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天皇制のルーツは結局何なのか

1 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 20:22:05.01 .net
整理が必要

978 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 07:54:19.51 .net
>>974
>本当のカシハラ宮は本居宣長も指摘した御所市柏原。
>奈良で神武天皇を祀る古社はここしかない。

そこには九州から連れてきたもう一人の妃の宮があるよな。
神武が新しい妃を迎えたので、日陰者として扱われたそうだ。
神武は通い婚ではないということだよ。

979 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 09:22:31 .net
>そこには九州から連れてきたもう一人の妃の宮があるよな。

アヒラツ媛か。
自分から神武にあうためにカシハラに来たという伝承がある。

。神武は通い婚ではないということだよ。

通い婚だ。
鴨族の最高位の女性の宮は長柄神社「姫の宮」。
神武はそこに通ったのであろう。
息子の綏靖がすぐ近くの高丘宮(御所市森脇)であることからもわかる。

あと神武には妃が一人もいない。
神武は大王ではなかったからだ。

神武の役割は女王の婿だ。

980 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 11:05:15.50 .net
>>974
橿原神宮の側に橿原遺跡ってのが普通にある。
本居宣長の時代には未発掘だったから知らんかったんだろうけど。

981 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 11:09:37.57 .net
>>980
>橿原遺跡

全然関係がない。
奈良には普通に縄文の遺跡もある。
あの遺跡と神武を結び付けようとするのは典型的な戦前の皇国史観。

982 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 11:18:27.45 .net
神武の127歳は後世の作為的改竄だな
本来はもっと短い歳だったはずだが、奈良時代は道教も伝来していたので、古の徳の高い聖人は人知で計り知れない長寿と信じられていた。
神農や黄帝といった存在が本当に信じられていた
当時の人は、神武127歳が全く不自然と感じなかったろう。
それどころか、普通の人間と同じような寿命なら、逆にガッカリしたに相違ない。

983 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 11:25:30 .net
>>981
wikipediaでも見たんだろうけど、橿原遺跡に対して書いてある縄文時代というのは
実際には紀元前7世紀頃の事だよ。

984 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 11:45:24 .net
>>979

イスケヨリヒメと神武の通婚は狭井川のほとりの小屋とされている。
現在の桜井市のはず。

葦原の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し
神武天皇
(大意)河原の草むらにあるむさ苦しい小屋にスゲの畳をきれいに敷いて、二人で寝た。

この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある。

イスケヨリヒメが狭井川を詠んだ歌もある。

狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
イスケヨリヒメ

985 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:18:19.58 ID:CFuQ/WJNy
>>977
toomi(遠見)は現代読みだよ。
古語としては、tomi(遠見)だな。
tomi(遠見)なら、その音の意味は分かる。
一方、登美の漢字では意味不明だよ。
登美は遠見の音を万葉仮名的に当てたものだろう。

ちなみに、5ちゃんでは突然書き込めなくなり、
こちらでお世話になっているので、よろしく。

986 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:38:28.34 ID:CFuQ/WJNy
>>973
神武と対峙した登美の長脛彦の地盤は白庭台付近。
その登美の背後の下田原の十字路には付近最高標高の地蔵ヶ谷山があり、
その山の北東の裾には磐船神社がある。
地理的にこの地蔵ヶ谷山が饒速日が飛び降りた哮ケ峰だろう。
大和天理の物部氏がこの饒速日神を取り込む前は、
饒速日神は四条畷の馬飼い女真族の始祖伝承だったと思われる。
女真族は長身であり、長脛彦とはこの馬飼い女真族のあだ名だったのだろう。
四条畷から一部が白庭台に移住し、ここに始祖神の饒速日を祀ったのだろうな。
なぜそのようなことをしたのかというと、この下田原の街道十字路は奈良と北河内、東の木津川を結ぶ物流の結束点だったからだろう。
そこを馬飼い女真族が押さえていたということで、後に物部氏がそれを奪ったのだろう。
物部氏は天理から三島の渡しへ直通するこの要衝の地を掌握したかったのだ。
鉄素材を交野から天理へ運ぶために必要だったということだろうな。

987 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:36:05.14 .net
>>982
>当時の人は、神武127歳が全く不自然と感じなかったろう。

そんなことあるかいw
というか平民は日本書記なんて見れないし、
あれは漢文で書かれてることから中国史書への日本側からのレスポンス。
実際の卑弥呼の時代を思いっきりずらし、神功皇后を卑弥呼の時代に持って行った。
そのために干支を2運120年ずらした。

