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邪馬台国畿内説 Part1017
- 1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
- 119 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:41:49.66 .net
- 地方にちょろっと出る画紋帯神獣鏡は
平壌出土のものと同范鏡だったりするんだよね
平壌の親藩にもそれ渡したんかな
親魏倭王にはもうちょっとプレミアなものくれてもいいのにね
- 120 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:42:27.19 .net
- >>118
>畿内説は一切触れようとしない
汚物に触れたくない
- 121 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:42:52.53 .net
- >>114
祇園山(布留1)が箸墓(布留0)より新しいなら、(盗掘犯が持ち去らない)円筒埴輪が出ていないのは痛いな
- 122 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:43:26.27 .net
- >>118
ちょっと意味不明です
@畿内説を崩壊させる会
- 123 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:43:57.63 .net
- >>102
つまり畿内説論者は老廃(汚)物
- 124 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:44:59.50 .net
- 古墳時代の九州人が埴輪に興味を示すとは思えないけどな
みんな大好き筑紫の君の前方後円墳には置いてあるんかな
- 125 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:46:48.57 .net
- 空白の四世紀も記紀は嘘だらけかもしれん
熊襲を討ちタケルを襲名したヤマトタケルの東国平定は、4世紀後半の円墳の勢力の東征じゃないか?
石見神楽の五神
真ん中を治めることになったのは埴安大王
五神を采配したのはかしこねの命という姫神
樫の娘は三輪山だな
円墳の勢力は四世紀後半畿内の堅い木でできたお地蔵さん、かしこねを掻っ攫って東国に行ったんじゃないか
- 126 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:46:49.64 .net
- 3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏・帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争(日向投馬国と同盟し挟み撃ち)へ
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。
つまり、
ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓
で良いだろう。
- 127 : 警備員[Lv.2(前25)][苗][警]:0.00744483:2024/04/27(土) 08:47:59.65 .net
- まあ卑弥呼以死前は九州の話
それ以後・臺與時代は畿内(西日本)の話
で、ほぼ答え出た感あるよねw
- 128 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:48:52.06 .net
- 【悲報】岩戸山古墳(筑紫の君磐井)
埴輪の代わりにトルハルバン(石おじさん)設置
- 129 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:49:25.17 .net
- >>111
結局、畿内説が魏志倭人伝の邪馬台国と一致させられたのは、(卑弥呼の墓でないことが確実な)箸墓の築造年代だけw
- 130 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:51:38.71 .net
- 五神では東は青(山陰、妻木晩田などか?出雲臣は東国に拠点)
北は黒(畿内にいた勢力が北へ?)
南は赤(赤神)
西(中国四国地方かな)は白
真ん中は埴安大王
- 131 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:52:59.68 .net
- 266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利一族で高家筆頭・吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に分家=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を奪取した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(都「邪靡堆」で噴煙を上げる阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、都していた阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗(水軍全滅)で近江大津宮へ東遷(避難)し、そのまま大和飛鳥にいた分家(留守番)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和分家(留守番)の歴史として描いたのが記紀なのだ。
- 132 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:53:48.05 .net
- 空白の四世紀の枠組みも大分見えてきたな
記紀を作った人らと九州に関係する人らはかなりの嘘つきなのがわかる
- 133 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 08:56:33.54 .net
- 北部九州にある宇佐八幡宮と宗像大社(完全非公開)には今でも天皇陛下が勅使を出してる
なぜなんだろうねw
- 134 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 09:06:17.60 .net
- 装飾古墳(そうしょくこふん)は、
日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、
線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、
墳丘を持たない横穴墓も含まれる。
大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。
福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、
熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
令和元年に確認された情報では、
5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。
全国で723例ある[1]。
九州に多い理由として、九州では飾られた死者として
会葬者向けに作られ、近畿では隠されて作られる
地域性と死生観の改革が仮説として指摘されている[2]。
- 135 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 09:07:06.61 .net
- >>119
楽浪から流れてきた鏡職人でもいたんだろうか
- 136 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 09:07:58.15 .net
- >>94
>>114
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」に並ぶ)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
「女王国東渡海千里(A)複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)
「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。
- 137 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 09:11:08.14 .net
- >>135
職人は明らかに来てて魏人ではなく楽浪人だったんかね
この辺よく分からない
- 138 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 09:18:09.93 .net
- >>136
祇園山からは後世の追葬儀礼と見られる布留1式並行土器や須恵器が出ている
つまり5世紀以降も追葬儀礼が行われるほどの重要人物だったということだね
- 139 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:19:02.44 .net
- 神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ
これが記紀との整合性だろ?
