2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1017

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

470 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:14:18.13 .net
>>468
>>434

471 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:17:51.54 .net
>>469
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

472 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:20:49.49 .net
>>468
魏志倭人伝=筑紫平野・吉野ヶ里遺跡(真実)+「会稽東冶之東」(魏の誤認)

473 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 20:23:49.33 .net
九州の平原巫女らしき者は否定しないが太陽信仰とも言える朝鮮朴神信仰の巫女
畿内の纏向の巫女は初期道教の巫女。中華の記す鬼道の巫女は箸墓に眠る巫女なんですな。
八角は理念が八紘一宇の韓神信仰の政権。不比等一族は慶州南山の族。
が八世紀以降を否定しないが今日の祭りでは頭不動でも6は買えんわ。

474 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:28:54.27 .net
>>464
つまり魏使は九州島を出ていない(本州と四国は見た)ということだね!

475 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:30:26.10 .net
>>472
魏志倭人伝=奈良盆地・纏向遺跡(真実)+「会稽東冶之東」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg

476 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:32:16.07 .net
>>475
>>446

477 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:35:46.04 .net
>>114
祇園山…石棺無槨「有棺無郭」w
ホケノ山…木棺木槨石槨「有棺二重槨」w

明らかに別の王権だろw
>>426

478 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:36:31.16 .net
>>476って荒らし?

479 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:37:36.83 .net
>>478
コピペ自演荒らし

480 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:39:55.68 .net
>>477 
祇園山には「棺」は無し
ホケノ山には「槨」は無しの「有棺無槨」です

481 : :2024/04/28(日) 20:40:05.03 .net
袂を分かったのは
九州倭国と本州日ノ本

伊 伊都から
支 枝分かれた
馬 太陽を運ぶ御者(馭者)

邪馬台国の官トップから読み取れますw

邪馬台国は、本家の九州から分家した国だと

しかも、北部九州と畿内は
考古学的関連性のその薄さから袂を分かった不仲な関係
とも読み取れます

のちの
九州倭国の 天の兄
本州日ノ本の日の弟
倭王は2人で1人に繋がることに

482 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:40:38.49 .net
建て荒らし、ついに鉄槌が下ったようだなw

483 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:42:16.90 .net
まだ下ってなかったわ汗

484 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:42:34.30 .net
>>480
祇園山は石棺、ホケノ山古墳は木棺 
頼むから、↑この違いに着眼してくれ!明らかに別の王権だろ

485 : :2024/04/28(日) 20:42:48.07 .net
すでに明確に考察済み
浮かび上がる九州倭国と本州日之本の実態

倭王は2人で1人のプリキュア!


125 日本@名無史さん sage 2023/06/25(日) 20:10:56.12
九州倭国、本州日之本

もう答え出ましたよ

>俀王以天為兄以日為弟

倭王は
九州倭国の天を兄に
本州日之本の日を弟に
している

天の兄は国体(祭祀)を
日の弟は政体(政治)を
すなわち、夜は神が作り、昼は人が作る所以

これで道理も義理もはなはだ有りw

486 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:43:18.00 .net
いい加減、アク禁にしろよバカ運営

487 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:00:08.50 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
畿内説の皆さんは、槨の定義より、棺の材質【木】か【石】かに着目してくださいね。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+(【斜縁】に銅鐸紐の鋸歯紋▲▲▲を入れた)【三角縁】神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

488 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 21:19:26.35 .net
無駄だな。
隋書。都邪馬堆、魏志いうところの邪馬台者。
地勢東高西下、畿内
後宮6.7百人の女、巫女を一番信じるからこの後宮が卑弥呼の臺(道観)の後。
官位、徳仁義礼智信。
儒教五常の上に徳。道教。
その後あいまいな倭の別種の建国説明と墓制が変わる

489 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:47:40.22 .net
>>485
当時日之本なんて無いから

490 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:50:02.38 .net
魏略の渡海千里復有国皆倭種は魏里で合ってるんでしょう

491 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:52:09.76 .net
>>488
其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下
なんでこれが畿内だと思うんだよ?

