
- あー
済州島の話でしたか
なんか勘違いしてた(ごめん
- 954 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:52:19.05 .net
- >>946
>旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
其餘旁國遠絕、不可得詳。って書いてあるんだから、人口の分からない国がいくらあっても
邪馬台国の人口は分からないだろ
- 955 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:52:54.69 .net
- >>950
>夷人(倭人)は里数を知らない
↑
これが目に入らぬのか
おぬしもノー天気なやからだ
- 956 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 19:55:01.61 .net
- >二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど<
ん?
島巡りの舟の話ちゃいますよ?
少し考えてからレスしはったらえええよ?
- 957 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:01:58.58 .net
- 済州島に5万戸も入らないよ。
宮崎平野くらいなくちゃ。
福岡平野と筑後平野と佐賀平野を足した邪馬台国が7万戸なんだから。
- 958 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:05:08.96 .net
- >>955
>これが目に入らぬのか
>おぬしもノー天気なやからだ
それ、話題の本筋からずらされてるから
今話題にしてるのは、大陸の紀元前の算書で、
日数が普通に道里として書かれていること
- 959 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:06:29.28 .net
- >>956
>島巡りの舟の話ちゃいますよ?
>少し考えてからレスしはったらえええよ?
もちろん、島めぐりの船の話と違うよ?
国の間の距離は、国の中心間の距離で書かれてるってこと
方二千里とかは関係ない
- 960 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:07:43.22 .net
- >>954
だから"可"の記述なんだろうよ
- 961 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:13:25.33 .net
- >>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ
- 962 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:21:56.59 .net
- >>961
この爺さんは何が言いたいのかわからんな
- 963 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:27:04.26 .net
- 漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す
- 964 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:40:20.97 .net
- >>963
>漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
>夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す
それでいいよ?
日数を「道里じゃない」とか言う人がいるから、それを確認してるだけ
- 965 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:43:54.90 .net
- 続>>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今(5ちゃんで)、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ
- 966 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:46:05.97 .net
- >>965
だから何?
- 967 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:46:25.20 .net
- >>959
まあ落ち着いて下記読みなはれ
玄菟と夫餘と挹婁の関係に絞ってみた
中心同士やったら玄菟と挹婁が二千以下になって夫餘の方可二千里が収まらん?
夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西
挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。
- 968 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:52:17.93 .net
- >>966
結局、おぬしも東夷の倭人の血筋だったってことよ。最後まで言わすな!
- 969 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 20:56:34.09 .net
- >>968
うん、それで何?
- 970 :967:2018/08/22(水) 20:58:29.12 .net
- 国境がひしめきあってない世界やったらお互いの辺境同士の距離表現かもよ?
- 971 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:01:22.06 .net
- >>957
宮崎平野にも5万戸も入らないよ。
- 972 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:07:49.40 .net
- 7万戸は出雲か吉備か河内やな?
狗奴国が吉備から近江が有力やから出雲に一票
- 973 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:36:50.04 .net
- 出雲は倭種
吉備、河内は裸國 黒齒國。
- 974 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:41:56.06 .net
- 投馬国は出雲
大牟田、南関あたり?から南が狗奴国
- 975 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:49:19.18 .net
- 卑弥呼さんのときは女王国は筑紫目線だから出雲も渡海千里の倭種や
でも陳君や壱与ちゃんの時は押しも押されぬ邪馬壱となるんよ?
- 976 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:39:14.61 .net
- >>973
>裸國 黒齒國。
実在しない伝説の国を、日本列島上に置こうとする人はトンデモ
- 977 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:44:16.01 .net
- >>975
>邪馬壱
これ、なんて読むの?
日本では、万葉集をはじめ、記紀の中の歌も含め上代の日本語が伝えられているが、
上代に母音の連続する言葉はないそうだよ
「邪馬壱」で何て読むつもり?
- 978 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:45:33.85 .net
- >>968
そうやって、投馬国が戸数道里が略載されている国だってことから
話をそらそうとしてるんだろ?
- 979 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 23:46:16.55 .net
- 壱にもトの音があるそうだから、ヤマト
- 980 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:44:17.65 .net
- >>979
>壱にもトの音があるそうだから、ヤマト
では邪馬台国(ヤマト国)で何も問題ないなw
- 981 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 00:52:49.21 .net
- 倭と書いてヤマトと読み、九州北部から日本海沿岸にかけてのこと。
- 982 :975:2018/08/23(木) 05:52:09.69 .net
- >>977
おはようさん
倭人がヤマネいうてたのをききとらんかったんやろ
出雲市山根(わりとマジレス
- 983 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 08:38:48.22 .net
- >>976
「去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
女王を去る4000里また裸國、黒齒國がある、また在る場所はその南東に船行で一年くらいで至るか。
この船行一年は船行十二日を船行十二月と見誤ったものであろう
距離で4000里、約320q、船で十二日の所に裸國、黒齒國がある
裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。
- 984 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 11:09:41.10 .net
- >>983
>裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。
むちゃくちゃ書いてるなw
黒歯国、裸国辺りは、魏使からの報告ではなく淮南子墬形訓からの情報
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「K齒民」、玄股民、毛民、勞民;
倭国が東の世界の端で、そこから
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」がある
- 985 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 14:45:00.73 .net
- 日本人じゃないからな
- 986 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 15:32:28.38 .net
- >>984
裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。
- 987 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 16:45:31.68 .net
- >>986
>裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。
実体がないのに、拝借も何もないだろうに
そうまでして、自分の非を認めるのがいやなのかい?
