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邪馬台国畿内説 Part1017

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

279 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:26:59.12 .net
>>278
河内平野から大和盆地へ出入りする時、▲二上山▲がまるで門(柱)みたいでしょ?
だから大和は(あくまで意味的に)山門もしくは山戸だったわけ。

280 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:30:53.14 .net
>>279
なぜそれが大和になるの?

281 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:36:26.66 .net
意味が山門か山戸であるならそのままでいい訳で
倭が和になったのなら既に意味は変わってた

282 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:37:08.16 .net
元々奈良湖のある時代亀さんが住んでいた
始まりは大和の亀さん
石亀さん

283 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:39:56.61 .net
五色に輝く玉を持つ石神さま
暴風の神さま
始まりだな

284 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:40:58.83 .net
>>279
(あくまで発音はヤマト。意味は)山門もしくは山戸(河内平野▲二上山▲大和盆地)
>>112
266年筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権初代大王「複立男王並受中国爵命」へ王権を禅譲し、彼は外交上の混乱を避けるため、地名ヤマト(▲二上山▲山門)に「倭(邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地・吉野ヶ里)」の漢字を充てる
→5世紀の倭の五王が「倭(ヤマト)」に「大」を加えて「大倭」と表記だけ変更する
→6世紀に厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」に表記だけ変更する

285 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:42:15.20 .net
旧石器時代、石器の特徴から5つの文化圏に分けられる

佐賀の腰岳を含む九州

大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿

茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側

諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側

北海道

286 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:45:22.35 .net
ヤマトの語源は3世紀からではわからないだろう。

287 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:46:15.00 .net
そんな難しい話ではない
唐の時代の倭人がはっきりコメント残してる
「日本は元小国だったが倭の地を併合した」
「しばらく倭国を名乗っていたが雅でないので改名した」
「日の出の方角にあるので日本とした」

その後、日本書紀と食い違うと都合が悪いので
「九州から東遷して倭国が日本を併合したのだ」
と改竄された

288 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:09.32 .net
日本列島に1番最初に住み出したのは神さま
旧石器時代の人々
1番大切なこと
先住民を尊重する、これを忘れたらかつて多民族国家だった日本は崩壊する
スサノオを追放するとかありえない話
大国主でもない存在が大倭王を名乗ることなどあり得ない話だ

289 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:36.09 .net
>>287
日本の読み方はヤマトでしょう
倭もヤマト

290 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:50:24.57 .net
>>286
ヤマト(河内平野▲二上山▲大和盆地)は、自然の地形だから旧石器・縄文・弥生の昔からでしょう。
それが偶然にも筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の所都・吉野ヶ里(脊振【山】南麓の舌状【台】地)と同じだったため、畿内説と言う悲劇がうまれたわけ。
山島に依りて国邑をなす倭国列島ならでゎw

291 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:56:13.67 .net
>>289
倭をヤマトなんて当の倭人ですら読んでなかったろ
七世紀ごろの日本語のヤマトは夜麻登とか耶馬騰とか八門跡とかだ

292 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:59:49.89 .net
倭人が自分のことをワと呼ぶので倭国と付けたのは古代中国人w
倭人は自分たちの国をヤマト(筑紫邪馬台→大和→阿蘇邪靡堆)と呼んでいたんだんだよw

293 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:10:30.28 .net
筑紫邪馬台どこ?

294 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:20:48.08 .net
九州説はまず九州説スレで邪馬台国と投馬国の場所の結論出せよ

295 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:21:00.33 .net
隋書の畿内が魏志倭人伝の邪馬台国で後漢書の大倭王が居る都邪馬台国な。

296 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:31:27.15 .net
久墨タケオ「伊都国・奴国、邪馬台国

近日発売!
//twitter.com/T_Kusumi057/status/1784204697970315682


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297 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:07.44 .net
崇神のときに疫病で国民の半数が死んだ。だから三輪山に大物主を祀った
これ因果が逆じゃない?
大物主が外から疫病持って入ったんだろう。幕末に外国人がコレラ持ってきたのと同じ

298 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:45.89 .net
纏向は1-2世紀の実態が無いからどうもならん
東倭種の都だ

299 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:53:15.12 .net
巻向遺跡は低い土地との標高差が40mほどある。
高地性集落だね。

300 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:01:58.96 .net
>>298
なんでそんな実績が必要なの?
いらないでしょ?

