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【戦前】 旧制の学制について 【教育】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 23:42:09 ID:XkX3kRu60.net
1

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 01:22:11.77 ID:Xls6hvYv0.net
完全に余談だが。
学制改革によって、新しい教育の場として新制中学校・新制高校は発足したが、
現場は必ずしもそのように受け止めたわけではなかった。学校種の名前に引きずられ、
生徒や教職員の間で、旧制中学校や旧制高校の真似をすることが各校で流行した。
それまでエリート養成機関だった学校の名前がやってきたから、
得意がって背伸びしようとしたのだろうか。
新制高校では制帽に白線を入れて下駄をはいてマントを羽織ったり、
寮歌祭やストームを企画して張り切る姿があちこちで見られたという。
一方、都市部では小学校に併設された新制中学校を元・高等小学校だからと毛嫌いし
(設備が劣悪だったこともあるが)、余裕が多少あれば、施設が比較的健全で伝統・実績もある
私立の旧制中学校や高等女学校の併設中学校に子どもを通わせようとする家庭が多かった。
こうした風潮は中学校が新制に完全に切り替わり、新制高校が大衆化していくとともに
沈静化していくが、国民の意識の切り替えが円滑に進まなかったことが、
後に高校間の格差やひずみを生んだ原因の底に横たわっていると思われる。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 10:31:19.31 ID:JVnkhL9S0.net
>>185 新制切り替え後、しばらくは新制高校に付属中学があったんだね。
それを残しておけば実質的に旧制の複線教育を維持できたのに惜しかった。
今、一貫公立高校がこの路線に戻りつつある。

建前で新制高校は平等ということにしてしまったため学校間格差という
「横の学歴」がはびこることになった。東北地方の中都市では、県立名門高校
に入るため浪人する子供までいる。そこを落ちるといきなり「動物高校」
になるからだ。仙台くらいの大都市だと中間の選択肢がいろいろあるが。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 10:39:13.40 ID:JVnkhL9S0.net
>>185
生徒や教職員の間で、旧制中学校や旧制高校の真似をすることが各校で流行した。

それは気持としてはわかるね。旧制7年生高等学校があったからね。
新制高校3年生は旧制高校2年生と学齢が同じになる。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 01:08:54.72 ID:0S5H/reR0.net
新制の話に続けてしまうが、北陸と東北の中等教育レベルの差はいったいどこに由来するんだろうね。
案外、交通機関が充実しているかどうかのような気もするが。


189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/01(木) 00:28:41.19 ID:vRSoZ9+I0.net
>>187
ハリポタの魔法学校は7年制だね。先生たちはプロフェッサーと呼ばれているし
新制の中高一貫校ではなく旧制7年制高等学校なんだな。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 00:14:17.99 ID:iLglb2yZ0.net
日本の教育界が「平等」に極めてうるさいのはどうして?
戦後教育が「戦前のエリート教育と庶民教育の二本立て教育制度は失敗した」こと
前提に成り立っているから?

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 00:28:11.26 ID:MdDW8sZB0.net
そもそも今の日本の教育界が「平等」に極めてうるさいなんてこと全く思わないわ。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 00:32:51.25 ID:TPxV1Zn60.net
いや、平等だろ?
女は尋常だけで十分だ

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 12:42:47.73 ID:SfsLTkcy0.net
建前の「平等」を追及したため同じ制度の中での学校間格差『横の学歴』が
はびこってしまった。

高校生のとき「わが校のような進学校では・・」といったら教師がえらく怒って
「それは全日制普通科高校のことですか???」といった。
通りの向こうの動物高校とわが校がおなじわけないと、大人の偽善に反発した。
まあ田舎の県立名門高校程度で今考えるとこっちもたいしたことなかった。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 13:11:18.28 ID:TPxV1Zn60.net
世の中に平等と言うほど矛盾した言葉は無い
理想はあくまでも理想、実際には何事も平等では社会自体が成り立たない
言葉で平等と言っても、平等でないのが現実
むしろはっきりと線引きしたほうが自然である
その線引きはその時代の価値観だが

女は尋常だけで十分
健全な社会構築の為これは未来永劫変わらない

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 16:14:02.62 ID:nJJmrCFq0.net
安住財務大臣の出身校である早稲田大学社会科学部の前身は
旧制専門部の政治経済科及び法科ということでいいんでしょうか?

