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【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】

1 :岡崎前門主:2019/02/05(火) 22:38:00.09 .net
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。

前スレ【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1474548493/

2 :日本@名無史さん:2019/02/05(火) 22:41:55.16 .net
>>1
スレ立て乙

3 :日本@名無史さん:2019/02/06(水) 12:34:16.45 .net
>>1


4 :日本@名無史さん:2019/02/06(水) 15:54:05.84 .net
後南朝は最近、人気が上がってきた
もうすぐブームになる

5 :日本@名無史さん:2019/02/06(水) 19:43:32.49 .net
昨年は教尊がブームだったが、今年は出羽王がブームになるよ

6 :日本@名無史さん:2019/02/06(水) 22:55:11.88 .net
南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

前スレのこれらの史料に現れる「南方の宮」「出羽王」「王」の関係について
今一度考察する必要がある。

7 :日本@名無史さん:2019/02/07(木) 23:22:26.77 .net
「南方の宮」は山名宗全との関係から、西陣南帝の可能性がある

8 :日本@名無史さん:2019/02/08(金) 19:41:00.73 .net
西陣南帝の弟宮の可能性もあるよ

9 :日本@名無史さん:2019/02/09(土) 17:23:55.73 .net
南方の宮≒西陣南帝は、西軍を放逐された後、都を離れて、次第に遠くへ
移されていったということになるね
寺院に入れて出家させるなどではなく、なぜ地方へと移されていったのか?

10 :日本@名無史さん:2019/02/09(土) 17:32:25.59 .net
>>9
また飛躍してる

西陣南帝或いはその弟に推定されるのは越前に送られた奴だけ
それ以外の「出羽王」や「王」は誰なのかすら解らない

何でもかんでも西陣南帝にするな

11 :日本@名無史さん:2019/02/09(土) 17:35:25.13 .net
西陣南帝は父親すらはっきりしない
父親と弟がいたらしいが、父親が誰の血筋なのか不明
自身で小倉宮の子孫だと自称してただけ

だが、小倉宮は島流しになり断絶してるからな(墓もあるし)
南朝系の他の主要な皇族も、仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実

12 :日本@名無史さん:2019/02/09(土) 17:35:56.91 .net
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                               |    
                                               −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、そのまま隠岐で死亡というのが史実だが、
当時の 文書等から西陣南帝に無理矢理系譜をつなぐとこうなるが、非常に怪しい。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       そのまま隠岐で死亡。墓も隠岐にある。

13 :日本@名無史さん:2019/02/10(日) 09:01:30.44 .net
小倉宮流が、聖承じゃなくて、恒敦の庶子ってことは?

14 :日本@名無史さん:2019/02/10(日) 10:46:49.92 .net
>>10
出羽王や「王」は、西陣南帝ではない可能性が高いと、自分も思う
だが、西陣南帝(南方の宮)が、都から越後、越前と移動しているのは何故だろうか
西軍の御輿として用済みになったのなら、出家させて寺に入れるだけで十分な気がする

15 :日本@名無史さん:2019/02/12(火) 19:37:04.08 .net
西陣南帝は今後もカードとして使えるから、いったん地方へ退避させて
保護したんでしょう
結局使えないまま、地方で人生を終えてしまったのでしょうね

16 :日本@名無史さん:2019/02/12(火) 20:28:10.59 .net
越前だったら西管領(西軍の管領、斯波義廉)の領地だから、分からなくはない。

もっとも、宗全が南帝を担ぎ出そうと目論んだときの反対派筆頭が義廉なんだけどな。


高野山付近というか紀伊北部やら大和の一部やらが後南朝支持勢力の根城みたいな場所だから、そこに流れるのもわからんではない。

しかし東海地方から先は西軍の勢力も少ないし、西陣南帝とは無関係なんじゃないかなあ
斯波家領のうちでも尾張やら遠江は越前より西軍不利だったし(特に尾張)、東海地方でもっとも活動的だった西軍拠点、美濃斉藤妙椿は京都に出向いてないだろ

駿河以東は東軍勢力しかいない。(伊豆から先や甲斐は応仁の乱と無関係な関東勢だけだし

17 :日本@名無史さん:2019/02/16(土) 14:25:31.73 .net
越前に移動した「南方の宮」は西陣南帝、高野へ向かった「出羽王」は後南朝の
皇族が拠点へ帰ったのか、高野山で出家したのだと思う
一方、「東海」「甲斐」「相模」へ向かった「王」は、非常に不可解に感じる

18 :日本@名無史さん:2019/02/16(土) 15:02:53.19 .net
拠点へ帰るって、後南朝の皇族の大半は京都近郊で生まれ育ってるのに、どこへ帰るんだよ

19 :日本@名無史さん:2019/02/19(火) 20:11:14.84 .net
地方に所領を持っているから、所領に帰ったのではないの?
応仁の乱の影響で京都に住めなくなったんだろう

20 :日本@名無史さん:2019/02/19(火) 20:32:39.61 .net
後南朝以前に南朝末期ですらろくに所領なんて持ってなかったのにかよ

21 :日本@名無史さん:2019/02/20(水) 04:11:23.72 .net
所領なんて無いよ 昔はあったけど幕府に没収された
小倉宮(聖承)なんて伊勢で北畠と反乱起こしたものの北畠が敗れたので、幕府と和睦して京に戻ったが、生活は苦しく餓死寸前だったとまで伝わっている
和睦条件として幕府が各守護に小倉宮(聖承)の生活費を出させるという事だったが、各守護は金を出さなかった
小倉宮(聖承)は騙された訳だ

22 :日本@名無史さん:2019/02/20(水) 18:42:14.11 .net
没収もなにも、南北合一の時点で所領の大半は失われててすっからかんだったじゃん

だから、所領に帰ることは有り得ない。誰かスポンサー見つけて養ってもらう道しかない。

23 :日本@名無史さん:2019/02/20(水) 21:27:18.63 .net
降参半分の法とかあったんだし、江戸時代になっても「鎌倉時代に地頭だった一族の子孫だから」と素浪人、どころかお尋ね者を地域で匿って生涯飯も喰わせてやったという例もある。

もとの所領で横領されてても、餓死しないくらいの地縁はあったんでは?

24 :日本@名無史さん:2019/02/20(水) 22:38:20.91 .net
横領っつかさ

普通の所領って、上から本家、領家、(現地の人、呼び名多数)の三段階ある、重なってるんだ
天皇家は本家職として領有してるので、その下の領家としか交流してないはず
この領家が離れちゃったら、現地の人との交流が元々乏しいから、どうしようもないのではないかな

25 :日本@名無史さん:2019/02/20(水) 23:22:22.44 .net
どうなんだろうか?この時代の所領紛争の解決策として地方中分みたいな方法が機能してたってことは、領家もそれなりに地元民との接触があったってことだよね?本家は全く遊離してたと決めつけて良いのかな?
あと、世襲宮家なら領家として得分を得ることもあるんでは?

26 :日本@名無史さん:2019/02/22(金) 20:17:12.59 .net
西陣南帝は紀伊あたりに所領があったと考えられる。
本拠地に近いからこそ、紀伊で挙兵したのだし、畠山義就の所領と近かったとも言われる。
小倉宮、岡崎前門主から相続したのではないか?

27 :日本@名無史さん:2019/02/22(金) 21:29:48.67 .net
所領とかじゃない

河内南部、大和南部、紀伊の一部あたりにかけての地域に南朝支持勢力の残党が生き残ってただけだ
特に大和の守護(みたいな役割の存在)たる興福寺の二大派閥が、一方が北朝系、他方が南朝系に別れて長く争っていたにもかかわらず、
南北合一後も滅ぼされず存続してることの影響は大きいだろう

越智とかバリバリの南朝系だったのに戦国時代まで存続してたわけじゃん

28 :日本@名無史さん:2019/02/23(土) 03:49:57.45 .net
>>26
所領なんてない

幕府が南朝系を出家させ断絶する方針になってからは、出家と同時に所領の相続権も召し上げてるから

29 :日本@名無史さん:2019/02/24(日) 10:07:01.89 .net
西陣南帝が紀伊で挙兵したのは、紀伊の後南朝支持者に擁立されたからだろう
応仁の乱に乗じて、西陣南帝を旗印に南朝復興を狙ったものと見られる
勢力自体はそれほど大きくなかっただろうが、このころはまだ後南朝を支持する
勢力が一定の割合で残っていたことを伺わせる

30 :日本@名無史さん:2019/02/25(月) 00:16:37.07 .net
西軍に担がれて上洛したのが後南朝にとどめを刺したというか
大和や紀伊の在地勢力は求心力を失って瓦解したように見える

31 :日本@名無史さん:2019/02/25(月) 01:08:31.14 .net
担いだ連中にとっての敵対派閥が東軍側についてたから、挙兵するなら西軍につくしかなかったんだろうがな
挙兵する前から死に体だったから、挙兵してなくてもどうせ消滅してたよ
そんな状態だからダメモトで挙兵して、やっぱりダメだったってだけ

32 :日本@名無史さん:2019/02/26(火) 12:48:45.27 .net
上洛して西軍の陣中に入るのではなく、吉野に御所を置いて本拠地とし、紀伊・大和に
勢力を築いて地盤を固めるべきだった
その上で、西軍に勅使を送って、連携を呼びかける作戦を取ればよかった

33 :日本@名無史さん:2019/02/26(火) 22:23:54.59 .net
さすがに応仁の頃にもなると吉野周辺含め大和にも紀伊にも河内にも、
さほど多くの南朝シンパは残ってないな

地盤を築き上げる前に鎮圧されて終わってただろうさ
紀伊の山奥で細々とだったから鎮圧されてなかっただけじゃないか?

34 :日本@名無史さん:2019/02/27(水) 05:44:31.76 .net
南朝や後南朝が善政をしいていた訳でもなく、むしろ重税だったろう
十津川とかで後南朝に対する反乱もおこってるんだよね
名著「闇の歴史後南朝」に書いてあったよ

末期には地域住民の支持も失っていたのだろう

35 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 01:19:02.17 .net
>>33
鎮圧しようにも有力大名がみんな京都から動けないし、地方で反乱を起こすにはいいタイミングじゃね?
留守番部隊にプチってされるレベルだったらどうしようもないけど。

36 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 12:05:04.92 .net
たしかに、大名の軍勢で大規模鎮圧が必要なほどの盛大な挙兵には適切な時期だっただろう
問題は、それほどの規模で味方を集める力がなくなって久しかったこと
元々対立してた敵対勢力だけで鎮圧可能とはいかないだろうが、せいぜい接戦を繰り広げるのが限界だ
小競り合いで一進一退のまま、勢力拡張もできないので地盤固めがすすまない

37 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 12:56:03.29 .net
後南朝直轄の禁裏軍だけでは、せいぜい1万騎が限度だからな
伊勢北畠、浪岡北畠のほか楠木、名和などの近臣の加勢を受けたほうがよかった
そうすれば、南近畿で一定の勢力は築けたかも知れない

38 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 13:18:03.27 .net
一万騎?! まじで?!

この時代一万騎動員できるなんて将軍家か、あとは全盛期の鎌倉公方くらいだろ・・・

39 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 17:44:00.21 .net
俺の家は家紋が大中黒なんだけど由来が分からない
少なくとも元禄から使用しているようなんだが(墓石から)
一時期、新田関係の文献を片っ端から調べたことがあったが、
一族にも家臣にも該当する苗字はない。

推測立つ人いませんか?

40 :日本@名無史さん:2019/02/28(木) 23:23:09.06 .net
せめて苗字晒してよ。
家紋だけでは・・・

41 :日本@名無史さん:2019/03/03(日) 06:38:14.45 .net
詐称だろ 察してやれ

42 :日本@名無史さん:2019/03/03(日) 21:27:30.79 .net
西陣南帝はなぜ西軍の陣中に入ってしまったのか?
西軍に加勢するのはいいが、もう少し距離を取っておけばよかった。
勅使を通じて、東軍追討の綸旨を発給するだけで十分だったのではないか?

43 :日本@名無史さん:2019/03/04(月) 07:00:11.64 .net
>>42
結構、大事な観点かもしれないな。
つまり、この時代の後南朝天皇は、書状だけではだれにも価値を認めてもらえないレベルだったということ。
仕方なくみずから出陣して、権威を見せようとしたが、実際に姿を見ると、「誰?この田舎山賊?」
ってレベルで誰も支持してくれなかった、と。
見た目からして天皇だなんて誰にも信じてもらえないレベル、かつ証拠になるような物も提示できなかったんだろう。

44 :日本@名無史さん:2019/03/04(月) 07:29:27.09 .net
東軍が帝を担いだから体よく取り上げられただけだろ
誰も後南朝の権威や勢力に期待なんかしてない
足利尊氏のころと一緒だよ

45 :日本@名無史さん:2019/03/09(土) 09:21:37.23 .net
西陣南帝はどんな出で立ちで西軍の陣中に入ったのかな?
天皇であるならば、衣冠束帯して、周囲に女官や蔵人が近侍していたはずだが、
それでも天皇に見えなかったのか?

46 :日本@名無史さん:2019/03/09(土) 10:43:05.12 .net
>>45
そんな人はいない
自称皇族で、実際は小規模な山賊のお頭程度
付き従うものもごく僅か

47 :日本@名無史さん:2019/03/09(土) 12:58:47.27 .net
>>45
法体だったっていうから
どこかに出家させられてたのを引きずりだしたんじゃねえか

48 :日本@名無史さん:2019/03/09(土) 22:21:10.19 .net
最初は法体だったとしても、皇位に就くに当たって、蓄髪して還俗したと考えられる。
正式な礼装は間に合わなかったとしても、直衣や烏帽子は用意しただろう。
南帝が山名宗全や斯波義廉など西軍首脳の拝謁を受けたときは、通常の貴人の普段着
を身に着けて、行宮の御簾の奥に座していたと考えられる。
ただし、西軍の行宮は俄普請で南朝の正統を継承する万乗の君をお迎えするに
ふさわしいものではなく、その威厳を損ねるもので、そのことが南帝が放逐される
原因になったことが想像される。

49 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 00:21:42.97 .net
そりゃ最小限、直衣や烏帽子は用意しただろう。
だが、行宮などと呼べるようなシロモノは用意できなかっただろうさ
支持者たる零細武士たちの「館」ていどの小規模で粗末な屋敷がせいぜいだろう
御簾なんてなかったのではないかな

だが、放逐の原因はおそらく、南帝を担ぐことで北朝から朝敵認定されることのデメリットの方が圧倒的に大きいと、担ぐことのメリットをデメリットが上回ったからだろう
味方が増えるメリットより敵が増えるデメリットの方が圧倒的に大きかった

50 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 16:08:03.81 .net
>>39
大中黒は江戸時代は徳川の独占紋じゃないの?
元禄で使えたなら相当のなにかじゃあ?

51 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 17:07:14.27 .net
西陣南帝は応仁の乱に乗じて、もう一度「南北朝対立」に持ち込み、後南朝の正統を
回復しようとした
それが西軍の陣中に入った理由だろう
東軍=北朝、西軍=後南朝という図式になれば、後南朝に与力する公家や武士も増えて
きて、西軍の戦局によっては北朝に対して優位に立つこともできる
だが、そうなると、西軍は北朝と対立することになり、それを西軍首脳が忌避するように
なったのだろう
だから、西陣南帝は西軍の陣中を追われた
西陣南帝の尊貴さ、聖性が疑われたわけではない

52 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 18:54:40.59 .net
何を言ってるんだ
当初から正当性は怪しかった だから西軍は担ぐのを反対・躊躇した武将が多かった
小倉宮の末という触れ込みだが、小倉宮の系統は絶えているのを当時の人も知っていたのだから

53 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 19:04:02.47 .net
放逐されたのは両軍の大将が死に
厭戦ムードになり必要とされなくなったから
後南朝には主導権などなく西軍に利用されただけ

54 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 19:33:59.91 .net
いや、宗全の生前から、はやくから西管領の斯波義廉らが強く反対してたし

55 :日本@名無史さん:2019/03/10(日) 23:46:19.18 .net
よく考えれば放逐して知らんぷりはひどいよな
応仁の乱後に山名が西陣南帝を出家させて、生活の面倒ぐらい見てやれよと思うわ

56 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 00:11:56.45 .net
元の支持者(擁立者)のとこに送り返すぐらいはしたんじゃないの?

それ以前の後南朝の皇族の大半は京都近郊で生まれ育ってるけど、西陣南帝は京都生まれじゃないんだよね、たぶん。

57 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 01:55:32.76 .net
でも父親が岡崎前門主だろ

58 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 07:36:03.55 .net
最初は紀伊北部あたりで挙兵してて、宗全が迎え入れるために東軍勢力と戦いながら京都に向かったとのこと
当然、戻るとすれば、戻る際にも戦う必要が。

59 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 21:39:25.45 .net
紀伊は東軍の畠山政長が抑えているからな
畠山義就は政長を破って大和や河内を支配下に置いたが、紀伊は放置していた


応仁の乱が終息すると、西陣南帝が恩着せがましく義就に紀伊平定の勅諚を与えて、
ついでに義就軍に担がれて紀伊に戻ろうとしたが、義就が紀伊出兵を拒んだので、紀伊へ戻れなくなったとか

60 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 01:43:51.75 .net
押さえてるっていっても、義就派がいないだけで他の敵がいないわけじゃないし

61 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 02:13:30.44 .net
岡崎前門主ってのも、うさんくさいだけだしな
誰の系統なのかすら不明で自称小倉宮の子孫だから
某スケーターのようなものか

62 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 21:11:41.94 .net
放逐された西陣南帝としては、
後南朝の自天王のように吉野の奥に御所でも立てて暮らしたかったと思われるが、
吉野を実効支配している畠山義就が許さなかったんだろうな
だから越後だか越前へ行く羽目に

畠山義就は西軍の大名ではあるが、
西陣南帝の奉戴に当初は反対していたという(最後はしぶしぶ応じたが)

63 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 22:20:26.30 .net
自天王の御所など建てられてないだろ

吉野に行けなかったのは道中の敵と交渉が成立せず通行できなかったからじゃないかな?

64 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 10:00:19.72 .net
>>63
義就が護衛すれば吉野まで行けるし暮らせるよ
断固拒んだのだろう
ーーーー
応仁の乱の終息期

義視「われらは以後、貴殿を帝と認めませぬ!!
放逐いたしますゆえ、どこへなりともお行きなされよ!!」

西陣南帝「ち、朕は、これよりどこへ行けば?」
義視「お好きになされよ」
西陣南帝「お好きにって・・・。そうじゃ、義視殿はどこへ行かれるのじゃ?」
義視「美濃でござる。土岐のもとで暮らしまする」
西陣南帝「では朕も美濃へ」
義視「断固お断りいたす!」
西陣南帝「そ、そんな・・。では吉野へ参ろうかのう」
畠山義就「断固お断りいたす!」
西陣南帝「では伊勢の北畠かのう」
北畠政郷「恐れながらマロはすでに京の帝に仕えておりますゆえ、お断りでおじゃる」
西陣南帝「えっと〜〜〜(他の大名たちに視線を向けるが・・・」
山名&大内&六角「お断りいたす!!!」
西陣南帝「ヘルプミー!!!!!!」

65 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 20:28:52.46 .net
>>64
上手い。腑に落ちた。

66 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 23:15:47.49 .net
マジで北畠が西陣南帝を引き取ってやればいいのにと思うわ
薄情なものだ

67 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 23:43:14.52 .net
今は北朝=幕府に忠勤に励んでるのに、そんなの抱え込んだら痛くもない腹を探られるじゃん

68 :日本@名無史さん:2019/03/14(木) 00:30:36.19 .net
宗全が死んでから義視とか義就らが京都を離れるまでの何年間かの間、どこでなにをして生きてたのかという謎がでるな

69 :日本@名無史さん:2019/03/14(木) 20:40:33.82 .net
>>64
大和でもと南朝派だった越智氏とか古市氏とかが斯波義廉や畠山義就の部下になってる上、義廉義就とも南主擁立に反対(一時は擁立を受諾したが)だったわけだしな

乱の終息期ってっても、宗全が死んでから早期に南帝放擲されてるけど、そこから乱の決着まで5年ぐらいかかってるじゃん


たぶんだが、東軍の細川勝元は西軍大名の周辺へ手紙攻勢で内応を誘い続けてたから、越智とか古市とかふくめ大和の旧南朝方勢力のまわりに東軍へ寝返ってるヤツが多発したんじゃないの?

70 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 12:18:41.72 .net
安倍は何をやってるんだ?
ただちに全国に政令を発し、真の皇統たる大覚寺統の子孫を探し出し、皇籍に戻し、
国家の政道を正すべし

71 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 14:43:10.31 .net
探すも何も熊沢天皇がおられるが

72 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 17:44:40.30 .net
それらしい候補のどいつもが信憑性皆無の荒唐無稽なやつばかりでどうにもならなかったのが現実
南朝の皇胤は絶えた、それ以外に考えられないよ

73 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 19:29:17.35 .net
>>72
持明院統の回し者でおじゃるな
真の皇統たる大覚寺統の断絶を軽々に吹聴するなんぞ朝敵でおじゃる!!

74 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 19:57:33.45 .net
600年以上も前に零落して皇位から離れて逼塞してきたのにまだ復権が可能と思ってるとか、シーアアリーとタメを張れるほどの狂信ぶりだぞ

75 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 21:34:09.41 .net
後醍醐の血筋は絶えた これが史実

76 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 22:34:19.98 .net
今はわからないが史実だろうな
後南朝の系図が不確かなので

77 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 00:22:13.88 .net
後醍醐の子孫でいいなら、後村上の兄たちの子孫がいてもおかしくはないな

78 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 00:48:41.72 .net
南北朝の真の合一として、
愛子様の将来の夫は後南朝の男系子孫とし、
その間にできた男子を特例として親王宣下して立太子し、いずれ皇位につけるべき

79 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 08:36:51.76 .net
吉野の川上村は今でも後南朝を
崇拝した儀式を行っている

平成上皇が行幸して自天王の墓所に献花
すれば、後南朝支持者も喜ぶぞい

80 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 15:00:11.44 .net
>>79
江戸時代なかばごろに創始されたニセ儀式の可能性が高いけどな

81 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 16:38:08.13 .net
>>79
それ後付けの捏造儀式な

82 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 17:35:11.45 .net
>>80-81
http://livedoor.blogimg.jp/akb48_matome/imgs/d/5/d575d00d.jpg

83 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 18:13:35.88 .net
ずっと続いてるという証拠(ソース)がないんだろ、真偽不詳の怪しい儀式としか言えないじゃん

84 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 08:39:16.25 .net
>>64
西軍首脳は、まがりなりにも主上となった方に放逐という非礼な仕打ちをするのではなく、
譲位させて穏やかに引退させることはできなかったのだろうか?
譲位後、落飾して京都のどこかの寺院で余生を送ることもできたと思う

85 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 08:50:43.86 .net
>>84
譲位する相手がいないだろ

86 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 09:57:59.51 .net
西陣南帝は隠棲していた所を西軍に探し出されて擁立されたんじゃなくて、
自分で挙兵していたようなアグレッシブな性格だからなあ

多分西軍諸将が「もはや戦は終わりでござる。
御出家のうえ、われらの領内で清閑を御享受下され」と誘ったと思うが、
そのアグレッシブな性格が災いして楽隠居を固く拒否したんじゃないかな?
それで西軍諸将が誰も引き取らなかったと

87 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 10:49:10.11 .net
>>79
西陣南帝が吉野にいかなかったのは支持者がいなかったからだろ
当然、その頃の吉野には南帝のために儀式とかしてくれるような人はいなかっただろう

88 :日本@名無史さん:2019/03/19(火) 03:22:25.93 .net
後南朝に対する一揆とかも起きてるしね
吉野近辺の住民が支持していたなんて嘘

89 :日本@名無史さん:2019/03/20(水) 12:00:29.93 .net
そんな一揆ないよ
勝手なこというなかれ

90 :日本@名無史さん:2019/03/20(水) 23:49:09.51 .net
西陣南帝は殺されずに放逐された程度で済んだのはそれでも幸いだろうよ

91 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 00:57:48.62 .net
公家法には死刑がないから、王家公家は原則として死刑にはできない。

92 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 05:08:06.54 .net
>>89
森先生の著書に書いてるよ

93 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 08:53:01.27 .net
西陣南帝は践祚して帝位に就いたとき、早く皇太子を立てておくべきだった
そして、自分が帝位にあるうちに早めに皇太子に譲位しておけば、治天の君として
その後も政界に残ることができた

94 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 12:55:41.88 .net
まあ、実際には践祚できてないから言ってもしかたないけどね

95 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:50:16.10 .net
政界wwww

96 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 07:55:52.41 .net
Wikipeで熊沢天皇を調べると、西陣南帝って同じ流れだったんだろうとよくわかる

出てくる → 西軍(GHQ)が役に立つかもと注目 → 取り巻きがよってきてチヤホヤされる
 → 世間から相手にされない → 西軍(GHQ)関心が無くなる → 取り巻きがいなくなる
  → 破産

97 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:08:43.45 .net
西軍諸将とその近辺の公卿によって、譲位の儀式は盛大にやってあげてほしかった
そうすれば、西陣南帝にとって花道になったし、一度は帝位に就いた顔も立っただろう
「西陣の新院」とか尊称もつけてあげるべきだった

98 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 12:12:34.06 .net
そんな余力がなくなったからこそ、南帝などという劇物に手を出そうとしたわけで

余力があれば南帝を担ぎ出してくることもなかったからなあ

99 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 22:04:38.35 .net
いや西陣南帝を擁立した西軍の意図は、
東軍が天皇の権威を利用するなら、こっちにも考えがあるぞという「ポーズ」だろ

真剣に別の天皇を擁立する意図は西軍にはなかったと思われる
要はハッタリだ
そうとは知らずに神輿に乗せられた西陣南帝は哀れというほかない
細川勝元追討の詔勅とか細川勝元調伏の綸旨とか、
山名宗全や大内政弘に高位高官を与える除目とか、いろいろ用意してたと思うが、
どれも使わずに終わった

100 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 03:54:40.14 .net
>>97
譲位後は熊野院とか単に新院とか、実際には呼ばれていたんじゃないかなあ
記録に残っていないだけで

101 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 06:39:24.09 .net
即位していないのだから譲位も何も無いわけ
いつまで妄想の世界にいるんだ コイツは

102 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 07:19:32.13 .net
>>99
そのような西軍側の意図を西陣南帝が見抜けず、西軍に深く加担してしまったことが
致命傷になったということだろうか?
西陣南帝は「これはチャンスだ。西軍に担がれて都に入れば皇位に就ける。悪くとも
南北朝対立状態には持ち込める」と目論んだということだろう。
だが、その目論見と西軍首脳の思惑に距離があったということだ。

103 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 22:25:03.74 .net
そもそも西陣南帝に皇位を継ぐ資格があったのか疑問に思う
小倉宮の子孫と自称しているが、小倉宮の血筋は教尊が隠岐島で死亡して断絶している(墓もある)

個人的見解だが、山名宗全が怪しい
なぜなら彼の領国である因幡国には、理由は解らないが南朝系の玉川宮がいた(恐らく幕府により流されたのだろうが)
その玉川宮の一族を利用したんじゃないかと思う

資金援助して山名家の家来を付けて、紀伊に送り込んで土豪を抱き込んで挙兵させたのではないか?
あたかも南朝の一族がまだ健在であるかのように見せかける為に
だからこそ、山名宗全死後の西陣南帝は寄る辺なくさまようしかなかったのではないかと思える

自身を支持してくれる勢力が本当にあって自力で紀伊で反乱起こせる様な勢力を持っていたなら、もっとマシな末路があったはず
山名宗全の考えた策で仕込まれただけの存在だったからこそ、あの末路だったのではないか

104 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 02:22:50.54 .net
教尊の墓(供養塔だろう)は由緒不明
古い地誌も漁ったけど言及がない

105 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 04:58:20.91 .net
だからといって脱出して生き延びているのか?
それもソース無しの南朝信者の妄想にすぎない
普通に考えれば幕府が監視していたはずで、そこで死んでるよ

106 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 18:34:23.86 .net
>>103
近畿地方のほぼ全域、宗全と仲が悪い勢力ばかりだろ
自分の勢力圏内ならまだしも、他勢力の領土でそんな無茶するほどの力は、宗全といえども無いぞ

107 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 05:39:21.20 .net
>>106
へ?
紀伊の畠山とかいるじゃん

108 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 12:49:30.16 .net
畠山の本流は東軍所属の政長
対抗の義就は宗全方だが後南朝擁立に強く反対してる

109 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 14:10:49.82 .net
>>106
近畿地方の西軍は近江の六角・山内、丹後の一色、大和の越智・古市など

110 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 14:16:41.35 .net
紀伊は畠山が守護とはいえ、土豪たちの自立性が強い国ではある
だから江戸時代初期まで難治の国の一つだったわけで

紀伊は明徳の乱前は山名氏が統治していたから、縁がないわけではないが、
紀伊の土豪と山名氏に接点があったのかどうかは研究課題だね
あるいは畠山義就は大和や河内で暴れるだけで、
不自然なほど紀伊には出兵していないが、これをどうみるか

111 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 15:09:28.90 .net
紀伊は政長の勢力が強かったのでは
係争地じゃないから出兵してないんだと思う

112 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 15:10:49.85 .net
>>109
越智古市以外は南朝とつながりがなさそうなメンバーかな?

