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邪馬台国畿内説 Part1000

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/10(日) 12:28:26.92 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709701321/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

202 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 23:46:33.14 .net
>>200
まとめてもらって感謝
でも、反論山盛りなのに
ソースが、無いのが
話にくい。

それ何?
学者の論文ではナくね?
5ちゃん以下。
>>201
>>200

203 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 23:52:38.07 .net
摂津国風土記逸文の次の話は興味深い
淡路島の姫といえば、日向牛諸井の赤い娘、髪長姫だな
応神天皇から譲り受けた、大鷦鷯天皇の妃
鷦鷯の名はミミヅクと交換した話もある
大鷦鷯天皇の陵は記紀通りなら5世紀初頭の履中天皇陵になるが、この履中天皇陵は5世紀前半の吉備の造山古墳と相似形なんだな
吉備は応神天皇の妃の故郷で応神天皇も吉備に赴いたとある
履中天皇陵を作っている時に何か起きたのかもな
兎我野は記紀では麛坂皇子が祈狩をした時に赤い猪に殺された話が残る場所だね 
住吉大社神代記では神功皇后と密事があったのは住吉の神
住吉の神はアカルヒメと共に大阪ではやり直しの神さまとして祀られている

雄伴郡(をとものこほり)には夢野(いめの)がある。

父・老が共に伝えて言うのは、昔 刀我野には牡鹿(おじが)がいた。その嫡(本妻)の牝鹿は この野に居り、その妾の牝鹿は淡路国の野嶋に居た。

この牡鹿は野嶋に行って妾をとても愛おしんだので、その日は嫡の元には帰らなかった。その翌日、牡鹿は嫡の牝鹿に「今夜 夢を見たが、私の背に雪が降り積もっていた。また、(背の上に)すすきという草が生えているのもみたが、この夢は何の兆しだろうか」と言うと、嫡の牝鹿は夫が妾の所に向かうのを憎み、偽って「背の草が生えるというのは、背の上を矢で射られるという兆しでしょう。また、雪が降り積もるというのは鹽(塩)を宍(肉)に塗られる兆しでしょう。あなたが淡路の野嶋に渡るのであれば、必ず船人と遭遇して海中にて射たれ死ぬことでしょう。謹んで往復してください」と言った。

しかし、その牡鹿は妾を愛おしむあまりに野嶋に渡っていき、海を行く船に遭遇して射殺されてしまった。よって、この野は夢野と名付けられた。土地に伝わる説に「刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに」というものがある。

204 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 23:55:44.51 .net
名乗ったり名前を交換するとか普通に考えたらおかしな話なんだな

205 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:06:44.32 .net
邪馬台国の話が倭人伝から他に行く?
200年の倭王が卑弥呼?
どこの倭王だよ?

238年に国内平定中の日本の女王が、
戦国のもはや滅びそうな魏に朝貢?
どこのヤマト朝廷だよ?

206 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:11:44.15 .net
枯野伝説 
楠の大木を枯野にして最後は塩にしたんだな

河内の菟寸河にあった楠の大木を「枯野」にしたと書かれている。この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言われており、「この船、破れ壊れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき

207 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:12:12.00 .net
>>202
>学者の論文ではナくね?

歴史の専門家でも古典の研究者でもないね、少なくともw

208 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:16:46.87 .net
>>202
>でも、反論山盛りなのに

じゃあ反論書けばいいのに
誰もまともな反論書いてないけどw

209 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:17:31.91 .net
九州は山が多いから昔は「ヤマ」と言った
って、どこの漫才コンビのネタだ?

210 :琪瑛教大祭酒:2024/03/11(月) 00:20:13.02 .net
無駄だよ、608年には北九州宇佐は辰王国であり王が存在し難波から畿内に入り当然河内大王墓を眼にし隋書は魏志言うところの邪馬台者であると言っておるのだよ。
前方後円墳が邪馬台者が造り上げた物なんだよ。
北九州は朴の瓢、タマゴ棺

211 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:20:24.40 .net
>>208
>じゃあ反論書けばいいのに
>誰もまともな反論書いてないけどw

「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない」って
コテンコテンに論破されてなかったか?