492 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:54:29.17 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに自己矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち倭大物主の妻(巫女)であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

493 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:56:48.22 .net
>>492
その時代に天皇なんか居ないしあほらしいからもういいって

494 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:59:47.17 .net
>>492
ニギハヤヒ&神武東征の実年代は、266年以降、280年頃か…
ちょうど陳寿が三国志・魏志倭人伝を編集していた時期だね

>>493
崇神の没年は318年説があるよ

495 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 22:00:58.39 .net
馬鹿馬鹿しい。裴清は何処行ったのかね
鬼道の巫女の都として地勢東高西下奈良盆地と思えないかね、相応しくないかな。

496 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:03:09.38 .net
>>495
>>332

497 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:04:51.30 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

498 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:08:03.31 .net
九州説には、平原というくびきがかかっている
倭国が中華帝国とかなりの頻度でやり取りをしたのは、魏の時代をおいて他にない。
しかしながら、その時代の倭国での副葬品の豪華さは明確に畿内邪馬台国連合の場所である。

◯景初3年→卑弥呼(親魏倭王に任命。金印紫綬をもらう)
・難升米(率善中朗将に任命。銀印青綬をもらう)
・都市牛利(率善校尉に任命。銀印青綬をもらう)
◯正始4年→大夫伊聲耆・掖邪拘ら8人(皆、等しく率善中郎将に任命。印綬をもらう)
◯正始6年→難升米(黄幢を授かる)
◯正始8年→倭載斯烏越らを魏に派遣
◯正始8年→倭大夫かつ率善中朗将・掖邪拘ら20人が張政の帰国に随伴

他に倭国がもらった物
◯景初3年→ 絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、【銅鏡百枚】、真珠、鉛丹各五十斤
◯正始元年→ 詔書、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物

499 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:26:58.01 .net
NHKは邪馬台国卑弥呼はヤマト政権の祖と報道したが、倭国大乱前の枠組みの方がヤマト政権に繋がるのではないか?
NHKは全国民への影響力が強い
NHKの主張は正しいのか検証しないといけない
女王国は文身の風習のある海人の方しか向いていない国と思うんだが
そんな排他的な国がヤマト政権に繋がるんだろうか?

500 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:36:14.05 .net
分かっていることは台与の在位中と思われる年代
卑弥呼の崩御まもなく纏向は解体されているということ
句読点が溝の年代の話をずっとしていたけど
最初に建てた大型建物がものの20,30年で廃絶しているので
そのことの方に驚いた
記紀に記録がないから瑞垣宮や珠代宮に移ったとも言えないし

501 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:38:57.70 .net
>>500
古墳造営キャンプと言われるのも頷ける

502 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:54:10.49 .net
>>501
大量の特殊器台(殉葬の代用品=殉葬なし)や葺石を搬入する必要があるから大溝(運河)を掘ったのだよ

503 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:57:31.84 .net
>>499
めんどくせえし要らないって
あんな番組信じてねえし

504 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:11:32.52 .net
>>495
旧唐書   在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行
      ・・・四面小島五十餘国皆附属為

505 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:19:01.16 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↑則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆

506 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:28:53.04 .net
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝からの安東大将軍号が得られたため半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が便利だねwという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケに継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆に西遷しちゃったんだよ。
その名残が、継体が百済武寧王を属国にしたことから南北朝の隙を突いて(中華皇帝の冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(琵琶湖でなく有明海)、そして607年隋の煬帝に日出処天子を名乗った阿毎多利思比孤(天垂彦)。そして大和にいた分家(留守番)の欽明のひ孫・厩戸王子。その後天智の代で阿蘇山が大噴火して都・阿蘇邪靡堆が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を東遷して近江大津宮へ疎開。そして分家の天武と合流して、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差す継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処の天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中国王朝とは大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)ということ。

507 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:37:30.44 .net
眠くていろいろ脱字しますたw

