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邪馬台国畿内説 Part1012

1 ::2024/04/12(金) 18:43:12.19 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

425 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:32:14.79 .net
トヨウケがいたのは摂津の稲倉山
猪名川上流じゃないかと言われている

卑弥呼は纏向遺跡だがそれ以外は奈良以外にいた可能性が高い
奈良の地は各地から集められた兵が何十年も行き場もなく居続けた場所で入るのも恐ろしい場所になっていたのかもしれん

426 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:32:28.61 .net
>>424
ここはアホばかり。   @阿波

427 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:33:11.98 .net
>>425
ここはアホばかり。   @阿波

428 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:35:19.90 .net
>>427
ここはアホばかり。   @阿波

429 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:36:06.41 .net
三輪山の麓の恐ろしい場所になっていた纏向遺跡
楔を打ちそれをこじ開けたのは大物主が持ってきた酒、サカである
香島の天の大神だな

此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)

430 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:37:01.47 .net
Takeo Kusumi@T_Kusumi057

なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。

431 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:37:28.07 .net
>>378
前期古墳と伊都国の墓制との関連も気になるな
>>424
そういうこと

432 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:39:32.33 .net
>>423
2000年後の中国で爆買いブームの時に持ち帰られた日本製炊飯器(布留式土器)が圧倒的に出土するとして、それで日本が中国を支配していたとするのがクズ畿内説w

433 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:40:55.25 .net
トナカイも畿内が九州を上回る時期を布留ゼロとし、ハルキーは庄内期に想定した

434 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:42:31.36 .net
久住先生は伊都国東遷説も否定している

435 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:45:27.53 .net
432
おまえらドロボーだもんな

436 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:51:03.86 .net
>>433
元々上回ってるだろ
青銅器がたくさんあるし

437 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:54:19.31 .net
https://i.imgur.com/m2lr4US.png
まあ3世紀後葉だな
つまりは魏から西晋に禅譲され倭国の朝貢が途絶えた頃の話だ

438 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:57:10.03 .net
後漢時代の九州の僅かな青銅器
輸入の主流は畿内

439 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:58:02.42 .net
九州と畿内みたいな対立はないからね
存在しない対立の構図をでっち上げて、議論をミスリードするのは悪質
九州北部ははるか昔から近畿と関係が深い

440 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:59:23.74 .net
>>378
畿内説だがその通り
漢鏡3期帥升は九州

441 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:59:41.24 .net
そりゃ交易してたんだから関係は深い
しかしこれを政治的な関係と言い出す輩がいるから面倒くさいことになる

442 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:02:10.02 .net
>>441
わざとやってるんじゃないか
ミスリードする為に

443 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:02:14.68 .net
政治的な関係は九州のなかだけだよな
海を渡って東には(政治的には無関係な)東の倭種がいるだけ

444 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:03:30.23 .net
>>440
青銅器は畿内に入ってきてたんだけど
どうじゃなきゃ銅鐸を作れない

445 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:04:58.43 .net
>>354
計算がおかしい
対馬と壱岐は一辺が400里と300里なんだから通り抜ける際はその倍かかる

          船のルート
     / \  ↘
    / 対馬 \   ↘(ここで400里)
    \    /  ↙
     \ /  ↙
          (ここで更に400里)

壱岐の場合も同じ
だから12000里は奴国でもう使い果たしてる

446 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:06:44.20 .net
漢鏡は九州出土が多いから中国との交易は九州こそミスリードだろ?
銅鐸どうやって作るんだよ?

