2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

502 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 18:39:13.35 .net
また、埼玉の稲荷山古墳からは、今のユダヤ教超正統派とそっくりの姿をした人物埴輪が出ているし。
太秦の秦氏が武蔵へ送り出した入植者が、ユダヤ教徒だったということになるしね。

503 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 21:25:58.84 .net
>>498
ということは、現在の大阪府に在る古墳群を造ったのは秦氏ではないと…はたして誰なんだろう?

504 :日本@名無史さん:2023/01/26(木) 16:34:49.88 .net
弓月君秦氏がやってきたのは4世紀後半。
古市の津堂城山古墳のあと応神天皇陵古墳が造られたのは5世紀初頭。
南河内では、津堂城山古墳が造られる前に、すでに前方後円墳が造られている。
よって、応神陵を造ったのは、それら古墳前期の墳墓築造工人集団だった可能性が高い。
もちろん、その工人集団に古墳築造を発注したのは、応神政権だけどね。

505 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 16:34:38.63 .net
宇佐八幡の八幡(やはた)はユダヤ人を表すヘブライ語イェフディが訛ったもので、
その幡(はた)を取って氏名とした秦(はた)氏はユダヤ人だったとする説があるけど、
日本語の旗(はた)、幡(はた)はパンジャブ語のjhada(ハダ=旗)を語源とする言葉であり、
ヘブライ語とはまったく別の言葉。
なので、秦(はた)氏のハタは、ヘブライ語由来ではないよ。

506 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:09:06.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

507 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:27:50.74 .net
>>501
台湾の浦東・プードンとの関係性はありますか?

508 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 17:28:54.77 .net
>>507
誤:台湾、正:上海。

上海の浦東・プードンとの関係性はありますか?

509 :日本@名無史さん:2023/01/29(日) 20:53:12.86 .net
上海の浦東とは、関係ないでしょう。
上海の浦東の西端は川で、この川の西側が上海の元からの市街となっています。
そして、その上海の市街地の呼び名は、浦西です。
ですので、この浦西の東側に広がる原野が、浦西に対して浦東と呼ばれるようになったわけです。
開発前は砂浜の上にできた原野だったのが、開発後に浦東と名付けられたものですね。
つまり、上海の浦東は、最近できた地区名ということになりますね。

それに比べて、秦氏系図にみられる浦東君の字句は、相当古いものではないでしょうか。
ホトーと口伝された名に、系図を作るとき、浦東の字句を当てたのでしょう。
その口伝されたホトーは、中国西域の都市のホータンが短縮されたのでしょうね。

510 :日本@名無史さん:2023/01/30(月) 21:39:35.95 .net
>>509
中国四千年の歴史を踏まえて、秦の始皇帝が秦氏の始祖なのかしら?

511 :日本@名無史さん:2023/01/31(火) 17:20:18.25 .net
東漢氏らがその先祖を後漢霊帝としたため、それに張り合って、秦氏は漢よりも前の秦の始皇帝が始祖だと胸を張ったのでしょう。
秦氏が秦始皇帝を祖先にしたのは、単に東・西漢氏と張り合うためだったとするのが、ワイの考えです。
インスピレーションに溢れた説だと思いませんか。

512 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 17:42:01.48 .net
ただ、一考の余地があるのは、秦氏が本拠地のウズマサに太秦の字を当てていることです。
大秦は、後漢書に見えますように、ローマ帝国を指す言葉です。
大秦は、大きな国というのが原義ですね。
そこで、秦氏が自らの本拠地に太秦(ウズマサ)の字を当てたことを見ますと、大秦の大と太秦の太は同じ意味ですので、
秦氏はウズマサをローマ帝国の都のローマになぞられえたとする意見が出てくることになります。

しかしながら、秦氏がユダヤ教徒だったとすれば、その大きな国(大秦・太秦)とはユダヤ人の都だったエルサレムが考えられていたことも捨てきれません。
そして、ユダヤ教徒だったハタ氏は、そのエルサレムを指す大秦・太秦の秦の字を取って、氏名(うじな)のハタの発音に当てたのが秦(ハタ)の字だったということも考えられます。
このように、ハタ氏が自らの名に秦の字を当てたのは、太秦の秦に由来するものだった可能性が高いです。
そして、この秦の字にかこつけて、のちに秦始皇帝を祖先とする系図を作り、東漢氏らに対抗したのでしょう。

513 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 21:32:00.71 .net
ローマは一日にして奈良漬け

514 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 23:44:00.13 .net
一字違っておおちがい。

515 :日本@名無史さん:2023/02/02(木) 03:16:56.63 .net
>>506
狗奴国、まだやってるんでっか。

516 :日本@名無史さん:2023/02/09(木) 17:59:09.84 .net
きみたちは思ってもみないだろうけど、太秦からさきたま古墳のある行田までは、秦氏がユダヤ教の出エジプト記になぞらえて描いた日本版出エジプト記の旅程ルートなんよ。
太秦秦氏の神体山の松尾山は、出エジプトの前夜にユダヤの民が食べた種無しパンのマッツオを漢字表現したもの。
深草秦氏の神体山の稲荷山は、もともとはイナイ山の発音だった。
イナイ山のイナイは秦氏のトルコ語では着陸、降下を表すイニシに由来する言葉で、何が降下着陸したのかというとユダヤ教の神が降臨したことを意味する。
ユダヤ教の神が降臨したのはあのシナイ山なので、秦氏のイナイ山はシナイ山に見立てた山名となる。
そして、このイナイ山(稲荷山)からずっと東へ行くと諏訪に至るが、秦氏のトルコ語ではスバは「水がある」という意味の言葉なので、諏訪湖を指していることが分かる。
この「水がある」は、ユダヤの民がエジプトを出て初めて一息ついたオアシスのエリムを指している。
このあと、諏訪から武蔵に入り、いよいよ旅程は行田に到着するが、そもそものムサシ(武蔵)の言葉は秦氏のトルコ語ではヤダヤの民を率いたモーゼがムサで、
シは方向を表す和語となり、ムサとシを合わせたムサシは「モーゼが目指したところ」の意味の言葉になる。
なので、ムサシ(武蔵)とは、秦氏のトルコ語では「モーゼが目指した安住の地カナン」を指した言葉になるのだ。

これをみれば、太秦から信濃を通って入植地の行田に至る旅程を、秦氏は出エジプト記の行程として描いていることが分かる。
つまり、秦氏はトルコ語を話すユダヤ教徒だったとみるのが正解ということだ。
トルコ語は西域のホータンでは当たり前の普通の会話語だったようなので、ホータンから来た弓月君秦氏がトルコ語を話す人々だったことはなんの不思議もないことと言える。

これが、秦氏の謎に潜む真の姿だと言える。
その秦氏が行田の地へ送った入植者の中にユダヤ教の超正統派的な姿をした人物がいることは、何ら不思議でもないごく普通のことだったのだ。
武蔵は、秦氏によって描かれたユダヤの民の入植地カナンだったということなんだよ。

517 :日本@名無史さん:2023/02/12(日) 20:16:34.77 .net
>>513
ローマは一日にして塩漬け。

518 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 22:10:25.31 .net
斉って山東半島だよな
山東半島には倭人にまつわる何かがある気がしてならんな
あそこから海にでて朝鮮半島や日本に逃げていったんだろ倭人は。

山東省は日照や嵐山っていう日本みたいな地名あるし、海に面してて日本に少しだけ似てるよね。

519 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 22:11:17.14 .net
てか倭人が弥生人なんじゃね?