301 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:07:23.59 .net
結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

302 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:08:16.67 .net
魏志倭人伝の方位通りに海の中へ進んでも、何かがおかしいと思わないのが九州説

303 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:09:30.29 .net
時間稼ぎができればいいのよ
炭素、酸素ときて次は窒素とかじゃないか
知らんけど

304 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:11:15.08 .net
里数戸数と大きく盛られているのに日数は正確だと思い込む畿内説

305 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:16:24.93 .net
纒向纒向と言うやつ多いが、

奈良盆地の中心遺跡と云えば唐古・鍵遺跡 面積は約30万平方メートルで、
第1段階 初期(弥生時代前期初頭から前半)から古墳時代まで続く重要な遺跡。

奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡。
国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

306 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:18:28.18 .net
ちょうど卑弥呼の時代には唐古・鍵遺跡の大環壕は埋められていたそうな
平和な東倭種の集落らしいはなしだ

307 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:48:23.85 .net
里数・戸数・日数が大きく盛られてると勝手に思い込む畿内説

308 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:31:49.19 .net
>>307
そんなこと誰が言った?
九州説また根拠なき妄想?

309 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:34:48.75 .net
>>301
>結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

どんな齟齬?
どうして具体的なこと何も言えないの?

九州説とは学問じゃなくて、イメージの漠然とした政治思想だってことかな

310 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:04.53 .net
伊勢遺跡→纏向遺跡だって
古代日本を考えると逆に移転してない方がおかしい

311 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:23.53 .net
>>284
音韻学(甲類と乙類の別)くらいは調べてから書き込みなさい。

312 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:06:53.83 .net
>>303
だったらどうやって年代を調べるんだ?
考えも無いくせにいい加減な事を言うな

313 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:11:02.76 .net
>>265
「倭国大乱」は大陸人の認知の表現に過ぎない。
考古学実証から想定される「弥生末期の戦乱」最末期の数十年に該当する。
従ってその開始期について大陸側文献の記述を鵜呑みにしてはならない。
 

314 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:14:25.27 .net
痕跡があって初めてあったと言えるわけで無いものをあったと言い張るのは違う

315 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:29:23.76 .net
>>314
何だ?俺に云ってるのか?

「弥生戦乱」はその蓋然性を担保するに足る物証あっての想定で、広く共有されている。
文献(笑)なんてヤワなものとは違う、ハードプルーフに拠る。
少し調べればすぐに知れる。
 

316 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:32:47.96 .net
伊勢遺跡の首長館ないし迎賓館

【精緻な粘土の焼床(やきどこ)】
この建物は規模の大きさだけでなく、
使われている建築技術も国内では他に例を見ない先進的なものでした。
この建物の床は約30cmの土をきれいな粘土に入れ替え、
叩きしめています。さらに精良な粘土を8cm張ったうえで、
表面が赤く発色するほど焼いて仕上げていました。
使われている上質の粘土は、この近辺で取れるものではなく、
わざわざ取り寄せたもののようです。
このような建築技術は類例がなく、しいて類例を挙げれば
中国や朝鮮半島の竪穴住居の床や壁に用いられた
「紅焼土(こうしょうど)」と呼ばれる建築技術に似ています。
当時の朝鮮半島には、壁や床を意図的に焼くものがあり、
伊勢遺跡の大型竪穴建物は東アジアの建築技術の
流れを汲む可能性があります。

317 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:56:01.58 .net
>>302
それは解決済み
中国側の研究では文体から挿入あったりの写本時の改竄ある。古い写本が見つかっていない
じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

318 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:02:23.90 .net
>>315
どこでそれがあったの?

319 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:06:03.04 .net
>>316
東アジアに神明造があるの?

320 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:11:32.68 .net
>>319
これは大型建物が円周上にならんだ遺構の
外側にあった大型竪穴建物なので
祭儀のための建物ではないようです

祭儀のための建物は円周上の大型建物と、
円周の中心にあった数棟の大型建物
これらは神社建築に似ていて、
大きさは内宮の本殿とほぼ同じみたいです


首長館あるいは迎賓館の復元想像図

https://dec.2chan.net/up2/src/fu3408528.jpeg

321 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:18:32.65 .net
たくさんある建物の中にたったひとつ大陸系の技術が取り入れられてた
それがなんなのよ?

322 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:22:50.07 .net
これらの一つ一つは神明造に似ています

https://i.imgur.com/u3NEcoi.jpeg


建物の長辺の真ん中に開口しているので
神明造なのだと思います
これは想像図ですが、遺構の区画が
長辺を正面に据えるかたちになっているんでしょう

323 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:23:04.76 .net
全体として和風なのになにか大陸系の物があるとすぐ渡来人がーとか言い出すでしょ
あれってなんなのよ?
そんなに渡来人のおかげって事にしたい?

