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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

472 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 09:28:53.18 .net
千葉の古墳からユダヤ人のハニワが見つかる
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1638749489/

473 :日本@名無史さん:2021/12/14(火) 12:00:15.98 .net
>>147
>>188
徐福っぽい遺跡があれば証明になるかもしれないけど、ないから否定になるとも言えないと思う
南米の日系移民は200万人くらいいるけど、特に日本っぽいものを建築したりはしてないだろうし
2世の時点でフジモリ大統領が出たけど、だからといって芸者とか忍者とかやっていないだろうし

474 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 14:34:25.61 .net
単純な比較はできないですけどね
南米の日系移民は貧乏農家の次男三男で生活苦から物もろくに持たずに着の身着のままで海外に移民
徐福は正式に始皇帝の物資・資金援助を受け、工員など技術者をも引き連れ、格式も高く、秦国王家のミッションを果たすべく、最高水準の技術レベルの集団として準備万端で日本に乗り込んだと思われますし

徐福集団が来てその先進的な技術が南北九州で伝搬していれば、数百年後の卑弥呼の時代には少なくとも平地の住民は竪穴住居ではなく、一般の農家でも高床式の住居に住むとかしてたのでは・・・

475 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 10:03:16.84 .net
ところで兵法書『孫子』を書いた、春秋時代の軍事思想家である孫武が生きていたのが紀元前535年頃。始皇帝の時代を300年ほど遡る。始皇帝の時代の大陸では鉄器も出回り始め、農具などに使われていた。
徐福が渡来していたなら、邦国でも鉄器の時代がもっと早く始まっていたであろうことは容易に想像できる。

あの張良が連れてきた男に、視察巡業でやってきた始皇帝に向かって鉄球を投げつけさせたエピソードは皆も知っているであろう。
鉄は既に広く使われていたのである・・・

476 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 10:06:48.15 .net
孫子の兵法の圧倒的な先進的な考え方、それより数百年後の卑弥呼の時代にまだ一般農民が竪穴住居に住んでいた我が国。

これで始皇帝の時代に徐福が来ていたとは思えないのです。
戦争だけ強い騎馬民族の連中が乗り込んできて蹂躙しすべての文明が失われた、そんな痕跡もないようですし。

477 :日本@名無史さん:2022/01/03(月) 06:28:48.71 .net
日本だと武士だったり非人だったりするけどアレなんだろうね

478 :日本@名無史さん:2022/01/03(月) 06:33:18.28 .net
>>413
有名どころだと西周が秦人で独立していたけど
元々漢民族から追い出されただけなんだよな
でも宋とか唐も秦人らしい。中国にいた奴らは秦氏を名乗らず宋人唐人といったらしいが

479 :日本@名無史さん:2022/01/03(月) 06:39:33.30 .net
日本の場合は本来はよくわからない秦人、秦公ともっと細かく分類されていたようだけど
秦川勝の末裔かが重要みたいだが
始皇帝や秦国とは関係がない朝鮮人の末裔もいるから

ハプロで中国由来かそれ以外かでは分類されてしまう時代だからなりすましの既得権みたいになっている自称もやり得になるか

480 :日本@名無史さん:2022/01/03(月) 15:00:26.81 .net
徐福だのなんだの日本と中国の間で国交ができてからそれから広まった話なんだぜ

てことは?

481 :日本@名無史さん:2022/01/03(月) 17:03:20.11 .net
正美ちゃんの話は嘘なので
だから秦氏はユダヤ人ではないということでいいだろう

そもそも秦の始皇帝に追い払われたのに秦を名乗っているのは偽装だよ
神社の建築技術なんて2、3十年も修行すれば、そこそこの物は作れるだろう
今みたいにカメラで見るんじゃなくて、目視でチェックしたら上の方は見えないしな

秦氏の神社の狛犬はツングースを表す
だから女真族だな

秦氏が輩出した天皇は南朝系だろう
女真族→高句麗の人食い馬賊→百済王族

482 :日本@名無史さん:2022/01/04(火) 05:20:43.89 .net
>>465
お前顔文字を付けなきゃなんない縛りがあるんだろう
5chでは詰んでねえかw

483 :日本@名無史さん:2022/04/06(水) 13:09:54.71 .net
京都はユダヤ人秦氏がつくった
https://bookmeter.com/books/17328235

484 :日本@名無史さん:2022/04/06(水) 15:14:12.37 .net
奇説として、景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱されたが、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている。

485 :日本@名無史さん:2022/04/06(水) 15:22:43.38 .net
まあ、朝鮮人や中国人じゃない事だけは確かだなw

486 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 09:45:07.75 .net

>>32-34
始皇帝の一族の末裔、始皇帝自身が青い目に鷲鼻だった説もあるらしいが
始皇帝の息子の墓がみつかって色々わかったらしいが

487 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 16:36:50.44 .net
嬴氏趙姓は後に馬氏を名乗る
馬超も目が青かったかな

特に珍しいものでもない

488 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 16:45:38.89 .net
どこからきたって秦川勝は百済だよ
DNAの型はその子孫を名乗るハタさんが福建の漢民族にもいるタイプらしいが

秦氏を名乗るちゃうすがめが斉とか魯のあった場所の血筋。子孫は秦人(羌、北狄説有り)といわれた人と同じDNAの型
宋=唐=秦は同じ人種らしい

489 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 12:43:38.16 .net
>>487
嬴氏趙姓と青い目は何の関係があるん

