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邪馬台国畿内説 Part1012

1 ::2024/04/12(金) 18:43:12.19 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

82 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 21:55:24.48 .net
>>80
だから、鉄器王国「阿波」の前に敵は存在しなかった。   @阿波

83 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 21:55:51.20 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900

84 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:03:11.85 .net
ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

85 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:11:22.48 .net
よく考古学者が提出する年代観を素直に受け入れる気になれるな

86 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:15:15.98 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

87 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:26:37.55 .net
>>83
九州説は奴国の東の不弥国を北にしたらダメです
畿内説にツッコめなくなるでしょ

88 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:28:24.85 .net
>>86
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣だった司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。

89 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:32:34.13 .net
卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である

・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼

・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)

時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている

男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか

90 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:32:56.18 .net
3世紀に半島の鉄と糸魚川の翡翠は交換されていて、その交易ルートが北九州〜山陰〜糸魚川であったことは今では通説になっている
ならば、魏の役人や卑弥呼が使ったルートも当然、このルートを利用したと考えるのが自然ではないだろうか?

91 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:41:18.64 .net
瀬田遺跡 葛城王朝初代王 卑弥呼陵

箸墓古墳 三輪王朝初代王 崇神陵

大仙古墳 河内王朝初代王 応神陵

92 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:49:12.41 .net
>>90
ところが魏の役人は九州に上陸して陸行してしまっている
これは仮に畿内説をとるとしても瀬戸内海ルートを示しているのではないか

93 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 22:49:52.21 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

94 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:02:22.38 .net
邪馬台国畿内説のfull-showもYouTuberだよな

95 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:16:27.62 .net
>>92
瀬戸内海航路がまともに使われるようになったのは平清盛の時代から

96 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:24:55.27 .net
>>95
裴世清

97 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:30:12.62 .net
書いてあるとおり南に行ったと思えば色々悩まなくていいよw

98 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:48:15.42 .net
>>94
あいつはスーパー素人の九州説

99 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:52:10.54 .net
>>78
三角縁神獣鏡

100 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 23:58:25.43 .net
>>92
いま、播田安弘「日本史サイエンス」(1000円)という本を読んでおりまして
ちょっと感動してしまったため、思わずレスしてしまいました
船の専門家で古代の船の性能と航路という点から邪馬台国を論じているほか、秀吉の朝鮮出兵で相対した亀甲船の真実や日露戦争の本当の勝因などなど、めちゃ面白いです
3世紀の瀬戸内海航海の危険性もたっぷり語っています
真偽はどうあれ、暇があれば是非一読を

101 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:12:27.87 .net
>>90
糸魚川の翡翠は殆ど輸出されてないみたいなんだけど
中国には全くない

102 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:13:56.64 .net
>>92
畿内説の場合上陸地点が九州じゃないんだよ

103 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:19:44.23 .net
>>85
>よく考古学者が提出する年代観を素直に受け入れる気になれるな

つまり九州説は反学問

104 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:22:58.38 .net
>>102
日本海ルートなら当然上陸地点は丹波あたりまで北上することになるだろうな
それはもう魏志倭人伝との相違がものすごいことになるが

105 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:33:58.25 .net
>>86
>「有棺石槨」ホケノ山

ホケノ山に「石槨」とか無いから

106 :琪瑛教大祭酒:2024/04/13(土) 00:45:37.25 .net
無駄だ
九州は半島甕棺の遺影でしか無い
本居や田中智学の勘違い皇国論者でしかない
もう大体大筋はハッキリし覆せないよ

107 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:58:14.49 .net
>>104
不弥国から水行してるんだから、その比定地は海沿いの宗像あたりしか有り得ない
不弥国が宗像なら、奴国(博多)から北になるのに倭人伝は東と書いてるんだから、投馬国への南も東に読み替えないと逆におかしい

108 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 00:59:35.44 .net
それに投馬(於投馬)国は出雲で間違いない
地域的首長としてのミミおよびミ


『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

他に近江国伊香郡の伊香刀美(イカトミ、伊香津臣命か)なども地名にミを付けた地域的首長を表すと考えられる。また綏靖天皇の和風諱号である神沼河耳命(カムヌナカワミミ)や、その兄である神八井耳命(カムヤイミミ)なども同様である。

109 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 01:07:50.66 .net
>>107
海岸沿いを北上していくなら完全に水行ルートで陸行する場所がない

110 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 01:20:15.31 .net
>>108
ミミのつく人物が、出雲のみならず、和泉、摂津、丹波、但馬、近江にいたことが記録されてるんでしょ?
なら、投馬国が出雲で間違いがないことの理由になってないじゃん。

111 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 05:05:02.74 .net
ミミなら耳垂だろ

112 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:17:02.55 .net
>>104
出雲→吉備→伊勢遺跡

113 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:22:50.51 .net
帯方郡から水行二十日だから投馬国は対馬が妥当だろ?