324 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:29:15.77 .net
先のNHKの番組は見られたでしょう
あれは卑弥呼の晩年の話でしたが
渡来人というより邪馬台国の国力の強化に
魏の関与が大きかったという話です

伊勢遺跡が卑弥呼に先立つ男王の邪馬台の場所とは
思えませんけど、卑弥呼の即位から纏向建設までの
期間においては王権にとって重要な場所であり
そこでもすでに大陸の技術が「取り入れられて」いました
そのルートは日本海が想定されます

325 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:42:38.14 .net
>>317
>じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

そんな研究した人はどこの誰?
実在する?

326 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:48:22.84 .net
そんな研究結果があるなら九州説が嬉々としてその論文なりなんなりを出してるはずだから嘘

327 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 04:49:39.37 .net
つまり九州説はウソ

328 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:40:52.23 .net
>>324
>卑弥呼の即位から纏向建設までの期間においては王権にとって重要な場所であり

纏向遺跡ごときのショボい遺跡に、どこに魅力を感じるのか理解できない。   @阿波

329 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:51:28.09 .net
>>328
阿波ご自慢観音寺遺跡の何倍の規模だと思ってるんだ
23区と美馬市くらいちがう

330 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 06:00:40.06 .net
>>329
規模でも、鮎喰川下流域が圧倒的だ。   @阿波

331 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:30:21.26 .net
九州説ってニセ情報と中傷以外に何かあるの?

332 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:23.05 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです!⇩

3世紀魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
5世紀後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
7世紀隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3箇所ともすべて「ヤマトyamato」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけ、OK?w (๑•᎑<๑)ー☆

333 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:48.75 .net
>>302
A:帯方郡から狗邪韓国までの7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

B:狗邪韓国から対馬までの1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

C:対馬から壱岐島までの1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

D:壱岐島から末盧国までの1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

ABCDで概ね同じ単位が導き出せるならそれが一里の距離と考えて間違いがない
その一里の距離を使えば魏志倭人伝に書かれた国々の場所は概ね比定出来る

334 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:03:32.56 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

335 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:08:44.94 .net
九州には立派な半島甕棺文化が在ったのだよ。
それを素直を受け入れようとしないのが今の九州
卑弥呼以前には柱を立て鏡をぶら下げ光の元で地上の生物は全て悦び合う祭祀を行っていたのだな
その巫女が平原の日巫女。2世紀に新羅に行ってるとされてる巫女はおそらくこの平原の巫女。朴信仰。
漢中のごとき従い人々が集まって畿内に拠点を築いたのが纏向の卑弥呼。
今日、京都で祭りごとが行われ天皇制が発揮される
吾輩は八世紀以降の政権を否定しない。がこの時代まで八紘一宇は無いでしょと考えているだけ

336 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:33.67 .net
>>335
手応えあった?
賛同してる人見かけないけど

337 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:51.43 .net
>>333
>・・・で割ると一里何メートルとしていたか分かる

それを計算できなかったのが
九州説の敗因

338 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:33:04.62 .net
>>334
吉野ヶ里から三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡がたくさん出てこれば、邪馬台国吉野ヶ里説でも良かったんだが

339 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:40:08.30 .net
336.馬鹿の数のほうが多いいからな。

340 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:43:21.87 .net
東は青、北は黒、西は白、南は赤、真ん中は埴安大王とかしこねの命が采配した

青は弥生時代山陰北陸琵琶湖北部を縄張りにした勢力じゃなかろうか?
山陰はまた孝霊天皇の時代の牛鬼伝説が残る地でもある
琵琶湖はにほの海、琵琶湖北部は息長氏の本拠地、にほ鳥のは息長や葛飾の枕詞で牛留鳥とも書かれた
息長鳥は猪名や安房の枕詞でもある

沼津の高尾山古墳周辺は弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて北陸や琵琶湖北部の土器が流入する
京都北部など日本海側の墓制であった舟形木棺が高尾山古墳から見つかっている
古墳時代に入ると静岡東部の土器は関東の太平洋側に拡散し、高尾山古墳とよく似た形の古墳が千葉で作られる
弥生時代末期日本海側の勢力が静岡東部を経由して、千葉に移り関東を治めることになったのではないか?
茨城はまた牛伝説の宝庫でもある
成務天皇の時代に定められた関東の国造は出雲臣の系統が多い

