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邪馬台国畿内説 Part1011

1 ::2024/04/09(火) 09:31:04.91 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

608 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 12:46:07.58 .net
>>607
こいつ、アホ。   @阿波

609 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 12:46:29.73 .net
https://i.imgur.com/iLAuPBX.jpg
不弥国から南に水行ができるとはね

610 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 12:56:28.01 .net
>>598
何言ってんだ?
世襲だと言ってるだろ?

611 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 12:58:56.17 .net
>>602
そもそも女王国なんて名前の方がおかしいのよ
男王ならなんて国名なんだ?

612 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:03:19.62 .net
>>610
どこで言ったのか?

613 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:06:40.27 .net
>>601
周里だと100歩は、2里なんだよw
魏里なら1里の3分の1って見方かな?
周里は始皇帝の気分で6倍説
国土も方可里程だと6倍になった。

歩は2足で120~150cmとかで
6尺一歩の都合で尺度で変動するけど
歩は人体尺度で同じ程度なのでは?

614 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:07:12.71 .net
>>612
ごめん、>>595も俺の書き込みだわ

615 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:10:15.11 .net
「大いに冢を作る、全長ではなく短い方の辺が100歩」

なんだこの報告書

616 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:11:40.81 .net
>>614
乃共立一女子為王 名日卑彌呼
とかいてあるから、

617 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:14:45.57 .net
>>606
他の古墳の透視結果はすぐに報告されてたよ
箸墓古墳だけダンマリ

618 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:15:33.34 .net
卑弥呼は帥升などと変わらない。地方の王。

619 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:16:45.48 .net
陰謀論は敗北の母

620 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:17:57.78 .net
陰謀論じゃなくきちんと記録が残されてる話として
卑弥呼は後漢の時代から続く30国を統べる倭国の大倭王だけど
100余国ある日本列島全体から見たら地方の王にすぎないな

621 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:18:44.21 .net
>>611
委奴国じゃダメだったみたいだね?

私は(卑弥)ヒミ国が
委奴国と狗奴国に分裂説ですが。
卑弥呼、卑弥弓呼から
卑弥王と卑弥狗王、で。

622 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:18:47.54 .net
殉葬なんてないし倭人がすっげえ大きいよって言ったのを想像で書いただけかも知れんし墓の大きさなんかどうでも良いし
張政が見たかどうかもわかんねえじゃん

623 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:19:04.12 .net
よく後漢書なんかを根拠にしょうと思うね

624 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:20:58.50 .net
>>621
どういう事かわからんが卑弥呼も帥升もそれ以前も倭王なんだが

625 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:21:27.21 .net
>>623
やっぱ魏略か?

626 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:24:22.78 .net
>>625
それは論外

627 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:25:27.86 .net
>>624
>どういう事かわからんが卑弥呼も帥升もそれ以前も倭王なんだが

だという理由は?
理由がないなら妄言

628 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:25:38.10 .net
漢代にも朝貢してたのは魏志にも書いてある
後漢書は漢代の事だからその部分を詳しく書いてるだけ

629 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:26:04.42 .net
漢書 分かれて100余国
後漢書 100余国
魏志 ふるくは100余国
冊府元亀 東に55国西に66国
宋書 東に55国西に66国
隋書 クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようだ

※国造は140ほどとされる

630 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:29:04.29 .net
>>627
帥升は倭王だと書いてるし自武帝滅朝鮮以降大倭王が邪馬臺國に居たともかいてある

631 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:29:44.23 .net
畿内説にとって都合が悪い記録は全て嘘なので

632 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:37:27.37 .net
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
後漢書が信用できないってこれが嘘って事か?

633 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:44:01.19 .net
>>629
こうしてみると倭王武の先祖、倭王讃の祖父の時代(空白の4世紀)に一気に日本列島統一事業がなされたことがはっきりわかるな

634 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:49:00.45 .net
>>633
俺はそうは思わない
元々形があったし過大に言ってるだけ
戦いに明け暮れたなんて事はない

635 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:53:41.50 .net
ちなみに九州北部が畿内勢に帰順したのは崇神の四道将軍の時代(3世紀後半)

636 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:58:14.33 .net
>>620
それ、根拠ないでしょ

637 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 13:58:33.45 .net
半島なんて高句麗に追い詰められて
95国なんて昔はそれくらいあったって話しだろ?

