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邪馬台国畿内説 Part1000

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/10(日) 12:28:26.92 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709701321/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

469 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 03:47:02.14 .net
壱岐最北端から呼子の距離にするなら
対馬最北端から壱岐最北端の距離にしないとな

470 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 03:55:48.57 .net
狗邪韓国から対馬の距離は壱岐から呼子までの距離と同じであるhttps://i.imgur.com/uCZ8ZUT.jpeg

471 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 04:04:15.40 .net
方可四千里の韓を七千餘里でプサンまでは届かない

472 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 04:16:04.85 .net
釜山からじゃ対馬は沿岸水行千里だよ?

473 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 06:48:09.56 .net
>>464
紀年銘鏡

474 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 06:57:00.54 .net
<邪馬台国>吉野ヶ里&纒向遺跡の研究最前線取材で新事実紹介 シシド・カフカが卑弥呼役で歴史ドラマ

邪馬台国と女王・卑弥呼を特集した番組「NHKスペシャル『古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る』」が、

3月17日午後9時からNHK総合で

475 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 07:37:23.39 .net
記紀では台与の新女王擁立が、天照大神の天岩屋戸からの再臨とした。

女王擁立当時13歳であった台与は、張政を摂政として邪馬台国の経営にあった。

天照大神の岩屋戸隠れの前は天照大神からの指示が多く記されるが、天岩屋戸隠れから再臨した天照大神は、高御産巣日神との共同指令が多くなる。

「天照大御神、高木神二柱の神の命をもちて」である。

これは、台与を天岩屋戸から再臨後の天照大神に、張政を高木神にそれぞれ神格化したものである。

張政が台与の女王擁立から西晋に帰国する266年(泰始2年)までの約18年間、摂政として台与を補佐してきたことを物語る。

476 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 07:57:48.41 .net
>>460
>神武天皇の幼名をサノというな

神武の幼名 狭野 さぬ
佐野皇子(神武天皇)を祀る神社 「佐野神社」(徳島市渋野町佐野)
神武天皇の陵墓 畝山の東北陵跡 「秋葉神社」(徳島市丈六町丈六寺山)   
神武天皇の兄・五瀬命を祀る神社 「五世神社」(名東郡佐那河内村下寺谷)   @阿波

477 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 08:11:15.71 .net
すでにタカミムスビは考察済み

430 日本@名無史さん sage 2023/07/20(木) 19:46:53.40
「魏」とは? 部首・画数・読み方・意味 - 漢字辞典

音読み: ギ; 訓読み: たかい; 種別: -. 意味. ①高く大きいさま。「魏魏」「魏然」 [類]巍(ギ) ②中国の王朝。また、国の名。「魏志」「魏書」

709 日本@名無史さん sage 2023/06/27(火) 07:51:03.37
・曹魏を擬神化 タカミムスビ
        (アマテラス無きあとの司令官)
・黄幢を擬人化 タクハタチヂヒメ
        (万の幡に匹敵! タカミムスビがオシホミミに与える)
・黄憧を擬人化 オモイカネ
        (黄憧=魏の皇帝も卑弥呼と同じ想い、と言う詔書の内容)

古代から日本人は擬人化させるのが得意のようだなw

・塞曹掾士張政 タカクラジ
・檄      金鵄

檄は「木」+「敫」
敫の意味: 光が四方に輝き広がるさま。

>神武東征での金鵄
『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。

簡単ですw

478 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 08:18:39.79 .net
>>475
張政は18年も滞在せずにすぐ帰国してるよ
なので魏志倭人伝もこの247年の情報を最後に記述して終わる

正始8年(247)の出来事
其八年
・太守王頎到官
・遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
・遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

・(卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人)
 (更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人)
 (復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定)
 (※ここまで243-247のどこか)
 政等以檄告喩壹與

・壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
・因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚

479 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 08:21:28.10 .net
つまり畿内説の存在価値無しと

480 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 09:57:03.00 .net
このように
なにひとつ反論できず挙証もできず
 ただ悪口言うだけの敗残者
それが九州説


 

481 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 11:23:16.19 .net
つまり畿内説は居直り詐欺ですよと

>480:日本@名無史さん:2024/03/12(火) 09:57:03.00
>このように
>なにひとつ反論できず挙証もできず
> ただ悪口言うだけの敗残者
>それが九州説
>
>
> 

482 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 11:42:59.50 .net
>>474
畿内説の連中が「証拠がない」と呟きながら番組を見ている姿が眼に浮かぶw

483 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 11:57:08.10 .net
畿内説の言う証拠って「想像」だからなw

484 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:03:25.64 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

485 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:21:14.07 .net
つまり畿内説は勝手に作り話してそれに出土品が一致するにだと言ってるだけ

486 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:29:15.79 .net
鉄パイプでた!黄幢だ!