490 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 12:44:55.73 .net
嬴氏趙姓は漢族だし、そこと青い目とは関係ないよ

491 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 10:41:07.97 .net
>>1
弓月君

492 :日本@名無史さん:2022/06/12(日) 07:00:16.76 .net
ホータン出身だから稲作を熱心にやっていたのか秦氏

493 :日本@名無史さん:2022/06/16(木) 13:35:07.22 .net
和田に漢族が入ったのは最近らしい

494 :日本@名無史さん:2022/08/29(月) 23:43:21.75 .net
秦王国の所在地と秦氏の祖・弓月君の故郷 弓月国の考察
http://kiwarabi.html.xdomain.jp/hataoukoku.pdf

495 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 19:06:26.43 .net
>>1-20
どの研究結果でも韓国人は日本人より漢族に近い
韓国の遺伝子クラスターは日本にはない

韓国の研究
https://i.imgur.com/IbPUMkY.jp

中国の研究
https://i.imgur.com/g6sh7A5.jp

中国の研究
https://i.imgur.com/BBKh6sE.jp
海外
https://i.imgur.com/SAyIf3S.jp

ネイチャーの研究
https://i.imgur.com/lLoS6kH.jp

日本の研究
https://i.imgur.com/SUBhc9A.jp

496 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 18:52:09.51 .net
そら漢の時代は漢四郡で植民地にしてたし、後漢、三国時代も魏や公孫氏の植民地、流入してくる流民も。秦氏も自己申告で秦国系と言ってますよね。

497 :日本@名無史さん:2023/01/20(金) 16:49:21.48 .net
遼河のY-Nが4000年前頃に四散した跡に入ってきた種族が、O2とC2であったことが分かっている。
そのO2とC2が、さらにNのあとを追って朝鮮半島に入ったことが考えられる。
なので、漢の時代に楽浪郡などに入ってきた漢族O2の前に、先住のO2とC2がすでにいたとみるのがよいだろう。
もちろん、そのほかに、陸稲を持ったO1b2も山東半島から朝鮮半島にすでに入っていたから、
O2とC2、O1b2らが先住していて、そこへ漢の時代になって新たに商人系のO2が半島に入ってきたということになる。

とにかく、Y-O系の連中が半島を支配するようになったということだよ。
ただ、言語からみると、少数派のC2がかつてはベースとなっていたとみることができるけどな。

498 :日本@名無史さん:2023/01/20(金) 16:52:48.11 .net
弓月君の秦氏が日本にやってきたのは4世紀後半らしいから、秦氏が半島を通過したのはぐんと時代が新しい。

499 :日本@名無史さん:2023/01/20(金) 21:31:47.01 .net
まあ、弓月君秦氏は、ホータンから来たのだけどね。

500 :日本@名無史さん:2023/01/21(土) 14:23:10.04 .net
弓月君(ユヅキ)を融通王(ユヅウ)と変えてるあたり、秦始皇帝の系譜説はまず後付けということ。

501 :日本@名無史さん:2023/01/21(土) 14:39:11.96 .net
秦氏の系図には、弓月君の子に浦東君というのがあるよね。
この浦東の読みは、ホトウ。
ホトウは、ホータンの略。
弓月君の子を浦東としているのは、弓月国のホータン出身者という意味なんよ。
浦東君以外にも子の名が記されているけど、皆、タリム盆地周縁のオアシス都市の名と重なる発音になっている。
弓月君秦氏がそれらオアシス都市のうちのホータンの出身者なのは、ほぼ確定だよね。

502 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 18:39:13.35 .net
また、埼玉の稲荷山古墳からは、今のユダヤ教超正統派とそっくりの姿をした人物埴輪が出ているし。
太秦の秦氏が武蔵へ送り出した入植者が、ユダヤ教徒だったということになるしね。

503 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 21:25:58.84 .net
>>498
ということは、現在の大阪府に在る古墳群を造ったのは秦氏ではないと…はたして誰なんだろう?

504 :日本@名無史さん:2023/01/26(木) 16:34:49.88 .net
弓月君秦氏がやってきたのは4世紀後半。
古市の津堂城山古墳のあと応神天皇陵古墳が造られたのは5世紀初頭。
南河内では、津堂城山古墳が造られる前に、すでに前方後円墳が造られている。
よって、応神陵を造ったのは、それら古墳前期の墳墓築造工人集団だった可能性が高い。
もちろん、その工人集団に古墳築造を発注したのは、応神政権だけどね。

505 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 16:34:38.63 .net
宇佐八幡の八幡(やはた)はユダヤ人を表すヘブライ語イェフディが訛ったもので、
その幡(はた)を取って氏名とした秦(はた)氏はユダヤ人だったとする説があるけど、
日本語の旗(はた)、幡(はた)はパンジャブ語のjhada(ハダ=旗)を語源とする言葉であり、
ヘブライ語とはまったく別の言葉。
なので、秦(はた)氏のハタは、ヘブライ語由来ではないよ。

506 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:09:06.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

507 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:27:50.74 .net
>>501
台湾の浦東・プードンとの関係性はありますか?

508 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:28:54.77 .net
>>507
誤:台湾、正:上海。

上海の浦東・プードンとの関係性はありますか?