520 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:08:20.36 .net
菜畑遺跡の水田の様式と山東半島の遺跡の水田様式がよく似ているそうだ。
平野部につくる規模の大きい水田ではなく、山あいの谷筋の小規模な水田の様式。
菜畑のあとの板付遺跡の整った水田遺跡とはかなり違うらしい。
しかしまあ、淮河や山東のどちらの水田もY-O1b系の種族によって運営されたのだろうし、
菜畑や板付にもその同じ種族が渡ってきたのだろうけど。

関係おお有りじゃないの。

521 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:24:19.11 .net
なら、菜畑遺跡は中国土器遺構になってないと話しがおかしいじゃないか

菜畑遺跡はそれまでの黒川式縄文土器を押し退けて新たな土器が登場した遺構なんだから
中国から入ったなら中国土器が伝わってないと話がおかしい

ところが菜畑遺跡に伝わった新しい土器は中国土器でも朝鮮土器でもなく、
山陰方面から入ってきた沿海州南部と特徴が一致する土器なのであった

522 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:29:03.20 .net
ここに湧いて中卒を詐欺ってたのかチンコロw

523 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 20:31:26.71 .net
秦氏は元辰韓の王侯貴族

辰韓は連合国の一国だった新羅に国を乗っ取られてしまう

元辰韓王の功満王が来日して仲哀天皇に遺民の帰化を要請し
実現したのが秦氏

524 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:19:33.69 .net
>>521
その謎が、極めて重大。

縄文時代から弥生時代へのダイナミックな転換の際に、半島系の無文土器が北部九州でみられるようになるとされているが、
その無文土器でも舶載のものはごく少ないとされているようだ。
このことは、半島から人が対馬海峡を渡る際にも、半島で造られた土器は持ってこなかった可能性を示唆する。
舶載とされる無文土器も、対馬海峡の海人らが交易品として北部九州へもたらした可能性も考えられる。

この無文土器のケースと同じで、水田稲作の籾を持って対馬海峡を渡って菜畑などにやってきた水稲農民も、
その大陸での炊飯用土器などは持って来なかった可能性を考える必要が出てくる。

大陸の炊飯用土器なども無文土器の場合と同じで、それを舟に積むかどうかは舟の船頭の考え方次第だったとも考えられる。
それは、舟のスペースがごく狭く、余分なものは積めなかったということによるのではないか。
つまり、北部九州へ渡るには、身一つで舟に乗る必要があったということになる。
そして、対馬海峡を渡った者が男だけだったとすれば、なおさら大陸の炊飯用土器は持って来なかった可能性が高い。

舶載の鼎などが菜畑や板付などで出土しない理由については、そうした事情も勘案してみる必要があると思われるけどね。

525 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:21:56.73 .net
>>523
そもそも、秦氏辰韓出身説の根拠はいったいな〜に?
特に何もないんじゃないの?

526 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:37:08.49 .net
>>524
記憶からの再現の話を搬入の話にすり替えて誤魔化しんてんじゃねよ馬鹿チンコロ

そんな子どもダマシな欺罔が考古学者や考古学マニアが何百人も集う講演会で
通用すると思うか?

527 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 22:24:11.47 .net
>>525
まず秦氏が遺した土器は百済あたりではなく新羅あたりの土器と一致するという事

国王自ら来日して天皇に亡命を哀願している事

この頃に滅んだ国家に楽浪帯方があるが、楽浪帯方なら太守のはずであり王ではない

新羅の執拗な妨害

百済あたりから来たなら新羅は妨害できないはず

辰韓が秦韓とも呼ばれている事

528 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:22:53.35 .net
478
記憶からの再現て、その再現の必要についての有無から検討せんとな。
再現する必要がなければ、そもそも記憶からの再現についての議論は不要やし。
記憶から再現する必要をその稲作渡来者は感じていたの?
どうなんよ。

529 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:25:40.15 .net
>>528
俺の知ってる限りでは、故郷の土器を伝えなかった渡来人はいないです

530 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:40:32.72 .net
>>527
秦氏の蛇塚古墳の石室の下から土器が出ているようやけど、その新羅系という土器の出土の具体例を挙げてみてくれん?

531 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:50:06.33 .net
>>529
具体的に挙げてみてくれん?

532 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 23:59:25.23 .net
>>531
スレタイの秦氏も遺してますよ

だから元辰韓人だと分かるのです

533 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 01:03:40.69 .net
>>532
インターネットの「西日本の渡来人-研究ノートとして−」(安藤信策)という論考では、秦氏の古墳とされる大覚寺3号墳から出土した新羅土器(7世紀初頭)について、
秦氏について「新羅系氏族としては、その可能性も示唆される」としているものの、しかし、北部九州の新羅土器のケースでは、
「出土する新羅土器から渡来人をその被葬者とする根拠は見出し難い」とする考えも明らかにしている。

この人の論考からすると、新羅土器が出たからと言って、即新羅系氏族と断定するのは危険ということになるようだ。
まあ、それはそうだろうと思うよ。
しかも、この大覚寺3号墳は7世紀初頭ということだから、秦氏の先祖の弓月君が渡来した4世紀後半からは二百年以上のちの古墳になる。
北部九州のケースのように、単に舶載品の土器を副葬しただけということも考えられるしね。

534 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 09:57:04.67 .net
>>533
時代的に怪しい訳か

