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邪馬台国畿内説 Part1000

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/10(日) 12:28:26.92 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709701321/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

58 ::2024/03/10(日) 13:00:30.58 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 ::2024/03/10(日) 13:00:59.92 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 ::2024/03/10(日) 13:01:30.29 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 ::2024/03/10(日) 13:02:00.67 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 ::2024/03/10(日) 13:02:30.75 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/03/10(日) 13:03:00.75 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/03/10(日) 13:03:30.63 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/03/10(日) 13:04:00.20 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 ::2024/03/10(日) 13:04:30.91 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/03/10(日) 13:05:00.62 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/03/10(日) 13:05:30.91 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/03/10(日) 13:06:00.45 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/03/10(日) 13:06:30.35 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/03/10(日) 13:07:30.29 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/03/10(日) 13:08:00.35 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/03/10(日) 13:08:31.11 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/03/10(日) 13:09:00.46 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 ::2024/03/10(日) 13:09:31.16 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】FAQ 102を追加

76 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:14:11.46 .net
以上のうち
客観的にみて魏志倭人伝の記述と一致したものを述べよ

77 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:17:33.82 .net
記念のpart1000スレッド

78 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:44:21.09 .net
つまり畿内説は嘘スレも1000回立てれば本当になると思ってる韓国式歴史捏造サークルですよと

79 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:21:41.97 .net
12000まではまだ遠い

80 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:25:25.67 .net
1000乙 
75あぼんだけど一割引きでw

81 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:42:13.81 .net
999の最後を飾ったのは阿波だった

82 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:44:17.79 .net
トンデモに替わり、これからは「阿波」の時代。   @阿波

83 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:16:14.79 .net
3世紀以前に会稽から直接九州に行けましたか?
誰かプロはいませんか?
鑑真が沖縄伝いで日本に行ったのに、3世紀以前に会稽から直接日本(九州)に行けましたか?

84 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:18:20.78 .net
卑弥呼の時代の河内や和泉は邪馬台国だったのか?
河内や和泉にはヒスイの勾玉や銅鐸が出土した弥生時代末期で放棄された集落跡が複数ある
鏡が一世風靡する時代に消えてしまった人々
そういう集落の一つが池上曽根遺跡である
この集落跡がある摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落があったが有馬に飛び去ったという伝承が残っている
有馬は摩耶山と熊野にあるね
熊野の神倉神社にはゴトビキ岩という世界遺産の磐座がある
この磐座からは銅鐸の破片と銅鐸を模した石製品が見つかっている
ここは熊野の神が最初に降臨した場所と伝わる所だ
その後神は熊野川の対岸の阿須賀神社の地に移ったという
命懸けで熊野川の深い淵、大谷を渡ったんだろう
阿須賀神社の境内とその周辺からは弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大規模な集落跡が見つかっている
大阪湾と同じ形の製塩土器も見つかっており大阪湾岸の勢力と関係があったと考えられる
阿須賀神社には事解男や速玉男など熊野の神々が祀られている
近くにはイザナミが眠る地と伝わる有馬がある
イザナギがイザナミと別れ際に吐いた唾が速玉男、それを払ってできたのが泉津事解男だな
大阪湾の和泉の海は茅渟の海だね

邪馬台国は大和で、狗奴国は河内湖の南に広がる河内和泉だったんじゃないのかな

85 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:27:04.67 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

86 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:39:23.76 .net
>>84
まあ確実に間違い空想だな
河内湾南岸から大和川を辿って奈良盆地に入るのはメイン交通路だから

87 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:41:53.30 .net
卑弥呼の時代の前は倭国大乱でその前は男王の治世である
倭国の建国は魏志倭人伝の時代卑弥呼の時代より少なくとも100年は前の話である

近代日本は諸事神武創業の始に立ち返ることで国を一つにまとめて歩み始めた
そういう意味で、倭国建国の時代である弥生時代後期の橿原は非常に重要である
弥生時代後期の橿原からは讃岐と同じ高地性集落が出現し、龍と鳥装のシャーマンの絵画土器が現れる 
高松、近畿、山陰、北陸、東海では鳥形、銅鐸が大ブームになっていた
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡、壱岐でも同じ時代に龍の絵画土器が見つかっている
龍は石切神社に黒い龍神が祀られていてトミの一族の伝承が伝わっている

龍と鳥と讃岐と同じ高地性集落、この事実は大切にしないといけない

明治天皇の詠まれた歌
橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本の国をたもたむ

88 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:45:44.18 .net
>>86
河内から奈良なら歩いて数日だなwww
船を降りて陸行1ヶ月で邪馬台国だ
伊吹山には荒ぶる神がいたから北からはアプローチできないぞ
大阪湾から奈良までならどんなに時間をかけても数日

89 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:54:14.70 .net
>>88
だから何?

