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邪馬台国畿内説 Part1011

1 ::2024/04/09(火) 09:31:04.91 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

301 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:00:43.28 .net
つまり畿内説は半島系ウリナラ起源説の一種でしたと

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?(2015)
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

302 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:00:45.51 .net
>>300
干潟は海岸に出来るものですが

303 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:01:43.07 .net
表音文字と表意文字の違いくらい分かるだろ

304 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:02:57.37 .net
>>302
沼と湿地帯だらけで困っちゃうな

305 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:04:07.26 .net
呉越の末裔ってなら遺伝子🧬はハプロO1を示すはず

だがそれ以外にも曹魏もハプロO1だし東南アジアもそおだし韓国人らもそおだ

306 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:19.94 .net
母さん、俺だよオレオレ、畿内説!w

307 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:32.24 .net
言っても理解すらできず参考にもならんて言ってるやつらはしょせん初めからニセモンなんだよ

308 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:05:46.82 .net
日程記事と里程記事は、単位が距離から時間にいきなり変わってるし、戸数の書き方も違ってるね
系統の違う史料なんだろうけど、意図的につなげたかもね
倭国を遠い大国とするためにね

309 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:06:18.28 .net
>>291
大阪から奈良まで1ヶ月歩いて7千戸も変でしょ

310 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:06:31.84 .net
日本語ってのは縄文人らの使う言葉に漢字を当てはめて表現できるように細工をしたもんなんでな

311 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:25:29.36 .net
大阪から奈良なら里数表記

ハイ、論破!w

312 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:26:24.27 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

313 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:26:51.13 .net
ヤマト以前に、
近江や摂津、大阪が拠点集落なのは
古墳や倭の五王でも明らかだが、

倭人伝は、なんでいきなり、
邪馬台国5万戸なんだ?
畿内で良いけど、
ヤマトは奥地。

邪馬台国がヤマトなら歴史や地勢は、
どーでも良いのか? 淀川は?
対馬や壱岐の説明有るのに?

314 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:27:31.68 .net
なんだか畿内説が可哀想になってきたよw

315 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:38:20.15 .net
後漢書に後漢の時代のことがしっかり書かれてるよ

倭は韓の東南大海の中にあり山島に居住しおよそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどで
国はみな王を称し代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国にいる

316 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:45:48.13 .net
>>244
倭国は地の果ての国で詳しい地理は分からない、という前置きがあるんだから、おかしくないだろ

317 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:48:46.27 .net
自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来る
里数が記載できとらんな

318 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:49:57.73 .net
>>313
伝聞だし、纏向は王権以前から栄えてたスーパー遺跡
奈良盆地全体だけでも博多周辺より広いし、河内平野もデカイ

319 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:50:17.48 .net
>>272
奈良の古墳は大半が発掘できないから副葬品の出土が珍しいんだよ

高松塚含め少数の発掘しか行われていない

発掘の大半は古墳の中ではない場所なんだ

320 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:51:44.67 .net
>>308
不備国までは魏略
邪馬台国は魏志で1回出ただけ

321 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:52:07.57 .net
>>277
むしろ、記紀の編纂直前ごろまで中国での呼称のことを知らなかったのではないかな

322 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:53:49.80 .net
>>313
魏略では熊本までしか行ってない
魏志では伊都国しか行ってない

邪馬台国は遥か彼方の国

323 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:55:10.60 .net
>>311
行ってないから里数は分からない

324 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:56:28.19 .net
>>297
南北朝時代にはマトモな王朝はない

朝廷から追い出されて地方にすんでたハグレ皇族が建てた東晋がかろうじて漢人貴族系、それ以外はみんな賤民皇帝の国、隋や唐も含めてな

325 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 12:59:14.57 .net
その以北は行程としての道里で、
南下してきたから、通過してきた
国々の戸数も記載出来た。

って、話で
東行したから要らないのかもな?
奈良じゃ女王国以東表現も無理。

まあ、伊都からは
乗ってきた船無いし、飛行船www

326 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:16:00.18 .net
まあ本物の周王朝系すら跡形もなく記録すら消えてるからそんなもんやろ

匈奴王朝系の武将やらそんなもんが古代中国の武将なのか?

327 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:19:17.95 .net
モンゴル高原に存在した匈奴王朝はハプロQ

あの羽飾りだのは匈奴の名残りなわけだ

周は武将すら出さんかったわけか

始皇帝はO2だろ

呉の伝統だのか伝わった日本の兜飾りは位牌、もしくは鬼の顔

328 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:20:59.03 .net
モンゴルはどこだ?

