2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1011

1 ::2024/04/09(火) 09:31:04.91 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

239 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:05:51.62 .net
女王国東渡海千里 複有国皆倭種、又有侏儒国在其南去女王四千里は明らかに本州と四国。
また南陸行一月だが、魏使・張政が「陸行」してる時点で里数表記になってるはず。
しかも卑弥呼に直接会っていると思しき年齢・政治体制(弟が摂政)、宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛、殉葬百人など直接見ていない情報から、
彼ら魏人は九州島を出て纏向まで行っていないことは明らかだw

240 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:06:58.25 .net
直接見ていないと書けない情報からw スマホ

241 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:09:07.67 .net
九州では、漢鏡7-2画文帯神獣鏡の20面の半分は大分から出る
また、三角縁神獣鏡も北部九州の東岸(より畿内に近い方)から出る

筑紫に邪馬台国があった可能性は全くない

242 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:10:59.03 .net
つまり邪馬台国が纏向にあった可能性はゼロだw

243 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:15:06.38 .net
中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

244 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:20:38.28 .net
帯方郡からが
循海岸水行歴韓国乍南乍東
各寄港地名と説明

瀬戸内海だか日本海が
南至水行20日投馬国
南至水行10日
って、倭国内は
何も説明してなくないか?

245 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:24:20.23 .net
つまり畿内説は論理的思考力皆無の小卒レベル

246 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:29:04.41 .net
女王国は、伊都国(糸島市)の南、狗奴国(菊池市)の北、にあったんだよw

247 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:30:17.45 .net
>>244
投馬という港の名前を答えたのを国の名前と思って書いた

248 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:32:15.31 .net
女王国というのは、伊都国や奴国や不彌国の総称

伊都国は神武の一族、不彌国は応神の一族
畿内生まれの創始者は崇神のみ

249 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:35:06.88 .net
>>247
投馬は(中)津かもしれない

250 :琪瑛教大祭酒:2024/04/10(水) 07:37:41.84 .net
無駄だよ、液やくは宮廷保護者、その者に送られている以上張政は都に行っているのだよ
伊都の官は刺史のような者
これは地方官。
全くいい加減な話をしているのが九州である
九州の責務は平原は朴個人崇拝の地域であり卑弥呼以前の北九州はどうであったのか?を解明すべき
卑弥呼倭の管理下は覆えらない

251 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:43:48.26 .net
畿内説は印象操作がんばるべしw

252 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:56:29.89 .net
最低でも上陸地名と戸数は書くはず。
海岸水行なのに、島や浜のような
土地や人々の様子も記録して無い。
別の文だろ?

253 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 07:56:38.42 .net
>>235
まぁ、落ち着け! 纒向が2世紀であろうが3世紀であろうが、倭人(阿波勢力)の墓であることに変わりはないんだから。   @阿波

254 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:03:37.82 .net
>>252
魏略では対馬も行って、不彌国まで行ってる
魏志では日本では伊都国のみで各国高官と面会している
邪馬台国は魏略には出て来ない、魏志で伊都国で聞いた話

255 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:04:33.05 .net
魏略では狗奴国も行っているな
つまり、狗奴国までが九州

256 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:10:08.66 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

257 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:17:19.27 .net
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる

258 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:26:34.93 .net
廣志を見れば倭国が九州島であることは確実


「倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、
 百女國以北、其戸數道里、可得略載、
 次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、
 安倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革為衣、蓋伊邪國也。」

→倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又南して邪馬嘉(台)国に至る。・・・
  次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。
  倭国の西南に海行すると1日で伊邪分國(屋久島)に到達する。・・・

259 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:41:50.29 .net
>>258
廣志にそう書いてあった証拠ないんだよね

残念でした

260 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:43:27.88 .net
>>255
魏略は倭が九州であることを
理解している。

船を降りて歩いたら
伊都、不弥国から水行は不可能。

投馬国は弁韓とは思うが不明?
邪馬台国は女王国のこと。

261 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 08:59:19.35 .net
>>152
>>154
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマトの諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

262 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 09:09:32.33 .net
>>261
「魏志倭人伝の記述に完全に一致している」って
印象操作に必死な九州説

263 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 09:10:43.34 .net
つまり畿内説はオレオレ詐欺

264 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 09:37:51.15 .net
魏志倭人伝の唯一正しい記述は大和朝廷がわざわざ卑字の漢字を書き換えている耶麻等、野馬台の名前。邪馬臺=ヤマトだけだw

265 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 09:51:28.99 .net
>>244
帯方郡から循海岸水行歴韓国乍南乍東の日数が何故ないんだ?