90 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 17:55:40.24 .net
纏向から九州系の土器が出てこないのだから東遷説はない
東遷説が否定されるということは、纏向の年代がどうあれ、九州説の大半も否定されるということだ。

91 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:06:13.59 .net
来週日曜日のNHKスペシャルで邪馬台国特集やるな
見逃さないように

92 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:08:10.85 .net
>>83
3世紀の倭人船は帆船じゃない。
見える対馬以外は沿岸水行でしょ?
黄海も山東半島経由かと?

中国人は、徐福でもなきゃ
韓や倭に用がない。
これ、BC200で可?

400年以降は、倭の五王も
帆船なら上海から済州島、五島
ただ夜は星が無いと?

鑑真は海南島とか香港方面から?
上海まで来て黄海渡る方が良いかと?
会稽って、こっち?

沖縄コース縄文船は風に強いかもね。
黒潮コースは帰れないかと?

93 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:09:52.99 .net
>>91
NHKスペシャル 古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
3月17日(日)
午後9:00~午後9:50

古代史最大のミステリー、邪馬台国の謎を徹底検証!新発見続々!女王・卑弥呼はどこにいた?三国志の最新研究で迫る外交戦略!宿敵との争いの結末は?驚き満載の歴史ロマン



古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る

初回放送日: 2024年3月17日

私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!

94 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:11:10.47 .net
あれ?纏向で決まりじゃなかったの?

95 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:13:40.73 .net
NHKか
どうせ卑弥呼より前の歴史を無視し、先住民の歴史を無視し狗奴国の歴史を無視した内容なのは見なくてもわかる
何年か前の知恵の泉の邪馬台国の番組は酷かった
魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあると書いてあると嘘をつき狗奴国を東海に比定していた

96 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:14:00.78 .net
>>94
決まりだよ

97 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:21:37.93 .net
>>94
決まりだよ

98 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:22:02.80 .net
親魏倭王の金印は卑弥呼から台与へ
風土記逸文によればトヨウケは摂津の稲倉山にいた
トヨウケは延喜式によるとウカノミタマの別名だ
ウカノミタマがお詫びに黄金の箱と水晶玉を授けた信太山の葛の葉伝説と和泉黄金塚古墳の日本最大の水晶玉、景初三年の銘のある鏡
そこまでNHKは放送しないだろうな

99 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:24:36.38 .net
4世紀後半の和泉黄金塚古墳は魏志倭人伝より前の時代に大ブームだった勾玉が大量に見つかっている
4世紀後半の和泉黄金塚古墳と葛の葉伝説を以て、邪馬台国と狗奴国の権威は統一された筈なんだけどな

100 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:38:29.20 .net
>>98
しかも三角縁神獣鏡ではなく、画文帯神獣鏡なのが面白い

101 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:39:11.75 .net
>>95
狗奴国は東海で正解

天竜川以東から房総半島を除く関東一帯が狗奴国=クノノクニ

都は沼津の足高尾上遺跡群

102 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:42:53.32 .net
>>93
NHKなら学問重視だろうな
ただ視聴者受けのためエンタメ要素入れてくるだろうから
九州説もまだありえるって言うかもしれん

103 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:52:51.69 .net
>>102
>NHKなら学問重視だろうな

御用学者のな。 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」など、絶対に言わない。   @阿波

104 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:55:09.53 .net
>>102
>NHKなら学問重視だろうな

「阿波」の飛びぬけた遺跡群など、絶対に言わない。   @阿波

105 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:58:08.18 .net
>>28
弥生時代の絹織物は、佐賀平野や筑紫平野に集中してる。
中国地方~近畿はゼロ。相変わらず揚げ足取りばかりで明快さに欠ける。

106 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:06:13.21 .net
>>105
ちゃんと文章読めよ

107 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:06:30.49 .net
>>105
明快に九州説が否定されてるけど


 

108 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:16:07.47 .net
邪馬台国(やまたいこく/やまとこく)は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したと
される国のひとつ。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本
では存在は立証されていない。Wiki

109 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:22:07.90 .net
Wikipedia
ヤマト王権
ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。

大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。
4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。

110 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:44:07.34 .net
>>109
壹与が音信不通になったのはヤマト政権に滅ぼされたからか
なるほど

111 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:44:37.15 .net
>>109
>大和盆地および河内平野を本拠とし

碌に鉄器さえも作れない大和盆地および河内平野だけどな。   @阿波

112 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:45:27.32 .net
>>108
△日本の文献
◯ヤマト政権の文献

113 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 19:47:59.64 .net
>>107
否定する証拠は?