竹内宿禰に敗れた五十狭茅宿禰も出雲臣の一族で、東国に援軍を求めた話がある

341 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:52:11.63 .net
纏向遺跡などにいた朱を好む海人は赤で南、九州を治めるよう采配されたのではないだろうか?
赤の海人は九州
九州では東部を中心に円墳が流行っていた
四世紀後半には円墳は奈良や大阪に侵入する
竹内宿禰の話じゃないだろうか?
竹内宿禰はその後東国を平定して回り鳥取で消えた話が伯耆国風土記逸文にある
熊襲を討ちタケルの名を奪いその後東国を平定したヤマトタケルの話は竹内宿禰のエピソードと円墳の動向とぴったりと重なる

342 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:53:40.13 .net
謎の四世紀の枠組みが見えてきたんじゃないか?

343 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:56:24.02 .net
泉州には堅い木でできたお地蔵さんが悪い奴らに攫われ海に捨てられる伝承が残っている
九州の円墳の勢力を引き連れた竹内宿禰は、畿内にいたかしこねの命、樫の姫を攫い東国平定に向かったのではないか?

344 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:58:03.77 .net
奪う者たち蝦夷は九州東部の円墳の勢力か?
不弥国のタモは蝦夷の頭と同じ名だ

345 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:59:50.06 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ

346 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:09:06.14 .net
>>334
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認(辻褄合わせの蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMNebCPaAAAPEAS?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)で、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認

347 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:51:38.87 .net
>>337
計算したら大体1里75メートルから85メートルの範囲内
そしてこういう論文がある

http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になったんだ…が短里説らしい

348 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:54:02.38 .net
⇩魏志倭人伝の正解
https://pbs.twimg.com/media/GMNlHrgaIAAuRUr?format=jpg

349 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:23:51.63 .net
>>348
なるほど、
邪馬台国は九州以外ですね

350 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:25:56.18 .net
>>347
これだと九州に上陸してから水行一月陸行一月で邪馬台国に至るという記述の説明がつかないだろ
邪馬台国が九州のどこにあろうとそんなにかかるわけがない

351 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:26:35.58 .net
残念ながら(南→東)に読み替えても畿内説は成立せんのよw

不弥国(奴国から百里7.5?なら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

?日本海ルート(出雲投馬国)
?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
?豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在【其】南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使が直接見たわけだから「倭人不知里数但以計日数」、四国を見るルートは?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)か?豊後水道ルート(日向投馬国)のどちらかで、?日本海ルート(出雲投馬国)は消えることだ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium
次に?瀬戸内海ルートだが、ご存じ山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要がなく、さらに水行十日で大阪へ向かうとすると、同様に直線的かつ平坦で道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで「夷(倭)人不知里数但計以日」、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判る。

仮に大阪から陸行一月(20?×30日=600?)すると、邪馬台国女王之所都は横浜(486?)東京(498?)大宮(520?)から水戸(620?)となり、其南有狗奴国は北(蝦夷)になってしまう。

352 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:29:06.18 .net
残る?豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折しアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

さらに?豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、合計12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟み撃ちしようとしたため、有明海にしか逃げ場がなくなり絶体絶命の卑弥弓呼と狗古智卑狗(鞠智彦)は「窮鼠猫を噛む」で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かった政治的な軍事情勢も判明し、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

353 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:29:29.64 .net
>>350
東西五月行南北三月行なら九州内だけでいけそう

354 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:33:09.19 .net
>>350
>>352
⇩南水行十日陸行一月の真相
https://pbs.twimg.com/media/GMNebCPaAAAPEAS?format=jpg

355 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:36:22.62 .net
邪馬台国那覇説爆誕

356 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:39:10.63 .net
>>350
帯方郡から狗邪韓国まで7000里
狗邪韓国から対馬まで1000里
対馬から一大国まで1000里
一大個から末盧国まで1000里
末盧国から伊都国まで500里
伊都国から奴国まで100里
奴国から不弥国まで100里
不弥国から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日陸行1ヶ月

いきなり距離の単位が変わるのはおかしい。
帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いて
10700里まで書いてあるのに
最後の1300里だけを水行陸行で書くのはあり得ない

多分原本には不弥国から投馬国まで何里
投馬国から邪馬台国まで何里と
ちゃんと書いてあったと思う

357 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:39:59.78 .net
>>355
>>346
⇩真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(夷州=沖縄那覇あたり)を同時に書いた「玉石混交」の魏志倭人伝の真相
https://pbs.twimg.com/media/GMNyVUQa0AATeOD?format=jpg