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 16:16:39.07 ID:nJJmrCFq0.net
それとも早稲田専門学校の政治経済科・法科・商科になるんでしょうか?

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 23:20:19.66 ID:i0Vopt+10.net
>>195
>>196
早稲田社学の前身は第二政経・第二法・第二商の3学部。
学制改革の際に、昼の第一学部の長は旧制の各学部長が、夜の第二学部の長は専門部の各科長が
兼任しているので、第二学部は専門部(昼間)と早稲田専門学校(夜間)を母体にしてできたというべき。
早稲田専門学校は、当初は専門部第二部として作られるはずだったが、専門部の学生が反対したので
わざわざ別個の学校として設置されることになった経緯がある。

・早大専門部政治経済科+早稲田専門学校政治経済科=第二政治経済学部
・早大専門部法科+早稲田専門学校法科=第二法学部
・早大専門部商科+早稲田専門学校商科=第二商学部
ということ。
なお、第二理工学部は専門部工科の単独移行。戦時中に附属の各種学校だった早稲田高等工学校を
夜間の工業専門学校に昇格させる話もあったがそれは実現しなかった。
また、専門部・早稲田専門学校共に文科は置いていなかったので、第二文学部は全くの新設。
教育学部は高等師範部の単独移行で第二教育学部は作られなかった。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 23:41:06.94 ID:Ds60Qe/C0.net
今でも大学応援団員で着用する者もいますが、明治・大正・戦前・戦後の
一時期までの大学制帽を集めています。大別すると早稲田大学・同志社大学
の角帽、帝国大学・官立大学・その他私立大学の角帽、慶應義塾大学の丸帽、
という事でしょうか?一番多い『帝大型』角帽も、明治・大正期の物と昭和期
の物、さらに私立大学では関西大学、拓殖大学など、微妙に形状が異なるよう
なのですが、これは各地の帽子製造店の違いという事で解釈して良いのでしょうか?
この辺りの分類、トリビアルについて御存じの方は書き込みお願いします。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 08:08:27.45 ID:h2N17Kb90.net
>>198
昭和三十年代、近所に下宿してた九州大学の学生たちに遊んでもらいましたが
いつも学生服でしたね。応援団の人と言う訳ではなかったようです。
帽子がどうだったかは覚えていません。

卒業式の時だけガウンに角帽という習慣は今でも海外の大学や高校でも見られるが
日本はなんで廃れたんでしょうね。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 22:53:55.12 ID:yD/czbOF0.net
>>198
丸帽のタイプ別に一高型と三高型の分類がありますが、
天井の縁が丸い一高型に対して、三高型は縁にうねりが付いてます。
この2つの型の名はそれぞれ旧制の一高と三高に由来するのですが、
両校とも校則の服制では「制帽は海軍型とする」とされていました。
下のサイトによれば、三高型制帽は大正末に作られ始めたようですが。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/tyuu9.html

また、制定された当初の帝大型角帽は、後代のに比べるとやや頭高に仕立てられていたように見えます。
時代が下るにつれ変化していったのは製造者の入れ替わりや流行の変化によるものかと。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 22:54:50.40 ID:yD/czbOF0.net
話が脇道にそれますが、東大が定めた服制は、「大學」の二文字を帽章にした角帽に、
金ボタンを5個付けた詰襟服と、今の学生服の原型をなすもので、
そのボタンの模様は一対の桜の枝を交差させた上に「大」の字を置いたものでした。
それが他の帝大や官立大にもそっくり採用されるのですが、
神戸商大や広島文理大、神宮皇学館大といった一部の大学はボタンに独自の模様を使い、
東京商大の場合は帽章についても高商時代のマーキュリーを角帽に使い続けました(辛酉事件の影響か)。

202 :200:2011/09/25(日) 22:59:27.95 ID:yD/czbOF0.net
>>201の訂正
×辛酉事件
○申酉事件

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 21:43:01.65 ID:3RzCa+8D0.net
>>199>>200

