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邪馬台国畿内説 Part1012

1 ::2024/04/12(金) 18:43:12.19 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

184 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:56:06.21 .net
トヨが百歳くらいめっちゃ長生きして神功皇后になった説…あると思います

185 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:08:35.68 .net
【正始中】の出来事として
・卑彌死更立男王國中不服更相誅殺
・復立卑彌呼宗女臺與為王
・其後復立男王並受中國爵命
と読解するのであれば
247年に台与が共立されたと仮定しても
正始10年(249年)には復立男王並受中國爵命となって
台与は超短命政権で終わる

※249年は魏の嘉平元年

まあ普通の読解力してたらそんなふうには読まないからどうでもいいけど

186 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:20:02.78 .net
>>138
>三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡と言う一部畿内説学者の主張が理論的に崩壊する

する理由ないんだけど
九州説さんは理由のないこと言い張りすぎ

187 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:27:54.54 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

188 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:31:39.14 .net
>>186
君は三角縁神獣鏡を邪馬台国の根拠とする古い畿内自生説の残党福永伸哉や岸本直文の盲目的信者だからね
証拠やロジックではなくイデオロギーとして認められないよね

189 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:31:41.25 .net
荒らしはいい加減にしとけよ九州説

190 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:33:15.15 .net
>>188
証拠やロジックではなくレッテル貼りで他説を潰そうとする腐った九州説

191 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:35:48.10 .net
>>190
三角縁神獣鏡が卑弥呼におくられた銅鏡百枚なんていまだに主張してる学者っているの?

論文なりあったら教えて?

192 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:52:53.41 .net
「あっと驚いたのち、膝を打つ」古代中国の法則で邪馬台国論争に一石を投じる画期的新説
https://bunshun.jp/articles/-/68800?page=2

画期的新説 邪馬台はヤマトである
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h7707?ref=innerLink
邪馬台国はどこにあったのか?
桃崎 有一郎 歴史学者

193 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:53:58.83 .net
>>191
学者はおおかたそうじゃない?

194 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 12:54:39.80 .net
>>193
論文なりあったら教えて?

195 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:08:57.83 .net
>>185
台与は傀儡って事でしょ
実質的な王が居る

196 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:14:40.28 .net
>>192
こんなもんで金取るなボケ

197 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:16:16.51 .net
>>194
辻田とか岩本とか探してみ

198 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:17:58.67 .net
なんで未だに数世紀後の日本語で「邪馬臺国」を発音しようとするんだろうな?
後漢時代の発音でヤマダ国というのがわかってるんだからそれを採用すればいいのにね

199 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:21:47.52 .net
邪馬嘉国

200 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:22:01.64 .net
ダじゃなくて曖昧母音のシュアーだから、上古音ト乙がいちばん近い

201 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:25:19.90 .net
隋唐の中国人が奈良の大和を「臺が訛って堆」と言ってるんだから確実だろ

202 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:25:44.29 .net
隋書にはヤマツァイと書かれた奈良さん

203 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:29:22.92 .net
畿内説ってなんで文字が書かれた当時の発音無視して外国語で読もうとすんだろな

204 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:35:14.48 .net
對馬国→ツマ国→投馬国

205 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:35:32.27 .net
>>191
久住はアカウント持ってるから質問したら、やっぱり三角縁神獣鏡だったわ

206 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:50:15.49 .net
對馬国も投馬国も斯馬国も全部同じ対馬だけど陳寿はそれに気付いてない

207 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 13:50:23.03 .net
>>193
岡村秀典「鏡が語る古代史」(岩波新書)

208 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:02:47.33 .net
斯馬国は糸島市の海に突き出た地域でしょ。