秦氏は京都太秦に須恵器を遺さなかったため、考古学的追跡が難航するんだよね

京都太秦に移ってきたときもすでに帰化から百年以上経っていて在来人と
同化しているため、渡来人としての痕跡がほとんど見られない

ただ5C頃から西日本各地に韓式土器が出土するようになるから、朝鮮南部から
来ている事だけは間違いないが
 
韓式土器は粗製土器だから朝鮮南部が故郷である事だけは分かるものの、
それ以上に狭い範囲での地域性を見出せないから出自の特定が難航するんだろう

ただ、功満王が自ら来日して仲哀天皇に亡命の要請をしているから、元馬韓辰韓弁韓の
いずれかの遺民である事だけは間違いないだろう

秦氏は新羅系仏教を信仰していたり、新羅と関係する事柄が多い事を考えると
新羅に乗っ取られた辰韓人と見るのがやはり自然なのではないか

535 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 21:19:55.49 .net
>>534
功満王のことが記されているのは平安時代初期の「新撰姓氏録」で、秦氏が活躍する古墳時代中期から後期の時期よりかなり後の記述ということになる。
そこには、秦始皇帝の三世孫の孝武王の子の功満王が仲哀天皇の時代に来朝し、その功満王の子の融通王(弓月君)が応神天皇の時代に来朝するという系譜が書かれているようだ。
始皇帝の三世孫といえば、二世は胡亥なので、二世皇帝の胡亥の子が三世孫ということになる。
胡亥は前207年に亡くなっているので、三世とされる孝武王は前2世紀代の人物とするのがよいようだ。

そこで、前2世紀代の人物である孝武王の子の功満王も前2世紀代の人物とみなした場合、その功満王が4世紀後半頃の仲哀天皇の時代に日本にやってきたと新撰姓氏録は載せていることになる。
そうすると、孝武王の子の功満王は300年間ほどの時空を超えて日本にやってきたことになるので、年代が合わないことは言うまでもないことと分かる。
融通王(弓月君)の場合は、それより一代繰り下げた扱いとなっているむれど、やはり300年間の時空を超えて日本にやってきたことになる。

秦氏がこのような無理な系図を挙げているのは、後漢霊帝の子孫とする東漢氏に対して、秦氏は後漢よりも前の秦の始皇帝の血脈なのだと東漢氏に対して幅を効かすためだったと考えると分かりやすい。
なので、この系図から秦氏と新羅の関係を導くのは、まったく無理筋に近いのではないかということになってくる。

さらに、秦氏が新羅仏の管理を聖徳太子から任されたことについては、その当時、秦氏が外来宗教の関係や異教などを監督する立場についていたことが考えられるので、新羅仏の管理を聖徳太子から任されたのはそうした関連からだったとすることも可能。
新羅仏の件は、秦氏が新羅由来の一族であることを示す事柄だとしなくても、十分に説明がつくことのように思えるね。

536 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 22:45:21.88 .net
>>535
始皇帝の子孫というのが大風呂敷だというのは有名だよね

それが事実なら鬲鼎の一つくらいあるはずだもんね

ただ、労役から逃げてきた遼東秦人の子孫の可能性はあると思うよ

遼東人は元ウラルアルタイ語族で戦国時代に燕に併合されて異民族燕人となり、
その後も異民族秦人、異民族漢人を経る事になるが、中原からの入植が
ほとんどないので中国陶磁器や漢服などの中国系生活文物や衣服や住居などの
影響をあまり受けず、中国文化が希薄な辺境集団だからね

ただ、功満王が来日して仲哀天皇に一族の亡命帰化を懇願したのは事実だろうね

でないと融通王集団が帰化した史実も虚構になるし

537 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 18:28:26.52 .net
>>536
遼東地方にはウラルアルタイ語族系の種族が住んでいて、その種族が秦の長城建設に徴発され、苦役を逃れて南朝鮮に逃げた。
そのウラルアルタイ語族系の種族は後の新羅に当たる地方に住んだが、その中の一派が4世紀後半頃に日本に移住したが、この者たちが秦氏の先祖の弓月君であるということですか。

遼東地方にウラルアルタイ語族系の種族が住んでいたという痕跡があるといいですが、そうした何かが出土しますか。

538 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 18:59:55.16 .net
>>537
労役から逃げてきた遼東秦人が入植した可能性もあるというだけの話だけどね

遼東は遼河文明のエリアだから燕の併合以前はウラルアルタイ語族である事は明白

BC6C頃まで遼西は夏家店上層文化時代だから、それよりも東にある遼東は
間違いなくウラルアルタイ語族ですよ

539 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:32:36.00 .net
>>538
秦の頃では、遼河あたりにいた種族は烏丸と鮮卑ですね。
鮮卑はチュルク系かモンゴル系とされているようです。
ウラルアルタイ語族です。
遼東で徴発されたとすれば、遼東秦人はこの鮮卑かもしれません。

540 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:41:18.84 .net
東胡というのもその辺にいたみたいだけどね

541 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 02:00:42.36 .net
>>540
東胡が匈奴に滅ぼされたあと、その残党が移動して居付いたのが遼河流域で、烏桓・鮮卑がその残党とされているようですね。
東胡は、烏桓・鮮卑がいた元の集団ということのようです。
ですので、東胡も烏桓・鮮卑も同族ですね。
彼らは遊牧民だそうですので、この鮮卑たちが秦に徴発されて長城建設に駆り出されたとしても、長く土木作業に従事できないでしょうね。
そして、彼らは逃亡して朝鮮半島南部へ行き、東南隅の辰韓の地に定着したとして、これをどう秦氏につなぐかですね。

542 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 22:53:17.63 .net
>>1
秦氏「消防署のほうから来ました…」

543 :日本@名無史さん:2023/02/20(月) 01:33:18.81 .net
蔚珍鳳坪里新羅石碑の「波旦」は、どうですか。

544 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 16:16:39.26 .net
>>521
渡来者が元いたところの土器を復元する場合は、その必要があったからそうしたわけ。
菜畑の場合は、古代中国の土器の復元は行われていない。
ということは、菜畑にやってきた水田稲作民は、復元の必要性を持たなかったということになる。

その理由としては、渡って来た水田稲作民は男性であり、菜畑の縄文社会に溶け込んだために、
元居たところの土器を復元する必要がなかったことが考えられる。
菜畑で出土する土器には、縄文の模様が描かれているので、その土器を造ったのは縄文系の者であったことが推測できる。
やはり、やってきたのは男性の水田稲作民だった可能性が高い。

545 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 18:27:54.63 .net
新羅だろ

546 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 21:58:58.96 .net
>>544
都合の良い馬鹿げた小学生レベルの曲解