113 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 19:35:16.89 .net
西陣南帝が紀伊で挙兵し、一定の勢力があったので、山名宗全はその勢力を西軍側の
兵力として利用したかったのでは?
そこで南帝を推戴する形で西軍の本陣にお迎えした。
だが、南帝勢力の支配地域と畠山義就の領地がかぶること、南帝を推戴することが
北朝の現朝廷との紛争を招くことから、義就をはじめ西軍の諸将が反対した。
南帝の存在が西軍の団結を乱す原因になってきたので、宗全はやむなく南帝を
陣営から退去させたのではと思う。

114 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 02:48:17.94 .net
> 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。

115 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 04:14:27.93 .net
>>113
本当に一定の勢力があったなら、応仁の乱後も紀伊に帰れば良いだけなんだけどね
それが出来なかったって事は、応仁の乱後は勢力は無かったんだろ
元々一過性のブームのような勢力だったのか それとも応仁の乱期間中に東軍に壊滅されたのかは解らんが

116 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 12:21:36.28 .net
応仁の乱の講和条件で、北朝が西陣南帝に親王宣下して滞京を許すという条項は入れられなかったのか

117 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 10:53:43.82 .net
西陣南帝が紀伊で挙兵したのが文明2(1470)年2月、西軍に擁立されて上洛した
のが文明3(1471)年8月だから、1年以上の間、西陣南帝は紀州・大和のあたり
を転戦して勢力を築いていたことになる
それなりの地盤があったと思えるが、帝位を追われたときには、それはすでに失われて
いたのだろうか?

118 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 11:40:55.48 .net
移動に時間がかかったのが大きい

普通の旅じゃないので戦いながら移動、しかも安全を確保する必要もあり、出発から到着まで半年を超える長旅だったらしい
出発前の準備も大変だっただろうし、到着後もすぐ擁立できるわけではないし、勢力の弱小さの影響もあってスケジュール的にはカツカツで余裕などなかっただろうよ

119 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 19:48:44.93 .net
天正期にいた資料がなかった?

120 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 19:48:15.95 .net
いないよ 自称後裔は色々いたけど
津島の連中とか美作後南朝とか捏造だらけだけど

121 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 22:22:02.84 .net
>>119
昭和期には確かに南朝の皇胤がいたね
熊沢天皇というんだけど

122 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 23:16:00.81 .net
自称・南朝皇胤であってホンモノの皇胤ではないと考えられてるけどな

123 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 23:30:46.16 .net
>>119
木寺宮は大覚寺統だが南朝ではない

124 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 11:26:59.79 .net
後南朝も木寺宮のように、地方に土着してその地方の貴人として存続できなかったのかな?
そうなっていれば、リアル美作後南朝のような存在になっていた

125 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 18:09:23.74 .net
きっと吉野・川上村の古参の住民が団結して、後南朝の子孫を隠していると思う
赤松残党を信じて引き入れてしまった長録の変の反省のためにも、村の秘密中の秘密なのだろう

126 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 19:15:40.24 .net
ある程度、生活に余力があるなら匿うことも可能だったかもしれんけどなあ

あいにくと、室町時代後半から戦国時代頃って、日本列島各地で頻繁に飢饉が発生する時代。
匿う余裕のある村なんて無かったんじゃないかなあ

がんばって匿ってた村が仮に実在したとしても、飢饉と戦乱で滅亡したんじゃないかと

127 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 21:56:20.29 .net
木寺宮は土着したか不明だよ そういう伝承があるだけで史学的証明はされていない
地元民が貴種流離譚として捏造してるだけだろ

128 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 02:35:58.55 .net
>>124
早い段階で野心を捨ててれば、土着もできたと思うけど、
最後まで京都復帰を目指して武装闘争をつづけた結果、
支援者がいなくなっちゃってるし。

ただ、西陣南帝も自分の戦力連れてきた記録が無いし、
その前後の記録もないから、実質的に土着して
政治的活動せずにほそぼそ暮らしてたのかも。

それが下手に引っ張り出せれたせいで、その暮らしさえ
できなくなった。

129 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 13:05:23.62 .net
>>127
赤坂恒明氏が最近示した新史料で、木寺宮が三河・遠江方面に下向したことは確からしいぞ

130 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 14:44:49.01 .net
木寺宮は京都で死んでるからね
領地を見るために一度現地に行っただけだろ 土着とは違う

131 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 15:40:18.50 .net
つまり、下向したときに現地の女に産ませた子供がいて、そいつが木寺宮を自称したんだろ

132 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 16:52:54.41 .net
筑後矢部にいた征西大将軍・良成親王の子孫は残ってないのかな?

133 :日本@名無史さん:2019/04/07(日) 20:01:10.46 .net
付き添った五条家は続いてるらしいけどねぇ

134 :日本@名無史さん:2019/04/08(月) 23:36:46.75 .net
五条家が良成をぬっころしたんだろうな 降伏して生き残る為に
まさに闇の歴史だな

135 :日本@名無史さん:2019/04/08(月) 23:37:54.37 .net
>>131
それはお前の妄想にすぎない
南朝信者はこれだからいけない

136 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 00:03:31.49 .net
んなこと言ったって、京都で死んだはずの人間の子孫が地方に残ってるなんて、
他に解釈のしようがないだろ。
田舎の権力者が娘を都から来た人間の夜伽にだして、子孫を都人の子孫と主張
するケースなんてありふれてる。

生まれた子どもが宮の子どもかどうかは自己申告しかないわけだが。

137 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 00:37:06.91 .net
本当の子孫じゃなく詐称という可能性をなぜ除外してるのか

138 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 10:35:12.07 .net
そう詐称だよ

139 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 10:37:01.78 .net
そもそも子孫だと言う伝承だけで、きちんとした資料無しで言われてもな。
検証しようが無いよ。

140 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 12:54:59.25 .net
奈良・平安時代なら早くに臣籍降下して武士になったり、貴族社会から消滅するのが
大半なのに、室町時代は宮家が割と長く続くんだね
代表的なのは伏見宮だが、木寺宮もそうだ
後南朝が細々とでも続いたのは、そのような風潮と関連があるのかも知れない

141 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 18:30:02.20 .net
均分相続から長子単独相続、ウジからイエへの流れに伴う現象だろうな。

142 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 18:37:20.93 .net
平安〜鎌倉武士の分流ぶりとかすごいもんな。常陸平氏なんか三男の三男の四男、みたいな家が国中に割拠してる

143 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 18:54:31.37 .net
朝令暮改当たり前、謀反人への追討命令ですら撤回当たり前の室町幕府に、
後南朝の血筋を断絶させるほど強力な政策を展開できたとは思えん

144 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 19:44:24.59 .net
それには同意できん
幕府は長年南朝系を殺しつづけているからな
しつこく殺しているぞ

145 :日本@名無史さん:2019/04/09(火) 22:30:36.25 .net
うむ足利義教なんかは特に執拗に断絶させようとしてる

146 :日本@名無史さん:2019/04/10(水) 11:31:06.06 .net
楠木家も名前がろくに伝わってない奴まで探し出されて殺されてるからな
楠兄弟としか文献に名前が残ってないんだぜ 酷いだろ

147 :日本@名無史さん:2019/04/11(木) 17:09:19.28 .net
>>144-145
でも義教の死後にも自天王や西陣南帝やらいるではないか
後南朝の血統を絶やしたくても徹底できなかった室町幕府の限界だよ

148 :日本@名無史さん:2019/04/11(木) 22:35:55.19 .net
自天王は赤松遺臣を使って殺してるだろ 何を言ってるんだ
お家再興の条件にしてな

西陣南帝も遠地配流にして、南朝断絶の流れ通りの処理してる

149 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 00:52:27.12 .net
室町幕府政権下で後南朝の血筋は絶えてるだろ
少なくとも史実でそれ以降の血脈は見当たらない
これは室町幕府の勝利だろうよ

150 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 08:50:33.80 .net
>>148
西陣南帝は別に幕命で流罪になってないだろ
地方各国を転々としていただけ

151 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 08:56:11.71 .net
戦国時代に入ると将軍の権威が地に落ちる一方で、天皇の権威が相対的に上がったという
指摘がある

つまり、いかに下剋上の戦国時代でも、戦国大名は自分を正当化するための権威が何かほしい
でも将軍の権威は地に落ちている ということで天皇に脚光が集まった
すると世間に認知されている京都の北朝の天皇に、大名たちは権威を求めるようになり、
わざわざ後南朝を擁して、独自の官位をもらうという動きがなくなってしまったのだろう
またほとんどの大名は「天下」に興味はなく、自分の近隣諸国の勢力拡大のみに専念しており、
わざわざ後南朝を擁することが面倒に思われたのだろう

足利将軍が没落して用済みとなっていく中で、後南朝も用済みとなってしまうとは皮肉だ

152 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 09:15:24.90 .net
足利尊氏に南朝に対抗するために擁立された北朝だが、
足利が没落すると北朝も一緒に没落するかと思いきや、
逆に南朝が没落して北朝が続くとは歴史は面白い

153 :犯罪首謀者・高添沼田の連絡先:東京都葛飾区青砥6−26−6:2019/04/12(金) 11:39:53.19 .net
【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青砥6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
 老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青砥6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
 低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
 異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
 youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください

【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111

D清水(東京都葛飾区青砥6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
 清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青砥6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青砥6−23−20)

154 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 12:20:10.10 .net
>>151
将軍が在京しない時期があるのを利用して朝廷が復権の道を模索したからだろ
朝廷の主体的な動きの結果として権威を戻したんだよ

155 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 12:22:30.80 .net
>>152
北朝側が尊氏を利用すべく接近したという側面も大きいのだが

156 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 20:09:08.83 .net
>>150
へー 自己都合で放浪してたのか?
そんな事はないと思うぞ
常にソース無しの思い込みで書くのが南朝信者

157 :日本@名無史さん:2019/04/12(金) 20:16:51.24 .net
>>150
西陣南帝或いはその弟の最後の記録と思われるのが

『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
 山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
  越後より越前国北荘へ移った。

であり、誰かの都合で越後に送られて、更にそこからも追い出されて越前にとも読める

158 :日本@名無史さん:2019/04/13(土) 09:42:21.12 .net
>>140
西陣南帝は伏見宮とか木寺宮のような立ち位置を目指せばよかったね
紀伊・伊勢あたりで支持者を中心に勢力を固めて、行宮から動かなければいい
今すぐ帝位に昇るのではなく、「皇統のスペア」として朝廷や幕府、有力な守護大名に
認めさせる運動に徹するべきだった
山名宗全から打診があれば、東軍追討の「令旨」を発給することで、自分は親王クラスの
家格を持った宮家の当主であることを認めさせていくべきだった

159 :日本@名無史さん:2019/04/13(土) 16:11:55.30 .net
>>156
幕命や勅命の流罪なら、流刑地の外に出られないから、流浪できんだろ

160 :日本@名無史さん:2019/04/13(土) 16:28:16.99 .net
>>158
西陣南帝は新しい元号として明応を定めているが、
西軍諸大名は誰も明応なんて使ってない

161 :日本@名無史さん:2019/04/13(土) 21:59:00.78 .net
明応は易経の「其徳剛健而文明、応乎天」に基づいているんだよな
甘露寺親長が制定した

162 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 02:28:28.64 .net
制定w

163 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 12:19:37.20 .net
>>159
幕府命令で流刑地の変更というのは十分ありうるだろう

164 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 12:22:18.36 .net
>>158
紀伊も伊勢も、もはや支持者なんていない
それを忘れるなよ

支持者がいたなら頼って移動してるだろ

165 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 13:05:11.70 .net
>>161
それは、
>明応(めいおう、旧字体: 明??應)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府の将軍は足利義材(義稙)、足利義澄。
のほうであって、
>なお、それ以前に応仁の乱で西軍に擁立された後南朝の西陣南帝が、当初は「明応」の年号を独自に制定していたことがある。
のほうではないだろ
後南朝側については誰がどう決めたかを示す記録も何も残ってない

甘露寺親長は、禁闕の変の際に、後花園天皇を守護すべく自ら大刀を振るったとの逸話が記録されるほどの人物で西陣南帝に従うことはない。

166 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 13:42:08.60 .net
後南朝には甘露寺親長のような公卿はほとんどいないから、在野の学者が勧進者となって
最終的には南帝が籤を引くなどして「明応」を選定したものだろう
あるいは、従来、すでに何度か「明応」が元号の候補として出たことがあり、それを
知った後南朝の朝臣が使用したのかも知れない

167 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 19:50:18.89 .net
応仁の乱の時には前関白九条政元だっけ、泉南のほうの日根野に下向してるね
蜂起した連中が事前に年号案とかをこっそり質問してた可能性はないか?
泉州南部と紀伊は地理的にも文化的にも近いしさ

168 :日本@名無史さん:2019/04/27(土) 17:00:24.38 .net
「明応」の出典は、後醍醐天皇が親政を始めた元亨年間の「元亨」と同じなんだよな
「周易」の文をもう少し長く引用すると、「其徳剛健而文明、応乎天時而行、是以元亨」
となる
これは、西陣南帝が後醍醐天皇の偉業を継いで、再び主上による親政を復活し、南朝の
皇基を築こうという意思を反映したものではないか?

169 :日本@名無史さん:2019/04/27(土) 19:26:56.76 .net
仏教由来が多い私年号のなかで、儒教的な「天靖」はやはり異質

170 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 16:26:16.44 .net
令和になってダンマリかよ

171 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 19:40:32.75 .net
平成院が自天王を祀るために毎年吉野・川上村で催されている朝拝式に出席してくれれば嬉しい

172 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 20:13:01.89 .net
南朝は朝敵だと代々に渡って申し送ってきた北朝系の今上・先帝らが後南朝の正統性を受忍する可能性は極めて低いだろ

よほど多くの国民が求めたら断れないだろうけどな

173 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 21:51:31.65 .net
>>171
南朝ならともかく、後南朝は正統とは言えないから無理スジ

174 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 23:30:06.48 .net
>>168
その推理は当たっていると思う
西陣南帝を推戴する勢力は後醍醐天皇を意識し、南朝の復興を意図していた

175 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 11:41:37.68 .net
>>173 自天王が持っていた勾玉を赤松残党が力づくで奪い、
京都の北朝の天皇に献上し、今に至る

今回の新天皇即位でも、勾玉が箱に入って天皇の御前に供されていた
あの勾玉を自天王が持っていたと思えば感慨深い

176 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 19:24:22.67 .net
嘉吉3年(1443年)9月の禁闕の変のときに京都で盗み出した神璽だろ

南北朝時代から連綿と受け継いでいたわけではない

177 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 21:43:19.62 .net
盗むとは不遜なり
正統なる吉野の帝・金蔵主の御意を奉じて忠臣楠木党らが勾玉(神璽)を奪還したと言いなおすべし

178 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 21:47:06.95 .net
南朝後裔と自称する賊が禁中より強奪した神璽を不法に所持していたのを赤松遺臣らが取り返したと言えばいいのかな

179 :日本@名無史さん:2019/05/09(木) 22:32:33.19 .net
幕府も守護大名も後南朝には後ろめたい所があり、
正統なる「天皇」(自天王)を弑逆することへの「畏怖」があった

だから赤松遺臣に自天王の弑逆と勾玉奪還をやらせたのだろう
要は誰もやりたくない汚い泥仕事を、お家再興を餌に託したといえる

180 :日本@名無史さん:2019/05/10(金) 21:45:50.82 .net
旧宮家の復活とか言ってる輩がいるが、
それならまず真正の皇統たる後南朝の皇胤を探しだし、
これまで平民の暮らしをさせてしまったことを政府が謝罪して
親王宣下するのが先である

181 :日本@名無史さん:2019/05/10(金) 22:36:06.57 .net
言い出しっぺのおめえが探してこいや

182 :日本@名無史さん:2019/05/10(金) 23:23:38.96 .net
南朝は断絶が長すぎて、鍛冶屋長九郎を探し出したようにはいかないわな

183 :日本@名無史さん:2019/05/11(土) 11:26:32.83 .net
北条時行は、たとえ自分が倒れても、
北条(得宗家)の血が後世に残るようにと、
育った信濃諏訪の地で大勢の巫女に手を付け、
また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして、
多くの胤子を残したとする伝承がある

西陣南帝もこの伝承通りにしてくれていれば・・・

184 :日本@名無史さん:2019/05/11(土) 16:07:45.52 .net
西陣南帝はもともと紀伊・伊勢方面の土豪に支持されて挙兵したのだから、この支持基盤を
離れないようにすべきだった
上洛して西軍の陣中に入ったため、山名宗全たちの後ろ盾をなくしたとき、支えてくれる
人がいなくなったのではないか?

185 :日本@名無史さん:2019/05/12(日) 11:05:16.29 .net
西陣南帝の子孫はどこかで隠れているんだと思う
露顕したら北朝を崇拝しているネトウヨに何をされるかわかったもんじゃない

186 :日本@名無史さん:2019/05/12(日) 12:06:26.79 .net
子孫が生き残って続いていると、どうして確信できるんだよ

江戸時代の相続の実態調査で、全相続の3割もが息子以外への相続だったって事実もある
婿養子を入れたり、親戚の子を養子にしたり、それも無理なら血縁のない養子を入れたりする
一般庶民なら無理せず絶家する

商家や大名などでは婿養子も許されるし実例も多いが、天皇家や宮家では婿養子は許されない

そうすると、国家予算をつぎ込んででも頑張ってないと断絶してる可能性が高い、と考えるのが妥当

187 :日本@名無史さん:2019/05/12(日) 13:46:32.98 .net
大菊
坊門清忠
聡 野野
   大数
   地人

188 :日本@名無史さん:2019/05/12(日) 14:00:17.50 .net
上流階級は妻を何人も持てるし、子供も多く養えるので、子孫継続させやすいが、
庶民は子供を養えず、無嗣絶家になることが多いんだよな
だから、後南朝といえども、帝位についたり宮家を運営していた時代は皇孫が複数
存在したが、庶民になってからは家が絶えた可能性が高い

189 :日本@名無史さん:2019/05/12(日) 15:03:40.89 .net
その上流階級でも息子がいなくて養子を取る事例が少なくないんだ。ましてや……


だから、断絶してない可能性は低いよな

190 :日本@名無史さん:2019/05/15(水) 08:37:43.70 .net
伊勢の北畠、肥後の菊池、信濃の諏訪、香坂、遠江の井伊、常陸の小田・・・

旧南朝勢力が後南朝の宮を見捨てる忘恩の悪臣どもなのが涙を誘うね

>>189
熊沢天皇が子孫だろ

191 :日本@名無史さん:2019/05/15(水) 12:14:03.14 .net
そもそも、近隣の敵対者と戦う必要から便宜的に南朝についただけの連中の方が多い
それ以外の動機で南朝についた忠臣なんて元から少数
そんな北畠でさえ自家の存続のためには後南朝を見捨てることが多かったぐらいだしな、
他は推して知るべし

192 :日本@名無史さん:2019/05/18(土) 04:28:08.51 .net
>>190
熊澤天皇って養子なんだが

193 :日本@名無史さん:2019/05/18(土) 09:26:36.84 .net
後南朝に味方したのは、自分にとってもメリットがあったからなのは当然だな
「後南朝皇族を擁立する」というのが応仁の乱を最後に途絶えてしまった
その途端、後南朝皇族の消息も次第に断片的なものになり、途絶えてしまった
応仁の乱に際して、身の処し方がもう少し巧みであれば、世襲宮家としての
地位を残せたかも知れない

194 :日本@名無史さん:2019/05/21(火) 08:22:00.58 .net
南朝って150年ほど続いたのか
凄いな 執念やな

鎌倉幕府の執権130年よりも長い?

子孫がどんどん変なネーミングになっていくな

小倉宮聖承 ←怪しい
通蔵主・金蔵主 ←もはや何者?
西陣南帝←ミナミの帝王?
南天皇
自天王←天王?
忠義王

195 :日本@名無史さん:2019/05/21(火) 12:05:49.98 .net
つっても、後醍醐廃帝が吉野に落ち延びてから十年ほどの期間しか善戦できてなくて、
それ以後は幕府が武力討伐に消極的になったから存続できただけだし、
後南朝になってからは継続的な勢力などなくて、京都近郊の寺にいる南朝皇胤を連れ出して武装蜂起するだけで、軍事勢力のまったくいない期間の方が長い

196 :194:2019/05/22(水) 06:19:16.95 .net
まあけど、130年ほど南朝が忘れ去られなくて「旗印」として利用価値があったというのも凄いんじゃない?

朝廷ブランド?・天皇ブランド?って凄いな 今も存続しているくらいだし

197 :日本@名無史さん:2019/05/22(水) 06:21:27.48 .net
150年だった 訂正

南朝の子孫が生き残っていれば織田信長とか徳川家康とかも担いだかもしれんな

198 :日本@名無史さん:2019/05/22(水) 19:27:09.98 .net
>>197
その辺の時期だと、探せば見つかる可能性はあっただろ

信長も家康も探そうとしなかったんだよ。担ぐつもりがなかったから探さなかったんだろ

199 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 04:34:56.34 .net
>>197
正統な北朝天皇を担いでるのに、南朝天皇を担ぐ必要がどこにある?
徳川は新田流といっても北朝方の子孫、織田家は土岐氏の守護代で北朝方。

200 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 14:16:45.39 .net
土岐じゃなくて斯波だけど、他はまあ、そんなもんだな
北朝の流れである朝廷への献金の多さで名前が残ってるし

201 :日本@名無史さん:2019/05/24(金) 21:31:24.03 .net
けど、よく考えたら3世くらいまでの王は皇族としての価値があるだろうけど、
4世・5世・・・とかになってくると価値はないかもしれんな

本来、4世・5世などになってくると皇籍を離脱しなければならない立場だし

こういう理由で後南朝が終わったのかもしれん

202 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 07:58:35.75 .net
>>201
奈良、平安ごろは皇族の数が多くて、5世王あたりは貴族としての地位も低かった
もっと早い段階で臣籍降下して、地方へ下る人も見られた
室町期は皇族が減ったし、宮家も長く続くようになった
だから、細々とではあるが、後南朝が長く続き、一定の高貴さも続いたのではないか?

203 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 13:49:08.51 .net
>>202
ttps: //ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11489858466.html?frm=theme
ttps: //ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11510135602.html?frm=theme
ここの受け売りになるけど
>皇族は、四世王まで、つまり天皇の玄孫まで。それ以外は、臣籍
>ただし、五世王以降の宮が親王宣下を受けた場合、四世王に繰り上がり終身皇族となる。
つう事になると玄孫はまだしもそれを越えると特殊な例でもない限り基本自動的に皇族から外れるって見なしてるな
この人みたいに西陣南帝を小倉宮末裔と認めてると考えるにしても後亀山の玄孫に当たる形になり
その西陣南帝が消滅した時点で後南朝自体が完全消滅したと見なしてる
つまり西陣南帝に子供がいたとしてもそれはもう皇族とは言えず単なる後南朝の裔となると言う事だと

204 :日本@名無史さん:2019/05/26(日) 04:02:35.37 .net
いや、それは後亀山までしか即位してない前提だろ?
南朝的にはその後も即位してることになってるはずだから、皇族で問題なかろう。
北朝から見れば、後亀山から5世離れてるのに臣籍降下も受けてないので、姓すらない只の非人だが。

205 :日本@名無史さん:2019/05/26(日) 15:46:08.33 .net
北朝視点でみれば御村上以降誰も即位してないし、南朝視点なら西陣南帝も即位してる。
五世王云々ってあまり意味のある議論とも思えん。

206 :日本@名無史さん:2019/05/26(日) 22:10:08.26 .net
北朝視点で見れば後南朝じゃなく南朝が、後村上以下全員が反乱者、謀反人、賊なんだよな、後亀山含めて。

207 :日本@名無史さん:2019/05/27(月) 09:47:45.69 .net
>>190
井伊って南朝なんだ。

208 :日本@名無史さん:2019/05/27(月) 12:52:26.71 .net
山名宗全以下、西軍の首脳は西陣南帝に対して臣下の礼を取っていたわけだから、
西陣南帝は室町幕府(北朝側)の有力者たちから皇位を認められていたことになる。
理屈の上からは、西陣南帝から起算して五世王までは皇族となる。
だが、残念ながら史実はそうならなかった。

209 :日本@名無史さん:2019/05/27(月) 19:33:31.32 .net
ttp://ilha-formosa.org/?p=33267
当たっているかどうかはともかくも面白い考察だとは思う

210 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 05:35:06.30 .net
>>208
西陣南帝に対して臣下の礼なんて取ってない
都合の良い神輿になるかもと担いだだけ

が、神輿としても使えない事が判明したのでポイ捨てした

211 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 06:45:23.98 .net
>>208
武家政権から認められているかどうかで皇位を考えるのはおかしい。
武家政権が天皇から正当性を認められる側であって、逆はありえない。
その思想は天皇が武家に従属していることになる。

212 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 09:19:37.55 .net
>>211
室町幕府初代将軍足利尊氏の正平一統の「伝統」だろう

尊氏は自分で北朝の天皇を擁立しておいて、
弟の直義を討つための大義名分欲しさに平気で北朝の天皇を廃位にして、
南朝の天皇を正統な天皇と急に承認して和平を結んだ
そして尊氏が直義を討った直後、南朝が足利との和平を破って京都を占拠し、
北朝の「先帝」らと北朝の三種の神器を奪回して、吉野へ連れて行ってしまった
京都を奪還した足利は、三種の神器もない中で北朝の天皇を新たに再擁立した

このように武家の都合で天皇の皇統を擁立したり廃したりするのが、室町時代の伝統
西陣南帝の擁立もその延長線上に考えればわかる

213 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 12:29:02.98 .net
いや、南朝北朝が争う中に第三勢力の幕府が関わっただけだ
幕府が南朝支持したときだって、擁立ではない。
北朝と(結果的には一時的だが)手を切ったとは言え、北朝を廃したわけではないしな

幕府には擁立したり廃したりする権限はなかった、あくまでも第三勢力にすぎない

214 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 16:17:21.88 .net
足利尊氏は神器もなしに自分の都合で天皇を擁立した。
ならば、西軍が自分の都合で西陣南帝を擁立したのと同じではないか?
正式な手続きや正統性からすれば、どちらも問題があるし、そもそも武士が天皇を
決めること自体がおかしいという面もある。
だが、自分で天皇を擁立して、その錦旗のもとに政権を正当化することこそ
室町幕府の本質だ。
「西幕府」たる西軍も同じことをしたに過ぎない。

215 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 17:38:46.60 .net
光明天皇が即位した時点、つまり北朝が始まった段階では、
本物の神器を持ってたのは北朝がわで、
後醍醐帝は神器を持ってないはずだ
ありもしない神器を元手に、北朝がわの神器は偽物で本物はオレの手元にあると吹聴したホラ吹きだ

216 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 19:54:58.19 .net
光明天皇の正統性は、神器より光厳上皇の院宣を根拠とする
後に神器を入手して、その地位をより確かなものにした

217 :日本@名無史さん:2019/05/28(火) 21:06:17.31 .net
三種の神器って今でもウィキペディアとか見ないとなんなのかよくわからないのに
そこらへんの田舎土豪たちがよく知ってたな

で、ウィキペディアを見たら本物は熱田神宮や伊勢神宮にあって、レプリカが
皇居にあるそうだが、いずれも誰も実物を見たことがないという・・・

奇妙奇天烈としか言いようがない

218 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 02:46:54.49 .net
神社のご神体なんかもそうだろ
誰も見たことが無いって奴

219 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 06:25:44.12 .net
忠義王も川上郷民に顔を見せなかったという伝承がある

220 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 08:14:10.49 .net
忠義王は御所の御簾の後ろにいたからな
近侍する公卿や女官しか竜顔を拝することは許されなかった

221 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 09:53:58.19 .net
不敬を敢えてして言えば、天皇自体が神器のような御存在だから、人々の前に姿を
表すことはなく、誰も顔を見たことがない

222 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 12:04:44.43 .net
姿を表さないのだから、偽物が現れても真偽を確かめるのは困難だよな
きっと伝承に残ってる南朝後胤のなかにも多くの偽物が混じってるだろうな

223 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 04:24:19.39 .net
>>220
当時の後南朝はもはや山賊レベルなので
近侍する公卿や女官なんていない

224 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 07:21:55.65 .net
寺を行宮にするって、住職の庫裏に住むのかね?まさか本堂から御本尊を追い出しはしないよね?まあ本堂も寝殿造と大差ないから、宮殿としても使えるだろうけど。

観心寺とか大きな寺の本堂なら内裏の代用品としては十分使えそうだけど、庫裏だけではちょっと手狭そう。

225 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 08:37:44.86 .net
伽藍の中にある宿坊に屏風や御簾を設置して内裏にするんだろう
御師や先達が南帝の御前に大御食を奉ったんだろうね

226 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 12:24:08.13 .net
平安時代後半からだっけ?
京都にいる天皇でさえ、貴族の邸宅を行宮にすることが多発してて、内裏が造営されることは少なかったはず?

