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秦氏はどこから来たか 4

553 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 17:39:16.11 .net
>>550
ポリネシアやマダガスカルまで航海した者たちが、男だけで舟に乗ったとは考えにくい。
たどりつく島で野垂れ死ぬのがせいぜい。
しかし、彼らは行きつく島で子孫を残しているのだから、男女が舟に乗って渡ったはず。
また、長い航海が予想されるので、舟には飲料水を入れる甕が積まれた。
雨水が飲料水となった。
彼らは土器を携えた者たちだったと考えるのがよい。

このオーストロネシア語族の航海と、一日二日で島を渡り継ぐ対馬の海人の人渡しとは、事情がまったく異なる。
このような対馬の海人の丸木舟による人渡しの実態が理解してもらえたのは、慶賀の至り。

対馬や壱岐の海人の舟で唐津へ渡ったこうした男性の水田稲作農民が、菜畑あたりの縄文人に溶け込んで、
水田を復元し、稲籾を撒いて水稲栽培を始めた彼が、三足鍋を復元したいと思ったかどうかが問題。
毎日の食事は、縄文人の煮炊き甕で造られる食べ物で十分だったとしたら、わざわざ三足鍋を復元する必要性は感じなかっただろう。
後には、無文土器系の煮炊具が造られたし、新たにやってきた男性水稲農民もことさらに三足鍋にこだわる必要はなかったと思われる。
農具も半島系の畑作のものがすでに伝わっていて、それを改良した木製の農具が製作されていたから、それを水田に転用すれば事足りた。
菜畑などの狭く小さい畑地の土は湿り気があり柔らかかったので、広い畑用の重い石鋤を復元する必要はなかっただろう。

まあ、そういう事情だったのじゃないの。
無文土器ですら半島から搬入されたものはごく少ないとされているので、それらは半島の縄文人による交易で持ち込まれたものではないか。
九州の縄文人がそれを見習って、和製の無文土器を製作したのだろう。

こうしたことから導き出せることは、対馬海峡の海運は対馬や壱岐の海人が牛耳っていたということだね。
対馬海峡は、ポリネシアなどの事情とはまったく異なる環境にあったということになるよ。

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