212 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:20:26.22 .net
本当のは仁徳天皇は5世紀半ば〜後半の仁徳天皇陵の主でしょ
ひじり聖の帝
後々の片岡の聖伝説や菟原ウナイの処女伝説の常世に行った茅渟壮士に繋がるんじゃないのかな?
時鳥の別名はウナイ鳥

213 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:22:12.92 .net
>>208
書いたよ。
文献の話は畿内説ではタブー
でもね。 スレには恩が有る。
畿内説で、文献の話はおかしいだろ?

214 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:22:39.61 .net
『倭人伝』によると卑弥呼の墓の直径は百余歩ごあり、150m程度。3世紀半ばの古墳で該当するものは九州にはない。箸墓古墳の後円部の径は150mである。

215 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:27:15.77 .net
>>210
少なくとも隋書には筑紫→秦王国まで行った記事は出ているけど、そこから先難波に行ったとは全く書かれていない

216 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:27:26.79 .net
>>213
>文献の話は畿内説ではタブー

なぜ?
文献の話も畿内説が勝ってないか?

217 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:27:36.74 .net
>>202
ソースこれかな
www.you○tube.com/watch?v=mhf9qR6fwUc

218 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:29:03.55 .net
>>214
墓守りがだれかだけど
古墳じゃなきゃ残らないかもな?

豪族の墓は記紀の焚書で盗掘。
これ、マメな。

219 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:29:42.16 .net
>>211
>「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない」って
>コテンコテンに論破されてなかったか?

どの書き込み?
全く見てないけど

220 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:30:42.24 .net
>>202
もういっこ
www.you○tube.com/watch?v=ukMxeDE1pJg

221 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:32:46.75 .net
>>217
ありがとう。
もう、スマホなんで、明日また。

222 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:37:39.06 .net
元々奈良湖があった時代のヤマトに住んでいたのは石亀さま
五色に光り輝く石を持つ陸のえべっさんでしょ
海は鳥の磐樟船に乗るひるこである浜のえべっさん
ある時海と山の縄張りを交換する話があったのかもな

ヤマト、クナト、ミナト
トは入り口の意味だろうな
山の入り口にある地、ヤマト
クナへの入り口にある地、クナト
水への入り口がミナト

ヤマトは意味的には山辺みたいな感じかもね

223 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:39:41.41 .net
>>210
日本書紀の遣隋使と裴世清の話は嘘なんやないかね?
隋書に書かれているものを見て創作した可能性がある
東の海岸ってどう読んでも九州の東の海岸やろ?
そこからどうやって難波に行ったのか全くわからない

224 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 00:39:54.62 .net
近畿に住んでいれば分かるが紀伊半島の山々への入り口が大和盆地

225 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:11:20.01 .net
宇那比姫(卑弥呼)陵

奈良県御所市玉手794 きつね塚

秋津島宮の方から眺めると巨大な土まんじゅうの形で、まさに径百余歩の円墳である。
日本列島では、直径150mの円墳は知られていない。

226 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:21:13.64 .net
>>217
>ソースこれかな
>www.you○tube.com/watch?v=mhf9qR6fwUc

アホか
誰だ中国人が言ってるから正しいって言ったのは

元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ


なんだ和製珍説じゃねーか
w w w

227 :琪瑛教大祭酒:2024/03/11(月) 01:22:22.39 .net
いくら言っても無駄だよ
紀は前方後円墳を造らない倭の別種が残した物だ、ウソであろうが608年には宇佐には秦王国があり秦王がいたのだよ。そしてその根拠は宇佐神宮をみれば充分
邪馬台者は地勢東高西低の地奈良盆地なんだよ。
北九州なら地勢の説明なぞいらんわ。
列島に仏教が拡がる以前に確実に神仙思想はあるのだよ指導者が居なければひろがらないのだよ
その指導者が卑弥呼であり箸墓に眠る巫女だよ
相応しい人物はその時代ただ1人さ。
卑弥呼になれるものは五斗米道巫女。他ではありえない。