継体が武寧王の百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて創始してしまった(中華皇帝=宇宙の支配者の冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号

中国王朝とはほとんど無関係の大和分家(留守番)

508 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:37:59.04 .net
記紀でもヤマト政権発祥の地は橿原
和泉の伝承でも重要な話の中心は堅い木でできたお地蔵さん
石見神楽の五神で采配を振るったのはかしこねの命
雄略天皇の歌に三輪山の神聖な樫の歌がある
ヤマト政権誕生にはカシが重要な役割を担っているのでは?
出雲を代表する弥生時代の遺跡である西川津遺跡から弥生時代前期樫でできた鳥形
西川津遺跡の樫でできた鳥形と同じ形の鳥形が、弥生時代中期の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡、亀井遺跡、弥生時代後期の雁屋遺跡から見つかっている

和泉の伝承では楠のもとに堅い木でできたお地蔵さんがやってきたが、悪い奴らに連れ去られ海に捨てられた話がある
弟橘姫のエピソードと同じ

カシの姫は弟橘姫なんじゃないか
石切神社の上之宮に祀られていて、堺の大鳥井瀬大神も弟橘姫という
畿内ではかなり重要な神になっている

509 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:39:06.92 .net
記紀では卑弥呼を神功皇后にすり替えた

510 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:49:46.46 .net
>>492
箸墓の被葬者が筑紫邪馬台国女王台与だとすると、倭王位を禅譲したヤマト(吉備)王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」を養子にしたことで(養母として)箸墓を築いてもらえたんジャマイカ?
魏が消滅したことで、英雄曹操が後漢皇帝の厚葬を反面教師に出していた薄葬令も効力を失ったわけで、箸墓が突然巨大化した理由も説明できる

511 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:58:17.09 .net
つまり古墳時代の幕開け箸墓の築造は、266年に魏が晋に禅譲して三国志の英雄曹操の薄葬令という頸木がなくなったおかげってわけか

512 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:08:57.52 .net
ヤマト政権は遅くとも帥升の時代には始まっているだろう
摂津国風土記逸文にはトヨウケは摂津の稲倉山に常に住んでいたがその後元いた丹後に戻った話がある
台与は纏向遺跡にはいなかったのかも

難波の高津にアメノワカヒコが天磐船に乗って降臨した話

大小橋山(おほをばせのやま)。松や杉は材木として使うことができる。また、苓(みみなぐさ)や細辛(さいしん)並びに奇石や金玉なども出る(云々)。
その謂れは、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)がこの山に天降ったため、味耜山(あぢすきのやま)と呼ばれるようになった。

小橋の地名が残る真田山辺りかもね

卑弥弓呼は摂津国風土記逸文のアメノワカヒコ
卑弥呼の次の男王はアジスキタカヒコネ
と個人的には考えている

摂津国風土記逸文は興味深く、神功皇后は武庫川の地で兵を収めた話もある
美奴賣(ミヌメ)と称される神は、元は能勢郡の美奴賣山(みぬめのやま)にいた。神功皇后の新羅征伐の為にミヌメ山の杉で作った船は牛のように吠えたとある
→神功皇后は牛は本当は良好な関係

513 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:11:54.55 .net
帥升の時代というと1世紀後半から2世紀前半だぞw
その時代に後漢鏡が一番出てるのは伊都国なので却下w

514 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:12:56.92 .net
摂津のミヌメ神社は江戸時代迄牛頭天皇を祀っていた

515 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:19:53.07 .net
近畿には伊勢遺跡があり、弥生時代後期の博多には方形周溝墓が出現し東は東京富山から西は九州一円まで一斉に龍の絵画土器が広がる
龍の絵画土器は橿原からも見つかっていて、特に東京、大阪兵庫香川岡山広島愛媛の瀬戸内海沿岸や壱岐、五島列島に集中している
関東から九州一円まで影響力のある勢力が誕生したということだな

