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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

758 :日本@名無史さん:2023/07/15(土) 21:16:16.47 .net
それに、西遼河人の言葉の語順はSVOのようだ。
日本語のSOVとは逆構造なので、西遼河人⇒日本人は無理無理だな。

759 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:18:12.79 .net
秦氏の「トーテム」は、ヤハウェだよ。

760 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:30:12.15 .net
景教(ネストリウス派)が中国に入って来たのは、唐の時代だそうじゃないか。
秦氏が日本に来たのは4世紀後半とされるから、秦氏が景教だったということはまずないよね。
やっぱ、ユダヤ教だろう。

761 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 07:25:46.64 .net
はたと困ったユダヤ人種
いつの時代も迫害される

762 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 13:17:02.21 .net
ユダヤ教徒というのは、世界で最も人種混交が進んだ宗教集団だろうな。
その宗教集団の中で、元々の種族であったヘブライ人のDNAの割合は極限的に少ないのではあるまいか。
人種を超えた宗教だとは言えるな。

763 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 17:25:20.91 .net
秦氏の先祖の弓月君はそうした人種の坩堝であるユダヤ教徒の中でもギリシャ系商人の改宗ユダヤ教徒の子孫で、応神天皇の頃には西域のホータンで交易商をしていた人物だと思うよ。

764 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 18:50:30.03 .net
ホータンのあたりは、4世紀末頃までトルコ語が主流だったから、そのホータンを脱出して日本に渡った弓月君もトルコ語話者だったとするのがよい。
なので、トルコ語で合理的に秦氏ゆかりの日本の地名が解ける。
例えば、筑紫(チクシ)を挙げることができる。
トルコ語では、cikis(チクシ)は「出口」。
太秦から半島などへ渡る位置にある筑紫は、秦氏からすれば「出口」に当たる立地だったということだろうね。
その秦氏のトルコ語が、朝廷の公用語として取り入れられ、そのチクシに漢字の筑紫を当てたというのが実際の歴史だよ。

765 :日本@名無史さん:2023/07/20(木) 00:49:54.46 .net
>>764
訂正
10行目のトルコ語は、トルコ語の語彙が正しく、朝廷の公用語は朝廷の公用語彙が正しい。

766 :日本@名無史さん:2023/07/20(木) 22:16:33.54 .net
>>17
アヂスキタカヒコネだろうか?

767 :日本@名無史さん:2023/07/22(土) 14:08:51.91 .net
残念です、秦氏自身が自分たちを漢人であると大和朝廷に申告しております。
朝鮮半島にユダヤ人がいた記録も形跡もありませんよね。

768 :日本@名無史さん:2023/07/22(土) 15:06:45.16 .net
天皇自身が火葬にしろと言いだしたりしてる
ユダヤなら火葬しないよな

769 :日本@名無史さん:2023/08/07(月) 18:16:16.05 .net
秦氏が始皇帝の血脈だとする系譜を作ったのは、後漢霊帝の血脈だとする東漢氏に張り合ったためだろう。
始皇帝を選んだのは漢王朝よりも古い初めての統一王朝だったことと、始皇帝の家系が西域系にルーツがあると見られたことも関係したのではないか。
秦氏は、始祖の弓月君が西域のホータンから来たことを暗にほのめかしたのかも知れんし。

770 :日本@名無史さん:2023/08/07(月) 18:31:44.00 .net
秦氏のトルコ語からすると、筑紫(チクシ)はcikis(チクシ=出口)由来。
壱岐(イキ)は、トルコ語のiki(イキ=数詞の2)由来。
壱岐は半島から見ると2番目の島だからね。

秦氏がトルコ語話者だった可能性は、極めて高いんよ。

771 :日本@名無史さん:2023/08/09(水) 20:56:47.76 .net
秦酒君は実在した可能性が高い。
ユダヤ教徒集団が入植したとみられる埼玉の行田にある稲荷山古墳出土の鉄剣銘に、オワケの祖父の名がハテヒと刻まれていて、これをトルコ語で見ると、トルコ語のhatir(ハテシ=酒)と発音がよく似ている。
そうすると、オワケの祖父が「酒」の名であった可能性が高く、そして酒の名を持つのは太秦の秦氏の酒君なのだから、オワケは秦酒君の孫ということになってくる。
このことからすると、太秦の秦氏の当主の酒君の子が埼玉の行田に入植して地盤を築き、その子のオワケが雄略に仕えて杖刀人のリーダーを務めたということになる。
つまり、その杖刀人を率いたオワケのバックには、太秦の秦氏がいたということだろう。
そして、この杖刀人は継体天皇にも仕えていたことが継体陵の埴輪から分かる。
秦氏の仕事は、殖産だけではなかったということだな。