447 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:06:55.25 .net
筑前型庄内甕は九州の首長も使用している
博多が単なる交易拠点であったとしても、数多ある土器の中から庄内式土器、布留式土器を選んだのは単に交易の結果と見なすことができない

448 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:08:20.27 .net
さっそく出てきた

449 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:09:18.31 .net
すると三種の神器を選んだ畿内は九州に支配されたと見て良さそうだな

450 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:12:26.25 .net
アメノワカヒコ(香島の天の大神、卑弥弓呼)摂津、卑弥呼 大和

味耜高彦根命 摂津

台与 摂津

纏向遺跡の後処理以外の期間は大和以外に宮がある期間が長かったんじゃないか
次に奈良が都になるのは飛鳥時代かな

451 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:12:56.69 .net
九州の畿内系土器は古墳築造のために畿内で徴発した奴婢が持ち込んだものだろうね

452 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:14:56.39 .net
問題はNHKだよな
卑弥呼がヤマト政権の始祖と断言してたからな
ヤマト政権の始祖は大物主なら分かるが
まだ卑弥弓呼をヤマト政権の始祖にする方がマシだな
実際は倭国大乱前にヤマト政権は既に始まっているが

453 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:16:34.93 .net
奴婢以下の生口=船行一年で輸送

454 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:16:58.20 .net
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?

455 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:16:58.45 .net
最近の久住猛雄のXよりピックアップ

「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」

「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」

「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」

「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」

「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」

「考古学を学ぶ気がない方に「近隣窮乏化」と言われてもなあ。記紀だけこねくり回している方がそれです。
「西日本共立説」で括ってもいいですが、「自生説」の考古学的根拠が崩れていることぐらいお調べくださいね。たぶん調べないだろうけど。」

456 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:17:10.31 .net
452
デタラメ吹かすなって感じよ

457 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:18:42.78 .net
久住は最近狗奴国にも言及している
失笑ものの東海説はさすがに採らないようだ

「久努国造って遠江西部のはずなのに、遠江東部沼津の高尾山古墳を狗奴国王墓とか、無茶苦茶過ぎます。
土器様相の急な相違や大型銅鐸の分布有無とか、天竜川の東西で全然違う考古学的文化なのに、それを一緒くたにするような「狗奴国」論は考古学的に成立しかねる、と指摘させていただきます。」

「そんでもって謎の「王」号所持。どこかで魏か公孫氏か後漢後半に少なくとも楽浪、帯方郡と直接接触したはずと考えますが(仁藤敦史「卑弥呼と邪馬台国」)、正直言って3世紀中頃までの遠江地域の首長にそれを期待するのはかなり困難。」

「女王と「素より和せず」、さらに脅かすほどの戦争仕掛ける勢力が、遠江西部にいたのか?
考古学的に証明していただきたく存じます。」

「内藤湖南の狗奴国=肥後国説、
他の肥後国説が「クマ←→クナ」説だが、「キノ←→クノ」説だったっぽい。明治大正時代に、中国の音韻変化について知ってた?しかし東洋史学の泰斗、何か知ってたかも?清代とかに、清の皇帝が編纂した大辞典に中国語(漢字)の歴史的音韻変化の研究があったとか?」

「近代史学の邪馬台国畿内大和説の祖は東洋史の碩学内藤湖南だが、内藤は「狗奴国」を「肥後国菊池郡城野(キノ)郷」にその本拠を比定する。
「クマ」でなく「キノ」が一つの根拠というのに気づいた(「狗古智卑狗」は「ククチ彦」)。」

「ここキノ郷は、後に鞠智城ができるが、方保田東原に並ぶ弥生終末の肥後の二大集落の一つうてな遺跡もある。偶然か?」

「後漢書は「北部九州中心倭国」時期の地理情報があったがあやふやで、東の倭種の国情報と、もう一つ周縁国の狗奴国情報があったが、それをくっつけてしまった。魏志は「倭種の国」情報だけ古い地理情報が残ったが、狗奴国と女王国の交戦で狗奴国情報が増えて是正かと」

「肥後に初期古墳はないが、大型方形周溝墓は古墳初頭に出てきます。しかしながらここで重要なのは、むしろ典型的「古墳」を受容していないことこそが、「女王に属さず」を徹底しているとも言えることです。
一方で集落は大規模、舶載遺物も多く、鉄器生産(「製鉄」としてる方は誤り)盛んです」