その隣、沿海州にいたまだ現地在住の部族ですよ

329 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:22:34.97 .net
古代に秦が存在したところより西側に漢人と呼ばれた連中らの大半が住んでたのだ

つまり山西より西側

330 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:24:48.79 .net
>>318
奴国2万戸より少ない奈良7千戸

331 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:25:19.75 .net
東夷って呼ばれた連中らは元は周王朝と戦争やってるからな

そんで征伐されるかなんかして上の方が周王朝系の皇族やら貴族やらが占めるようになっていった

そのときすでに離反したのも出てきてるんだろ

周王朝のハプロはNっての解明されてるからな

そいつらもまたみんな追い出された

民族としてもほとんど消えた

332 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:30:03.81 .net
もともとは呉の武将らが兜に位牌みたいの飾って戦闘をやったみたいだしな

333 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:31:41.38 .net
匈奴って風貌的にはもともとトルコ系に近い連中らだろ

334 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:38:07.66 .net
漢以降、中国内ではどんどん漢人(O2)が増えていった
その逆に東夷人(O1)だの呼ばれた連中らは中国から出て国外に渡るのが多くなっていった

中国人らから見て自分らの認識できないところに行くのが増えたわけやな

335 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:40:28.96 .net
中国東海岸地方にいたやつらが国外に拡散したってのは分かってるからよ

逆に異民族だの言われた連中らが中国内をめざすようになっていったのよな

336 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:46:07.72 .net
古代に瀬戸内海航路が避けられてたのを知らないアホ

337 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 13:47:33.16 .net
>>330
吉野ケ里一帯は5千人

338 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:31:25.96 .net
つまり畿内説は思考停止の典型ですよと

339 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:34:48.82 .net
>>313
ヤマトは日本の事だから近江や摂津、大阪くらいは全部含んでる

340 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:35:50.27 .net
弥生時代弥生前期で最大規模か 奈良・中西遺跡に新たな水田跡

弥生時代前期後半(約2500〜2400年前)の水田跡が確認されていた奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、新たに約3500平方メートルの水田跡がみつかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が20日発表した。水田跡は延べ約4万3千平方メートルに及び、これまでに確認された弥生前期の水田跡では全国最大規模とみられる。弥生時代初めに稲作が朝鮮半島から日本列島に伝わったとされるころからまもなく、奈良盆地で灌漑(かんがい)施設をそなえた大規模な稲作が営まれていたことが明らかになった。

 橿考研によると、京奈和自動車道の建設工事に伴い、今年4月から約6千平方メートルを発掘調査した。出土した水田跡の数は410区画、1区画あたりの面積は平均約9平方メートル。小さなあぜで区画され、表面には人の足跡も残っていた。足跡の長さは約15〜26センチで、土を軟らかくするために踏んでいたとみられるという。川のような跡もみつかり、両側に田んぼがつくられていた。弥生前期末(約2400年前)に洪水の土砂で埋まったとみられ、一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。

 弥生時代の水田に詳しい大阪府立狭山池博物館の工楽善通(くらくよしゆき)館長(考古学)は「稲作が最初に伝わったとされる北部九州でも、これほど大規模な水田跡はみつかっておらず貴重な成果だった。今後は稲作を営んだ人が暮らした集落跡や墓地の発見に期待したい」と話す。

341 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:39:53.69 .net
今の中国人(漢人)呼ばれてるやつらの方がチベット系とは混血している連中らが多い

まあ場所的にそおなるわな

342 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:01:07.37 .net
魏志倭人伝も魏略逸文も唐突に女王国とか女王とか出て来るな
魏略は女王が何なのかわからないし魏志もずっと後まで読まないと
女王が倭王だと分からない

343 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:12:49.89 .net
>>340
古すぎ

344 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:14:24.91 .net
>>343
稲作に向いた場所ってのはわかる

345 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:28:25.89 .net
>>343
古くから稲作が盛んだった場所って認めたくない?

346 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:32:34.56 .net
https://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/255.jpg
3世紀頃に奈良盆地は絶好の水田稲作地になり、人口爆増したと思われる

347 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 15:59:43.67 .net
>>346
ところが、弥生の気候変動による大洪水で灌漑稲作は壊滅。 集落遺跡も土砂に埋まり、廃絶となった。   @阿波

348 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:02:36.14 .net
そこで「卑弥呼」=「大宜都比売命」による雑穀栽培が倭国(阿波)から全国へと広まっていった。   @阿波   

349 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:33:11.24 .net
>>347
おまえが何故それを言い続けてるのか訳わかんないんだけど
誰に教わったか知らんが伊勢遺跡とか埋まってないよ

350 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:39:25.62 .net
>>349
埋まって廃絶だ。   @阿波

351 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:50:48.32 .net
>>340
これは神武