ましてや亡命王朝にすぎない後南朝で内裏が造営されることはあり得ない

227 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 12:36:57.90 .net
西陣南帝の場合は、上洛後、北野松梅院、続いて安山院を行宮にしていたな
正式な内裏への移行はその後の予定だった

228 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 20:52:04.15 .net
後南朝の時代には内裏なんてない
維持出来る金もないし、知識のある公家もいない

229 :日本@名無史さん:2019/05/30(木) 23:02:46.38 .net
>>1
南チョンのスレを立ててんじゃねーよ、糞チョン

230 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 02:14:41.65 .net
>>228
内裏はないが里内裏ならあった

まあ、貴族の邸宅なわけだけど

231 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 04:41:17.07 .net
>>230
どこに後南朝の味方する貴族の邸宅があったんだ?
吉野の山奥や、そこすら追い出されて紀伊とかにいた連中だぞ

西陣南帝を一時的に入れたとこを書いてるなら、それは例外
山名宗全の味方をしただけで、後南朝の味方をした訳ではないから

232 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 06:26:29.41 .net
ウィキペディアを見てたら・・・・

紀伊国有田郡あたりの連中は西陣南帝に味方したらしいな
自称四世王か五世王でも紀伊の田舎侍たちは恐れ入って家来になった?

あと、応仁の乱後、一応、しばらくは動向を注目されていたようだな
どういう記録に残ってのかは知らんけど

233 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 07:50:47.27 .net
>>231
いや、時代って言い方だから、京都のことも含むと思ったんだ
京都にも内裏なんてないぞ、里内裏が普通だぞって
前後何百年かの範囲で代理を作ろうとしたのって、鎌倉幕府倒した直後の後醍醐帝だけだよな?

234 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 11:48:50.95 .net
>>226
>>228
後南朝が大内裏を造営したなんて誰も言ってないのに、誰と喧嘩してるんだろう?
なんか怖いよこの人・・・

235 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 12:42:29.43 .net
北朝・室町幕府への忠誠心のあまり後南朝を敵視しているのかもね

236 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 16:54:49.51 .net
時代錯誤を指摘されてるだけなのに怖いだのなんだのと何なの?
 
建武の新政時代と南朝時代と後南朝時代はそれぞれ別
それを区別せずに語るのがおかしいと当然の指摘をされてるだけ

237 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 18:21:28.61 .net
>>234
いや、226はオレ(226=230=233)だが228は別人だぞ

238 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 19:22:00.64 .net
さすがに後南朝に大内裏を造営するだけの財力も動員力もなかった
それ以上に御所の警護が手薄であったのが痛く、赤松遺臣の強襲を許してしまった

239 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 19:50:07.37 .net
そりゃな

南北朝が始まるより前でさえ造営する財力がないレベルのシロモノを後南朝の微力だけで作れたら驚くわ


そんなモノを作ると宣言した後醍醐帝(在京中)の意気込みにも驚くが。(←決して「生きゴミ」と呼んではイカン)

240 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 20:19:48.13 .net
南朝が粘り強く一部から熱心な支持が集まっていたことについては研究が必要
高師直に吉野を焼き払われた後でも、南朝を支持する勢力は畿内だけでも、
河内にも大和にも伊勢にも紀伊にも存在していた

241 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 22:03:18.52 .net
積極的に南朝を支持するというより北朝が憎かっただけの印象

しかし土豪が反北朝を鮮明にしても討伐できないという・・・・ 弱すぎ

242 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 22:21:40.22 .net
中世ってどこの地域でも似たようなもんじゃね

十字軍とかカノッサの屈辱とかの時代のヨーロッパとかも大差ないでしょ

243 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 11:30:51.97 .net
大和国は興福寺の勢力圏で、必ずしも室町幕府の支配が及ばなかったことも要因ではないか?
興福寺と関係の深い土豪が割拠しているので、中には後南朝皇胤と関係を持つ者も出てくる
だから、小勢力の後南朝が長期間続いてしまったのではないだろうか?

244 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 11:43:51.02 .net
その興福寺のなかが二大派閥に別れての盛大な派閥抗争続きだった点こそ重要では
南北朝時代にも両派に割れて戦争してるしさ
勝負がついても負けた方を殲滅できないから紛争の種が残り続けるし

もと南朝支持だったがわはどうしても起死回生を狙って南帝擁立に走りやすかったんじゃないかなあ

245 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 12:20:14.98 .net
南北朝期の比叡山とかドライだよな
天台座主だった護良親王の縁もあるのか、湊川合戦の後は後醍醐天皇を匿って
足利軍と一戦交えたぐらいだったのに

後醍醐天皇が吉野へ逃れてからは急速に関係が冷却化したのか、
比叡山が南朝に味方して足利と戦った形跡はない

後南朝のきんけつの変の時に、後南朝の一派が比叡山へ逃げてきたが、
比叡山が後南朝に味方することなく、足利軍と連合して後南朝と戦って排除した

246 :日本@名無史さん:2019/06/02(日) 19:14:45.78 .net
比叡山が北朝を支持したのは北朝の正統性に大きく貢献しただろうね

247 :日本@名無史さん:2019/06/03(月) 11:26:16.80 .net
南朝とか北朝とか、

キムチくせーんだよ!

オマイらチョンは

248 :日本@名無史さん:2019/06/03(月) 12:35:49.42 .net
後南朝は過大評価してはいけないが、過小評価もしてはいけない
大和、河内、紀伊などでは一定の支持者もいたし、動員力もあった
貴種としての政治力も一定程度残っていた

249 :日本@名無史さん:2019/06/06(木) 23:48:31.25 .net
戦国時代でも大内義興や上杉謙信、織田信長は貴種を旗印にして、
自分の権威の向上に役立てていたが、
後南朝がそれを活用できなかったのが惜しいな

250 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 00:58:22.42 .net
大内にとっても謙信や信長にとっても後南朝は自分の役に立たない無用な存在だったからね

251 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 05:26:44.68 .net
100〜150年くらいで人々の意識が変わるんじゃない?
いわゆるパラダイムシフトってやつ?

252 :251:2019/06/07(金) 06:08:37.58 .net
あるいは応仁の乱 明応の政変の破壊力が大きくて従来のパワーバランスが崩れた・・・とか

「打倒室町幕府」を目標に南朝の子孫を担いでいたが、その室町幕府自体が弱体化して
しまったので南朝を担ぐ意味がなくなったとか

南朝の天皇による政権・親政を目指していた勢力もあったのかもしれんが、それはパラダイム
シフトというやつで後醍醐天皇から100〜150年を経て人々の意識からほぼ消えていたの
ではないか

253 :251:2019/06/07(金) 06:09:45.52 .net
パラダイムシフトとか書いてるけど、書いてる俺自身が実は言葉の意味がよくわかってないのだが

254 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 08:38:50.82 .net
応仁の乱は後南朝にとってチャンスであったと思う。
西軍は軍事的に劣勢だったし、名分においても弱かった。
一方、東軍は将軍御所を押さえ、上皇・天皇も確保していた。
だから、後南朝皇胤であっても担ぎたい動機はあったし、実際、西陣南帝を擁立した。
このチャンスを生かせていたら、後南朝は復活できていた。

255 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 18:58:28.77 .net
古河城まで行けば古河公方が後南朝をかくまってくれそうだけどな
古河公方は幕府の推挙で朝廷が決めた年号改元を頑なに認めなかったから

256 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 20:12:28.51 .net
匿ってもデメリットしか無いじゃん

257 :日本@名無史さん:2019/06/07(金) 21:13:17.91 .net
後南朝の西陣南帝から古河公方足利成氏へ征夷大将軍に任命してもらえばいい

258 :日本@名無史さん:2019/06/08(土) 10:04:26.10 .net
応仁の乱で義視に通じていた公家の葉室光忠は、義視が擁立した西陣南帝に
あまり熱心に奉公しなかったようだな
応仁の乱終結後、葉室家は京都朝廷に復帰し義視とも親しくしているが、西陣南帝と交流していた形跡なし

259 :日本@名無史さん:2019/06/08(土) 13:21:26.16 .net
西軍側でも西陣南帝に対しては温度差があったらしい
西陣南帝を推戴することで、西軍側の政治的立場の弱点を補強しようという人もいた
新帝を擁することで、西軍は政権(西幕府)としての外形を整えることができる
一方、新帝擁立まで踏み切れば、将軍・義政を擁する東軍(室町幕府)と完全に対立する
ことになり、早期の和睦を図るのが難しくなる
「できれば早期に和睦し、義政に帰順したい」と考える人は、西陣南帝から距離を置こうとした

260 :日本@名無史さん:2019/06/09(日) 19:37:54.41 .net
何を書こうが西陣南帝の末路があれだからな
諸将から捨てられて、地方に押し付け合いされて、たらい回し
で、最後は消息不明

本当に紀伊や大和にまだ担ぐ勢力があれば、そこに帰るはず
当時はもうそういう勢力なんて無かったと考えるのが自然

261 :日本@名無史さん:2019/06/10(月) 12:16:58.49 .net
足利義視が当初から危惧したように、西陣南帝を擁立することで、東軍との和解が遠のく
ことに、西軍の諸将が気づいたからではないか?
経覚や尋尊も西陣南帝擁立に懸念を示したので、大和・紀伊の豪族たちも後南朝から距離
を置くようになったのだろう
「西陣南帝擁立」という地点にまで到達したからこそ、そのリスクが認識されるようになり、
後南朝を支援する人が急速に途絶えたのかも知れない

262 :日本@名無史さん:2019/06/10(月) 20:32:29.08 .net
西陣南帝って観応のときみたいに勝ったら即ポイ捨てされそうな予感。
曲がりなりにも独自の武力と支配領域を残してた観応時の南朝とは違って、後南朝にはそんなん無いしな

263 :日本@名無史さん:2019/06/11(火) 08:52:15.00 .net
西陣南帝「僕朕の生活の面倒を生涯みてくれたら、征夷大将軍、太政大臣、関白、
何でも好きな官位をあげるよ!!追討令も和平仲介も出兵催促も、
詔勅綸旨宣旨で何でもできるよ!!さあさあさあ!!!!」

諸侯「」

西陣南帝「あれ?応募がない?」

264 :日本@名無史さん:2019/06/15(土) 11:53:46.62 .net
応仁の乱の西軍の諸将は室町幕府の守護や足利一門であって、南朝の公家や武士は
いないからね
陣中において西陣南帝は孤立してしまっている
随身や女官は伴っていたのかも知れないけどね

265 :日本@名無史さん:2019/06/17(月) 05:34:25.46 .net
随身や女官なんていないよ
そんな勢力は既に無い
山賊のような取り巻きが少数だけだろう

266 :日本@名無史さん:2019/06/17(月) 06:11:56.72 .net
なんで天皇が必要だったのかよくわからん
そもそもこの頃は天皇号を贈ることが途絶えていたそうだし、じゃあいったい何だったのか?

ミカド?

とにかく天皇が必要で年号が必要で従う者は官位・官職(衛門佐とか)を貰うことが必須だった?

官位・官職を貰わないと始まらない?

267 :266:2019/06/17(月) 06:15:11.13 .net
「南天皇」なんて名称は新しすぎる

「南院」とかじゃないとダメだな

268 :266:2019/06/17(月) 07:13:41.45 .net
>>265
山賊たちが欲しかったのは

・幕府、金剛峯寺、根来寺、興福寺、その他近隣勢力から干渉されない権利
・完全無税

・・・だろうな

269 :日本@名無史さん:2019/06/17(月) 12:41:32.36 .net
>>267
いや、南帝って呼び名があるし

270 :日本@名無史さん:2019/06/17(月) 19:56:14.38 .net
>>266
東軍は上皇と天皇を擁しており、将軍の足利義政を擁していた。将軍御所も占拠していた。
だから、西軍も天皇を擁立することで、政権としての正統性が欲しかった。
そこで、大和の国人・越智家栄の仲介で紀州・大和方面で勢力を築いていた西陣南帝を
陣中に迎えることにした。

271 :日本@名無史さん:2019/06/17(月) 21:56:03.12 .net
西軍「こっちだって「天皇」を用意できるんだからね。官軍だ官軍だと東軍も調子に乗るなよ」という牽制球だな

ただ本気で別の天皇を擁立する気もないのでハッタリな所もある
本気で擁立されるつもりだったであろう西陣南帝にとっては憐れだが

272 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 08:40:31.07 .net
ただ、西陣南帝は上洛して西軍の陣中に入ったことが命取りになったね
紀伊・大和の本拠地に御所を構えて地盤を強化しながら、勅使だけ西軍に送ればよかった
西軍の足利義視に征夷大将軍任官を宣下することで新帝としての権威を示すこともできた

273 :日本@名無史さん:2019/08/24(土) 17:26:16.53 .net
後南朝を大河ドラマでやってほしい
教尊を主人公にしてじっくり描ければ、かなり人気がが出て、今の不振を挽回できると思う

274 :日本@名無史さん:2019/08/24(土) 18:54:59.56 .net
視聴率の最低記録を更新できるだろうね

275 :日本@名無史さん:2019/08/25(日) 05:56:11.21 .net
登場人物が出てきてはあっという間に退場
ナレ死対応すらしてもらえない

これの繰り返しだから、最低の大河になるだろうな

276 :日本@名無史さん:2019/08/25(日) 11:57:44.82 .net
後南朝は無理だろうな…
いいとこ北方太平記…

277 :日本@名無史さん:2019/08/25(日) 12:36:14.67 .net
20××年 大河ドラマ「自天王 悲しき吉野のミカド」

自天王役(源尊秀)中川大志
自天王の母役 松坂慶子 
忠義王役   井之脇海
金蔵主役   阿部サダヲ

278 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 21:55:51.05 .net
>>277
センス無さすぎい

279 :日本@名無史さん:2019/08/27(火) 03:24:29.65 .net
>>277
エピソードが少なすぎるから、せいぜい2時間ドラマ
それでも間延びした物語になるだろう
大河なんてとても無理

280 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 23:22:46.23 .net
人気が出るのは小倉宮聖承と教尊だから、イケメンな俳優が演じれば、歴史女子の間で
評判になる可能性はある

281 :日本@名無史さん:2019/08/31(土) 10:26:35.26 .net
後南朝がドラマ化されれば、川上村などの村おこしにつながる
外国人観光客も一気に増加して、世界中が後南朝ブームになる

282 :日本@名無史さん:2019/09/01(日) 20:25:00.94 .net
随分と狭い世界で生きておられるようで

283 :日本@名無史さん:2019/09/03(火) 22:12:24.16 .net
>>281
あそこは大昔からこれネタにして村おこししてるじゃん

むしろやりすぎてもう新鮮味ないだろ

284 :日本@名無史さん:2019/09/06(金) 12:45:06.57 .net
中国人を大勢乗せた観光バスが川上村に集結するようになれば流れが変わるな
秋葉原と並んで川上村は聖地となる

285 :日本@名無史さん:2019/09/09(月) 02:32:54.03 .net
村民だって聖地を毛唐人に踏み荒らされたくないだろ

286 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 15:34:01.30 .net
主人公は西陣南帝でいいと思う
応仁の乱でかなり長く引っ張れる
西軍に迎えられる回は最高視聴率になる

287 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 23:53:40.45 .net
何谷有美「川上村の後南朝伝承と朝拝式 : 「変容」に見られた当事者の実践」 『日本民俗学』(298) 2019.5

ここの住民なら必読

288 :日本@名無史さん:2019/09/16(月) 05:25:52.44 .net
その西陣南帝ってどんな服装してたのかね?

あと、家来はどんな人間がどれくらいいてどんな服装をしていたのか?

289 :日本@名無史さん:2019/09/16(月) 06:31:38.12 .net
西陣南帝は最初は「法体」だったというから、僧形をしていたと考えられる。
紀州方面で地元の土豪たちに擁立されて挙兵したころから、蓄髪して直衣を着けて
烏帽子をかぶっていたのではないか。
新帝として上洛したときには、衣冠束帯しただろうし、北野松梅院を仮御所とした
際には御簾の背後に南面されたことだろう。

290 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 12:37:52.23 .net
南北和談で後亀山天皇入京時の行列も実にみすぼらしいものだったそうだし、それが後南朝とかなったらもう・・・

291 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 12:23:45.53 .net
あれは後小松が後亀山の太上天皇尊号を拒否したからじゃね?

292 :日本@名無史さん:2019/09/28(土) 09:30:42.79 .net
後南朝は所領が少なかったから、行列に参列する官人への俸給も少ない
禁裏御料も乏しいから、主上の装束もみすぼらしいのはやむを得ない

293 :日本@名無史さん:2019/10/18(Fri) 12:49:45 .net
武内の吉野太平記ならドラマ化できるかも、と保守がわりに書き込み

294 :日本@名無史さん:2019/11/02(土) 16:46:28 .net
美作後南朝なら長く続いたから大河ドラマ化しても、1年間持つかも知れない
華やかな江戸や京都と対比しながら、植月御所の内裏や廷臣たちの屋敷が並ぶ街並みを
描けば、味わい深いドラマになるだろう

295 :日本@名無史さん:2019/11/02(土) 22:27:03.24 .net
美作ってどこの世界線の話ですか?

296 :日本@名無史さん:2019/11/04(月) 22:51:29 .net
美作後南朝は9代264年も続いているから、全期間をドラマ化するのは難しいだろうな
初代尊義王の時代か第9代良懐親王の時代にしぼったほうがよい

297 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 00:27:18.63 .net
とはいえ、創作物の中にしか存在しない架空の皇統だけどな

298 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 09:20:18.19 .net
https://i.imgur.com/5wfzc9B.jpg

299 :日本@名無史さん:2019/11/07(木) 01:01:26 .net
「貴人 貴種」と「一般人」の境目がどこにあるのかよくわからん

源頼朝は貴人とみなされていたから田舎武士が集まったんだろうけど、庶兄の源義平だったらどうだったか?

足利・佐竹・武田だったらどうだったか?

集まった田舎武士も天皇の子孫の源氏・平氏であることが多いのに貴人・貴種とはみなされない これは
何故か?

300 :日本@名無史さん:2019/11/07(木) 07:04:23.55 .net
都の高位貴族とのつてがあって、官位とか所領紛争とかで後ろ盾になってくれるのが重要なんじゃね?地頭補任にしても官位にしても東国武士が欲しかったのは王朝国家システム内部における地位であり権益だったんだから。
だから都で活動する軍事貴族、あるいはその近親であることが重要。都落ちして数世代以上たった足利やら佐竹やらはその点で厳しい。

頼朝は一流人だけど、一度東国武士の結集の核になれればそういう交渉ができる血縁やコネがあった。そこが平将門みたいな田舎っぺ大将や平治の乱まで無位無官の冠者だった義平とは違うところ。

301 :日本@名無史さん:2019/11/07(木) 07:42:16.85 .net
足利は都にも出仕してたけど、
官位までは得られてない下っ端だったからな。
都に伝手がないわけじゃないけど、旗頭にはちょっと頼りない。

302 :日本@名無史さん:2019/11/07(木) 09:02:21.17 .net
将門や義平みたいな田舎っぺ大将がまかりまちがって不満武士の糾合に成功したらどうなったかのモデルケースが木曽義仲じゃなかろうか?
頼朝政権が安定した要因の半分は東国武士団を糾合して軍事的勝利を収めたことだろうけど、残り半分は朝廷との安定した関係構築に成功したことだろう。

そういう意味では、官位は低くても都との関係性が薄くても、混乱期には武士の結集の核になるチャンスはあったんだろう。将門、純友、義仲にもできたんだから。
ただそこから法的正統性を得て安定した政権を構築することは「貴種、貴人」じゃなければ無理だった、ということかなあ。

303 :日本@名無史さん:2019/11/09(土) 04:14:36 .net
明治になって持ち上げられてのって
勤王っていうか、
志士たちが、ああ京都の公家マジウゼー!こんな奴らにいじめられて、作戦却下された楠公マジかわいそう!
って思いがあったんかな

304 :日本@名無史さん:2019/11/09(土) 10:37:02 .net
>>299
天皇・中央貴族との血筋が近いこと、自身も五位以上の官位を帯びていることが貴人
としての基準になるように思われる。
源頼朝は左馬頭・播磨守(国司としては最上位級)の地位にあった源義朝の嫡子で
あり、自身も右兵衛権佐に任官したことがあった。
木曾義仲も父の源義賢が帯刀先生に任官した貴族なので、頼朝には及ばないが、
貴人として求心力を持つ可能性はあった。
同時期の皇族・以仁王も、本人は親王宣下も受けていない不遇の身であったが、
後白河法皇の皇子であり、「天皇から一代しかたっていない」ため、貴人として
求心力があった。

関東武士の多くは天皇・中央貴族の子孫であり、その血筋に連なることへの身分意識を
持っていたが、貴族としての官位に就かなくなってから世代がかなりたっている。
だから、自分たちには求心力はなく、源頼朝のような貴人を主君としたのだと思う。

305 :日本@名無史さん:2019/11/09(土) 10:57:59.45 .net
よく北条スレで話題になるが、鎌倉幕府の執権北条氏は、桓武平氏の血筋に連なると
されるが、在庁官人の身分とされており、国司や知行国主の下僚として仕える身分
であった。時政、義時はやがて国司に任官するようになったが、代々国司や京官の
地位にあった血筋に連なる源頼朝との身分差があったと思われる。
そのことが、源氏将軍廃絶後も、北条氏が鎌倉殿ではなく、幕府機構の実務責任者
として権力を振るった原因となったと考えられる。
源頼朝の元に集まった関東武士の多くは、在庁官人の身分の者だった。

306 :日本@名無史さん:2019/11/22(金) 16:16:10 .net
楠木正成 聖徳太子の予言書を読む
https://plaza.raku
ten.co.jp/denkyu
pikaso/diary/201911220001/

307 :日本@名無史さん:2019/11/22(金) 16:37:24.72 .net
>>695
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しは、
何も根拠なく、主観で自分の好みの感想を述べてるだけ
議論でも何でもないな

大和説は、無能でバカ

308 :オレンジ・エア:2019/11/22(金) 23:40:02.66 .net
晴富日記によると西陣南帝は越前に落ち延びたそうな

法名は西厳。

309 :オレンジ・エア:2019/11/22(金) 23:41:33.50 .net
明治維新は建武中興なので楠木正成は英雄なのである。

310 :オレンジ・エア:2019/11/22(金) 23:47:38.96 .net
西陣南帝は京都の船岡山に陣を張った。

船岡山には健勲神社がある。

311 :日本@名無史さん:2019/11/23(土) 00:20:35 .net
>>307
どこのスレの誤爆だよ、zarakoku爺

312 :日本@名無史さん:2019/11/23(土) 00:22:47 .net
>>308
信長の父祖の法名と似てるな
日厳、月厳、桃厳だそうだ

313 :オレンジ・エア:2019/11/23(土) 00:48:19 .net
ザラコクが誤爆したのかw

俺のレスに釣られたのか??

西陣南帝の法名は西厳
織田信定の法名は月厳

314 :オレンジ・エア:2019/11/23(土) 00:52:51 .net
美作南朝、津山藩は森家(本能寺の変の森の末っ子

津山といったら八つ墓村(津山事件な

八つとは平氏の蔑称

315 :299:2019/11/25(月) 06:15:07 .net
貴人貴種について考えていたが、要は「一代で顕著な成功を収めた人」ということなんだろうな

あと、一代で顕著な成功を収めた人が作った組織・財産・得た地位を継承する権利のある人。
どこの社会でもこれは血縁関係者・・・特に息子であることが多いな
今でもよく見かける

松下幸之助-松下正治-松下正幸
豊田佐吉-豊田喜一郎-豊田章一郎-豊田章男

316 :299:2019/11/25(月) 06:24:01 .net
「社会的成功」って書くほうがよかったかな? まあどうでもいいか

四位 五位の地位に昇ろうとしたら色々やらんといかんようだな。
他氏の排斥に加えて、自分に近い身分の親族が腐るほどいるので何らかの方法でいちいち
屈服させなければならない

その前提として、初代は類まれなリーダーシップが必要だな 二代目以降は初代が築いた組織・
財産・身分を受け継いで次代にバトンタッチする必要がある

317 :299:2019/11/25(月) 06:33:22 .net
競争原理が働く社会だと何もしないと地位がどんどん落ちていったようだな

ウィキペディアの知識しかなくてすまんが、例えば、嵯峨源氏は高位高官からスタートして
同族もたくさんいたのに、絶対的勝利者・絶対的権力者である藤原北家に敵対して
しまったので宮廷社会からハブられてしまって地位がどんどん落ちてしまった

結果、蓄財もできなかったし、大武士団も結成できなかったし、宮廷社会で再浮上することは
なかった ま、嵯峨源氏出身を称する江戸期の大名はいるし、「渡辺」姓の人は日本で10位くらいの
多さで大繁殖してるといえばしてるんだが

318 :日本@名無史さん:2019/11/25(月) 06:56:08.73 .net
貴族としての源氏は天皇との血縁の近さを利用して出世してるので、世代を経るだけでもハンデが強くなっていくよ

319 :299:2019/11/27(水) 06:25:58 .net
>>318
ウィキペディアで得た程度の知識なので申し訳ないが・・・

どの氏族も・・・・武家清和源氏・武家桓武平氏・公家村上源氏も最高権力者に接近して
五位以上の位を保ってるようなんだが

村上源氏はスタート時点で藤原摂関家と仲が超良くて他氏のように排斥されることがなかったようだ

武家清和源氏・武家桓武平氏も藤原摂関家や院の従者からスタートして五位以上の位階を
もらったようだな 特に「○○の乱」「○○の役」が起こるたびに顕著な功績を収めた者が五位・四位+
カリスマ・ブランドを得て、その氏族の「嫡流」「棟梁」の資格を得たわけだ。

320 :299:2019/11/27(水) 07:31:23.77 .net
しかしそれにしても・・・・

●天皇
●院
●摂関家

・・・って神聖不可侵の存在だったのだろうか?
ここだけは絶対に誰も冒そうとしないな 天皇・摂関家を追放して代わりに自分がなろうとする者がでない。
天皇・摂関の地位そのものをなくそうという者もでない

日本国の最高権力者に上り詰めると誰も手を出さない?

北条義時あたりが新しい皇帝に即位して北条朝初代皇帝になってもよかったんじゃないのかと思うんだが、
そうはならないんだな 実に不思議だ

321 :299:2019/11/27(水) 07:42:43 .net
とにかく数百年間どこまで行っても律儀に

・持明院統の正統後継者
・大覚寺統の正統後継者

を立てて、ひたすら三種の神器の奪い合いをやるとか・・・なんかルールのあるスポーツをやってるのか?と思ってしまうな
ラグビーのボールの取り合い・サッカーのボールの蹴り合いみたいな

その一方で国司・国衙・在庁官人・朝廷の文武百官に忠実でこれらを守り立てていくのかというとそうではなく
これらから実権をどんどん奪いとっていっている 国衙領・皇室領・公家領・寺社領も尊重するわけではなく
どんどん強奪していっているしな

この現象をどう理解すればいいのか?