509 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 20:53:12.86 .net
上海の浦東とは、関係ないでしょう。
上海の浦東の西端は川で、この川の西側が上海の元からの市街となっています。
そして、その上海の市街地の呼び名は、浦西です。
ですので、この浦西の東側に広がる原野が、浦西に対して浦東と呼ばれるようになったわけです。
開発前は砂浜の上にできた原野だったのが、開発後に浦東と名付けられたものですね。
つまり、上海の浦東は、最近できた地区名ということになりますね。

それに比べて、秦氏系図にみられる浦東君の字句は、相当古いものではないでしょうか。
ホトーと口伝された名に、系図を作るとき、浦東の字句を当てたのでしょう。
その口伝されたホトーは、中国西域の都市のホータンが短縮されたのでしょうね。

510 :日本@名無史さん:2023/01/30(月) 21:39:35.95 .net
>>509
中国四千年の歴史を踏まえて、秦の始皇帝が秦氏の始祖なのかしら?

511 :日本@名無史さん:2023/01/31(火) 17:20:18.25 .net
東漢氏らがその先祖を後漢霊帝としたため、それに張り合って、秦氏は漢よりも前の秦の始皇帝が始祖だと胸を張ったのでしょう。
秦氏が秦始皇帝を祖先にしたのは、単に東・西漢氏と張り合うためだったとするのが、ワイの考えです。
インスピレーションに溢れた説だと思いませんか。

512 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 17:42:01.48 .net
ただ、一考の余地があるのは、秦氏が本拠地のウズマサに太秦の字を当てていることです。
大秦は、後漢書に見えますように、ローマ帝国を指す言葉です。
大秦は、大きな国というのが原義ですね。
そこで、秦氏が自らの本拠地に太秦(ウズマサ)の字を当てたことを見ますと、大秦の大と太秦の太は同じ意味ですので、
秦氏はウズマサをローマ帝国の都のローマになぞられえたとする意見が出てくることになります。

しかしながら、秦氏がユダヤ教徒だったとすれば、その大きな国(大秦・太秦)とはユダヤ人の都だったエルサレムが考えられていたことも捨てきれません。
そして、ユダヤ教徒だったハタ氏は、そのエルサレムを指す大秦・太秦の秦の字を取って、氏名(うじな)のハタの発音に当てたのが秦(ハタ)の字だったということも考えられます。
このように、ハタ氏が自らの名に秦の字を当てたのは、太秦の秦に由来するものだった可能性が高いです。
そして、この秦の字にかこつけて、のちに秦始皇帝を祖先とする系図を作り、東漢氏らに対抗したのでしょう。

513 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 21:32:00.71 .net
ローマは一日にして奈良漬け

514 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 23:44:00.13 .net
一字違っておおちがい。

515 :日本@名無史さん:2023/02/02(木) 03:16:56.63 .net
>>506
狗奴国、まだやってるんでっか。

516 :日本@名無史さん:2023/02/09(木) 17:59:09.84 .net
きみたちは思ってもみないだろうけど、太秦からさきたま古墳のある行田までは、秦氏がユダヤ教の出エジプト記になぞらえて描いた日本版出エジプト記の旅程ルートなんよ。
太秦秦氏の神体山の松尾山は、出エジプトの前夜にユダヤの民が食べた種無しパンのマッツオを漢字表現したもの。
深草秦氏の神体山の稲荷山は、もともとはイナイ山の発音だった。
イナイ山のイナイは秦氏のトルコ語では着陸、降下を表すイニシに由来する言葉で、何が降下着陸したのかというとユダヤ教の神が降臨したことを意味する。
ユダヤ教の神が降臨したのはあのシナイ山なので、秦氏のイナイ山はシナイ山に見立てた山名となる。
そして、このイナイ山(稲荷山)からずっと東へ行くと諏訪に至るが、秦氏のトルコ語ではスバは「水がある」という意味の言葉なので、諏訪湖を指していることが分かる。
この「水がある」は、ユダヤの民がエジプトを出て初めて一息ついたオアシスのエリムを指している。
このあと、諏訪から武蔵に入り、いよいよ旅程は行田に到着するが、そもそものムサシ(武蔵)の言葉は秦氏のトルコ語ではヤダヤの民を率いたモーゼがムサで、
シは方向を表す和語となり、ムサとシを合わせたムサシは「モーゼが目指したところ」の意味の言葉になる。
なので、ムサシ(武蔵)とは、秦氏のトルコ語では「モーゼが目指した安住の地カナン」を指した言葉になるのだ。

これをみれば、太秦から信濃を通って入植地の行田に至る旅程を、秦氏は出エジプト記の行程として描いていることが分かる。
つまり、秦氏はトルコ語を話すユダヤ教徒だったとみるのが正解ということだ。
トルコ語は西域のホータンでは当たり前の普通の会話語だったようなので、ホータンから来た弓月君秦氏がトルコ語を話す人々だったことはなんの不思議もないことと言える。

これが、秦氏の謎に潜む真の姿だと言える。
その秦氏が行田の地へ送った入植者の中にユダヤ教の超正統派的な姿をした人物がいることは、何ら不思議でもないごく普通のことだったのだ。
武蔵は、秦氏によって描かれたユダヤの民の入植地カナンだったということなんだよ。

517 :日本@名無史さん:2023/02/12(日) 20:16:34.77 .net
>>513
ローマは一日にして塩漬け。

518 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 22:10:25.31 .net
斉って山東半島だよな
山東半島には倭人にまつわる何かがある気がしてならんな
あそこから海にでて朝鮮半島や日本に逃げていったんだろ倭人は。

山東省は日照や嵐山っていう日本みたいな地名あるし、海に面してて日本に少しだけ似てるよね。

519 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 22:11:17.14 .net
てか倭人が弥生人なんじゃね?

