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卑弥呼の使った鬼道を考察

1 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 18:20:47.55 .net
邪馬台国がどこにあったかはどうでもいい
大陸から見て鬼道と名付けられてるが、これこそ真の原始神道だったのでは

2 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 18:25:20.26 .net
すまん、板違いだったかも

3 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 22:41:23.14 .net
おか板に立てて

4 :日本@名無史さん:2019/07/17(水) 18:19:21.26 .net
考察

5 :日本@名無史さん:2019/07/18(木) 16:14:10.98 .net
まあ、マジレスするとオニノスベで検索してみて

6 :日本@名無史さん:2019/07/19(金) 18:41:39.17 .net
平原遺跡が卑弥呼の墓なら、卑弥呼の鬼道は三種の神器を使った古代神道。

7 :日本@名無史さん:2019/07/19(金) 18:55:59.57 .net
あり得るな

8 :日本@名無史さん:2019/07/25(木) 11:33:17.66 .net
考察しよう

9 :日本@名無史さん:2019/07/25(木) 12:53:55.68 .net
【鬼道と神道】

伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく筑紫の伊都で行われていた。

平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。

10 :日本@名無史さん:2019/07/25(木) 16:06:32.24 .net
>>9
素晴らしい 乙

11 :日本@名無史さん:2019/07/25(木) 17:10:26.63 .net
馬韓の風習に鬼道って出てくるからな

そして馬韓には卑弥国という国がある

どちらも魏志の記述だな

12 :日本@名無史さん:2019/07/25(木) 17:12:12.65 .net
魏志より

馬韓→鬼神を祭る、卑弥国がある

倭国→卑弥呼が鬼道によって民を支配する


はい確定

13 :日本@名無史さん:2019/07/26(金) 02:12:00.24 .net
鬼神と鬼道の違いもわからん無能チョンコ

14 :日本@名無史さん:2019/07/27(土) 14:47:44.88 .net
殉死がある宗教かな?

15 :日本@名無史さん:2019/07/29(月) 22:47:36.04 .net
中華でない東夷なんだから多神教だのアニミズムだのは当たり前で
わざわざ記述されないんだよ
だからここの鬼道はそういう意味じゃない
五斗米道だの原始道教ならそう書けばいいんで
わざわざ鬼道なんてぼやかして書く必要はない

儒教の建前からみて正統でない信仰は味噌もクソもなんでも鬼道だぞ
だから鬼道の2文字だけでは実態を推測できない。

この場合の儒教の建前っていうのは魏にとっての儒教だから
「魏が正統で呉蜀は偽帝僭主」ということ

倭魏の外交は男弟や難升米が推進したんで、
卑弥呼自身は呉蜀を支持していた

16 :日本@名無史さん:2019/07/29(月) 23:31:45.71 .net
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

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