772 :日本@名無史さん:2023/08/18(金) 07:42:14.92 .net
ウイグル・アルタイ系の氏族豪族が渡来してきても日本の言語に影響与えたのは秦氏じゃないだろ
遅すぎる

773 :日本@名無史さん:2023/08/18(金) 07:43:38.10 .net
筑紫・壱岐と秦氏が関係ない そこらへんで支配階級は別にいた
ホータン野郎は無茶苦茶な理屈を振り回すな

774 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 02:17:02.16 .net
>>773
そこらへんの地域支配者がいくらがんばっても、お上が「そこはチクシ(筑紫)や」と言えば公的にはチクシ(筑紫)になる。
そして、そのチクシ(筑紫=出口)の名を最初に言い出したのが秦氏で、その大豪族の秦氏の命名が公的呼称となったわけ。
この真実に反論するのなら、キミのチクシ(筑紫)の語源説を述べてみたまえ。
噴飯ものの語源説を開陳するんじゃないぞ。

775 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:05:59.30 .net
5~7世紀ごろの価値観だと新羅は倭にとって後進地域なんだよ
倭の五王時代は倭王は新羅の管理も中国皇帝から正式に任されてたし、倭国の下という認識が強かった

だから新羅出身の渡来人は見下されることを恐れて「新羅出身だ」とは言わなかった

今でいうフィリピン人が聞いてもないのに「私はスペイン系」とか言うようなもの

秦氏や東漢氏なんかがそれよ
両氏とも間違いなく新羅渡来だけど
本人たちは「うちは秦の始皇帝の由来で」とか「漢帝国の由来で」とか自称して出自を粉飾しただけ

776 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:09:22.30 .net
高句麗が仏教受容するのは374年
百済の仏教受容は387年とか言われてる

新羅の仏教受容は527年で倭国が538年

つまりこれって、倭国がいつのまにか最後進国になってたってことよ

777 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:14:16.19 .net
百済と新羅の仏教受容にも150年の差がある

むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな

新羅が仏教受容した割とすぐに倭国も仏教受容してるのを見るに

「ついに拒絶しきれなくなった」という面が強い

倭国は仏教の存在自体はずっと知ってて、それを150年拒絶してたってことよ普通に考えるとね

百済と国際交流しながら仏教の存在を知らないはずがない

778 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:23:24.17 .net
>むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな

元々、秦韓とも呼ばれて秦人、韓人が多く大陸系の血が濃厚な新羅に島国からそんな縛りができたのだろうか?

779 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:26:00.63 .net
>>774

秦氏がいつ渡ってきたと思ってんだ?

筑紫国造は阿部氏で四道将軍の子孫 後発の秦氏など一ミリも関係ない

780 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:28:02.44 .net
>>778
倭の五王時代長く倭王は新羅の諸軍事に任官されてる

781 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:36:01.13 .net
>3世紀に編纂された魏志倭人伝によれば、筑紫島の玄界灘側には、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などの国があり、伊都国には一大率などの検問機関がおかれ、邪馬台国の国と帯方郡のあいだの貿易港として栄えていた。
伊都国、奴国の支配者層はともに数百年後に渡ってくる秦氏とは一ミリも関係がない

782 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:50:28.72 .net
倭王珍から倭王武まで60年くらいにわたって新羅は倭国に服属してる

527年に磐井の乱があり、同年に新羅は仏教を受容してる

磐井の乱は間違いなく新羅の倭国からの独立戦争だろう

783 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:53:00.87 .net
その後倭国は任那にも離反を許してる

そして同時期に蘇我氏や秦氏という渡来系氏族が倭国で勢力を振るうようになる

任那からの引き上げ倭人か、あるいは亡命新羅人、逃亡した任那旧王族などだろう

784 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:54:31.87 .net
それら氏族は「逃亡新羅人」とは名乗らず「三韓征伐の武内宿禰の子孫」や「新羅には一時的に滞在していただけで出自は秦の始皇帝だ」などあることないこと言って家系を箔付けしたんだろう

785 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 18:00:03.59 .net
あるいは「三韓征伐の応神天皇の子孫」を名乗った継体天皇もそうだったかもしれない

「越前から迎えた」「近江から迎えた」というのは叙述トリックであって
本来は近江、越前から船を出して任那に迎えに行ったのだろう

786 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 18:00:55.48 .net
「越前から船を出して任那に迎えに行った」を「越前から迎えた」と書いてもギリギリ嘘ではない

787 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 20:13:17.38 .net
最近YouTubeにドップリだという親父が秦氏はユダヤか中央アジアから来たとか言い出したんだが
お前らの仕業か?