菜畑の人々は朝鮮土器から壺と高坏という器種をパクった

菜畑の人々が中国大陸からの入植者なら朝鮮土器からパクる必要がないじゃないの

単に自分たちの中国土器を記憶から再現すればイイだけの話じゃないの

壺や高坏だけじゃなく鬲も鼎も甑も釜も竈も平皿もあったんだから

つまり菜畑の人々は中国大陸とは何の関係もない人々だったという事に他ならない

547 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:32:48.07 .net
>>545
この波旦が、唯一の具体的な秦氏新羅説ですね。
波旦は蔚珍の中の地名であり、渡来した弓月君秦氏はその出身地の波旦(ハタン)の名を取って自らの氏名(うじな)としたというものです。
有名な歴史学者が唱えたものです。
しかしながら、石碑に刻まれた文章はところどころ読み取れないほどにすり減っていて、
この波旦の下に続く一字もかすかにしか読み取れなくなっています。
その字はいろいろな説が挙げられていますが、まだ確定できていないようです。
そして、その説の中に、この字は「緹(テイ)=赤色」ではないかとするものがあります。
この説を当ててみますと、「宜しく波旦の緹を智るべし」と読めることになります。
どうも、何かの諺のように見えます。
そうしますと、この波旦は必ずしも新羅の地名を表しているとは限らなくなります。
この「波旦の緹」が何を言っているものなのか考えてみますと、次のようなことが考えられます。
「波旦」はホータンの漢音表記としますと、「緹」は赤色ですので、「波旦の緹」は「ホータンの赤」という意味がまず考えられます。
そこで、ホータンはどのようなところかと見てみますと、ホータンは白色の軟玉の原石が採れるところで、高価で取引されていたようです。
そして、この白色の原石には、鉄分が染み込んで赤や黄などの膜が被さっている場合があるのだそうです。
高価で売るには、この赤や黄の薄膜を取り除く必要があります。
この薄膜は、日本で言うところの「鼈甲の皮」に当たる邪魔者ということになります。
本来なら高い価値がつくのに、この赤い薄膜のせいで原石は価値が下がるというわけです。
これが「波旦の緹」の意味だとすれば、この蔚珍の石碑に書かれているように、
罰を受ける罪人を取り除かれるべき邪魔者だとみなし、その邪魔な者を表すために「波旦の緹」の諺が挙げられているのだと理解できます。
摩耗して読み取れなくなっている字が「緹」であれば、このように解釈できることになります。
そして、「波旦」は蔚珍の地名ではなく、中国西域の宝石の産地であったホータンを指す地名とすることが可能になります。

548 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:38:52.34 .net
>>547
上のように考えますと、蔚珍石碑の「波旦」は必ずしも新羅の地名を表していると言い切れなくなります。
むしろ、弓月君秦氏のハタの名は、中国西域のホータンのホタを取ってそれが訛ったものだとする説が強化されることになります。
ですので、この「波旦」を新羅の地名とする有名な学者の説は、かなり揺らいでくるように見えますね。

549 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:51:50.65 .net
>>546
しかし、水田稲作は、その時期、中国の淮河以南でしか行われていなかった。
水田稲作の技術を持った農民は、そのあたり以外からは来ようがなかった。
どこから来たというのよ。

狭い丸木舟には土器などは積んでくれなかった、と考えるのが合理的。
まして、その水田稲作民が男性だけであったなら、菜畑に来てからわざわざ三足鍋を復元する必要性は極めて少ない。
彼らが溶け込んだ菜畑の集落の縄文人らが造った煮物甕で飯を食べて、それで十分だったのよ。

550 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 07:53:39.94 .net
>>549
記憶からの再現の話をしてるのに何で搬入の話にすり替えて誤魔化してるの?

そんな子ども染みた幼稚な欺罔や詭弁が考古学者やセミプロに通用すると思うか?

アジアから何千qも丸木舟で航海して土器を遺したポリネシア人もマダガスカル人も
全て記憶からの再現だぞ

そんな航海に邪魔なもの、搬入する訳がないだろ 

土器も住居も全て現地で記憶から再現しただけの話だ

それに何で「来た」と決め付けてるの?

日本最古稲作遺構には外来人が入植した痕跡がない

単にこちらから行って取り入れただけだからだ

取り入れたものの中に中国大陸の農具や土器の器種やイネの粒種などが一切ない    

あるのは朝鮮南部と一致するものだけ

ただ単純に最寄りの朝鮮南部から取り入れただけの話なのである

551 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 15:47:05.65 .net
秦氏「警察署の方から来ました…」

552 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 16:57:10.46 .net
>>551
遼東から百済を経て洛東江を下り、新羅と加羅の境界付近を通って伽耶にたどり着き、そのあと対馬の海人の舟で倭国へ渡ったとするルートが最適。
加羅のあたりにやって来た時に、新羅が邪魔して、伽耶まで行かせなかったのが弓月君の事情だったとみられます。
遊牧民の烏桓・鮮卑と秦氏は、つながりにくいですね。
秦の長城建設に徴発された部族で、辰韓まで逃げたと考えられる者は、ほかにいないでしょうか。

553 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 17:39:16.11 .net
>>550
ポリネシアやマダガスカルまで航海した者たちが、男だけで舟に乗ったとは考えにくい。
たどりつく島で野垂れ死ぬのがせいぜい。
しかし、彼らは行きつく島で子孫を残しているのだから、男女が舟に乗って渡ったはず。
また、長い航海が予想されるので、舟には飲料水を入れる甕が積まれた。
雨水が飲料水となった。
彼らは土器を携えた者たちだったと考えるのがよい。

このオーストロネシア語族の航海と、一日二日で島を渡り継ぐ対馬の海人の人渡しとは、事情がまったく異なる。
このような対馬の海人の丸木舟による人渡しの実態が理解してもらえたのは、慶賀の至り。

対馬や壱岐の海人の舟で唐津へ渡ったこうした男性の水田稲作農民が、菜畑あたりの縄文人に溶け込んで、
水田を復元し、稲籾を撒いて水稲栽培を始めた彼が、三足鍋を復元したいと思ったかどうかが問題。
毎日の食事は、縄文人の煮炊き甕で造られる食べ物で十分だったとしたら、わざわざ三足鍋を復元する必要性は感じなかっただろう。
後には、無文土器系の煮炊具が造られたし、新たにやってきた男性水稲農民もことさらに三足鍋にこだわる必要はなかったと思われる。
農具も半島系の畑作のものがすでに伝わっていて、それを改良した木製の農具が製作されていたから、それを水田に転用すれば事足りた。
菜畑などの狭く小さい畑地の土は湿り気があり柔らかかったので、広い畑用の重い石鋤を復元する必要はなかっただろう。

まあ、そういう事情だったのじゃないの。
無文土器ですら半島から搬入されたものはごく少ないとされているので、それらは半島の縄文人による交易で持ち込まれたものではないか。
九州の縄文人がそれを見習って、和製の無文土器を製作したのだろう。

こうしたことから導き出せることは、対馬海峡の海運は対馬や壱岐の海人が牛耳っていたということだね。
対馬海峡は、ポリネシアなどの事情とはまったく異なる環境にあったということになるよ。

554 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 21:16:44.48 .net
秦氏はどこから来たか、がスレタイなのに
・水田稲作はどこから来たか
・縄文式土器はどこから来たか
・弥生式土器はどこから来たか
になってきている…興味深いね

555 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:21:18.42 .net
>>553
伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

ふつうは伝えてから必要がなければ徐々にフェードアウトして消えていくというのが
文物の流れだろ

だいたい弥生社会はもちろん、同期する中国社会の庶民層だって土器も住居も衣類も
農具も全部自分たちで作るんだぞ

それができないなら、すなわち死だ

年がら年中、土器も住居も衣類も農具も、作ったり、直さなきゃならない場面が
やって来るのに故郷で作っていたものを一切作らないというのは不自然すぎるだろが

伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

何で?どうして?どうして?何で?

