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秦氏はどこから来たか 4
- 987 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 23:38:20.18 .net
- >>978
讃が朝貢して大将軍の肩書を求めたのは、宋太祖の元嘉年(425年)。
この時の奏上文に新羅と秦韓がみえる。
新羅と秦韓が別の国のように記してあるのが分かる。
これは、どういうことかと考えれば、次のように解釈できる。
元々、辰韓と呼ばれた部族連合体の中で、斯盧国が力をつけて新羅と名乗るようになる。
この時点では、新羅は他の部族をまだ吸収併合できていず、それらの部族連合は辰韓諸国ではなく便宜的に秦韓諸国とよばれるようなずらした書き方となったと思われる。
これは百済も同じで、百済は大きくなったものの、馬韓諸国をまだ吸収併合できていない状況だったため、それらの部族連合は馬韓諸国ではなく慕韓諸国とずらした書き方がなされたと思われる。
このように見ることが可能であれば、秦韓は便宜的な呼称だったということになる。
たぶん、これが宋書倭国伝の讃の奏上文の実態だろう。
つまり、この時点では、辰韓はすでになくなっていて、新羅と秦韓諸国に分れていたということが言えるだろう。
ということは、辰韓と秦韓は同じではなかったということだな。
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