228 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:29:39.04 .net
>>225つづき

今日箸墓を卑弥呼の墓と主張する人は多い。しかし全長280mの大きさの古墳を、径百余歩と見誤ることはなかろう。
しかも後円部と前方部には二つの高まりがあり、鍵穴型の平面形状は、決して径というような表現が当てはまる古墳ではない。
この私の箸墓卑弥呼説に対する反論に対し、箸墓を卑弥呼の墓と主張する人たちは、径百余歩とするのは後円部を指して言った大きさとする。
しかし前方後円墳は平面プランを持って築造される。最初から前方部も築造が開始されるはずである。段築はそれを物語る。
後円部のみが先に完成するなどと言うことはあり得ない。
 
我が国で、今日知られている円墳で最大とされるのは、埼玉県行田市の丸墓山古墳である。直径105mとされる。
したがって径百余歩に該当しそうな古墳は、この玉手山の円墳を置いて他には存在しない。

229 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:32:01.49 .net
なんかテレビ局が三流トンデモをかき集めてきた感じだな

230 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:34:53.57 .net
>>226
>元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ

どこにも映ってないやんw
都合の悪いことは見えない聞こえないですか?w

231 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:36:10.51 .net
陳先生が三流w
お前はそんなに偉いんかよwww

232 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 01:53:16.00 .net
>>225
興味深いな

233 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:13:47.62 .net
>>230
>どこにも映ってないやんw

3:37 あたり
元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ

234 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:15:31.70 .net
>>231
>お前はそんなに偉いんかよwww

間違えてるやつより偉いよ

235 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:27:49.73 .net
後漢書倭国伝で、107年に倭国王が朝貢したとあり、もう一つ魏志倭人伝に卑弥呼擁立の経緯が記されている。
卑弥呼擁立の前、2世紀後半に倭国大乱があり、その前は男王の時代が70〜80年続いたとありる。
とすればその初代は、倭国王の朝貢の時期と一致する。
つまり大和朝廷は107年の直前に成立しており、その初代が神武であった。
東征は100年頃のこと。
先に大和にいた長臑彦や饒速日命、その子の可美真手命は物部氏の祖で、高倉下とともに実在した。
当時西日本を支配していたのは出雲族であったが、事代主の娘・五十鈴姫命が神武の皇后に、
妹の五十鈴依姫命が2代・綏靖の皇后になった。
大和朝廷は、出雲族を取り込んで権威を強化した。
一族は大神氏として、大神神社を奉じた。
先代旧事本紀は、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したもので、乙巳の変での蘇我蝦夷邸の火災の中から、
一部だけが持ち出されて焼失を免れたものである。
丹波の支配者の系図を伝える海部氏の勘注系図が籠神社にある。
今は国宝に指定されているが、代々極秘の文書とされてきた。
その系図の6世孫に宇那比姫の名がある。
尾張氏の系譜にもあり、7人兄姉の末妹であった。
大倭姫、さらに天造日女命という尊大な別名を持ち、巫女の名もある。
和邇氏の祖、天足彦国押入命の妃になっている。
和邇氏の子孫である静岡県磐田市にある国玉神社の系譜にもあった。
魏志倭人伝には、卑弥呼に夫はなく、男弟が補佐をしていたとある。
卑弥呼に弟はいないが、夫亡きあとの義弟、6代・孝安がいた。
奈良県天理市の東大寺古墳は、和邇氏の墓とされているが、中平の銘のある刀が発見された。
184〜189年の年号で、時代が合う。
孝安の宮は奈良県御所市の室秋津嶋である。
この北東約1kmに孝安天皇が葬られたとする玉手山がある。
そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。
尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。
勘注系図には、宇那比姫の3世後に同じ大倭姫の名を持つ女性がおり、天豊姫の別名があった。
これこそ同族の台与であり、記紀では9代・開化の妃となっていた。
8代・孝元の時代に国中不服の乱があったので、台与が擁立された。
11代・垂仁でようやく大和朝廷は安定し、纏向時代となる。

236 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 04:28:50.57 .net
>>192
前も書いたけど現代中国人は古代漢語のネイティブじゃないから。
あなたは、源氏物語をネイティブみたいに読めるんですか?