556 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:46:35.20 .net
水田は復元したのに土器は復元しなかったのだから、その理由はおめーが考えろよ。

557 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 00:16:48.57 .net
>>556
おまえの論理だと稲作自体も伝える必要がないじゃないか

縄文社会は様々な種実を煮炊いて食べていて、それで事足りていたんだから
稲作の必要性もないじゃないか

それに農具の出現は水田が出現して50年くらい経ってからだぞ

水田の出現期に農具はなかった

だから朝鮮農具がすでにあったから中国大陸のメイン農具である石スキは
必要がないから伝えなかったのだというおまえの単なる願望創作は最初から
破たんしている

558 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:10:40.74 .net
縄文晩期前葉の貫川遺跡出土の石包丁が最古のもの。
ちゅうことは、菜畑のまえに雑穀が栽培されていたのよ。
陸稲も作られていたはず。
つまりやな、半島の縄文人に稲籾見せたら、それが何なのかすぐわかったということやな。
要するに、菜畑の前には、すでに農耕は行われていたちゅうことや。

それで、あれこれ説明したら、よつしや、渡したるということになったのやろ。

559 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:19:21.81 .net
>>554
彼に、秦氏の話しろよ、と言ってやってください。😄

560 :日本@名無史さん:2023/02/28(火) 15:10:09.44 .net
秦氏に関連するデータは出尽くしていますね。
そこで思いますに、秦氏はトルコ語話者だったようですので、トルコ語から迫るのが効果的でしょう。
例えば、秦氏は半島を経由して大陸から技術者を招いてようですので、秦氏にとって対馬海峡は重要な交易路でした。
壱岐は、半島から見ますと対馬の次の二番目の島です。
この壱岐の発音のイキをトルコ語で見てみますと、iki(イキ)は「2」を表す言葉です。
秦氏はトルコ語話者だったとしますと、壱岐の島名は秦氏のトルコ語に由来するものである可能性が出てきます。
これは、秦氏に関連する新しいデータになるかもしれませんね。

561 :日本@名無史さん:2023/03/01(水) 14:26:41.61 .net
交易路の地名を秦氏のトルコ語で見ますと、北部九州は次のようになります。

チクシ(筑紫)
トルコ語 tikis(チクシ)=出口

これを見ますと、筑紫(チクシ)の名は秦氏のトルコ語に由来している可能性がでてきます。
大変興味あることではないでしょうか。

562 :日本@名無史さん:2023/03/03(金) 17:24:38.14 .net
もう一つ秦氏のトルコ語を見て見みましょう。
深草の秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)ですが、山城国風土記の記述からすると、どうもイネイ(稲生)が元々の発音のように見えます。
秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からこのイネイ(稲生)を見てみると

イネイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=降下、着陸

が考えられます。
このイニがイネ(稲)に、シがイに訛ったとした場合、トルコ語のinis(イニシ=降下、着陸)が何を意味しているかが問題になります。
秦氏ユダヤ教徒説からすると、山に降りて来くるのはユダヤ教の神ですね。
そして、その山は、シナイ山です。
つまり、イネイ(inis=降下、着陸→稲生)山とは、神がモーゼに十戒を授けたシナイ山に見立てた山と言うことが考えられることになります。

秦氏のトルコ語は、相当有力だといえるのではないでしょうか。

563 :日本@名無史さん:2023/03/04(土) 22:05:35.26 .net
モーゼ→百瀬
長野県中部に百瀬という苗字が多い
ということは、諏訪はユダヤの神域?

564 :日本@名無史さん:2023/03/05(日) 00:30:52.00 .net
ヘブライ語でモーゼは、モーシェ。
百瀬は、モモセ。
似てるな。

565 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:34:02.65 .net
でも、この頃には口語のヘブライ語は死滅していて、誰も知らない言葉になってたようだ。
司祭とか学者たちが細々と使っていただけの言葉になっていたそうだ。
だから、ヘブライ語は日本の古墳時代には、どうもね。

566 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:42:44.75 .net
だから、秦氏がユダヤ教徒だったとしたら、彼らはどんな言葉を話していたのかが問題になってくるのよ。
ヘブライ語は無理だから、別の言葉を話していたとすると、最も可能性のあるのがトルコ語ということになるわけ。
弓月君の弓月が中国の西域を指しているなら、そのあたりは4世紀後半にはトルコ語が主流だったし。
まあ、そんなとこじゃないの。^^

567 :日本@名無史さん:2023/03/11(土) 17:52:59.90 .net
それに、ウズマサ(太秦)の発音はトルコ語では「ウヅ=3」+「マサ=机」の構成で、ウズマサ(太秦)は「三つの机」の意になる。
秦氏がユダヤ教徒であったとすれば、「三つの机」とはユダヤ教の神を祭る幕屋の「3基の祭壇」を表す言葉の可能性が出てくる。
このような観点から見ると、秦氏は太秦を「日本におけるユダヤ教の幕屋(神を祭る所)を置く地」とみなした可能性が高い。

568 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 15:12:39.72 .net
秦氏がトルコ語を話したユダヤ教徒だったのは、おそらく間違いない。
その秦氏のハタの由来は、中国西域のオアシス都市のホータンのホタが訛ったものだろう。
出身地の都市の名を氏名(うじな)にした、ということだね。

569 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:52:52.30 .net
秦氏の系図では、弓月君の子は浦東君と書かれている。
中国語の隋唐音では「浦=puo、東=tong」だから、浦東はポトンの発音となる。
これは、中国西域のオアシス都市のホータンとほぼ同じ発音。
弓月道は西域回廊に当たるから、弓月君は西域タリム盆地、浦東君はホータンとなり、秦氏の系図の弓月と浦東はタリム盆地のホータンを表していることになる。
そして、その次の子が秦酒君だから、「弓月君・浦東君・秦酒君」は「西域タリム盆地のホータンから来た秦酒」ということになり、日本における秦氏の始祖は「秦の酒」であるとしていることが分かる。

この「酒(サケ)」は、出エジプト記における神の荒業であるエジプト人の子の排除の力をユダヤ人たちが「避けた」ことを表す言葉だと思われるので、秦氏の祖先が難を避けてホータンを脱出したことを表しているのだとすることが可能だ。
ユダヤ教徒秦氏ホータン出身説からすると、このような絵を描くことができそうだ。

570 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 05:00:17.55 .net
日本の神輿のルーツは宇佐神宮です
https://i.imgur.com/wewwboJ.jpg
https://i.imgur.com/jxFlJIg.jpg

571 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:31:42.58 .net
上賀茂の御阿礼の神輿のほうが先だろ。

572 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 22:39:09.96 .net
>>571
宇佐の神輿は720年の記録はあるけど上賀茂の記録はある?

