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会津プロパガンダ29

1 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:46:42 .net
脱会津プロパガンダ
会津の嘘に騙されるな

スレ埋めて潰すしか能がない
会津プロパガンダ洗脳者の見苦しさを見よ
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/history/1596427259/

2 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:47:31 .net
搾取の会津

会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。

「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)

以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。

3 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:47:49 .net
金を貪る会津

既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた

(小千谷市史下・越後歴史考)

4 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:48:05 .net
恫喝の会津

会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)

遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は
終わった模様である。

5 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:48:22 .net
略奪の会津

越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。

しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。

旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)

6 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:48:50 .net
味方の町民に捕まる会津兵

組織だった徴発だけではなく
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。

初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)

7 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:49:05 .net
乱暴する会津

武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)

8 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:49:22 .net
蛮行三昧の会津一味

越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)

新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。

9 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:49:40 .net
信頼を取り戻せないくらい酷い会津

かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)

10 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:49:54 .net
減税しても人足を徴発して信用を失う会津

また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)

11 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:50:11 .net
笑われる会津

会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが喜んだ。」
(新津市史通史編下巻)

12 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:50:27 .net
大金を脅し取る会津

会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。
(新潟市史通史編3)

13 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:51:05 .net
味方の参謀から嫌われる会津


米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)

これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。

14 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:51:27 .net
味方に戦わせて自分達は殆ど戦わず味方から批判される会津

信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。

「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)

甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。

15 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:51:44 .net
味方から愛想をつかされる会津

「会津・長岡両藩
越地人民ノ心を取失候上」や
「会兵と御離れ、仕事を別申て
御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位を
いつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し
被為在候様無之候ては
危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)

新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)

16 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:52:02 .net
戦争起こして戦わない会津

米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)

会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に達していたと思われる。

17 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:52:19 .net
会津は放火魔

明治2年5月11日
旧幕軍(会津含む)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失

箱館戦争年表より

18 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:52:37 .net
会津は放火魔

会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。

会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。

19 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:52:59 .net
圧政の会津

旧幕領を預けられる事なった会津藩だったが
一方の旧幕領の領民達にとってこの決定は
正に青天の霹靂だった。
既に会津藩領になっている小千谷陣屋領等から
会津藩に年貢の前払いをさせられたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両、六日町からは
五〇〇両、浦佐村からは四八〇両など)
を負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両、脇差税として十両など)を設けた。
(小千谷市史下・越後歴史考)

会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は
それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み
代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら
小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上
預地となれば調達金や夫役を課せられ
私どもの村々は立ち行かなくなるだろう。」
(十日町市史通史編3)

20 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:53:15 .net
白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。

勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。

そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw

皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。

21 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:53:34 .net
策士で陰謀好き(ただし失策に次ぐ失策)
天皇を利用しのしあがる(京都守護職)
悪を突き通す(民間人相手にテロしまくり)
悪を善と言い押しきる(会津プロパガンダ)
まさしく狂人(外国に国土を売却しようとする)
怨念を長州、現代の山口県に向ける(会津プロパガンダ)

22 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:54:00 .net
まともな福島県民のコメント

>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。

23 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:54:17 .net
会津は放火魔

・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。

・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。

・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。

・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却

会津戦争詳細年表より

24 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:54:35 .net
同じ県内でも恨文化炸裂

2013/04/26(金) 14:22:27.59 ID:7NS7sE4p0
二本松市民だが、山口鹿児島に対しての遺恨はさほどない
どっちかというと同県内の三春が許せない

25 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:54:57 .net
会津の武士は民衆から見放された

会津世直し一揆

かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。

9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。

会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し
以後、領内各地に波及していった。

26 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:55:12 .net
外国人も見聞した会津の酷さ

駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書

・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った

27 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:55:34 .net
会津は嫌われ者

会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。

たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。

彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。

その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。

会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。

28 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:55:49 .net
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』

当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。

29 :日本@名無史さん:2020/08/25(火) 16:56:16 .net
当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。
ID:(28/703)
0029 日本@名無史さん 2020/08/03 13:34:48
斗南強制連行は嘘

会津再興が認められて、新政府から
「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する
会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。
もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった
領民達の一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時
新領地は斗南にしようと言い出したのは山川大蔵だった。
彼には偽金と戦争によって荒らされた
故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を
流罪にすべく斗南の土地に追いやったという事は無い。
会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い猪苗代の二カ所である。
会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。

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