322 :日本@名無史さん:2019/11/27(水) 20:17:24.80 .net
>>320
北条氏は在庁官人の家柄で、中央貴族の知行国主、国司、またその目代の下僚として
仕える立場だった。
そして、鎌倉幕府ができてからも、武士たちの主君は中央貴族で公卿の地位にある
人が就くものという身分意識を、武士たちは持っていた。
だから、北条義時は武士たちの主君にはならなかったんだよ。

323 :日本@名無史さん:2019/11/27(水) 21:59:17 .net
>>血筋は取って変われんからね。御輿、御幡として貴人が必用なだけで、土地は自分の物なんでしょう。

324 :オレンジ・エア:2019/11/29(金) 21:23:13 .net
新羅は源氏、百済は平氏

325 :日本@名無史さん:2019/12/16(月) 08:30:42.98 .net
南朝も後南朝も一種の亡命政権で、本拠地は築いたものの、都の造営まで手が回らなかった
ことが、政権としての脆弱さを招いたかも知れない
長期にわたって北朝と対峙するのなら、都の造営は必要だった

326 :日本@名無史さん:2019/12/16(月) 19:23:52.95 .net
南帝は仮内裏にお住まいだったし、永住するかわからなかったからな
戦況が好転すれば遷都もあり得た

327 :日本@名無史さん:2019/12/18(水) 23:26:26.29 .net
南朝は天皇が住めば都だろ

328 :日本@名無史さん:2019/12/20(金) 07:30:19.10 .net
平壌も1972年迄はあくまで「ソウル奪回までの仮首都」扱いだったしなあ

鎌倉を追われた鎌倉公方が移った古河にはけっこう都市的繁栄が見られたそうだし、南朝ももう少し長続きすれば吉野(河内あたりの山奥)に都市ができてたかもね。

329 :日本@名無史さん:2019/12/20(金) 08:05:46.17 .net
現代の吉野は極めて交通の便が悪い僻地だが、河川交通が盛んだった往時はそれなりに往来のできる場所だったそうだしな

とはいえ、南朝の時代でも吉野を常時維持できていたわけではなくて、攻め落とされて失ったこともあるので発展できなかったんだろうな

ちなみに、河内ではなく大和国内だぞ。大阪府ではなく奈良県な。

330 :日本@名無史さん:2019/12/22(日) 00:43:25.00 .net
古河には公方に仕える官僚機構があったし、経済都としての機能もあったので、
商人や職工たちも多く住んでいた。
南朝・後南朝の都も長く続けば、北山御所の周辺には公卿や官人の屋敷が並ぶ
ようになり、検非違使による治安維持も行われるようになった。
古河も利根川を中心とする水路が物流を支えたので、北山御所においても
水路を介して商都としての機能が形成されたものと思われる。

331 :日本@名無史さん:2019/12/22(日) 02:05:59.66 .net
古河公方はそれなりの規模で官僚を抱え込んだけど南朝はろくに役人を抱え込むこともできない人材難(官僚じゃなく上級貴族は少なからず居たけど)
規模的に都を発達させるのは難しい。
規模的にはむしろ賀名生がお似合いだった

332 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 22:01:56 .net
南帝は旧平城京には住まなかったの?
守り難いのかな?

333 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 22:38:52 .net
当時の交通事情だと平城京跡地(完全に寂れて寒村のみ)と吉野では交通の便は大差なかったはず
どちらも川を下ればそれなりに大阪方面とかに出れる
ただ、平城京から下ると京都の近くまで回らないといけなかったのでは、それでは守りにくすぎる

334 :日本@名無史さん:2019/12/28(土) 17:40:07 .net
吉野は地形的に急峻なので、守りやすいと思う。
大軍を擁して攻めても、平地に大軍を展開した布陣ができない。
後南朝側は、伏兵によるゲリラ戦が可能だし、内裏が危険になれば、山中を逃亡する
ことも可能だ。
ただ、都市としては進展性がないので、本格的に都を造営するのは難しい。

335 :日本@名無史さん:2019/12/28(土) 18:42:36 .net
間違いだらけだな

336 :日本@名無史さん:2019/12/29(日) 15:52:52.34 .net
平城京近くの興福寺では、大乗院門跡は北朝方に、
一乗院門跡は南朝方に味方して争ってたから、南朝も安全地帯とはいえない
平城宮を本拠地にしにくかったんじゃないか

あと南朝の大僧正・文観の人脈だ
笠置山も吉野金峯山寺も河内金剛寺も文観のネットワークだ
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/yamabushi.html

337 :日本@名無史さん:2019/12/29(日) 23:30:47.45 .net
後南朝は南帝を護衛する随身もわずかしかいなかったし、院御所に詰める北面の武士も
十分ではなかったことを考えると、防衛が難しい環境にあった
平城宮ではなく、吉野行宮を本拠地にする必要があった

338 :日本@名無史さん:2020/01/08(水) 17:31:12.14 ID:TrZskWkOj
吉野の山奥なら攻める側も大軍を長期間展開できないしな、軍勢が多ければ多い程、
補給が持たないし現地調達で賄える程には豊な場所でもない。

339 :日本@名無史さん:2020/01/12(日) 11:13:29 .net
文観と賢俊の権力争いも面白いね

340 :日本@名無史さん:2020/01/13(月) 08:30:29 .net
一条院門跡など後南朝方の高僧もいた
また、大和の学僧や国人の支援があったので、後南朝は長く続いた

341 :日本@名無史さん:2020/01/13(月) 12:52:02 .net
なあ、このスレと趣旨が違うとは思うんだが

>>336で取り上げている「大乗院は北朝側」というのはどうしてなんだろうな?
まあ「近衛系一乗院と九條系大乗院」が仲が悪いのは解かる

たださ、当時は『禅宗強国時代』で各宗派は不満を高めていた
また大覚寺系は『真言宗優遇政策』で、『京仏教天台宗』は不満だったんだろ?

で、『金剛峰寺派』や『南都仏教復興運動派』は、『京仏教派』や『禅宗派』に
あまり良い感情を抱いてなかったはずだ

なのに、そんな中でも実質大和国司に当たる『興福寺勢力』は
真言宗の一員であり、大和の名主として一致団結してしかるべきだと思うんだがな〜

342 :日本@名無史さん:2020/01/13(月) 15:18:57.21 .net
そういう主義主張ではなく、敵の敵は味方って方向で、一条院と大乗院の対立構造が先にあって、あちらが北朝ならこっちは南朝だってレベル

各地域の南朝方北朝方の対立も大多数は同様で、目の前の敵対者が付いてるのと別の閥に所属しようとしてるだけ

343 :日本@名無史さん:2020/01/13(月) 19:07:57 .net
反権力が担ぐにはもってこいの後南朝

344 :日本@名無史さん:2020/01/15(水) 06:47:29.21 .net
平家も北条家も残党は草の根分けて狩られたのに後南朝はそういうふうにはならなかったのが謎

345 :日本@名無史さん:2020/01/15(水) 14:53:55.58 .net
??「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」

346 :日本@名無史さん:2020/01/15(水) 19:40:57 .net
後南朝は大和や紀伊を根拠地にしたことが、長続きした原因だと思う
室町時代の大和は、摂関家の影響が大きい一方、寺院を中心とした勢力が大きくて
中央権力がなかなか制御できない地域だった

347 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 00:58:36 .net
後南朝の収入源て何だったの?八条院領は無いに等しいし、それにまず吉野まで物資運べないよね?

348 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 01:55:50 .net
南朝の時点で、荘園からの収入はほとんど横領されてただろう。仕方ないから傘下の武家や寺社の収入から「朝用分」と称してピンハネしていた。
手柄立てた奴への恩賞も「○○荘地頭職を与える(ただし、実際の引き渡しは天下一統の後でねw)」だし、詐欺みたいなもんだな。

349 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 12:11:14.24 .net
南朝秘話

美作南朝

350 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 12:13:28.82 .net
西軍は船岡山に陣を張った。

西陣南帝である

351 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 12:34:53.57 .net
後南朝の収入は乏しかったので、南帝の暮らし向きも不如意だった
日々、奉られる大御食も吉野山中で採集した山菜が中心だったし、新嘗祭の挙行にも
参列する官人は乏しかった

352 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 12:39:34.98 .net
講釈師見てきたように嘘を言い

353 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 12:55:44.31 .net
後南朝じゃなく南朝の時点ですら、官人は吉野に行ってない、ほとんど南朝につかえていない
当然、供奉する官人は極めて少なくなる
ましてや後南朝だとね、ほぼいないでしょ

354 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 13:19:09 .net
南朝の発給文書は武家文書の様式に近い、と分析してる人がいたなあ。
官人の層が薄くて天皇と武士が直接に主従関係に近い関係を結ぶようになった結果としてそうなったのかな?

355 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 14:02:22.32 .net
鎌倉幕府じゃねえか

356 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 14:55:11 .net
南朝って公家優先のイメージとは裏腹に、天皇と武士が御恩と奉公を媒介に直接結びつく軍事政権としての性格が濃厚だったようにも見えるんだよね。

楠木正儀なんか南朝で公卿まで昇ってるし、武士の影響力が強い。

357 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 19:09:08 .net
けど五摂家は南朝側の摂関に就いたよね?

358 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 19:12:58 .net
五摂家は人数の関係であふれてたからね

跡継ぎ争いで南朝と北朝に分かれて争うんだ

359 :日本@名無史さん:2020/01/16(木) 21:56:34 .net
>>344
平家や北条は武士。後南朝は落ちぶれたとはいえ皇族だからな

360 :日本@名無史さん:2020/01/17(金) 16:14:29 .net
>>321
単に下剋上ぽくなってるだけじゃない?

361 :日本@名無史さん:2020/01/17(金) 19:21:03.74 ID:V3e4BSYH6
初歩的な疑問ですまんが、御醍醐帝は律令体制に戻すとして荘園はどう整理するつもりだったの?
自身も厖大な荘園を有していたはずなのに。

362 :日本@名無史さん:2020/01/17(金) 19:23:36.97 ID:V3e4BSYH6
>>347
吉野近辺の南朝派に恵んでもらってたんじゃないの。既に単なる御神輿に過ぎないと思う。
担いでる連中は曲がりなりにも自分の所領なり収入源があるし。

363 :日本@名無史さん:2020/01/18(土) 10:59:56.68 .net
摂関家を始め、公家の家門にも跡目争いがあったので、兄弟や親族と反目した公家が
後南朝に出仕することもあった。
人数はわずかであるが、摂関や大納言の要職に就いて南帝に近侍する者もいた。

364 :日本@名無史さん:2020/01/20(月) 00:04:06.27 .net
五摂家で南北朝に分裂したのは二条と近衛だけ。
南朝の関白は実質この二家で回していた

365 :日本@名無史さん:2020/01/20(月) 14:18:25 .net
>>364
後猪熊関白近衛経忠や平田関白近衛経家・玉櫛関白二条冬実なんかだね

しっかし非常に興味深いのは近衛家だよね
近衛家は、近衞家基の時代から二つに別れたんだけど
第一夫人の『大覚寺統 亀山天皇皇女』から生まれた次男の経平が持明院統北朝方
第二夫人の『鷹司朝子』から生まれた長男の家平が大覚寺統南朝方なんだから

366 :日本@名無史さん:2020/01/20(月) 17:26:55 .net
敵の敵は味方 の論理以外に理由がなく、人脈とかガン無視で南朝についてたってとこかな

367 :日本@名無史さん:2020/01/20(月) 18:28:20.83 .net
面倒だからそりゃ義教さんも殲滅しますわ

368 :日本@名無史さん:2020/01/21(火) 15:07:17 .net
南朝関白って仕事は何をするんや?

369 :日本@名無史さん:2020/01/21(火) 15:16:02 .net
つか、後醍醐天皇って建武以後は摂関を不設置じゃなかったっけ?

370 :日本@名無史さん:2020/01/21(火) 20:38:14.23 .net
後醍醐帝だけな。他は院政もやってるよ

371 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 04:36:54 .net
摂関の仕事は主に儀式儀礼じゃね。
公家の家格が固定して特定の家門のみ摂関を輩出するようになって以降、摂関=最高権力者ではないしなあ。
外戚とか武家とのコネとかで内大臣止まりでも宮廷を牛耳る人物も出てくるし。

大納言以下でも摂関より権力あった例ってあるのかな?

372 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 12:59:08.67 .net
後南朝の関白は、北山御所に参上して南帝に拝謁することもあるが、具体的な職務は
あまりなくて、歌学の研究に没頭することが多かった
早期に辞官して落飾する者も少なくなかった

373 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 15:46:15.97 .net
鎌倉時代なら西園寺がブッチギリだろ

374 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 18:18:17.57 .net
南朝と違って後南朝なは関白とかいなかっただろ

375 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 18:59:10.38 .net
>>373
西園寺は清華家だし、宮廷を牛耳るような実力者ならスムーズに太政大臣まで進むだろ

376 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 19:19:30.19 .net
関東申次をご存知ない?

377 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 19:49:05.05 .net
>>376
ご存知ないこともないが・・・
なぜ?

378 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 19:50:31 .net
>>375
>大納言以下でも摂関より権力あった例ってあるのかな?

コレへのレスかと思ったんだけど、誤解だったかな?

379 :日本@名無史さん:2020/01/22(水) 19:54:24 .net
南北朝でも戦国でも潰えなかった「天皇位」「朝廷内部での昇進コース」「藤原氏内部の家格」ってすごいな

380 :日本@名無史さん:2020/01/26(日) 16:00:46 .net
そりゃ権威あるもん。有職故実のおかげ?

381 :日本@名無史さん:2020/02/01(土) 13:42:33.67 .net
北朝や室町幕府に不満を持つ公家や武士もおり、そのような人たちが南朝・後南朝の
支持勢力となった。幕府側の武士でも、幕府内の内紛によって、南朝側に寝返ること
もあった。そのように、北朝や室町幕府への不満の受け皿として南朝・後南朝は需要
があり、応仁の乱でも旗印として擁立された。

382 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 21:29:02 .net
楠木家は豊臣秀吉によって滅ぼされた
小牧長久手の戦いの際、家康信雄についた楠木の幼年当主が降参してきても許さずに処刑

383 :日本@名無史さん:2020/02/29(土) 16:53:27 .net
宗家は刀鍛冶屋になってたんじゃないんだ

384 :日本@名無史さん:2020/03/02(月) 11:47:25 .net
楠木の当主が?

385 :日本@名無史さん:2020/03/02(月) 20:20:23.26 .net
楠木の庶流は残ってるみたいだけど?

386 :日本@名無史さん:2020/03/09(月) 05:52:27 .net
残ってるのは甲斐庄氏だな 徳川幕府旗本
だけど楠木家の女系子孫であり、男系では無い
楠木正成の弟(楠木正季)の女系子孫だから

甲斐庄氏は早期に北朝側となり、河内守護である畠山家の重臣になっていたからね

387 :日本@名無史さん:2020/03/20(金) 18:48:01 .net
楠木氏は河内の土豪だったが、正成の代に従五位に登り、貴族の身分となった
子息の正儀は左兵衛督にまで登っている
子孫の正理は後南朝において、事実上、公卿の地位にあったと見られる

388 :日本@名無史さん:2020/03/20(金) 22:28:20 .net
いちおう、貴族とか公家という称号は昇殿できる身分を意味してて、現代人が言う貴族よりも範囲は狭いんだよな
五位ぐらいでは昇殿できないから貴族ではない

389 :日本@名無史さん:2020/03/21(土) 23:54:50 .net
>>387
正儀も晩年参議に昇ったから立派な公卿やで

390 :日本@名無史さん:2020/03/22(日) 10:43:10 .net
楠木正成は陣中においては護良親王に近侍し、後醍醐天皇の寵臣でもあったことから
見ると、一介の地下人と見るのはふさわしくない。
上国の摂津、河内の国司を兼ねていた点も合わせると、軍事貴族の地位にあったと
見るのが適当ではないだろうか?
正成の子孫が公卿に昇っていることから見て、正成の代において楠木氏は家格が
堂上家に昇ったものと考えられる。

391 :日本@名無史さん:2020/03/22(日) 12:07:49 .net
国司って、武士としては高い地位だが貴族としては高い地位じゃない

下級貴族などと呼んでる官人あたりならともかく、公卿にまで昇進するような階層にとっては駆け出しの時期に就任することがあるって程度だぞ

392 :日本@名無史さん:2020/03/22(日) 18:56:30 .net
中央で出世できないレベルの人が、小銭稼ぎに就任して嬉しい役職だな<国司

393 :日本@名無史さん:2020/03/23(月) 12:30:50 .net
将来は高位に昇っていく貴族でも、その過程で受領に任官することはあるのでは?
平清盛は安芸守、播磨守に任官した後、太宰大弐、太政大臣に昇った
大楠公も長生きしていれば、議政官に列せられていた
摂津守が極官ということはない

394 :日本@名無史さん:2020/03/24(火) 20:42:27 .net
>>388がちょっとミスリーディングで議論が混乱したんじゃないの?
律令制用語では五位は通貴であって貴ではない、というのはそのとおりだが、現代の歴史学者は五位以上は貴族と扱ってるわけで。「軍事貴族」だって五位以上を指す用語、六位以下は「侍」。
五位が昇殿できない、というのも誤り。

395 :日本@名無史さん:2020/03/30(月) 22:29:54 .net
>>392
小遣い稼ぎというか、人財産稼ぐというか。

396 :日本@名無史さん:2020/03/31(火) 09:00:54 .net
随身ノ珍宝ソノ数ヲ知ラズ。九国二嶋ノ物、底ヲ掃イテ奪イ取ル。恥ヲ忘ルルニ似タリ。

397 :日本@名無史さん:2020/04/02(木) 22:14:08 .net
その数年でかき集めたものは、ほかの美味しい仕事を自分や子供がもらうために殿上人に貢ぐわけで
所詮は下っ端よ

398 :日本@名無史さん:2020/04/05(日) 08:11:00 .net
そもそも西陣南帝に皇位を継ぐ資格があったのか疑問に思う
小倉宮の子孫と自称しているが、小倉宮の血筋は教尊が隠岐島で死亡して断絶している(墓もある)

個人的見解だが、山名宗全が怪しい
なぜなら彼の領国である因幡国には、理由は解らないが南朝系の玉川宮がいた(恐らく幕府により流されたのだろうが)
その玉川宮の一族を利用したんじゃないかと思う

資金援助して山名家の家来を付けて、紀伊に送り込んで土豪を抱き込んで挙兵させたのではないか?
あたかも南朝の一族がまだ健在であるかのように見せかける為に
だからこそ、山名宗全死後の西陣南帝は寄る辺なくさまようしかなかったのではないかと思える

自身を支持してくれる勢力が本当にあって自力で紀伊で反乱起こせる様な勢力を持っていたなら、もっとマシな末路があったはず
山名宗全の考えた策で仕込まれただけの存在だったからこそ、あの末路だったのではないか

399 :日本@名無史さん:2020/04/05(日) 08:13:17 .net
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。

教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。

400 :日本@名無史さん:2020/04/05(日) 23:24:15 .net
ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11506993596.html?frm=theme
一部似た事言ってるね
ただこっちの説は小倉宮と見てるようだが

401 :日本@名無史さん:2020/05/01(金) 23:43:50 .net
wikiの記載だと1416年に後亀山が吉野から京都に戻った時、恒敦は同行せず死ぬまで吉野で抵抗したって有るけど
これって何かの記載が有ったの?
自分知ってる限りだと恒敦は父の後亀山に先立つ事1422年に亡くなったってのだけなんで
他にソースが有ったら知りたい

402 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 09:32:48 .net
東軍側が将軍家に加えて天皇と上皇を擁しているのが政治的優位になっていたから、
宗全が「新主」を立てようとしたのは理解できる。
「新主」に正統性があることを印象づけるため、南朝の本拠地である紀伊で挙兵
させたということか?
紀伊・大和は寺院やその傘下の国人が強い地域で、幕府はかねてからその制圧に
苦心していた。だから、その地域で後南朝勢力に反乱を起こさせることは、幕府の
主流派たる東軍に打撃を与えられるという計算もあったものと思われる。

403 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 18:06:13.34 .net
西軍大ピンチ、御旗が後南朝だと弱すぎる

404 :日本@名無史さん:2020/05/08(金) 03:34:06 .net
大覚寺統を担ぐなら常盤井宮とか木寺宮ぐらいにしとけば良かったのに

405 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:15:45 .net
南朝っつうか後醍醐流としての復興を求めてるんだから最初から北朝側の木寺や常磐井は除外に決まってる

406 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:27:23 .net
そうじゃなくて、北朝の中で対立天皇を立てる、って話じゃないの?
まぁ、皇族も貴族も同意せんだろうから、無理だと思うけど

407 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 21:13:28 .net
>そうじゃなくて、北朝の中で対立天皇を立てる、って話じゃないの?
違います

408 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 23:05:36 .net
後醍醐流以外の大覚寺統は京で密かに皇統を狙っていた!?

409 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 12:45:27 .net
北朝の皇統や北朝系の皇族を擁立しようとしても、断られる可能性が高いんだろうな。
せっかく北朝や幕府の枠組みの中で一定の地位を得ているのに、それを失うリスクがあるから。
もはや失うもののない後南朝だからこそ、リスクの高い擁立にも協力してくれる。
だから、山名宗全が擁立するのは後南朝の皇族でなければならなかった。

410 :日本@名無史さん:2020/05/27(水) 21:30:55 .net
後小松は称光没後に養子先として木寺宮や常磐井宮も検討してた可能性は有るだろうな

411 :日本@名無史さん:2020/05/28(木) 06:04:27 .net
さすがに大覚寺統はないだろ
大覚寺統の人が持明院統を皇嗣にするか?

412 :日本@名無史さん:2020/05/28(木) 22:04:13 .net
後花園天皇ノートってサイトの称光天皇の追号の由来の項目

称光天皇は我らが後花園天皇の一つ前の天皇です。皇女は残せたのですが、皇子を残せなかったため、あえなく皇統が断絶してしまいました。



後小松はそこで伏見宮家から養子を迎えて皇統を存続させることを選択します。私の見るところでは、後小松は当初常盤井宮か木寺宮から養子を迎えることを考えたのではないか、と思っています。しかし実際には伏見宮一択でしかないわけです。

って記載は有るな

413 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 17:56:01 .net
禁闕の変は単に後南朝の残党がってだけではなく後光厳流の叛乱の一環でも有るって説はなるほどと思った

414 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 23:01:23.58 .net
北朝を割ったのは室町幕府だからな

415 :日本@名無史さん:2020/06/27(土) 21:30:53 .net
日本人は禿げだからコロナで死なない

416 :日本@名無史さん:2020/07/04(土) 14:49:38 .net
最善の道は北朝の皇族を擁立することだっただろうな
だが、北朝の皇族はそれなりに地位を得て暮らしているため、リスクのある話には乗ってこない
いちかぱちかの賭けでも乗ってくるのは、後南朝の皇族だけだった可能性が高い

417 :日本@名無史さん:2020/07/04(土) 15:23:01.17 .net
>>413
後光厳流って、後小松の従兄弟/称光の又従兄弟ぐらいまでさかのぼらないと男系いないじゃん
称光実弟らしい一休さんは僧籍で子供もいないしすでに高齢だろ、それでは候補になれそうにないし。
復権する余裕なんて残ってない気がする

418 :日本@名無史さん:2020/07/06(月) 22:46:18.55 .net
室町・戦国時代の歴史・古文書講座ってサイトの禁闕の変のページのコメの
「我々の今日の考え方では「え?なんで後小松院の重臣が南朝と組むの?」となりがちですが、
極端な話、後小松院が南朝よりも恐れたのが、崇光皇統だったはずです。
後小松が後花園への皇位継承を了承したのは、
あくまでも後光厳皇統を存続させるためでしたが、
崇光皇統には貞成親王という、皇統の付け替えに執念を燃やす人物がいて、
彼は自分の子どもが天皇になっただけでは不足であり、
後光厳皇統を断絶させる意気込みで活動しています。
また足利義教は貞成親王を後花園天皇の父親として位置付ける動きをしていました。
後小松院の遺臣からすれば、南朝の方が皇統の付け替えをもくろまないだけまし、
というものです。」
と言う文章は気になる

419 :日本@名無史さん:2020/08/10(月) 21:37:47 .net
吉村いらっしゃい観戦で大阪民国の土人ヒーハー

420 :日本@名無史さん:2020/08/29(土) 15:26:44 .net
非国民の安倍ちょん辞任

421 :日本@名無史さん:2020/08/29(土) 16:48:35.82 .net
後亀山天皇の身の振り方がいけなかった
合一に応じず、ずっと吉野で南朝を続けていたほうが権威を保持できた

422 :日本@名無史さん:2020/09/13(日) 15:49:12.28 .net
>>421
そもそもそれだったら融和派の後亀山じゃなく抗戦派の長慶で良いって事になる
或いは融和派の後亀山を追放して惟成か泰成が天皇になれば良いって事になる

423 :日本@名無史さん:2020/09/20(日) 14:09:06.01 .net
護聖院宮(惟成?泰成?)も融和派っぽいけどな

424 :日本@名無史さん:2020/09/20(日) 21:18:34.53 .net
後村上も条件付きの融和派だもんな。
長慶だけ何故あんなに尖ってしまったのか

425 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 14:54:52.20 .net
融和せずにずっと吉野の賀名生で朝廷を続けていたなら、南朝の皇統を維持できた。
勢力は小さくても、神器を持っていたので、正統な天皇を称することができる。
応仁の乱の際に西軍を支持すれば、西陣南帝をしのぐ存在になっていたのは間違いない。

426 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:36:07.59 .net
もうあと50年も抵抗を続けてたら、しびれを切らした幕府が両朝合一案を捨てて南朝を反乱軍/賊軍として武力討伐・鎮圧する方向に切り替えて皇族まで皆殺しになってただけだろうと思うけど

427 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 21:03:12.45 .net
「長禄の変」は避けられない訳だな

428 :日本@名無史さん:2020/09/22(火) 01:03:14.09 .net
>>424
条件付きってその条件が義詮の降伏だろ
そんなもん義詮が受け入れる訳絶対無いわ
むしろ長慶は良くも悪くも後村上の思想を踏襲してるだろ

429 :日本@名無史さん:2020/09/22(火) 02:50:26.58 .net
長慶は幕府との交渉すらしてないだろ。
だから和平派の楠木正儀に見限られた。

430 :日本@名無史さん:2020/09/22(火) 18:48:35.60 .net
で「義満、私は和平派だ。降伏したら許してやろう。」とか言うのか
「何言ってんだこいつ」の一言で終わりだろ
ぶっちゃけ後村上のあんなもん融和にもなってねーっつの
ちょっとは現実見て語れ

431 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:57:55.57 .net
http://kodocha.s3.xrea.com/bbs/read.cgi?bbs=local&key=1074983637

これ書いたのここの後南朝ヲタだろw
ヒロインが南朝の末裔という珍設定

432 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:03:13.56 .net
貴種流離譚のネタとして、南朝後胤って、わりとありがちなネタだろ
普通の貴族末裔より高級感がありつつ貧乏生活も併存できるから便利だし

433 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:38:31.04 .net
 時は1976年,東京,調布。

 共に関西圏で育った一人の男女が,大学の入学をきっかけにそこで出会った。
 男は大阪で生まれ育ち,女は奈良で生きてきた。
 共に古くから残る名家の育ちだった。

 男の名は真田秀一。戦国時代には隆盛を誇った名家だったが,没落してからは細々と生
き長らえてきた。しかし,過去の誇りと代々引き継がれてきた家刀「村雨」だけは,彼ら
にとって欠かすことの出来ない宝だった。

 対して女は,西大寺ゆかりという。南北朝時代に天皇家から分家して出来た家だった。
こちらも歴史の表舞台に出るような華々しい記録は歴史には残さなかったが,過去から
脈々と受け継がれる「血の記憶」と奈良の地における「大地主」の地位だけは,決して放
すことなく引き継がれてきていた。

434 :日本@名無史さん:2020/10/06(火) 20:15:47.65 .net
俺は歴史に興味持つまでは、後南朝なんて存在すら知らなかったけどなあ
学校の授業では「南北朝は無事合一しました。終わり」だし

435 :日本@名無史さん:2020/10/09(金) 22:45:44.53 .net
禁闕の変と長禄の変は高校の授業で
さらっと触れて初めて知ったけどな。

436 :日本@名無史さん:2020/10/16(金) 12:46:40.31 .net
終わったと思われていたのに、吉野の山奥の行宮で細々と皇統が続いていたというのが
人の心を惹きつけるんだろうな
もっと普及宣伝すれば、後南朝ファンは増えると思う

437 :日本@名無史さん:2020/10/16(金) 15:13:15.28 .net
細々と続いたというのは嘘っぱちで、本当は続いてない
近世に入ってから、もしくは近代に入ってから、後付けで作られ、ずっと続いてたことにしただけ

438 :日本@名無史さん:2020/10/17(土) 09:58:34.09 .net
確実に続いていたのは応仁の乱のころまでで、そこから後は次第に動向がわからなくなる
続いたとしてもせいぜい戦国時代までだな
その後の歴史は後世に付け加えられたものが多い

439 :日本@名無史さん:2020/10/17(土) 10:38:54.01 .net
それも嘘だね
後南朝蜂起の事例の多くは京都近郊の寺にいた後南朝系の皇族が脱走して蜂起しているのであって、辺境に隠遁していた皇族が蜂起した事例は少ない

440 :日本@名無史さん:2020/10/17(土) 13:48:29.79 .net
吉野の行宮で起居していた後南朝皇族は限られるからな
ふだんは京都に住んでいた人のほうが多い

441 :日本@名無史さん:2020/10/17(土) 16:01:19.53 .net
一人もいないことを「限られてる」といってよいものかどうか。

442 :日本@名無史さん:2020/10/17(土) 19:48:40.77 .net
現地の御所に住んでいたのは植月御所の尊義王くらいだろ
吉野では誰も住んでいなかった

443 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 11:58:37.41 .net
植月御所も、後世の創作物の中にしか存在しない架空の皇胤だぞ

444 :日本@名無史さん:2020/10/20(火) 10:38:44.28 .net
南朝・後南朝の朝廷は最初は吉野行宮に置かれたが、賀名生に移り、やがて北山御所に移った
植月御所は一次資料が乏しく、その実在が立証されていない

445 :日本@名無史さん:2020/10/20(火) 12:57:49.21 .net
賀名生は御所ではなく「詰めの城」みたいなもんだろ
行宮のある吉野が危険になったから賀名生に逼塞してただけ
賀名生まで攻めこまれたこともあるが、戦況が落ち着いてからは吉野に戻ってるじゃん

446 :日本@名無史さん:2020/10/20(火) 19:50:16.74 .net
すいません、あのう・・・

447 :日本@名無史さん:2020/10/24(土) 01:01:49.68 .net
神様「未解決事件の真相を一つだけ教えてやるよ」 ←何が知りたい?