遠賀川や佐賀からは瀬戸内海沿岸部と同じ石棺墓、佐賀からは近畿などと同じ木棺墓が出現する
身分が高い人の墓だな

516 : :2024/04/29(月) 00:41:33.53 .net
もう俺の中では
崇神天皇 = ニニギ(彌馬=みま=御孫)
垂仁天皇 = 山幸彦ことイワレヒコであり神武天皇
って、考察結果になりつつある

通説では、崇神天皇=神武天皇と言われてるがねw

同時に、崇神のオオモノヌシのエピソードは
九州時代の話ではないか? と考察中
まあこの辺は伊都国の官と
漢鏡の変移から紐解きしたが、話が長くなるので割愛

323 日本@名無史さん sage 2023/06/18(日) 12:03:54.51
興味深い案件にぶつかったw

・崇神 五十瓊殖(印恵)  いにえ(贄=供え物)
・垂仁 五十狭茅(伊佐知) いさち(幸=獲た物)
・景行 忍代別(淤斯呂和氣) おしろわけ

つまり、、、
・「瓊」瓊杵が天孫降臨で「殖」民
・ 山「幸=佐知」彦
・「忍」穂耳の「代」の「別」系譜

じつは崇神天皇がニニギだった?(印恵だから、金印を恵んだ?w)
そして景行天皇で別の代(分家の系譜)にバトンタッチ?
ニニギ(杵)とオウス(臼)は、ほぼ同時代だった?w
いろいろと情報ぶちこんでて興味深いねw

517 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:55:01.16 .net
>>500

皇大神宮の式年遷宮は20年だからな

518 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 02:14:27.66 .net
>>511
>266年に魏が晋に禅譲して三国志の英雄曹操の薄葬令という頸木がなくなった

そんなの薄葬令とか存在しませんが
九州説は妄想で出来ている

519 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 03:31:24.99 .net
レベルの低いスレ
毎日ただ同じことを書いていてつまらない

520 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:15:01.29 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ
神武が7世紀に天皇と呼ばせたと書いてるだろうが

521 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:37:22.61 .net
九州で決まりだよ

畿内説はヤマト王権頼みのだけだろ

そのヤマト王権とて、多くの学者や記紀が認めてるように九州の勢力が築いたものだろ

2世紀以前に東征がない限り九州で決まりだろうし

また、行程(方位、距離など)を除いても纏向にみられるように倭人伝記述と一致する遺物が数多く見つかっていない。

無理だよ  畿内説

名誉や公金に群がる畿内説の学者たちの互助会には困ったものだ

522 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:40:23.73 .net
九州からは何も出てこない
そこに邪馬台国を求めるのら不可能

523 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:49:58.67 .net
何も出てこない北部九州ならびに南部九州を邪馬台国ということは絶対的に不可能である
そして。東大=九州説と言われた東大でさえ、論文を出し始めたのは、三角縁神獣鏡が要因である

三角縁神獣鏡を崩壊させないと畿内説は全く揺らぐことがない

524 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:59:10.52 .net
中国から出土しない鏡を中国産というのは無理です
また卑弥呼が鏡を配ったというのは根拠がまったくない妄想に過ぎません

525 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:00:29.75 .net
>>494
崇神が初代天皇説もあるよ

526 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:01:29.90 .net
いまだに三角縁神獣鏡頼みかいな???
畿内説の学者の多くも国内産だと認めてるよ。
権力の象徴としての三角縁神獣鏡と捉えればいいと思うよ。
その権力がいつの時代で、邪馬台国と関係あるかが問題なのでしょうね。

九州説が有利な事実として、九州は倭国を成している土地であるという事実。
これは反論の余地がない。投馬国、邪馬台国の位置論争は推理の域を出ないけど、魏の使いは九州を倭国と認知しているのは確かである。
畿内説の場合四国、中国地方を投馬国と充てざるを得ないだろ、、、そんな巨大な国が???????