458 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:24:32.81 .net
中国にいる馬さん(ハプロO1a)とかあれは回教(イスラム教)徒から始まってるんだな

459 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:25:06.07 .net
>>457
考古学の知識は豊富でも解釈は凡庸だな

460 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:25:26.60 .net
>>457
俺とは全く考えが違うがクズの言ってる事は理解できる
勝手に物語作ってる奴は話しにならんのよね

461 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:26:33.36 .net
久住 「倭国」の再成立と「卑弥呼」〜新「東遷」説〜

・「卑弥呼」は職名ないし称号名であって、一人とは限らず、「初代卑弥呼」王墓は平原であり、T A期新相=庄内 1 式併行とした。

・伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか?

462 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:28:23.35 .net
卑弥呼東遷説は寺沢センセ似たようなこと言ってなかったっけ

463 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:34:03.40 .net
伊都国東遷説は柳田康雄、寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄と増えている
纒向遺跡が在地の弥生勢力との文化的政治的連続性が見られないことと、国家体制・埋葬儀礼・銅鏡等の副葬・農事暦など様々な面で伊都国との共通性が見られるからだ

纒向遺跡の発掘により考古学的に滅んだのは畿内自生説だ

464 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:38:47.93 .net
>>463
伊勢遺跡→纏向遺跡
祭祀施設としての建物跡

465 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:41:34.79 .net
寺澤は吉備東遷な

466 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:43:53.49 .net
>>464
伊勢遺跡は北部九州・吉備勢力の征服により一掃された前時代の銅鐸など青銅器祭祀文化の遺跡だろう

467 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:46:03.97 .net
>>466
伊勢遺跡と銅鐸は関係するか分からない
ずっと以前から銅鐸はあっただろうし

468 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:48:03.85 .net
寺澤は2世紀までは伊都国が倭国の中心(彼は「イト倭国」と呼ぶ)で、大和に遷都したような説明をする
彼は「征服」のような強い言葉は閉鎖的な考古学界に忖度して使わない

469 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:50:09.82 .net
伊勢遺跡はAC100年
銅鐸はBC200年

470 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:57:29.36 .net
私も以下の通り伊都国東遷の枠組みを支持する

弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する周辺勢力)
(続く)

471 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:59:04.11 .net
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では銅鏡など威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

472 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:02:09.84 .net
>>468
東遷はないって明言してるけどね

473 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:02:28.83 .net
>>471
銅鐸用の銅を輸入しなきゃ作れないから

474 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:02:46.06 .net
女王国が伊都国に置いた官、泄謨觚、柄渠觚はアメノヒボコにそっくり
怡土県主は天日槍の後裔でもある
女王国は九州の統治を新羅人に委ねていたのかもな
岡山も天日槍伝承の地

天日槍の神宝は垂仁天皇の時代朝廷に差し出されるから遅くともこの時代迄には天日槍の勢力を一掃したんだろう
孝霊天皇は台与と思われるが、孝霊天皇の事績吉備征伐は実は天日槍の勢力の征伐だった可能性もある


吉備の元々の主人が留守にしている時に天日槍に乗っ取られたのかもな
中国地方の真ん中から始まる四隅突出型墳丘墓
弥生時代末期には鳥取や富山で作られている
糸魚川の奴奈川姫は美保の神さまと関係がある
いわゆる事代主でしょう
興味深いのは国立遺伝学研究所から発表された母系遺伝子の研究
新潟福井香川が同じグループを作っていた
瀬戸内海西部の勢力は弥生時代後期、日本海側の統治に関わって日本海側に移住したんじゃないか
四隅突出型墳丘墓

475 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/14(日) 11:02:58.51 .net
伊勢遺跡はヤマト王権から見て被征服者側の銅鐸文化人のものだからな

