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邪馬台国畿内説 Part1011

1 ::2024/04/09(火) 09:31:04.91 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

138 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:42:26.62 .net
126
おまえらドロボーの意見は参考にならん

現生中国人より東夷人らの方が緻密なものを作り上げる

139 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:49:39.47 .net
三角縁神獣鏡は、やっぱり中国で作られていた
「鏡の古代史」辻田淳一郎 1973年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院准教授
この本は面白かった!
https://books.j-cast.com/2020/01/24010696.html

140 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:03:24.29 .net
山崎1936

141 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:13:20.50 .net
そもそも日本国の公式見解は
「卑弥呼? 神功皇后のことかもねー 知らんけど」だったわけで
やっとここへきて収まるところに収まりつつあるようだ
本居宣長以降の300年に渡る顛沛流浪はもうやめにしよう

142 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:16:27.58 .net
つまり畿内説は低能学者の同人誌でしたと

143 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:28:23.10 .net
>>130
海草とか海魚由来の炭素以外は海外のと同一の年代が出てるのに、どういう根拠で否定できるのか

144 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:29:52.74 .net
🤔俺の意見は卑弥呼の正体は魏って国がそもそも大王、女王の役割り分担だから

卑弥呼の鬼道だのもな😳

曹操が死んだのが西暦220年だ

その後日談かな?ってとこ

なんで日本に来たんだよ?

145 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:31:25.06 .net
日本に住んでる女酋長とか🤔

そっちのがでっち上げだろ😳

146 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:33:12.67 .net
アマテラスと卑弥呼がこうまで似ているのはどう考えても異様

147 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:34:38.07 .net
似てないよ

148 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:36:36.23 .net
勘違い皇国論者では崩せないよ
本居もそっ
商業右翼として語り継ぐんだな
九州には甕棺族の痕跡しかない、決定的だよ
甕棺が東遷して神仙思想を始めたのか?誰に教わったんだ?自然発生か?
無駄だよ結論はもう出てる
吾輩からすればそもそも日本を勘違いし否定しているように感じるがね。
もうほぼ古の辰国を自称する者らだよ。卑弥呼とは関係が無いな

149 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:36:57.57 .net
卑弥呼が鬼道だってえなら大王の妻として敵に呪いをかけ呪い殺すような集団のリーダーだったってえこと

これは実に中国らしい話となりますなあ

150 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:38:35.07 .net
148
無駄無駄
おまえら日本内に潜り込みたいんだろうが結論あり気で話をどんどん誤魔化すから話にならないんだよ

151 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:39:17.75 .net
漢字から読み解くくらいのこと俺だって出来るわ😳

残念だったな

152 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:42:29.00 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

153 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:43:12.55 .net
なんだその呪い殺すというのは
卑弥呼鬼道、巫女道は隋代まで一番信用されていたんだよ、呪い殺し続けていたのか?笑っちゃうおつむだな

154 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:45:22.14 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900

155 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:46:48.71 .net
アマテラスと卑弥呼は似てない
放射読み

さすがにこの2つは天動説的に無理がある

156 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:48:36.11 .net
道教は万物だよ大物主だな
なんだその太陽って?
平原の柱に鏡を取り付け赫々しい光だろ?菊花紋章だな。

157 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:48:56.23 .net
畿内説は古代日本列島90度地動説だから

158 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:49:55.28 .net
太陽神は義和だよ
天照は義和なんだ

159 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:50:48.66 .net
>>121
鷲崎は炭素年代法はその表よりも遡るって言ってんじゃないの?

160 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:51:42.57 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである!

161 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:52:45.72 .net
鬼道、道教の起源地徐州ゆかりの三角縁神獣鏡

162 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:54:58.28 .net
曹叡は巫女を呼び祓わせたが効果なく処刑している
が卑弥呼に対しては別扱いしているんだな。
その辺のイタコとは違うんだな。
因みに曹家皇后では琪瑛は天后なんだよ。水神様だ

163 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:00:20.94 .net
ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

164 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:03:08.83 .net
安本の天照=卑弥呼、および邪馬台国東遷説を読んでみたけど
話が出来すぎていてどうにも信用ならなかったな
神武東征の根拠は?と問われて「神武の英雄性です」
ここで一気にしらけた

165 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 19:07:12.10 .net
本州倭種が神獣鏡の神獣を説明していた人は誰よ?
崇神とやらか?何処からその知識を得たの?説明して

166 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:10:43.98 .net
>>159
>鷲崎は炭素年代法はその表よりも遡るって言ってんじゃないの?