352 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:50:59.03 .net
阿波の宗教

353 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:53:09.70 .net
長江百越がO1aらしいからな

O1b1がインドまで到達しO1b2が北東アジアに広がった

354 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:54:02.32 .net
台湾先住民もO1a

355 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:55:45.27 .net
まあ見た目はあまり変わらないだろうが日本に直接来たのは長江そのものとは言えん

長江より北側は確かだけどな

356 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:57:27.22 .net
百越地方は東夷とは呼ばれとらんのよ

357 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:57:52.09 .net
閔越って呼ばれたの

358 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 16:58:50.02 .net
つまり周との戦争は経験しとらんのよなあ

中国史では名指しで東夷征伐が行われているのでな

359 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:01:13.03 .net
>>278
紀年銘鏡はそもそも富雄丸山から出ていない

360 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:03:05.04 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

361 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:03:52.39 .net
中国で閔悦との戦争みたいのが行われたのは漢の時代なのや

はっきり皇帝命令で討伐軍でとるんでな

周による東夷討伐だのってのが紀元前700-800年頃

漢による閔越討伐が紀元前100-200年ころか

その閔越が後のベトナムなんかにも繋がってくるわけだろ

はっきり東夷の離散組が弥生人だよ

362 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:03:56.28 .net
>>330
魏志倭人伝には、「奈良」という言葉も「7千戸」という言葉も出てこない

363 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:05:32.23 .net
>>322
魏略は伊都国までであり、それ以降は散逸したと見られる
魏志は伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国である

364 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:05:41.33 .net
まあどう言っても弥生人は北東アジア系統でしょう
古墳人はよくわからんけど

365 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:10:11.74 .net
>>313
隋書にもヤマトの地勢や淀川の記述はない
歴史の記述はある「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
すなわち、魏志で言う邪馬臺なる者なり

366 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:15:42.75 .net
>>364
形質のコンピュータ解析では渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、
朝鮮人骨よりもはるかに沿海州の北方民族に近い形質だという結果だった

367 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:16:20.43 .net
>>365
文字のない蛮族の何百年も昔の話なんてどうやって調査したんやろな

368 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:18:53.25 .net
自分は邪馬台国初心者なので、スレのレベルにまだ全然ついてゆけないが
國國有市、交易有無使大倭監之 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之 常治伊都國、於國中有如刺史
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
この部分を最初に読んだ時に九州説以外にありえない!と思ったことだけは依然として変わらない
畿内説を主張する人が本当に不思議で仕方がない
それとも自分がまだまだ未熟なのだろうか

369 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:25:49.10 .net
>>367
隋の時代は邪靡堆が都って事だ

370 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:26:27.94 .net
>>365
でもそれ、
倭王が別国也って、否定した事。

昔の史書の
倭国を併合して
今はここヤマトが都
って、聖徳太子が言った。

聖徳太子は魏志読んでて九州説。

371 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:30:56.40 .net
>>368
俺も最初は行程で九州だと思った
ただおまえが例に挙げてるのはよくわからんな

372 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:36:58.40 .net
370
別国なりってことはその地に国としては成立してるってことだよ

紀元前の日本から出てくるのは銅鐸や

だから日本銅鐸王国と書いた

中国の楚と呼ばれた時代と同じ風習なんだがよ

373 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:37:17.81 .net
>>365
裴世清は瀬戸内海ルートで
中国人町や難波津でも待たされた。
奈良から飾り馬のチンドン屋が
行列で迎えに来た。
詳しいよ。

374 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:38:33.55 .net
>>370
しどろもどろのいい訳でしょ?
でも尊大
質問されて「そりゃあ、おめえあれだよ」

375 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:39:00.25 .net
周王家の者らが日本に来たなんてことは言っとらん

飯炊き釜が皇帝のシンボルなの周だろ

それの取り合いをして始皇帝が探せー❗って命令したとか

で見つからなくて金印を作り始めたんだろ

376 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:39:12.10 .net
>>371
玄人的にはそうなるのですか…
自分はこの2か所で九州以外にありえないと思ってしまいました
「邪馬台国の東に海が続き、その先に倭の国がある」
「邪馬台国の(そう遠くない)北に伊都国がある」

377 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:41:13.66 .net
>>369
後漢書李賢注(唐代)にもあるように案じないと邪馬臺国の訛りかどうかわからんわけで
何か核心があって魏志の邪馬臺国だと言ってるわけではなくて
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」ヤビタイは発音が似てるから魏志のヤマダイだろうと推測してるにすぎない

378 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:41:16.53 .net
>>368
>この部分を最初に読んだ時に九州説以外にありえない!と思ったことだけは依然として変わらない

思った理由の言えないところがーーー

>それとも自分がまだまだ未熟なのだろうか

ーーー未熟だと言える

379 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:43:22.08 .net
>>376
思う理由がわからない

380 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:43:59.84 .net
>>378
これから勉強していきたく思っています
理由としては>>376でどうでしょうか?