114 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:02:47.50 .net
>>113
ちゃんと文章読めよ

115 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:15:05.15 .net
邪馬台国が存在した証拠
金印銀印は一切無い。

女王卑弥呼は
記紀の王ではない。

邪馬台国には
倭人伝以外の根拠は無い。

116 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:16:53.87 .net
Wikipediaでは邪馬台国大和説
九州説の人はこれを放置して良いのか?

117 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:28:23.81 .net
〇〇説と言うのは仮説にすぎない、確定などと言っても
存在が立証されていないので意味がない

118 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:35:33.07 .net
>>114
ないのかw

119 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:41:08.78 .net
九州説の証拠がない

120 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:46:09.46 .net
ないという証拠がないw

121 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:47:07.46 .net
卑弥呼は侍女1000人をはべらせている
これは北部九州限定の女王ではない

122 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:56:42.76 .net
>>120
九州説がないという証拠
何百年経っても女王の都の比定地が絞れない
最も多数派でも九州説の中で1割ちょっと

証拠があったら
九州の中でどの地域かぐらい絞り込めてるよね

123 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 20:57:17.19 .net
>>121
侍らせてた証拠は?

124 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:07:59.15 .net
>>123
以婢千人自侍

125 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:11:27.75 .net
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

126 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:16:33.15 .net
>>125
なんてレベルが低いんだ

127 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:20:57.35 .net
>>124
だから倭人伝が証拠なら
考古学はいらん。

128 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:21:12.80 .net
>>125
俺はこの周徳望氏の「会稽から船で東に行くと九州に着く」っていう発言が信じられないんだが?
鑑真ですら沖縄経由で九州に着いたのに、丸木舟で会稽から九州に行った中国人がまるでたくさんいるかのような発言が信じられないのだが

129 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:21:39.14 .net
>>126
お前よりはるかにレベルの高い人たちだよw

130 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:22:23.15 .net
>>127
つまり、九州説は倭人伝無視

131 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:22:54.80 .net
>>128
たくさんいたって言っていたか?

132 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:24:45.73 .net
>>129
中国の文献を読むのはここにいる誰よりもレベルが高いだろう
しかし、考古学はやってない
日本の考古学者が説明をすれば畿内説しか採用し得ないことを理解できるだろう

133 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:26:35.62 .net
>>131
そもそも、会稽から九州に直接行った記録がゼロなんで、周徳望はおかしい

134 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:30:53.77 .net
>>127
>だから倭人伝が証拠なら
>考古学はいらん。

どうして?
そんなに証拠が嫌いなの?

135 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:36:56.34 .net
>>132
いや、この人たちは文献上の話をしているわけでな
それをレベルが低いとか、お前は何様なんだよw

136 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:38:13.49 .net
>>125
ヤマ論は、根拠はない。

倭人伝のメインは魏使の記録と外交史
論争に風俗、物産はあまり関係ない、

里程で張政と陳寿が共有可能だった。
理由は正始年間の公文書だから。

一月行=2000里も、陳寿は知っている。

137 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:40:48.06 .net
>>136
そう考える学者がいるって話であって、お前の考えは聞いてないw

138 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:42:07.80 .net
>>137
おまえが聞いても
答える気にはならないな。

139 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:48:53.12 .net
>>109
魏志の卑弥(姫)、卑狗(彦)、隋書の多利思比孤(足彦)、阿輩難弥(大王)は大和政権関係者

140 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:49:05.00 .net
>>133
実際に明の時代の世界地図でも日本列島はかなり南に描かれている
昔の中国人の世界観はそうだったということ

141 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:50:28.59 .net
>>139
妄想乙

142 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:52:00.15 .net
>>135
>いや、この人たちは文献上の話をしているわけでな
>それをレベルが低いとか、お前は何様なんだよw

でも実際レベル低いだろ?
証拠のない話ばっかりでさ
それ、学者のすること?