こんなスレがあったけど、俺なら後南朝のその後が知りたい
西陣南帝は殺されなかったわけだから、子孫がいてもおかしくないよね
熊沢が本当に子孫かもしれない

448 :日本@名無史さん:2020/10/24(土) 08:31:48.34 .net
婿養子とか含めて一度も養子を迎えないで直系相続で続けられるのはせいぜい200年300年がいいとこ
直系以外も併存で養って宮家として残すなどの工夫なしでは直系子孫が残ってるはずがないよ
後南朝の財政を想像で見る限り、分家まで養う余力はなかっただろうしな

449 :日本@名無史さん:2020/10/24(土) 17:00:25.57 .net
十津川宮とか熊野宮が残っていて、西陣南帝の本宗家と交流が続いていれば、傍流の宮家から
養子が入って皇位を継承することができたけど、残っていた痕跡もないしな
子孫が皇族としての処遇を受けられたのは、せいぜい五代後(五世王)くらいまでだろう

450 :日本@名無史さん:2020/10/28(水) 02:52:13.16 .net
スレチだが・・・・無理やり臣籍降下させられた皇族は源・平・橘などの姓を貰えたけど
そうではなく、五世を経て自動的に臣籍になった者はどういう姓を名乗ったのだろうか?

451 :日本@名無史さん:2020/10/30(金) 00:24:21.58 .net
5世以降は正式な賜姓を経なくても源姓の扱い

452 :日本@名無史さん:2020/10/31(土) 08:31:25.05 .net
>>451
そうか
他にも色々疑問はあるがスレチなのでこのへんで・・・・

・・・と言いつつ1個だけ書いておくが源姓が作られる以前はどうだったのだろうか?

453 :日本@名無史さん:2020/10/31(土) 11:09:00.96 .net
>>452
特に法則性はなく、様々な氏を称している。
用明天皇の子孫の登美氏とか、敏達天皇の子孫の大原氏、天武天皇の子孫の文室氏などがある。
余剰な皇族を整理する必要が出るのは、奈良・平安以前も同じであったと考えられる。
後世には次第に源氏に統一されていっている。

454 :日本@名無史さん:2020/11/01(日) 13:03:08.68 .net
橘とかもそうだったような


当初は、臣下として官界で活動できる親族の需要という側面も大きかったのでは
平安中期ごろまでは源氏が大臣として官界で活動することで藤原氏を掣肘って意義もあったはず
藤原氏のトゲが抜き取られてからは対抗させる必要もなくなったけど、その頃になると新しい源氏は(明確な臣籍降下をともなう賜姓源氏としては)出てこなくなってるんだよな

455 :日本@名無史さん:2020/11/01(日) 18:02:19.46 .net
橘諸兄もそうだったし、文室大市、文室浄三、淡海三船も高官として活躍したな
また、臣籍降下する前の皇族でも、高官として要職を占めるケースも多かった
その流れが藤原氏に対抗する賜氏源氏として受け継がれていった
皇親・賜氏貴族は天皇の藩屏としての意味があった

456 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 07:26:54.82 .net
>>453
1無理やり臣籍降下させられる
2自分から願い出て臣籍降下する(国からの給与も放棄する 代わりに位階と官職を貰う)
3規定により五世を経て自動的に臣籍降下する

A姓を賜る
B自分で姓を考える

・・・の組み合わせか(後には源氏onlyに)


>>455
その割には皇親・賜氏貴族って二世・三世・四世・・・・になってくるとどんどん位階が下がって上がることはないし
大事にされてなかったんじゃないのか
世代を経ても位階が下がらなかったのは藤原摂関家の親族扱いである村上源氏だけだそうだし

天皇になれそうでなれないが、ひょっとしたらゴネたらなんとなく皇位も狙えそうな傍流の皇族や源氏って現天皇から
見てむしろ危ない存在だったんじゃないのか 古代には粛清された親王・諸王も結構いたようだし

457 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 09:01:14.05 .net
その結果、平将門や興世王みたいに反乱起こす皇族の子孫も出た訳だ。

458 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 09:03:27.42 .net
>>456
ゴネたら皇位を狙えると思った皇族の最たるものが南朝という訳ですな。

459 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 10:41:54.03 .net
>>456
皇親というのは「天皇との血縁の近さ」が尊さの源泉だから、天皇と代が離れていくほど
尊さが失われていく。大半の家系が貴族としての身分を失って消滅する。
むしろ、村上源氏が例外中の例外だと思う。
興世王は出自さえ不明の皇族だった。当時はこういう貴族社会の周縁にぶら下がっている
皇族・皇親が相当数存在したのではないか?

460 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 11:48:11.21 .net
>>455
臣籍降下する前の皇籍にある皇族が官僚として働けたのは奈良時代だけでは
それ以前も以後もできなかったと思う

461 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 12:22:41.98 .net
そもそも藤原氏だって本流を離れた分家になるとそれなりの高頻度で没落してる
総数が多いから残ってる家しか見えないだけで。
だから、軽視されてなくても源氏の没落が目立つのは不思議じゃない
そもそも、官界で落ちぶれて地方に土着する道を選んだ武士達も官界で落ちこぼれた結果なんだしな

462 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 21:41:47.52 .net
>>460
平安時代においても皇親が官職に就いた例は複数ある
例えば、正躬王は受領のほか左大弁として弁官を務めているし、平将門の腹心として有名な
興世王は武蔵権守になっている

463 :日本@名無史さん:2020/11/03(火) 23:33:36.22 .net
平安時代の記録には、源氏、平氏のほかに、藤原氏、多治比氏、佐伯氏、橘氏、
和気氏、文室氏、小野氏、伴氏など様々な出自の武士が現れるから、中央貴族の家系
から地方武士になった経路は、いろいろあるんだろうな
源氏と平氏が目立つだけでね

464 :日本@名無史さん:2020/11/18(水) 19:48:33.07 .net
460
田原の藤太こと藤原秀郷や利仁こと藤原利仁あたりは藤原氏の流れですね。

465 :日本@名無史さん:2020/11/18(水) 19:49:20.61 .net
利仁将軍だった(芋粥に出てくる地方有力者のことね、ご存じでしょうが)

466 :日本@名無史さん:2020/11/28(土) 09:39:00.75 .net
古代においても、継体天皇は即位前は越前国に住んでいたし、栗隈王は大宰府に在住して
相当な勢力・軍事力を保有していた
皇族(元皇族)が地方に土着して、現地の有力者になるというのは、記録が少ないだけで
かなり以前からあったものと思われる
皇族は常に量産され、地方に拡散される運命にあった

467 :日本@名無史さん:2020/12/01(火) 11:35:24.40 .net
Wikipediaにある昭懐南朝とか美作後南朝って妄想だよね?
美作はムーに出てくるくらい胡散臭いやつだけど昭懐南朝はググっても何も出てこない

468 :日本@名無史さん:2020/12/01(火) 12:11:56.72 .net
どっかの村興し系のフィクション歴史小説の創作物なんじゃないの
売れ具合が美作南朝の元作品より劣ってたので知られてないとかで

469 :日本@名無史さん:2020/12/01(火) 23:25:48.94 .net
確実に皇族であると言えるのは金蔵主までってことでいいの?
自天王とかの代になると皇族であるかどうかすら怪しいと

470 :日本@名無史さん:2020/12/04(金) 20:54:37.36 .net
赤松遺臣が討ち取るくらいだから信憑性は高かったのではないかな。
西陣南帝は本当に殺されなかったのかな、当時の流罪は高い頻度で処刑だし。

471 :日本@名無史さん:2020/12/04(金) 21:25:10.27 .net
そのときの赤松遺臣が討ち取ったのは、もののついで だったのではないかとの疑いすらある
本命は神器奪還

472 :日本@名無史さん:2020/12/06(日) 14:29:30.38 .net
西陣南帝は山名宗全が擁立したことから見ても、後南朝の皇族であることは確かだと思う。
北野松梅院に内裏を構えて帝位に就き、朝政を聴くところまで至った。
だが、その後、確実に皇族だったと言えるのは西陣南帝から数えて五世王くらいまでだ。

473 :日本@名無史さん:2020/12/06(日) 21:45:53.00 .net
それは無理だ。天皇猶子として親王宣下を受けた形跡があるならともかく

474 :日本@名無史さん:2020/12/07(月) 12:35:22.38 .net
北朝側では南朝を即位していないと見なしていて、「廃帝後醍醐」以外は在位を認めていないわけ
つまり後村上が一世王、長慶と後亀山を二世王として取り扱っている
西陣南帝って五世王ぐらいじゃないの、その子孫はもう皇族じゃないよな

475 :日本@名無史さん:2020/12/07(月) 16:14:24.21 .net
逆に後南朝は北朝の天皇を僭主とみなしてるんだから、猶子になんかなったら北朝の正統性をみとめることになっちゃう

476 :日本@名無史さん:2020/12/08(火) 00:02:38.24 .net
468
もののついでとはいえ、赤松遺臣は長期滞在して情報収集を行ってから事に及んでいるから、何がしか確証めいたものはあったのではなかろうか。
主目的は神器奪還は当然として、自天王がどうでもよさげな存在なら、脱出逃亡を優先したはずと思えるのだが。

477 :日本@名無史さん:2020/12/08(火) 13:10:49.37 .net
後南朝ヲタにさえ無視されがちな南天皇

478 :日本@名無史さん:2020/12/09(水) 07:41:40.59 .net
>>472
それは議論が変だ。
後南朝の立場としては、吉野に遷宮して以来、ずっと皇統が続いているわけだから、それこそ熊澤に至るまで皇族だろう。
北朝というか両統合一後現在に至る朝廷としては、西陣南帝なんて認めないんだから、子孫だけじゃなく西陣南帝も含めて一般人。

479 :日本@名無史さん:2020/12/09(水) 21:37:36.20 .net
熊澤はホントに皇統なのか。

480 :日本@名無史さん:2020/12/09(水) 22:42:58.18 .net
デタラメの可能性が高いと思うけど、信じてる人もいるんだよねえ、不思議なことに。

481 :日本@名無史さん:2020/12/10(木) 07:11:55.66 .net
まあ万世一系だって「デタラメの可能性が高いと思うけど、信じてる人もいるんだよねえ、不思議なことに。」だし

482 :日本@名無史さん:2020/12/10(木) 12:36:08.93 .net
西陣南帝は室町幕府の有力者に擁立されて、洛中に内裏まで構えていたから、その即位は
社会的にある程度是認されていたと言える
だが、その皇孫になると、周囲の有力者や取り巻きの公卿・官人による擁立に過ぎず、
その皇位が社会的に是認されていたとは言い難い
さらに数代先になると、取り巻きの官人さえ残っていなかった可能性が高い

483 :日本@名無史さん:2020/12/11(金) 03:34:05.40 .net
その内裏って具体的には公家の誰が使えてたの?
下級官人とか武家になっちゃった元貴族とかが仕えてても、田舎の金持ちに担がれてた熊澤と変わらんだろ

484 :日本@名無史さん:2020/12/11(金) 03:36:23.25 .net
大体、狭い世間でも認められたら天皇、っていうなら、坂東で認められた
桓武天皇末孫の平将門の皇位だって認めなくちゃならんだろ

485 :日本@名無史さん:2020/12/11(金) 12:20:29.38 .net
>>483
山名宗全に近い公家や官人が北野松梅院に出仕して仕侯したんじゃないの?
このときは内裏が洛中にあったから、すぐに行ける
吉野の山中の北山御所時代の後南朝は、なかなか官人を調達できなかったけどね

486 :日本@名無史さん:2020/12/14(月) 23:19:23.25 .net
>>485
山名が死んで放り出された後の西陣南帝には取り巻きの公家、官人なんていないも同然だったのでは?
しかも、配流される途中で死んだ可能性も否定しきれないし。

487 :日本@名無史さん:2020/12/14(月) 23:21:22.65 .net
>>484
仮に将門が新皇ではなく、皇位を継ぐといって天皇を名乗り京都の朝廷を簒奪者呼ばわりしたらどうなってのかな。

488 :日本@名無史さん:2020/12/15(火) 17:59:20.76 .net
>>487
東西朝時代になってたかもね

というか現代でも可能性あると思ってる
大阪維新がやたら「都」に拘るのは、もし東京の皇室が男系維持できなくなったら
旧皇族の誰かを大阪か京都で天皇として擁立しようと考えてたりして

489 :日本@名無史さん:2020/12/15(火) 18:10:15.22 .net
自天王なんて相当貧乏だったと思うけど
一体どんな服装をしていたのか

490 :日本@名無史さん:2020/12/16(水) 17:48:59.19 .net
普段は隠れる意味合いも含めて普通の農民と大差ない恰好をしてたのでは。
それで儀式の時だけ、もっともらしい恰好をするのではないかな。

491 :日本@名無史さん:2020/12/16(水) 17:51:44.22 .net
後南朝111代と称する人物が本を出してるんだな。怪しすぎる。

492 :日本@名無史さん:2020/12/17(木) 12:55:31.61 .net
ふだんは北山御所の御簾の中にいたから、近侍の蔵人や女官しかその装束を見ることはできなかった
おそらくふだんは直衣をお召しになって、儀式のときだけ衣冠束帯されたと思われる

493 :日本@名無史さん:2020/12/29(火) 19:18:12.31 .net
後南朝の朝廷では内廷費が不足していたので、たとえ主上であっても装束はみすぼらしく
御膳に登せられる大御食も舎人が吉野山中で採集した山菜や川魚が中心だった
見かねた公卿が都から献上品を取り寄せることもあった

494 :日本@名無史さん:2020/12/30(水) 06:52:22.70 .net
当時、足利将軍でも金持ち商人でも食ってるものは山菜・川魚・玄米のイメージ

ましてや中世って慢性的飢餓の時代で多少社会の上層部にいてもどんどん餓死してたのでは?

495 :日本@名無史さん:2021/01/01(金) 19:09:54.56 .net
さすがに上層部で餓死はないと思う

貧しいとか立場が低い、弱い人が主に餓死するんだしな

496 :日本@名無史さん:2021/01/02(土) 07:11:53.58 .net
今の日本料理の原型である本膳料理って室町時代に成立したんだぞ
まあ京都は内陸だから鮮魚はあまり食えなかったろうけど、支配階級はそれなりの贅沢はしてたよ

497 :日本@名無史さん:2021/01/07(木) 12:32:47.11 .net
室町時代は風呂に入って、豪華な料理で酒盛りするのが流行ったらしいね
貴族や上級武士の娯楽だった
しかし、後南朝は都(本拠地)がかなり山奥にあるし、贅沢な食材の輸送が難しい
天皇や貴族クラスでも保存食が中心になる

498 :日本@名無史さん:2021/01/10(日) 18:50:42.02 .net
荘園さえまともない上に、吉野の山奥のまた奥に潜んでいる後南朝では贅沢なんてできないだろう。
毎食米を食することができれば御の字レベル。

499 :日本@名無史さん:2021/01/11(月) 00:55:16.45 .net
江戸〜明治の南朝正統(※ただし後亀山までに限る)論者にとって、後南朝はどういう存在だったのか
単なる逆賊?

500 :日本@名無史さん:2021/01/11(月) 08:21:45.91 .net
後南朝の都のあった川上村に行ってみればわかるけど、すごい山奥だよ
今でも行くのが大変な場所なのに、交通機関がなかった当時は荘園から物資を輸送するのも大変だ
今でも鮎の塩焼きが名物だから、郷士から献上された川魚は食べていたと思う
そんな場所だからこそ北朝からの攻撃から守れたんだけどね

501 :日本@名無史さん:2021/01/11(月) 16:10:53.65 .net
当時の物資輸送は川船がメインだから、川で海まで往来できれば輸送は可能
川のとちゅうに敵がいれば封鎖されるけどな

502 :日本@名無史さん:2021/01/11(月) 20:42:08.51 .net
そもそも後南朝の荘園は横領されていたのではなかろうか。

503 :日本@名無史さん:2021/01/13(水) 22:24:52.21 .net
後醍醐が欲を出さなければ現代に至るまで両統迭立で続いていたのだろうか
そのほうが男性皇族の不足問題が起きなくてよかったかもしれない

504 :日本@名無史さん:2021/01/14(木) 10:25:22.83 .net
結局はどこかで正統争いから、どちらかが追われる気しかしない。
室町期は争い絶えない時代だし。

505 :日本@名無史さん:2021/01/14(木) 21:14:13.00 .net
そもそも持明院統が兄の血統で大覚寺統が弟の血統なんだから
「どちらが正統か」ってなったら明らかに大覚寺統が不利だよな
なのに両統迭立の約束を破った後醍醐ってアホやろ?

506 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 10:05:12.90 .net
もし現代まで両統迭立が続いていたら、自民党は持明院統だけど、民主党は大覚寺統みたいな
ことも起こったかも知れない。政権交代すると天皇や取り巻きの公卿も交代する。
治天の君が政党を超越して国民統合の象徴になっていた可能性もある。

507 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 10:11:51.21 .net
全盛期の能年玲奈が俺に一目惚れして、「結婚してくれなかきゃ舌噛んで死ぬ」と言ってきていた可能性もあるしな。

508 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 12:47:44.21 .net
>>506
維新の会は大阪に独自の天皇を擁立して大阪「都」を実現してそう

509 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 18:59:10.42 .net
結局は内乱の火種にしかならないじゃん。

510 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 19:00:15.42 .net
少なくとも大覚寺が時代劇のロケ地に境内を貸すことは無いな

511 :日本@名無史さん:2021/01/20(水) 22:51:05.47 .net
吉野の農民たちは後醍醐が「おらが村に来てくださった」ことを忘れられなかったんだろうな
自天王を必死に守ろうとした気持ちはよくわかる

512 :日本@名無史さん:2021/01/21(木) 08:27:33.83 .net
あまり搾取しすぎて耐えかねた百姓が反乱起こしてたけどなw

513 :日本@名無史さん:2021/01/21(木) 13:00:47.51 .net
歴代の南帝は北山御所の御簾を出て、近隣の山村まで出御されることも多かったから、
山の民からは慕われていたよ

514 :日本@名無史さん:2021/01/23(土) 10:15:04.12 .net
慕われるどころか領民に反乱起こされてるよwww
南朝皇族なのに北朝と組んで攻撃してきた奴もいたしwww

515 :日本@名無史さん:2021/01/26(火) 20:26:51.05 .net
室町が人気出つつあるのに、さっぱり日の当たらない後南朝

516 :日本@名無史さん:2021/01/26(火) 23:33:05.88 .net
>>515
でもなぜか南朝は左翼にも人気があるのだよな。

最近では田布施システムでも取り上げているしww

517 :日本@名無史さん:2021/02/03(水) 00:33:07.55 .net
>>500
関西のローカル番組で芸人がその村に行ってるのを見たけど
滝が凍るぐらい寒いところだった
俺が見たのはその場面だけなので後南朝に触れていたかどうかは不明だが

518 :日本@名無史さん:2021/02/07(日) 21:21:23.39 .net
川上村はグーグルアースで見ると裏山が樹海だよね。

519 :日本@名無史さん:2021/02/08(月) 16:22:11.94 .net
>>514
家康だって三河で一揆が起きたけど、領民から慕われ今でも尊敬されてるよ

520 :日本@名無史さん:2021/02/10(水) 19:41:23.05 .net
南北朝の統一って、ローマ帝国の東西分裂みたいにその当時はそこまで決定的じゃなかったという考え方はないの?

521 :日本@名無史さん:2021/02/10(水) 19:43:33.96 .net
ローマ帝国の東西分裂もそれ以降統一されることがなかっただけでそれまでにも似たようなことがあったし、南北朝の統一もその後南朝が京を奪回したりしたら単なる和議みたいな扱いになったと思うんだよな

522 :日本@名無史さん:2021/02/12(金) 19:29:42.40 .net
いや後南朝になった段階でもう末期の東ローマ以下の勢力しかない集団ですから。
そもそも誰が神輿として担ぐかだけですし、南北両朝とも。

523 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 10:19:38.24 .net
>>520
日本の南北朝時代が、ローマの東西分裂や中国の南北朝時代と異なる大きな特徴は

明確な国境で区切られた領土地図がない

524 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 12:04:29.30 .net
まあ、地方の小規模領主たちが南朝支持と北朝支持に分かれて派閥抗争みたいになってる関係で国境じゃなくモザイク状の勢力図になるのと、
単一の領地内で両派に分かれて派閥抗争をしてる係争地がたくさんあるのが特徴的な時代だしなあ

525 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 13:16:22.32 .net
薔薇戦争もあまりはっきりした支配領域とか前線とかがない内戦だよね。
大領主といえども所領が各地に分散していて排他的支配圏を形成していなかったからかな

526 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 14:59:38.61 .net
>>522
後南朝どころか吉野朝の後半ぐらいでも東ローマ未満の勢力だよなあ

527 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 15:01:25.04 .net
>>525
まあ、中世の領土って大抵そんな感じだしなあ

中国だと春秋時代にも似たような状態だったかも
もちろん中世の中国もだけど。

528 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 20:01:12.22 .net
東西ローマというより、ローマの教皇に似てるかも権威もあってそこそこ所領もあるけど、軍事力はあまりなくて有力な封建領主に左右されるところとか。
ローマカソリックも分裂したり、アヴィニョンに拉致されたり、二人の教皇が並立したりもありますし。

529 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 20:05:50.43 .net
>>527
中世の領土がそんな感じ

歴史学的には領土がそんな感じの時代を後付けで中世と呼んでるのですよ。
それが解消されて大規模な支配権が確立されると近世だの近代などと呼ぶので。

530 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 20:16:08.28 .net
>>528
権威はともかく、権力財力の規模ではローマ教皇の方が圧倒的

イタリアの半島を代表する大勢力と言えば、まず教皇領があげられるほどの国力は、南朝どころか朝廷そのものをも上回る

531 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 20:34:58.63 .net
>>529
そりゃ乱暴でしょ。
フランスならブルゴーニュ公領やアキテーヌ公領、ドイツならザクセンやバイエルンのような部族大公領など、領土的一体性を持つ封地はいっぱいある。イングランドが例外的といったほうがいい。

532 :日本@名無史さん:2021/02/13(土) 20:41:46.83 .net
>>530
>>531
確かに例えが乱暴すぎたな。

533 :日本@名無史さん:2021/02/15(月) 22:53:57.19 .net
中世なんて西洋も東洋も飛地が当たり前じゃん
日本だと江戸時代の武士の領地もそうだし

534 :日本@名無史さん:2021/02/16(火) 21:03:02.38 .net
鎌倉時代まではともかく、室町時代になると飛び地を安定的に領有することはできなくなったからなあ

鎌倉時代の終わらないうちに飛び地を解消するべく遠方移住する武士が出始めてるぐらいだしな。
毛利とか小早川とかが広島のあの場所に移住したのは鎌倉時代半ばだよな

535 :日本@名無史さん:2021/02/16(火) 22:31:17.57 .net
最明寺入道時頼の鉢の木伝説でも、囲炉裏にくべた松桜梅の代わりに上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘の地頭職を与えたことになってるけど、こんなバラバラにくれなくてもいいのにな

536 :日本@名無史さん:2021/02/17(水) 11:26:39.38 .net
鎌倉時代の領地は、代官を置いて支配させるのが当たり前。
ただ、幕府の力が強まると地元の有力者が言うことを聞かなくなるので一族を現地に派遣するようになった。
だから、大江博元流毛利とかは日本全国に散らばってる。

537 :日本@名無史さん:2021/02/17(水) 12:11:22.90 .net
甲斐の武田氏も安芸に領地と守護職をもらった当初は大官派遣だったんだろ
建武の頃に族弟を派遣して、そこから分家成立で安芸武田氏が始まった、後の若狭武田氏である、安芸は失陥するんだね

538 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 11:33:16.87 .net
毛利も小早川も相模国の地名なんだよね
毛利は大江広元の子孫で、小早川は土肥実平の子孫
遡れば、源頼朝の御家人にまで到達する

539 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 18:07:45.49 .net
>毛利とか小早川とかが広島のあの場所に移住したのは鎌倉時代半ばだよな

毛利氏は鎌倉幕府に毛利荘を没収されてからは越後佐橋を本拠とし
安芸吉田には代官を置いて間接統治した
吉田郡山城を築き安芸で直接統治を始めたのは室町時代の毛利元春から

540 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 18:20:53.55 .net
>>536
だいたい南北朝時代ごろに、代官派遣では領地を維持できなくなってくるんだよな

現地入りしたり、遠隔地の領地を交換して近場にまとめたりするようになる

安芸武田氏が現地入りしたのもその頃だし

あと、そのような交換が進んだ影響か、為替の送金範囲が東西に分離して、東日本と西日本の間での送金には使われなくなったとも。

541 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 17:37:15.83 .net
>>540
所領の一円化というやつですね。
これで荘園は完全に廃れていくんでしたっけ。

542 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 17:51:04.22 .net
消炎性が完全に解体されるのは太閤検地のとき

それまでは、幕府が大名たちに、大名たちが現地の領主に荘園の保護を求めたので、多少でも年貢が上納されることは多かったはず
たとえ、最盛期の数パーセントまで落ち込んでても。

543 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 17:55:44.15 .net
一円化ってのは、空間的な広がりのことだけじゃなく、階層性、多層性の解消を含むこともあるし

544 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 21:04:09.01 .net
おお勉強になります。

545 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 21:32:45.68 .net
>>543
どちらかというとこっちが正解

同じ土地に対して下司やら荘官やら地頭やら領家やら本家やらいろいろな人が領主的権利を行使していたのが、武家なら武家、貴族なら貴族と一本化されてことを言う言葉

546 :日本@名無史さん:2021/04/08(木) 11:03:02.68 .net
         ,___
       o'⌒)  `ヽ
        (i:i:i:i:i:☆i:i) 朝鮮ヒトモドキの良い所を3つ言え
         ( ´・ω・)
         (  ∽)         (~)
           ) ノ        γ´⌒`ヽ
          (_         {i:i:i:i:i:i:i:i:} えっと、、、
          [il=li]        (ω・`  ) マ○コが・・・
          )=(_        (:::::::∪)    キモチイイ
         (-==-)         し─J      くらいかな
          `ー‐''

547 :日本@名無史さん:2021/04/22(木) 21:14:27.54 .net
過疎っているので質問。
明徳の和約当時での南朝の兵力は実際のところいかほどだったか皆さまの意見をお聞かせ願いたい。
当然、後亀山天皇と共に山奥から降りてきたのは一部だったでしょうが。

548 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 03:00:16.50 .net
がんばって千人前後かな

あの頃、南朝のまとまった勢力って大和和泉の山奥と伊勢の南半だけでしょ。地方にもポツポツとはいただろうけど。

549 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 13:09:21.13 .net
やはりそんなもんでしょうかね。九州を別にすれば。後は北畠の居座ってる伊勢がどうかなと思いますが。

550 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 17:56:25.70 .net
いちおう、河内南東部から大和南部あたり、けっこう南朝に味方する武士は多かったっしょ
大和の最大勢力であった興福寺が大乗院と一乘院で主導権争いしてたから、大乗院関係者の多くが南朝だったしな

551 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 08:43:42.29 .net
修験道って物部なのか秦なのかわからんが
そういう修験者に守られていたのだろう
後醍醐が引っ込もうとしていた雪彦山も修験道盛んだったし

552 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 12:15:50.75 .net
当時、神仏習合のもとでの修験道は、密教系、仏教系の集団だったのでは?