788 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 22:31:43.41 .net
つべにドップリって自分で書いてるのをもう忘れてらぁ

789 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 22:47:23.47 .net
>>788
トンデモ野郎が単一のプラットフォームに留まっているとは限るまい
ったくよお、責任感じろよ、ムー信者は

790 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:07:21.42 .net
秦氏は新羅が出自だから

倭が百済と同盟強化し対新羅の姿勢を徐々に強くするに従い倭国中枢からは遠ざけられた

791 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:37:01.45 .net
だから半島にユダヤ系がいたなんて記録は魏志韓人伝だろうがどこにも記録がないけえよ

大陸政府は植民地の漢四郡漢四郡(かんのしぐん)が半島に、前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡があったこと忘れてるんじゃないか
夢を見てるんじゃないよ妄想で。

792 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:43:07.62 .net
>>784
そもそも新羅の成り立ちや王族の出自時代がはっきりしないんだから、倭国から独立とか珍説言われても
まったく説得力ないな

新羅が倭国の勢力圏だったなんてどこに書いてあるのか

793 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:47:16.62 .net
倭の五王のうち4人は中国皇帝から新羅諸軍事に任ぜられてるだろ

何の実態もないのにそんな役職に任じたりしない

794 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:48:50.37 .net
倭と新羅の関係は日本書紀では意図的に隠されてると思うよ

白村江で新羅は敵国になったから、それ以前の歴史についても蔑視の視点で描いてる

795 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:49:45.56 .net
新羅の王冠は翡翠の勾玉が使われてるんだから宗教的にも倭国の影響下にあったはず

じゃなきゃ勾玉の形にわざわざ加工しないでしょ

796 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 09:51:04.28 .net
ちなみに勾玉は北斗七星の形を模していて、北斗七星といえば海人族が方角を探すために使う星だね

アメノミナカツヌシとして神格化もされてるが、元は海人族にゆかりがある

797 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 12:02:19.55 .net
>>795,796
是非はともかくとして聞いたことない話だなそれは
ここの板にはよくあることだけど思いつきの説を通説っぽく語るのは控えて欲しい
混乱する

798 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 12:41:07.59 .net
秦氏のせっクス動画 https://www.youtube.com/watch?v=UF_o_xrXeEk&t=76s

799 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 01:26:48.41 .net
>>797
新羅の王冠に勾玉が取り付けられているのは事実だよ。
ただ、この勾玉は倭王権からの贈与品、あるいは交易の対価品と考えられている。

800 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 01:32:39.97 .net
>>790
有名学者が新羅の石碑に「波旦(ハタン)」の文字をみつけて、波旦(ハタン)=秦(ハタ)だと唱えたが、今ではまともに扱われていないよ。

801 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 01:42:47.90 .net
>>787
あの馬面の先生のご高説にハマったんだろう。
ヤマトウは、確か、地図では野馬渡の表記で、馬を渡河させる渡し場という意味だ。
その渡し場の地名を邪馬台(ヤマト)の淵源と考えて、邪馬台国の名は西域に源があるという説も唱えていたような。
まあ、西域起源はロマンがあるからな。

802 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 01:53:04.25 .net
>>774
第一、魏略や魏志倭人伝に「筑紫(チクシ)」なんて出てこんしな。
3世紀前半に倭国にチクシの地名があったのなら、当然、倭人伝なんかに出てくるはず。
しかし、どこにもチクシのかけらもないから、その時代にチクシはなかったということなんよ。

803 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 06:11:35.14 .net
なるほどマキムクも出てこないな。

804 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 14:14:05.63 .net
出てこない。

805 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 20:55:27.62 .net
日本書紀には百済から来たと書いてある
文化面では新羅要素が強い?
一体何が