- 140 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:29:01.42 .net
- >>114
溶けてなくなった御遺骨も全部含めると、殉葬者は総勢何人になるんだ?w
- 141 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:29:18.63 .net
- 阿毎多利思がアマテラスでなんか問題あんの?
- 142 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:34:31.14 .net
- >>140
正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與
- 143 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:34:46.83 .net
- 7世紀くらいならアマテラスと伊勢神宮の整合性も取れるでしょう
- 144 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:39:32.38 .net
- >>139
>やっぱ阿毎多利思
阿が付くので、倭人(阿波勢力)だな。
阿祖山文字 アソヤマモジ
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禮祭」
この阿蘇山も、「阿祖山」なんだろうな。 「祖谷山」「阿祖山」 「阿波」の山。 @阿波
- 145 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:42:34.22 .net
- >>144
アマは天だろ?常識的に考えて
- 146 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:46:48.76 .net
- 阿毎多利思比孤は、天垂彦だろう「垂らす」は治めるという意味
垂らす
【治める・治まる】問題のない状態になる。統治する。下に垂らす。 値段を下げる。室温を下げる。
【治す・治る】病気やけがから回復する。 風邪を治す
- 147 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:47:18.81 .net
- >>145
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。
その心は、「天照大神」・「粟」の「あ」、や「伊予之二名島」の「い」等に由来しているためか。
これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。 @阿波
- 148 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:48:30.12 .net
- >>146
>阿毎多利思比孤は、天垂彦だろう「垂らす」は治めるという意味
「帯/足:たらし」は、阿波弁でいうところの「ふんどし」の古語であり、
海に入るときに長いふんどしを垂らして潜ると鮫から身を守るといわれており、
潜水をする海人族の古くからの風習です。(鮫は自分より大きくて長いものは襲わない)
これを天孫降臨説話に因み、天から降る、天から垂れて来たということから、「天からふんどし降って来た。
長い長いふんどしが降って来た。」の阿波の民話が今も伝わっています。
古事記序文には、「於名帶字謂多羅斯」「帯を"たらし"と読む」と書かれてあるように、
ふんどしの阿波弁であったからわざわざ注釈したと考えられます。 @阿波
https://ameblo.jp/marine816/entry-12817875947.html
- 149 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:49:14.43 .net
- あるいは日出処の天子「阿毎多利思比孤」は、天上界(高天原)から垂れて(降りて)来た彦=天子
- 150 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:49:23.07 .net
- >>147
だから阿波がそうしたんだろ、鎌倉時代くらいに
- 151 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:53:56.39 .net
- >>150
奈良時代 @阿波
- 152 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:55:17.61 .net
- 明智光秀「時は今 雨が滴(し)る 五月かな」
土岐(源氏)は今 天が下統(し)る 五月かな
滴(したた)るは下垂る
- 153 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:56:37.94 .net
- >>149
まさにアマテラスだな
- 154 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 10:58:32.12 .net
- 日出処の天子・阿毎多利思比孤(天垂彦)
- 155 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:21:20.82 .net
- >>153
阿毎多利思比孤=アマタラス彦だなw
- 156 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:25:32.65 .net
- 公務員クズタケが今日も九州論者を切りまくる
- 157 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:28:10.97 .net
- 返り討ちに逢うクズ先生w
- 158 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:36:32.11 .net