520 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:08:20.36 .net
菜畑遺跡の水田の様式と山東半島の遺跡の水田様式がよく似ているそうだ。
平野部につくる規模の大きい水田ではなく、山あいの谷筋の小規模な水田の様式。
菜畑のあとの板付遺跡の整った水田遺跡とはかなり違うらしい。
しかしまあ、淮河や山東のどちらの水田もY-O1b系の種族によって運営されたのだろうし、
菜畑や板付にもその同じ種族が渡ってきたのだろうけど。

関係おお有りじゃないの。

521 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:24:19.11 .net
なら、菜畑遺跡は中国土器遺構になってないと話しがおかしいじゃないか

菜畑遺跡はそれまでの黒川式縄文土器を押し退けて新たな土器が登場した遺構なんだから
中国から入ったなら中国土器が伝わってないと話がおかしい

ところが菜畑遺跡に伝わった新しい土器は中国土器でも朝鮮土器でもなく、
山陰方面から入ってきた沿海州南部と特徴が一致する土器なのであった

522 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:29:03.20 .net
ここに湧いて中卒を詐欺ってたのかチンコロw

523 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 20:31:26.71 .net
秦氏は元辰韓の王侯貴族

辰韓は連合国の一国だった新羅に国を乗っ取られてしまう

元辰韓王の功満王が来日して仲哀天皇に遺民の帰化を要請し
実現したのが秦氏

524 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:19:33.69 .net
>>521
その謎が、極めて重大。

縄文時代から弥生時代へのダイナミックな転換の際に、半島系の無文土器が北部九州でみられるようになるとされているが、
その無文土器でも舶載のものはごく少ないとされているようだ。
このことは、半島から人が対馬海峡を渡る際にも、半島で造られた土器は持ってこなかった可能性を示唆する。
舶載とされる無文土器も、対馬海峡の海人らが交易品として北部九州へもたらした可能性も考えられる。

この無文土器のケースと同じで、水田稲作の籾を持って対馬海峡を渡って菜畑などにやってきた水稲農民も、
その大陸での炊飯用土器などは持って来なかった可能性を考える必要が出てくる。

大陸の炊飯用土器なども無文土器の場合と同じで、それを舟に積むかどうかは舟の船頭の考え方次第だったとも考えられる。
それは、舟のスペースがごく狭く、余分なものは積めなかったということによるのではないか。
つまり、北部九州へ渡るには、身一つで舟に乗る必要があったということになる。
そして、対馬海峡を渡った者が男だけだったとすれば、なおさら大陸の炊飯用土器は持って来なかった可能性が高い。

舶載の鼎などが菜畑や板付などで出土しない理由については、そうした事情も勘案してみる必要があると思われるけどね。

525 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:21:56.73 .net
>>523
そもそも、秦氏辰韓出身説の根拠はいったいな〜に?
特に何もないんじゃないの?

526 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:37:08.49 .net
>>524
記憶からの再現の話を搬入の話にすり替えて誤魔化しんてんじゃねよ馬鹿チンコロ

そんな子どもダマシな欺罔が考古学者や考古学マニアが何百人も集う講演会で
通用すると思うか?

527 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 22:24:11.47 .net
>>525
まず秦氏が遺した土器は百済あたりではなく新羅あたりの土器と一致するという事

国王自ら来日して天皇に亡命を哀願している事

この頃に滅んだ国家に楽浪帯方があるが、楽浪帯方なら太守のはずであり王ではない

新羅の執拗な妨害

百済あたりから来たなら新羅は妨害できないはず

辰韓が秦韓とも呼ばれている事

528 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:22:53.35 .net
478
記憶からの再現て、その再現の必要についての有無から検討せんとな。
再現する必要がなければ、そもそも記憶からの再現についての議論は不要やし。
記憶から再現する必要をその稲作渡来者は感じていたの?
どうなんよ。

529 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:25:40.15 .net
>>528
俺の知ってる限りでは、故郷の土器を伝えなかった渡来人はいないです

530 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:40:32.72 .net
>>527
秦氏の蛇塚古墳の石室の下から土器が出ているようやけど、その新羅系という土器の出土の具体例を挙げてみてくれん?

531 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:50:06.33 .net
>>529
具体的に挙げてみてくれん?

532 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:59:25.23 .net
>>531
スレタイの秦氏も遺してますよ

だから元辰韓人だと分かるのです

533 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 01:03:40.69 .net
>>532
インターネットの「西日本の渡来人-研究ノートとして−」(安藤信策)という論考では、秦氏の古墳とされる大覚寺3号墳から出土した新羅土器(7世紀初頭)について、
秦氏について「新羅系氏族としては、その可能性も示唆される」としているものの、しかし、北部九州の新羅土器のケースでは、
「出土する新羅土器から渡来人をその被葬者とする根拠は見出し難い」とする考えも明らかにしている。

この人の論考からすると、新羅土器が出たからと言って、即新羅系氏族と断定するのは危険ということになるようだ。
まあ、それはそうだろうと思うよ。
しかも、この大覚寺3号墳は7世紀初頭ということだから、秦氏の先祖の弓月君が渡来した4世紀後半からは二百年以上のちの古墳になる。
北部九州のケースのように、単に舶載品の土器を副葬しただけということも考えられるしね。