銅鐸文化人であった磯城の唐子鍵の人たちは纏向王権を作った人たちに降った後、磐余の坪井大福で銅鐸を壊していたようだ

伊勢遺跡の人たちが纏向王権を建てたなら、銅鐸破壊などするわけなかろう

476 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:06:06.23 .net
椿の古根の牛鬼、牛蟹伝説は瀬戸内海と日本海側に多い

477 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:06:49.00 .net
>>475
伊勢遺跡のすぐ隣の下長遺跡でも銅鐸の耳が出てるんだけど
この二つの遺跡は被ってる時期もあるのよ

478 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/14(日) 11:10:50.86 .net
銅鐸はヤマト王権を建てた人たちに征服された勢力の祭祀道具であり、ヤマト王権は銅鐸祭祀を禁じて没収しこれを打ち壊した

ヤマト王権の宗教は今の神社神道に繋がる銅鏡祭祀であって、銅鐸文化は既に断絶した異文化の宗教のものになる

そもそも宗教というのは簡単に変わるものではなく、九州吉備勢力による畿内征服という歴史があったとしか考えられない

479 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:11:53.88 .net
アメノヒボコがやって来たのは垂仁時代
崇神時代にはすでにツヌガアラシトやソナカシチの来朝がある
つまり畿内が半島に鉄を取りに行き始めて畿内の噂が半島に広まったのが崇神時代なのだろう
その時代が3世紀後半ということ

480 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:12:44.82 .net
伊勢遺跡の近辺は縄文時代の遺跡もいくつもある
伊勢遺跡自体も縄文遺跡がある
だからいつの時代に銅鐸を使ってたかわかんないのよ

481 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:15:32.53 .net
銅鐸を木にぶら下げた絵画土器が鳥取で見つかっている 
鐘みたいに鳴らして使っていたのかもな元々は
祭祀に使っていた根拠は今のところない
戦の最中には敵に居場所を知らせるだけになるから使えないだろうし

纏向遺跡より前の奈良は坪井遺跡や清水風遺跡から鳥装のシャーマンの絵画土器が見つかっている
今でも鳥装の巫女が舞う巫女舞があるね

482 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:21:16.06 .net
天日槍は葦原シコオや伊和大神と戦っているからな
大物主葦原のシコ

卑弥呼の時代だな天日槍
卑弥呼の共立に加わったんじゃないか

483 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:23:12.76 .net
俺は銅鐸用の青銅器が手に入り難くなったんじゃないかと思ってるんだけど
だって銅鏡以外の青銅器を作ってないでしょ?
銅鏡から銅鐸や銅剣銅矛は作れないし

484 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:24:11.43 .net
>>481
鳴らした痕跡がない

485 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:25:48.07 .net
つまり畿内説は必死にオレオレ詐欺をゴリ押ししてる学問テロでしたと

486 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:30:12.27 .net
鏃とかは銅鐸を溶かして作ってるけど祭祀用としては作ってない

487 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:36:29.94 .net
瀬戸内海にいたはずの牛さんがどんどんと北上する
どういうことなんだろうな
シナノの善光寺、牛と白い布ヌノの話
その後牛さんは新潟辺りまで行ったのか?

488 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:38:18.88 .net
弥生時代の青銅器は大半を銅鐸用に使われてたと言われている

489 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:48:46.94 .net
やっぱり漢人らの影響かね〜

中国でも漢が主流となってから中国にあった銅鐸消えた

490 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:49:45.01 .net
漢では鉄を溶かして剣を鋳造するだの簡単にやってるからな

491 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:54:02.90 .net
>>361
説得力無し

492 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:54:20.13 .net
鳥居を潜り井戸の水で身を清め鐘を鳴らし神に祈る
銅鐸は神社の銅鑼やお寺の鐘そのままやけどな

物部と中臣が、鈴がどうの鳥がどうのという話が記紀にあるけどね

493 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/14(日) 11:55:15.99 .net
そもそも邪馬台国時代の畿内にはちゃんと鉄があった
淡路島の五斗長垣内遺跡で製鉄が行われていたし、記紀の神話でも磐余彦の皇后は姫タタラ五十鈴姫であり、タタラ製鉄の名を負っている