- 988 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 16:49:49.28 .net
- フランス学者のピエール・ユアール(Pierre Huard)とモーリス・デュラン(Maurice Durand)によると、
東アジアにおけるお歯黒文化の範囲は
「南はインドネシア、東はソロモン・マリアナ諸島、北は日本、西は中国南部とインド南部である。
インドシナではこの習慣は北緯 25 度 35 分を超えない」という。
ベトナムの考古学者はホン河・マー河流域におけるドンソン時代(紀元前第 1 ミレニアム)の遺跡で
黒く染められた人骨歯牙を数多く見つけた。
ドンソン文化とほぼ同時期の中部ベトナム平野部を中心に、
甕棺葬と、有角式や双獣頭式の玦状耳飾りを指標とし、
各種の鉄器、紅玉髄や瑪瑙、そしてガラスビーズを伴うサーフィン文化が確認されている。
- 989 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:43:50.69 .net
- >>988
いろいろ書いてくれてるけど、弥生時代の日本にお歯黒文化が
あったって話にはならないよね?
吉備河内が裸國 黒齒國という>>983は、トンデモだろ?
- 990 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 17:51:08.86 .net
- >>989
まあ、あったとしたらベトナムの紀元前の遺跡で見つかっている文化と共通性がある
北部九州甕棺分布地域には一部あった可能性はなくはないだろうね
- 991 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:01:26.06 .net
- 日本のお歯黒文化はいつ始まったんだ?
- 992 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:07:24.25 .net
- 調べたら、古墳時代にはお歯黒があり、遺体や埴輪に痕跡があるのだそうだ。
少なくとも3世紀半ばにはあったとさ。
鑑真が奈良時代に持ち込んだ技法が優れていたが、それより前から風習そのものはあったとのこと。
- 993 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:09:38.13 .net
- キナイコシの「ないない」主張がまた始まった。
- 994 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:14:01.00 .net
- >>992
6世紀の東大阪の大藪古墳だな
『和名類聚抄』には、「歯黒国、在東海中、其土俗以草染歯、故曰黒歯 俗云波久路女」
と記される。
- 995 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:28:28.21 .net
- ただ、一次情報がない
ポーラ化粧品のウェブページですら、
「縄文時代の古墳から発掘された人骨や埴輪に、お歯黒の形跡を見ることができます。
3世紀末に記された中国の『魏書』(通称:魏志倭人伝)に
「黒歯国東海中に有り」と記載されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺えます。」
などと書いてあり、「縄文時代の古墳」とか、「3世紀」の典拠が結局魏志倭人伝だったりとか、
みんな、どこかで読んだことの二次情報ばかり
埴輪、鉄漿で検索しても、鉄漿を表現していると考えられる埴輪はヒットしない
- 996 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:35:26.06 .net
- ありがとう
大藪古墳、調べたよ
「北側の棺内に5体、南側の棺に2体、玄室前部に1体、羨道(せんどう)部に3体以上、
計11体以上の人骨が埋葬されていた。石棺内の人骨は、追葬の際、先葬者の遺骨を
集めて収納したものと認められ、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)における
多人数埋葬の一つのあり方を示すものとして有名。
『形質人類学者島五郎の鑑定』によると、
熟年・壮年期の人骨10体のうち6体までの歯牙(しが)には
黒色彩色が施されていた『らしい』。」
どうやら一次情報はこれだけみたいだね
島五郎先生は、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学医学部)の解剖学の教授で
「高松塚古墳出土人骨の研究」をした人だそうだ
大藪古墳以外の、古墳時代の鉄漿の例はどうやら見つからないようだね
大藪古墳は古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)
3世紀っていうのは、先のポーラ化粧品のページのような、伝聞だけのようだ
- 997 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:38:05.88 .net
- 日本に黒歯国があったっていうのは、やはり無理だろう
魏志倭人伝でも「又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」と
倭国から遠く離れた国として書いてるんだし
- 998 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:39:02.13 .net
- >>993
>キナイコシ
糸クズ「キナイコシ」はこんなところにも湧いてるのかww
- 999 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 18:48:10.84 .net
- 倭国(九州)から遠く離れた黒歯国(大阪)だけの習慣だったのかもね。
- 1000 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 19:05:15.53 .net
- 卑弥呼さんの都が伊都で壱与ちゃんの都が出雲の邪馬壱だったことを御理解頂きました?
1000ゲット?
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