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邪馬台国畿内説 Part1016

1 ::2024/04/23(火) 18:34:01.36 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713580888/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

583 ::2024/04/25(木) 14:22:41.37 .net
尚、>>581のやり方で調べると大体1里75~85メートルくらいになるが
こういう話もある

http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になった

584 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 14:31:01.67 .net
>>583
>洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で

なんで宮崎市?

585 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 14:48:12.96 .net
>>574
>論理的には短里は無かったとも言えないんだが?

言えます

586 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:06:02.17 .net
奴国2万戸の2.5枚の投馬国、3.5倍な邪馬台国を九州内に設定することができず、九州説不成立

587 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:11:07.04 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

588 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:39:18.06 .net
>>585
証拠は?

589 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:39:55.29 .net
「又至竹斯國、又東至秦王國」
投馬国は後の秦王国と違うのか?
読みは違うけども

590 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:42:12.67 .net
>>589

秦王國の人は中国語を話していたと書いてあるだろ?
外国人政権だよ

つまり畿内がすでに西日本統一政権を構築していたなんてのは全くのデタラメという事だ

591 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:45:40.77 .net
>>589
「裴世清」
『隋書』によれば、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。(Wikipedia)
竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。 
その「秦王国」とは、東四国の倭国(阿波)。   @阿波

592 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:47:20.27 .net
>>589
訂正

竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。 
その「秦王国」とは、東四国のさぬき市津田。   @阿波

593 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:48:41.00 .net
>>592
またお前か
外国人だったのか

594 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:49:50.23 .net
>>590
大陸には近いが

595 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:53:20.36 .net
珍さんが居た所かもしれん

596 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:03:22.25 .net
>>582
女王国より北は戸数や距離が記載出来ると書いて、戸数距離が分からない国としてそれらの国を挙げてるのに、邪馬台国の北、しかもすぐ近くに比定してるそいつドアホだろ

597 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:05:45.66 .net
そもそも投馬国が女王国の南、戸数距離が分からない国々がすぐ近くになる九州説は論外

598 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:11:05.66 .net
次に斯馬國(對馬國)有り。次に巳百支國(一支國)有り

599 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:20:37.11 .net
もう忘れちゃったな
相当に古い戸籍の記録に秦姓ばかりの人が
住んでる大分県の場所があって
色々動きはあるんだけど、そこに卜部姓の人も
伴っているんだよな
卜部は秦氏に従って亀卜を学んだというわけ
なぜ大分かというと現実にそこに秦姓集住地があったということと
何より宇佐神宮があるからだという理屈

600 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:27:52.10 .net
隋書はかなり正確に書かれてるんだと思う
それでもあの程度だ
おまけに小野妹子の名前も出てこない

601 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:40:42.18 .net
それをモノした著者によれば公権に従って
戸籍を提出している点、以前の事情はともかく
独立国はまああり得なくてむしろ
隼人を征伐した後にそこにヤマトの人間を
殖民してしまおうとなったらしく
秦氏らはじめ大分県域の人間がそれに選ばれた
だから鹿児島に正八幡宮が残っていると

602 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:54:12.42 .net
>>569
存在しないからな
九服之制で全て説明がつく

603 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 16:57:33.80 .net
以下、これは全て千里であるがバラバラ

・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km

604 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:01:40.16 .net
>>602
俺もそこに辿り着いた
あんまり理解出来ないけどとりあえず観念的な距離があるのを理解した
その前は時代が違うんだろうと思って調べたら周代は長さが定まってないってのを学習した

605 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:02:52.44 .net
>>590
6世紀もいまだ九州はヤマトに服していないなどというのはさすがに珍説の領域
トンデモ論

606 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:04:56.54 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

607 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:05:11.55 .net
海を渡ったらとりあえず全部千里で、別の蛮域に入るという思想だろう
3回千里渡海をするから、相当に遠方の地域であるという認識、あるいは先行地図が存在したのであろう

608 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:05:50.87 .net
>>606
黒塚は難升米で良いと思う
黄幢でOK

609 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:06:58.02 .net
そもそも何で大和でヤマトなんだよw
どうせ関西人が後からこじつけたんだろw

610 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:17:23.63 .net
>>609
倭→和だろ、常識的に考えて

611 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:19:21.39 .net
ヤマトの音が先にあって
聖徳太子が「和を以て貴しと為す」と定めたので
「大和」にしようということに決定した

612 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:24:07.78 .net
>>608
大夫ごときに銅鏡34枚はないな

613 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:27:30.88 .net
大夫(まえつきみ)はナンバー2相当やないの