すべて倭国王帥升(shuài/shuò shēng)ことスサノオの土下座を隠すためだ。

988 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:38:48.80 .net
>>984
出会いはどこであれ、二人の息子の綏靖が葛城であることは事実。
というか神武も葛城(御所市)。
ヒメ(踏鞴五十鈴)后は鴨族、鴨族の聖地は高天原(金剛山)。

989 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:44:25 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

990 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:45:31.05 .net
>>987
須佐之男って実在の人間なのか?
なぜ実在の人間という前提で話してるのか謎

991 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:49:50 .net
ゼウスを実在の人間として話してる人がいたら、世の中の人は池沼だと思うだろう。
なぜスサノオが実在の人間という前提でマトモだと思えるのか不思議で仕方ない。
何かの宗教なのかな?

992 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:51:12 .net
>>989
その辺が不思議だよなぁ

世界最古の磨製石器も、世界最古(級)の器も日本にあるのに
なぜ皿状にしなかったんだろう。

993 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:56:54 .net
>>990
実在だよ。

実在した人間を神話に託した。

994 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:02:12.35 ID:CFuQ/WJNy
こういうことからすると、物部氏の始祖は饒速日ではないということになってくる。
物部氏は尾張氏の火明神を取り込んで自らの始祖としたフシがあるから、
この火明神に加上した饒速日神は四条畷の女真族の始祖神を取り込んだ可能性が高いのだ。
こうなると、物部氏のそもそもの祖神とはどんな神だったのかが興味深いものとなつてくる。
そのあたりに物部氏の謎が秘められている印象だ。

995 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 13:59:57.07 .net
>>992
浅鉢が皿の代わりになってしまうため、皿の器型の発想を阻まれたのではないか?

以下は参考までに



616 名前:出土地不明 2020/06/29(月) 13:35:56.58 ID:Njv2tRio
東北北部は紀元前後〜BC4C頃??に沿海州と一時期交流している

その証拠に東北北部だけ皿型土器と鬲型土器が出土している

鬲型土器は足が後付けで、粘土の段階から袋足を内側から叩き出して作る中国鬲とは
製法の段階から違っている

しかも甑が伝わっていないので、鬲本来の利用である蒸し器としての利用を
されていないので宝器との見方が強い

コピー土器がほとんどであろうが、30数点の鬲型土器の出土があった

しかし皿型土器も鬲型土器も一世紀ほど後の次の土器段階には幻のように消滅してしまう

ちなみに皿型土器は東北北部以外では日本最古の窯跡である4C末の神戸の出合窯から
出土した百済系の須恵器が最古であり、ここから日本の皿が始まる

東北北部の皿型土器は定着できず、短命で消滅してしまうので、基本的に日本最古の
皿と言えばこちらになる

996 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:03:07.23 ID:CFuQ/WJNy
こういうことからすると、物部氏の始祖は饒速日ではないということになってくる。
物部氏は尾張氏の火明神を取り込んで自らの始祖としたフシがあるから、
この火明神に加上した饒速日神は四条畷の女真族の始祖神を取り込んだ可能性が高いのだ。
こうなると、物部氏のそもそもの祖神とはどんな神だったのかが興味深いものとなつてくる。
そのあたりに物部氏の謎が秘められている印象だ。

997 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:01:07 .net
口伝してるうちにアニミズムと習合して神様になっちまった

998 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:02:17 .net
>>991
倭国王帥升(shuài/shuò shēng)を発音の似たスサノオだと仮定してみろ。
その5世代100年後に卑弥呼がいることになる。
そしてそのすぐ後にトヨ。

朝貢年

266年 台与        トヨ津媛
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)后
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

神武東征紀は実際には女王国であった史実をごまかすための武勇伝。

999 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:46:23 .net
>>993
なぜ実在と言い切れるのですか?
ひょっとしてエジプトやインドに当てはめたら、ホルス神やヴィシュヌ神も実在の人物になってしまったりするような理屈ではありませんか?

1000 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 14:50:08 .net
ネトウヨにかかると、エジプトやギリシャの神話はおとぎ話でも
日本神話はすべて史実になってしまう

1001 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 15:11:37.23 .net
>>999
中国最古の夏王朝の開祖禹が実在するか、神話なのか?
禹は神話上の黄帝の玄孫で黄河に住む水神という設定だが?