そんな変なこと言う理由は?

167 ::2024/04/09(火) 19:15:13.62 .net
国譲りと神武東征どっちが先か?
って話なんだが、時系列で言うと、こう

倭国大乱後 漢鏡の変移からニギハヤヒ東征

相攻撃状  国譲り神話の最中

卑弥呼死後 国譲りの途中から神武東征にすりかわる

こうだろうなw

168 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:16:02.21 .net
>>165
自分の頭を使って考えろw

169 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:16:55.38 .net
>>163
>ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、

「有棺石槨」だっていう理由は?

170 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:19:34.69 .net
国を譲ったのは出雲だよ
畿内から見てまずは出雲が先、九州を飲み込むのはそのあと
先に九州なんてことはない

171 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:20:21.76 .net
>>157
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i7c8b819d3f31124d/version/1632177706/image.jpg
九州説コピペカスも奴国から東→不弥国を北に替えてるな

172 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:22:29.84 .net
>>170
アンタ面白いわ
まぁがんばってw

173 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:22:38.02 .net
シュリーマンのトロイア発掘みたく、俺の生きてる間に決定的な証拠が見つかって欲しい

174 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:23:23.78 .net
>>164
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚

175 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:26:36.25 .net
>>149
同じく鬼道と書かれてる五斗米道とか、近縁の太平道でさえも敵を呪い殺すような宗教じゃなかったと思うが

176 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:27:15.61 .net
某九州説団体の主張はあまりにも荒唐無稽
14Cも年輪年代法も酸素同位体比年輪年代法も全て、M氏年輪年代法を元に作っているのではないかと言っているが、馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない

177 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 19:29:55.34 .net
168.そのいい加減な話を人に考えて貰うには辻褄があってないとダメだよ、
それは俺が考えるんじゃなくてあなたが説くの
何れにしろだな、朝鮮神宮はアマテラスなんだよ。
まぁこれが全てだな
また満州は阿残の地だしな。何故そんなに隠したがるのか?何故恐れるのか?解らんねぇ
我はこれまでを否定しないのにな、この国を勘違いしてるよ君らわ

178 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:32:29.11 .net
卑弥呼の墓が「棺有りて槨なし」かどうかは分からない
この後にこう続く
「始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりするが、それは(一周忌に白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。」

すなわち、一般人の墓は棺有りて槨なしと見るべきである。

179 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:32:51.83 .net
国譲りで譲ったのは葦原中国(本州)

180 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:34:26.91 .net
>>171
ちゃんと南に水行できるようになったな
https://i.imgur.com/uuPsW3t.jpg

181 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 19:37:29.09 .net
178.そのとおり
倭人の風習が記されているのが倭人伝。
卑弥呼は鬼道で中華には全て説明されているのだよ。

182 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:38:25.49 .net
>>173
邪馬台国が畿内であることは明白であるが、シュリーマンのような証拠を期待するのは難しいでしょう
例えば、曹操の墓の決め手になったのは「魏武王」の文字のみ
いまだに、あれは曹操の墓ではないと主張する中国人学者がいるぐらいなんで

183 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:40:55.39 .net
>>99
それNHK特集でもやってたけど
皇室廃絶キャンペーンの一環にしか思えなかったわ

184 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:47:02.88 .net
卑弥呼、卑弥弓呼の最後についてる呼(ホ)ってなんだろう?

185 ::2024/04/09(火) 19:51:20.39 .net
>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ
・黄幢   ヨロズハタヒメ
載斯烏越  サイシュフツ(ヌシ)

VS

>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智卑狗 ウヅヒコ(東征中の神武に従属)

完璧でーーーすw

186 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:53:02.12 .net
そおおまえらが言い張ってるだけなんだよ現実はな🤔

187 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:53:51.96 .net
😳なんかのパズルでもやってんのか?