後醍醐帝が密教に傾倒したのもひょっとしたら修験道と関係が?

553 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 17:38:29.67 .net
>>552
それは大いにありそうに思える。
それから北畠親房が関東からどうやったのか吉野に戻ってこれたのも、そうした修験者たちのルートを使えたからかもしれない。
こう考えたことがあります。

554 :日本@名無史さん:2021/04/28(水) 18:10:02.71 .net
後醍醐「持明院統に譲位するの嫌やなあ。せや、幕府倒したろ!」→結果wwwww

吉野に都落ち&子孫根絶やしにされたンゴ・・・

555 :日本@名無史さん:2021/04/28(水) 19:02:15.69 .net
なあに、どうせ挙兵しなくても後醍醐の子孫が皇位を継げる可能性はゼロだったから、ダメもとで挙兵して、やっぱりダメになっただけじゃん

後醍醐以外の大覚寺統関係者は、そのあおりをくって没落した。いわば自爆テロみたいな。

556 :日本@名無史さん:2021/04/28(水) 20:50:56.19 .net
実際、後南朝は自爆テロみたいなことやってるしなあ。

557 :日本@名無史さん:2021/04/28(水) 23:14:09.27 .net
後亀山が京都に行った時随行した兄弟は何人なんだろう
少なくとも懐(説)成が同行したのは確実だろうけど

558 :日本@名無史さん:2021/04/28(水) 23:35:13.13 .net
建武政権の一番勢いがいいときに尊氏と和解してれば後醍醐流で皇統独占できたんじゃないの?とはいえ勝ってるときに譲るのは難しいだろうけどな

559 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 22:54:54.67 .net
自天王が皇胤であることは宮内庁公認なんだね
神璽を持ってたとはいえ血統はかなり怪しいし、後南朝には正統性もないのに何故だろうか

560 :日本@名無史さん:2021/05/02(日) 06:55:54.60 .net
「南朝が正統だというなら、北朝の子孫の今の天皇が正統なのはおかしくね?」という批判に「神器ノアルトコロ正統トセザルべカラズ」という理屈で対抗してたのが明治政府だから、その影響もあるかも
「神器を一定期間占有してたんだから、まあ皇統ではあることにしといたろ」的な

561 :日本@名無史さん:2021/05/02(日) 11:49:46.20 .net
南朝は神器の正当な所有者ではなく盗み取っただけ

562 :日本@名無史さん:2021/05/02(日) 13:36:47.50 .net
後醍醐が交互に天皇出すってルールを勝手に踏みにじって長き戦乱を起こしたに過ぎない
南北朝時代って、まともに研究する価値があるのか?

563 :きまん:2021/05/02(日) 14:04:18.44 .net
血統って要するに中国史に載ってる氏族制での血統みたいなんだろ

そりゃ無理や、中国で政権取ったことないやつらが氏族史に載るわけないやん

逆に言えばそれで名高いなら日本は中国の派生王朝でしかなくなる

564 :きまん:2021/05/02(日) 14:06:16.11 .net
どこかから来たやつらでも中国内で活動した歴史があるなら名跡残ってるんだぞ

ないならそれに該当しないってことや

565 :日本@名無史さん:2021/05/02(日) 15:45:34.27 .net
>>562
あるよ

なぜ後醍醐帝の倒幕(鎌倉幕府を倒すこと)が成功したか、どうして後醍醐支持者が増えたのか、といった点は非常に重要なテーマだしね

566 :日本@名無史さん:2021/05/03(月) 23:18:33.11 .net
金蔵主から西陣南帝まで、南天皇以外は皆兄弟で蜂起してるのはなぜだろうか

567 :日本@名無史さん:2021/05/04(火) 00:03:01.24 .net
>>566
テロリストはなぜ「兄弟」ばかりなのか
https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00178_201604060001

568 :日本@名無史さん:2021/05/04(火) 05:13:15.15 .net
>>565
天皇は自分が政権を取りたかった、武士は恩賞をきちんとくれる人を求めたってだけで
どちらも私情で動いた。

結果的に、天皇はみこしでいい、世の中を振り回す権力を与えてはならないと、天皇の
権力を可能な限り小さくしたという意義はあるかもしれない。

名目だけになっていた大化の改新制度の整理整頓の時代。

569 :日本@名無史さん:2021/05/07(金) 18:51:01.93 .net
熊沢の養父って戦前から「俺を天皇にしろ」って言ってたのか
無視で済ませてくれた政府優しいな。普通なら不敬罪で投獄だろうに

570 :日本@名無史さん:2021/05/07(金) 18:55:21.98 .net
南朝正閏論と現皇統は微妙な関係だから触りたくなかったんだろう

571 :日本@名無史さん:2021/05/07(金) 19:09:01.37 .net
>>570
明徳の和約以後の南朝には全く正統性はないんだから、下手すると後亀山すら「賊」なのでは?
まあその直系(であることが確実な)の教尊までは助命されたけど、それ以後は金蔵主も自天王も普通に殺されてるし

572 :日本@名無史さん:2021/05/08(土) 22:35:13.63 .net
>>571
明徳の和約を反故にしたのが北朝
南朝を正統とする水戸史学に乗っかって明治維新を成功させたのが明治政府からの大日本帝国および今の日本国だから。
この二つの理由から「賊」あつかいはできかねるというところでは。

573 :日本@名無史さん:2021/05/09(日) 10:09:13.72 .net
足利は逆賊で楠木が忠臣という設定が明治以降の皇国史観
日本が軍国主義になればなるほど、皇国史観に拍車がかかった
そんな時期に後南朝ブームが起きて、政府も厳しく弾圧しにくかった

574 :きまん:2021/05/09(日) 10:18:01.14 .net
天皇にしろ!って発言自体が自分をこの国のトップに据えろ!って発言だからな

こんなことを言いだセル世を残したことが失政だったわけだよね

なんか勘違いしてる連中らの親玉みたいよな

575 :きまん:2021/05/09(日) 10:18:54.47 .net
こんなバカ死刑でいいよマジでな

576 :きまん:2021/05/09(日) 10:35:50.64 .net
570
軍国主義っても公家ら持ち上げての軍国主義みたいなもんやろ(╹◡╹)

アホだろ

577 :日本@名無史さん:2021/05/09(日) 11:57:38.54 .net
>>572
反古にしたとは言うけど、実際のところ和約の条件について北朝はほぼ関与できてなくて幕府の独断なので、成約当初から幕府と朝廷(北朝)の間でもめてたんだよな

578 :日本@名無史さん:2021/05/09(日) 19:57:31.02 .net
南朝の忠臣である肥後菊池氏の子孫である陸軍中将菊池武夫の存在も大きい

足利尊氏を称賛した商工大臣を糾弾して辞めさせ、美濃部達吉の天皇機関説も先頭に立って糾弾していた

579 :日本@名無史さん:2021/05/09(日) 20:37:12.70 .net
本当の子孫なのか子孫と詐称してただけなのか区別できなかったんだよね、たしか。

580 :日本@名無史さん:2021/05/10(月) 12:06:16.43 .net
ドラマTRICKの閉鎖的な村をみてると、
本当はどこかの村に南朝の宮家が匿われているような気がしてくる
美作後南朝のように

581 :日本@名無史さん:2021/05/10(月) 12:09:53.83 .net
そんな感じの隠れ里が日本のどこかにあるに違いないって想定のフィクションだよ
実際に存在する訳じゃない
もちろん、美作後南朝もフィクションだ

582 :日本@名無史さん:2021/05/11(火) 02:41:57.58 .net
黄門様もたぶん「南朝かわいそうやから正統ってことにしといたろ」ぐらいの感覚だったんだろうな

583 :日本@名無史さん:2021/05/11(火) 06:02:33.87 .net
光圀が南朝をおしたのはどうみても徳川が新田流を自称していたからだろ
徳川の世の正当化のために南朝を利用しただけ

584 :日本@名無史さん:2021/05/11(火) 22:24:12.50 .net
幕末に天誅組の連中が足利高氏の木造をさらし者に件で、幕府側に高氏は朝廷が大政を委任し官位を与えたのだからこれを辱めるのは朝廷を侮辱するものだとやり返されたのが笑える。
幕末の攘夷の志士の大半は南朝正統といいつつよく解ってなかったんだろうな。
その前の高山彦九郎みたいなマジでアレな人はいうまでもないが。

585 :日本@名無史さん:2021/05/11(火) 22:25:31.84 .net
>>580
去年レインボーマンという昔の特撮ドラマを見ていたら後南朝ネタが出ていたわ。

586 :きまん:2021/05/12(水) 03:49:51.60 .net
マンガネタが氾濫してる今の方がありえないもんな

587 :日本@名無史さん:2021/05/12(水) 07:50:51.17 .net
>>584
なぜ尊氏じゃなく高氏と表記するのか

京極高氏(佐々木道誉と呼ばれることが多いが)と混同しやすいのだが

あと「尊」を与えられて尊氏と改めたという史実をなかったことにするのは歴史捏造行為に含まれないのか?

588 :日本@名無史さん:2021/05/12(水) 11:49:08.31 .net
>>587
深い意味はない、酔った勢いで書き込んだので高氏表記になったまで。
確かに尊氏にすべきではあったな。

589 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 03:19:48.31 .net
自天王は「いつか京都で天皇になるんだ」と夢見てたんだろうか
それとも訳もわからず担がれてただけなのか

590 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 09:51:30.28 .net
そもそも本来北朝というか持明院統の方が嫡流だよな?
後深草系は大覚寺統の亀山系の兄系になる
亀山を贔屓した挙句動乱を引き起こした後嵯峨が1番悪い
南朝も北朝も暗愚後嵯峨の被害者というべきだろう

591 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 10:33:37.99 .net
だから菩提寺その他の施設は持明院統が相続してて大覚寺統は相続できなかったから自前で作ってたんだよな

592 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 10:58:39.91 .net
>>590
後醍醐なんて傍系の傍系だしな。

593 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 11:01:10.64 .net
そういえば後嵯峨天皇ではなく嵯峨天皇の頃にも平城天皇や薬子の変とかで兄弟喧嘩してたな
こっちは南北朝のような大動乱にはならず収束しが

594 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 19:44:10.35 .net
最近は薬子の変ではなく、「平城太上天皇の変」と呼ぶらしい

595 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 20:30:11.42 .net
そりゃまあ、主犯を差し置いて従者の名前で事件を呼ぶのもおかしいしな

596 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 21:34:59.02 .net
上皇を悪者扱いしないための忖度だったからな

597 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:00:42.24 .net
>>594
そうなの?
俺が習った時はまだ普通に薬子の変だったけど
ここ数年で変わったのか

598 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:07:35.44 .net
それより「長屋王の変」の呼称をなんとかなんないのかね。
これ濡れ衣なのに長屋王が首謀したみたいに受け取られる。
藤原四兄弟の変で良いと思う。

599 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:10:06.11 .net
>>597
横だけど2003年頃から

600 :日本@名無史さん:2021/06/08(火) 11:35:03.94 .net
>>589
いずれ正義は勝つと信じていたんだろう
確かに500年かかったが南朝が正統と認められた

天皇と上皇は東京五輪に出る暇があったら自天王のお墓に参拝して勾玉(神璽)を奪い取ったことを墓前でお詫びすべき

601 :日本@名無史さん:2021/06/08(火) 11:40:18.83 .net
クスコの変

602 :日本@名無史さん:2021/06/08(火) 11:40:39.25 .net
マンコ・カパックの乱

603 :日本@名無史さん:2021/06/08(火) 18:19:26.97 .net
>>600
その前に南朝の子孫は消滅してるから、勝ったとは言えないな

604 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 15:22:39.15 .net
後南朝は西陣南帝から数代で消滅してしまったからな
その後は理念としての正統性しか残らなかった

605 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 09:48:48.20 .net
しかしその理念が明治維新を引き起こしたわけだからな
南朝を崇拝しつつ北朝の子孫の天皇に忠誠を誓う気持ちはあんまりわからんけど

606 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 10:14:32.42 .net
お前ら、建武の新政開始時の後醍醐になれたらどうやって南朝消滅ルートを回避する?

607 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 11:16:04.86 .net
>>606
足利尊氏を公卿に列して、政権の中枢にする。
足利氏を清華家くらいの家格の貴族として処遇する。
とにかく尊氏を陣営から離さないようにする。
結果として室町幕府ができてしまうが、後醍醐の皇統は続く。

608 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 12:31:20.90 .net
>>606
大覚寺党の自分以外の皇統を全面排除する条件で尊氏や持明院統と妥協しないと生き残れないよ
両統迭立を拒絶して生き残らせるのは無理

609 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 21:34:52.63 .net
この板で名前出すのはアレだが、井沢元彦の言う通りで
やっぱり尊氏を敵に回さないことが絶対条件か

610 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 21:56:30.86 .net
もともと後醍醐帝と敵対したくなかったらしい尊氏が敵にまわるような状態を作った時点で、相当にダメダメな状態だからなあ

多少の忠誠心があってさえ謀反を起こさざるを得なくなるような暗君では、国家運営は無理だろ

611 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 22:01:45.42 .net
護良親王みたいな有力武士と主従関係を結んでいた皇族が皇位について、天皇と武家の棟梁を兼ねるとか
赤松円心とかも護良親王の被官だったんでしょ?

612 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 22:26:52.92 .net
>>610
>多少の忠誠心があってさえ謀反を起こさざるを得なくなるような暗君では、国家運営は無理だろ

信長のことか

613 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 09:39:35.27 .net
もう足利尊氏を征夷大将軍に任じて武家の取りまとめは任せる外あるまい。これでも乱は絶えなさそうだが。

614 :日本@名無史さん:2021/06/27(日) 09:30:11.15 .net
足利尊氏を右近衛大将に任じて、武官として武士の取りまとめをさせればよかった
旧来の貴族社会の秩序に足利氏を取り込んでしまえばよい
尊氏を征夷大将軍を兼ねさせるなら、護良親王には征東大将軍として鎌倉在住にする
などしてバランスを取ればよい

615 :日本@名無史さん:2021/06/27(日) 11:07:09.64 .net
そもそも、実子で倒幕の功績の大半を独占してた護良親王と主導権争いのはてに失脚させた後醍醐天皇が、そんな高度な運営をできたはずがないんだけどな
一部の部下が大きな権限を持つことを嫌った、ということだと思うけど。あの時代には、それ以外の統治方法は無理だよな

616 :日本@名無史さん:2021/06/27(日) 21:21:44.01 .net
中世ヨーロッパみたいに、古代王権と封建制を直接結びつけることはなぜできなかったのか

言い換えると、なぜ天皇は同時に「武家の棟梁」になれなかったのか

617 :日本@名無史さん:2021/06/28(月) 02:50:04.97 .net
古代ヨーロッパの国と中世ヨーロッパの国に繋がりなんてあるか?

ローマ帝国は滅んでるし(東ローマ帝国が残ってるけど、ヨーロッパの外に移動してるし)
ゲルマン人の国々は、中世にはいる前に王統が断絶するなりしてて中世の王と無関係だろ

618 :日本@名無史さん:2021/06/28(月) 08:30:35.69 .net
>>617
一応カール大帝以後のフランクや神聖ローマ帝国は西ローマの後継ってことになってるけど
そのことを言いたいのだろうか?

619 :日本@名無史さん:2021/06/28(月) 23:35:31.54 .net
>>616
武家の棟梁になるということは、配下の武士に恩賞を与えなければならない。
武士の間の利害の調整、紛争の仲裁も必要になる。
所領争いの裁判も行い、本領安堵状の発給もしなければならない。
こんな面倒なことを天皇ができるだろうか?

天皇や院、摂関は軍事貴族と主従関係を結び、軍事貴族を通じて武士と関わるのが
最も安定していたのではないか?

620 :日本@名無史さん:2021/06/29(火) 16:53:39.06 .net
>>619
記録所とか雑訴決断所とか、後醍醐はそういうことがやりたかったんだろう。所領安堵も恩賞沙汰も綸旨で行う、そして公家武家双方に君臨すると。
朝廷にはもともと官僚機構はあったし、鎌倉幕府滅亡以降は門注所や六波羅探題の官僚機構も吸収してるし、なぜそれができなかったんだろう?わりとやれることはやってるように見えるんだけどな。
個々の武士からすれば上が天皇だろうと足利だろうとどちらでもいいことだろうに。

621 :日本@名無史さん:2021/06/29(火) 17:55:51.21 .net
>>620
うまくできてなかったと言われてはいるな、でも不満をもってたのは武士達じゃなく公家たちだったんじゃないかと、最近では思う

622 :日本@名無史さん:2021/06/30(水) 13:37:26.61 .net
所領沙汰恩賞沙汰なんかに彼らの力もがいるだろうことを見越して、鎌倉方の事務官僚層をリクルートしてるのになあ・・・

623 :日本@名無史さん:2021/06/30(水) 15:03:18.42 .net
所領争いで裁判する必要があるから全国から武士が京都まできた、洛中が武士で溢れた
それ自体が公家たちからすれば不満
判定内容以前の問題が大きかったのでは、とさえおもう

624 :日本@名無史さん:2021/06/30(水) 18:57:39.74 .net
>>620
鎌倉幕府を否定して、それ以前の土地所有者に権利を戻そうとしたら、
偽書類を含めて権利を主張するものが出まくり、
倒幕に功績があったもので不利益を受けるものも出て、
収拾がつかなくなった。

625 :日本@名無史さん:2021/06/30(水) 20:34:20.72 .net
治承・寿永のときも承久のときも負けた側から大量の所領を没収して新恩として給付してるわけで、建武のときにやろうとしたこともそれと同次元の話なんじゃないのかな

626 :日本@名無史さん:2021/06/30(水) 21:29:10.02 .net
文書入タル細葛定期

627 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 00:36:32.06 .net
>>625
それなら、これからはこうだよ、って決めるだけで良かったのに、
元に戻すって言っちゃったから、「元」ってどの時点よ?って話になった

628 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 11:11:40.46 .net
後醍醐天皇(建武政権)は自ら武家社会を統括するのなら、鎌倉幕府で認定した土地所有関係を
継承した上で、倒幕に功績のあった者に新恩給与すべきであった。
武家社会運営の難しさ、複雑さを理解しないまま公武合体政権を軽はずみに作ってしまった
のではないだろうか?
源頼朝や執権北条氏がどれだけ苦労したかわかっていれば、こんな軽はずみなことは
できなかったはずだ。

629 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 12:01:10.99 .net
鎌倉幕府は敵対者だから、最後まで幕府にしたがってた武士の領地は没収(これは確定)
途中まで幕府にしたがってた武士も所領削減じゃないかなあ
これは、当時の習慣として、そのようにするべきと言う意味でだ。

だからまあ、幕府による土地の裁定は全面的とは言わなくても、相当な範囲で権利抹消されるべきだったのではないかな、本来的にも。

だから、無視したのが悪いとも言えない気がする

630 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 12:02:23.99 .net
>>616
武士は身分や格式では天皇どころか公家たちよりも格下なので、身分的な意味で難しかったかも

631 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 12:34:28.56 .net
>>628
それをやるには、荘園の横領に対する貴族社寺から武家への恨みつらみが溜まり過ぎてた
王政復古すると言ってるのに、武家の主張だけを受け入れるのは無理だろ

632 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 16:29:21.82 .net
ただ寺社本所領押領の停止とか質流れ地の返付とかは鎌倉幕府も室町幕府もやってた典型的徳政だし、少なくとも所領問題に関する限りそんなに無茶をしようとしていたようには見えないんだけどなあ

633 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 17:53:12.21 .net
土地政策で下手を打ったから政権が倒れたって説は昔の通説だよな?

今は建武政権の諸政策は見直されてるはず

634 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 17:54:51.51 .net
>>631
そもそも土地の所有って何というくらい権利関係複雑だよね。

635 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 19:14:39.13 .net
>>632
鎌倉幕府が認めた貴族寺社の権利で満足できてなかった層が新政に期待しているんだから
武家にとって幕府より不利な裁定になるのは当たり前じゃないか?

636 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 20:57:36.17 .net
実際のとこ、不満もってたのはどこの階層でも多数派だったけど、特に公家の上層部が不満多かったっぽいよ

637 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 21:54:56.68 .net
日本は天皇はあくまでも建前上のトップであるべき(実際に政治をしてはいけない)という思想なのに
後醍醐は空気読めない、今で言うアスペだったのかなw

638 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 23:51:42.34 .net
そういう思想が古くから存在したわけではない
律令時代初期にはまだ天皇が政治の主体だったしな

639 :日本@名無史さん:2021/07/02(金) 17:50:54.07 .net
御醍醐はんはアスペというより朱子学のイデオロギーの徒ですさかい。

640 :日本@名無史さん:2021/07/02(金) 18:21:02.12 .net
>>635
倒幕と建武政権を支持支援したのは公家社会のごく一部であって主流ではないでしょ
建武政権が公家中心の社会に戻そうとする復古反動的なものだった、という理解はだいぶ古いんじゃないかな?

641 :日本@名無史さん:2021/07/03(土) 09:34:52.54 .net
>>640
建武政権は一部の公家社会(+一部の寺社、武士)に支持されたに過ぎないということだな。
ならば、やがて大多数の武士(+主流の公家)の揺り戻しが来るのは避けられなかった
ということだろうな。その中心が足利尊氏だったということだ。
建武政権が存続するには、大多数の武士(+主流の公家)と妥協して、利害調整をするしか
なかった。それは政権に尊氏を取り込むことでもある。

642 :日本@名無史さん:2021/07/03(土) 10:54:15.43 .net
大覚寺統の後醍醐が両統迭立を普通に守ってたら
並立できたかもしれない

643 :日本@名無史さん:2021/07/04(日) 09:57:14.05 .net
両統迭立が現代まで続いていたら、どうなっていただろうか?
「今回の天皇陛下は持明院統なので、皇太子は大覚寺統」ということか?
立民・共産の野党は大覚寺統みたいなことになるのかな?

644 :日本@名無史さん:2021/07/04(日) 16:44:30.48 .net
>>643
百年くらいでどちらかの皇統の直系が断絶してめんどくさいことになりそう。

645 :日本@名無史さん:2021/07/04(日) 18:14:15.94 .net
摂関だって5家で持ち回りしてたんだから王位を二系統でまわすのもあり

646 :日本@名無史さん:2021/07/04(日) 22:07:36.21 .net
いや、鎌倉末期からの行為の動向を見る限りは4家5家に別れる可能性すらあったぞ

五摂家だって最初は二三流程度から別れて5家に固定したわけだし

647 :日本@名無史さん:2021/07/05(月) 10:12:07.61 .net
武家でも北条氏は複数の分家から執権を出すようになったし、徳川氏は御三家・御三卿
から将軍を出すようになった
皇室も複数の皇統があったほうがよい
後南朝の熊野宮、十津川宮なども世襲宮家として残っていればよかった

648 :日本@名無史さん:2021/07/05(月) 12:25:42.41 .net
執権は公家でいうところの太政大臣みたいなもの
実権があったのは得宗であり、得宗の血筋は一貫している

649 :日本@名無史さん:2021/07/07(水) 13:09:02.08 .net
建武政権は鎌倉幕府の実務官僚も取り込んで行政・裁判組織を作ったのはよかった
全体に公平な行政・裁判ができていれば長続きしていた

650 :日本@名無史さん:2021/07/08(木) 15:16:46.06 .net
大覚寺北家・南家、式家、京家みたいな感じで
跡目が複雑化する

651 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 11:14:19.01 .net
そもそも初代の亀山からして家を割るような遺言出してるしな
北条家すら流石に第3の家を作る事は許可しなかったくらいだし

652 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 23:36:39.06 .net
よみがえる新日本紀行 「吉野美林〜奈良県・吉野〜」

鮮やかな映像によみがえった「新日本紀行」と、その土地の今を伝えるミニ紀行をご覧いただく。「新日本紀行」が
放送された昭和46年当時、南北朝の歴史を秘めた山深い村では、500年にわたり美しい森を育てあげてきた人々
の暮らしがあった。それから半世紀、建設中だった大滝ダムは完成し、村の中心はダム湖の上に新たに築かれていた。
村の人々は、吉野杉の美林を守りながら、新しい形の林業経営に乗り出している。
https://i.imgur.com/ylcA7Yk.jpg
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653 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 23:48:20.43 .net
続き
https://i.imgur.com/p4srswk.jpg
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https://i.imgur.com/L7va3Bc.jpg
https://i.imgur.com/OqAXWOJ.jpg
https://i.imgur.com/gqNf856.jpg

654 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 23:52:25.80 .net
>>653
これ抜けとった
https://i.imgur.com/VEtMNQB.jpg

655 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 23:58:59.69 .net
続き
https://i.imgur.com/gKDBihI.jpg
https://i.imgur.com/BeaS7v3.jpg
https://i.imgur.com/DALOpoY.jpg
https://i.imgur.com/l1yZ0nT.jpg
https://i.imgur.com/S2zkPdy.jpg
https://i.imgur.com/DyZbzfY.jpg
https://i.imgur.com/2hlDnH3.jpg
https://i.imgur.com/P4MLfw3.jpg
https://i.imgur.com/MS1iODj.jpg

656 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 00:10:07.36 .net
続き
https://i.imgur.com/oxVBe5q.jpg
https://i.imgur.com/M2s2wNd.jpg
https://i.imgur.com/DTVltN2.jpg
ダム建設
https://i.imgur.com/ugZoJYB.jpg
https://i.imgur.com/5SVYFqk.jpg
https://i.imgur.com/SGYLxls.jpg
https://i.imgur.com/9qLXnlp.jpg
完成したダム
https://i.imgur.com/siyMAie.jpg
移転した村
https://i.imgur.com/GexXdQ3.jpg

657 :日本@名無史さん:2021/07/19(月) 20:06:35.92 .net
>>653
南帝王ってミナミの帝王みたいだなw
後南朝は正統な天皇ではないから天皇とは書けないんだろうけど

658 :日本@名無史さん:2021/07/22(木) 07:42:58.81 .net
>>652
後南朝で町おこしをすれば観光客も増えそうだな
小倉宮聖承キーホルダーとか教尊クッキーとか、出羽王饅頭とか作ったらいいのに
後南朝グッズやお土産を求めて観光バスが来るようになる

659 :日本@名無史さん:2021/07/22(木) 15:37:14.02 .net
>>658
後南朝天皇を萌えキャラにしてキモヲタを釣るしかないけど
地元や宮内庁がそんなこと許すわけないな

660 :日本@名無史さん:2021/07/23(金) 10:30:03.57 .net
>>659
宮内庁は小倉宮が萌え豚になろうが、2コマ即落ちでアヘ顔晒そうが、気にしないと思うが

661 :日本@名無史さん:2021/07/23(金) 16:20:15.13 .net
>>660
いくら明徳の和約以後の南朝は正統でないとは言っても
天皇の血を引くお方をそんな風にするのは許さないのでは?
信長や家康を女体化させるのとはわけが違う

662 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 01:47:39.99 .net
金蔵主姉妹は尼さん、自天王姉妹はロリキャラになるのかなw

663 :日本@名無史さん:2021/07/29(木) 16:46:58.63 .net
謎の美少女・西陣南帝

664 :日本@名無史さん:2021/08/02(月) 01:57:24.88 .net
朝拝式で自天王たん萌えー!と叫ぶキモオタ

665 :日本@名無史さん:2021/08/02(月) 07:28:33.96 .net
そりゃま、尊いことは尊いんだろうけど、意味が違うわな

666 :日本@名無史さん:2021/08/03(火) 10:24:11.86 .net
>>658
教尊クッキーは南朝女子に人気が出そう

667 :日本@名無史さん:2021/08/03(火) 15:27:58.77 .net
ウマ娘ならぬヨシノ娘かw

668 :日本@名無史さん:2021/08/25(水) 03:14:41.86 .net
そもそも>>6の出羽王や王って本当に南朝なのか?
時代が時代だし北朝系の可能性もあるのでは

669 :隠士:2021/08/26(木) 14:19:08.44 .net
天皇の子孫なんてはいてするほどいて、代が下ればくだるほどゴミ扱いだよ。いちいち敬ってらんなねえよ。

670 :隠士:2021/08/27(金) 14:17:48.02 .net
>>639
現代の学問的な水準からしたら通説ではない。まあ違う。

671 :日本@名無史さん:2021/08/29(日) 09:10:46.43 .net
>>668
北朝でも系譜が不明の諸王っているの?
さすがに北朝だと親王宣下をするか寺院の門跡になるか何等かの処遇をすると思っていたけど

672 :日本@名無史さん:2021/08/30(月) 19:49:49.09 .net
アニ豚は土方歳三の墓にマヨネーズ供えたりするガイジだから
後南朝を萌えコンテンツにしたら自天王の墓が悲惨なことになりそう

673 :日本@名無史さん:2021/09/02(木) 05:21:25.97 .net
>>643
仮に両統迭立以外は史実通りになったとしたら
GHQがどちらかを臣籍降下させてそう

674 :日本@名無史さん:2021/09/03(金) 23:43:52.03 .net
光厳たちを人質に取り続けることはできなかったのだろうか

675 :日本@名無史さん:2021/09/04(土) 20:41:29.20 .net
>>671
南北朝よりずっと前だが、平将門に加担した興世王は父祖の系譜も出生年も不明

676 :日本@名無史さん:2021/09/05(日) 11:27:03.18 .net
興世王クラスの諸王って周囲からどんな扱いを受けていたんだろうね?
一応は皇族ってことで丁重に礼儀をもって接せられていたのか?
それとも中級以下の貴族と同じ扱いで、公卿や受領クラスの貴族からは目下扱いで
タメ口で粗略にされていたのかな?

