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秦氏はどこから来たか 4

625 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 03:46:09.11 .net
>>622
天平五年(733年)に難波津から遣唐使船四隻が出発したと続日本紀に書かれていることは、その通り。
一方、650年には安芸で百済船が作られて、これが653年の遣唐使船として用いられたと推定されている。
そして、この百済船が日本で最初の遣唐使船だったと考えられている。
ということは、650年以前には大型外洋船は、日本にはなかったということになる。
そこで、裴世清が来日したのは608年であることを考えれば、裴世清が同乗してきた日本船は準構造船であったことになる。
このように見ると、大型外洋船の遣唐使船は、裴世清のケースでは考えなくてもよいことになる。
また、準構造船であればごく普通に瀬戸内海を行き来できたことは、これまでにも認めてきたところだ。

そうなると、裴世清は日本についてから、準構造船でそのまま瀬戸内海を通って難波津に着いたのかどうかということになる。
日本書紀では、裴世清がどこから出発したのか何も書いていないが、難波津に着いたとは書いている。
しかし、隋書では船で行ったとはどこにも書いていず、ただ「海岸」に着いたとだけ書いている。
そして、日本書紀のこの件についての記述はいささか怪しいとなってくると、本当に裴世清は難波津に着いたのかということも考えなければならなくなる。
隋書の「海岸」とは、いったいどこよ、ということになるわけ。
陸路で着いた「海岸」を明石として、日本書紀の裴世清が難波津に着いたとする記述を信用すれば、明石から準構造船で難波津に渡ったということになるし、信用しなければ裴世清は陸路で難波の宮に行き、そこで聖徳太子を日本の王として拝謁したという可能性も出てくる。

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