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邪馬台国畿内説 Part1017

964 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:16:30.64 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆

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