209 ::2024/04/13(土) 14:03:35.76 .net
投馬国は、元狗奴国の一部であり
妻の国(妻の出身)である出雲のこと

ついに明確に、投馬国も考察完了でーーーすw

165 日本@名無史さん sage 2024/03/26(火) 22:57:43.21
出雲は国津のクニであり、狗奴国

出雲はヒメタタラの出であり、妻の国=投馬国

つまり、出雲=マクロでは狗奴国の一部、ミクロでは投馬国

日本(日本列島)があって
倭人と毛人の領域があって
それぞれ島々と山々で国が成り立ってて
已百支(いおあき)国=本州(千五百秋(ちいおあき))の中に
天津と、天津と不和な国津のクニこと狗奴国があって
その国の一つにヒメタタラが出である出雲国こと妻の国=投馬国がある


242 日本@名無史さん sage 2024/03/27(水) 14:19:10.28
妻の国こと投馬国の官は
彌彌   = ヤイミミ 八井耳
彌彌那利 = ヌナカワミミ 綏靖天皇

まさに、ヒメタタラの子らツートップ


那利 = 津 = 海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。

>wiki 熊津
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル

210 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:07:26.31 .net
>>200
じゃあ、山門郡の山門は?

211 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:09:34.45 .net
魏晋と繋がってた鮮卑様が言うんだから邪馬臺は大和。
大和朝廷も台をトに修正してるし。トが正しい日本語なんだよな。

212 ::2024/04/13(土) 14:11:40.85 .net
「どんな国名か?」
「どんな国か?」
魏の役人はこれらを聞いた上で

どんな国かパッと見でわかるように
字を選んで、字をアテてる、が俺の見解

488 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/30(土) 08:42:31.00 ID:L2QR4Xcd0
だから、投馬国も
その国の特長を字義にアテ込めてる

投げる 手に殳(ほこ)を持ち投げる形をした地形の国
投じる 国譲り神話で天津に投じた国津の大国主

俺の考察では、出雲と比定

213 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:13:45.40 .net
雲の上から神様が地形を確認したんやね

214 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:19:40.34 .net
對馬国じゃなくて對海国な

215 ::2024/04/13(土) 14:22:50.10 .net
縄文時代は1万年以上あるからねw
さすがに把握できるでしょ、一国程度の地形なら

216 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:38:19.39 .net
卑弥呼の前の男王

出雲 素佐之男尊、大国主尊、事代主尊

大和 素佐之男尊、長髄彦、饒速日尊、宇摩志麻治尊

217 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:45:40.97 .net
卑弥呼の前は孝昭天皇

218 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:46:57.11 .net
>>210
>じゃあ、山門郡の山門は?

当然失格
上古音甲類だから

219 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:50:20.95 .net
>>203
>畿内説ってなんで文字が書かれた当時の発音無視して外国語で読もうとすんだろな

外国語を話すひとが倭人語を耳で聞いて当てた漢字だからに決まってんじゃん

220 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:50:51.48 .net
卑弥呼の死後、懿徳天皇が即位したが、国中服さず、台与に禅譲

台与退位後、孝霊天皇即位

221 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 14:58:46.07 .net
>>218
上代特殊仮名遣いは逃亡してきた百済官僚が持ち込んだ方言
そいつらが死ぬと数代経るだけですたれた
もちろん弥生時代には列島では使われていない

222 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:03:40.52 .net
>>221
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i3b5e71975bf08591/version/1632178351/image.jpg
弥生時代はほぼ水没してたけど

223 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:09:43.24 .net
>>221
古墳時代の百済人官僚は移住ではなく期間限定の赴任っぽい、任期が終わると次の担当の官僚が来て交代で帰国した
だから時間がたっても百済での発音、使い分けのまま

224 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:18:42.97 .net
>>218
山門は上古音で読むとどう読むの?