677 :日本@名無史さん:2021/09/05(日) 12:09:15.21 .net
>>674
人質の意味がなくなったから解放されたんだろうに

むしろ、解放したことで北朝内が混乱して南朝に有利だったとすら言える

678 :日本@名無史さん:2021/09/05(日) 20:05:03.62 .net
>>677
北朝の皇族を格の低い奴も含めて全員拉致ってなきゃ無意味だった?

679 :日本@名無史さん:2021/09/05(日) 20:56:39.42 .net
>>676
『「王」と呼ばれた皇族』を読もう

680 :日本@名無史さん:2021/09/09(木) 21:09:55.37 .net
後南朝の天皇や皇族が萌えキャラになったソシャゲが出たらお前ら課金する?

681 :日本@名無史さん:2021/09/10(金) 00:28:09.60 .net
>>659
崇徳上皇とか、いろんな媒体でいじり倒されてるな。
あと聖徳太子のBLものって多くないか?

682 :日本@名無史さん:2021/09/10(金) 02:34:02.30 .net
>>676
さっぱりわかりませんなあ

・国から給与を支給されていたのはいつまでか?
・支給されなくなったときの収入源
・どれくらいの位階官職を保証されていたのか
・自分で新田塩田等を開発できた?
・商売はできた? 職人になれた?
・父親から所領は継承できた?
・嫁の実家の所領を継承できた?
・軍事貴族にはなれなかった?

683 :日本@名無史さん:2021/09/10(金) 02:41:34.22 .net
>>682
追記
確か、三世王 四世王 五世王で位階官職に任じられるルールがあったはず

じゃあ六世になって皇籍から外れて庶人になったとき、どういう身の振り方になったのか?
というのがわからん

684 :日本@名無史さん:2021/09/10(金) 18:26:50.39 .net
>>683
出家するしかないんじゃない?

685 :日本@名無史さん:2021/09/11(土) 02:26:13.13 .net
上級貴族の下働き

686 :日本@名無史さん:2021/09/14(火) 21:29:29.41 .net
>>683
そうなる前に国司になって現地に赴き、開発領主となって土着する。
源氏や平氏はこのパターンだね。
興世王も本来はそれ狙いだったんじゃないかな。

687 :日本@名無史さん:2021/09/14(火) 21:32:13.30 .net
出家する他、摂関家その他の有力な家に養子に入る手もある。

688 :日本@名無史さん:2021/09/14(火) 21:33:32.13 .net
>>668
史料があれだけじゃ判んないよな。

689 :日本@名無史さん:2021/09/14(火) 23:28:52.23 .net
>>686
「王と呼ばれた皇族」には諸王は在京が義務付けられていたと書いてあった

けど、何故か地方に土着した例も書いてあった

>>687
親王ならともかく諸王はそれはないな

690 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 01:03:04.97 .net
当時の寺は生活に困った皇族が最後に頼る
まさに「駆け込み寺」だったわけだなw

691 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 07:58:01.52 .net
>>690
同時に、それ以上子孫が増えなくなるわけで、皇統がむやみに広がるのを防ぐ効果もあるね

692 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 08:04:52.65 .net
人間、ロボットじゃないんだから、「寺に入れ 以後、女とSEXするな」と急に言われて実行できるか?

天皇によっては20人も30人も40人も子供を作ってる性豪もいるのに

693 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 08:26:04.86 .net
>>692
訂正 天皇というか皇族だな
清和天皇の皇子の貞純親王も性豪と言えば性豪だし

694 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 11:39:49.61 .net
だから昔の寺はホモ、特に稚児に手を出すショタコンが多かったんだろw

695 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 11:57:41.41 .net
>>692
できなくても、寺に入ってから作った子供は公式にはいないことになるわけで、皇籍に載せられないよ

696 :日本@名無史さん:2021/09/15(水) 14:07:52.63 .net
キリスト教の修道院もホモだらけで、ローマ教皇も密かに子供作ったりしてたようだし
男ばかりの環境だとそうなるのはどの国でも同じなのかなw

697 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 06:45:19.97 .net
諸王も大勢いたけど、源姓・平姓をもらって臣籍降下した元皇族もすごく多いんだよね。
そして、その大半がその後の消息も子孫も不明。
だから、軍事貴族になったり、地方に土着したことが明らかな清和源氏や桓武平氏は
ものすごく少数の勝ち組だったんじゃないかなと思う。
そして、あれだけ多くの家に分かれて地方の名族になっていったのも、いくつもの幸運と
大変な努力が重なった結果だったんじゃないかと思う。

興世王といっしょにふらふらしていた経基王(源経基)の子孫があれだけ繁栄して、
源頼朝や足利尊氏が出てくるなんて、周囲の誰も、経基王自身も想像さえしなかった
と思う。興世王のような最期になってもおかしくはなかった。

698 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 06:50:57.57 .net
>>697
つまり俺もお前らも源氏や平氏の子孫かもしれないわけだw

699 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 12:18:57.16 .net
二人合わせて源平だー
君と僕とで源平だー♫

700 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 20:20:15.48 .net
>>697
いわゆる源平というのは経基王と高望王(+高棟王)の子孫だもんな
途絶えた王や源平のほうが多いってことか

701 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 23:03:52.66 .net
いくら男同士でSEXする習慣があったとは言え、同性は生理的に無理と感じる奴もおったやろう。
俺も防弾少年団みたいな男前でもイヤ。尻穴に挿入ってリスクもあるし(痔・感染症)
https://www.kpopmonster.jp/wp-content/uploads/2021/09/deki.jpg

702 :日本@名無史さん:2021/09/19(日) 23:29:29.89 .net
>>697
源平だけじゃなくて平安時代でも「良岑朝臣」「長岡朝臣」高階朝臣」「在原朝臣」などの賜姓があった
ようだが・・・ どっかに一覧表ないかな? 長屋王の子孫については源平ではなく高階朝臣にされた
ようだな

清和源氏は経基王の系統以外はほぼ消えたしな。
消えたというか、公家でも武家でもなく庶人になったんだと思うが

興世王は何事もなかったら京都に召喚されてその子も諸王で京都在住が必須だったんだと思う。
興世王の孫か曾孫になると規定により皇族ではなくなったのだろう。そのときに名乗る姓がわからん。
やっぱり源氏か?

四世・五世でも臣籍降下しなかった諸王の子孫がその後どうなったのかさっぱりわからん

703 :699:2021/09/20(月) 05:13:02.37 .net
ウィキペディアの受け売りであるが・・・・(詳細はウィキペディアを読んでくれ(笑))

高市皇子・長屋王の子孫は三世王で臣籍降下した(臣籍降下させられた?)系統があって
高階朝臣を賜姓されたが、この系統とは別に諸王のまま五世王・六世王に至った系統が多数
あったようだ これらが承和・嘉祥・貞観年間に五世王・六世王で臣籍降下した(させられた?)
のであるが、何故かこの人らも高階朝臣を下賜されたようだな 貞観の頃になると全員が源朝臣の
イメージがあるがそうではなかったようだ

要は、嵯峨天皇の子孫だけが源朝臣なんだろうか? そういうことではなく、一世・二世で臣籍降下
した者だけが源朝臣であって他はそうではないとか? ウィキペディアの「源氏」の項目を見たら
源氏は他の賜姓よりも格が高いと書いてあるな 一世・二世で臣籍降下するほうがお得?

あと、長屋王の子孫で早い段階で臣籍降下させられた系統は母親の地位が低いから?

それと、俺がわからんのは五世王・六世王はもはや皇親(皇族)ではなく、臣籍である筈なのに
何故臣籍降下という手続きが取られたのか?ということだな 誰か教えて。
当時、臣籍降下の手続きが取られていない七世王・八世王・・・・もいたのだろうか?

あと、当時、諸王が腐るほどいて五世王・六世王なんてカスみたいな存在であるのに、峯緒王
改め高階峯緒は従五位下の位階と下野介の官職を与えられている 何故このような好待遇なのだろうか?
父親の石見王が従五位上だからかな? じゃあ石見王は何故このような地位を保持できたのか?

704 :日本@名無史さん:2021/09/23(木) 20:51:30.34 .net
平将門に撃ち取られた源氏3兄弟は清和源氏ではなく嵯峨源氏(らしい)から、祖先は源氏といいながら清和源氏ではない人も多いでしょう。

705 :日本@名無史さん:2021/09/23(木) 20:52:56.70 .net
海外に赴いて生を終えた皇族は高岡親王だけだったのかな。

706 :日本@名無史さん:2021/09/23(木) 21:51:00.72 .net
>>705
近代に何人かいるよ
有名どころでは台湾出征中に戦病死した北白川宮能久親王とか

707 :日本@名無史さん:2021/09/26(日) 11:48:21.41 .net
>>703
臣籍降下のとき一種のボーナスとして官位をもらえる。
「もう皇族じゃないから、あなたも子孫も皇族の待遇は失うが、降下に応じてもらう
見返りとして官位を授ける。その代わり、子孫は自己責任だよ」ということ。
サラリーマンがリストラのとき退職金割り増しになるようなもの。
また、早めに降下するほうが見返りも大きくなる。
他の王より早く皇族の待遇を返上した見返りだね。

708 :日本@名無史さん:2021/09/27(月) 19:50:11.94 .net
>>706
702です、ありがとうございます。近代は見落としていました。

709 :日本@名無史さん:2021/09/29(水) 02:29:21.52 .net
あまり詳しくないのであるが・・・・

律令制が始まった頃、朝廷が一括して徴税して朝廷(民部省?)が給与(布? 鍬?)・賞与・日当(食糧?)を
皇族・貴族・官人に支給し、予算を役所・官寺に支給していた

しかしながら、平安の前半頃?から支給しないようになって?、これまで受給していた者は自活しなければ
ならないようになった?

その結果、

・貴族は所領(荘園)を持って自分で徴税するようになった 実力が必要なので軍事貴族が登場した。
地方領主化する者もいた
・皇族に関してはパイが少ないらしく?、親王は親王宣下を受けた者だけになり、諸王はほぼ消滅した
・役所も所領を持つようになり?、自活できる役所は存続した 自活できない役所やニーズがなくなった
役所は消えた 例えば八省は消えた 八省の長官(卿)だけは任命された?が名前だけになった 他の構成員は
任命されなくなった 国司は花形のままだが守は任命されても介掾目やその他国博士、国医師、徭丁などの
職員は規定通りには任命されなくなった? 
・官寺も所領を持ち、徴税等を担当する者が力を持つようになった 貴族の師弟を受け入れるようになった

・・・・という流れがあるのではないか 傍流の皇族の臣籍降下を乱発したり、ほぼ寺院に送り込んだり、諸王が
ほぼ消滅したのも朝廷が徴税して皇族に配分しなくなったからでは?

・朝廷で出世する諸王
・所領を持って自活する諸王
・・・・が登場しなかったのは何か理由があるんだろうなあ? 地方領主化する諸王が登場しなかったのは在京義務が
あったからであるらしい?

710 :日本@名無史さん:2021/09/29(水) 02:39:10.70 .net
サウジアラビアのサウード家は5000人〜10000人ほどいるらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%89%E5%AE%B6

5000〜10000人の王族達がどこで何をしているか、どういう待遇なのか一覧表があれば
面白いと思うけど、検索しても見つからん

711 :706:2021/09/29(水) 03:18:43.55 .net
明治のときから日本は中央政府が徴税して予算を各役所に配分して、公務員に給与を支給している。
簡単なことのように思える。

これが平安時代頃にできなくなったのは何か理由があるんだろうな?

平安時代初期頃から朝廷ってものすごく縮んだんだろうな 何か比較できる基準があれば・・・


桓武天皇のときの朝廷の収入 1000 朝廷の構成員 20000人
清和天皇のときの朝廷の収入 100   朝廷の構成員  2000人
・・・・とか

712 :日本@名無史さん:2021/09/29(水) 12:36:58.28 .net
>>709
律令制発足当時から寺社には寺田、神田が親王には賜田が支給されていた。
貨幣経済が未発達なため給与を払うより有力者には水田を渡した方が好都合だったので。
官位のある者には位田が職(国の上級職)のあるものには職田が支給された。(これが実質的な給与ですね)
寺は技術力があったので東大寺などは積極的に水田開発を行った。(国の要請に応えた形、水田は慢性的に不測気味)
この位田と職田は官位や職を失えば返納するはずだが、事実上世襲的になると実質返納されなくなった。
また国司や郡司たちは水田開発を行って開発面積を過小申告して差額面積分を自己の物とした。
墾田永年私財法発布によってこれら怪しげな私営田は合法化される。
これらは歴史学で初期荘園と呼ばれます。

一方、口分田はというと郡司による租の取り立てがひどくなり、より正確には郡司が作付け用の種籾を良民に貸付け年
て年数十パーセントもの高利を取ったことから良民の逃散が相次ぎ労働力不足に陥り、一部を除き口分田(国衙田は荒廃)。
逃げた農民は私営田に雇われたり、群盗となったり。ごく一部の農民は開発領主になって有力農民に。
労働力不足に陥った中央政府は班田収授を廃して一部の田の経営に乗り出し、租庸調税制は廃止して徴税を一部の有力農民(富豪の輩、田堵、力田の輩といった農民)に請け負わせるように。
こうして国衙田は国保有の荘園化します。これが平安時代初期ですね。
詳しくは研究入門荘園を、もっと詳らかに知りたければ講座日本荘園史をお読みになるとよいかと。

713 :日本@名無史さん:2021/09/29(水) 12:39:35.99 .net
>>709
朝廷で出世する諸王ー村上源氏(有名なのは北畠親房、顕家)
軍事貴族になる諸王ー源氏と平氏

714 :日本@名無史さん:2021/10/01(金) 20:02:27.26 .net
>>712
種もみを貸し付けて数十パーセントの利子をとって、何の問題あるんだろう?
1粒の種もみが数十粒の米になるから、
100粒から3000粒作って、150粒返しても大儲けなのに。

715 :日本@名無史さん:2021/10/03(日) 11:29:57.24 .net
>>709
奈良時代、平安初期までは官職に就いている諸王が頻繁に見られる。
諸王も他の貴族と同様に貴族社会で生きていた。
だが、平安中期以降、藤原氏北家が官職を独占するようになると、多くの中央貴族が
貴族社会から消滅していった。
元皇親であった嵯峨源氏も貴族ではなく、地方武士として生きるようになる。
この流れと諸王が縮小していくのと関係があるのではないか?

716 :日本@名無史さん:2021/10/09(土) 11:47:00.60 .net
>>714
返済に困って土地といっても畑なんかの園地を取られるパターンが多くて良民が困窮し、政府も困ったのは確かだから問題はあったのだろう。
一見大儲けに見えても、作った米(実は粟もだが)は大部分が生活で消費し残る3パーセントが租として取られる。
加えて庸調も実際は米などで代納するパターンも多いからいうほど純益的なものは出なかったのだろう。
豊作の年は良かっただろうけど、不作の年になると一気に状況悪化に追い込まれたのではなかろうか。
逆に凶作だと減免されるからある意味ましかもしれんけど。

717 :日本@名無史さん:2021/10/12(火) 21:16:22.12 .net
>>710
イスラム教には聖職者階級がなく、学者がその役目を果たす仕組みだから
日本やカトリック圏のように出家させることもできないのかな

718 :日本@名無史さん:2021/10/13(水) 07:01:27.77 .net
>>717
昔のイスラム圏の国だと、王様の兄弟は皆殺しじゃなかったっけ?

719 :日本@名無史さん:2021/10/13(水) 10:45:51.11 .net
>>718
オスマン帝国はそうだったみたいだね
他のイスラム国家でも同じかは知らないけど

720 :日本@名無史さん:2021/10/13(水) 15:53:48.36 .net
日本でも飛鳥時代とか奈良時代では皇族が粛清される事件が多発しているな
有間皇子の変、山背大兄王の変、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱など
だから、臣籍降下させる、出家させて門跡を継承させるなどに変わっていったのだろう

721 :日本@名無史さん:2021/10/13(水) 18:15:55.09 .net
一夫多妻制だと必然的にそうなるよね。昔は死亡率が高かったから仕方ない面もあるけど
殺すことも出家させることもできなければサウジみたいに人口爆発するのは避けられない

722 :日本@名無史さん:2021/10/13(水) 19:37:00.36 .net
>>719
トルコもその制度途中で廃止したんじゃなかったっけ。
何週間か前に歴史的速報だかにオスマン帝国のまとめがあって書いてあったような。

723 :日本@名無史さん:2021/10/14(木) 09:27:42.90 .net
ウィキペディアを見たら「貞観12年に諸王の数が429名に定められた」って書いてあるから、
大量臣籍降下で減らしまくってもまだまだ皇族が大量にいた?(←「429人に定められた」と
いう文章の細かい意味がよくわからないのであるが)

492人の王に与える位階はなんとかなってもポストと私有地はどうかな? ポストはなく
 「散位」として適当にプラプラして遊んでた? そうか、一生に一回くらい国司(守)や寮・司の
長官になれたとか?

まあ、この辺から断固たる決意でさらに皇族の臣籍降下及び出家を断行して諸王をゼロに
したんだろうが、ゼロにした意味とは?

724 :日本@名無史さん:2021/10/15(金) 15:24:22.77 .net
奈良から平安前期の皇孫関係にはちょっと面白いページを見つけた
ttps://chibasi.net/souke2_2.htm
このサイトは桓武平氏系千葉家のサイトなんだけど、ここの高見王についての検証っつうか
高見王に限らず天皇の孫以下の皇孫等も含めて色々検証してる
ウィキなんかでは生年月日が全部バラバラな件や、早世したとは言え無位無官のままで有るって部分に疑問点を提示して、
高見王なる人物は実は居なかったのではないかって言う推測なんかを、やや肯定的に示しているけど、
このサイトだと、当時無位無官で更に記録すらされずに没した皇孫は有ってもおかしくないって感じの文章だな。
基本20歳で官位を取得と言ってもそれは絶対的なものではなく、実際40過ぎてようやく取得した例なんかも有ったりするのを、
実際の史料からも提示してたりするところからして、個人的にはこっちのサイトの方が言い分に理が有るように感じる。

725 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 08:14:41.85 .net
王と呼ばれた皇族によると、正親司の名簿が残っていたら王の経歴がわかるけど、実際は
伝わってないらしいな
その上、諸王の多くは子孫を名乗る者がいないらしい。

興与王なんてたまたま平将門と絡んだから名前が残ったけど、関わってなかったら名前も
伝わらなかった可能性大

726 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 21:01:49.82 .net
皇統譜とは別に、史料から系譜不明の皇族を集めた「諸王譜料」という手稿が
宮内庁にあると聞くが、完成しているのか、どういう体裁なのか見たことがない

727 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 21:34:12.83 .net
出羽王の話から完全に諸王総合スレになってて草
まあ後南朝の史料なんて殆どないから仕方ないけどさ

728 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 21:38:33.18 .net
「欧米では~」と言いたがる人をネトウヨ用語で出羽守と言うらしいが
出羽王の存在が日本史ヲタ、というか後南朝ヲタ以外に知られれば一気にバズりそうだなw

729 :日本@名無史さん:2021/10/22(金) 17:58:13.28 .net
>>727
闇の歴史後南朝でも終わり近くで自称の王が出てくるから無関係でもないかな(強引)

730 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 10:14:32.39 .net
>>727
後南朝って出自・系図の不明な諸王が突然出て来て、支援者も出てくるんだよね
そして、再び歴史の闇に消えていく
だから、そもそも諸王ってどのように生息していたのか、どの程度系譜が分かって
いたのか、その後はどうなったのかという興味から話題が広がったんだよね

731 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 17:11:56.94 .net
>>730
後南朝は勿論それ以外の時代でも
熊沢みたいな自称してるだけの偽物が結構混じってそう
個人的には金蔵主兄弟までは皇胤だと思うけど
自天王兄弟はかなり怪しいと思ってる
西陣南帝は高確率で偽物

732 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 21:22:23.56 .net
そういえば有栖川宮を詐称してた奴もいたな

733 :日本@名無史さん:2021/10/29(金) 13:03:39.83 .net
ニセ有栖川宮夫妻が開いたパーティには芸能人も多数出席していて、大半が騙されていたらしい
南北朝時代においても、ニセ宮様が出てきたら騙される人もいたかも知れない

734 :日本@名無史さん:2021/10/29(金) 22:31:46.66 .net
>>733
ましてやネットもテレビも新聞もない時代の吉野の山奥だからな
後醍醐天皇のことは当然美化されて伝わっていただろうし

735 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 20:17:18.56 .net
逆に京都の方じゃ長慶天皇なんて知らなかったみたいだしな。

736 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 20:25:24.10 .net
>>735
そりゃ北朝は南朝なんて存在しない物として扱ってただろうしw
後醍醐は廃帝だけど一応即位はしてたことになってたみたいだが

737 :日本@名無史さん:2021/10/31(日) 02:49:38.18 .net
後醍醐は廃帝だったの

738 :日本@名無史さん:2021/10/31(日) 13:24:08.53 .net
>>737
北朝を建てた段階で御醍醐は廃したことにするしかあるまい。

739 :日本@名無史さん:2021/11/03(水) 01:53:38.94 .net
>>714
よく問題になったのが、必要としてないひとへの強制貸し付け
つまり、利子だけとっていく行為

>>716
3パーセント説は古い

田地の等級の高い良田だけの話で、普通の田では10パーセントぐらいとされている



>>736-737
そりゃ廃されたから京都を去ったわけだからなあ
京都の人からみたら、後醍醐廃位のあと光厳、後醍醐重祚、光明、崇光、後村上、後光厳という順序なんだろう

740 :日本@名無史さん:2021/11/05(金) 22:40:34.91 .net
>>739
3パーセント説は古いのか、依拠した文献が古かったかな。

741 :日本@名無史さん:2021/11/06(土) 15:17:52.01 .net
田の等級が規定されてて、良質な「上田」と平均的な「中田」と収穫量の少ない「下田」に区分されたとのことだが、
およその収穫を計算すると、上田では租は約3パーセント相当、もっとも多い中田では約10パーセント相当、下田では20パーセント相当とのことだ

上田は少ないので、豪族の関係者が割り当てられてることが多いとされているので、
一般人の班田だと10パーセントのとこが普通らしい

742 :日本@名無史さん:2021/11/06(土) 22:29:44.69 .net
>>741
ありがとう、それにしても10パーセントなら重税とも言えんよな。
もちろん租以外に傭と調もあれば出挙稲の強制的な貸し付けとその返済もあるから負担が重いのだけど。
なんか後南朝スレじゃなくて律令制スレになってしまった。申し訳ない。

743 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 11:00:11.16 .net
植月御所の本が図書館にあったから読んだけど、川上村の朝拝式の話よりも胡散臭い
後書きに「植月御所の真相を研究していた歴史家(著者)は病院で殺された」とあって、もうね
植月の末裔は御所消滅後は流王姓を名乗って今も岡山にいる
で、今の当主は流王農(りゅうおう・あつし)っていう人で保育園経営してた教育者だが
霊仁王と名乗って美作後南朝の本出したりしてた
まぁ、実話雑誌のネタにされる程度なんでお察し

744 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 11:15:41.63 .net
植月御所は後南朝の後裔を称しているが、確かな系図が存在しない
皇位に就いた皇族もおり、諡号も残されているが、本当に即位していたか疑わしい
後南朝を自称した地方豪族の可能性もある

745 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 11:23:05.99 .net
「研究者に預けた系図が消失したんで記憶で復元」とかいうよくあるパターンなんだよな、美作
美作後南朝の正当性を訴えようとした森忠政が毒殺されたとかも、なんか後付けくさい

746 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 11:26:22.41 .net
>>745
×消失
○焼失

747 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 12:37:32.05 .net
>>742
後南朝スレで説明するのはスレチだけど、古代の税制で負担が重かったのは調とか雑徭で、租は負担の中心じゃないから軽いんだと思う

748 :日本@名無史さん:2021/11/07(日) 23:50:56.60 .net
植月御所とかの話はここじゃなくてオカルト板で語るべき

749 :日本@名無史さん:2021/11/08(月) 09:51:23.96 .net
中国語のサイトで「後南朝」を解説するページを見たことがあるが、後醍醐天皇の南朝
から始まって、植月御所まで続いて、江戸時代の半ばごろに滅亡した、という説明だった
中国人の日本史では、植月御所は史実になってしまっている可能性がある

750 :日本@名無史さん:2021/11/08(月) 12:23:21.48 .net
日本で流通してる世界史の本(教科書含む)にも全くの出鱈目が混じってたりするんだろうか

751 :日本@名無史さん:2021/11/08(月) 21:34:39.45 .net
>>749
ワンピースの失われた100年じゃないんだから
美作後南朝をDの巨大な王国のように封印してはいけない

752 :日本@名無史さん:2021/11/08(月) 22:07:02.03 .net
>>745
系図が残されてても、いつ作られた系図かはっきりしないといかんしな。
系図だけなら徳川も新田の流れで間違いないということになってしまう。

753 :日本@名無史さん:2021/11/08(月) 22:18:09.61 .net
そもそも、現存する古系図の多くは虚飾を含んでるわけだしな

754 :日本@名無史さん:2021/11/09(火) 17:50:39.79 .net
明治四十五年に民友社が出版した『南山余録』では、
尊秀王が討たれたことを以て「南朝の皇統は全く絶え果てた」としていて、
西陣南帝には触れられていない

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772445/78
コマ番号82

755 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 00:28:13.48 .net
>>741
今、「荘園」(伊藤俊一)を読み始めているが班田収授の対象は水田のみと書いてある

同時に「戦国、まずい飯」(黒澤はゆま)を読んでるんだが、(太閤検地の頃まで)水田・
陸田・休耕田(片荒らし)がパッチワークのように広がってるのが一般的な農村の風景だった
と書いてある。施肥と治水の技術が低かったらしい。米の品種・色味もバラバラだったらしい。

陸田に租は課せられたのだろうか? ポツンポツンとある水田だけが租の対象?
しかも米の種類が違うんだから一律に○%とか意味あるのかなあ?と思ったり

しかも昔は災害・天候不順が多そうだし、水田なんていとも簡単に消滅しそう

756 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 01:26:02.45 .net
>>755
まずいメシのほうの村落風景が間違いだね

757 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 01:49:25.00 .net
>>756
間違いと言える根拠は?