- 陰口言えば九州説が惨めになるだけ
- 159 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:45:29.57 .net
- と、陰口しか言えない畿内説
158
日本@名無史さん
04/27(土) 11:36:32.11
陰口言えば九州説が惨めになるだけ
- 160 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:48:04.24 .net
- やっと真実に近づいてきたな
記紀は7世紀のお話
- 161 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/27(土) 11:53:22.66 .net
- 縄文人→擦文人→アイヌ人
弥生人→倭人→日琉人
縄文人の言葉は原アイヌ語、つまり縄文人は日本民族ではない
ジャップの民族的先祖は弥生人であって、弥生人の故郷は中国の遼寧省
日本語は元々は遼河文明の辺民である偏堡文化人の言葉なのであった
- 162 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 11:53:57.58 .net
- 奈良にいた海人は九州に、山陰の青谷上寺地遺跡は妻木晩田は関東に
畿内にいた黒の人らは北陸東北に、瀬戸内海の白は中国四国に、畿内は埴安に
采配をした樫の姫は三輪山に
崇神、垂仁の時代か
崇神、垂仁、成務、仲哀天皇、4世紀半ばから後半の円墳のヤマトタケル、神功皇后応神天皇、5世紀〜百舌鳥古市古墳群
こんな順番じゃないかな
- 163 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/27(土) 11:59:09.23 .net
- 邪馬臺國=ヤマト王権
日本書紀は神功皇后の事績に魏志倭人伝の卑弥呼の文を引いている
神功を卑弥呼に比定するのは時代が合わないから明らかに間違いなのだが、七世紀の日本の王権は自分たちの祖先が卑弥呼と認めているのは間違いないのだ
ネトウヨ残念だったな
日本の天皇は中国の皇帝の臣下になった歴史は消せないのだ
- 164 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:04:17.87 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 165 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:17:19.35 .net
- 日本書紀・・・古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる[3]。日本に伝存する最古の正史で[4]、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる[5]。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。
AC600年が阿毎多利思北孤(アマテラス)だしそんなもんでしょう
- 166 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:23:58.10 .net
- 魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
後漢書倭伝「出白珠青玉 其山有丹土」
九州における有力な邪馬台国比定地である博多湾岸・周辺山地(古田武彦氏ら)、朝倉市甘木一帯(安本美典氏ら)、熊本平野(伊藤雅文氏ら)は水銀鉱床の空白地帯であり(下図)、これらの説は成立しない
https://photoservice-imagecluster.img.mixi.jp/v/cecc8b4b8edc8ae21bcfd9e5cff6f819b1082b200b/662b9880/photo/picture/18931674_2253082379_108large.jpg
- 167 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:28:27.64 .net
- https://stat.ameba.jp/user_images/20150302/06/blob-shima-jiiya/ab/c4/p/o0595044013232832334.png
古代九州ハザードマップ
筑紫平野も山鹿も菊池も熊本市も不動産的にはオススメ出来ない
- 168 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:29:47.93 .net
- >>159
陰口という言葉の意味も知らない九州説信者
ほんとに日本人?
- 169 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:37:12.19 .net
- >>166
それ倭地のことたぞ?
- 170 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:41:37.32 .net
- >>169
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭地は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度。 @阿波
- 171 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:43:16.64 .net
- >>166
むしろへえ九州にも結構あるじゃんとなるな
- 172 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:44:15.06 .net
- >>167
縄文海進レベルでなにを語っている
- 173 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:47:41.49 .net
- >>169
>それ倭地のことたぞ?