てよりそれなら日本の創建の話とまったく関係なくなってくるだろ

188 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:55:00.86 .net
>>180
やっぱり陸を水行してるな

189 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:57:12.90 .net
>>188
たくさんの船頭を動員したら船で山を登れる、んだっけ



船頭多くして船山に上る

190 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 19:58:21.66 .net
卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼
・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか

古事記では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火照命(ホデリ=海幸彦)
・第二子 火須勢理命(ホスセリ)
・第三子 火遠理命(ホオリ=山幸彦)である

日本書紀では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火酢芹命、火闌降命(ホスセリ、ホスソリ=海幸彦)
・第二子 彦火火出見尊、火折尊(ヒコホホデミ、ホオリ=山幸彦)
・第三子 火明命(ホアカリ)である

記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶の建国神話、檀君朝鮮の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、天から王が降臨する神話があり、日本神話も同様である
伽耶は製鉄遺跡の多い地である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武の名も製鉄業とされる彦火火出見命であるが、
これは後世に付けた名前であるのなら、祖父と別の名前にするはずである
漁猟だけの時代ではなくなり、稲作や鉄工といった資本関係が生まれて貧富の差が出来、そして長い年月を経て豪族と庶民の区別が出来た
九州では製鉄王が王様となっていたのである

畿内で行われた倭の覇権争い(いわゆる倭国大乱)を終結させたのは神武の婿入りである
倭の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、畿内への交易路を確保していたので安定した

191 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:01:16.99 .net
でもさ、卑弥呼の実在を疑う研究者って少ないけど、普通にありえると思う
「国民の歴史」で知られる西尾幹二は魏志倭人伝はとても歴史資料として扱えるレベルにないと断定した上で
卑弥呼の記述は日本に伝わっていた天照大神の伝承が反映されただけのものとした

192 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:03:56.53 .net
>>191
確実に正しいだろうと考えられる部分はある、国書の文面だ

ほかは全てフィクション、という可能性もあるだろうが……

193 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:07:59.13 .net
トンデモどもよ、まぁ、落ち着け!

お前ら、碌な遺跡がないんだから、いくら夢を見ても無駄なこと。 諦めな。   @阿波

194 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:16:34.18 .net
🤪🌿きえーきえーきえー

😄→🥶→💀 🐷何人呪い殺すニダ

195 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:18:41.45 .net
祭儀は全て卑弥呼さまが取り仕切っておられる🐷

何人も死んだニダ🐷

196 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:19:14.81 .net
>>189
バイキングは分水嶺を船を担いで超えたらしい
海人族も日本海側から太平洋側に船を担いで超えた可能性ある

197 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:20:55.60 .net
https://i.imgur.com/SX0hnDk.png
火見王、火見狗王か?

198 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:28:28.16 .net
前方後円墳の原型と考えられている陸橋を持つ弥生時代末期(2世紀中ごろ〜後半)の
大型円形周溝墓(直径約31メートル)が奈良県橿原市城殿町の瀬田遺跡で見つかり12日、
奈良文化財研究所が発表した。墳丘は失われていたが周溝ははっきり残り、
国内最大級の規模。奈良県内では初の発見で、専門家は「前方後円墳の誕生を考える重要な資料」とみている。
円形周溝墓は墳丘部の直径約19メートル。幅6〜7メートル、深さ約50センチの溝をめぐらせ、
南西部に長さ約7メートル、最大幅6メートルの陸橋が付いていた。埋葬施設は見つかっていない。
同県の大和盆地東南部には、最古級の前方後円墳・箸墓古墳(桜井市、3世紀半ば)があるだけでなく、
その前段階とされる纒向型前方後円墳も確認されている。今回の周溝墓は、
さらに古く、前方後円墳の原型だった可能性がある。

陸橋を持つ弥生時代の大型円形周溝墓は四国や近畿に多いが、同県内では見つかっていなかった。
奈文研は「纒向石塚古墳(3世紀初め)など『纒向型』と呼ばれる前方後円墳につながる形を持つ周溝墓だ。
奈良県内で見つかったことには大きな意義がある」としている。
石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)は「前方後円墳の先がけのような姿。
纒向遺跡に前方後円墳が誕生する直前の大和盆地の姿を解明する資料にもなる」とした。

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/2bb47f55156c471c570886e0ec5a6123_4097c6352c9267c8aa0660b65b043016.jpg

199 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:28:50.12 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