527 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:02:58.10 .net
>>524
漢鏡5機で死んでしまった九州は非常に残念です

528 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:04:51.08 .net
>>527
反論できなかった三角縁神獣鏡根拠説は死にました

529 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:07:44.22 .net
漢鏡7期ですでに死んでしまった九州は倭国乱にあったと見るべきでしょう
北部九州よ畿内の方が主導権を握ったのそれ以外には考えれない

530 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:08:48.34 .net
>>528
学会に参加してみて下さい
畿内説は三角縁神獣鏡でできていると思っても過言ではない

531 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:13:16.63 .net
阿波の萩原1号の存在は非常に大きい
すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

平壌市大同との同笵鏡である萩原1号の画文帯神獣鏡の勉強をいまは頑張っています。

532 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:16:18.20 .net
中国から出てこない鏡を中国産と言い張る考古学ってのもすごいもんだな

533 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:32:46.98 .net
>>531
>すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

異常気象で廃絶し、碌に人が住んだ形跡もなく、鉄器さえも作れないくそ田舎の畿内・奈良盆地に
ここが政治都市だったとか、ここに東征しただとか、臍が茶を沸かすようなことを恥もせず言い続けるのが、定説畿内説。   @阿波

534 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:43:57.68 .net
>>530
三角だけで畿内説が????
三角なら近江説でも、吉備説でもいいじゃん
また、銅鏡は倭人伝記述のとおり、
「特に汝に・・銅鏡百枚、、、、、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。」
この国中は倭国を指しており、もし三角が銅鏡とした場合その出土分布は倭人伝との整合性がみられない。
つまり、三角が出土した地域が倭国のどの国々に該当するのかの検証ができない。

まあ国産だからどうでもいいけど、、、

535 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:46:12.34 .net
三角考察
倭人伝
「「特に汝に・・銅鏡百枚、、、、、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。」


無い年号のものを国中に示したら、権威が失墜するであろうな ワハハ

536 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:48:00.08 .net
>>521
おしゃる通り

>九州で決まりだよ
畿内説はヤマト王権頼みのだけだろ
そのヤマト王権とて、多くの学者や記紀が認めてるように九州の勢力が築いたものだろ
2世紀以前に東征がない限り九州で決まりだろう

537 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:05:56.86 .net
九州説はに問題で、
漢鏡6期で鏡の配分がなくなる
あれほど、中国鏡が大すぎでだった北部九州に漢鏡6から鏡が消えるのである。
すなわち、九州は邪馬台国でない

538 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:07:06.02 .net
>>536
九州のとこが邪馬台国ですか?

539 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:07:49.28 .net
>>537
東遷した証拠だろ

540 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:10:31.41 .net
>>539年代間が全く違うので、東遷るのものがあったといさたら、卑弥呼よりかなり前である(久住

541 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:10:50.97 .net
@ 東遷した
A 族滅させられた
B お宝取り上げられた

542 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:13:07.45 .net
>>539
さ 三角縁神獣鏡の膨大な結果から分かることは、東遷なる証拠とは全くあいいれない

543 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:14:54.63 .net
九州からま墓が出てこれば良かった

544 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:19:38.62 .net
>>505
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ。
その名残が、継体が武寧王(傀儡)を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(琵琶湖でなく有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。
その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して首都・阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように疎開して近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条) が象徴的。

545 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:21:44.24 .net
興味深いのは日本書紀にも風土記にも九州勢が天皇に三種の神器を差し出して降伏する描写があること

546 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:24:09.71 .net
大和ではなく摂津河内にある今城塚古墳に眠る大王のピンクの石は、なぜ瀬戸内海を遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

547 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:30:46.80 .net
「日出処天子」阿毎多利思比孤はその統治を兄弟に喩えているが、それが九州倭国(執政王〜半島に派兵してた軍事王)と大和日本(祭祀王〜古墳を造っていた留守番)だったのかもしれない。
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」
姓は阿毎(天)、字は多利思北孤(垂らし彦)、称号は阿輩雞彌(大王)。

