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邪馬台国畿内説 Part1011

1 ::2024/04/09(火) 09:31:04.91 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

62 ::2024/04/09(火) 10:04:33.04 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/04/09(火) 10:05:02.87 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/04/09(火) 10:05:32.50 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/04/09(火) 10:06:02.02 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 ::2024/04/09(火) 10:06:32.08 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/04/09(火) 10:07:02.37 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/04/09(火) 10:07:32.37 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/04/09(火) 10:08:02.31 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/04/09(火) 10:08:32.60 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/04/09(火) 10:09:02.14 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/04/09(火) 10:09:32.81 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/04/09(火) 10:10:02.66 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/04/09(火) 10:10:32.47 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 ::2024/04/09(火) 10:11:03.70 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:07:49.61 .net
炭素年代測定も考古学で考古学者もそれを認めてるんだから
こっちは原理とか知らんし信用するしかない

77 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:15:07.90 .net
>>76
炭素年代を信用しないなら、海外のあらゆる遺跡の年代を否定しないといけないしな

78 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:24:13.08 .net
九州説は引導渡されちゃったから非科学非常識路線に走るしか無いんだよね

79 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:32:24.98 .net
畿内説は久住や寺沢の説を拠り所にしておきながら、久住や寺沢に箸墓は卑弥呼の墓ではないと断言されてるんだから
チェリーピッキングで作った妄想作文みたいなもの

80 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:34:45.62 .net
断言はしとらんだろ

81 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:39:57.87 .net
九=飛

82 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:42:23.33 .net
>>77
あなたが畿内説の信者ではなく、本当はどうなのか知りたいなら

https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku369.htm

83 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:48:15.82 .net
>>79
>畿内説は久住や寺沢の説を拠り所にしておきながら、

畿内説は学説だから人の主張の中で妥当なものは妥当、失当なものは失当で、そう言うのをチェリーピックとは言わない
言ってる内容じゃなくて肩書きや名声で信用する九州説とは違うのだよ

84 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:53:04.06 .net
>>82
それ、単に九州説の人の科学的知識が間違ってるだけでしょ

85 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:54:08.99 .net
とっととデータ公開すりゃいいのにどんな理由で拒否るんだか

86 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:54:13.31 .net
纒向遺跡に対する日本の炭素14年代測定及び年輪年代測定は、なぜか国際基準よりも100年古い結果がでる。
例えば建立と再建が資料によって明確な法隆寺に当てはめると【上宮聖徳法王帝説により推古15年(607年)頃建立・日本書紀により1度焼失し670年に再建】という高校生でも知っている事実に対して、500年代中期という結果が出る代物…
つまり纒向遺跡は卑弥呼の没後100年以降の物という事。

これは日本の考古学会により、危険な【捏造】が行われている証左であろう。

87 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:54:24.25 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

88 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:55:56.30 .net
土器付着炭化物は他素材(木材・種実・骨)より古い測定値が出る傾向が強い事を多くの識者が指摘し、
試料として不適切なのは明らかなのに、「今回報告」は依然として土器付着炭化物を中心に判定している。
しかも、古い値の出方幅がコンスタントならデータ処理も可能であるが、
実際には0~600年幅までバラバラである。そのような不確かなデータをいくら精緻に時系列で並べても砂上の楼閣である。
 ②今回報告はせっかく木材・種実も測定対象としながら、
その結果が十分に反映されていない。すなわち、木材の古木効果を考慮していない。
その結果、木材でも古い測定値を採用している。
 ③歴博は年輪年代法の年代観が正しいことを前提に、炭素14年代が年輪年代と整合性有るとして、
「今回報告」で池上曽根遺跡・石塚古墳・勝山古墳の年輪年代を例示している。
端的に言えば、「今回報告」は年輪年代の年代観に合わせて土器型式を並べたに過ぎない。
しかし、年輪年代法の古代すなわちAD640年以前の測定値は、全て100年古く狂っていることを拙論で指摘済みである。

