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邪馬台国畿内説 Part1012

1 ::2024/04/12(金) 18:43:12.19 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

226 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:50:45.76 .net
上代日本語の「オ段」などに2種類あったから
漢字を使い分けたのだろ

227 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:04:34.23 .net
久住先生に、東に渡海千里で皆倭種はどう考えるか聞いたら、「後漢のある時期の北部九州主体の倭国の情報が、魏志で錯綜した」と返ってきた。
まさに、私の提唱する57年〜107年ぐらいの竹簡が紛れ込んでいるとする説と同じ。
伊勢湾を渡海する説はやめた方が良い。

228 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:15:11.87 .net
後漢代の地理認識が混ざってるなら
行程記事は使えない

229 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:20:07.56 .net
久住も邪馬台国畿内大和説って言ってるから、畿内のどこかじゃなくて、考古学者はみんな纒向こそが邪馬台国であると考えているということだろう

230 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:20:37.88 .net
>>228
周代だから

231 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:23:54.30 .net
周代なんて話が出てくるのが異常

232 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:25:44.88 .net
>>231
一里の距離考えたらそらそうでしょ

233 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:27:03.24 .net
紀元前1000年ころから痕跡があるんだからそおなるだろう

紀元前1000年〜紀元前200年は周の時代やん

234 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:28:57.44 .net
中国4000年の歴史だ
文字もあるし記録が残っててもなんの不思議もない

235 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:37:55.73 .net
きっと伊都国も後漢代の記事が紛れ込んでしまったのだろう
邪馬臺国は奈良にあったということだけが正しくてあとはすべて間違いとするのが畿内説の正しい姿

236 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:39:15.52 .net
そお

中国(漢)の時代だけと区切るなら2200年の歴史

237 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:40:32.12 .net
殷周よりも夏の方が中国人らに近かったわけ

238 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:42:14.95 .net
>>81
帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る。
その内訳は、
狗邪韓国まで7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、糸島→博多の北は玄海灘、東は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

239 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:44:19.02 .net
つまり畿内説にとっての後漢書に書かれてる大倭王の歴史などはほぼ偽書ということだな

240 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:45:24.82 .net
>>235
伊都国はともかく對海國、一大國、末盧國は本気で俺は周代だと思ってるよ
狗邪韓國も
じゃあ伊都國はどうかと言うとこの辺の国は存在があやしい

241 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:47:28.73 .net
>>232
>一里の距離考えたらそらそうでしょ

その「一里の距離」を誰も考てないのが九州説
ただ決めつけてるだけ

242 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:48:54.90 .net
>>239
邪馬臺国は水行ひと月陸行ひと月と書いてあんじゃん

243 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:49:31.66 .net
>>242
>>83

244 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:49:31.88 .net
伊都国はあるだろ
平原王墓からも明らか

245 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:37.00 .net
>>242
里数も戸数も大きく盛ってあるのに日数だけ正確だとする根拠がない

246 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:43.29 .net
>>243
帯方郡からだよ
出鱈目な里数行程なんて無視

247 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:53:11.74 .net
>>245
戸数が大きく盛ってるかはわかんねえなあ
確かに千戸でも過大だとは思うけど

248 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:55:47.51 .net
>>238
吉野ケ里一帯のクニの人口5400人

249 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:57:50.20 .net
一大國の三千許家はどういう意味なんだろう?
三千戸とは意味が違うのかね?

250 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:58:48.48 .net
>>248
奴婢千人だからピッタリ!

251 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:02:23.17 .net
末盧國の四千餘戸も過大だと思うが何処かの勢力圏に入ってると考えればおかしくない
王も官も居ないし

252 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:06:23.01 .net
原の辻遺跡ってえらい立派らしいな
勢力圏が壱岐だけなのか九州島にも及んでるのか?