「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利

妻は雞彌、後宮に600人〜700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。

548 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:41:21.33 .net
以上、倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)107年帥升(伊都国)239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里)
266年(魏→晋禅譲に倣い)ヤマト吉備王権へ禅譲(大和&河内)
527年筑紫君岩井の乱で継体が西遷(阿蘇)607年「日出処天子」阿毎多利思比孤
阿蘇山大噴火で天智が北遷&663年白村江完敗で東遷(太宰府→近江大津)
672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥→藤原京)へ

549 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:00:07.62 .net
九州はいきなり、漢鏡7期画文帯神獣鏡が全く出てこなくなるのです
画文帯神獣鏡は魏政府と関わってしかもらえない鏡
九州説は消えます

550 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:01:26.19 .net
つまり三種の神器と共に東遷した証拠だね

551 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:01:52.29 .net
九州勢が畿内に降伏する際にお宝献上してるので
ある時突然に九州からお宝が消えます

552 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:02:41.17 .net
つまり九州勢力が三種の神器と共に東遷した証拠だ

553 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:04:51.09 .net
>>552
それはあなたの意見なので証拠ではありません

554 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:08:45.18 .net
>>552
東遷もしくは禅譲(台与と複立男王が養子縁組)かも
>>505

555 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:23:51.10 .net
>>531
>すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

異常気象で廃絶し、碌に人が住んだ形跡もなく、鉄器さえも作れないくそ田舎の畿内・奈良盆地に
ここが政治都市だったとか、ここに東征しただとか、臍が茶を沸かすようなことを恥もせず言い続けるのが、定説畿内説。   @阿波

556 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:24:40.44 .net
卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲だとすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

富雄丸山古墳(4世紀後半)の造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土し、50回忌前後での制作・追葬と見られることから、
>>114
祇園山(3世紀中頃)でも、三角縁神獣鏡、箸墓(布留0式)より新しい布留1式土器や須恵器が出ており、5世紀以降も追葬供物献上儀式が行われていたことが判り、よほど人々の記憶に残る重要人物だったことが窺えるw

557 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:24:50.47 .net
>>548
倭奴国だと書いてあんだろうが

558 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:26:36.07 .net
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね

559 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:26:57.08 .net
志賀島は奴国領域だよw

560 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:30:40.57 .net
>>559
それとは別の話しで倭国の古の倭奴国で極南界の倭奴国

561 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:32:19.89 .net
倭奴国だと書いてるのに倭の奴国って頭おかしいのか?

562 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:35:00.86 .net
>>556
>卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲とすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

紀年鏡や画紋帯神獣鏡は特に大切に持っていくだろうからねw

563 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:35:54.05 .net
>>561
志賀島が伊都国って言い張ってるほうが頭おかしいだろw

564 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:36:44.71 .net
>>537
鏡の編年区分で捏造するのが畿内説

180新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:10.72ID:D6BEFyx20⋮
>>150
詳しいことはこちら
畿内説は位至三公鏡の年代を中国側の記録より100年くらい前倒ししている

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。

> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。

565 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:37:38.70 .net
181新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:42.29ID:D6BEFyx20⋮
>>180続き

> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。

566 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:38:11.45 .net
筑紫邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝曹叡から貰った「銅鏡百枚」は全部同じでゎなく、たとえば⇩このようなランク付けがあったのでゎないだろうか?
中身は同じ神獣鏡だけど、額縁の工芸水準で差別化w
「景初三年」画紋帯神獣鏡…親藩王20枚
「景初三年」三角縁神獣鏡…譜代王30枚
「景初三年」斜縁神獣鏡…外様王50枚

567 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:38:21.63 .net
>>563
なんの話をしてるんだよ?
そんな事とは関係なく倭奴国と書いてあるでしょ?

568 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:39:44.03 .net
>>567
まずは志賀島を伊都国に移動させてから言えw

569 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:42:33.71 .net
>>568
何言ってんの?おまえ、頭おかしいのか?
金印貰ったのは倭の極南界の倭奴国だと書いてあるだろうが

総レス数 1001
435 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200