>>198です。情報ありがとうぞざいます。【一高型】【三高型】の分類は首肯
するところがあります。【帝大型角帽】(私立大学も含めた定番型)にも製法で
生地を直接に縫製する型(三高型縫製?)と生地の接合部分に玉縁(細いコード状
の紐)を縫製する型(一高型?)が有るようです。天井の四角形は、制定当初の時期
は古写真等を見ると大型で、時代が下がるにしたがって小型になっているようです。
学生服の釦の話については「目から鱗」です。国立大学の釦は制定以来、ほぼ不変
ですね。東京商大の角帽徽章が『マーキュリー』なのは、成る程と思いました。

引き続き、各大学の制服・制帽や、固有の学生文化等の情報がありましたら
書き込みお願いします。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 22:07:05.37 ID:8Bbok6UI0.net
大学生はいつ、どうして詰襟の学生服を一般的に着なくなったの?
今は一部の体育会とか応援団しか着ないよね。

205 :200:2011/09/27(火) 00:03:18.86 ID:s3a9WfLJ0.net
>>203
帝大型の中の差異には今まで気が付きませんでした。玉縁を噛ませるのが本式ではあると思いますが。
早稲田や同志社の座布団型は一枚布で天井を作るので帝大型より角が鋭く、天井も平たく仕上がりますが、
こちらのほうが欧米の房付き角帽にシルエットが近いですね。関西大と拓大のは座布団型と帝大型の折衷式のよう。
正岡子規が使用していた帝大の角帽の写真がありました。やはり大正・昭和の頃より天井が大きいです。
ttp://blog.goo.ne.jp/hajimete01/e/5fb38672ee1cd6bd4d336ddd33a84850

学帽は基本的に、小学校・中学校・高等学校・専門学校は丸帽、大学は角帽のイメージがありますが、
大学の専門部や一部の専門学校は角帽を定めていました。修業年限が長かった医専は殆どの学校が角帽でした。
中学校の中にも角帽を使っていたところがあり、岡山県立岡山朝日高校や福岡県立育徳館高校は今でも角帽だそうです(着用は自由)。
丸帽の装飾は、無地、白線、黒の蛇腹布がメジャーかと。白線は高校の象徴でもありますが、蛇腹は実業学校や専門学校に多く用いられました。
大学の予科では白線の学校と蛇腹の学校とがそれぞれありました。

変わったところでは、成城高校、東京高等工芸学校、昭和期の東京音楽学校など、背広の制服だった学校では、
ソフト帽やお釜帽を制帽にしていた学校があります(東京府立五中など、制服は背広でも学帽は普通の丸帽の学校もありました)。
ただし成城高校では、他の高校のような白線帽を希望する生徒が改定運動を起こしたこともあります。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 23:59:05.58 ID:t8zULWDm0.net
>>204
大学から学生服が消えたのは70年安保世代あたりかららしいが・・

http://unkar.org/r/history2/1252843043

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 11:21:32.88 ID:bFp06UdqO.net
自分は大学生なんだけど、高校の頃の友人のお祖父さんが、昔、高校の校長やってた人だったな。
広島の高等師範学校を出て英語教師になり、高校の教師から校長になって定年退職した人だったそうだけど。

教員養成の仕組みが変わって相当年数経ってるし、公立の学校で教師になった人はことごとく定年退職してるだろうけど、
当時の高等師範学校卒業している人って、今は最低でも何歳くらいになってるのかな?
やっぱり現在で最低80歳代くらい?