638 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:02:32.79 .net
畿内説にとって都合が悪い記録は全て嘘なので

639 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:03:32.67 .net
>>635
四道将軍は西、中国山陰まで、では?

640 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:04:19.27 .net
>>638
朝鮮半島の権益を貰う為に既成事実が欲しかったんでしょ?

641 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:04:55.63 .net
>>639
四道将軍に限らず、崇神の時代(3世紀後半)には九州北部が畿内勢に帰順したと考える

642 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:05:28.27 .net
>>630
>帥升は倭王だと書いてるし

倭国の「主帥」である「升」だって説もあるんだよね
国王の帥升「等」が中国に来たって、おかしいだろ?
同格みたいな書き方だ

>自武帝滅朝鮮以降大倭王が邪馬臺國に居たともかいてある

建安年間のことでも「自武帝滅朝鮮以降」なんだよね
范曄は安直な原文改変を平気でする人だから当時「いい加減なやつ」と評されてる

643 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:07:18.73 .net
五王讃、珍、済、興、武、司馬曹達って中国風の名前じゃないですか。もう漢化してるねコレはw

644 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:08:48.83 .net
>>637
魏志で、馬韓54国、弁辰韓24国
高句麗戦中だが、郡域で17国で95国
で、辻褄は合う。

645 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:10:06.76 .net
邪馬臺国が漢化した姿が大和国であるw

646 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:14:11.70 .net
>>642
その部分だけ抜き取ってるけど原文は
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

邪馬臺國のの方は其が全部つながってるし
帥升の方は何言ってるか意味わからん

647 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:17:24.82 .net
そういう事なんだろうな
中国に合わせてる

648 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:20:16.01 .net
後漢書と三国志で食い違ってる部分があるなら三国志優先
これは常識

649 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:23:03.03 .net
>>648
それぞれの時代を詳しく書いてるだけで食い違ってないが

650 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:24:45.89 .net
3世紀後半
崇神の時代に九州北部が畿内勢に帰順し、対馬海峡の制海権と鉄利権が畿内の手に落ちる

4世紀
畿内勢力の制海権、鉄利権奪取が気に入らない旧女王国の残存勢力は畿内政権に反抗し、ヤマトタケルらによって土蜘蛛として各個撃破される

5世紀
東の倭種五王の時代、半島攻略のために東晋、宋に朝貢開始

651 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:30:26.56 .net
>>643
司馬曹達は渡来人
370年百済が朝貢で建国。
七支刀と百済王子、博士が日本に渡来。

これで、高句麗が朝貢で
幽州刺史、楽浪候になった事を知る。
倭の五王は高句麗交戦半島利権の外交

博士は随時交代なので讃はこの時
阿直伎師も倭使で送還した。

652 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:36:12.60 .net
つまり畿内説の主張する事一つ一つには必ず根拠不明なこじつけ論が必要となりますよと

653 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:37:53.47 .net
崇神の時代に「聖なる王」がいると聞いて加羅の王子がやってきた
その途中に穴門で自称倭王の「伊都々比古」に出会ったという

台与の時代、魏が滅亡すると同時に九州にあった倭国連合が崩壊してバラバラになり、台与の次代の大倭王と称して伊都々比古が立つも、九州北部の国々は畿内勢力に帰順してしまい自称大倭王の伊都々比古は居場所をなくしてしまった

そこでしかたなく伊都々比古は九州から逃げ出して穴門で臨時政府を立ち上げた
のかもしれない

654 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:38:21.22 .net
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ
文献を度外視して古墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界もその類だろう
邪馬台国の真実は魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)

655 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:39:15.76 .net
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
予断を廃して魏志倭人伝と記紀と考古学を虚心坦懐に照らし合わせれば、必然的にこの結論に至る

656 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 14:55:46.47 .net
倭国の大倭王の歴史

師升 → 70-80年男王の時代 → 倭国大乱暦年無主 → 卑弥呼 → 男王

台与

台与の後ろ盾の魏が滅亡(255年)して台与失脚

九州にあった倭国連合がバラバラになる

自称倭王の伊都々比古(伊都のヒコ)が台与の後を継ごうとするも北部九州は畿内に帰順

鉄利権と対馬海峡の制海権が畿内の手に落ちる(3世紀後葉)

伊都々比古は九州を逃げ出して穴門で臨時政府を立ち上げる

聖なる王の噂を聞いて加羅の王子がやってくる

657 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:10:31.97 .net
>>613
周里なんて実在しない

「周牌算の里」 ならまだしも。

658 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:16:17.42 .net
>>643
司馬曹達って、司馬という官職の曹達という人のようにも思えるんだよなあ
奇貨人やろか?