225 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:50:11.76 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

226 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:50:45.76 .net
上代日本語の「オ段」などに2種類あったから
漢字を使い分けたのだろ

227 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:04:34.23 .net
久住先生に、東に渡海千里で皆倭種はどう考えるか聞いたら、「後漢のある時期の北部九州主体の倭国の情報が、魏志で錯綜した」と返ってきた。
まさに、私の提唱する57年〜107年ぐらいの竹簡が紛れ込んでいるとする説と同じ。
伊勢湾を渡海する説はやめた方が良い。

228 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:15:11.87 .net
後漢代の地理認識が混ざってるなら
行程記事は使えない

229 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:20:07.56 .net
久住も邪馬台国畿内大和説って言ってるから、畿内のどこかじゃなくて、考古学者はみんな纒向こそが邪馬台国であると考えているということだろう

230 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:20:37.88 .net
>>228
周代だから

231 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:23:54.30 .net
周代なんて話が出てくるのが異常

232 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:25:44.88 .net
>>231
一里の距離考えたらそらそうでしょ

233 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:27:03.24 .net
紀元前1000年ころから痕跡があるんだからそおなるだろう

紀元前1000年〜紀元前200年は周の時代やん

234 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:28:57.44 .net
中国4000年の歴史だ
文字もあるし記録が残っててもなんの不思議もない

235 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:37:55.73 .net
きっと伊都国も後漢代の記事が紛れ込んでしまったのだろう
邪馬臺国は奈良にあったということだけが正しくてあとはすべて間違いとするのが畿内説の正しい姿

236 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:39:15.52 .net
そお

中国(漢)の時代だけと区切るなら2200年の歴史

237 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:40:32.12 .net
殷周よりも夏の方が中国人らに近かったわけ

238 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:42:14.95 .net
>>81
帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る。
その内訳は、
狗邪韓国まで7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、糸島→博多の北は玄海灘、東は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

239 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:44:19.02 .net
つまり畿内説にとっての後漢書に書かれてる大倭王の歴史などはほぼ偽書ということだな

240 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:45:24.82 .net
>>235
伊都国はともかく對海國、一大國、末盧國は本気で俺は周代だと思ってるよ
狗邪韓國も
じゃあ伊都國はどうかと言うとこの辺の国は存在があやしい

241 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:47:28.73 .net
>>232
>一里の距離考えたらそらそうでしょ

その「一里の距離」を誰も考てないのが九州説
ただ決めつけてるだけ

242 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:48:54.90 .net
>>239
邪馬臺国は水行ひと月陸行ひと月と書いてあんじゃん

243 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:49:31.66 .net
>>242
>>83

244 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:49:31.88 .net
伊都国はあるだろ
平原王墓からも明らか

245 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:37.00 .net
>>242
里数も戸数も大きく盛ってあるのに日数だけ正確だとする根拠がない

246 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:43.29 .net
>>243
帯方郡からだよ
出鱈目な里数行程なんて無視

247 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:53:11.74 .net
>>245
戸数が大きく盛ってるかはわかんねえなあ
確かに千戸でも過大だとは思うけど

248 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:55:47.51 .net
>>238
吉野ケ里一帯のクニの人口5400人

249 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:57:50.20 .net
一大國の三千許家はどういう意味なんだろう?
三千戸とは意味が違うのかね?

250 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:58:48.48 .net
>>248
奴婢千人だからピッタリ!

251 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:02:23.17 .net
末盧國の四千餘戸も過大だと思うが何処かの勢力圏に入ってると考えればおかしくない
王も官も居ないし

252 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:06:23.01 .net
原の辻遺跡ってえらい立派らしいな
勢力圏が壱岐だけなのか九州島にも及んでるのか?

253 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:09:20.86 .net
国を形成できるほどまだ開拓が進んでなかったのだろ

大阪平野の治水工事が仁徳天皇の時代だぜ

254 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:11:16.27 .net
関東の河川の流れを今の形として完成したのが室町時代だからな

利根川も千葉沖の方に流れを変えたのや

255 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:16:24.85 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

256 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:17:26.44 .net
原の辻遺跡は環濠集落で敵の襲撃に備えてるわけでおそらく九州の敵だろう
そうなると前線基地は欲しい

257 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:31:59.02 .net
「戸」と書いてあっても家の数を表していない。
「里」と書いてあっても距離を表してない。
なのかも