253 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:09:20.86 .net
国を形成できるほどまだ開拓が進んでなかったのだろ

大阪平野の治水工事が仁徳天皇の時代だぜ

254 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:11:16.27 .net
関東の河川の流れを今の形として完成したのが室町時代だからな

利根川も千葉沖の方に流れを変えたのや

255 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:16:24.85 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

256 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:17:26.44 .net
原の辻遺跡は環濠集落で敵の襲撃に備えてるわけでおそらく九州の敵だろう
そうなると前線基地は欲しい

257 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:31:59.02 .net
「戸」と書いてあっても家の数を表していない。
「里」と書いてあっても距離を表してない。
なのかも

258 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:34:57.58 .net
>>257
表してると思うよ
有り得ない数字は無視すればいい
奴国2万戸なんてあったとしても博多ではない

259 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:38:49.35 .net
吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージしてるんだけど

260 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:49:53.19 .net
>>258
根拠もなく否定するのは良くない

261 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:52:15.72 .net
「戸」は、「其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦」「重者没其門戸及宗族」
とあるから、門戸の数
「家」は、一大国あたりは渡海の中継地だから
三千ばかりの家が有るけど門戸の数はわからない
ということだろう

262 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:00:00.33 .net
>>260
博多ではなく熊本とかそういう意味じゃなくて
二万戸はそれら全部含む国家を意味するくらいじゃないと

263 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:06:38.44 .net
末盧や伊都とは格の違う大国ってことは誰でも認めてるんじゃないの?

264 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:07:27.01 .net
>>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ

碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな?   @阿波

265 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:10:06.11 .net
順番通りなら朝鮮半島が投馬国で日本列島が邪馬台国ならその前に奴国はある
まあこれは行程が別だから全くあてにならんけど

266 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:10:54.75 .net
邪馬台国って名称がどおにもな

これ山東半島あたりに存在した始皇帝絡みの矢倉かなんかの名称じゃなかったか?

つまり起源的には始皇帝に関係ある集団名とかだと思うんだが

弓尊王に関係してるんじゃないのか?

267 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:11:26.84 .net
日本の天皇家関係ないよ

268 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:11:43.40 .net
韓伝では、
「・・・凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。」

で、家数>>戸数 だね

269 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:23:16.26 .net
千戸の国と二万戸の国が同じ様に並んでるわけがない
領土の大きさが違いすぎるだろ?

270 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:25:49.96 .net
>>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ

碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな?   @阿波

271 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:28:56.19 .net
久住先生に、邪馬台国大和説とは、まさに纒向が邪馬台国の中枢と考えて良いですか?と質問したら、
「それで良いでしょう」と返ってきた

272 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:30:52.02 .net
>>271

碌に鉄器さえも作れない纏向遺跡がな?   @阿波

273 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:32:42.85 .net
現代みたいに行政区画されてるわけじゃなし
自然の山や川で国が分かれてたような気がするよ
https://i.imgur.com/Fv1l5Qa.jpg

274 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:34:18.91 .net
>>271
すると後漢書にある大倭王は邪馬臺国に居るというのは
倭国大乱よりもずっと前から奈良が倭国の中心地だったと考えた方が良さそうだな

275 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:39:20.89 .net
>>274
そこが違う
纏向の前は伊勢遺跡
王宮の移転は当たり前

276 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 18:41:20.24 .net
>>275

碌に鉄器さえも作れない伊勢遺跡がな?   @阿波

277 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:05:31.20 .net
>>274
畿内にそんな時代の痕跡は無い

278 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:18:59.67 .net
だよなあ

山間地を利用しての小集落を作るのが精一杯だよ

279 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:20:11.38 .net
中国人らも知らなかったわけではない

その人々のことを

280 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:42:54.24 .net
ふと思ったんだが
巻向が卑弥呼の都ならヤマト国じゃなくシキ国じゃないとおかしくね?

281 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:14:46.70 .net
伊勢遺跡ではレンガ状壁材が使われているので
纏向とは違う集団

282 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:31:11.34 .net
久住氏のように後漢の記事の混入などと考えるより、魏志倭人伝の邪馬台国およびそれを含む連合国倭国はストレートに北部九州にあったと考える方がシンプル

伊都国が畿内ヤマト王権の母体と考えるところまでは久住氏と私は共通だが、私は邪馬台国が北部九州に残り北部九州倭国の畿内ヤマト王権は3世紀以降並立したと考える点が違う

283 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:32:14.28 .net
>>282
✕北部九州倭国の
◯北部九州倭国と

284 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:34:09.66 .net
ただ、久住氏のXはめちゃくちゃ参考になる
他の考古学者もあのようにバンバン発信してくれれば良いのだが

285 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:43:10.07 .net
伊勢遺跡の時代は鳥形、銅鐸、龍の絵画土器、勾玉の時代でもあるからね
山陰若狭北陸近畿東海の静岡迄は鳥形が分布している
龍の絵画土器は唐古・鍵遺跡、橿原、柏原の船橋遺跡、池上曽根遺跡、玉津田中遺跡、壱岐の原の辻遺跡から見つかっている

286 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:46:02.87 .net
>>282
なんで九州説の人はまったく理由を言わないんだ?