806 :日本@名無史さん:2023/08/22(火) 14:13:41.01 .net
秦氏と新羅につながりがあるのではないかする説がみられるが、そのつながりを示唆する最も大きなものは聖徳太子から管理をまかされた新羅仏だ。
秦氏が新羅出身とみられる理由である。
しかし、秦氏は外国の宗教関連や異教を監督する職掌についていたフシがみられることからすると、この新羅仏の管理は単にそうした職掌によるものであり、秦氏自身と新羅のつながりを示唆するものではなくなる。
秦氏は、静岡で発生した異教が都まで進出してきたときに、この異教の指導者を打っている。
なぜ秦氏がその異教を排除したのかと考えれば、秦氏がそうした異教などの宗教関連の監督をする立場にあったからとすれば、その謎は解ける。
これは、物部氏が刀剣などの武器を管理する職掌についていて、百済王から倭王に贈られた七支刀を管理して、自らの祭祀にも用いていたのと同じことである。
こうした観点からすると、秦氏が聖徳太子から新羅仏の管理を任されたのは、秦氏が新羅出身であったためではなく、そうした職掌にあったためということにすぎないと言えるのではないか。

807 :日本@名無史さん:2023/08/22(火) 14:26:38.62 .net
なるほどそれは納得感のある説だな

808 :日本@名無史さん:2023/08/22(火) 21:11:10.78 .net
>>806
ほな百済かぁ

809 :日本@名無史さん:2023/08/24(木) 10:54:24.24 .net
成長痛みたいなもの

810 :日本@名無史さん:2023/08/24(木) 17:21:09.91 .net
新撰姓氏録みたら、百済や新羅、高麗出自の氏族がかなりいるな。
秦氏が百済の出自だったら、百済の王族の後裔やと書いてるのとちがうかなあ。

811 :日本@名無史さん:2023/08/24(木) 22:49:03.79 .net
まあ、ここらで、秦氏はホータンからやって来たということで手打とうや。

812 :日本@名無史さん:2023/08/26(土) 17:08:54.74 .net
ホータン→ホタ→ハタ。

813 :日本@名無史さん:2023/08/26(土) 17:21:45.69 .net
ホータン→ホタ→ハタ。
このホタが、秦氏系図の浦東(ホト)に当たる。
なので、ハタとは、ホータンから来ましたと表明している名なのよ。
弓月君は、おそらく、ホータンの交易商人だったのだろう。

イラン系の部族が4世紀後半頃にホータンを襲撃してトルコ系住民と入れ替わったときに脱出して、ユダヤ教の口伝にある海のそばの国を目指したということだろう。
ただ、ユダヤ教徒だからと言って、ハタ氏がDNA上のユダヤ人だったとは言い切れない。
ユダヤ教への改宗者だった可能性もあるからだ。
ユダヤ教は古代には、キリスト教とイスラム教のいずれにも属さない中立の宗教として扱われたため、キリスト教とイスラム教の闘争の域外に立てたことから、ユダヤ教への改宗者が多かったのだ。
ハタ氏のDNA上のハプロはギリシャ系だったと思うよ。

814 :日本@名無史さん:2023/08/26(土) 20:12:53.60 .net
七星剣が高知県四万十市(旧幡多国)から発見されている。しかも珍しい諸刃の剣だ。

815 :日本@名無史さん:2023/08/26(土) 23:38:05.72 .net
幡多郡は、古くは播多郡と書いたようだ。
播(ハ・ハン)は「種を播く」の「播(ま)く」意だから、播(ハ・ハン)は田のことではないか。
なので、播多は、田んぼが多い地方という意味だろう。
秦氏とは無関係では。
そのような幡多郡の土地に北斗七星を象嵌した珍しい鉄剣があることは謎と言えるが、それと秦氏は関係ないのとちゃうかな。

816 :日本@名無史さん:2023/08/27(日) 16:36:56.42 .net
トルコ系が渡来してたとしても秦氏であるはずがないからw

817 :日本@名無史さん:2023/08/27(日) 20:52:27.59 .net
そこが浅はか、近視眼。
秦氏はトルコ語話していて、その当時のトルコ語東端限界線は西域にあるので、秦氏ホータン出自説はまるまるセーフ。