114 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:28:58.28 .net
伊都国に相当する場所が出雲
輸出入の権益を握ってるからお金持ち

115 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:46:24.56 .net
このスレの人にとっては何をいまさらな話だろうが
ヤマタノオロチ(製鉄)、桃太郎(温羅)、アメノヒコボといった伝説の数々が卑弥呼以後の話と知ってショックだった
神武天皇=1世紀くらいの人、神話=さらに大昔という刷り込みがあったからだ

自分の中で卑弥呼=アマテレス説にますます信ぴょう性が出てきた
和辻哲郎という人は凄いな

116 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:47:44.86 .net
アマテレス→アマテラス

117 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:50:48.04 .net
>>115
何をいまさら。

①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼(天照大御神)」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼(須佐之男命)」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、卑彌呼宗女「壹與(豊玉比売命)」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」 
⑤「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   

これが魏志倭人伝と記紀との整合性 だと、何度言えばww   @阿波

118 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:52:46.54 .net
ヤマタノオロチは大和の音写だろうな

119 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 08:54:50.44 .net
大和の大蛇が日本海勢力の英雄に返り討ちにあう話
ホンダワケとイザサワケの時代の話かもしれん

120 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:01:35.53 .net
ヤマタノオロチ退治は紀元前後
遠賀川式土器の稲作民vs那津の稲作民が引き金かもな

遠賀川式土器の分布は若狭〜尾張のラインが東端
尾張の朝日遺跡は遠賀川式土器の集落であったが紀元前後に墓域が変わり墓制も日本海側と共通のものに変わる
弥生時代後期になると松江の西川津遺跡と同じ形の鳥形が見つかっている
河内にもヤマタノオロチ伝承が残り出雲からやってきた人々が退治してくれたという
紀元前後で営みを終えた加茂岩倉遺跡の銅鐸が近畿各地で見つかっており、ヤマタノオロチの後釜に銅鐸の勢力が収まったのか?
遠賀川でもスサノオのヤマタノオロチ退治の伝承が残り、ヤマタノオロチが倒された後遠賀川は赤くなったという
九州では鹿使いの赤神が後釜に収まったのかもな

121 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:06:30.36 .net
>>115
隋書の阿毎多利思北孤が日出処の天子でアマテラスだ

122 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:10:17.96 .net
>>105
石囲い木槨だって!「有棺無槨(棺を直接土葬)」と明らかに矛盾してるねw
http://sakuwa.com/p13.html

123 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:15:08.19 .net
>>113
千戸から5万戸にアップするので没

124 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:16:05.25 .net
>>81
>>86
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州
✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡は後世の追加&追葬)を比定。

125 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:18:24.28 .net
三角縁神獣鏡が出ない南九州が邪馬台国や投馬国である可能性は限りなくゼロ

126 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:19:13.97 .net
>>123
投馬(対馬)は寄港地ってだけ
朝鮮半島(5万戸)から日本列島(7万戸)に出発した

127 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:19:43.94 .net
つまり畿内説はオレオレ詐欺

128 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:21:51.86 .net
陳寿は投馬国も邪馬台国も集落のつもりで書いてるが集落ではない

129 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:22:42.42 .net
239年に来た明帝勅使も、247年に来た張政も、南「陸行」一月してる時点で里数表記に変わるはず
彼らに東夷に関して嘘を吐く理由なんてないから、女王之所都が纏向である可能性は完全にゼロ

130 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:23:04.47 .net
>>121
>隋書の阿毎多利思北孤

記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。
その心は、「天照大神」・「粟」の「あ」、や「伊予之二名島」の「い」等に由来しているためか。 
これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。   @阿波

131 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:23:16.33 .net
>>126
対馬は対馬

132 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:26:32.37 .net
>>131
どの文字をあてるかはその人次第
聞いた人に依って微妙に違ってくる

133 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:27:09.20 .net
>>81
>>83
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

134 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:27:59.96 .net
粟、稗、稷、縄文時代の穀物だ
粟、日枝、吉備
まだまだ謎が多いよ
旧石器時代から一つ一つ人々の営みの歴史を解明し積み上げていくしかないかもな

135 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:31:02.22 .net
中国で西晋の遺跡からしか出ない位至三公鏡は魏晋鏡というのが世界の通説