そして、古墳出現期はおおよそAD300年頃である。より具体的には、
①石塚古墳がAD280~310年頃、
②勝山および矢塚古墳はAD290~320年頃の築造で、年輪年代の100年修正と合致する。一方、
③箸墓古墳はAD295~315年頃、
また④ホケノ山古墳はAD300~330年頃の築造で、年輪年代法登場以前の従来多数説がほぼ正しいことが明らかになった。
従って、年輪年代法(および連動する炭素14年代法)に基づく弥生中後期および古墳開始期の100年遡上論は誤りである。
当然のこととして、この遡上論を主な根拠とする「箸墓=卑弥呼の墓」「纏向遺跡=邪馬台国の王都」説は根底から揺らぐ。

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.html

89 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 13:00:41.27 .net
>>82
結局この人はどうしろと?
建物の年代に触れてるけどその年代はいつよ?

90 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 13:10:05.73 .net
>>88
他の遺跡も全部100年ずらせば正しくなるって事か?

91 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 13:10:50.01 .net
九州説だと卑弥呼の墓は何処よ 候補すら無いんだろ

92 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 13:33:15.73 .net
纏向の年代には拘るのに在りもしない神社には無頓着
なんで?
前スレの考古学者もこういうのを批判してたんじゃないの?

93 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 13:36:09.92 .net
>>88
という勝手な願望

94 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:03:37.22 .net
>>79

歴博が箸墓古墳の推定年代を発表する前から畿内説が学者の通説だから

95 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:31:16.06 .net
中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊氏は、

「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなく、

当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」

との説を唱えています。

96 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:37:01.52 .net
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
https://diamond.jp/articles/-/306767

現代日本人の祖は古墳人だった
そしてその時代に「王朝交代のようなもの」が行われた可能性が高いという

97 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:46:46.24 .net
騎馬民族説は正しかった

98 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:47:53.21 .net
>>96

そんなことは書いてない

99 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:57:51.59 .net
>>98
日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
https://www.asahi.com/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html

100 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:58:37.88 .net
邪馬台国の卑弥呼は倭人ですらないのかもしれんな🤔

日本史から抹殺してもよいのかもしれん

101 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:59:15.65 .net
九州説のひと科学に弱すぎ

102 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 14:59:49.68 .net
証拠証拠ってうるせえがその必要もなくなってくるだら

匈奴人卑弥呼の話は中国に関係あるからやつらにまかせよう

103 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:00:41.50 .net
>>85
公表されてるデータもあるがお前の目には入らない

104 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:02:50.83 .net
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520

105 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:03:01.39 .net
下手したら曹操の奥さん(女王)の話か?

知るかそんなもん😠

106 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:04:41.19 .net
>>101
そりゃ、科学に弱くない健常な頭の人は九州説が間違ってることに気付いて見切りをつけたから、残ってる人は、そうではない人だけしかいないのが当然だわな

107 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:09:32.59 .net
>>96
篠田謙一はさっぱり考古整合していない

何で5万年前に台形様石器や石刃技法のない東南アジアから北上して38000年前に
日本列島入りした、その日本列島最古の人類の足跡が台形様石器や石刃技法になるんだよ

南支那以南の東南アジアには13000年前まで石刃技法などない

それも細石刃として華中から伝わったもので石刃技法として伝わったものではない

5万年前に台形様石器や石刃技法があったのはレヴァントなどの中近東から
中央アジアにかけてだよ

遺伝学はルート探査にはさっぱり使えないゴミだと宣伝しているようなもの

遺伝学は大人しく医療用だけに使っていてくれ

108 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:13:29.11 .net
>>88みたいな100年ずらしの暴論が罷り通るほど一般人は馬鹿じゃないんだよね
これ一発でバレちゃう

>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない
誰が見てもバレバレ

109 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:18:28.02 .net
>>99

このゲノムデータは、
佐世保市下本山岩陰遺跡から出土した2体の弥生人骨と
金沢市の古墳人骨3体
西北九州弥生人はおチビちゃん

https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419

110 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:22:50.28 .net
大衆的に人気の磯田道史はどっち説なんだろう?
はっきり聞いたことがないな
https://www.youtube.com/watch?v=AEbRfkOJmnI

111 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:28:03.42 .net
>>95
なんでそんな詳しい事までわかるんだよ?