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 13:19:57.26 ID:ca0b+C6h0.net
>>207 高校生だったのは70年代だけど当時西日本の高校教師の主流は広島高師だった。
九大や東大より偉いという感じで、その派閥が新制広島大学まで続いていたもんだ。
いわゆる、職人教師みたいな人が多く、自分はあまり好きではなかった。
旧制広島高師は戦後もしばらく存続していたのが、やはり最少年齢は80歳くらい
だと思われる。

九州の高校から東北大学に行って仙台の高校で教育実習もやらせてもらったが、
高等師範出の教師は皆無で東北大学の理学部文学部が主流だった。
東日本にも東京高師があったのだが広島みたいな強烈さはなかったようだ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 18:29:33.89 ID:bFp06UdqO.net
>>208
そうなのか、ありがとう。

北部九州の県なんだけど、広島高師卒の高校教師が主流の時代が、
うちの県にもあったのかもしれないな。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 15:30:10.47 ID:K4qzJ//M0.net
高等だろうがなんだろうが、師範は所詮師範、戦前は大学ではなかったし、
でもしか教師の養成機関にすぎない

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 15:43:20.04 ID:9B5ZRX8u0.net
高等師範学校と今の地方教育学部では難易度が違いすぎる
高等師範→文理大学への進学で大学卒教師はいた

高等師範の難易度は旧制高校並みだった

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 15:50:05.87 ID:9B5ZRX8u0.net
それと、小学校教師、中学校教師、高校教師では難易度が全く違う
旧制中学(現在の中高一貫校みたいなもの)の教師になるには高等師範以上の学歴でないと駄目
師範学校は小学校教員養成校

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/13(木) 23:51:43.28 ID:2arNw7a90.net
えっと、戦前の教員養成校の入学資格について、
ナナメ読みしたのをまとめたんだけど間違いがあったら指摘をお願い。
1943年師範教育令改正前までのまとめのつもり。

・師範学校本科第一部・女子師範学校本科第一部(5年制)
 高等小学校(2年制)卒
 中学校or高等女学校2年修了(実家が急に貧しくなったなどのケース、まれ?)

・師範学校本科第二部・女子師範学校本科第二部(2年制)
 中学校or高等女学校卒

・高等師範学校・女子高等師範学校(4年制)
 中学校or高等女学校卒

各学校に存在していた専攻科についてはよく分からないので省略。
あと、師範学校の第一部って実業学校の2年修了でも入学資格有ったのかな?

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 02:11:22.95 ID:hLSnYobE0.net
>>213
実業学校全般は、昭和初期に専検指定(高専への進学に際して中学校・高等女学校と同等に取り扱われる)を
受けるようになったので、どれほど遅くともその時期からは、師範学校への接続も他の学校種と変わりなかったと思われる。
それより前からも、中学・高女中退者に混じり、実業学校を辞めて師範第一部に入りなおしたケースがあるが、
数が少なかったのであまり気にされなかったのだろう。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 08:18:22.70 ID:SJ8/MQCh0.net
夏川りみの涙そうそうにちなんだドラマシリーズで、主演の女教師が担任する
広島市内の高等小学校のクラスが男女共学だった。
戦前は法律でも小学校の男女別学が定められており、これはありえないはず。
過疎地の複式学級ではそういう例もあったらしいが当時の爆心地に近い広島市内で
そんな例は考えられない。


216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 15:24:21.96 ID:mtSbPZSJ0.net
尋常小学校でもそうなの毛?
24の瞳はどうなん?

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 17:10:16.77 ID:t5Cq0yn40.net
>>211
でも、大学ではなかった、、と、、

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 17:27:44.00 ID:JoNwJP430.net
戦前の評価
旧官立大学(旧帝含む)>旧制高校>高等師範=官立専門学校=早稲田大学・慶應大学>早慶以外の私立大学

大学って言っても、私立だと評価が低かった
私立の場合、はっきり言って世間的には大学として見てなかった

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 17:38:42.97 ID:JoNwJP430.net
昔は今と違って、尋常小学校教師と旧制中学校教師では給料が大きく違っていた
確か1.5倍くらいの差があったはず

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 17:46:01.64 ID:JoNwJP430.net
今の地方大教育学部は戦前でいう師範学校
今も卒業生で教師になる人はほとんど小学校教師
教育学部卒で高校教師になる人は少数
高校の授業を地方大教育学部卒では教える事は学力的に不可能に近い

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 18:18:31.13 ID:ZDQtxJwti.net
>>220
だよなあ、青森だけど、教師ほとんど弘前大だもんな

