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秦氏はどこから来たか 4
- 588 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 04:52:44.01 .net
- >>587
遣唐使が乗った船は、安芸で造ったようだ。
どうして安芸だったのかの理由はいろいろあったと思うけど、安芸から東の岡山までの海域は潮流が速く、また航路も複雑で大型船の航行が難しかったからというのも一つの理由だと思われる。
遣新羅使の場合は大阪から乗ったようなので、これはごく沿岸を進む小型の船に乗ったのだと考えるのが筋。
日本の遣隋使の復船に隋の使節団も同乗したけれど、この遣隋使の船はやはり安芸から東の岡山までは航行は無理だったと考えるのがよいと思う。
また、遣隋使たちは書物や貴重材のほか多くの資材を持ち帰ったはずで、隋の使節団も貴重な貢物を持ってきていたはず。
これらの物資を船の難破によって失う危険は、必ず避けたいことだったと思われる。
そうすると、対馬海峡を渡ったあとは、できるだけ早く船を降りて、運んできた資材も降ろして、それらを安全確実に都まで運ぶのが優先事項だったのではないか。
加えて、隋の使節団自身も安全確実に日本の都まで行く着くことが優先されたと思われる。
わざわざ瀬戸内海の難所を小さな手漕ぎの舟に乗って越える危険を冒す必要はなかったのではないか。
これらの状況は皆、想像の産物でしかないけれど、遣隋使の船で厳しい航路の瀬戸内海を超えたとは考えにくい。
安全第一をモットーとに考えれば、唐津で船を降りて、あとは資材と一緒に陸路を行くのがあるべき姿でしょう。
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