381 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:44:13.47 .net
漢委奴国王と倭国王帥升(倭面土国王帥升)が北部九州にいたのはほぼ間違いない。
では、親魏倭王がどこにいたか?
畿内が有力だが、魏志倭人伝の文言と畿内の出土物が全く一致しない。纏向遺跡も箸墓も倭人伝の記述とは、大きくかけ離れている。吉備あたりの可能性が高いんじゃないかと思ってる。

382 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:45:21.93 .net
女王国東渡海千余里復有国皆倭種は畿内説にとって致命的にすぎる

383 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:46:28.84 .net
>>373
>中国人町や難波津でも待たされた。

その難波津は、さぬき市の難波郷津田の津な。

後期聖武難波の宮に、津はないから。   @阿波

384 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:46:57.77 .net
>>376
ドの付く素人だけどさ
まず倉庫はいたる所にあるしそこで市をやって物が行き渡るようにしてたと書いてある
大倭は役職じゃなく中国人に理解できる偉い倭人とかそんな感じ
それと一大率は刺史のような地方官で伊都国だけに居るんじゃない
軍隊を率いてるから恐れるのは当たり前

385 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:51:13.11 .net
普通は、

東に海がある→周防灘かな?畿内説なら伊勢湾だろうけど無理があるな。当時は海岸線が内陸に入っていると言っても。
北に一大率があり、伊都国に治す→糸島市の南だから九州かな?
南に狗奴国がある→東海地方を狗奴国とするのは無理だな。南ではなく東だから。熊本平野、菊池平野ならバッチリだな。となると九州だな。
会稽の東→畿内に中心がある国を会稽の東なんて表現しないよな。やっぱり九州北部だな。

普通に読めば畿内説は無理でしょとなる。

386 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:52:50.92 .net
>>377
ずっと中国から行く場所は変わってないんでしょ

387 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:52:59.73 .net
銅鐸は古いよ〜

すでに紀元前700年ころには作られていたからね

フィリピンからも出るし東南アジアからも出る

その連中らでそっちに行ったのがいるってことだな

388 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:53:10.60 .net
>>385
畿内説にとって都合が悪い記述は全て嘘ということになるのでへーきへーき

389 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:53:18.83 .net
地面を掘るのもタダではないし、遺跡を保護するためにも邪馬台国やら卑弥呼やらを示唆すれば有利になるよ

390 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:53:46.82 .net
>>385
魏略には東とは書いてない

391 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:54:21.49 .net
>>384
どうもありがとうございます
頓珍漢な質問をしてたら申し訳ないのですが、
多くの人が北九州に比定している伊都国に近い(ように記述されている)邪馬台国が九州にある
という考えは単純すぎるのですか?

392 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:54:21.86 .net
つまり畿内説は時空を歪めて印象工作を行い妄想作文を歴史と呼ぶ韓国式ウリナラ起源説でしたと

393 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:54:29.07 .net
現代の中国の文化とはちょっと異質かもしれない

394 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:54:40.23 .net
>>390
逸文しか残ってないから書いてないのか書いてあっても残ってないのかわからん

395 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:55:46.82 .net
なんか土の中に埋めて呪いするんだか国境線とするんだか知らないが銅鐸を地面の中に埋没させるのは中国でもやってるからな

なんかの結界なんかな?

396 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:56:09.00 .net
>>391
俺も最初はそう思ったのよ
遺跡は近畿が圧倒してると分かってても記述は九州を指してるよね

397 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:56:46.74 .net
倭人伝に出てくる倭人は、身なりも整っていて嘘を付かない正直な民族だとの事
つまり邪馬台国民は関西人とは真逆の特性を持った人たちだったわけだ

398 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:56:52.95 .net
>>391
一大率が女王の北にあるということについては、
畿内説はそれには答えない。
質問に質問で返してくるか、アホとか馬鹿とか罵詈雑言を浴びせてくる。

399 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:57:25.35 .net
396
そりゃ魏と関連が深かったからじゃないの?

関連の無いところほど分からないものだろ

400 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 17:57:44.24 .net
>>375
炊飯器の鼎が王族のシンボルになったのは夏王朝から

秦代から鼎ではなく玉璽になった

ただ陶鼎は後漢の時代まで中国の炊飯器の中心だった

それ以降は竈が中国の炊飯器の中心となり、鬲鼎はあまり使われなくなった

ただ南支那の内陸部の山奥では今でも金属製の鼎が使われている

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