143 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:54:21.53 .net
>>142
文献上ではこう読めます、こういう意味です、と教えてくれているのに、何を言っとるの?
お前よりはるかに優秀な方々だよ

144 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:54:32.69 .net
「升」はサヌミコトである(つまり日向族の東征は西暦57〜107年の間である)
(後漢書倭伝)

倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ100国余り。
武帝が朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは30ヶ国ほどである。
国は皆、王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の境界は其の国を去ること12,000里、その西北界の狗邪韓国を去ること7,000里余り。
その地は概ね会稽、東冶の東にあり、朱崖、?耳に近いため、法や習俗の多くは同じである。

建武中元二年(57)、委奴(ヒナ=日向)国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。
倭国の最南端(口伝による)にある。光武帝は印綬を賜った。

安帝永初元年(107)、倭国(異書「倭面土(ヤマト)国」)の主師(のちの征東大将軍 号)の升らが
160人の捕虜を献じ、参内して天子にお目に掛かる事を願い出た。

女王国より東、海を渡って1,000里余りで拘奴国(北海道)に至る。
皆、倭種であるが、女王には属していない。
女王国より南、4,000里余りで侏儒国(北方領土)に至る。人の背丈は72〜96cmである。
侏儒国から東南、船で行くこと1年で裸国、黒歯国(南米)に至る。交流の可能な国はここで終りになる。

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/2971a0c58bb2ebf0a4acf34e65f83128_1b0820a0197af59e02631ae5581c4a5a.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/5b812e626a1d369bf046351d3b9e5c0f_8ee2bcffd61c8fef9feed69c09c6ee8b.jpg

145 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:56:38.38 .net
重要なのはこの2点だな

「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

146 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:57:04.29 .net
>>125
こいつが遺跡調査すりゃいいんじゃね?

147 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:57:50.15 .net
おはようございます。
①文献を正確に、合理的に読むこと
②その内容が事実に合致しているか
は分けて考えないとね。
倭人伝を正確に読み解いても、それが当時の倭人世界の実情をなんら反映していない可能性もある。無いことを書いてる、あることを書いてないなんてこともあるだろう。
①については多くのネイティブ中国人の音韻やら文献の専門家が邪馬台国の位置は北部九州としていることから、それで決定でよろしい。我々、東夷人が口出しするのもおこがましい。卑弥呼なる女性が九州にいて親魏倭王に冊封されたと言う解釈で問題なし。謙虚になろう。
問題は②だよね。考古学、比較神話学、言語学から、それは事実とは違うんだと言う人がいる。それも沢山いると言うことだね。

148 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:57:57.66 .net
>>145
しれっと東遷説だね

149 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:59:17.17 .net
>>128
そういう事。
陳寿はそんなことは言ってない。

入れ墨の理由で
故事を引いているが
修正が、間違っている。

理由は、太伯の後を削除されたから。

邪馬台国は
邪馬臺国が邪馬壹国に修正された。
倭音国名ではない、表音文字。

150 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 21:59:22.74 .net
>>145
東遷説派かw
でも、北部九州にも畿内にも両方ありましたーのほうが丸くおさまるんじゃね?
両方にひみこキャラいるし

151 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:01:05.99 .net
>>149
表意文字、だよ。

152 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:01:48.37 .net
この見解は日本の神話とも合致した内容だろ?
神武が東遷して大和で天皇に即位したのだから
この先生が日本の神話のことを知っていたかどうかは知らんけど

「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

153 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:03:49.36 .net
>>145
邪馬台国から離れてるからこそ伊都国の存在意義があるんだろう
邪馬台国が九州なら邪馬台国自身が重要な拠点になればいい

154 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:06:19.46 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

155 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:07:23.31 .net
>>149
ネイティブの中国人、それもその専門家より自分が漢文よく読めているなんて考えているなら思い上がりも甚だしいぞw

156 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:09:26.68 .net
中国人の倭人伝解説で
有意義だったのは
至と到の違いを指摘した人かな。

5ちゃんで、教わっただけだけどw
既に亡くなっていた師。

台湾は今でも漢字なのかな?

157 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:10:45.83 .net
「女王國の東に海があり、千里向こうにも倭種がいる」
九州説なら周防灘でスッキリだが
畿内説では伊勢湾に当てるしか無いか
古代の尾張は現代とは海岸線が全く違う
ほとんど海で長島やら津島やらはほんとに島だった
だから船で移動するのが普通だった
西海道、南海道、と同様、船でしか行けない地域はナントカ海道と名付けられる
出発する国も含めることもある(紀伊伊勢)
要するに、伊勢から船で行くから東海道なわけだ
問題は狗奴国とかぶっちゃう所だな
狗奴国を他に設定する必要がある

158 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 22:13:09.74 .net
東遷説はあまえ

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