しかしこれでは位至三公鏡よりも新しい三角縁神獣鏡が4世紀の鏡になってしまい三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にしたい畿内説にとっては甚だ都合が悪い

このため世界中で日本の畿内説考古学者だけが位至三公鏡を後漢鏡と言い張る

畿内説の結論ありきで考古学を歪める恥知らずの畿内説学者

136 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:31:06.65 .net
アマテラスは間違いで実はアワテラスだ

137 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:38:05.41 .net
>>135
位至三公鏡を全て西晋の銅鏡であると仮定しよう。(明らかに漢代のもあるのだが)
すると、13面は九州、12面は九州以外。
また、西晋鏡であることが確実である泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)などの6面を加えると、
西晋鏡は九州より九州以外が多くなり、かつ最多の都道府県は大阪府になる。

よって、位至三公鏡は邪馬台国論争に何らの影響も与えない。

138 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:40:40.47 .net
>>137
邪馬台国論争に影響を与える
三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡と言う一部畿内説学者の主張が理論的に崩壊する

139 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:43:52.53 .net
>>124
>>129
ある意味(白○を黒●と言い張る)畿内説学者によって纏向は⇩邪馬台国女王之所都という冤罪・濡れ衣を着せられているとも言えるな
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

140 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:44:42.34 .net
>>138
三角縁神獣鏡は卑弥呼からもらった鏡であろう。
ただし、卑弥呼がもらった鏡は画文帯神獣鏡や斜縁鏡も考えられる。

西晋の時代には、大阪府がもっとも多くの西晋鏡を副葬していることから、大阪と西晋は蜜月な関係にあったのだろう。

141 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:46:19.85 .net
>>138
三角縁神獣鏡を権威の象徴として全国に配ったってのは理には適ってる

142 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:48:05.90 .net
本場中国ではたったの1枚、日本ではすでに500枚以上出ている三角縁神獣鏡が前方後円墳「有棺石槨」とセットという時点で、卑弥呼の鏡ではないことが明らかw

143 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:48:29.45 .net
>>141
九州説の私もそれは否定しない
北部九州倭国とは全く別の国である畿内ヤマトか4世紀にそれをやった

144 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:48:50.80 .net
魏の皇帝から貰った鏡が無くなって自作したって事だよね

145 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:50:04.16 .net
>>143
脱字
畿内ヤマト「王権」が、だ

146 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:50:27.31 .net
1つの古墳の棺外に大量に副葬されることが多い三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるわけがなかろう(もうすぐ600枚!)w

147 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:52:04.32 .net
南方系の鏡を魏からもらう?

148 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:52:09.88 .net
>>142
有棺無槨は一般人の被葬方法である
魏志倭人伝を読もう

149 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:54:10.24 .net
畿内に九州とは無関係に王権が存在できるわけ無いだろ
王権の象徴である前方後円墳がそもそも前時代の畿内になかった

150 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:54:38.39 .net
三角縁神獣鏡は明らかに日本独自の古墳埋葬用の祭器だ
3世紀後半ないし4世紀以降の畿内周辺の宗教的リーダーであるヤマト王権が古墳祭祀とともに各地の有力者に広めたものだろう

魏とは全く関係ない

151 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:56:44.14 .net
>>148
魏志高句麗伝「厚葬金銀財幣盡於送死 積石為封列種松柏」

>厚葬金銀財幣
権力者の被葬方法である。

魏志韓伝「其葬有棺無槨 不知乗牛馬牛馬盡於送死」

>牛馬盡於送死
権力者の被葬方法である。

152 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:56:44.81 .net
>>146
黒塚古墳では中央に画文帯神獣鏡で周囲に三角縁神獣鏡
画文帯神獣鏡こそが卑弥呼の鏡とも考えられる

153 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:56:46.51 .net
本場中国ではたったの1枚、日本では600枚に迫る勢いで1つの古墳の棺外副葬品として大量に出土する三角縁神獣鏡だが、
@筑紫女王卑弥呼が239年に魏帝から貰ったオリジナルの百枚(祇園山のはコレ)と、
A筑紫女王台与から266年禅譲を受けたヤマト王権が大量にコピーして配った倣製鏡
の2種類あるのかもしれないね!

154 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:56:54.52 .net
>>147
画文帯神獣鏡は呉の鏡だが、三角縁神獣鏡は後の鏡とは言えない。
明確に斜縁鏡の影響を受けている。
そこでこの名文が出てくる。
「銅出徐州師出洛陽」

155 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:57:01.91 .net
阿波さんよ、あなたの近くに「闇のクマさん」と言うYouTuberはいませんか?