112 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:37:55.51 .net
邪馬台国連合30国は後漢時代ですでに代々王を継いできた国々だったと記録されているにも関わらず、3世紀に突如栄えた国であるかのようにデタラメ作文を展開している畿内説は間違いなくアカデミック詐欺である

113 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:42:00.81 .net
北部九州で盛行した首狩り甕棺墓は2世紀までにど没落した

114 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:45:06.18 .net
>>110
「邪馬台国は究極の自分探し」
ワロタ

115 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:50:40.66 .net
>>112
どっちが考古学的に支持されるか、わかってんだろ?
九州説の復権は無いよ

116 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:52:27.82 .net
>>115
考古学と言い張ってるが単なる落ちこぼれ低能を寄せ集めたテロ団体でしか無い
前科もあるしな

117 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 15:56:07.86 .net
>>116

日本の考古学者を罵るなら、
一人一説やけのやんぱち雑多九州小説は考古資料を一切使えない

118 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:00:06.41 .net
邪馬台国連合30国だろ😳

知るかそんなもん😠

119 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:00:56.29 .net
>>116
前科があるのは人手不足の考古学界に土足で入り込んだアマチュア

120 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:27:27.92 .net
九=飛

121 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:36:28.32 .net
>>88
>年輪年代法登場以前の従来多数説がほぼ正しいことが明らかになった。
>従って、年輪年代法(および連動する炭素14年代法)に基づく弥生中後期および古墳開始期の100年遡上論は誤りである。

こういうウソ平気でついちゃうとこが九州説だよなあ

自分で出した資料
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif
年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

122 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:41:56.58 .net
>>121
トンデモどもよ、落ち着け!

古墳の年代が分かったところで、どのみち倭人(阿波勢力)のお墓なんだから。 お前ら、それが分かっているくせになぜ騒ぐ?   @阿波

123 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:52:10.68 .net
>>96
https://i.imgur.com/8TXb4R7.png
https://i.imgur.com/0kgrF0q.png

124 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 16:59:10.32 .net
>>110
畿内説だよ
纏向がそうではないかと言ってる
考古学的な成果では明らかに畿内説だとも
イデオロギーのある人ではないのできわめて正当な見方

125 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:08:45.65 .net
>>124
>纏向がそうではないかと言ってる

磯田道史も竹田恒泰も、「阿波」を知ってか知らずか、ど素人。   @阿波

126 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:15:10.50 .net
三角縁神獣鏡は徐州でしょ。徐州人は魏と呉に属したから呉の鏡があっても問題なし!

127 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:16:09.88 .net
>>117
日本の考古学だなんて拡大解釈するなよ詐欺
畿内説でっち上げ考古学者の事だ
いつも名前の上がる数人だけどなw

128 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:17:52.49 .net
>>119
まさにお前だな

129 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:20:51.63 .net
今んとこ東の倭種がいた以上のことは何もわかってない
テレビでも畿内説の研究者の人が卑弥呼の文字が出るか金印でも出ないと決着しないと言ってた

130 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:21:54.70 .net
>>127
炭素年代測定が間違ってると言ってるんだろ?