200 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:33:01.90 .net
>>198
なにこれすげえ
卑弥呼の墓だろこれ

201 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:34:53.87 .net
>>198
箸墓は諦めてこっちにしたらいい

202 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:38:54.83 .net
>>198
奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されている。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土しており、
弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされている。
さらに、弥生後期後葉になると、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがある。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である
萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)がある。
萩原1・2号墓は、突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、
奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されている。   @阿波

203 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:39:50.81 .net
8年も前の発見にいまさら何で?
このスレのレベルを疑ってしまうのだが

204 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:40:20.10 .net
>>201
奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されている。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土しており、
弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされている。
さらに、弥生後期後葉になると、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがある。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である
萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)がある。
萩原1・2号墓は、突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、
奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されている。   @阿波

205 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 20:41:08.62 .net
トンデモどもよ、まぁ、落ち着け!

お前ら、碌な遺跡がないんだから、いくら夢を見ても無駄なこと。 諦めな。   @阿波

206 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 21:18:34.90 .net
橿原が2〜3世紀で、纏向が3〜4世紀

207 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 21:27:33.34 .net
纏向=邪馬台国への自信の無さを吐露しているようにしか思えん

208 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 21:32:10.56 .net
纏向は三輪王朝だから卑弥呼より数世代後だろ

209 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 21:41:15.78 .net
古墳は壺型の蓬莱山。神獣鏡と共に神仙思想の産物。

210 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 22:02:18.21 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

211 ::2024/04/09(火) 22:03:54.43 .net
>>209
ご名答♪

851 日本@名無史さん 2023/12/26(火) 14:03:32.07
前方後円墳のカタチは「壺」から来ている

その「壺」は、「蓬壺」から来てると考察w

678 日本@名無史さん 2023/12/20(水) 12:52:43.19
蓬莱山 ←「蓬」は「よもぎ」

よもぎ→よも→黄泉→富士山

簡単な答えですw

よもぎの由来は、こっちが正解なんじゃないかと
訓読みでのねw

ちなみに蓬壺 ←ほうこ

ほう‐こ【蓬壺】
(その形がつぼに似ているところからいう) 仙人のすむという蓬莱山の別称。また、上皇の御所をたとえてもいう

↑前方後円墳のカタチの由来って、これでしょw

「壺」

つまり、前方後円墳は、蓬莱山を模してるとw
完璧でーすw


ちなみにちなみに「よも」 ←よもやま話の四方山

212 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 22:04:23.98 .net
>>190
結婚してないって書いてあんだろ
最初から魏志倭人伝を無視すんなよ

213 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 22:19:47.47 .net
■本邦初の異国政府の公式訪問であった

  狗邪韓国、伊都国には「到」の字が使用されている
  その他は「至」である
  魏略で1万戸あった伊都国の人口が、魏志では1千戸となっている
  これは、かなりの短期間で、畿内への民族大移動クラスの東遷があった事を想起させる
  伊都国には、大和朝廷の王族、高官等が大挙集結していたのではないか
  女王に属す30ヶ国の官等も集結したはずである
  高齢の女王は面会に訪れず、だから直接会っていないとなっている
  「夫がいない」とは生涯独身ではなく、既に神武の未亡人なのである
  都の位置を問われ、倭人が方位で回答したと思えず、日出づる方角と回答したはずである
  魏は、伊都国までの経路を問うた
  であるならば、出雲ルートはあり得ず、瀬戸内海ルートの事を述べている

214 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 22:39:18.99 .net
>>210
投馬は多摩!伊都は江戸!!邪馬台国は安房!!!

215 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/09(火) 22:45:51.32 .net
Xで久住先生のレスバを見たのだが、ネトウヨ九州説の底辺低知能の陰謀論者っぷりが酷いな
久住先生は韓民族の民族主義に批判的で妙に敏感なのが気になる。
日韓平等に国粋主義による学問のねじまげが嫌いという気持ちは分かるのだが、ネトウヨを叩くのなら韓国人は叩かないで欲しい

俺は大人としてネトウヨ陰謀論者を叩く先生の攻撃性を支持する
一つ要望としては親日韓国人は叩かないで欲しい

216 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:08:42.45 .net
えべっさんの話でしょ
五色に光り輝く石を持つえべっさんは堺に降臨して、磐山を作り五色に光り輝く石を埋めた
後を継いだのは誰か?