818 :日本@名無史さん:2023/08/28(月) 01:35:32.73 .net
誰も読まねえトンデモ古代史ブログでもやってろ統失

819 :日本@名無史さん:2023/08/28(月) 02:30:15.03 .net
ワイの古代史ブログは、ためになるでぇ。

820 :日本@名無史さん:2023/08/28(月) 16:21:51.43 .net
>>817 どこにもそんあ記録がないのでね妄想か

821 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 02:39:39.10 .net
>>820
もちろん、そんな文献があれば、クローせんよ。
しかし、秦氏の周りには、トルコ語でみごとに解ける言葉が多すぎる。
秦氏の最初の拠点は京都の深草だが、ここに秦氏の神体山とされる稲荷山がある。
この稲荷山(イナリヤマ)の元々の発音は、イニイヤマだったと思われる。
山城国風土記では、稲生(イニイ)と読める逸話が乗せられている。
今の発音ではイナイ(稲生)だが、イネ(稲)は方言的にはイニ(稲)もOKだろう。
このイニイ(稲生)がイナイと訛り、それがさらにイナニと訛ったころに稲荷の字が当てられ、これが最後にイナリ(稲荷)へと変化したことが考えられる。

そして、この最初のイニイ(稲生)が秦氏と関りがあり、山城国風土記では、秦氏の長が餅を弓の的にして矢を射たところ、この餅が山の上まで飛んで行き、その餅から稲が生じ、やがてそこに神社が建てられたとするものだ。
これが稲荷山であり、稲荷大社の起源譚だ。
なので、最初のイニイ(稲生)が問題になる。

そこで、このイニイ(稲生)をトルコ語のよく似た発音の言葉と重ねてみると、

イニイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=着陸

となる。
イニイとイニシは、ほとんど同じ発音だ。
で、その山に何が着陸したのかというと、秦氏がユダヤ教徒だったという説にからめると、出エジプト記のハイライトの一つで山に関連することと言えばシナイ山である。
シナイ山では、神からモーゼに十戒の石版が降ろされる。
つまり、この十戒の石版が降ろされたことを表しているのがトルコ語のイニシ(着陸)であり、そのイニシ(着陸)を山の名としたところ、それが訛ったのがイニイ(稲生)、イナイ(稲生)であり、やがてイナリ(稲荷)へと変わったことは先に述べた。

要するに、秦氏の神体山の稲荷山は、シナイ山を模したものという説が可能になるわけよ。
奇しくも、イナイ山(稲生山)とシナイ山の発音はよく似ているから、秦氏にとっては予期せぬ訛り方だったということだろう。

いずれにしても、秦氏の周りには、トルコ語の語彙を当てると、意味がよく理解できる言葉が多々あるということだな。

822 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 11:38:40.21 .net
奈良時代に役人登用される程のイラン人がその子孫が居たのはどんな理由が考えられる?
当時イスラム科学が発達して存在感を示す前の事だよな
なぜ日本に?経緯はまだ明らかにされていないがどんな繋がりが?

823 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 13:43:52.32 .net
帰国した遣唐使が一緒に来た唐人3人と波斯人1人とともに天皇に拝謁したことが、続日本紀に出ているらしい。
このペルシャ人本人かその子が、くだんのペルシャ人ではないかとされているな。
また、持統天皇の頃にはゾロアスター教が伝えられていたらしいので、その関連も考えると、ペルシャ人の来朝はあり得るよ。
ちなみに、ペルシャ語の「緑」を表す語は、sabz(サブ)だ。
このsabz(サブ=緑)は日本語のサビ(錆、緑青)の語源だから、飛鳥や奈良時代の前にすでにペルシャ語の語彙が入って来ていた。

824 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 15:59:58.40 .net
>>823
なるほどな、ありがとう

825 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 17:51:30.27 .net
サビの語源がペルシャ語とか初めて聞いたなぁ

826 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 18:13:14.09 .net
現代ペルシャ語でsabzを発音しているものを見たが、
発音は「サブズ」で三文字、主に別な単語と組み合わせて使われている印象だったな
まぁでもペルシャ語起源説は面白いね

827 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 19:24:47.81 .net
イラン人?ユダヤ人?トルコ人?
はっきりしろよw

蚕を飼って機織りして献上、米作して米酒造りや餅作りとか・・・
やってることからして秦氏はどう考えても漢人系ですわね。ユダヤかトルコかしらんが秦氏以外で見つけろよ。

隋が使者として送った官僚も隋書によると
「「其人同於華夏(その人(秦王国の人たち)は中国文化とまったく同じであった」と述べているのです。
この記述は信用できます。
日本書紀には、畿内に(隋の)使者が来た、との記載があるので秦氏と同族の話でしょ。

