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【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart20

1 :日本@名無史さん:2024/03/25(月) 03:01:59.06 .net

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1710736885/

723 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 23:24:15.68 .net
『後漢書』や『三国志』の挹婁伝(ゆうろうでん)には、つぎのように記されている。
「弓の長さ3尺5寸の短弓(約96センチ)。」(『後漢書』『三国志』同文)
「矢には毒をほどこし、人にあたればみな死ぬ。」(この文は、『三国志』による。

アイヌの弓文化が、短弓で毒矢をもつのに対し、倭人の弓が、長弓(2m近い)で
毒矢を用いないことなど、弓矢、については、文化の系統が異なるようにみえる。

ヒマラヤとみられる毒矢文化を、アイヌ祖先集団に伝えたのは北方の挹婁(ゆうろう)族
であろう。」(『毒矢の文化』紀伊國屋書店、1962。『毒薬』毎日新聞社、1965年刊)

724 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 23:25:31.63 .net
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「漆塗り丸木弓」
中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、
この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の誕生地と云われる。

原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。

この「漆塗り丸木弓」は朝鮮半島北部や満州平原からはまるっきり出土しない。

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725 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 23:26:20.62 .net
>出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。

重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した
漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。

秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期)

縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。
弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。

埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。
長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。

(国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に
 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。

726 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 23:29:06.16 .net
周王朝の創始者、周の武王が殷の帝辛(紂王)を滅ぼすと(前1046年)、
満州平原の粛慎(しゅくしん)が石砮(せきど)と楛矢(こし)を献上してきた。

(紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して
『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。

『史記』孔子世家(BC500年頃)
粛慎は尺(十寸)一咫(八寸)の楛矢(こし)と石砮(せきど)を貢献しました。

「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、
幹が矢幹(やがら)に適している。3尺5寸の短弓で、長さ1尺数咫の楛矢がある。
 ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。

『晋書』粛慎伝
粛慎氏、一名に挹婁、不咸山(ふかんざん長白山)の北にあり、扶余から六十日の行程。
東は大海に沿い、西は寇漫汗国と接し、北は弱水(じゃくすい)に極まる。

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