614 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:33:50.62 .net
>>612
一応、魏の率善中朗将である
箸墓を卑弥呼の墓とし、臺与の墓を西殿塚に比定すれば、黒塚が難升米であっても違和感はない

615 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:33:56.49 .net
じゃあ大王は銅鏡50枚以上入れないとダメじゃないかw

黒塚は明らかに大王陵だよ

616 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:36:52.11 .net
魏志に出てくる大倭はダーワと読むがその発音を聞いた半島系畿内民はダーバンと聞こえたので大坂と記した

女王国の市の監視役は大阪だったのかも知れないな

617 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:38:25.84 .net
桜井茶臼山古墳は103面以上

618 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:39:24.75 .net
その大倭が銅鏡の不足を訴え卑弥呼が魏に銅鏡をくれと言ったのかも知れないな

619 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:39:26.15 .net
記紀に記録されていないから支持できるんだよなあ
大王として卑弥呼と台与の二人分
大王墓じゃない近似年代前方後円墳のうち
ランクの上位2つがこの二人のもの

620 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:40:04.22 .net
>>602
説明はつかないだろw

観念的数値なんだから

621 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:41:39.95 .net
大王墓×
大王陵⚪︎

622 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:41:42.27 .net
>>615
西殿塚には50面以上あるでしょう

623 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:42:19.70 .net
つまり女王国の東の倭種の国々とは、鉄器より青銅品を好む半島系民族だったのかも知れないな

弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

624 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:44:08.79 .net
>>623
ざんねん。弥生時代はその終わりまで
まったく日本人だけのイベント

625 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:44:38.32 .net
>>619
箸墓と同年代同型式の古墳は京都向日市の五塚原古墳だけ
どう見ても4世紀のものだが

626 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:45:52.12 .net
>>625
箸墓は百襲姫として記載があるので
ヤマト王権公認の人物が被葬者に違いない

627 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:47:37.68 .net
>>625
あ、百襲姫は大王じゃないという意味かすまん
記紀に言及すらない前方後円墳でお願い

628 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:51:04.68 .net
百襲姫のことは古事記がガン無視だけど

629 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:53:51.64 .net
>>616
大阪は元々小坂だったらしいが

630 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:56:52.11 .net
>>629
俺は逢う坂と聞いたことがある
口伝なんていい加減なもんよ

631 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 17:58:35.70 .net
黒塚古墳から出土したU字型鉄パイプはU字型の飾りがある布製冠帽の形を保持する芯
元々合理的根拠のなかった妄想同然の「魏からもらった黄幢説」は吹っ飛んだ

https://www.asahi.com/articles/ASS3775HFS2GPOMB00Q.html

632 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:00:54.95 .net
さすがに布製冠帽の芯に鉄パイプはなかろう

633 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:01:33.20 .net
クッサ草の草

634 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:01:56.27 .net
>>631
通説畿内説同士で意見が違っているだけ
東潮は黄幢の可能性が高いことを示唆しているが、冠帽形埴輪だという学者もいる

635 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:01:58.61 .net
やばいw

636 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:03:40.78 .net
>>631
「黒塚古墳」は、木棺内の水銀朱や三角縁神獣鏡、鉄製品などから、
畿内へ進出した「倭人(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。   @阿波

637 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:05:46.55 .net
難升米は倭国ではそこまで上位の人物ではなかったとしても、中国側からするとナンバー2
率善中朗将に銀色

638 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:12:09.98 .net
黒塚古墳からはU字型鉄パイプだけじゃなく
両端が尖る棒状鉄製品も出ているから
黄幢ではないかもしれないが、
何かU字型に布を取り付けたものを棒状の鉄棒で掲げる
幢のようなもので、布の色が黄色だとすると
黄色い幢のようなものだろう

639 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:12:47.51 .net
布製冠帽の芯だとしても鉄パイプは当時の列島の技術では作れないから
舶来品という事になるな

640 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:14:49.11 .net
U字工事

641 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:15:59.67 .net
>>638
>黒塚古墳からはU字型鉄パイプだけじゃなく
>両端が尖る棒状鉄製品も出ているから

碌に鉄器さえも作れない奈良盆地なんだけどなww   @阿波

642 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:17:03.17 .net
畿内説信者っていつも醜い言い訳垂れ流してるだけだよな

643 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:18:38.71 .net
>>639
巨大蛇行剣も作れているから、鉄器王国「阿波」の作だ。   @阿波

644 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:23:26.60 .net
布の付着がどういう状態かわからんな
帽子なのか固定されてるのか?