魏から出土もしてないのに何故そんなに言い張れるんだ?

どうも4世紀の布製冠帽の芯ぽい……

畿内説の証拠ってこんなのしかないんか

487 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:33:40.39 .net
>>486
あなたが無知なだけ

488 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:34:57.60 .net
魏志倭人伝の内容を誤りだとするのなら邪馬台国はどこにでも比定できるから
少なくとも方角と距離は正しいとしなければ無意味になる。
とすると、不彌国までで残り1300里。この距離では水行20日や陸行1月は不可能なのでこれらの出発点は帯方郡とするのが妥当。
(陸行1月の間に通過した国の情報も書かれて無いし)
あと100歩の円墳以外の墳墓は卑弥呼の墓じゃない。

489 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:36:37.32 .net
桃の種、カエルの骨、平屋物件、木製倭鐙・・・
どれも全く無関係な物ばかり

490 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:41:19.46 .net
>>487
黄幢の証拠はよ

491 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:44:48.48 .net
>>487
無知じゃないなら、魏志倭人伝の記述と【客観的にみて】一致する遺構や出土品をいってみてよ

492 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:47:44.35 .net
だいたいさ
邪馬台国の存在は魏志倭人伝が示してるだけなんだから
魏志倭人伝の記述から位置を推測するしかねーだろ
考古学?
親魏倭王の金印か封泥が出土してから言えよ

493 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:54:15.69 .net
九州からそもそも三角縁神獣鏡しか出てこないくせに、王者畿内に魏志倭人伝と一致する遺物を出せとは図々しい

494 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:55:02.08 .net
>>486
あんな形の冠帽ないぞ

出まかせ乙

495 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:56:02.94 .net
>>494
石枕そっくりだったぞ

496 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 12:59:13.76 .net
>>451
証拠が確かなものでないので、物語を好きなようにつくる
盾とか入れ墨をみても九州ぽいが、あれがヤマト王権の話なら
信じるしかない

497 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:04:32.36 .net
>>493
つまり、魏志倭人伝の記述と一致するものは示せないとw
分かりやすいな

498 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:07:26.91 .net
権力者が権威を誇示するための布製冠帽の鉄パイプの芯が
黒塚古墳だけからしか出ないというのはおかしい
U字形鉄製品と一緒に40cm前後の両端が尖る棒状鉄製品も出ている

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/K/Kaimotu_Hatuji/20220914/20220914150739.jpg

499 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:15:02.67 .net
U字形鉄製品が黄幢じゃないとしても
U字の部分に布を取り付けてそれを棒状のもので掲げるような
例えば幢のようなものだろう

500 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:18:15.22 .net
九州だと伊都国から大陸と交流した形跡あるし
奴国からはさらに昔の金印
西新町遺跡なんて、卑弥呼の時代に最も栄えた貿易港
九州は弥生時代の遺跡の宝庫で、吉野ヶ里は宮室・楼観・城柵の遺構がまとまってるもんね
普通に鉄製品や透目絹も出てくる
さらに九州を南北に分けるように菊池川周辺を中心に鉄鏃が大量に出土しているのも、狗奴国との争いを連想させる
何より、魏志倭人伝の記述のとおり「伊都国の南側」に位置する

あ、だから機内説は九州説を敵視してんのか
九州の遺跡は魏志倭人伝の世界観を連想できるもんな

501 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:21:35.24 .net
曹操の鉄鏡レベルのお宝まで出ちゃうとなあ

502 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:22:38.32 .net
邪馬台国の事が書かれている魏志倭人伝を無視するのが畿内説

503 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:32:37.08 .net
>>500

西新町遺跡の遺構が増加し、竈付住居が多くなり、
韓半島系土器が多数搬入されるのは?B期(3世紀第4四半期)
多数の外来系土器が?A期古相にかけて見られる

504 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 13:44:31.45 .net
>>497
畿内からはたくさん出ているが、九州からは出てこない

505 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 14:15:10.55 .net
九州に倭国乱のあとが無い

506 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 15:52:21.73 .net
畿内説がいかに無知かよくわかるレス

>505:日本@名無史さん:2024/03/12(火) 14:15:10.55
>九州に倭国乱のあとが無い

507 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 15:57:18.49 .net
物の量は重要視する、自分の実績になる

508 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 16:03:29.82 .net
>>504
>畿内からはたくさん出ているが、九州からは出てこない

一致しているものほとんどなくね?