358 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:43:53.02 .net
>>357
もとい、
真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「玉石混交」文の魏志倭人伝の真相

359 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:45:00.61 .net
つまり九州説はウソ

360 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:46:24.50 .net
>>359
>>332

361 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:58:51.60 .net
九州説の勝手な屁理屈妄想

362 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:02:33.66 .net
>>361
>>131
ヒント:今城塚古墳に眠る大王のピンクの石

363 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:32:22.25 .net
>>357
>真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「玉石混交」文=魏志倭人伝

だから里数と日数で継ぎ接ぎだらけとかイチャモン付けられて、畿内説というトンデモ電波が生まれたわけかw

364 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:32:54.82 .net
>>273
魏志と後漢書が指すものは違うものかもしれんね
狗奴国も違うようだし

365 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:40:14.13 .net
>>364
まさにそれ!
魏志だと狗奴国は南↓、後漢書だと狗奴国が(女王国東渡海千里複有国皆倭種と同じ)東→になってしまってるでしょ?
後漢書が書かれた5世紀には筑紫→大和に倭王権が移ってしまってて、発音は同じヤマトYAMATOだから范曄は筑紫邪馬台国も大和にあったと勘違いしてそう書いてしまったってわけ。 
それで畿内説なんてトンデモ電波が生まれたってわけ

366 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 11:54:57.13 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

367 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:57:37.62 .net
分かりにくい魏志倭人伝
キチガイが編集した後漢書
そして作為だらけの記紀
別のなんかが出てこないかな

368 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:59:12.62 .net
>>367
さすが畿内説

369 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:06:33.87 .net
>>367
>キチガイが編集した後漢書

「キチガイ」は言い過ぎ
「チョロカスいいかげんな無責任男(死刑)」が正解

370 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:07:00.49 .net
>>357
魏志倭人伝=事実(帯方郡から12000里=吉野ヶ里)と魏の誤認(会稽東冶の東)を両方同時に書く玉石混交文章→蛇足「南水行十日陸行一月」を(南→東)と読み替えて畿内説爆誕!w
>>113
後漢書東夷伝=筑紫邪馬台国→ヤマト王権初代大王「複立男王(前倭王台与と)並受中国爵命」(箸墓の被葬者)と混同(狗奴国を女王国の東と勘違い)→畿内説喧伝!w

371 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:08:04.74 .net
もとい、
>>131
後漢書東夷伝=筑紫邪馬台国→ヤマト王権初代大王「複立男王(前倭王台与と)並受中国爵命」(箸墓の被葬者)と混同(狗奴国を女王国の東と勘い)→畿内説図に乗るw

372 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/28(日) 12:10:19.04 .net
魏志倭人伝では倭人には距離を測る技術がない旨を書いているからな
そんなバーバリアンである倭人の国での距離や方角の情報なんぞ信用にたらぬ

373 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:10:26.53 .net
邪馬台国は九州以外ですね

374 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:13:12.65 .net
>>372
ほう、魏使も倭地に来るとバーバリアンになるのか

375 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 12:16:20.58 .net
ネトウヨの酷いのになると隋に使いを送った倭王すら九州であるなどという
理由は阿蘇山に関する言及があるからとの事だ

明の永楽帝が阿蘇山に中国風の名前をつけた石碑を足利義満に送った故事があることで分かるように、何故か昔から中国人の間では阿蘇山が有名な山になっていたんだよな

ネトウヨは教養がないから隋書で阿蘇山に触れてるのも九州を訪れた中国人が阿蘇山の話を本国に持ち帰って有名になってたからだろうという発想が浮かばないんだろう

376 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:18:08.98 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

377 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:32:01.39 .net
>>372

「不知里數,但計以日」

だから、日数が距離単位

378 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 12:33:46.08 .net
日本書紀で大王家の先祖が神話めいているのは二十四史の一つである北魏書の影響だろうな
拓跋部の始祖の話やら何やらが神話から始まっている
これについてはローマ帝国の歴史すらロムルスとレムスから始まるから非科学的などという文句は言わない
貴重な上代の神話を書き留めて後世に伝えた事は賞賛に値する

ただ現代に残るものは政治的な取捨選択がされているから、そこは割り引いて考えねばならない
神功記に魏志倭人伝の文が引かれているのは卑弥呼が大王家の人間だという伝承があった証拠だろう

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