645 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:24:39.30 .net
椿井大塚山では、他の墓を圧倒するほどの鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出る
「まだ調査できてないほとんどの墓」も開けてみないと何とも言えないが、これはどう考えても魏帝からの下賜品でしょう
魏帝からもらった五尺刀2本もこれかもしれないが、箸墓から出てしまえば、椿井大塚山の鉄剣刀矛30本は別に魏からもらったと言える

いずれにしても、魏との交流により鉄製武器が飛躍的に発達したと評価できるでしょう

646 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:24:49.38 .net
>>642
俺様の言ってる事が正しいから信じろってのはやめて

647 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:26:59.11 .net
紐状の繊維が出てるよ

648 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:27:51.55 .net
>>645
椿井大塚山古墳も、木棺内の水銀朱や三角縁神獣鏡、鉄製品などから、
畿内へ進出した「倭人(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。   @阿波

649 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:29:09.42 .net
>>631
居たなw
畿内では「魏からもらった黄幢」が出土しているニダ!
としつこく語ってた奴

650 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:29:55.14 .net
>>643
阿波が鉄器王国だった証拠を出して下さい
ヤマタノオロチ氏と同じ理由だとなると、無視せざるを得ないでしょう
ヤマタノオロチ氏は林・藤島遺跡から鉄が2000点出てるという福井県からも学者からも無視されている主張をしている

651 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:31:19.19 .net
>>649
いまだ黄幢の可能性が高いと見るべきである
冠帽形埴輪説を採る学者もいるが、小数説の域を出ていない

652 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:55:35.04 .net
魏から何らかの官職に任命された倭高官

・難升米→率善中朗将
・都市牛利→率善校尉
・伊聲耆→率善中朗将
・掖邪拘→率善中朗将(正始4年、伊聲耆、掖邪拘ら8人と書かれているので他に6人が率善中朗将の官職に任命されたと見られる)
・倭載斯烏越→記述はないが何らかの官職に任命されたと推認できる

この11人の墓はどこにあるのであろうか?
この時期はすでに博多では筑前型庄内甕が成立しているので、11人全てが畿内人であったと見るべきではなく、九州人も間違いなくいたであろう。
それが那珂八幡古墳なのか、福岡石塚山古墳なのか大分赤塚古墳なのかは分からないが、これらの人物の墓と想定すべきでしょう。

653 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:56:33.56 .net
>>650
>阿波が鉄器王国だった証拠を出して下さい

「阿波」の「鍛冶炉遺構」を自分で調べろ!   @阿波

654 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:58:21.20 .net
>>653
畿内の鍛治炉であった場合、何の意味もなさなくなりますがよろしいですか?

655 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:01:03.04 .net
>>654
よろしくない。   @阿波

656 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:03:54.18 .net
>>655
畿内説を採った場合、四国は単に纒向邪馬台国の一部であり、よしんば鍛治炉が多数あったとしても、単に中央へ鉄器を搬入させられたと見るべきです

657 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:06:58.35 .net
>>656
>単に中央へ鉄器を搬入させられたと見るべきです

そんな、中央なる実態が無いので、見るべきでない!   @阿波

658 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:07:40.72 .net
>>651
いずれにせよ舶来製である事には変わりない

当時の倭の技術では作れない文物

659 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:09:46.95 .net
>>658
>いずれにせよ舶来製である事には変わりない

鉄器王国「阿波」の作だよ。   @阿波

660 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:22:45.75 .net
黒塚古墳のU字型鉄パイプだけじゃなく、
棺内の水銀朱も、水銀朱王国「阿波」の産だから。 見落とすなよ!   @阿波

661 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:22:57.76 .net
古墳時代になっても畿内勢力が直接朝鮮半島に進出した痕跡は殆どない

庄内甕は半島からも出土するようになるが畿内型ではなく筑前型ばかりだし、任那四県地域の前方後円墳も北部九州型の特徴を持つ

畿内は基本的には博多湾貿易への参加を通じて(すなわち日本列島内の流通ネットワークを通して)大陸からの物を入手していただけだと考えられる

古墳時代ですらそうなので、ましてや弥生末期の卑弥呼の時代においてはなおさら大陸との交流などあろうはずもない(実際に纒向には大陸との交流の痕跡がない)

662 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:24:46.89 .net
>>661
進出しているのでアウト

663 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:25:27.49 .net
>>662
証拠は?