659 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:19:14.37 .net
>>642
等って文字も名前の一部やろな

660 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:24:08.45 .net
658
王家でも立ってそのまま姓にしたんだろ

氏(氏)姓(姓)苗字(みょうじ)の違いも分かってないのだろ

661 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:24:57.32 .net
氏(うじ)姓(かばね)苗字(みょうじ)

その違いも分かってないだろおまえ

662 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:26:20.69 .net
歴史に興味ないってほんと分かるなあ

だいたい名乗りはこのうちのどれかを選ぶもんだぞ

663 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:28:42.71 .net
中国において行われた漢化ってのはこのうちの氏族姓を名乗り始めたり僭称したりするもんだ

664 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:34:09.13 .net
659
そのころは平安仮名が作られ策定されたころだからな

日本だってもともとは

阿(あ)伊(い)宇(う)江(え)於(お)

ってとこから始めたんだぞ

665 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:40:24.73 .net
>>654
複合的に見ることが手かせ足かせになることもある
つまり、考古学的に言えば、九州か畿内というふうに早くも限定され
それに合わせて魏志倭人伝を読み、自分の目的地に合わせて逆算し
短里だの放射読みだの方角間違いだの奇妙奇天烈なつじつま合わせが
邪馬台国論争をがんじがらめにする

666 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:52:24.99 .net
>>657
東夷伝序文の冒頭に
周令、九服の制 
という文言があるが

王畿が方千里。
周囲各500里で九服。
この半径5000里が
50歩(100歩)1里の周里だと
洛陽から長安に相当する。
周はそんなもんで、
外が非課税の外域。
半島や倭

西域里も同じか検討したが違った。
都が長安だと東が足りないので
周里の50歩が100歩になるの
かもしれない。検討中。

九服が案外小さいので
始皇帝が里程を6倍にしたという話。

667 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:55:40.06 .net
今年度も、日本国が設置した公的機関が、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が無いという真実を、発表しているな。

668 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 15:59:21.33 .net
普通にどっちに大国があったと思う?
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/if6f4891492531aca/version/1581034276/%E6%AE%8B%E5%BF%B5%EF%BC%92%EF%BC%90.jpg
https://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/255.jpg

669 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:05:27.35 .net
筑後川流域の遺跡群は奈良を凌駕している
https://dec.2chan.net/up2/src/fu3306491.jpeg

670 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:13:06.75 .net
>>502
口は悪いが、まったくもってその通りだと思う

671 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:15:43.84 .net
渡海1000里は国東半島辺りから見た風景だろうな

672 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:19:10.28 .net
>>671
そう思うのが正常

673 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:21:42.92 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

674 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:33:24.98 .net
伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ
やり直し

675 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:44:58.98 .net
>>654-655
低能呼ばわりはひどいが、テンプレにして欲しいようなきわめて妥当な正論だと思った
自分もこの考えをとりあえずのスタートラインに設定しようと思う

676 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 16:56:02.85 .net
>>671
魏使が聞いた話だろうね。
干満での流れを避ける交易航路で。

関門海峡は仲哀、神功皇后まで
舟が通れない穴だったw 説
歩けたりしてな?

677 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:14:46.14 .net
よく知らんのよなあやつらも

書見読んだ程度の知識だからよ

しかも中国のだろ

678 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:21:01.30 .net
難波から陸行すること一ヶ月。ようやく我々魏使一団は、卑弥呼(ヒメ)が遷都した茨城に到着しました。

679 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:47:06.19 .net
>>654-655

九州で最も発展している経済都市が博多を中心とした福岡平野
九州で最も開拓が遅れているのが洪水地帯筑後

680 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:58:14.87 .net
>>674
>伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ

反論できなきゃお前の負け

681 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:59:48.74 .net
卑弥ってそれ姓だろもはや