534 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 09:57:04.67 .net
>>533
時代的に怪しい訳か

秦氏は京都太秦に須恵器を遺さなかったため、考古学的追跡が難航するんだよね

京都太秦に移ってきたときもすでに帰化から百年以上経っていて在来人と
同化しているため、渡来人としての痕跡がほとんど見られない

ただ5C頃から西日本各地に韓式土器が出土するようになるから、朝鮮南部から
来ている事だけは間違いないが
 
韓式土器は粗製土器だから朝鮮南部が故郷である事だけは分かるものの、
それ以上に狭い範囲での地域性を見出せないから出自の特定が難航するんだろう

ただ、功満王が自ら来日して仲哀天皇に亡命の要請をしているから、元馬韓辰韓弁韓の
いずれかの遺民である事だけは間違いないだろう

秦氏は新羅系仏教を信仰していたり、新羅と関係する事柄が多い事を考えると
新羅に乗っ取られた辰韓人と見るのがやはり自然なのではないか

535 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 21:19:55.49 .net
>>534
功満王のことが記されているのは平安時代初期の「新撰姓氏録」で、秦氏が活躍する古墳時代中期から後期の時期よりかなり後の記述ということになる。
そこには、秦始皇帝の三世孫の孝武王の子の功満王が仲哀天皇の時代に来朝し、その功満王の子の融通王(弓月君)が応神天皇の時代に来朝するという系譜が書かれているようだ。
始皇帝の三世孫といえば、二世は胡亥なので、二世皇帝の胡亥の子が三世孫ということになる。
胡亥は前207年に亡くなっているので、三世とされる孝武王は前2世紀代の人物とするのがよいようだ。

そこで、前2世紀代の人物である孝武王の子の功満王も前2世紀代の人物とみなした場合、その功満王が4世紀後半頃の仲哀天皇の時代に日本にやってきたと新撰姓氏録は載せていることになる。
そうすると、孝武王の子の功満王は300年間ほどの時空を超えて日本にやってきたことになるので、年代が合わないことは言うまでもないことと分かる。
融通王(弓月君)の場合は、それより一代繰り下げた扱いとなっているむれど、やはり300年間の時空を超えて日本にやってきたことになる。

秦氏がこのような無理な系図を挙げているのは、後漢霊帝の子孫とする東漢氏に対して、秦氏は後漢よりも前の秦の始皇帝の血脈なのだと東漢氏に対して幅を効かすためだったと考えると分かりやすい。
なので、この系図から秦氏と新羅の関係を導くのは、まったく無理筋に近いのではないかということになってくる。

さらに、秦氏が新羅仏の管理を聖徳太子から任されたことについては、その当時、秦氏が外来宗教の関係や異教などを監督する立場についていたことが考えられるので、新羅仏の管理を聖徳太子から任されたのはそうした関連からだったとすることも可能。
新羅仏の件は、秦氏が新羅由来の一族であることを示す事柄だとしなくても、十分に説明がつくことのように思えるね。

536 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 22:45:21.88 .net
>>535
始皇帝の子孫というのが大風呂敷だというのは有名だよね

それが事実なら鬲鼎の一つくらいあるはずだもんね

ただ、労役から逃げてきた遼東秦人の子孫の可能性はあると思うよ

遼東人は元ウラルアルタイ語族で戦国時代に燕に併合されて異民族燕人となり、
その後も異民族秦人、異民族漢人を経る事になるが、中原からの入植が
ほとんどないので中国陶磁器や漢服などの中国系生活文物や衣服や住居などの
影響をあまり受けず、中国文化が希薄な辺境集団だからね

ただ、功満王が来日して仲哀天皇に一族の亡命帰化を懇願したのは事実だろうね

でないと融通王集団が帰化した史実も虚構になるし

537 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 18:28:26.52 .net
>>536
遼東地方にはウラルアルタイ語族系の種族が住んでいて、その種族が秦の長城建設に徴発され、苦役を逃れて南朝鮮に逃げた。
そのウラルアルタイ語族系の種族は後の新羅に当たる地方に住んだが、その中の一派が4世紀後半頃に日本に移住したが、この者たちが秦氏の先祖の弓月君であるということですか。

遼東地方にウラルアルタイ語族系の種族が住んでいたという痕跡があるといいですが、そうした何かが出土しますか。

538 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 18:59:55.16 .net
>>537
労役から逃げてきた遼東秦人が入植した可能性もあるというだけの話だけどね

遼東は遼河文明のエリアだから燕の併合以前はウラルアルタイ語族である事は明白

BC6C頃まで遼西は夏家店上層文化時代だから、それよりも東にある遼東は
間違いなくウラルアルタイ語族ですよ

539 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:32:36.00 .net
>>538
秦の頃では、遼河あたりにいた種族は烏丸と鮮卑ですね。
鮮卑はチュルク系かモンゴル系とされているようです。
ウラルアルタイ語族です。
遼東で徴発されたとすれば、遼東秦人はこの鮮卑かもしれません。

540 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:41:18.84 .net
東胡というのもその辺にいたみたいだけどね