573 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:26:45.82 .net
上賀茂神社の社殿は天武6年(677年)に建立されている。
御阿礼はこのときに行われた。

574 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:56:15.00 .net
>>573
創建の古さだと宇佐神宮は6世紀だね

575 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 00:52:02.24 .net
宇佐神宮の一之殿が造営されたのは神亀2年(725年)とされるので、御許山の磐坐から神を御阿礼したのはこのときではないか。

576 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 01:25:20.44 .net
>>575

https://i.imgur.com/7iTQjkd.jpg
宇佐神宮には元宮と言われる、池が内宮の薦神社があってそこで採れた薦が神輿の御神体になっている。さらに薦神社の奥宮は八面山で、日本初の神仏習合の象徴の場所でもある。

577 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 02:17:23.46 .net
小椋山に遷る前の鷹居社は568年に建てられていますね
https://i.imgur.com/GMWOorM.jpg

578 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 03:00:26.65 .net
鷹居社の建立は、宇佐縁起の記述に和銅五年(712年)と書かれているそうだ。
「玄松子の記憶」のサイトの「鷹居神社」にその資料が出ている。
磐座に宿った応神天皇神を依り代に遷して、これを神輿に乗せて、鷹居社まで運んだということだと思うけど。

579 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 03:46:59.90 .net
宇佐神宮の奥宮は御許山ですがもう一つ三女神が降臨したとする神社が安心院の三女神社です ここを祀ったのが宇佐氏一族と言われる筑紫の君の水沼氏です。ここも宇佐神宮の元宮の一つと言えます
https://i.imgur.com/4cHx6u8.jpg

580 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 04:55:20.48 .net
日本書紀 神代上 第六段一書第三
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。
今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と日す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。

581 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 18:19:22.40 .net
資料の比較という点で、この三女神と水沼君の問題は面白そうだね。

書紀本文と一書を見ると、本文を含む天照系は、三女神は宗像氏が祀っていることが分かる書き方をしていて、水沼氏は登場しない。
一方、日神系は、三女神を元は水沼氏ら複数の氏族が宇佐で祀っていて、今は響灘の宗像氏が祀っているとするか、三女神が降りた「道の中」の場所を特定しない立場をとっている。
沖ノ島の国家祭祀が4世紀後半から始まっているのは確定事項で、宗像氏も関与しているのは明白。
しかし、宗像の沖、中、陸が連携する三女神型祭祀は7世紀になってから始まっているとされている。
なので、三女神に関する書紀の話は、7世紀以降の伝承とするのがよいようだ。

そうすると、日神系の伝承の中に水沼氏らの地方氏族が登場する一書と「道の中」の場所が特定されていない一書については、三女神に関係しない別の伝承が付け加えられたものと解釈できる。
書紀の雄略天皇紀では呉が贈った貢物を水沼氏の飼い犬が食ってしまったという話が見られるところをみると、中国の呉地方から大和に行く交易路は東シナ海から九州有明海の筑後川河口を経て水運で日田あたりまで進み、そこから陸路と水運で宇佐方面に行く経路が想定されていたことを示している。
この経路は、遣唐使の南ルートとほぼ合致するように見える。
筑後川河口の水沼氏が宇佐に関わっている一書の記述は、この九州筑後河口から宇佐にいたる内陸水運の交易ルートを管掌する氏族の連携が織り込まれもので、三女神の話はその現実の勢力関係を物語るためのストーリーに過ぎないと思われる。
この九州北部の内陸水運の大動脈の管掌を示すためになぜ海運の宗像三女神が用いられたのかということについては、半島との交易の実際の業者である宗像氏と深いつながりのある大氏族の秦氏の関与があるのではないか。
秦氏は有明海の筑後川河口から宇佐に至る内陸水運系を半島への対馬海峡の海運系とリンクし、より広域の海運水運の交易路を確保しようとした、とするモデルが考えられる。

そういう観点からすると、書記のこの日神系の一書は、秦氏と朝廷の勢力が組んで筑後川水運の取り込みを図るための企画書のような臭いがするのだが。

582 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 19:17:04.13 .net
隋書倭国伝に出てくる秦王国とは宇佐八幡王国の事だったと考えます。八幡はやはたとも読みますね、平安時代における宇佐八幡の荘園は九州の三分の一に及んでいたそうです。

583 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 01:54:46.67 .net
秦王国宇佐説は、確かに有力な説のようだ。

中国におけるこの「秦王国」の意味は、皇帝が臣下に対して領地を与えて国王に列する扱いをしたことから生まれた言葉で、「秦王の国」の意味になるもの。
漢の皇帝が臣下の諸侯に秦の領地だった土地を与えて王としたことから「秦の土地を領地として与えられた王」が「秦王」と呼ばれ、その「秦王」の国を「秦王国」と呼んだのが始まりだそうだ。
これは、皇帝の親族が国を与えられて国王となることとは異なり、臣下に対する特別な扱いだったそうだ。

この秦王国が倭国にもあったのか、倭国はあの呉の孫権が探索した夷州だったというのだろうかという驚きを隋の使節団にもたらしたのは、その土地の人が中国と同じような服装などをしていたためだろう。
しかし、実際には、随伴する倭国の役人にそのことを一言尋ねたら、その人々の服装などの理由はすぐ分かったはずだ。
しかし、文章は、孫権の夷州を持ち出してきて、山海経のような異郷の神仙郷的な雰囲気を醸すものとなっている。
要するに、これから異文化の倭国に入っていくのだという幻想的な旅行記のような体裁を取っているのが分かる。

では、この秦王国とされた場所は、実際にはどこだったのかということになるが、それを割り出すには、秦王国の手前にある「竹斯国」の場所を知る必要がある。
この竹斯国は、筑紫国の音を写したものであるのはほぼ確実だろう。
そして、筑紫国は、博多あたりだと考えるのはなんの不思議もない。
そこで、博多から東へ進んで、次にある大きな国といえば宇佐地方か対岸の安芸地方かという見積もりが立つことになる。