237 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 04:32:01.29 .net
さらに言えば中国人の研究者の論文を読めばわかるが多数の日本語の参考文献や日本の研究者の論文の引用がなされてる。
中国人が中国人だけで日本の学会の影響を全く受けずにたどり着いた日本古代史の結論なんてものは、どこにも存在しない。

238 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 04:38:26.71 .net
例えば>>200のリンク先にある大阪教育大の張莉という人は邪馬台国畿内説で、三角縁神獣鏡中国鏡説のひとだ。
しかし、だからといって中国人が言っているのだから畿内説が正しいなどと主張する畿内説の人はいない。
九州説だけがそういった主張をしたがる。

239 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 06:05:42.38 .net
絶対王者通説畿内説が中国人学者に動揺しているのは滑稽だ
文献しか読んでないのだから、九州説になることは全く不思議ではない
魏志倭人伝を読んで0.1%
残り99.9%の考古学を学んでやっと辿り着ける領域が通説畿内説だ

240 :琪瑛教大祭酒:2024/03/11(月) 07:41:13.55 .net
実際に存在する前方後円墳の辻褄があう話にしてくれないかな
神武とか崇神とか結構な話だが筑紫に御先祖様の地がないのはおかしいであろう
聖地は列島には無い、半島から東遷したのだ
無駄だよ、出鱈目な思い入れを話ても。

241 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 07:56:53.67 .net
>>239
>絶対王者通説畿内説が中国人学者に動揺しているのは滑稽だ

そういう妄想の方が滑稽だよ
鎧袖一触で論破されたろ中国勢

242 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 07:57:33.67 .net
>>236
え?おまえ、外国人並みに日本の古典が読めないの?
現代では使われていない言葉や文法でも、日本語の基礎になってんだから日本語が母語なら感覚的に読めるはずなのに

243 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 07:58:47.60 .net
>>240
列島と同じ倭人の支配地域につくったってだけだろ
あほか

244 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 07:59:45.24 .net
>>240
佐賀福岡は記紀に出てくる神話の神さまの神社だらけだよ
宗像が有名かな

245 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:01:43.53 .net
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)
(続く)

246 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:02:24.69 .net
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

247 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:07:02.50 .net
>>236
お前よりは遥かに読めるだろ

248 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:20:33.71 .net
>>237
根拠プリーズ

249 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:23:29.60 .net
千葉 5体の人骨巡る姥山貝塚の謎、一部判明
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1710106346/
縄文時代には私たちとは異なる家族の形があった可能性

250 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:43:35.65 .net
>>200
『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない

これ致命的だよなw

251 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 08:48:33.94 .net
>>250
ついでに隋書倭国伝を読んでも九州から東に行ったようには読めない

252 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:18:37.69 .net
>>250
どうして?
日本に、東に海のない場所なんて一つもないぞ

253 :ネトウヨボクメツ隊:2024/03/11(月) 09:22:27.13 .net
ネトウヨはまだ邪馬台国は九州などというカルト宗教から抜けられていないようだな
統一教会のニュースを読むと分かるがカルト宗教というのは本当に恐ろしいものである
アベという男はこのような恐怖の団体に支えられた恐怖の総理であった

まず邪馬台国は大陸との交流が深かった
纏向の前方後円墳などは一目見て大陸の天円地方の思想が現れていると分かる
前方部は大地を後円部は天を象徴しているのだろう

カルト宗教の統一教会ネトウヨには理解できないだろうが東洋には先祖を厚く祀ることで子孫が栄えるという思想があった
今の日本で位牌を作る文化もここから来ている

これはオレの推測だが邪馬台国では大王たちを地に埋葬するのではなく天に葬りたかった
だから円丘を作ってこれを天界に見立ててその中心に埋葬したのだろう
そして前方部は後円部の天を祀る祭壇の地上の設置場所あった

邪馬台国の卑弥呼の箸墓が壮大なものになったのは偉大な女王であったからだろう

254 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/11(月) 09:29:26.74 .net
韓国や中国では陰宅風水といって墓地の良し悪しによって子孫の運命が左右されるという考え方があった
弥生時代の日本には既に方相氏の祭りがあったようだから墓地の良し悪しという発想も伝えられていたはずである

前方後円墳というのは当時の倭人が究極の吉相墓をデザインしようとして産まれたものだろう

255 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:30:01.06 .net
>>251
魏志は南へ南へとルートをとるが隋書は東へ東へとルートをとる
半島から九州への渡海ルートも全然違うし
筑紫から東にいき秦王国(宇佐)を経由して(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する