287 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:48:01.31 .net
久住の説は勉強になる
寺澤もSNSやってくれよ

288 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:59:40.64 .net
>>282
単に妄想を楽しんでいるだけのおめでたい奴。   @阿波

289 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:00:21.36 .net
久住先生曰く、位至三公鏡は邪馬台国論争には全く影響しないそうです。

290 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:08:21.60 .net
そりゃ、するわけない

291 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:09:38.32 .net
久住さんて、福岡市埋蔵文化センターの人だっけ

292 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:30:29.84 .net
>>281
伊勢遺跡のレンガは竪穴建物で円周上ではなくおそらく祭祀施設ではない

293 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:35:30.81 .net
>>289
三角縁神獣鏡は?

294 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:37:09.91 .net
三角縁神獣鏡を畿内説の根拠にしなければ、三角縁神獣鏡より古い魏晋鏡の位至三公鏡は邪馬台国論争に影響しない

295 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:40:59.46 .net
魏晋鏡の位至三公鏡より新しい4世紀の三角縁神獣鏡は邪馬台国論争とは全く関係がない

296 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:42:02.67 .net
天照(卑弥呼)は崇神より前の世代だから、箸墓は卑弥呼ではない

第10代 崇神 宮中で祀っていた天照大神を
皇女の豊鋤入姫に託して宮外に祀らせたりした
最古の前方後円墳である箸墓古墳の伝承は崇神紀にある
磯城は崇神・垂仁・景行3代の大王の都と記紀に記される
箸墓は崇神天皇陵とする説もある

297 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:45:24.02 .net
>>293
卑弥呼がもらった銅鏡の一部とのこと

298 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:48:17.29 .net
否定するにももうちょっとましなのないの?
天照とか崇神とか頼むはホント

299 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:49:46.01 .net
>>295
>魏晋鏡の位至三公鏡より新しい4世紀の三角縁神獣鏡は邪馬台国論争とは全く関係がない

魏晋鏡じゃないから位至三公鏡は邪馬台国論争とは全く関係がないだろ

300 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:52:21.36 .net
伊勢遺跡は夜に水の祭祀が行われていたと考えられている
祭祀場の真ん中に聖なる井戸があり、池上曽根遺跡との類似性も指摘されている
水の祭祀と聖なる井戸は古墳時代の埴輪にも見られる

301 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:52:55.16 .net
>>298
九州説に、ましなのなんて居ないだろ

302 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:53:42.80 .net
纏向遺跡からはそのような施設は見つかっていない
伊勢遺跡、池上曽根遺跡→古墳時代のヤマト政権

303 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:58:21.00 .net
ヤマト政権が全て奈良の地であったと思わせる為か、明治時代奈良の地名はあちこちで記紀に登場する地名に書き換えられている

304 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:58:25.15 .net
>>299
魏晋鏡だよ
西晋の遺跡からしか出ないから中国では通説

305 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:59:11.46 .net
>>297
なるほど
根拠を知りたいがXの文字数では難しいか

306 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:06:43.67 .net
箸墓ってさぁ…
あれ大王家が吉備制圧した記念碑的なやつなんじゃね?
そんで孝霊天皇の代で磯城県主からの后がストップしたのも関係あると思うわ

307 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:06:49.89 .net
>>300
https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-d-nogou.html
池上曽根遺跡との類似性はこっちかな?
時代も同じくらい

308 :琪瑛教大祭酒:2024/04/13(土) 22:07:32.09 .net
位至三公だからだよ
神仙思想の者には意味の無い鏡だからだ
本居なんかが喜ぶ鏡

309 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:09:47.50 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