しかし、問題は、この竹斯国(筑紫国)が博多あたりだとする常識が果たして正しいのかということだ。
魏志倭人伝の記述からして、唐津に着いた使節団がまず一時的に逗留して骨休めするのは伊都国だった。
倭人伝の頃からそれ以降も伊都国が使節団のまず最初の一時的な逗留地だったことは間違いないだろう。
そこに滞在して、これからの長旅の打ち合わせや倭国の役人との折衝などを行っただろうことは、想像に難くない。  …次へ続きます

584 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 02:10:22.79 .net
>>583
このように考えると、隋書の「竹斯国」は「筑紫=博多」ではなく、「竹斯=伊都」であったあった可能性が出てくる。
そうであれば、伊都を出て東へ行ったときの次の大きな国は、これは間違いなく博多であり、そこには「筑紫太宰」が置かれていて、そこの役人たちは皆、大陸風の制服を身に着けていただろうから、それまでの唐津や伊都の住民の服装などと大きく異なっていたはずだ。
そして、この筑紫太宰では、使節団一行は間違いなく大歓迎されたはずだ。

なので、この「筑紫太宰」を「秦王国」と文飾し、異文化の倭国の神仙郷へいよいよ入ったぞと山海経的異郷感を醸し、使節団はそのような倭国滞在記の報告書を書いたのだろう。
なお、使節団は九州から海を渡ったことは記していず、ずっと陸続きで十数か国を通過し、やがて海岸(須磨)について、倭国の歓迎使の饗応を受けたことになっているので、関門海峡の渡海で舟に乗ったにしても、それは河を渡るような感覚で物の数に入れなかったのだろう。
この渡海の記事がないことは、秦王国宇佐説の泣き所となっている。
宇佐からだとどうしても瀬戸内海を渡らなければならないから、渡海の記事はなければならないことになるからだ。

このように見てくると、「秦王国==筑紫大宰」説は、相当に信憑性が出てくると思うのだが、どうか。

585 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 03:11:15.20 .net
遣新羅使の航路では宇佐の近くから沿岸沿いに関門海峡に向かっていますね、あと福岡は筑州と豊前に分けられるので伊都も太宰府も築州に含まれると思います。つまり筑州の東の豊前が秦王国だと思います。
https://i.imgur.com/xkXnD5a.jpg

586 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 21:27:24.83 .net
新羅使の渡航を詠んだとする大伴家持の歌には、まったくの大阪湾や瀬戸内海の船旅の情景が詠まれている。
確かに、新羅への渡航は瀬戸内海の渡航を経たのは明白ちゃんだ。
一方、隋の使節団の様子には、そのような潮の香りのする記述はまったくなく、海岸(須磨)についてやっと海辺の香りのする文章になっている。
隋の使節団が陸上の山陽道を利用したことは、明白ちゃんのように思うけどね。

587 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 22:03:04.73 .net
>>586
裴世清は遣隋使船の復路に同乗していただけですよね

588 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 04:52:44.01 .net
>>587
遣唐使が乗った船は、安芸で造ったようだ。
どうして安芸だったのかの理由はいろいろあったと思うけど、安芸から東の岡山までの海域は潮流が速く、また航路も複雑で大型船の航行が難しかったからというのも一つの理由だと思われる。
遣新羅使の場合は大阪から乗ったようなので、これはごく沿岸を進む小型の船に乗ったのだと考えるのが筋。
日本の遣隋使の復船に隋の使節団も同乗したけれど、この遣隋使の船はやはり安芸から東の岡山までは航行は無理だったと考えるのがよいと思う。
また、遣隋使たちは書物や貴重材のほか多くの資材を持ち帰ったはずで、隋の使節団も貴重な貢物を持ってきていたはず。
これらの物資を船の難破によって失う危険は、必ず避けたいことだったと思われる。

そうすると、対馬海峡を渡ったあとは、できるだけ早く船を降りて、運んできた資材も降ろして、それらを安全確実に都まで運ぶのが優先事項だったのではないか。
加えて、隋の使節団自身も安全確実に日本の都まで行く着くことが優先されたと思われる。
わざわざ瀬戸内海の難所を小さな手漕ぎの舟に乗って越える危険を冒す必要はなかったのではないか。
これらの状況は皆、想像の産物でしかないけれど、遣隋使の船で厳しい航路の瀬戸内海を超えたとは考えにくい。

安全第一をモットーとに考えれば、唐津で船を降りて、あとは資材と一緒に陸路を行くのがあるべき姿でしょう。

589 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 06:33:08.21 .net
>>588
もし仮に遣隋使船が瀬戸内海を通れないのなら、住吉津から別の船に乗っていき、博多で遣隋使船に乗換えれば良いだけでは?
それが合理的だと考えます。あとは遣隋使が旧山陽道を歩いたという記載も無いですね。
瀬戸内では縄文時代には、国東半島近く姫島の黒曜石を求める航路が確立されていたと思われます。

590 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 21:44:59.69 .net
皇帝の書簡や貢物、使節団の各種用品などを積みこんで、その他に多数の人員を乗せた小型の手漕ぎ舟が何十隻も連なって、難所の瀬戸内海を安芸から吉備まで通り抜けるというのは、どう考えても無理ではないか。
そのような危険を冒すより、山陽道の陸上を確実に都の手前の饗応所のある海岸(須磨)まで進むのが自然だと思われる。
また、使節団の行程は「経十余国達於海岸」と書かれていて、この文の「経」は「へて(経て)」と訓読みするが、漢字のこの「経」の字は「まっすぐ通過する」意であり、山陽道はおおむね東西に真っすぐに進む経路となっているので、使節団は陸上を通ったとする見方を支持する。
さらに、瀬戸内海を東へ航行する場合は、安芸から吉備の間はかなり曲折する航路となり、「経」の字が当てはまらなくなる。
こうしたことから、使節団一行は陸上を通って海岸(須磨)まで行ったと考えるのが合理的と思われる。

591 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 23:37:57.42 .net
>>590
白村江の戦いの時に難波津から船出した額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 」と詠んでいます。この句が奈良時代には船で瀬戸内海から朝鮮半島に渡っていた証拠になるのではないでしょうか。
ちなみに熟田津は松山辺りだという説があります。