256 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:35:43.47 .net
>>255
(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する

東に海を渡った描写は全くない

257 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:41:53.71 .net
>>256
海岸を九州の海岸ととるか、難波津の海岸ととるかで変わってくるけど
秦王国を宇佐とするなら十余国は瀬戸内沿いの国だな

258 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:53:26.25 .net
つまり畿内説は井の中の蛙

259 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 09:56:29.63 .net
>>255
>筑紫から東にいき秦王国(宇佐)を経由して(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する

この秦王国は下関辺りの国で、瀬戸内海を東に進んで十余国経ると、さぬき市難波郷津田の海岸が達した。   @阿波

260 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:01:22.20 .net
隋書倭国伝は魏志倭人伝の4世紀後だろ

261 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:07:06.60 .net
魏志 女王国の東に海を渡るとまた倭種の国がある
後漢書 女王国の東に海を渡ると拘奴国があり女王に属さない

この間に一体なにがあったのか?

隋書 筑紫国より東はみな倭に属す

262 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:09:03.28 .net
箸墓を見れば、巨大な前方部に注目せざるを得ない。
倭人伝の卑弥呼の塚の描写にのなかに、前方部について触れている部分がない。
魏使が見たのは建造途中で、前方部はその時は完成してはいなかったなどという説明は無理だろう。

263 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:11:39.01 .net
隋書倭国伝では儋耳相近。
邪馬台国はフィリピンだよ

264 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:11:39.01 .net
>>262
無理だって理由は?

265 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:25:10.26 .net
262ではないが、
実際に造るところを見た人はいないので、講釈師、見てきたような嘘をつき。になるかもしれないが
https://i.imgur.com/PmsnyDj.jpg

266 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:31:43.93 .net
邪摩臺(ヤマタイ)が登場する文献は後漢書
邪馬臺=代々王が住んでいた土地
魏志倭人伝では邪馬壹(ヤマイ)と記載されている
後漢書の注記に邪摩臺は邪馬壹が訛ったものだと記載されている
編纂時期は魏志倭人伝の方が先
そして魏志倭人伝に「女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある」と書かれている

つまり畿内は東の倭種の国でしたと

267 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:40:51.08 .net
>>266
>後漢書の注記に邪摩臺は邪馬壹が訛ったものだと記載されている

そんな変な記述は無いよ

268 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 11:32:28.25 .net
>>261
後漢書魏志は倭人伝
240年247年の郡使で九州まで。

隋書は遣隋使の帰国便で、
隋使が瀬戸内海諸国で中国人都市見て
奈良まで来てタリシホコに会っている。
日本では小野妹子の時の話
聖徳太子が法隆寺建てた時だろ?

269 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 11:33:53.78 .net
>>261
魏志と後漢書の間にも変化がある
南の狗奴国を平らげたから東の狗奴国に矛先を向けた
狗奴国というのは筑紫に歯向かう勢力への一般的な呼称だろう
後漢書と言いつつもずっとあとの倭国観で書いたんだろうね

270 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 11:50:25.28 .net
>>269
後漢書時には既に隋の情報があった。
九州の南に狗奴国は無理と判断。
東の国とした。

聖徳太子も
倭人伝の倭は九州だ、と判断して
統一前の昔の小国だ、と言った。

271 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 11:52:03.33 .net
>>261
>隋書 筑紫国より東はみな倭に属す

この時代は倭種の国が倭国として朝貢している時代
しかし九州は属していない
また秦王国という外国人国家が九州と畿内の間に存在している

つまり倭奴国〜邪馬臺国時代は倭国=九州の時代
その後は倭種の国々が倭国となり、九州はずっと独立政権のまま
しかしどちらも倭国として朝貢していた
(朝貢時に現地で両者が揉めた記録もある)
そしてようやく7世紀に初めて九州+倭国=日本となったわけよ

272 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 11:55:40.44 .net
もう完全に九州説=トンデモで定着したね

273 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:03:59.28 .net
ほぼ全ての記録文献が九州=邪馬台国と明示している
畿内は後発の新国家だ
それがヤマトだが中国に対しヤマトと名乗った記録は無い