828 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 23:55:05.07 .net
>>827
中国が移出を禁止していた蚕と桑が外国に流出したのは、次のような理由だとする逸話があるそうだ。
ホータンの王が蚕と桑の種子を求めて中国にかけあったが中国に断られたため、花嫁を中国求め、その花嫁の娘が頭飾りの中に蚕と桑の種子を隠して国境を越え、やがてホータンは極上の絹織物を輸出するようになったというもの。
このようにホータンは絹織物で有名だった。
そのホータンから日本にやって来た秦氏が上質の絹織物を生産したのは、ホータンにこのような逸話と実績があることからして、ごくごくもっともなことだといえるけどね。

829 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 01:33:57.21 .net
このように秦氏関連のスレは毎回最終的に基地外が出来の悪い妄説を垂れ流す場になります

830 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 07:41:54.27 .net
>ホータンから日本にやって来た秦氏

秦氏は半島経由で来たってのは確かなので、ホータンから半島に流入した集団がいたなんて記録や遺跡が見つかってればまだ信憑性あったのにね。

大陸政府の植民地が幾つもあって韓伝などに記録もない、おかしいよ。

831 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 15:18:22.95 .net
秦氏がユダヤ教徒でトルコ語話者であったのは、数々の事例から明らか。
当時、ユダヤ教徒とトルコ語の二つのアイテムが重なるのは中国の西域。
これに、秦氏系図の弓月君の子の浦東君の発音のホトゥがホータンと重なることやその浦東の発音のホトゥがハタ(秦)に近いことを合わせると、秦氏のホータン出自はほぼ間違いないね。

832 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 18:50:07.40 .net
功満王は?

833 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 18:53:46.48 .net
>秦氏がユダヤ教徒でトルコ語話者であったのは、数々の事例から明らか。

どこが?w 
朝廷に秦氏の代表は自分たちを漢人だと申告している、周囲には渡来系氏族は山ほどいて誤魔化しなんかできないよ
隋の官吏も秦王国は華夏と同じ文化だと記録している

オタクの主張とは全く異なりますな
見つかっている秦氏の古墳もユダヤ系の特徴はどこにあるんですか?

834 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 19:44:02.48 .net
『日本書紀』によると弓月君は百済の120県(=市)の人民を率いて帰化したとある。

そんなユダヤ系の集団がいたら記録に残ってる ユダヤ系なら金細工師なんかも連れてきてるはず

835 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 20:10:53.76 .net
>>832
あれは、東漢氏が後漢霊帝の子孫だと胸張ったことに対抗して、わしらは始皇帝の血脈だからと胸張り返しただけの捏造。

836 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 20:28:04.16 .net
>>833
これまでに、ユダヤ教徒が墓に何かそれらしいものを副葬したという例はあったかなあ。

837 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 20:40:39.36 .net
弓月(クタラ)

838 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 20:40:54.08 .net
>>834
弓月君が120県の民を率いて渡来したと書紀が書いていることは事実だけど、その書かれていることが事実を反映しているかどうかはまた別。
120県もの人数を引き連れて国を出たとなれば、大騒動になる。
国の富をごっそり持ち出すわけだから、無事に国を出れたかどうかあやしい。
この120県の人数というのは、書紀編纂室の脚色だろう。
つまり、秦氏が自分に所属する人民が各地に分散さされているので、自分のもとに再度まとめたいと申告して許されるわけだが、その人民はそもそもから自分のもとに所属する者たちだったから正当なのだと理由付けするための脚色なのよ。
弓月君がそんな大人数の者を引き連れて渡来してきたということは、なかったと思う。
秦氏が各種の職人たちを多数抱えるようになるのは、あとのことだろうね。
大陸や半島などから腕のいい職人を引き抜いて渡来させたということだよ。

839 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 20:51:09.33 .net
>>837
月は、韓国語ではdal(タイ)だからね。
タラではありまへん。

840 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 21:06:48.26 .net
馬韓のことを
ペクチェと言わずにクダラというのは弓月(クタラ)由来の呼称なのだな

841 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 23:44:13.60 .net
馬韓地方に居陀(クダ)という名の地域があって、この居陀(クダ)に城壁を表す羅(ラ)を加えたのが居陀羅(クダラ)。
日本では、その居陀羅(クダラ)でもって百済(ぺクチェ)の字の読みとしたとする説が最も有力。

842 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 02:41:01.34 ID:GjWkgbW7r
まあ、百済から来たというのは、百済を通ってきましたということでいいんじゃないの。