758 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 20:49:47.46 .net
>>755
荘園図を見ると広大な土地の中に部分的に水田があるように思われる。
もっとも東大寺が開墾した越前の国の庄みたいにあたり一面水田というのもあるが。

班田収授の対象は水田のみでいいはず(『岩波講座日本荘園史』とかとか『研究者のための荘園入門』あたりもそんな記述のだったはず)

>いとも簡単に消滅
実際に荒廃田が出まくり。労働力不足もありけど。

759 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 20:53:25.71 .net
>>755
>>756
律令時代と室町以降では村の在り方が違うので何とも。
今の今の日本人がイメージする村の形態は室町時代の惣村からといわれますので。
一方、古代の村に関してはいまだ不明な点が多いそうで(史料に乏しいですから)。
一概に正しい、間違いというのは控えた方がよいかと。

760 :日本@名無史さん:2021/11/10(水) 20:55:45.08 .net
>>754
明治45年というと明治天皇が南朝を正統と認めたすぐ後の出版ですね。
長慶天皇の在位が疑われていた時代だとそんなものなんでしょうね。

761 :日本@名無史さん:2021/11/11(木) 10:41:26.72 .net
明治時代だと大乗院自社雑事記など西陣南帝に関する資料の研究が進んでいなかったのでは?
西陣南帝以後の皇統については今後の研究が俟たれる

762 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 11:19:29.78 .net
KK騒動で秋篠宮家は皇統にふさわしからずという声が沸き起こっている

ここは政府は総力を挙げて西陣南帝や自天王の男系子孫を徹底的に捜索し、
見つかった暁には親王宣下のうえで今上天皇の皇太子とし、
皇統を正しき血統に戻すべし

763 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 11:24:59.93 .net
南て言った?

西陣何帝?

764 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 11:35:15.17 .net
正統性が怪しい上に父親が誰かも分からんその二人の500年後の子孫なんか男系だろうが普通に一般人だろ

765 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 15:27:57.79 .net
西陣南帝も自天王も子孫はわかっていないよ
推測だけど西陣南帝の後の皇位はせいぜい数代しか続かなかった
後見人の山名宗全も間もなく亡くなるし、次第に支援者も少なくなっていったはず
最後にはわずかな廷臣しか残らなかったと考えられる

766 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 15:33:35.13 .net
廷臣がいたのは南北合一まで、後南朝の廷臣は最初から存在しない

767 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 17:14:43.59 .net
合一後はたいてい幕府に恭順する勢力ばかりの中で南朝奉じるっていうと、そういうポジ以外では生き残れないレベルの弱小ってことだろ

768 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 17:58:52.88 .net
もと南朝の廷臣たちの大多数は合一にともなって失職し、継ぐべき家もないので庶民落ちした
ごく一部、分家の跡継ぎに押し込まれて生き延びたものが例外的に存在するけどな
そんな連中が後南朝の蜂起時に生き延びてたとも思えない

廷臣以外で唯一の生き残りとも言える北畠だって、幕府に降伏して生き延びたんだしな

769 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 18:36:07.62 .net
最後まで抵抗してた新田や楠木があんな末路だからなぁ
赤松みたいに幕府帰順への踏み台に利用する奴以外は
南朝方に与したほうが逆にプラスになるような木っ端豪族が関の山

770 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 19:00:02.75 .net
南朝廷臣阿野家は合一後も公卿として生き延びた
まあ例外中の例外だけど

771 :日本@名無史さん:2021/11/13(土) 21:33:16.99 .net
>>766
禁闕の変でみても、日野有光が後南朝に加わっているじゃん

772 :日本@名無史さん:2021/11/16(火) 17:30:01.82 .net
スレ違いの輩が失礼します。
小田原北條氏に関心を持つ者です。

『妙法寺記』明応八年霜月条に見える、三島に配流されて更に伊勢宗瑞によって相州に送られた「王」が実は「西陣南帝」であるとの説が後南朝研究の分野に存在すると聞きました。
北條研究の側ではついぞ聞かない説なのですが、興味深い話なので調べてみたいと思います。
当該の説を記した史料記事、論文、研究書などを御教示下さい。
宜しくお願い致します。

773 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 22:07:23.35 .net
769さんこのスレに来訪ご苦労様です。
件の記事は森茂暁『闇の歴史 後南朝 御醍醐流れの抵抗と終焉』角川ソフィア文庫に載っています。
ています。
森氏もその史料を引いて、これが後南朝が史料で確認できる最後の事例かもしれないとしていますが西陣南帝と断定はされていません。
後南朝の皇統かもしれないという程度です。

774 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 22:15:03.71 .net
北朝の皇族かもしれない

775 :769:2021/11/18(木) 22:27:31.01 .net
>>773
御教示ありがとうございます。
当該書籍の閲覧または入手を試みてみます。

長享ノ亂、伊豆戦争、そして何よりも明応七年大震災の壊滅的被害に喘ぐ関東に更にヤバいモノを放り込んでどうするつもりなんだよ幕府よ、
と、その辺に強く関心を惹かれます。

スレチ者の闖入、失礼致しました。

776 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 22:36:26.33 .net
旧版(角川選書)にしろ、文庫版(ソフィア文庫)にしろ、取扱店が少ないのでネット通販か電子書籍が頼りでしょうかね

たしか旧版にも乗ってたような気がするけど、現物が見つからなくて確認できない第三者です

777 :日本@名無史さん:2021/11/19(金) 05:40:02.71 .net
『南朝研究の最前線』に載ってたやんけ

778 :日本@名無史さん:2021/11/19(金) 17:47:09.64 .net
相模に送られた王はどうなったんかねえ、西陣南帝は切られた気がするけど。
史料が無いからいっても詮無いけど。

779 :日本@名無史さん:2021/11/19(金) 20:41:43.65 .net
>>778
南朝系なら殺されて、北朝系なら穏便に出家させたんじゃないかな

780 :日本@名無史さん:2021/11/20(土) 12:15:38.16 .net
西陣南帝は西軍の諸将が解散したことにより孤立・失脚したんじゃないのかね?
北野松梅院を内裏として安座しておられたが、政権自体がなくなったため退去させられた
生活費を得るため、かつての支援者のもとを渡り歩いたものと思われる
後南朝の諸王が地方を渡り歩くのと同様の事情だったのでは?

781 :日本@名無史さん:2021/11/21(日) 22:38:05.88 .net
>>780
かつての支援者って紀伊で挙兵したから紀伊へ戻る吉野へ行くか、
南朝ゆかりの伊勢北畠氏や肥後菊池氏を頼るかだが、その形跡は見られないな

782 :日本@名無史さん:2021/11/25(木) 12:35:38.13 .net
>>781
挙兵当時の支援者ではないだろうね
「南帝」として政権にあったときに知り合った大名や国人勢力を頼ったんだろう
普通に考えれば、吉野や紀州の元支援者か国司北畠家を頼りそうなものだけどね

783 :日本@名無史さん:2021/11/25(木) 21:31:19.86 .net
北畠は南北合一後はがっつり北朝つか、幕府方ですよ

784 :日本@名無史さん:2021/12/01(水) 12:23:42.87 .net
温泉むすめ見て思ったけど、マジでキモヲタちょろいな
吉野むすめで後南朝の天皇や皇族を萌えキャラにしたら稼げそう
地元が許さないだろうけど

785 :日本@名無史さん:2021/12/01(水) 20:18:04.26 .net
地元はむろん皇国史観の人達も許さないと思う

786 :日本@名無史さん:2021/12/01(水) 22:02:38.47 .net
>>785
皇国史観ってあくまでも「後亀山天皇までは」正統と認めますって立場だろ
後南朝は正統ではない、下手すれば賊だろ

787 :769:2021/12/01(水) 22:53:42.57 .net
>>786
え。
「多芸志美美こそ正統!神沼河耳は皇統を簒奪した逆賊!!」
ってのが皇国史観かと思ってた。

788 :日本@名無史さん:2021/12/02(木) 10:16:37.01 .net
一般的な皇国史観(皇室・政府公認の皇統譜)では、南朝・後亀山天皇までが正統
ただし、皇国史観(南朝正統論)を突き詰めた史観では、
・西陣南帝までを正統とする
・西陣南帝から数代後まで正統とする
・美作後南朝(植月御所)まで正統とする
に分かれるけど、西陣南帝までとするのが一般的

789 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 23:00:22.10 .net
美作後南朝なんて与太話は混ぜてはあかん

790 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 16:43:57.31 .net
江戸時代の正しい「帝都」は少なくとも中頃までは京都ではなく美作だったわけですね

791 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 19:03:33.29 .net
美作のは創作物だから、帝都は京都で間違いない

792 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 22:49:41.16 .net
美作はどう頑張っても行在所どまり。
そういや吉野朝という呼び方あるけど吉野も都とは言えないよね。

793 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 09:45:37.78 .net
吉野京は実城寺を行在所としただけで、都を本格的に造営したのではなかったから、
朱雀大路を始めとする条坊が未整備だった
美作後南朝に至っては、摂関や大臣はもちろん局務を担う官人が皆無だから朝廷と
呼ぶことすら差し障りがある

794 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 20:33:14.60 .net
後南朝どころか吉野の南朝ですら官人は少なくて政務の運営に支障があった
後南朝には官人はほとんど、もしくは全くいなかっただろう

795 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 21:03:38.62 .net
>>794
村民が「おらが天皇」を祭り上げてただけだろw

796 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 21:07:34.06 .net
政務ってなに
税金を集めているわけでもないから
綸旨を起草する以外は祈祷くらいしか公務も無かったのでは

797 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 21:12:33.38 .net
そこは除目を行って国ごとの守を決めるとか、官位を発するとか。
でも後南朝ではやってる形跡が無いよな。

798 :日本@名無史さん:2021/12/07(火) 07:23:19.16 .net
アメリカ合衆国皇帝陛下みたく、
市民から徴税したり、観光客に「国債」を売りつけたり、
新聞に勅令をのっけてもらったり、
市議会から帽子をもらったり、
レストランでただ飯食ったりすることじゃね?

799 :日本@名無史さん:2021/12/09(木) 11:54:34.23 .net
後南朝が除目を行った形跡はないな
何らかの形で官位を授かったのは楠木正理など後南朝方の武将や公家だけ
十津川宮や熊野宮のような皇族に親王宣下を行った記録もない

800 :日本@名無史さん:2021/12/09(木) 14:32:58.11 .net
>>796
税金は集めてるそ

武家方が半済をしていたように、味方の武家や寺社の所領に「朝用分」と称してピンハネしてた。

801 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 23:00:13.53 .net
自天王と四天王って似てるよね

802 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 23:42:28.22 .net
>>801
どこがどう似ているか、日本史板の住民にわかるように説明してみてくれないかな?

803 :769:2021/12/18(土) 00:26:04.89 .net
>>802
日本語の読めない奴に説明するほど暇じゃない。

804 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 10:38:21.72 .net
>>799
後南朝には公卿補任が残ってないからな
吉野朝時代は賀名生に行宮があり、都として未整備とは言え寺院を内裏として使うこともできた
後南朝の北山御所はおそらく地元の土豪が立てた仮御所であり、主上をお迎えするには恐れ多いものであった
主上に奉る大御食も山民が献上した山菜や川魚に過ぎなかった

805 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 23:32:04.93 .net
賀名生の堀家の系図によると、堀信増の曾孫の安通が後南朝から従五位下三河守に任じられたとある

806 :日本@名無史さん:2021/12/20(月) 13:33:05.51 .net
>>763
佐々木どうよ?

なんつってw

807 :日本@名無史さん:2021/12/20(月) 20:48:38.64 .net
>>805
その系図の史料的価値が高ければ面白いな。
少なくとも除目とか行ってた可能性は捨てきれないわけか、金掛からんし。
いや逆にそうやって寄付を募ってた可能性があるか。

808 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 02:08:59.75 .net
堀参謀殿。

809 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 09:07:20.23 .net
除目を行っていたということは、官位発給文書を宣布する公卿、文書を起草する大外記が
必要だから、公卿クラスの公家と文書行政を司る官人(小槻氏)はいたってことだよな
文書に使用する紙を折ったり、墨をする手順も決まっているから、少なくとも数名以上の
官人は必要になる

810 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 15:06:30.68 .net
実体が伴う国司っていつごろまで?

811 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 20:56:19.46 .net
官途の私称が増えたのは観応の擾乱以降

812 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 22:33:44.30 .net
>>810
平安末期はまだ国司に実態伴ってるね。
鎌倉はどうだろう、守護、地頭に実権を侵食されてるけど実態はあるかな
室町はもうだめだろうな、南北朝初期まではまだ在庁官人が国司にいて機能してるのは府中市の
資料館にある文書で解るけど。

813 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 10:35:48.98 .net
平安末期だと知行国主(中央貴族)、受領、目代、在庁官人の序列がまだあるよな
所領でも本所、領家、在地領主の序列があった
源頼朝が挙兵した当時はまだこの状況だった

814 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 11:15:43.69 .net
常陸国府は応仁の乱のころまでは国府が機能してためずらしい例ってどこで読んだような気がするが、どこだったかなぁ・・・
国府の機能が強かったので在庁官人筆頭の大掾氏が戦国大名化したのかな

815 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 03:10:45.87 .net
現在まで続く足利家が維新後に平民に落とされたのも
逆賊尊氏の子孫だからってのが大きいのかな
いくら南朝正統と言ったって現皇統は北朝の子孫でありそれを守ったのが足利家なのに理不尽な話だ

816 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 03:18:06.57 .net
>>815
> 理不尽な話だ

靖國(招魂社)には未だに戊辰の『賊軍』戦没者は祀られていない。
明治以後の日本政府は自らの党派的偏向を隠そうとさえしていない。

817 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 03:29:20.23 .net
常陸国は、所謂東海道の東の果て、道の果て。つまり、東端だから、鹿島立ちという言葉もあるが、何か重要なところなのかしら?
日が昇る天照国だしさ

818 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 03:53:37.69 .net
>>816
戦後の政教分離によって靖国は建前上は政府から完全絶縁されてるから、
政府の意向のいかんに関わらず靖国は靖国の方針で決めてるでしょ
政府の意向が反映されてたのは戦前戦中までの話

819 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 12:37:26.47 .net
>>815
喜連川足利氏(鎌倉公方の子孫)は子爵に列せられたよ
所領は旗本クラスなのに子爵というのは、家格が相当に高かったということ
一方、平島公方足利氏は士族にもなれず平民になってしまった
幕末に所領を離れて帰農していたためらしい
辛抱強く平島公方を続けていれば士族にはなれていた

820 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 13:28:56.79 .net
>>819
室町時代とは逆に関東公方家が優遇され本家の血筋である平島公方家が冷遇されたというのが興味深い
しかも喜連川氏は途中で細川家から養子を入れてるから、本当に尊氏の血を受け継いでるのは平島公方だけ

821 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 22:05:01.99 .net
>>815
政権中枢に座った元維新志士を除けば、
明治当初の身分分けは江戸時代の身分・所領をそのまま反映している
廃藩置県まで改易されてなかった大名は賊軍だろうがなんだろうが自動的に華族
薩長土肥を除けば、その時点の領地の広さで官位も機械的に決定。
喜連川は本当に例外

将軍家・大名家の直臣は士族、その家来は卒族
主家を見限って官軍についた大名家の重臣の家来が、大名家の直臣よりも
えらくなれると思ったのに卒族に鹿なれなかった話もあっちこっちにある

また、幕末時点で侍身分じゃなかったら、自動的に平民
思想的なものは何もない

822 :日本@名無史さん:2022/01/08(土) 08:55:55.62 .net
当時の社会における高貴さというのは、単に高貴な血筋(天皇)につながるだけではなく、
その高貴さを「代々継承してきたか」がポイントとなる。継承できていないと、もとの高貴な
人物(天皇)から血筋が離れるごとに高貴さが薄まっていく。
喜連川足利氏は鎌倉公方時代と同様に、代々左馬頭・左兵衛督、「御所」「公方」を公称して
江戸幕府からも相応の礼遇を受けてきた実績が大きい。
一方、平島公方足利氏は蜂須賀家の食客に過ぎず、高貴さを十分に継承していない。
この点で、西陣南帝以降の後南朝が内裏や廷臣を失って、次第に高貴さを失っていったのと似ている。

823 :日本@名無史さん:2022/01/09(日) 23:26:21.19 .net
>>817
常陸は親王任国だしね。鹿島、香取神宮は蝦夷の平定神ともされるし大和朝廷個国家の辺境として重要性があったんではないかな。

824 :日本@名無史さん:2022/01/11(火) 16:39:12.57 .net
>>812
武蔵や相模などは関東御分国だから、
鎌倉時代の国司はだいたい執権北条一族になっているからな
だから朝廷の地方行政能力が落ちても、国衙は機能しうる

825 :日本@名無史さん:2022/01/21(金) 19:14:28.08 .net
楠木は名字さえないただの山賊 規模が大きくなり地侍、領主との戦に勝ち続け名が売れただけ
天皇に謁見さえ出来る訳がないただの公家のつかいっぱしり 

826 :日本@名無史さん:2022/01/22(土) 17:56:28.80 .net
>>825
その見かたは今は古い。
北条被官だった説が出ている。

827 :日本@名無史さん:2022/01/22(土) 22:15:03.56 .net
楠木が得宗被官という説は聞くけど、俺は違うと思う
得宗被官の「謀反」だったら、衝撃的ニュースだからいろんな史料に出てくるはず

828 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 20:12:54.73 .net
北条被官って言っても、関東に本家のある名家、とかじゃなくて、
単に下っ端に収まった土豪ってレベルだから、政治的な
問題は生じなかったと思う。

829 :日本@名無史さん:2022/01/24(月) 09:35:48.66 .net
幕末だと得宗の権力が突出してきているから、長崎(平)・金窪のような北条累代の家人
だけではなく、後から臣従した武士もいた

830 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 00:09:12.76 .net
>>815
藩士では無く浪人だったから仕方ない
蜂須賀氏に冷遇されてブチ切れて出奔したから自業自得

831 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 07:00:23.57 .net
そうですね。

832 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 07:42:23.91 .net
今からでも遅くはないから北朝が正統だと改めて宣言すべき

833 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 21:08:09.17 .net
>>832
ただでさえ某宮家のせいで皇室の権威が揺らいでるのにややこしいことはできないだろうな

834 :日本@名無史さん:2022/02/23(水) 11:02:13.39 .net
今上陛下が126代天皇というのは、南朝を正統として代数を決めた結果
だから、今でも政府・皇室は南朝正統論を公式見解としている
学校の日本史の教科書でも南朝の年号で記載している
ただし、明徳の和約以降は北朝の天皇の代数に依っているため、後南朝の歴代天皇が
正しく位置付けられていない点が課題として残っている

835 :日本@名無史さん:2022/02/23(水) 14:14:33.98 .net
代数を南朝で決めているのは確かだが
「南北朝のどちらが正統かを決める立場にない」というのが現代の宮内庁の公式見解

836 :日本@名無史さん:2022/02/25(金) 12:43:20.70 .net
宮内庁の公式見解では南朝皇胤は自天王までで
南天皇や西陣南帝は詐称とみなしてるようだね

837 :日本@名無史さん:2022/02/25(金) 14:34:57.51 .net
天皇の代数から見ても、明徳の和約で南北朝は合一されたとするのが現代の皇室(政府)の立場だから
後南朝については冷淡な扱いになるんだろうね

838 :日本@名無史さん:2022/02/25(金) 14:47:47.69 .net
金蔵主までは確実に皇胤っぽいけど自天王は怪しいし
むしろ宮内庁は優しいのかもしれない

839 :日本@名無史さん:2022/02/26(土) 14:02:16.39 .net
北朝でも一休さんとか本当に皇子なのか?と思える。
皇族が著しく減少してたときでも放置っておかしい

840 :日本@名無史さん:2022/03/01(火) 09:31:12.37 .net
漫画の「一休さん」では、かつての家臣が一休さんを擁立して室町幕府を打倒する
計画を立てるという場面があったな
自分は僧侶なので戦いたくないと渋る一休さんに、家臣が「足利義満と戦うのです!」
と迫る場面だった
北朝(後小松天皇)の皇子とされる一休さんを擁立する背景がわからないんだけどね

841 :日本@名無史さん:2022/03/01(火) 18:24:31.08 .net
>>840
庶子でしかも出家してたらいくら北朝の皇子でもノーチャンスだから
一か八かに乗ってくれるかも、ってことかな?

842 :日本@名無史さん:2022/03/02(水) 01:57:59.96 .net
伏見宮貞致親王は庶子から当主になったから人材が払底している状況ではチャンスはあったのでは?

843 :日本@名無史さん:2022/03/02(水) 02:24:21.05 .net
一休宗純のウィキペディアを見たら一休さんの母親は楠木正成の孫の楠木正澄の娘となっているな。

アニメの一休さんだと母親は持明院基親の娘であるらしい。これだと庶子でもランクの高い庶子だな

844 :日本@名無史さん:2022/03/02(水) 10:02:44.66 .net
アニメの一休さんの母上様は十二単を着て、立派なお屋敷で侍女もいて、身分も高そうだな
訪ねてきた一休さんを諭す場面もあるが、立派な教養人という感じ
確かに中央貴族の娘という設定通りだ
声はルパン三世の峰不二子の人だった

845 :日本@名無史さん:2022/03/05(土) 08:12:54.01 .net
そんな深いアニメだったんだ。

846 :日本@名無史さん:2022/03/17(木) 13:29:31.93 .net
四天王と聞いて自天王を思い出すようになったら真の後南朝ヲタ

847 :日本@名無史さん:2022/03/18(金) 09:09:16.61 .net
自天王とか金蔵主をキャラクターとするアニメとかカードゲームができたら、結構人気が出ると思う
後南朝オタとか後南朝女子とか呼ばれるんだろうね
小倉宮聖承とか教尊のカードはヤフオクで高値で取引されそう

848 :日本@名無史さん:2022/03/18(金) 15:20:23.89 .net
>>847
温泉むすめみたいになw
フェミに「露出が多い」と叩かれる自天王タン

849 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 19:58:26.71 .net
>>848
あの時代の高貴な女性が肌を露出するなんて考えられんのに
萌えキャラにするとみんなロリ顔おっぱいはみ出し太もも丸出しで
すぐキモヲタに媚びるから

850 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:31:36.69 .net
自天王を萌えキャラにしたら朝拝式でヲタ芸やるキモヲタが続出して
昔のように村民しか参加できなくなるだろうなw

851 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 23:27:55.49 .net
朝拝式に~
下級官人は~♪

来ませんでした~ 来ませんでした~ 来ませんでした~ 来ませんでした~♫

852 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 14:00:38.18 .net
>>851
その本読んだけど、なんで出席しないのか理由がわからん

853 :日本@名無史さん:2022/05/09(月) 01:02:25.96 .net
>>852
中国直輸入の儒教イデオロギー皇帝専制官僚国家システムというものが律令国家の表面をうっすら覆っただけで深くまで浸透せず、内実は豪族連合国家のままだった、ってことじゃね?

854 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 09:01:28 .net
ホントこれ


嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)、室町幕府6代将軍足利義教が播磨・備前・美作の守護赤松満祐の謀反によって殺害され、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。-wikipedia


https://news.yahoo.co.jp/articles/35bb2aa82e4b549016de24a237f0546558f261c5

【日本史】室町幕府6代将軍足利義教を殺害した赤松満祐とかいう人物、やったことに対して注目度が低すぎないか?重大事件だろ [308389511]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1652388211/

855 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 11:18:13.68 .net
これ映画にしてもいいくらいの事件だが不思議と注目度が低い

579 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/06/27(火) 03:23:57
赤松左馬助則繁だな。

当主・赤松満祐の弟で25歳の時(1424年3月14日)に
前管領・細川満元の邸宅での酒宴で将軍の側近(安東某)を要撃して殺害して逃走(殺人事件)

嘉吉元年(1441年)6月には甥である赤松教康と共謀して将軍を殺害(殺人事件)
嘉吉の乱を起こして幕府軍と戦う(国内紛争を起こし、中央軍と戦う)
幕府軍に敗北後、菊池氏を頼って九州にまた逃走。

その後、対馬と朝鮮に拠点を持ち、高麗の官軍を相手に朝鮮半島を荒らしまわり(他国侵略)
嘉吉3年(1443年)6月に来日した高麗の使節団が赤松左馬助則繁を名指しで幕府に
討伐を求める(国際問題に発展)

文安5年(1448年)正月、対馬より九州肥前に上陸開始。
少弐教頼と連合して大内教弘と合戦(国内紛争・対地方軍戦)し
教頼・則繁連合軍は敗北し、三度逃走。

河内の当麻に潜伏中のところを細川持常の命を受けた甥の赤松則尚に討たれて(同族争い)
京都で晒し首。49年の生涯でまさにやりたい放題。

856 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 12:04:26 .net
>>855
大名に殺された征夷大将軍って、足利義教と義輝の2人だけだよな
鎌倉幕府にはいたっけ?
江戸幕府にはいない

似たような立場 まで範囲を拡大しても、信長と秀頼を追加する程度かな?

857 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 12:07:44 .net
>>851
後南朝どころか南朝ですら、下級官人はほとんどいないし

名分論に拘泥する亡命政権ごときに仕えようなんて思わない現実主義者が多かっただけじゃないの?

858 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 17:25:44.72 .net
兄は将軍殺し
弟は倭寇
確かにこれまで誰も小説や漫画にしなかったのが不思議である

859 :日本@名無史さん:2022/05/13(金) 20:31:49.86 .net
>>856
> 似たような立場 まで範囲を拡大

足利持氏は?
殺した方が幕命を受けてるからちょっと違うか。

860 :日本@名無史さん:2022/07/14(木) 19:14:26.49 .net
自天王「金ねンだわ」

861 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 20:35:25.03 .net
西陣南帝とか金欠の変とか間抜けっぽくて笑っちゃうよな

862 :日本@名無史さん:2023/02/08(水) 22:39:31.79 ID:fQhtSR3ke
>>861
実際に同時代の京暮らしの武家からしたら自天王とか西陣南帝なんかは間抜けな感じのイモ兄ちゃんみたいな印象だったんじゃないか

現代社会のテレビでタレントやってる某旧宮家の末裔が胡散臭く見えるようなもんで
高貴さというのは血統だけではなく風流や書画芸術に通じてたり豊かな学識があったり
地位に見合った教育を受けて育たないと身につかないもんなのだろう

863 :日本@名無史さん:2023/02/09(木) 11:07:51.97 .net
>>861
実際に同時代に京で暮らしてた武家からすれば自天王や西陣南帝や間抜けな感じの田舎のイモ兄ちゃんくらいの印象だったんじゃないか

テレビでタレントやってる旧宮家の末裔が胡散臭く見えるようなもんで
高貴さというのは血統だけじゃダメでそれに見合った教育をちゃんと施して風流や書画芸術に通じてたり豊かな学識があって始めて身につくものなんだろう

864 :日本@名無史さん:2023/02/12(日) 14:16:24.79 .net
>>856
源頼家。

865 :日本@名無史さん:2023/06/06(火) 09:12:15.87 .net
670 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2023/06/06(火) 09:11:17.59 ID:UG6RwsWi
うちは南朝の天皇に関わる公家だった
代表者の屋敷あとまでは掴んだが
かなりの資料が故意に消されてる
うちに残る資料をもし公開したら
日本史的にかなり話題になるというか
かなりヤバいと思う
よってすべては墓場まで持ってくし
寝たきりになりそうになったらすべて燃やすつもりだ
厄介な資料は俺の代以降には残させない

866 :日本@名無史さん:2023/06/06(火) 10:58:42.94 .net
679 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2023/06/06(火) 10:56:35.76 ID:JiICLbSM
>>673
いろいろマスコミが騒ぐとか大迷惑だからな
子孫に迷惑かけたくなかったらそれもあり

そもそも私的理由で重要資料を破棄するとか普通にあるからな

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