1002 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 16:28:35 .net
>>992
葉っぱに乗せるから必要性が無かったんだと思うよ

1003 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 19:38:43 .net
>>999
エジプト神話は明確に神話だが、そもそも記紀は神話ではなく歴史書なのに、それを誰かが神話と呼んでしまった。

1004 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 19:39:38 .net
>>1001
殷や周は実在していた。

1005 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 19:47:53 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 大国主は失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ

1006 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 19:48:53 .net
>>1004
夏はまだ確定してないけど?

1007 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 21:08:53 .net
殷周が史実であったのに、夏が虚構であったとする合理的理由はない。

1008 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 21:18:56 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

1009 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 21:25:18 .net
>>1006
遺跡が見つかってるから
ほぼ確定だろ。
少なくとも欠史8代よりは存在するぞ。

1010 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 21:31:15 .net
欠史八代に事跡がないのは、神武一族がただの田舎者であり、実は天皇ではなかったから。
実在しなかったわけではない。

1011 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 21:33:50.69 .net
殷より前の王朝はあったろうが
それを当時の人が夏と呼んでいた証拠はない
王の名前も分からない

殷の一つ前の王朝があったという意味で、後世の言葉を使って夏王朝があったと言っているだけ
勘違いも甚だしいし、文献的な意味での夏王朝じゃないぞ

1012 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 22:07:33.20 .net
欠史八代の事績は日本中の豪族と婚姻関係を結んだことだろ
ちゃんと読めよ

1013 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 22:11:04.59 .net
立場が弱い豪族がよくやる方法なんだよなあ。

1014 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 22:12:35 .net
>>1011
ちゃんと文献が残っていても否定しないと気が済まない愚か者。
歴史の探求には向かないから、この板にいなくてもいいよ。

1015 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 23:47:07.96 ID:CFuQ/WJNy
>>995
東北に皿型土器と鬲型土器を伝えたのは、遼河文明のY-Nではないの?

1016 :日本@名無史さん:2020/06/29(月) 23:47:23.03 .net
>>1014
ところで神と書いてあるスサノオが、文献に反して現実の人間だった証拠はどこにあるのか

1017 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 00:30:33.59 ID:3XjPrABIf
物部氏の系図の謎が解けたぞ。
系図がどういう構成になっているのか、おいおい述べていくことにするが、
そもそもウマシマジの子の名前が彦湯支命の名前となっている理由は次の通りである。
彦湯支命はヒコユギノミコトと読むそうだ。
そして、この湯支(ユギ)とは、つまりは弓削なのよ。
岡山県赤磐市に石上布都魂神社があり、スサノオを祭神としているが、
ここは大和の石上神社の十握剣(とつかのつるぎ)があった元の場所だされている。
この石上布都魂神社を中核として、各種の技術者集団が集まっていたという。
そして、弓矢製造を職能とする弓削集団も近くにいたそうだ。
この弓削氏を表している湯支命(ユギノミコト)が、なぜ系図でウマシマジの子になっているのかが問題の焦点といえる。
系図では湯支命(ユギノミコト)は饒速日の孫ということになる。
なぜ、孫の位置に弓削氏がいるのか。
答えは割と簡単で、饒速日の天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)の製造を引き継いだのが弓削氏だというわけなのである。
靫(ゆき)と湯支命(ゆぎ)と弓削(ゆげ)の発音はほぼ同一だ。
物部氏はその系譜の途中で弓削氏と合流しているので、
饒速日の神話と現実の物部氏を系譜上でつないでいるのは、饒速日の孫とされている弓削氏だということになってくるのである。
とすると、この弓削氏(湯支命)を物部氏の系譜からはずしてみると、
物部氏の実際の祖神は饒速日ではないとする説が俄然信憑性を帯びてくるのである。

1018 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 00:58:02.00 ID:3XjPrABIf
>>1010
そう、実在したのよ。
ただ、神武以降の三代は神さん。
四代から八代までは実在組。
纏向の5基の前方後円型墳丘墓の被葬者がその実在組。
地位としては、纏向に集まった各地の勢力の中の持ち回り代表シャーマンだったのだけどね。
崇神とされる九代の墓は箸墓古墳で、地位は前代とは隔絶した大シャーマンだったというわけ。