310 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:14:35.75 .net
>>304
>魏晋鏡だよ
>西晋の遺跡からしか出ないから中国では通説

ニセ情報乙
そういうの世間じゃ通用しないよ
だから九州説は滅んじゃった

311 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:18:17.57 .net
クズを先生なんて読んでるから公金チューチューのオレオレ詐欺に簡単に引っかかるんだよw

312 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:18:37.28 .net
>>305
根拠もなにも長方形鈕孔を持つ三角縁神獣鏡が魏鏡であることは明らかだからなぁ

「魏」の紀年銘を持っている鏡11例中9例は長方形の鈕孔
対して「呉」の紀年銘を持つものは76例中75例までが円形、半円形の鈕孔

313 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:19:46.46 .net
九州説が未だに1984年に発表された三角縁神獣鏡呉鏡説信奉してるの、無知すぎて哀れになってくるな

314 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:20:31.89 .net
位至三公鏡は後漢代のもあるが、魏晋鏡だよ。
ただ、邪馬台国論争には全く何の影響もないだけ。
位至三公鏡に、西晋鏡であることが確実な6面を足すと、九州以外の方が多くなり、安本美典が主張する「晋と国交を持ったのは九州だ」という主張が破綻するだけ

315 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:22:15.67 .net
三角縁神獣鏡C形式の文様が中国出土魏景元四年(263年)紀年銘鏡と一致してる時点で九州説死んでるんだよ
何が4世紀の鏡なんだか

316 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:32:00.20 .net
上野の研究で画文帯神獣鏡が魏鏡だと確定したよな
呉では華北の画文帯神獣鏡を模倣した銘帯神獣鏡が流行していた。ちなみに九州論者は馬鹿だから銘帯神獣鏡と画文帯神獣鏡の区別をしないでカウントしてる

317 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:58:30.99 .net
>>312
魏鏡であることが明らかとは全く言えない
魏鏡であれば中国から出土しなければおかしい

私は何らかの理由で中国東北部から日本に来た中国人の工人にヤマト王権が作らせた鏡ではないかと考える

318 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:59:30.01 .net
>>314
>位至三公鏡は後漢代のもあるが、魏晋鏡だよ。


位至三公鏡はI型→II型→III型と変化するが後漢代に完了してる
粗製濫造されたIII型が最後で、以降は変化がない
変化がなくなるということは新規製造がないということ
つまり魏晋代に流通してたのは中古品かコピー品だ

319 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:02:22.79 .net
>>317
>魏鏡であれば中国から出土しなければおかしい

三角縁神獣鏡に分類されてるものの初期型は斜縁神獣鏡だよ
斜縁神獣鏡は中国から出土してる

320 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:03:10.69 .net
>>318
Ⅰ式、Ⅱ式、Ⅲ式と変化するのは双頭龍文鏡の話だろう
そのうち位至三公銘のあるⅡ式とⅢ式が位至三公鏡

後漢代に作られたのは位至三公銘のないⅠ式

321 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:04:05.10 .net
>>319
ということはその後の変化を日本で独自に遂げたわけか

322 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:05:22.77 .net
>>124
何言ってるのか全く分からん
東渡海は普通に考えて伊勢湾のことだろ
鈴鹿山脈とか北海道とかどっから出てきたんだ

狗奴国の位置も後漢書に「女王国の東の海を渡った先にある」と書かれてるから東で重複するのは記録と合致してるし

323 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:05:24.81 .net
>>319
私は斜縁神獣鏡の技術を持つ中国人がヤマト王権のオーダーで日本で作ったのが三角縁神獣鏡だと考える
何度も書くが、三角縁神獣鏡が魏鏡であれば中国で出土しなければおかしい

324 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:13:39.80 .net
4世紀のヤマト王権が陳是という中国人に斜縁神獣鏡をベースに日本独自仕様で作らせた鏡が三角縁神獣鏡だ

325 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:18:33.62 .net
答志島と伊良湖岬間に沿岸なんかないぞ

実際に海を渡るぞ

326 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:26:59.82 .net
>>323
>何度も書くが、三角縁神獣鏡が魏鏡であれば中国で出土しなければおかしい

だから、斜縁神獣鏡は中国で出土してるでしょ?

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