843 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 03:30:01.65 ID:WoR10wG+h
深草の秦氏の神体山の稲荷山の元々の名はイニイ(稲生)山で、これはシナイ山に擬した山だったようだ。
シナイ山は、ユダヤ教の神がモーゼに十戒の石版を降ろしたところ。
そうなると、太秦の秦氏が神体山とした松尾山が、非常に注目されることになる。
モーゼがイスラエルの民を率いてエジプトを出る前夜、彼らは簡易的に作った種無しパンを食べるのであるが、このパンの名がマッツオだ。
マッツオはユダヤ教では極めて重要なパンであり、祭りのときには必ずこのマッツオを食べる。
このマッツオと松尾山の松尾(マツオ)の発音は、ほとんど同じなのだ。
太秦の秦氏が神体山とした山の名がユダヤ教の祭日に食べるパンの名と同じというのは、これは偶然ではないと考えるのが普通だ。

秦氏関連の地名、山名などがユダヤ教の出エジプト記の逸話と被ることが多いのは、秦氏がユダヤ教徒だったことを示唆しているのだよ。

844 :日本@名無史さん:2023/08/31(木) 08:12:31.85 .net
>>838 都合よく記録されている話を捻じ曲げるのは感心しないな 一気に信用を失うよ
日本側はわざわざ半島まで豪族と軍隊を派遣して秦氏が渡来しやすく環境を整えてるんだぞ


>120県もの人数を引き連れて国を出たとなれば、大騒動になる。
国の富をごっそり持ち出すわけだから、無事に国を出れたかどうかあやしい。

国の富?
どこの国の話をしてるんですか

845 :日本@名無史さん:2023/08/31(木) 08:21:22.50 .net
>この120県の人数というのは、書紀編纂室の脚色だろう

そろそろ妄想癖のオッサンが勝手なこと書いてるだけかと疑いたくなるんだが? 
日本書紀の編纂に秦氏は関わっていないし、位も低い秦氏のために脚色する理由がないだろ

846 :日本@名無史さん:2023/08/31(木) 08:23:31.41 .net
>>840 >>841 秦氏とは何の関係もないな 何を混同してるんだ

847 :日本@名無史さん:2023/08/31(木) 15:27:55.23 .net
>>844
日本では、人民を「大御宝(おおみたから)」と言ったよね。
古代では、人手が宝だったわけ。
その宝である120県もの人民がごっそり移住してしまうとなれば、秦氏がいたというその百済の国主にとっては大きな痛手になる。
国の富の元手が失われるわけだからね。
当然、百済の国主は、秦氏を逮捕して、その120県の人民を百済に留めておくことになるのは、当然。
かのエジプトでは、モーゼがイスラエルの人民を率いてエジプトを脱出するや、王はこれを追撃して人民を引き戻そうとした。
これが、常識なのよ。
そうしたなか、百済から秦氏が120県の人民を連れ出すのを、百済の王がただ見ていたということにはならない。
しかし、書紀では百済王はただ見ていたということになる書き方をしているね。
それは、そういう脚色だからなのよ。
現実無視も甚だしい。
そこで、ではなぜ、書紀はそんなことを書いたのかと考えなければならない。
秦氏が大勢の人民を囲い込むことになったのを正当化するために、元々から120県の民を率いて渡来してきたのだと理由付けたわけよ。
その脚色のために、新羅が百済の調をかすめ取ったという出来事をモデルにして、新羅が秦氏の人民の渡来を邪魔したと書いたということ。
その民を救出に行った葛城襲津彦とその軍勢が3年もの間、何の成果もなく音信不通になったなどということは、信じがたいこと。
秦氏が率いた120県の人民の渡来というのは、そういう書紀編纂室による脚色だと思うよ。

848 :日本@名無史さん:2023/08/31(木) 15:37:06.53 .net
>>844
秦氏は、今でいえば、大財閥の当主なのよ。
書紀に多数の豪族の先祖の物語が書き込まれているのと同じように、最大の渡来系豪族だった秦氏の物語が秦氏の意向に沿った形で挿入されたと考えるのはごく普通に当然のこと。
大財閥の秦氏の影響力を過小評価してはいけないね。

849 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 03:56:55.17 .net
まあ、中国の史書に弓月道という地方名が出てくる。
唐代には全国を十道に分け、のちには十五道としたことからして、弓月道の道はその道のことだと思われる。
そして、この弓月道は西域地方を指すらしいから、日本書紀が記す弓月君とはいわば西域から来た人ということになりそうだ。
どうしても、秦氏の出自は中国西域に関連してくるね。