509 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 16:56:53.94 .net
>不弥国に着いた時点で残り1300里

萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。   

まさか、萬二千余里から引き算されるとは、陳寿も青天の霹靂だ。   @阿波

510 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:00:56.79 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

511 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:09:11.75 .net
>>504
たくさん出てくるって?!
桃の種とかゴキブリとかだっけ
すごぉーい

512 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:17:43.24 .net
>>508
紀年銘鏡

513 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:18:50.67 .net
>>511
桃核から、纒向が2世紀前半の遺跡であることが確定した

514 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:20:19.02 .net
つまり畿内説はたまたま霊園だった纏向を発掘調査して
古墳が多いニダ、出土品(副葬品)が多いニダなどと墓場としてごく当たり前の事を言ってるだけであり、邪馬台国の根拠は皆無ですよと

515 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:22:53.97 .net
ばかだな

516 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:23:58.51 .net
>>513
>桃核から、纒向が2世紀前半の遺跡であることが確定した

正しくは、後世の建物の柱の先が2世紀の地層まで届いていました

517 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:24:32.77 .net
縄文時代は、西日本は圧倒的に人口が少なく、東日本にほとんど人口が集中していた
弥生時代に入り水田耕作が始まると、西日本の人口が増えたが、それでもまだ東日本の方が人口は多かったと見るべきだろう

518 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:25:15.73 .net
>>516
3世紀前半に訂正

519 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:25:43.65 .net
>>514
紀年銘鏡

520 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:32:03.20 .net
24日放送の第2集は「ヤマト王権 空白の世紀」。卑弥呼の死後、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権の謎に迫る。

同時代の中国の歴史書に記録がない“空白の4世紀”とされるが、ヤマト王権が驚くべき技術革新を成し遂げていたことが近年明らかに。奈良・富雄丸山古墳で見つかった、東アジア最大という鉄剣「蛇行剣」と、前例のない形の「盾形銅鏡」を手がかりとして、真相に迫っていく。

近年、海を渡った韓国では、ヤマト王権のシンボルといわれる前方後円墳が発見されている。実はヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。強大な騎馬軍団を誇った高句麗と熾烈な戦いを繰り広げていた。

ヤマト王権を率いた「倭の五王」たちは、どん欲に海外の先端技術を吸収。変化を恐れないダイナミックな戦略で対外的な危機を乗り越え、統一国家を築いてゆく。

グローバルな視点から見えてきた古代日本の歴史。日本列島の広大な地域を支配体制に組み込み、日本という国の礎をつくったヤマト王権の躍進の原動力に迫る。

24日の邪馬台国特集も面白そう。

521 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:45:03.38 .net
>>519
墓の持ち主が何処の人かって話にしかならないはずだが畿内説の韓国脳では副葬品はその土地に居た人の物だという非論理的希望的観測を述べるだけ

522 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:47:00.61 .net
>>520
>ヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。

つまり、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州には、ヤマト王権など有り得ない。   @阿波

523 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:48:40.66 .net
なぜ纏向が霊園かというと、ほぼ同時期に複数の古墳が建造されていることは、その時期に墓域として開拓された事を意味している
から

524 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:53:58.33 .net
>>521
そのような荒唐無稽なことを言うのは九州説でもズブの素人だけである

525 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:54:21.61 .net
記紀や風土記を見ると九州勢が畿内勢に降伏する時にお宝差し出してるっぽいんだな

526 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:54:39.71 .net
前方後円墳の向きが被葬者の出身地と関係している
という説もあったような

527 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:57:02.75 .net
つまり奈良にはヤマトなんて存在しなかった

ヤマトにあたる勢力はおそらく北陸〜岐阜〜東海あたりだな

奈良盆地は単に墓域として利用されていた

それだけの事

528 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 17:59:23.01 .net
>>527
教科書に書かれた歴史すら書き換えたい気持ちですか?

529 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:01:14.84 .net
>>528
しょっちゅう書きかわってる気がする

530 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:01:54.85 .net
>>527
単に墓域? そんな例、他にも有るのかな?