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 09:17:36.20 ID:OXyFeCXP0.net
>>216
高学年では男女のカリキュラムが違っていたから
それも広義の複式学級だね

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 15:43:53.91 ID:uJghKnCG0.net
俺の父は、戦後の旧制中→途中で新制高に通ってたが、
1学年200人程度で、全校900人程度だったって。
全員男子で、当時の日本の人口は今の半分程度だから、
割合としては現在とほぼ同じ位と言ってた。


224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 18:53:28.01 ID:Qaw6/hDY0.net
俺の親父は、旧制工業専門学校卒。
戦時に合わせて出来た学校。


225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 20:03:35.41 ID:aoCsR1zI0.net
旧制中等学校(旧制中、高女、実業)の最後の入学生は昭和21年組。
翌年の22年から新制中学がスタートし、旧制中等学校の2,3年生は
旧制中等学校に併設の新制中学の生徒になった。
併設中学は21年組が併設中学を卒業するまで続き、一般の新制中学生
と区別して彼らは併設中学生とよばれた。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 20:54:51.98 ID:PMCkAKfv0.net
>>225
併設中学残しておけばよかったのにね。最近公立の中高一貫とか戻しつつあるけど。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 22:58:34.12 ID:00K8ujOD0.net
旧制中等学校の設置は、学校教育法の施行される直前の昭和22年1、2月までは、
次年度の昭和22年4月から開校する場合でも認められることが多かった。
そのときは開校と一緒に新制中学校も置き、翌年度に新制高校を開いて対応していた。
なお、中等教育での新制開始後には、旧制学校の設置はできなくなったが、
金沢高等師範が戦争末期に置いた附属の特別科学学級を、例外的に4月以降に旧制中学校に移行させたケースがある。
これは新制中学のみの設置にすると、旧制中学の新4年生にあたる生徒の収容先がなくなってしまうことから
行われた措置である。この翌年度に新制高校に改組され、今の金沢大学附属高校となる。
ちなみに、金沢大学附属中学校は石川師範学校の附属小学校高等科の流れを引くため、
中高間の連携は今に至るまで十分とはいえない状況である。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 01:13:42.71 ID:dIQ4HvGR0.net
放送大学が BSでも 放送 するように なったけど、旧制高校の 授業って
放送大学みたいな 感じだったのかな。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 04:43:53.35 ID:/99szJB6O.net

戦前の人間の在り方について非常に興味があるのですが、当方、歴史は素人であります。
そこで質問なんですが…田母神さんの発言の中に
『敗戦国は戦勝国により過去の歴史を闇に葬り去られる。』つまりGHQにより闇に葬り去られたアメリカに都合の悪い部分が気になっております。
@日本人が何事においても、何故に早い段階で己を立っせえた理由は教育にあると思います。つまりその秘密は何かについて。
A戦前教育科目の中にあり、戦後抹消された教育科目について。その目的は何だったのかについて。
B明治維新の偉人の根底にあるのは恐らく陽明学かとは思われる偉人を排出出来たルーツとは?

アメリカにとって抹消したかった本質の部分とは、要は日本人の底力だと思っております。
特に今の現代人に必要であろう内容について比較してご教授願えると光栄です。


230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 06:08:50.72 ID:EHMAWxHW0.net
>>228
経験者に聞いたけど語学がものすごく重視されていて語学学校みたいだったそうだ。
また理系でも哲学とか語れないと馬鹿にされた。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 06:25:14.74 ID:EHMAWxHW0.net
>>227
高等師範学校は、広島と東京しか知らなかったが戦時中に金沢と岡崎にできたんだね。
金沢は文理大学までできれば北陸帝国大学になっていたと思う。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 10:03:24.66 ID:w6mFjYgm0.net
@磯田道史によれば天明の大飢饉以降、 松平定信ら寛政の改革が画期になったという。
この改革は蘭学の禁止やら質素倹約の強制やらで評判がわるいのだが、この改革以降、
幕府はじめ諸藩の文教政策の強化や、民生への積極的(それまでの収奪的な消極的関与
ではなく)関与をはじめたとする。

A修身ですな。国史も入るのかな。

B戦士階級である武士が特権的・有閑階層となり文教をになっていたこと。司馬遼太郎にいわせれば
そういうことらしいですな。アーネストサトウやイザベラバードに言わせれば汚職を憎み名誉を非常に
重んじる文化は他の中東・近東・極東アジアとは隔絶しており驚嘆したらしいですな。

ありきたりのレスでごめん・・・

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 11:43:00.29 ID:/99szJB6O.net
>>232

有り難うございました。
修身と国史ですね?
ちなみに修身とは内容はどのようなものだったのでしょう?
修身が立身の為のガイドライン的役割を有していたのですか?