258 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:34:57.58 .net
>>257
表してると思うよ
有り得ない数字は無視すればいい
奴国2万戸なんてあったとしても博多ではない

259 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:38:49.35 .net
吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージしてるんだけど

260 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:49:53.19 .net
>>258
根拠もなく否定するのは良くない

261 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:52:15.72 .net
「戸」は、「其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦」「重者没其門戸及宗族」
とあるから、門戸の数
「家」は、一大国あたりは渡海の中継地だから
三千ばかりの家が有るけど門戸の数はわからない
ということだろう

262 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:00:00.33 .net
>>260
博多ではなく熊本とかそういう意味じゃなくて
二万戸はそれら全部含む国家を意味するくらいじゃないと

263 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:06:38.44 .net
末盧や伊都とは格の違う大国ってことは誰でも認めてるんじゃないの?

264 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:07:27.01 .net
>>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ

碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな?   @阿波

265 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:10:06.11 .net
順番通りなら朝鮮半島が投馬国で日本列島が邪馬台国ならその前に奴国はある
まあこれは行程が別だから全くあてにならんけど

266 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:10:54.75 .net
邪馬台国って名称がどおにもな

これ山東半島あたりに存在した始皇帝絡みの矢倉かなんかの名称じゃなかったか?

つまり起源的には始皇帝に関係ある集団名とかだと思うんだが

弓尊王に関係してるんじゃないのか?

267 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:11:26.84 .net
日本の天皇家関係ないよ

268 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:11:43.40 .net
韓伝では、
「・・・凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。」

で、家数>>戸数 だね

269 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:23:16.26 .net
千戸の国と二万戸の国が同じ様に並んでるわけがない
領土の大きさが違いすぎるだろ?

270 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:25:49.96 .net
>>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ

碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな?   @阿波

271 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:28:56.19 .net
久住先生に、邪馬台国大和説とは、まさに纒向が邪馬台国の中枢と考えて良いですか?と質問したら、
「それで良いでしょう」と返ってきた

272 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:30:52.02 .net
>>271

碌に鉄器さえも作れない纏向遺跡がな?   @阿波

273 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:32:42.85 .net
現代みたいに行政区画されてるわけじゃなし
自然の山や川で国が分かれてたような気がするよ
https://i.imgur.com/Fv1l5Qa.jpg

274 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:34:18.91 .net
>>271
すると後漢書にある大倭王は邪馬臺国に居るというのは
倭国大乱よりもずっと前から奈良が倭国の中心地だったと考えた方が良さそうだな

275 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:39:20.89 .net
>>274
そこが違う
纏向の前は伊勢遺跡
王宮の移転は当たり前

276 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:41:20.24 .net
>>275

碌に鉄器さえも作れない伊勢遺跡がな?   @阿波

277 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:05:31.20 .net
>>274
畿内にそんな時代の痕跡は無い

278 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:18:59.67 .net
だよなあ

山間地を利用しての小集落を作るのが精一杯だよ

279 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:20:11.38 .net
中国人らも知らなかったわけではない

その人々のことを

280 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:42:54.24 .net
ふと思ったんだが
巻向が卑弥呼の都ならヤマト国じゃなくシキ国じゃないとおかしくね?

281 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:14:46.70 .net
伊勢遺跡ではレンガ状壁材が使われているので
纏向とは違う集団

282 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:31:11.34 .net
久住氏のように後漢の記事の混入などと考えるより、魏志倭人伝の邪馬台国およびそれを含む連合国倭国はストレートに北部九州にあったと考える方がシンプル

伊都国が畿内ヤマト王権の母体と考えるところまでは久住氏と私は共通だが、私は邪馬台国が北部九州に残り北部九州倭国の畿内ヤマト王権は3世紀以降並立したと考える点が違う

283 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:32:14.28 .net
>>282
✕北部九州倭国の
◯北部九州倭国と

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