1019 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 01:41:13.89 ID:3XjPrABIf
>>1017
物部氏は、饒速日を祖神とする系譜を作るについては、饒速日の天羽羽矢と歩靫の製造を引きついでいるとみなすことができる弓削氏を饒速日との間に差し込む必要があったというわけだ。
それで、饒速日の子のウマシマジの次に湯支命(ユギノミコト)を挿入したと考えることができる。
そして実際に、物部氏はその血脈の中に弓削氏を取り入れている。アリバイ工作といえるだろう。
あるいは、弓削氏との縁組によって、物部氏は初めて饒速日を祖神として取り込むことができるようになったと言える。
では、物部氏自身の実際の系譜はどうなるのだろうか。
系譜では、その次に来るのは意冨禰命(オホネノミコト)と書かれている。
前の湯支が弓削であることからすると、この意冨禰命(オホネノミコト)もそうした実名隠しの操作が行われているとみるのがよい。
そうすると、この意冨禰命(オホネノミコト)のオホネの発音は大己貴尊(オホナムチノミコト)のオホナとよく類似している。
大己貴尊は出雲の大国主尊のことだ。
意冨禰命(オホネノミコト)をなぜ大己貴尊(オホナムチ)とするのかというと、その理由は次の通りである。
先の彦湯支命(弓削氏)の説明のときに触れたが、弓削氏などの職能集団が集まっていたのは赤磐市にある石上布都魂神社の周りであった。
つまり、石上神社が各種職能集団の中核の機能を果たしていたのである。
そして、この神社に祀られていた十握剣は、天理の石上神宮へ移されている。
天理の物部氏と関わりが深い神社だったことが分かる。
そこで、石上布都魂神社の祭神をみると、スサノオ尊なのである。
そのスサノオ尊の子は大己貴尊(大国主)であり、大己貴尊が祀られているのは出雲大社である。
物部氏の系図では、彦湯支命(ヒコユギノミコト)の子は意冨禰命(オホネノミコト)であるので、
その弓削集団が帰属するスサノオ尊を祀る石上布都魂神社の子に当たるのは、
スサノオ尊の子の大己貴尊(オホナムチノミコト)を祀る出雲大社ということになるのである。
この構図からすると、饒速日から第四代の意冨禰命(オホネノミコト)は、出雲大社の祭神の大己貴尊(オホナムチノミコト)を指していることが分かる。
所在地的には赤磐市の石上布都魂神社→出雲市の出雲大社の流れとなる。

1020 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 03:06:09.80 ID:3XjPrABIf
>>1019
石上布都魂神社の祭神は元々は十握剣であったそうだ。
スサノオ尊を祀るようになるのは明治初頭頃とか。
しかし、その十握剣をオロチから取り出したのはスサノオ尊であるので、
物部氏の系図で湯支命(弓削氏)が帰属した石上布都魂神社の次代が意冨禰命(大己貴尊)を祀る出雲大社へつながっているのは不自然ではない。
物部氏の系図が出雲大社の大己貴尊につながっている理由を、次に見てみたい。

1021 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 03:20:10.69 ID:3XjPrABIf
>>1020
この石上布都魂神社は吉備津彦神社と同じく吉備の一之宮だそうだ。
そして、神社の周辺では銅が出て、また砂鉄も採取されたという。
鉄器製作を生業とした天理物部氏が、この神社から十握剣を受け取ったことの理由が分かりそうな気がするな。

1022 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 05:40:26.96 ID:3XjPrABIf
>>1020
物部氏の系図ではウマシマジの子は彦湯支命(ヒコユギノミコト)であり、この湯支(ユギ)は弓削だとしたが、
その弓削氏が帰属したのは石上布都魂神社であった。
この石上神社の祭神は十握剣で、スサノオ尊がオロチから取り出したものであった。
したがって、剣を取り出して保持したスサノオ尊が神社に関連するのは不自然ではなく、
神社の背後にスサノオ尊がいると仮定するのは当然である。
そのスサノオ尊の子は大己貴尊(オオナムチノミコト)であり、出雲大社に祀られている。
そして、彦湯支命の子とされているのが意冨禰(オホネノミコト)であり、
このオホネは出雲大社のオホナムチノミコトのオホナと発音がほとんど同じであることから、
意冨禰命(オホネノミコト)とは出雲大社の大己貴尊(オホナムチノミコト)を指しているとみなすことができるのである。
このことは、先に述べた。
したがって、物部氏の系図は、饒速日命→ウマシマジ命→彦湯支命(弓削=石上布都魂神社)→意冨禰命(大己貴尊=出雲大社)の流れとなっていることが言える。
そして、系図では、このあとは出石心大臣命(イズシココロノオオオミノミコト)へと続くのである。
出石は但馬の天日槍命(アメノヒボコノミコト)を祀る所であり、この出石心大臣命とは天日槍命を指していることが推測される。
その天日槍命を祀るのは豊岡市の出石神社である。
この出石神社を出雲大社とつなげると、そこには明らかに日本海の沿岸交易路が浮かんでくるのである。
物部氏の系図に出雲大社の大己貴尊とよく似た名前がなぜ記され、
但馬の天日槍命を祀る出石神社ある出石と同じ名前がなぜ記されているのかという理由は、
この物部氏の系図は物部氏の交易の拠点が記されたものだからという想定を置くことで一気に判明するのである。
この観点で、系図の人物の名前をさらに見て行くことにしよう。