266 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 09:52:19.92 .net
つまり畿内説は記紀の後付け地名ヤマトによる電波

267 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:01:21.21 .net
>>256
卑弥呼派倭王だから
帥升も倭王だし漢代に金印貰ったのも倭王

268 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:04:41.61 .net
>>247
投馬国は寄港地の対馬だよ
日本に向けて出発する直前の港

269 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:06:30.79 .net
卑弥呼時代の紀年鏡が複数ある時点で邪馬臺=ヤマト。4世紀の古墳王朝には邪馬臺国の後継意識があった。
九州ざまあーwww

270 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:07:39.73 .net
対馬を避けて狗邪韓國なんか行くわけねえじゃん

271 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:16:08.27 .net
紀年鏡の謎は、富雄丸山古墳(4世紀後半)から出土した5世紀の蛇行剣追葬により、解決している

272 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:21:47.83 .net
奈良って紀年銘鏡少ないよね
鏡の総数に対する紀年銘鏡率は、出土県の中で最下位だ
これがなんの指標になるのかね?

273 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:24:07.97 .net
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣は、5世紀(50回忌か)に制作され、追葬されたと見られることから、
紀年鏡など築造年代と合わない副葬品は、前期古墳では主体部に直接追葬したものと考えられる。

274 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:24:43.90 .net
漢代の紀年銘鏡は違うと思うけどな

275 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:26:28.78 .net
>>272
纒向石塚、東田大塚、纒向勝山、纒向矢塚、箸墓、行燈山、西殿塚
めぼしい墓はほとんど調査してない
桜井茶臼山正始元年鏡は出てるが

276 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:29:19.44 .net
>>265
>帯方郡から循海岸水行歴韓国乍南乍東の日数が何故ないんだ?

フィクションの1万2千里を記録したい人たちが記録から消した。

277 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:29:57.49 .net
中国サイドからすると、九州卑弥呼の邪馬台国がすでに倭国の中では一番有名な国になってたので、
畿内大和王権は九州併呑後にその後継を名乗った。後継意識はあるけど、客観的に見ると乗っ取りとかなりすましって感じになるわね。

旧唐書に、倭人がいいわけしまくってる描写が書いてあるしね。
倭人の言ってることを中国官吏があやしんできいてる描写もあるしね。

278 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:32:59.25 .net
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣(5世紀)の画期性は、副葬品の追葬の可能性が高まったことで、
紀年鏡が出たからと言って必ずしも築造年代の特定には至らないということで、「副葬品=築造年代」としてきた畿内説の牙城を根本から覆すものであることだw

279 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:33:07.93 .net
>>276
瀬戸内海だか日本海が
南至水行20日投馬国
南至水行10日
って、倭国内は
何も説明してなくないか?
この書き込みに対するレスだよ

280 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:38:22.41 .net
>>277
逆だろ
あの言い訳は朝貢してた国とは別だよと言いたいんだろ
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す

281 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:42:08.33 .net
まあ実際に朝貢してた国とは別種だしね

282 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:44:19.28 .net
>>281
だったら正直に知らない人たちと言えば良いんだよ

283 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:49:41.18 .net
正直に併合したと言ってる

284 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:49:53.93 .net
卑弥呼どころか倭の五王も知らないって事になるからな

285 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:52:49.41 .net
倭人「我々は元小国であったが倭の国を併合した」
倭王武「先祖が西に66国を併合した」
倭王讃「祖父が西に66国を併合した」

畿内説「全部嘘です」

286 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:54:23.93 .net
>>283
併合したってのは飲み込んだって意味だろう
併合されたんなら正当な後継国になってしまうし立場は属国

287 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 10:57:21.81 .net
>>278
つまり畿内説は単細胞クズ

288 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:05:27.54 .net
>>278
九州説さん
考古学を無視した妄想して、なんか楽しいの?