156 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 09:59:39.55 .net
>>153
無い

157 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:00:53.81 .net
三角縁神獣鏡は、1つの古墳の棺外の、それも足元に30枚とか大量に副葬されることが多いことから、明らかに卑弥呼の鏡ではない

158 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:02:42.80 .net
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の模様の違いってよくわかんねえわ

159 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:03:17.83 .net
>>157
素人すきるだろ

160 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:04:16.04 .net
>>158
画文帯に斜縁鏡を合わせれば、三角縁神獣鏡になります

161 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:05:04.23 .net
でっかい十円玉だよ。

当時は街道がないから参勤交代で浪費させることができなかった。

だから巨大な土盛りを作らせたり、
大量の年貢や生口と引き換えにでっかい十円玉をご褒美に渡して、しかも副葬させた。
地方疲弊して従うしかない。

162 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:06:02.86 .net
>>160
ならない

163 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:06:04.23 .net
>>153
慧眼!
舶載と倣製の2種類あるとすれば、三角縁神獣鏡の謎が解明できるかもw

164 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:06:35.17 .net
>>163
ないからぜんぶ国産

165 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:08:39.83 .net
>>103
少なくとも、年代学研究の専門家である年代学者の分析結果を過度に疑って分析結果よりも大幅に新しい年代を主張していた前科はある
最近は反省して年代学を受け入れるようになってきたが。

166 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:09:14.76 .net
>>162
なると解するべき

167 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:10:28.26 .net
>>140

西晋の時代には、大阪府がもっとも多くの西晋鏡を副葬していることから、倭人(阿波勢力)が多く進出したのだろう。   @阿波

168 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:12:27.45 .net
>>142
>本場中国ではたったの1枚、

その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、
神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。   
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、
「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。   @阿波   

169 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:13:51.31 .net
>>163
三角縁神獣鏡が本場中国で1枚しか出てないっておかしくね?
266年に筑紫女王台与から禅譲を受けたヤマト王権初代大王「複立男王」が献上したんだろうか?

170 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:17:59.96 .net
骨董屋で買った一枚の鏡なんてなんの証明にもならんよ

171 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:19:07.86 .net
>>170
山田君、座布団三枚差し上げて!

172 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:26:02.67 .net
魏から貰ったのが画文帯神獣鏡で複製して全国に配ったのが三角縁神獣鏡でも仮説として成り立つでしょ?
どっちも似たようなもんだから

173 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:27:05.05 .net
要は、春秋二倍暦説などがないと、神武東征がなかったことになってしまうってことだよね。

174 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:51:13.50 .net
複立男王は倭の五王のこと

175 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:52:06.03 .net
曹叡君、
>>170さんに銅鏡百枚差し上げて!

176 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 10:54:15.17 .net
>>174
汚舞もしつこいねw トナカイか?w

至【魏】景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親【魏】王假金印紫綬 
正始中 卑彌死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王【其後】復立男王並受中國爵命

【晉安帝】時 有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武 
齊建元中 除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍 
高祖即位 進武號征東大將軍

なるほど、「複立男王並受中国爵命」は(「讃」では断じてなくw)崇神だな!

177 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:09:11.07 .net
>>142
>本場中国ではたったの1枚、

その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、
神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。   
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、
「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。   @阿波   

178 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:23:24.47 .net
画文帯神獣鏡は、呉鏡である画像鏡と華北東部系鏡をハイブリッドさせた銅鏡である。

179 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:26:07.91 .net
【宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とその時代】
制作年代としては、3面とも舶載第2段階で、かなり古い鏡である。
歴年代では、240年代の製作である可能性が高い。
副葬時期(古墳の時期)
・舶載第1・2段階の「三角縁神獣鏡」 は、古墳時代前期前半に築造された古墳から多数出土している。
・宮谷古墳も、古墳時代前期前半となる可能性が高い。
※古墳時代前期前半に相当するとみられる古墳の数の多さは、東四国あるいは徳島を特徴づけるものと評価できる。
島根大学法文学部考古学研究室 准教授(当時) 岩本 崇氏 2019/09/28   @阿波

180 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:39:43.01 .net
>>176
捏造する気がないなら誤解する余地はゼロだな

復立卑彌呼宗女臺與為王

【其後】復立男王並受中國爵命
【晉安帝】時 有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武 
齊建元中 除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍 
高祖即位 進武號征東大將軍

181 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 11:43:00.28 .net
>>180
読解力ゼロのトナカイだw

東晋安帝(382〜419)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B8%9D_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)

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