131 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:23:35.95 .net
>>129
魏略には東とも書いてない

132 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:25:32.57 .net
>>129
少なくとも、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州ではないわな。   @阿波

133 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:34:01.76 .net
九州説は宗教だからね

134 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:37:34.35 .net
通説畿内説

135 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:37:37.57 .net
通説畿内説

136 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:39:59.66 .net
碌に鉄器さえも作れない、通説畿内説ww   @阿波

137 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:42:02.24 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

138 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:42:26.62 .net
126
おまえらドロボーの意見は参考にならん

現生中国人より東夷人らの方が緻密なものを作り上げる

139 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 17:49:39.47 .net
三角縁神獣鏡は、やっぱり中国で作られていた
「鏡の古代史」辻田淳一郎 1973年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院准教授
この本は面白かった!
https://books.j-cast.com/2020/01/24010696.html

140 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:03:24.29 .net
山崎1936

141 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:13:20.50 .net
そもそも日本国の公式見解は
「卑弥呼? 神功皇后のことかもねー 知らんけど」だったわけで
やっとここへきて収まるところに収まりつつあるようだ
本居宣長以降の300年に渡る顛沛流浪はもうやめにしよう

142 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:16:27.58 .net
つまり畿内説は低能学者の同人誌でしたと

143 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:28:23.10 .net
>>130
海草とか海魚由来の炭素以外は海外のと同一の年代が出てるのに、どういう根拠で否定できるのか

144 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:29:52.74 .net
🤔俺の意見は卑弥呼の正体は魏って国がそもそも大王、女王の役割り分担だから

卑弥呼の鬼道だのもな😳

曹操が死んだのが西暦220年だ

その後日談かな?ってとこ

なんで日本に来たんだよ?

145 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:31:25.06 .net
日本に住んでる女酋長とか🤔

そっちのがでっち上げだろ😳

146 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:33:12.67 .net
アマテラスと卑弥呼がこうまで似ているのはどう考えても異様

147 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:34:38.07 .net
似てないよ

148 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:36:36.23 .net
勘違い皇国論者では崩せないよ
本居もそっ
商業右翼として語り継ぐんだな
九州には甕棺族の痕跡しかない、決定的だよ
甕棺が東遷して神仙思想を始めたのか?誰に教わったんだ?自然発生か?
無駄だよ結論はもう出てる
吾輩からすればそもそも日本を勘違いし否定しているように感じるがね。
もうほぼ古の辰国を自称する者らだよ。卑弥呼とは関係が無いな

149 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:36:57.57 .net
卑弥呼が鬼道だってえなら大王の妻として敵に呪いをかけ呪い殺すような集団のリーダーだったってえこと

これは実に中国らしい話となりますなあ

150 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:38:35.07 .net
148
無駄無駄
おまえら日本内に潜り込みたいんだろうが結論あり気で話をどんどん誤魔化すから話にならないんだよ

151 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:39:17.75 .net
漢字から読み解くくらいのこと俺だって出来るわ😳

残念だったな

152 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:42:29.00 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

153 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:43:12.55 .net
なんだその呪い殺すというのは
卑弥呼鬼道、巫女道は隋代まで一番信用されていたんだよ、呪い殺し続けていたのか?笑っちゃうおつむだな

154 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:45:22.14 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900

155 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:46:48.71 .net
アマテラスと卑弥呼は似てない
放射読み

さすがにこの2つは天動説的に無理がある

156 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:48:36.11 .net
道教は万物だよ大物主だな
なんだその太陽って?
平原の柱に鏡を取り付け赫々しい光だろ?菊花紋章だな。

157 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:48:56.23 .net
畿内説は古代日本列島90度地動説だから

158 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:49:55.28 .net
太陽神は義和だよ
天照は義和なんだ

159 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:50:48.66 .net
>>121
鷲崎は炭素年代法はその表よりも遡るって言ってんじゃないの?

160 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:51:42.57 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである!

161 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:52:45.72 .net
鬼道、道教の起源地徐州ゆかりの三角縁神獣鏡

162 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 18:54:58.28 .net
曹叡は巫女を呼び祓わせたが効果なく処刑している
が卑弥呼に対しては別扱いしているんだな。
その辺のイタコとは違うんだな。
因みに曹家皇后では琪瑛は天后なんだよ。水神様だ

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