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邪馬台国畿内説 Part1017
- 668 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:14:34.73 .net
- 時系列で言えば弥生後期、
畿内勢力は瀬戸内から北部九州そして
五島列島にまで至っていた
怡土に平原王墓が作られ、それは方形周溝墓の木棺であった
しかし怡土県主の先祖は畿内系ではない
だが邪馬台から大きな信頼を得て刺使をしている
(この点、垂仁天皇も任那王子都怒我阿羅斯等に
敦賀を委ねるといった行動を取る)
しかし記紀の記すヤマトと怡土県主の出会いは
景行天皇の時代である
倭人伝には伊都国王は代々ヤマトに従っているとある
景行天皇の数代後のヤマトの女帝は神功皇后である
神功皇后の妹には豊姫がいる
これは記紀の時代考証が正確であることを示さないだろうか
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