アーネストサトウもよく見ていたんですね。
確かに汚職が少なかったというのはなんとなく分かります。
恥を重んじる文化を何世紀もかけて国内で風潮を作った結果かと思います。
もし倫理を著しく乱し逸脱すれば、厳しいお仕置きが待っていたのでしょうし。
極刑は打ち首で梟首で晒されれば、極悪人でも留まり考えを改めると思いますし。



234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 12:43:22.34 ID:dIQ4HvGR0.net
>>230
もともと 外国語で 授業を する 大学の 予備校として つくられた わけだから あたりまえかな。


235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 13:07:21.01 ID:lN4taGjD0.net
>>232-233
戦前の教育というより江戸時代の家庭教育がよかったんだな。
学校の漢文とはべつに家庭で「素読」をさせる習慣は大正生まれの人まで
残っていた。明治にいきなり英語で本を書いたり講演できたのは漢文で
脳が鍛えられていたから。

陽明学はそういう地道な努力を否定するとこがあるので朱子学をやったうえで
入門しなさいと言っていた陽明学者も多い。昭和の軍人はそこらへんを
早とちりしていきなり陽明学や日蓮宗のカルトにかぶれたりしたんだな。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 14:32:45.25 ID:sQ5MLvEXO.net
色々ご教授有り難うございました。
私も現代人ですから、無粋にも色んな方向から疑い深く見てしまうんですが…
例えば良い意味でも悪い意味でもマインドコントロール的な要素などはなかったのかについて。

朱子学は封建主義や軍国主義な社会に向いている教育でもある気がします。
若干、人を歯車や駒にしたかった部分はなかったのかとか…。その1つ1つのパーツを高める教育なのでは?
つまり国家から、または元首の視点から見て都合の良い民の在り方を説いたモノではなかったか?
と思ってしまいましたが浅はかでしょうか?
一方、陽明学はかなり個人主義を主体としたかなり現代的で民主主義、資本主義社会に寧ろ向いている気がしています。
現代でも様々な会社の社訓に陽明学を参考に作られたのではないか?と思ってしまう様な何節かはある様な気もしますしね。



237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 05:09:55.42 ID:2wgTiz1AO.net
229の者です。
>>229にある通り、一番興味深いのは…戦前も戦前の幕末〜明治維新を成功させた若い世代についてなんです。
そもそも高杉晋作の享年が29歳を知った際に、他の松下村塾下の生徒達はそれよりも若い年小の者が多かった訳で…
松下村塾自体が幕末の志士を輩出できえたのは、吉田松陰の教えの才もあるのでしょうが…
果してそれだけでしょうか?実稼働4年にも満たなかった吉田松陰が教鞭をとった期間ですからね。
確かにかなり強引なやり方で列強は日本を侵略せんと強気で迫ってきて…
清が列強の餌食にされて、アングロサクソンに対する憎悪は当時の日本国内強かった事は想像できますが…
攘夷を掲げた以上は、幕府の敵になるという事。つまりは『賊軍』になる事を顕すのであって、
今でいうテロリスト的な立場だった事を考えると、よく成し遂げられたものだと、世界中が感心した成功体験だったと思います。