倭の産物や風俗を紹介しといて、それが全然ない一部地域しか支配してない人を倭国王に叙任したって言い張るのが九州説ですか
- 174 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:48:06.48 .net
- >>172
筑後川水系の浸水想定区域
https://www.nhk.or.jp/fukuoka/lreport/article/001/08/img/6fa7cf25-10c5-47a5-a142-0f6d9f5b973c.jpg
今もあんまり変わってないよ 吉野ケ里でギリ安全
- 175 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:49:36.32 .net
- >>173
邪馬台国王じゃなく倭王だぞ?
- 176 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:11:33.64 .net
- >>167
不弥国から南に水行は間違いじゃなかったんだな
- 177 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:14:37.33 .net
- 奴国無くて草
- 178 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:16:34.33 .net
- クズタケも家族を人質に取られた途端、畿内説へ転向w
- 179 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:19:58.07 .net
- >>175
倭王は中国語
- 180 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:22:20.69 .net
- こんな地図もある
https://i.imgur.com/20D7pye.jpeg
- 181 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:23:06.57 .net
- >>174
でもその危険な川のおかげで農業が盛んなんだよな
たまに起こる氾濫はさぞかし安全を祈る祈祷者の権威を高めただろうな
- 182 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:40:13.17 .net
- >>94
>>114
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」に並ぶ、呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説それぞれの狗奴国を検討すると以下のようになる。
「女王国東渡海千里(A)複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)
「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本(熊襲)鞠智彦、もしくは薩摩(隼人)
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
よって九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。
- 183 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:42:32.17 .net
- >>180
大阪湾の干満差は1.5〜1.8m
博多湾の干満差は2.2m
有明海の干満差は6m
筑後川は日本三大暴れ川
- 184 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:50:08.42 .net
- >>182
祇園山古墳は「有棺無槨」じゃないよ
棺は無い
- 185 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:51:07.34 .net
- >>181
祈祷では災害は防げないから
国がお金を出している
- 186 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:55:29.32 .net
- >>184
つ>>114
【石棺はあるが槨はなく】
- 187 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:59:40.87 .net
- https://i.imgur.com/La0WswP.jpeg
天に開口する祇園山古墳(4世紀)
主体部
- 188 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:05:21.54 .net
- >>112
箸墓じゃないねw
- 189 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:10:51.89 .net
- 祇園山古墳
https://ameblo.jp/takuma-burogu2/entry-12708532061.html
箱式石棺
http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/2-4kourasan.files/p181-1.jpg
- 190 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:29:45.18 .net
- https://i.imgur.com/aWIpING.jpeg
九州北部の海面上昇MAPと鉄鏃出土図と水銀鉱床図を重ねてみた
おまけで国名もいれといたぞ
- 191 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:32:34.10 .net
- >>187
明らかに石棺の痕跡w
- 192 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:34:49.79 .net
- 水没していた太宰府の地峡を南下水行するなら
奴国を起点に水行すればいいんだよな
不弥国に言及したのは対岸にあったからとして
そこを出発地にする必要はない
- 193 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:37:33.11 .net
- 筑後南部は菊池側の一部と考えてよい
- 194 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:41:26.16 .net
- なんでこんなに中央構造線に沿ってるの
分布があまりに機械的すぎてほんとに加工された
弥生時代の鉄(鏃)なんやろか
- 195 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:42:07.22 .net
- 朱を取り合って攻伐しまくってたのかもな
- 196 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:49:00.53 .net
- 海抜37.76mの太宰府が水没していたら
九州に平野はなかろう
- 197 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:50:34.35 .net