541 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 02:00:42.36 .net
>>540
東胡が匈奴に滅ぼされたあと、その残党が移動して居付いたのが遼河流域で、烏桓・鮮卑がその残党とされているようですね。
東胡は、烏桓・鮮卑がいた元の集団ということのようです。
ですので、東胡も烏桓・鮮卑も同族ですね。
彼らは遊牧民だそうですので、この鮮卑たちが秦に徴発されて長城建設に駆り出されたとしても、長く土木作業に従事できないでしょうね。
そして、彼らは逃亡して朝鮮半島南部へ行き、東南隅の辰韓の地に定着したとして、これをどう秦氏につなぐかですね。

542 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 22:53:17.63 .net
>>1
秦氏「消防署のほうから来ました…」

543 :日本@名無史さん:2023/02/20(月) 01:33:18.81 .net
蔚珍鳳坪里新羅石碑の「波旦」は、どうですか。

544 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 16:16:39.26 .net
>>521
渡来者が元いたところの土器を復元する場合は、その必要があったからそうしたわけ。
菜畑の場合は、古代中国の土器の復元は行われていない。
ということは、菜畑にやってきた水田稲作民は、復元の必要性を持たなかったということになる。

その理由としては、渡って来た水田稲作民は男性であり、菜畑の縄文社会に溶け込んだために、
元居たところの土器を復元する必要がなかったことが考えられる。
菜畑で出土する土器には、縄文の模様が描かれているので、その土器を造ったのは縄文系の者であったことが推測できる。
やはり、やってきたのは男性の水田稲作民だった可能性が高い。

545 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 18:27:54.63 .net
新羅だろ

546 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 21:58:58.96 .net
>>544
都合の良い馬鹿げた小学生レベルの曲解

菜畑の人々は朝鮮土器から壺と高坏という器種をパクった

菜畑の人々が中国大陸からの入植者なら朝鮮土器からパクる必要がないじゃないの

単に自分たちの中国土器を記憶から再現すればイイだけの話じゃないの

壺や高坏だけじゃなく鬲も鼎も甑も釜も竈も平皿もあったんだから

つまり菜畑の人々は中国大陸とは何の関係もない人々だったという事に他ならない

547 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:32:48.07 .net
>>545
この波旦が、唯一の具体的な秦氏新羅説ですね。
波旦は蔚珍の中の地名であり、渡来した弓月君秦氏はその出身地の波旦(ハタン)の名を取って自らの氏名(うじな)としたというものです。
有名な歴史学者が唱えたものです。
しかしながら、石碑に刻まれた文章はところどころ読み取れないほどにすり減っていて、
この波旦の下に続く一字もかすかにしか読み取れなくなっています。
その字はいろいろな説が挙げられていますが、まだ確定できていないようです。
そして、その説の中に、この字は「緹(テイ)=赤色」ではないかとするものがあります。
この説を当ててみますと、「宜しく波旦の緹を智るべし」と読めることになります。
どうも、何かの諺のように見えます。
そうしますと、この波旦は必ずしも新羅の地名を表しているとは限らなくなります。
この「波旦の緹」が何を言っているものなのか考えてみますと、次のようなことが考えられます。
「波旦」はホータンの漢音表記としますと、「緹」は赤色ですので、「波旦の緹」は「ホータンの赤」という意味がまず考えられます。
そこで、ホータンはどのようなところかと見てみますと、ホータンは白色の軟玉の原石が採れるところで、高価で取引されていたようです。
そして、この白色の原石には、鉄分が染み込んで赤や黄などの膜が被さっている場合があるのだそうです。
高価で売るには、この赤や黄の薄膜を取り除く必要があります。
この薄膜は、日本で言うところの「鼈甲の皮」に当たる邪魔者ということになります。
本来なら高い価値がつくのに、この赤い薄膜のせいで原石は価値が下がるというわけです。
これが「波旦の緹」の意味だとすれば、この蔚珍の石碑に書かれているように、
罰を受ける罪人を取り除かれるべき邪魔者だとみなし、その邪魔な者を表すために「波旦の緹」の諺が挙げられているのだと理解できます。
摩耗して読み取れなくなっている字が「緹」であれば、このように解釈できることになります。
そして、「波旦」は蔚珍の地名ではなく、中国西域の宝石の産地であったホータンを指す地名とすることが可能になります。

548 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:38:52.34 .net
>>547
上のように考えますと、蔚珍石碑の「波旦」は必ずしも新羅の地名を表していると言い切れなくなります。
むしろ、弓月君秦氏のハタの名は、中国西域のホータンのホタを取ってそれが訛ったものだとする説が強化されることになります。
ですので、この「波旦」を新羅の地名とする有名な学者の説は、かなり揺らいでくるように見えますね。

549 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:51:50.65 .net
>>546
しかし、水田稲作は、その時期、中国の淮河以南でしか行われていなかった。
水田稲作の技術を持った農民は、そのあたり以外からは来ようがなかった。
どこから来たというのよ。

狭い丸木舟には土器などは積んでくれなかった、と考えるのが合理的。
まして、その水田稲作民が男性だけであったなら、菜畑に来てからわざわざ三足鍋を復元する必要性は極めて少ない。
彼らが溶け込んだ菜畑の集落の縄文人らが造った煮物甕で飯を食べて、それで十分だったのよ。

550 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 07:53:39.94 .net
>>549
記憶からの再現の話をしてるのに何で搬入の話にすり替えて誤魔化してるの?

そんな子ども染みた幼稚な欺罔や詭弁が考古学者やセミプロに通用すると思うか?