850 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 04:14:08.01 .net
>>848
この弓月道の言葉が出てくるのは資治通鑑で、その中に「力為弓月道行軍総管(力を弓月道行軍総管と為し)」という文章がある。
西突厥を討伐するために軍を派遣したことを記述しているもの。
総管は、司令官のこと。
弓月城という地名も現在の地図の新彊ウイグル自治区にあるらしいから、弓月道が西域地方を指す言葉だったのはまず間違いないだろうね。

851 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 04:42:05.06 .net
>>850
訂正
資治通鑑の文章は「(梁建方と契苾何力の大将軍を)為弓月道行軍総管」が正しい。

852 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 10:56:32.62 .net
>>848
財閥じゃないな 軍隊つきの豪族だよ 養蚕してたのも漢人系なら不思議ではない

853 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 22:21:47.61 ID:bQ3gd0NwM
深草の秦大津父は馬の隊商を組んで伊勢(四日市あたりか)へ商いに行っている。
これをみると、秦氏は豪商でもあるし。

854 :日本@名無史さん:2023/09/03(日) 13:50:02.69 ID:waCJM0U7A
蚕(かいこ)は、漢語ではザン。
蚕(ザン)は、養蚕(ヨウザン)と用いる。
一方、モンゴル語では、蚕はtorgo khorkhi(トルゴ・コルコイ=シルク・昆虫)。
キルギス語は、jibek kurtu(ジベク・クルトゥ=シルク・虫)。
カザフ語は、jibek qurti(ジベク・クルティ=シルク・虫)。

これをみると、日本語の蚕(カイコ)は飼う+コの構成であるので、この「コ」はトルコ語系のkur(クル=虫)、モンゴル語系のkhor(コル=昆虫)に由来するコ(虫)であることが分かる。
このことから、日本の蚕(かいこ)は中国由来ではなく、西域由来であると見るのが妥当。
とすれば、この蚕(かいこ)は、西域出身の秦氏がもたらした可能性が出てくる。

855 :日本@名無史さん:2023/09/03(日) 13:50:46.59 ID:waCJM0U7A
蚕(かいこ)は、漢語ではザン。
蚕(ザン)は、養蚕(ヨウザン)と用いる。
一方、モンゴル語では、蚕はtorgo khorkhi(トルゴ・コルコイ=シルク・昆虫)。
キルギス語は、jibek kurtu(ジベク・クルトゥ=シルク・虫)。
カザフ語は、jibek qurti(ジベク・クルティ=シルク・虫)。

これをみると、日本語の蚕(カイコ)は飼う+コの構成であるので、この「コ」はトルコ語系のkur(クル=虫)、モンゴル語系のkhor(コル=昆虫)に由来するコ(虫)であることが分かる。
このことから、日本の蚕(かいこ)は中国由来ではなく、西域由来であると見るのが妥当。
とすれば、この蚕(かいこ)は、西域出身の秦氏がもたらした可能性が出てくる。

856 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 22:33:55.37 .net
深草の秦大津父は、馬の隊商を組んで伊勢(四日市あたりか)へ商いに行っている。
豪商でもあるし。

857 :日本@名無史さん:2023/09/03(日) 14:12:36.15 .net
>>852
蚕(カイコ)は、中国語では蚕(ザン)。
熟語としては、養蚕(ヨウザン)がある。
一方、日本語の蚕(カイコ)は「飼う+コ(蚕)」の構成であるので、このコ(蚕)は中国語の蚕(ザン)とは関係ないことが理解できる。
では、この日本語のコ(蚕)は、どこから来たか。
蚕はモンゴル語ではtorgo khorkhoi(トルゴ=シルク・コルコイ=昆虫)、キルギス語ではjibek kurtu(ジベク=シルク・クルトゥ=虫)、カザフ語ではjibek qurti(ジベク=シルク・クルティ=虫)であり、虫を表すモンゴル語やトルコ語系のkhor(コル)やkurutu(クルトゥ)と日本語のコ(蚕)と発音、語義が重なる。
これを見ると、日本語の蚕(カイコ)のコ(蚕)は中国由来ではなく、むしろ西域由来であることが想定できる。
なので、蚕(カイコ)を日本にもたらしたのは西域出身の秦氏だ、と断定してもいいくらいだね。

858 :日本@名無史さん:2023/09/03(日) 14:22:50.09 .net
ハタ(秦)氏は、西域のホータン出身だね。
ホータンのホタが訛ってハタ(秦)になった。
これで、決まりだよ。

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