1023 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 06:52:33.93 ID:3XjPrABIf
>>1022
物部氏の系図の出石心大臣命(イヅシココロノオオオミノミコト)は、但馬の出石市にある出石神社の祭神である天日槍命を指しているものと思われる。
この出石心大臣命の次に名前が挙げられているのは、大矢口宿禰(オホヤグチノスクネ)である。
これまでの実名を隠すパターンを当てはめると、
この大矢口宿禰は淀川の三島江の渡しにある三島鴨神社の祭神大山祇命(オオヤマヅミノミコト)の神名とよく似ている。
この三島鴨神社のある三島江は天理など大和南東部から四条畷や交野を経て、
但馬の出石方面へ行く街道の途中の淀川の渡し場のある交易路の拠点である。
その三島鴨神社の祭神の大山祇(オオヤマヅミ)のオオヤと物部氏の系図の大矢口宿禰(オオヤグチノスクネ)のオオヤはまったく同じである。
そして、系図のその次の名前は大綜杵宿禰(オオヘソキネノスクネ)であるが、この名前は少し保留にしたい。
次の名前は伊香色雄命であるが、淀川右岸の三島江から左岸へ渡ったすぐのところが伊加賀であり、
系図の順とぴったりとなっている。
この伊加賀の東側は、物部氏の拠点とされる交野となっている。
以上をみれば、物部氏の系図は物部氏の本拠地の一つである交野から日本海に出て、
それから出雲に至る交易路の拠点の祭神の神名を連ねたものであることがはっきりと分かるのである。
そして、最後の赤磐市の石上布都魂神社に関連する彦湯支命は弓削を表しており、
物部氏と饒速日を結びつける役目をしていることが判明するのである。
これらをみると、物部氏の系図は伊香色雄命まではまったく人名を表していないということになり、
そもそも物部氏の氏族の由来に関わる情報はまったく期待できないということになるのである。

1024 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 06:53:37 .net
神というのは王族の尊称だよ。

1025 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 07:38:54.76 .net
神武天皇様は、とても強い

1026 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

1027 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 08:26:13.68 ID:3XjPrABIf
>>1023
物部氏の系図の中で大綜杵宿禰(オオへソキネノスクネ)が何を例えた名前だったのか不明だったが、
三島江と伊加賀の間にこの名前が置かれているので、淀川の水に関連した名前ではないかと思われることから、
おおよその見当がついた。
綜は織機の縦糸を一斉に上下させる道具のことで、杵は米などを搗く道具だ。
どちらも上下運動するものであることが共通点である。
そこで、この綜と杵を川の水と関連させた場合、想い描くことができるのは水車だ。
水車の回転動力と歯車で杵を上下させて、臼の中の穀物を脱穀したりする。
織機の綜も水車の動力で縦糸を一斉に上下させたのではないか。
とすると、系図の三島江と伊加賀の間に置かれている大綜杵宿祢は、
水車を動かす淀川の水流を意味しており、
この水流については伊加賀村の宮山にあった意賀美神社(オガミジンジャ)の祭神高?神とぴったり重なるのである。
?(オカ三)は龍の古語だそうだ。
つまり、高?神は龍神のことである。
このようにみると、大綜杵宿禰(オオへソキネノスクネ)とは、
淀川の水神を表している名だということになるのだ。
こうして、物部氏の系図の名前が、交野から淀川を越えて但馬、出雲へとつながる交易路の要衝の神様の名と重なっていることが分かったと言える。
やはり、物部氏の系図のこの部分は実在した人物の名前ではなく、交易路の祭神の名を並べたものであり、
物部氏のルーツを探るうえで何の情報も与えるものでないことが分かるのである。
したがって、先にも述べたように、饒速日は物部氏の祖神ではない可能性が極めて高いと言えそうだ。

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