289 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:07:56.15 .net
畿内説に転向した文盲クズは黙ってろw

290 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:18:37.32 .net
大和朝廷が邪馬臺国の後継なのは否定できないwwww

291 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:29:11.88 .net
九州北部に5万戸7万戸の大国とか、一ヵ月歩くとか普通に頭おかしい

292 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:29:50.23 .net
>>289
論破されると罵るだけになるから
九州説の敗北は分かりやすい

293 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:32:09.43 .net
楼観なし城柵なしの纏向遺跡は女王之所都ではないし、吉備特殊器台の(殉葬がない)箸墓は卑弥呼の冢ではないw

ハイ論破!w

294 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:34:32.53 .net
>>293
投馬国邪馬台国は何処で、どこを一ヵ月歩くの

295 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:37:39.75 .net
倭人伝の日数記事は、里数記事を日数に換算した後世の加筆注釈にすぎない。作成時期も作成者も異なる。里数記事と日数記事を連続して読んではいけない。
郡から狗邪韓国(投馬国)までの水行7000里は20日に換算。
狗邪韓国(投馬国)から伊都国までの水行3500里は上記の半分なので10日に換算。
伊都国から女王国(邪馬台国)までの陸行1500里は1日50里(約20キロ)進むので30日に換算。
注意点は、以下の3点。
①里数記事は総距離を12000里と引き伸ばしたため、いわゆる短里(一里=80m)ほどで書かれているが、日数記事作成者は事情を知らず魏の標準里(一里=434m)で計算している。
②末盧から伊都は本来は東南水行500里。壱岐から末盧を目指し南下し南東に向きを変えて伊都の港に入る。末盧には寄らないので官の記録ない。方向も南東。行くに前の人が見えずと言うのもアクシデントで上陸したことを示している。
③投馬国と邪馬台国は日数記事作成時の情報が反映されたもの。

296 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:41:09.64 .net
>>295
結論しか言わないので九州説はお互いの主張すら理解し合えない

297 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:41:12.55 .net
漢劉氏以来の万世一系、漢民族のみにしかなれない天子のルールを鮮卑の隋、倭の日本は破った。
天子になったら漢民族から見下された民族史は否定するだろw隋なんて鮮卑文化放棄宣言してるもんなw

298 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:41:55.90 .net
沼と干潟だった古代筑紫平野に大国は無かった 終了

299 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:46:56.12 .net
つまり畿内説は印象工作オレオレ詐欺

300 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 11:55:34.41 .net
>>298
そこ奈良に置き換えても通じそう

301 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:00:43.28 .net
つまり畿内説は半島系ウリナラ起源説の一種でしたと

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?(2015)
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

302 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:00:45.51 .net
>>300
干潟は海岸に出来るものですが

303 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:01:43.07 .net
表音文字と表意文字の違いくらい分かるだろ

304 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:02:57.37 .net
>>302
沼と湿地帯だらけで困っちゃうな

305 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:04:07.26 .net
呉越の末裔ってなら遺伝子🧬はハプロO1を示すはず

だがそれ以外にも曹魏もハプロO1だし東南アジアもそおだし韓国人らもそおだ

306 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:19.94 .net
母さん、俺だよオレオレ、畿内説!w

307 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:32.24 .net
言っても理解すらできず参考にもならんて言ってるやつらはしょせん初めからニセモンなんだよ

308 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:46.82 .net
日程記事と里程記事は、単位が距離から時間にいきなり変わってるし、戸数の書き方も違ってるね
系統の違う史料なんだろうけど、意図的につなげたかもね
倭国を遠い大国とするためにね

309 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:06:18.28 .net
>>291
大阪から奈良まで1ヶ月歩いて7千戸も変でしょ

310 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:06:31.84 .net
日本語ってのは縄文人らの使う言葉に漢字を当てはめて表現できるように細工をしたもんなんでな

311 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:25:29.36 .net
大阪から奈良なら里数表記

ハイ、論破!w

312 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:26:24.27 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

313 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:26:51.13 .net
ヤマト以前に、
近江や摂津、大阪が拠点集落なのは
古墳や倭の五王でも明らかだが、

倭人伝は、なんでいきなり、
邪馬台国5万戸なんだ?
畿内で良いけど、
ヤマトは奥地。

邪馬台国がヤマトなら歴史や地勢は、
どーでも良いのか? 淀川は?
対馬や壱岐の説明有るのに?