アジアから何千qも丸木舟で航海して土器を遺したポリネシア人もマダガスカル人も
全て記憶からの再現だぞ

そんな航海に邪魔なもの、搬入する訳がないだろ 

土器も住居も全て現地で記憶から再現しただけの話だ

それに何で「来た」と決め付けてるの?

日本最古稲作遺構には外来人が入植した痕跡がない

単にこちらから行って取り入れただけだからだ

取り入れたものの中に中国大陸の農具や土器の器種やイネの粒種などが一切ない    

あるのは朝鮮南部と一致するものだけ

ただ単純に最寄りの朝鮮南部から取り入れただけの話なのである

551 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 15:47:05.65 .net
秦氏「警察署の方から来ました…」

552 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 16:57:10.46 .net
>>551
遼東から百済を経て洛東江を下り、新羅と加羅の境界付近を通って伽耶にたどり着き、そのあと対馬の海人の舟で倭国へ渡ったとするルートが最適。
加羅のあたりにやって来た時に、新羅が邪魔して、伽耶まで行かせなかったのが弓月君の事情だったとみられます。
遊牧民の烏桓・鮮卑と秦氏は、つながりにくいですね。
秦の長城建設に徴発された部族で、辰韓まで逃げたと考えられる者は、ほかにいないでしょうか。

553 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 17:39:16.11 .net
>>550
ポリネシアやマダガスカルまで航海した者たちが、男だけで舟に乗ったとは考えにくい。
たどりつく島で野垂れ死ぬのがせいぜい。
しかし、彼らは行きつく島で子孫を残しているのだから、男女が舟に乗って渡ったはず。
また、長い航海が予想されるので、舟には飲料水を入れる甕が積まれた。
雨水が飲料水となった。
彼らは土器を携えた者たちだったと考えるのがよい。

このオーストロネシア語族の航海と、一日二日で島を渡り継ぐ対馬の海人の人渡しとは、事情がまったく異なる。
このような対馬の海人の丸木舟による人渡しの実態が理解してもらえたのは、慶賀の至り。

対馬や壱岐の海人の舟で唐津へ渡ったこうした男性の水田稲作農民が、菜畑あたりの縄文人に溶け込んで、
水田を復元し、稲籾を撒いて水稲栽培を始めた彼が、三足鍋を復元したいと思ったかどうかが問題。
毎日の食事は、縄文人の煮炊き甕で造られる食べ物で十分だったとしたら、わざわざ三足鍋を復元する必要性は感じなかっただろう。
後には、無文土器系の煮炊具が造られたし、新たにやってきた男性水稲農民もことさらに三足鍋にこだわる必要はなかったと思われる。
農具も半島系の畑作のものがすでに伝わっていて、それを改良した木製の農具が製作されていたから、それを水田に転用すれば事足りた。
菜畑などの狭く小さい畑地の土は湿り気があり柔らかかったので、広い畑用の重い石鋤を復元する必要はなかっただろう。

まあ、そういう事情だったのじゃないの。
無文土器ですら半島から搬入されたものはごく少ないとされているので、それらは半島の縄文人による交易で持ち込まれたものではないか。
九州の縄文人がそれを見習って、和製の無文土器を製作したのだろう。

こうしたことから導き出せることは、対馬海峡の海運は対馬や壱岐の海人が牛耳っていたということだね。
対馬海峡は、ポリネシアなどの事情とはまったく異なる環境にあったということになるよ。

554 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 21:16:44.48 .net
秦氏はどこから来たか、がスレタイなのに
・水田稲作はどこから来たか
・縄文式土器はどこから来たか
・弥生式土器はどこから来たか
になってきている…興味深いね

555 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:21:18.42 .net
>>553
伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

ふつうは伝えてから必要がなければ徐々にフェードアウトして消えていくというのが
文物の流れだろ

だいたい弥生社会はもちろん、同期する中国社会の庶民層だって土器も住居も衣類も
農具も全部自分たちで作るんだぞ

それができないなら、すなわち死だ

年がら年中、土器も住居も衣類も農具も、作ったり、直さなきゃならない場面が
やって来るのに故郷で作っていたものを一切作らないというのは不自然すぎるだろが

伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

何で?どうして?どうして?何で?

556 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:46:35.20 .net
水田は復元したのに土器は復元しなかったのだから、その理由はおめーが考えろよ。

557 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 00:16:48.57 .net
>>556
おまえの論理だと稲作自体も伝える必要がないじゃないか

縄文社会は様々な種実を煮炊いて食べていて、それで事足りていたんだから
稲作の必要性もないじゃないか

それに農具の出現は水田が出現して50年くらい経ってからだぞ

水田の出現期に農具はなかった

だから朝鮮農具がすでにあったから中国大陸のメイン農具である石スキは
必要がないから伝えなかったのだというおまえの単なる願望創作は最初から
破たんしている

558 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:10:40.74 .net
縄文晩期前葉の貫川遺跡出土の石包丁が最古のもの。
ちゅうことは、菜畑のまえに雑穀が栽培されていたのよ。
陸稲も作られていたはず。
つまりやな、半島の縄文人に稲籾見せたら、それが何なのかすぐわかったということやな。
要するに、菜畑の前には、すでに農耕は行われていたちゅうことや。

それで、あれこれ説明したら、よつしや、渡したるということになったのやろ。

559 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:19:21.81 .net
>>554
彼に、秦氏の話しろよ、と言ってやってください。😄