イサナキイサナミの国産み神話の舞台は淡路島であり、淡路島には前方後円墳が一つもないという謎の地域でもある
恐らくとても神聖な特殊な島に思われていたのだろう

国産み神話では男神と女神が天柱を廻るが、これは明らかに北極星を中心に星が回る自然現象がモチーフになっている
太陽神を信仰し星に触れないヤマト大王家の神話とは異質な物語である
オレはイサナキイサナミは淡路島の在地人が崇めた世界創生神で、九州発祥の纏向王権の元で淡路の製鉄民が重用されてから、正式に朝廷の神話に組み込まれたのだろうと推測する

イサナキから威を表す接頭辞イをとるとサナキとなり鐸という意味になる
淡路の五斗長垣内遺跡はヤマト王権が生まれる前までは銅鐸の一大生産地だった

イサナキイサナミは纏向王権以前からの畿内土着の神格であり、これが太陽神の神話と異質な内容であるというのは、逆説的にヤマト王権の本貫地が畿内ではないという事を示しているのである

494 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 11:58:42.74 .net
神楽鈴かな
銅鐸、鈴は今でも大切なアイテムか
教令を伝える時に鳴らすものが鐸

495 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:05:53.72 .net
松原にも白い布を敷いて神さま(スサノオらしい)を迎える話が地名の伝承であるな
牛頭天王社

いつの時代の話なのか?
ひょっとしたら6世紀後半の話かもしれない
聖徳太子と善光寺
牛が逃げ込んだ先が善光寺だったかな

496 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:17:31.26 .net
台与の九州倭国 vs 崇神の東倭種

265年に魏が西晋に禅譲してしまい魏が滅亡
魏の後ろ盾を得て共立されていた台与が失脚
九州倭国連合が崩壊、266年朝貢途絶

九州北部勢が畿内に帰順して、制海権、鉄利権が九州から畿内へ(3世紀後葉)
鉄器の出土量が九州と畿内で逆転

畿内に帰順しなかった国々は数十年後に土蜘蛛として討伐される

497 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:22:48.65 .net
タタラ製鉄は南北朝時代の話だろ

498 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:26:02.63 .net
畿内に勢力なるものがあったとしたらそれはすでに銅鐸祭祀とともに滅んだだろ
九州説でも大和に夢見てる人がいるんだよな

499 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:30:59.08 .net
>>492
訂正物部と蘇我

500 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:33:59.19 .net
>>491
短里は存在が証明されてない

501 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:36:39.50 .net
奴国と畿内は密接な関係にあったことが分かる
畿内では銅鐸が消える一方、奴国では在地甕や楽浪土器が消える
また甕棺が消え前方後円墳と三角縁神獣鏡を受け入れる

502 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:37:48.37 .net
493
詳しい情報は出さないでおまえがどこまでやれるのか見てみるわ

503 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:41:13.33 .net
北部九州は畿内の前方後円墳文化の受容には消極的だった

以下、松木武彦「古墳とはなにか」より

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

504 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:41:41.14 .net
ヤマト政権は倭国大乱前に既に始まり、卑弥弓呼が孝昭天皇のモデルじゃないの?
その次の男王が孝安天皇のモデル、台与は孝霊天皇のモデルでしょ
魏に親魏倭王とされても国内の王権は狗奴国側にあったんじゃないか?

NHKは卑弥呼がヤマト政権の始祖と断言したが、よく軽々しく根拠もなく言えたものだ
このシナリオを書いたのは誰なのか?