314 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:27:31.68 .net
なんだか畿内説が可哀想になってきたよw

315 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:38:20.15 .net
後漢書に後漢の時代のことがしっかり書かれてるよ

倭は韓の東南大海の中にあり山島に居住しおよそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどで
国はみな王を称し代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国にいる

316 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:45:48.13 .net
>>244
倭国は地の果ての国で詳しい地理は分からない、という前置きがあるんだから、おかしくないだろ

317 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:48:46.27 .net
自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来る
里数が記載できとらんな

318 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:49:57.73 .net
>>313
伝聞だし、纏向は王権以前から栄えてたスーパー遺跡
奈良盆地全体だけでも博多周辺より広いし、河内平野もデカイ

319 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:50:17.48 .net
>>272
奈良の古墳は大半が発掘できないから副葬品の出土が珍しいんだよ

高松塚含め少数の発掘しか行われていない

発掘の大半は古墳の中ではない場所なんだ

320 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:51:44.67 .net
>>308
不備国までは魏略
邪馬台国は魏志で1回出ただけ

321 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:52:07.57 .net
>>277
むしろ、記紀の編纂直前ごろまで中国での呼称のことを知らなかったのではないかな

322 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:53:49.80 .net
>>313
魏略では熊本までしか行ってない
魏志では伊都国しか行ってない

邪馬台国は遥か彼方の国

323 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:55:10.60 .net
>>311
行ってないから里数は分からない

324 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:56:28.19 .net
>>297
南北朝時代にはマトモな王朝はない

朝廷から追い出されて地方にすんでたハグレ皇族が建てた東晋がかろうじて漢人貴族系、それ以外はみんな賤民皇帝の国、隋や唐も含めてな

325 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:59:14.57 .net
その以北は行程としての道里で、
南下してきたから、通過してきた
国々の戸数も記載出来た。

って、話で
東行したから要らないのかもな?
奈良じゃ女王国以東表現も無理。

まあ、伊都からは
乗ってきた船無いし、飛行船www

326 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:16:00.18 .net
まあ本物の周王朝系すら跡形もなく記録すら消えてるからそんなもんやろ

匈奴王朝系の武将やらそんなもんが古代中国の武将なのか?

327 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:19:17.95 .net
モンゴル高原に存在した匈奴王朝はハプロQ

あの羽飾りだのは匈奴の名残りなわけだ

周は武将すら出さんかったわけか

始皇帝はO2だろ

呉の伝統だのか伝わった日本の兜飾りは位牌、もしくは鬼の顔

328 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:20:59.03 .net
モンゴルはどこだ?

その隣、沿海州にいたまだ現地在住の部族ですよ

329 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:22:34.97 .net
古代に秦が存在したところより西側に漢人と呼ばれた連中らの大半が住んでたのだ

つまり山西より西側

330 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:24:48.79 .net
>>318
奴国2万戸より少ない奈良7千戸

331 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:25:19.75 .net
東夷って呼ばれた連中らは元は周王朝と戦争やってるからな

そんで征伐されるかなんかして上の方が周王朝系の皇族やら貴族やらが占めるようになっていった

そのときすでに離反したのも出てきてるんだろ

周王朝のハプロはNっての解明されてるからな

そいつらもまたみんな追い出された

民族としてもほとんど消えた

332 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:30:03.81 .net
もともとは呉の武将らが兜に位牌みたいの飾って戦闘をやったみたいだしな

333 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:31:41.38 .net
匈奴って風貌的にはもともとトルコ系に近い連中らだろ

334 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:38:07.66 .net
漢以降、中国内ではどんどん漢人(O2)が増えていった
その逆に東夷人(O1)だの呼ばれた連中らは中国から出て国外に渡るのが多くなっていった

中国人らから見て自分らの認識できないところに行くのが増えたわけやな

335 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:40:28.96 .net
中国東海岸地方にいたやつらが国外に拡散したってのは分かってるからよ

逆に異民族だの言われた連中らが中国内をめざすようになっていったのよな

336 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:46:07.72 .net
古代に瀬戸内海航路が避けられてたのを知らないアホ

337 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:47:33.16 .net
>>330
吉野ケ里一帯は5千人

338 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:31:25.96 .net
つまり畿内説は思考停止の典型ですよと

339 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:34:48.82 .net
>>313
ヤマトは日本の事だから近江や摂津、大阪くらいは全部含んでる

総レス数 1001
391 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200