531 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:02:11.03 .net
北魏の歴史修正を真似た日本(8世紀)の歴史をチョンコ(21世紀)の歴史修正で暴けるわけないw

532 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:03:35.09 .net
>>530
宮殿が出ているので単なる墓域と主張する学者がいない

533 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:04:40.54 .net
>>529
大和朝廷がヤマト王権に変わったとかその程度
奈良にヤマト王権があったことは書き変わっていない

534 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:19:52.96 .net
>>527
>ヤマトにあたる勢力はおそらく北陸~岐阜~東海あたりだな

碌に鉄器さえも作れない北陸~岐阜~東海では無理!   @阿波

535 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:22:14.06 .net
>>533
>ヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。

つまり、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州には、ヤマト王権など有り得ない。   @阿波

536 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:32:43.65 .net
>>527
基本的に、奈良時代と言うか飛鳥だけど
590年位からですね。

もちろん卑弥呼時代にも魏という外敵の脅威は有ったけど、
大阪湾は瀬戸内海が堅城であって湾岸から登る必要は無い。
隋唐の成立で、皇族の姫や王子の宮が奥に入ったんでしょ。

ただ、最近出た奈良の渡来人の住?宮って言うのは
370年辺りからの百済王家の居住地として
生産性の低い未開地を当てた可能性は高いと思う。

地方豪族集めて、後宮政治するのに
交通の便悪かったら豪族も宮建てないよw

日本海ルート、越、尾張、美濃、淡路、
初期王朝の首都は大阪湾〜息長の近江だったと思うよ。
250年神功皇后は居ないけど息長系の暗示。

537 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:33:12.52 .net
>>532
宮殿って?
妄想で断言してる韓国式畿内説さん乙w

538 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:36:49.10 .net
>>536
これかな

■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

539 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:38:27.40 .net
>>537
九州説さん、非常に苦しいですね

540 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:42:55.88 .net
九州説はもはや「説」の領域にも達しないので、発掘調査から分かってきた新たな事実に注目したい

541 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:44:57.99 .net
韓国の首都ソウルから出てきた埴輪についてもNHKで採り上げそう
これは楽しみ

542 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:45:16.83 .net
馬の無い時代の奈良は首都にはならない。
誰が政治の為に集まるのか?

軍隊はまず、徴兵で首都連合より強い
藩主が有ったら薩長連合だろwww

後宮に入って、王を立てるのは豪族だが
出雲、尾張、越、吉備、阿波、東海の領主だろ?
奈良は、嫌だねw

543 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:48:48.04 .net
>>542
馬のないヤマト王権が高句麗まで遠征しているので間違い

544 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:54:56.64 .net
>>538
これと対比できるのが、ソウルから出てきた埴輪
すなわち、4世紀後半には半島と畿内はかなり親密な関係にあった

545 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 18:57:07.01 .net
>>538
ソウル辺りの王城付近でも
日本人遺跡が出たってよ。

370年の七支刀〜500年人物画像鏡でも
日本からの辟中(前線防壁国)の直ってのが、
百済王城には、居たんだけどね。

百済王子は日本で養育。で日本貴族、姫は日本人。
雄略天皇が東城王を指名して即位させた。
考古学は、文献に付いてくる。 だろ?

546 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:06:51.00 .net
>>543
間違っても、歴史は待ってくれないw

馬の移入は四郡の無くなる、313年以降のはずだが、
400年には甲信でも高句麗墳墓を伴う御牧が出来ている。

考古学だけど?
馬の移送技術は高句麗人の知識が必要だったと思う。

547 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:11:40.15 .net
>>546
つまり?

548 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:14:38.72 .net
>>545
ついてきてないのが九州説

549 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:19:39.63 .net
>>547
つまり? アラシ? 梅? 
何が質問なのか判りません。

>馬のないヤマト王権が高句麗まで遠征しているので間違い
百済と言う国より、馬が欲しかったのだと、
思いますが、日本は高句麗と交戦します。

甲信の遺跡見るかぎり、高句麗人いっぱい来て
友好で御牧作ってると思うけどwww

550 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:23:08.04 .net
>>549
意味不明

551 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:25:56.25 .net
不明じゃねーよw 梅だろw

552 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:27:31.11 .net
梅www
他になんか質問ある?

553 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:39:22.93 .net
高句麗人捕虜を連れてきたんだろうな

554 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 19:46:49.77 .net
畿内説と言うのは
240年の大倭王は畿内に居た。
という、誰も否定しない話で

陳寿の倭人伝は240年と247年の
魏時の倭への遣使の記録
魏時の二回の遣使の記録を陳寿が引用した。

陳寿はそう言ってるんだが?

555 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:27:56.48 .net
>>505
畿内が倭国だった証拠が無い

556 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:29:32.82 .net
ばかの人?