592 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 03:28:58.72 .net
日本の古代には、竜骨を持つ舟はまだなく、刳り貫き式の丸木舟の上に舷側板を張った準構造船と呼ばれるものが普通で、遣唐使船などの外洋船とは異なるものだったようだ。
埴輪などでその構造が推測されている。
この準構造船の場合、中央付近には漕ぎ手が座り、乗客は船首か船尾部分に乗ったようだ。
この準構造船からすると、倭人伝に見える災難除けの「持衰」は、船の船首あたりの狭い部分に乗ったのではないか。
こうした準構造船では船内は漕ぎ手でいっぱいになり、乗客は船首あたりに一人、二人乗ればいいところではなかったか。

斉明天皇は筑紫へ行くために駿河に舟を造らせ、その舟は三重県から川を上って山越えで難波まで運ばれた。
そのあと天皇は筑紫へ船で幸行し、皇女もお供して子供を出産している。
天皇や皇女ほかが山越えできるくらいの構造船に乗ったとして、果たして何名が一艘の船に乗れたか定かでない。
一艘にはごく少数が乗れただけではないか。
岡山や松山などをジグザグ航行しつつ、それでも、筑紫には着いているのだから、準構造船で瀬戸内海を通り抜けたのは事実。
そして、そのあと、天皇が崩御して、喪船は同じく準構造船で難波へ帰る。

こういうことなので、隋の使節団も準構造船で瀬戸内海を渡ることができるのは間違いない。
しかし、その準構造船で使節団が瀬戸内海を通り抜けたとする証拠がない。
斉明天皇の場合は、書紀に船に乗ったと書いてあるのでそれが分かるものの、裴世清ら使節団が「海岸」に着くまで船を用いたとはまったく書かれていないのであるから、まず陸上を輿に乗って貢物とともに移動したと考えるのがよいと思われる。




そうすると、

593 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 05:02:38.36 .net
問題なのは、使節団が着いた「海岸」の解釈だ。
普通、船で航行して着くところは港、津であり、その港の名や港のある街名を挙げるのが常道。
それを「海岸」に着いたとするのは、非常に不自然。
この「海岸」の字句が書かれている文は、「達于海岸(海岸に達す)」となっている。
「海岸」が港名であることは、まずあり得ない。

そこで、「達」の字を見てみると、「達」は「さしさわりなく進む、途中でつかえずにいきつく」とされている。
この「達」の用法では、「浮于済凍、達于河」がみられる。
これは、河を水路として船で行くケースで、「済水から漯水に船を浮かべて、(途中でつかえずにそのまま)黄河に達した」という内容。
「達于河」の前に「浮」の字を置くことで、船による水行であることが分かるようにしてあるもの。
これと同じ用法は、他にもみられる。

そこで、隋書の文章を見ると、「竹斯国、秦王国…経十余国、達於海岸」となっていて、船による水行でもって「海岸」に着いたと分かるような字句が見えない。
中国の史書では壱岐のあとは末盧に着いて、その次は伊都、奴国へと陸行する行程になるのが常なので、隋書の竹斯国から秦王国へも陸行した前提となっていると思う。
そして陸行を続けて十数国を経て、そのまま「海岸」に着くことになる。
秦王国のあと船に乗り十数国を通過して「海岸」に着くということが分かる字句はないので、竹斯国から「海岸」に着くまではずっと陸行だったとするのがよいと思われる。

594 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 05:44:39.24 .net
その論理ならば対馬海峡を渡って竹斯に着いた時に達於海岸と記すのではないかと思いますが。
達於海岸というのは航路の終点と考えるのが自然だと思いますし古代山陽道で向かった場合海岸というのは明石の事となり、
いささか目的地と考えるのは都からは遠いのではないでしょうか。

595 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 07:54:41.92 .net
秦氏は、応神14年(283)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、
百済より百二十県の人を率いて帰化したと 『日本書紀』 に記されている。
秦の人々は、養蚕や機織りの技術を伝え、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着いた。

>>516
>秦氏という姓氏をあたえられ

倭国(阿波)王権からな。
「衣手」は、衣服を織る「手」(職業集団)。
「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」の中には、帰化人系の氏である
「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。   @阿波

596 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 10:03:36.13 .net
>>595
応神14年(283年)でしたら、
卑弥呼の時代とカブりますか?

597 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 10:08:40.68 .net
>>596
私は阿波さんじゃないんですけど、
魏志倭人伝があるから、正確に被っているでしょう。

598 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 21:22:20.49 .net
>>594
確かに明石あたりは、都には遠い。
しかし、隋書の記事ではそれに続く文で「既至彼都(すでにかの都に至る)」と書いている。
「そのあとに倭国の都に至った」という意味なので、明石あたりの「海岸」は都に入る前にしばし逗留する管制の宿泊所がある場所だったことが分かる。

面白いのは、日本書紀の推古天皇紀の文章で、この文章では隋の使節団一行は船で難波津に着岸して、用意されていた宿舎に逗留したことになっている。
そして、そのあと奈良盆地東南部にある朝廷に詣でて、天皇に拝謁して隋皇帝の言葉を伝え皇帝からの書面を差し出したと記されている。
しかし、日本書紀のこのときの天皇は女性の推古天皇であるが、隋書の文章ではタリシホコというの名の男性の王としている。
非常な食い違いがあり、隋書のほうは王の名を挙げているくらいなので信憑性が高い。
そうすると、日本書紀の記述のほうが怪しくなってくる。
使節団は本当に奈良盆地東南部の朝廷で推古天皇に拝謁したのか、ということになる。
そして、その疑義を引っ張って見てみてば、日本書紀が記している使節団一行の難波津着岸よりも、隋書の「海岸」到着のほうが信用しやすくなってくるし、使節団一行がそのあと都に行ったというのもそれは実は奈良盆地東南部の朝廷ではなかった可能性も出てくるわけ。
使節団が会ったとするそのタリシホコ王の都が聖徳太子の四天王寺あたりだったとすれば、明石あたりは使節団の逗留所としてはちょうどよい距離に当たるのではないか。

599 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 23:18:16.49 .net
>>598

万葉集には「難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ」と遣唐使の船出を詠んだ歌がありますがこれが答えだと考えます。
https://i.imgur.com/cVDjgRw.jpg

600 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 00:53:51.74 .net
斉明天皇の一行ですら準構造船で難波から九州博多の間を往復しているのだから、遣唐使が準構造船で難波津から博多まで行き、また帰ってくることは、普通のことだったということになる。
しかし、だからといって、隋の使節団も同じように瀬戸内海を準構造船で渡ったとする根拠にはできない。
あくまで、推測の範囲に留まるものだ。

一方、陸上を明石まで行ったとすれば、宇佐には立ち寄っていないことになる。

601 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 04:16:37.23 .net
小野妹子は隋に向かう途中で病気になりに宇佐に立ち寄っています。これが遣隋使が陸路ではなく航路を使っていた証拠になると思います。

総レス数 1054
397 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200