274 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:11:37.79 .net
>>272
隋書の成立が日本書紀より後なら、トンデモ説になるが、事実は日本書紀の方が後よって隋書の記述を見て創作した可能性もある

275 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:13:33.29 .net
日本国の正史では、初の朝貢は7世紀末〜8世紀はじめ
それ以前の朝貢記録では、
倭奴国はじめ北部九州の30国のみ

北部九州とは別に倭種の国々も朝貢するようになった

北部九州+倭種の国々で日本と名乗った

倭王が筑紫→大和州に移った旨を日本記に記し中国に提示した
それを中国がコピペしたものが新唐書だ

276 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:15:09.61 .net
字義から考察すれば、ここまで見えてくる新解釈!

24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家

邪馬台国の官トップは

伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬

あてた字を見れば一目瞭然な分家


北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり

本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる

277 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:19:05.53 .net
卑弥呼時代は、九州
臺與時代で、西日本一体に拡大

この間に、国譲り神話あり

狗奴国は、国津の国

278 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:19:11.78 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

279 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:20:58.71 .net
卑弥呼時代の畿内は開拓に追われていたので朝貢には行けなかった
その後次第に国を形成するようになり、朝貢に出向くようになった
倭の五王時代なんてのがその時代だ

280 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:23:02.92 .net
>>271
卑弥呼以降日本は富国強兵政策に転じ
四郡が無くなる313年以降は、
半島進出と牛馬の移入、鉄や銅製品の
生産も本格化した。古墳時代である。

370年に高句麗を追い百済新羅を建国
400年~500年、倭の五王は
南朝に対して幽州刺史楽浪候の高句麗
との交戦と半島利権を認めさせる交渉に向かう。

500年以降は南朝が没落
隋の成立まで交流相手がない。
600年の隋使の招請以降、
遣唐使外交が始まる。

281 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:25:25.23 .net
又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸、自竹斯國以東、皆附庸於倭

難波に行ったと読み取れる記述は全くない

282 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:26:25.36 .net
つまり今の日本史は大きくは間違っていない
単に畿内説が日本は紀元前からヤマト王権一統だったニダと妄言を垂れてるだけ

283 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:38:59.33 .net
畿内説が考える卑弥呼時代、台与時代の天皇は誰よ?

284 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:39:41.02 .net
>>281
どこの海岸に達したと思うの?

285 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:53:06.94 .net
卑弥呼の義理の弟が考案
トヨの旦那が開花

286 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:54:22.50 .net
邪馬台国自体が難波
東征100年頃

287 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:56:31.10 .net
>>286
根拠は妄想w

288 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:57:01.51 .net
>>271

秦王国は国家ではない
ヤマト政権によって京都盆地の秦氏が掌管者として豊前に進出したのは6世紀前半

https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht030700

289 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 12:58:19.13 .net
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

290 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:03:31.10 .net
鉄を多く持っていて倭人の風習が無いなら韓濊

291 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:06:27.69 .net
190年から247年の女王が
生涯独身の卑弥呼

男王が立つが諸国は不満で戦乱
13才の少女か擁立されて収まった。

そんなヤマト朝廷無いよwww
てか、
戦国城主レベルでも小国で
王朝じゃないような?

292 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:09:35.45 .net
>>290
DNA調べてみ
お前高確率でワイ族だから
思考回路も遺伝すらるからすぐわかる

293 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:10:14.53 .net
初期ヤマト王権はまだ朝廷ではない

294 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:11:19.31 .net
韓国栄光の半万年、日本はしょぼい新興国って叫びたい人がいる気がする

295 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:11:25.23 .net
升とは倭の主帥サヌミコトその人である

296 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:12:38.64 .net
>>292

民族は単一Y-DNAではないので
文化で分類しなければならない

297 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:20:50.03 .net
纒向の文化の直系の子孫だな日本は

298 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:23:07.17 .net
日本は神武天皇の72代前、ウカヤフキアワセズノミコトから連綿と続く国家である

299 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:25:55.39 .net
>>294
それが畿内説

300 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:27:30.66 .net

工作員

301 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 13:29:07.58 .net
つまり畿内説は半島系DNA持ちによるオレオレ詐欺でしたと

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

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