557 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:42:11.86 .net
3世紀後半に成立したと考えられる纒向崇神朝は4世紀後半に北部九州で急成長した海人族勢力に滅ぼされ、新たに応神朝が建てられたと考えられる

纒向が百年ほどで衰退したのも、その頃に古墳の場所が変わりさらに巨大化したのも、纒向時代には大陸と交流のなかったヤマト王権が急に中国との外交を活発化させた(倭の五王)のも、王朝交替が背景にあるだろう
記紀の仲哀・神功周りの記述も多分に易姓革命的だ

海人族は地元北部九州で田油津媛の邪馬台国を滅亡させ、朝鮮半島に侵攻して新羅百済を破ったが高句麗に跳ね返され(広開土王碑文)、畿内に攻め上って纒向の崇神朝を倒したと見られる

この海人族は宗像族と関係が深く、宇佐など含め北部九州の東側(瀬戸内海)に勢力を持っていただろう
4世紀後半に沖ノ島の国家祭祀が始まったのも、この海人族の勢力拡大・王権奪取と関係があると思われる

558 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:44:16.77 .net
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)
(続く)

559 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:44:34.70 .net
纒向は垂仁、景行だが

560 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:44:57.18 .net
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

561 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:54:58.64 .net
 
 
九州だけが独立した国だなんて言っても、笑われるだけだよ
 
 

562 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 20:57:32.63 .net
農耕が広まって定住と集団化が進んだ弥生時代の日本列島では、小規模なムラからクニへの発展が進んだ
このクニは約500年後に始まった律令時代の国郡里制の里か、せいぜい郡のサイズだ

さらに弥生時代末期になると、筑紫、出雲、吉備、丹波(但馬丹後含む)、大和、尾張、高志、毛野など日本列島の各地に国郡里制の国に匹敵するサイズの緩やかな地域連合体が出来ていった

このうち大陸に最も近い筑紫の地方勢力は、朝鮮半島南部に領地を持つなどして朝鮮半島と活発に交易し、中華帝国にも朝貢した
これが魏志倭人伝に描かれた倭国であり、その構成国が邪馬台国や伊都国だ

一方、大和の地方勢力は婚姻や同盟を駆使して戦略的に少しずつ影響範囲を拡大し、最終的に今の日本国に繋がる発展を遂げた
これがヤマト王権だ

纒向遺跡は魏志倭人伝に描かれた倭国のクニとは似ても似つかないことがはっきりしてきたが、これは当然だ
北部九州倭国と畿内ヤマト王権は全く別の国なのだから

桜井茶臼山古墳は、3世紀前半の北部九州倭国女王の権力よりも3世紀末(以降)の畿内ヤマト王権の権力の方が強大だったことを示していると見て良かろう

563 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:00:22.09 .net
列島最大の貿易都市博多と3世紀に密接な交易関係があったと見られるのは出雲・播磨・丹後など
海無し奈良盆地との直接交流は考えにくい
実際、纒向に北部九州からの土器は殆どない

また纒向の外来土器は吉備(25%)、東海(20%)、河内(20%)、山陰北陸(17%)がメインで、阿讃播(阿波+讃岐+播磨)は8%しかない
大和と播磨がそれ程密接な交流関係があったとは見られない

博多と播磨は密接、播磨と大和は薄い関係、大和と博多は殆ど没交渉
それが実態だ

鉄器もなく木製土木具で古墳を作っていた後進奈良盆地が、鉄製武器や鉄製農具をバリバリ使っていた殆ど交流のない先進北部九州を服属させ一大率を置いていたとは極めて考えにくい
畿内説はこの部分でも結論ありきで無理筋の主張をしている

西日本各地の臨海都市(クニ)と貿易し流行に敏感であった博多周辺の首長の一人が、西日本の首長層に流行し始めた前方後円墳を逸早く築造してみたのであろう
前方後円墳築造ノウハウを持っていることが商売上有益だった可能性もある

564 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:05:22.76 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

565 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:09:15.70 .net
>>563
>博多と播磨は密接、播磨と大和は薄い関係、大和と博多は殆ど没交渉
>それが実態だ

妄想乙

纒向からは筑前型庄内甕が出土
勝山古墳と那珂八幡古墳が同時期同一企画の前方後円墳
纒向と博多を繋ぐのは吉備の土器の分布

あきらかに親密な同盟者で血縁関係すら有るかも知れない

566 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:16:31.31 .net
>>565
庄内甕や前方後円墳が西日本で流行って筑前が大和同様に前者を受け入れたから何?
(松井武彦が指摘するように後者は筑前にはわずかしかなくむしろ巨大古墳文化は北部九州にはあまり受け入れられていない)

567 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:17:21.60 .net
>>565
>あきらかに親密な同盟者

当り前。 どっちも倭人(阿波勢力)なんだから。   @阿波

568 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:18:55.64 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは全く読み取れない
そもそも伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続き)

569 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 21:19:39.63 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

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