- 海面上昇で不弥国から南に水行できるようになってしまうとは盲点だったは
- 198 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:54:26.63 .net
- 太宰府はギリ台地にあって
その西側が水没地峡のように見えるね
>>167
- 199 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:55:19.49 .net
- ただこれ紀元3世紀の地図として妥当なのかどうか
- 200 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:58:24.15 .net
- >>190
九州説て投馬国も邪馬台国も狗奴国も意見バラバラだな
- 201 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:00:44.63 .net
- >>200
このスレ見てると畿内説も結構バラバラ
- 202 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:02:02.97 .net
- 畿内説の馬鹿は倭人伝も理解できない
其山有丹
もろくに理解できない
其=倭地
倭人伝は邪馬台国伝ではないのはわかるよね
- 203 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:04:25.78 .net
- 畿内には川上丹生都比売がいますので
丹に事欠くことはなかったはずです
- 204 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:04:55.47 .net
- 太宰府の地は御笠郡だった
天孫降臨の笠沙とは太宰府付近の水辺のことかなと思った
その辺りまで水が来ていたころの記憶が残っていたか
調べたら古田も笠沙を御笠郡と言っていたようだね
- 205 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:05:42.78 .net
- >>202
九州説「畿内は絹も鉄も出ない!」
- 206 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:07:56.28 .net
- 畿内の鉄が九州を逆転するのはようやく3世紀後葉に入ってから
- 207 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:13:21.57 .net
- 川上丹生都比売神は伊都郡にあるけど
まあ偶然
- 208 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:21:53.17 .net
- 紀伊国伊都郡は、日本書紀は「伊刀郡」、平城宮出土木簡は「伊東郡」
「伊都」の字は天平二年(七三〇)の紀伊国大税帳(正倉院文書)が初見
- 209 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:34:20.68 .net
- >>208
すばら
- 210 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:37:42.02 .net
- 平原1号墓て方形周溝墓なんね
別に変ではないけど意外な感じ
東の倭種の墓てかw
- 211 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:43:21.65 .net
- >>208
つまり、8世紀奈良遷都の後に付けられた地名。 @阿波
- 212 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:46:37.14 .net
- 畿内説はしばしば九州説は邪馬台国の比定地がバラバラだと批判する
畿内説は元々「邪馬台国=大和朝廷(ヤマト王権)」が出発点なので、纒向=初期ヤマト王権の遺跡が確実になったことで、必然的に邪馬台国比定地は纒向遺跡で纏まる
一方、九州説は魏志倭人伝に書かれた倭国/邪馬台国の行程や風物などから倭国/邪馬台国は北部九州だと判断するが、約二千文字の極めて簡潔な魏志倭人伝の文章では具体的な場所まで絞り込みにくいため、山門説、宇佐説、朝倉説など邪馬台国比定地は分かれる
しかし畿内説も上記のような経緯から邪馬台国比定地はすんなり纏まるが、投馬国は出雲、備前(玉)、備後(鞆)など、狗奴国は肥後、河内、東海など九州説以上にバラバラだ
あまり九州説を批判できる立場ではなかろう
- 213 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:49:59.34 .net
- 学問の通説畿内説は、邪馬台国の領域が畿内第?様式圏(後の五畿)
九州文学小説に始まる一人一説雑多九州小説は、
九州の各々自分が住んでいる土地に小さな邪馬台国があるという小説
- 214 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:54:35.43 .net
- 「邪馬台国の領域は畿内第Ⅴ様式圏」などという魏志倭人伝のどこにも書かれていない関西考古学者の客観的根拠なき思い込み
以下の佐々木憲一明大教授の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」の見解が妥当だろう
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』
- 215 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:03:58.52 .net
- けど斉一性にこそ弥生社会とそれ以降の
古墳時代との差異があるわけよね
- 216 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:05:01.84 .net
- 規範意識というかね
その根拠がより強力になった王権にあるみたいな
- 217 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:05:03.21 .net
- 布留0式期ではなくて畿内第?様式圏(後の五畿)
佐々木は畿内説
- 218 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:13:46.87 .net
- >>212
投馬国が備前だと言ってるのはコピペカス、狗奴国が熊本だの河内だの言ってるのはごく少数のアホだけだな
- 219 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:20:15.17 .net
- 土器や前方後円墳など文化や宗教の伝播に過度に政治的意味合いを持たせる古い畿内自生説的見解には、考古学界でも近年急速に見直しが入っている
松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説をやんわりと批判する(白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」
「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」
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