664 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:26:03.77 .net
ネトウヨってアフリカ単一起源説すら信用してないのかな

665 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:26:46.83 .net
>>661
あなたの書き込み
画文帯神獣鏡が畿内に圧倒的に集中している

666 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:27:03.82 .net
>>661
>すなわち日本列島内の流通ネットワーク

そんな大層なもの、弥生末期の卑弥呼の時代にあるかい! 倭人(阿波勢力)が各地へ進出したでけのこと。   @阿波

667 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:30:16.33 .net
>>665
北部九州経由で入手しただけではないか
その頃は威信財をかき集めるタイプの専制的な王は北部九州にはいなくなっている(過去にいたそういうタイプの王は奈良盆地に移った)ので、北部九州には少なく畿内に多いだけだろう

668 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:31:01.10 .net
>>667
北部九州の画文帯神獣鏡は少ない

669 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:33:07.81 .net
帥升は伊都国王であり、朝鮮半島の金官・釜山あたりから対馬海峡を経て北部九州の玄界灘沿岸あたり(当時の中国が「倭」と呼んだ地域)に勢力を持ち、原の辻三雲貿易を押えて倭国王的な立場にあったろう
魏志倭人伝で倭国乱の前に70~80年続いたとされる男王の時代は帥升から始まった可能性が高いと考える

この伊都国王=倭国男王達が代々専制的な権力を振るったことに北部九州の他の諸国が反発して倭国乱が起き、その収拾のために伊都国王の血筋ではなく、軍事的・外交的ヘゲモニーを行使する恐れもない若年の巫女(しかし血統は良くカリスマ性高い)を新たな倭国王として共立したと考える

この巫女女王(個人名は不明だが尊称のヒメミコ=卑弥呼と魏志倭人伝に記載)は山門(邪馬台国)に所在したと考えられる
邪馬台国は戸数や距離(日数)が倭人からの伝聞で誇張されて魏志倭人伝に記載されたが、実態はおそらく軍事大国でも経済大国でもなく、各国の協調のバランスの上に卑弥呼の政権は立っていたのだろう
(現代のEU本部がEUの中で大国ではないベルギーのブリュッセルにあるようなもの)

670 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:33:39.81 .net
>>668
だから少ないと書いただろう
理由も添えて

671 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:38:34.83 .net
>>669
続きだが、この北部九州から排除された専制的な伊都国王の血筋が東遷して吉備勢力を巻き込んで奈良盆地を征服したのが初期ヤマト王権だろう
だからヤマト王権の王はかつての伊都国王のように専制的な性格を持ち、銅鏡などの威信財をかき集めて墓に副葬した

672 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:39:37.00 .net
>>670
すなわち、畿内説ということですね

673 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:43:15.07 .net
私の「専制的な伊都国王の東遷→専制的な初期ヤマト王権成立」説は、以下の松木武彦「古墳とはなにか」に書かれた北部九州と畿内のリーダー像の違いと頗るフィットする

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

674 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:45:31.98 .net
>>672
伊都国は東遷したが筑後の邪馬台国は九州に残り田油津媛の代に滅亡したというのが私の説、すなわち九州説

皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないこともこれで説明ができる

675 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:45:38.70 .net
いつもと同じ、畿内説のコピペは読みません

676 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:46:41.68 .net
>>674
筑後に邪馬台国の遺物は一切ない

677 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:48:08.42 .net
>>676
山門は田畑が広がり発掘自体があまりなされていない

Absence of evidence is not evidence of absence.

678 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:53:41.30 .net
>>677
同条件で畿内もいくつかの古墳しか調べられていないが、それでも畿内では古墳の存在から、ヤマト王権が代々その地で「まつりごと」をしていたことが分かる

筑後には、それすらも無い

679 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 19:59:19.63 .net
黄幢は魏の正規郡の旗であって
持っていても参戦しなければ無意味。

参戦すれば正規軍の将軍だった。
韓州刺史、九州候である。
畿内と戦争で、東遷成立だwww

魏からの激、帯方郡への参戦要請は
245年韓制圧戦だが
日本は九州と日本海ルートが結束。
一大率を伊都に置いた。

公孫氏と韓の次は、九州制服である。
対魏の防衛対策は当然富国強兵である。

コレが古墳時代で半島進出に繋がる
大和朝廷の誕生である。
246年である。 倭人伝論争はタコ。

680 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 20:03:52.89 .net
>>678
>ヤマト王権が代々その地で「まつりごと」をしていたことが分かる

畿内に、ヤマト王権なる実態が存在しないので、代々その地で「まつりごと」をしていないことが分かる。   @阿波

681 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 20:04:41.34 .net
>>678
九州説では一般に、邪馬台国を含む魏志倭人伝の倭国はヤマト王権とは違う王権だと捉えている(多元王朝論)

ヤマト王権という奈良地方の地方政権がどんなマツリゴトをしようが北部九州倭国には関係のない話だ

682 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 20:06:17.56 .net
ヤマト王権は九州倭国の下部組織に決まってるだろ
畿内に独自の勢力を作れるような文明はなかった

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