元々日真名子は誰か?という話でしょ
卑弥呼、卑弥弓呼も誰かの配下だったんじゃないの?

217 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:10:09.86 .net
神武も神功も磐余に宮があった

218 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 23:17:00.48 .net
卑弥呼が配下にいるなら随分と控えめな支配者だな
箸墓の築造列にでも並んで居たのかな?

219 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:18:01.70 .net
出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。

神武天皇や神武天皇の兄、御毛沼命、三毛入野命と非常によく似た名だな
記紀では三毛入野命、御毛沼命は常世に去ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある

若御毛沼命、豊御毛沼命、狭野サヌは神武天皇の名だ
スサノオに瓜二つ

兄と弟の関係はどうだったのか?
長い年月を経て弟から兄にという話じゃないのか?
長い長い大国主誕生迄の系譜は新たな大国主誕生の系譜かもな
最後はスサノオの姫を娶り完成する

220 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 23:25:19.72 .net
出雲も宇佐も韓神であると言っとるだろう。覆せる要素はもう無い
思い込みは自由だが統一の信者とかわらん

221 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:30:48.79 .net
狗奴のミコト

222 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:32:58.55 .net
アシナヅチ、テナヅチの子、櫛稲田姫クシナダ姫
ナヅが名の核だ
那津の板付遺跡から始まった稲作民の姫じゃないのか?スサノオの妻は

ナヅの木は枯野伝説の返歌に登場する
楠は切られ船にされ最後は燃やされて琴だけ残った

クニの語源にも関係するがクには神聖なという意味があるらしい
スは鳥だ
神聖な鳥の木が楠
琴は女、姫だろう
楠はスサノオの眉、眉は目マナコの上にあるものやな

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此これは志都しつ歌うたの歌返うたかへしぞ。(仁徳記)

最後は琴だけになった楠
ナヅの木は由良の門の石に触れて蘇ったのだな
楠から由良の門の石に

223 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:35:41.50 .net
仁徳天皇陵は新しい大国主、聖ヒジリの墓じゃないの?

224 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:40:11.11 .net
楠を切ったのは誰だ?
楠の船を燃やしたのは誰だ?
という話だろ?

225 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 23:44:18.77 .net
テとアシが生えずに誕生したのはひるこでしょ
イザナギ、イザナミの長男
稲作民がやってくる前、縄文時代より前、淡路島より前に誕生したのがひるこ
ひるこのえべっさん

226 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 00:14:40.88 .net
>>224
> 楠を切ったのは誰だ?
 
親父を殺ったのは足利尊氏。
伜の方は高師直だったか。

227 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 01:09:53.62 .net
>>196
分水嶺のとこで川と川の間を陸路で船を渡したって話はあるよ
ほかの分水嶺よりも低い、平坦に近いとこを通って越えられる便利な場所として丹波が有名らしい

228 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 01:11:56.07 .net
>>214
安房ってだけあって、思い切り泡沫候補やな

229 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:24:25.87 .net
>>228
まぁ、関東忌部だからな。   @阿波

230 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:37:39.35 .net
>>160
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。

231 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:51:35.71 .net
筑紫は隈・西小田遺跡が最大の勢力であり、そこに邪馬台国はない

232 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:53:43.95 .net
楼観なし城柵なしの纏向遺跡は4世紀。そこに邪馬台国はない。

233 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:54:44.21 .net
九州なら伊都国からの里数を記載しない理由が無い

234 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 06:57:49.45 .net
魏使も張政も纏向まで陸行したなら、日数表記ではなく里数表記になっているはず。
つまり纏向まで行ってないわけで、卑弥呼の年齢、宮殿の墓の描写だけがやけに詳しく具体的なのは変だ、とまともな人間なら気付くだろうねw

235 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:00:15.03 .net
纒向が3世紀であることは桃核12個から明白
4世紀よりはむしろ2世紀の可能性が高く、3世紀であることが確実

236 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:00:43.06 .net
>>150
>>152
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマトの諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマトの諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

237 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:01:04.54 .net
>>234
九州説であったとしても畿内であったとしても行ったと見るべきである

238 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:05:23.29 .net
行ったなら里数が分かりそうなもんだが

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