職掌を姓にしたって感じだな

682 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 17:59:53.44 .net
現在、九州で最も発展している経済都市が博多を中心とした福岡平野。

しかしながら、古代の福岡平野は碌に鉄器さえも作れない寒村だけどな。   @阿波

683 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:00:26.65 .net
>>668
後漢時代から代々王がいるのは九州だな
3世紀以降になって勢力が拡大したのが畿内ということは
畿内説アウト

684 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:00:50.04 .net
氏と姓の違いを半島人らあたりあまり認識できとらんのだろうがな

朴ってのはそれ氏なんだよ

685 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:01:54.82 .net
漢化ってのが起こったときに姓から氏に切り替える連中らが多く現れたわけ

686 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:01:56.43 .net
>>674
>伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ

まぁ、出航地の女王国が無いんだから話にならんわな。   @阿波 

687 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:02:34.22 .net
>>683

北部九州で盛行した首狩り甕棺墓は2世紀までに
ど没落した

688 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:04:03.20 .net
>>687
SNSで九州の研究者とレスバしててください

689 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:07:13.52 .net
>>675
>低能呼ばわりはひどいが、テンプレにして欲しいようなきわめて妥当な正論だと思った

でも>>654-655は低能でしょ?
箱式石棺が有棺無槨だとか
w

690 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:12:24.91 .net
答志島から伊良湖岬間は沿岸なんてないぞ

実際に海を渡る訳だが

691 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:15:38.30 .net
>>580
南九州に奴国より大きい国を想定することができない

692 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:15:51.08 .net
>>690

まぁ、出航地の女王国が無いんだから話にならんわな。   @阿波

693 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:17:04.85 .net
>>667
畿内で確定しているので発表する必要がない

694 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:18:47.29 .net
有棺無槨とは甕棺墓の事だろうよ

695 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:19:04.68 .net
中国における妲己の伝説とかな

太公望だの出てくる時代の話だろ

原型となった物語りはちゃんと存在するんだよ

696 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/11(木) 18:20:33.89 .net
オレは箸箸を卑弥呼陵と考えるが、もしこれを台与の墓とするのなら、卑弥呼陵は纏向石塚が相応しいだろう
まんま寺沢先生の説になってしまうな

基本的に王陵というのは寿陵であって生前に作るものだ
当時の平均年齢から考えて卑弥呼の陵も生前の彼女が30代くらいには出来ていたかもしれぬ

韓半島の文化に生前に風水の吉相墓を作ったら自分の爪や髪の毛を入れておくとよいという発想があった
今でも風水信者はやっているかもしれないが、これは恐らく中国発祥の文化だから、卑弥呼もやっていた可能性がある

後の日本文化に逆修という死んでからではなく生きているうちに自分の供養を初めるというものがあった
生前に自分の供養や祭祀を初める発想は、或いは仏教以前からのものだったという可能性は捨てきれまい

697 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:20:55.30 .net
何のことはないが周王朝の人々が顔は東洋人だが髪の毛や目の色などは西洋人みたいな特徴を持った人々と言う話

その時代において彼らが中華だの名乗ったのだ

698 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:21:47.21 .net
>>654
九州はすでに伝統的第5を受け入れ、庄内式の時点では筑前型庄内甕を成立させていることから、すでに畿内の傘下に入ったと見るべきである

699 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:22:02.38 .net
漢の連中らも中華の名乗りを引き継いだけどな

700 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:22:58.35 .net
>>696
神は山稜に宿り、山稜に葬られるもの。

「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地や平地の前方後円墳には葬られない。 そんなの常識。   @阿波

701 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:24:53.76 .net
>>654
>ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ


YouTubeだけで九州説を採る人々のことだ

702 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:25:15.28 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

703 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:25:18.93 .net
>>694
>有棺無槨とは甕棺墓の事だろうよ

卑弥呼が遣使した頃には甕棺はかなり珍しい

704 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:27:42.84 .net
>>525
黄幢や張政の派遣で狗奴国とは和解したと見るべきである

705 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:31:03.81 .net
>>703
倭人の風習に関する記述が卑弥呼時代の事だとは限らないから

706 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:32:07.22 .net
>>701
いやいや>>1の事だろ

707 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:33:26.05 .net
>>705
つまり九州説は歴史を無視したい

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