505 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 12:54:39.81 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

506 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:03:32.06 .net
東京出身の人は東京の歴史を研究したらいいのにな
大国主の母は刺国の姫だろう
武蔵国なんじゃないの
東京の地元民しか知らない歴史が日本全体に関係することもあると思うんだよな

507 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:03:50.23 .net
前方後円墳は、奴国、伊都国の領域よりは豊前の領域に強大な権力を想定できる。
おそらく、卑弥呼共立の時点では九州では博多の方に権力の主体があったが、定型型前方後円墳ができる布留ゼロ以降の博多は権力を喪失したのではないか?
同じく、山陰地方でも前方後円墳は100年間作られない。
桜井茶臼山を見ると、当初「卑弥呼共立」でしか成立し得なかった邪馬台国は、布留ゼロ以降は、
「他の追随を許さない隔絶した王(橿考研・岡林孝作)
「邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王(橿考研所長・青柳正規)」
が誕生したものと思われる。

508 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:09:36.36 .net
宇佐市長のコラム

市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)

県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

509 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:15:53.59 .net
>>492
それを想像するのは良いんだけど弥生時代今ある神社の場所でそれをやってたかと言うとやってない

510 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:19:14.51 .net
>>461
>・伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか?

平原1号墓の後は、2号、3,4号と続いてるよ、小さくなりながら
そして纒向の建設開始は平原1号より前だ
東遷説は無理

タイムパラドックスだ

511 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:20:00.52 .net
https://i.imgur.com/0bQV4uz.jpg
台与の九州倭国 vs 崇神の東倭種

まとめ
・魏の滅亡を機に台与が失脚し九州倭国が崩壊
・九州北部勢が畿内に帰順して制海権、鉄利権が九州から畿内へ
・鉄器の出土量が九州と畿内とで逆転(3世紀後葉)

512 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:22:55.51 .net
>>500
倭人伝の1里は432メートルでは無い

513 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:23:49.88 .net
>>511
銅鐸の原料の青銅器が畿内に入ってきてたって
何が制海権だよ

514 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:25:36.10 .net
>>513
そんなもん交易してんだからなんぼでも流通するぞ
鉄だって早い段階で流通してる

515 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:26:19.74 .net
久住先生30分前のツイート
「九州では奴国伊都国に匹敵する地域がない」

まさにこれ

516 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:26:42.51 .net
>>514
それだと鉄だって自由に手に入れられるって事じゃん

517 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:27:11.26 .net
どうも0-100で考えがちなのよなー

518 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:28:07.56 .net
>>511
3世紀後葉に畿内と北部九州で鉄器が逆転した事実はない

その頃の畿内では鉄器が普及しておらず農具も木製、古墳を作る土木具も木製だったが、北部九州では当たり前に鉄製農具で農業を行い武器も鉄製だった 

テンプレは間違っていて、副葬された鉄器だけで比較している
単にこの頃の先進北部九州は鉄器は実用段階だったが、後進畿内はレアな鉄器が権威の象徴たる貴金属として王が独占し副葬していただけだ

3世紀後葉でも相変わらず鉄器の普及は北部九州が圧倒的だ
先程私が貼った松木武彦の著書にも書かれていた通り

519 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:28:11.71 .net
銅原料を求めて列島中から奴国に倭種が集まって来てもいいじゃない

520 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:28:39.68 .net
豊前辺りは不弥国じゃないかな
タモの地
後々の大墓公と関係するんじゃないか

521 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:28:53.77 .net
>>517
畿内や出雲から大量の青銅器が出てる
これは出雲を通して輸入してたと考えるのが自然

522 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:30:10.82 .net
>>512
倭人伝の1里は確かに奴国までは432mではないが、魏の1里は432mである
尚、奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国までは1里432mを想定した可能性を排除できない

523 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:31:33.48 .net
>>520
不弥国でしょう
石塚山古墳、赤塚古墳などの定型化前方後円墳の主体権力がここにある

524 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 13:32:01.21 .net
畿内が制海権、鉄利権をゲットすると東の倭種が半島へ鉄をとりに行き始める

半島で東の倭種の酋長のことが噂になる

ツヌガアラシト、ソナカシチ、アメノヒボコらが様子を見に来る

これが3世紀後葉

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