560 :日本@名無史さん:2023/02/28(火) 15:10:09.44 .net
秦氏に関連するデータは出尽くしていますね。
そこで思いますに、秦氏はトルコ語話者だったようですので、トルコ語から迫るのが効果的でしょう。
例えば、秦氏は半島を経由して大陸から技術者を招いてようですので、秦氏にとって対馬海峡は重要な交易路でした。
壱岐は、半島から見ますと対馬の次の二番目の島です。
この壱岐の発音のイキをトルコ語で見てみますと、iki(イキ)は「2」を表す言葉です。
秦氏はトルコ語話者だったとしますと、壱岐の島名は秦氏のトルコ語に由来するものである可能性が出てきます。
これは、秦氏に関連する新しいデータになるかもしれませんね。

561 :日本@名無史さん:2023/03/01(水) 14:26:41.61 .net
交易路の地名を秦氏のトルコ語で見ますと、北部九州は次のようになります。

チクシ(筑紫)
トルコ語 tikis(チクシ)=出口

これを見ますと、筑紫(チクシ)の名は秦氏のトルコ語に由来している可能性がでてきます。
大変興味あることではないでしょうか。

562 :日本@名無史さん:2023/03/03(金) 17:24:38.14 .net
もう一つ秦氏のトルコ語を見て見みましょう。
深草の秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)ですが、山城国風土記の記述からすると、どうもイネイ(稲生)が元々の発音のように見えます。
秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からこのイネイ(稲生)を見てみると

イネイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=降下、着陸

が考えられます。
このイニがイネ(稲)に、シがイに訛ったとした場合、トルコ語のinis(イニシ=降下、着陸)が何を意味しているかが問題になります。
秦氏ユダヤ教徒説からすると、山に降りて来くるのはユダヤ教の神ですね。
そして、その山は、シナイ山です。
つまり、イネイ(inis=降下、着陸→稲生)山とは、神がモーゼに十戒を授けたシナイ山に見立てた山と言うことが考えられることになります。

秦氏のトルコ語は、相当有力だといえるのではないでしょうか。

563 :日本@名無史さん:2023/03/04(土) 22:05:35.26 .net
モーゼ→百瀬
長野県中部に百瀬という苗字が多い
ということは、諏訪はユダヤの神域?

564 :日本@名無史さん:2023/03/05(日) 00:30:52.00 .net
ヘブライ語でモーゼは、モーシェ。
百瀬は、モモセ。
似てるな。

565 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:34:02.65 .net
でも、この頃には口語のヘブライ語は死滅していて、誰も知らない言葉になってたようだ。
司祭とか学者たちが細々と使っていただけの言葉になっていたそうだ。
だから、ヘブライ語は日本の古墳時代には、どうもね。

566 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:42:44.75 .net
だから、秦氏がユダヤ教徒だったとしたら、彼らはどんな言葉を話していたのかが問題になってくるのよ。
ヘブライ語は無理だから、別の言葉を話していたとすると、最も可能性のあるのがトルコ語ということになるわけ。
弓月君の弓月が中国の西域を指しているなら、そのあたりは4世紀後半にはトルコ語が主流だったし。
まあ、そんなとこじゃないの。^^

567 :日本@名無史さん:2023/03/11(土) 17:52:59.90 .net
それに、ウズマサ(太秦)の発音はトルコ語では「ウヅ=3」+「マサ=机」の構成で、ウズマサ(太秦)は「三つの机」の意になる。
秦氏がユダヤ教徒であったとすれば、「三つの机」とはユダヤ教の神を祭る幕屋の「3基の祭壇」を表す言葉の可能性が出てくる。
このような観点から見ると、秦氏は太秦を「日本におけるユダヤ教の幕屋(神を祭る所)を置く地」とみなした可能性が高い。

568 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 15:12:39.72 .net
秦氏がトルコ語を話したユダヤ教徒だったのは、おそらく間違いない。
その秦氏のハタの由来は、中国西域のオアシス都市のホータンのホタが訛ったものだろう。
出身地の都市の名を氏名(うじな)にした、ということだね。

569 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:52:52.30 .net
秦氏の系図では、弓月君の子は浦東君と書かれている。
中国語の隋唐音では「浦=puo、東=tong」だから、浦東はポトンの発音となる。
これは、中国西域のオアシス都市のホータンとほぼ同じ発音。
弓月道は西域回廊に当たるから、弓月君は西域タリム盆地、浦東君はホータンとなり、秦氏の系図の弓月と浦東はタリム盆地のホータンを表していることになる。
そして、その次の子が秦酒君だから、「弓月君・浦東君・秦酒君」は「西域タリム盆地のホータンから来た秦酒」ということになり、日本における秦氏の始祖は「秦の酒」であるとしていることが分かる。

この「酒(サケ)」は、出エジプト記における神の荒業であるエジプト人の子の排除の力をユダヤ人たちが「避けた」ことを表す言葉だと思われるので、秦氏の祖先が難を避けてホータンを脱出したことを表しているのだとすることが可能だ。
ユダヤ教徒秦氏ホータン出身説からすると、このような絵を描くことができそうだ。

570 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 05:00:17.55 .net
日本の神輿のルーツは宇佐神宮です
https://i.imgur.com/wewwboJ.jpg
https://i.imgur.com/jxFlJIg.jpg

571 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:31:42.58 .net
上賀茂の御阿礼の神輿のほうが先だろ。

572 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 22:39:09.96 .net
>>571
宇佐の神輿は720年の記録はあるけど上賀茂の記録はある?

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