238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 05:14:38.75 ID:2wgTiz1AO.net
237の続き。
既成のモノ【幕府】を淘汰するなんてのは、どんな時代においても生半可なものではない筈なのです。
高杉晋作などは50倍に相当する幕府軍を相手に立ち向かったと言われていますしね。
その度量たるや人間の常識をはるかに越え、ロシアでは『ナポレオンだってそんな無謀な事はしないぞ!』と言って驚愕して紹介された様です。
こんな奇想天外な史実は世界を探しても例は無い様に思います。
この大きな時代の変革を起こした幕末の若い世代を現代の我々と比較した際に強く思うのは…
自主性と使命感に満ちた実に男らしい生きざまなんですよね。
畏敬の念を表さずにはいられません。それはあくまで子孫の我々への為だったのですから。
幕府に対する『賊軍』の汚名をあえて自ら着て、自ら改革するという精神的なタフさ。
更にはハングリーさ、行動力、度量、器、判断力、決断力どれを取っても人として感心する様なマンガの世界の様な史実が本当に日本にはあったんだ!
と考えると…その原動力になる教育の内容がどうしても知りたくなる訳です。

とにかく『必死!』捨て身上等のその神業たる偉業を支えた教育のディテールとは…!



239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 06:30:21.08 ID:gu0J7CFa0.net
朱子学は感情の学問というところがありますね。怒りや憎しみというものを
積極的に肯定し、理が通らないことを罵倒するのをよしとするところがある。
美しいことばで言えば性即理・「内面や実践を重視する」てことでしょうけど。
陽明学はもっと実践的で、もっと人間らしくほがらかに他人をおもいやりながら
やっていきましょうよという部分があり、>>235さんが言うように朱子学から入門
しなければ完全に陽明学を誤解してしまうところがありますね。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 06:39:51.62 ID:0rLwdNad0.net
精神論は別のスレでやってね?

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 15:59:40.99 ID:gu0J7CFa0.net
精神論ってなんですか?別のスレってどこですか?

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 01:38:29.50 ID:pmglPp7fO.net

いや、単に『遮二無二…』っていう様な精神論だけじゃないだろう。



243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 03:36:57.02 ID:+lVRt0Mk0.net
性即理なんだから仕方ないじゃん。朱子学の説明したら「精神論は別のスレでやって」とか
いうほうが意味わからん

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 05:13:09.60 ID:pmglPp7fO.net
まず、人として生きる上で…
知力にせよ実力にせよ武力にせよ…真剣にレベルを高めようという試みは、過去から実際1つの『真理』として信じられてきた。
そのガイドライン的役割が朱子学であり、陽明学であっただけ。
人は人としていかに高めていくかを競いあいもしたが、結局は自分との闘い対話に行き着く事を知る。
その過程をいかに楽しんで結果を残したり、形にしたりしたものをようやく自信に変えられる訳じゃないですか?
そして高めようとすれば、苦痛が伴うのは必然であって、それはいわゆる経験値としてかけがえのない自信という財産に変わるんだと思う。
目的は『高める』後でついてくる過程が苦痛はついてくるが、ならばその高めるんだという過程を楽しんではいかがかな?
目的は見失わない。高まった自分は多分、以前の自分より更に好きになれると思うよ。

その目的を見失い、過程だけの苦痛だけを捉えて単に精神論などといった言葉で結論づけるのは愚の骨頂。
ただ悪戯に自分を痛め付けるだけ。逆に言えば目的を見失うのが最も不幸だろ。



245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 05:18:21.55 ID:pmglPp7fO.net
>>243

四六時中エロの事しか頭にネェバカはピンク板行っとけ!カス!
君は丁度『愚』という岩の頂上にいるバカに過ぎない。



246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 06:54:54.59 ID:MfRVcH1r0.net
>>245
釣りで言っているのか??? 性」の意味を知らないとか無いだろうな??????
まさかほんとうに「エロ」だとは思ってないよね!!!!!!

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 08:23:46.16 ID:+lVRt0Mk0.net
2ch流の、この「名無し」が「罵倒」しあう、この態度は朱子学的といえなくもない。
儒教を軸とした学問体系は聖人君子の学であるが、これは反照として統治される側に
無記名で流動する大衆、部民、群集を想定している。カオナシの「被統治者」であり
つねに無責任な暴民を対手としたさいに君子・士太夫はどのようにふるまうべきかを
論じている。ところが朱子学・陽明学となると、その視点は王侯がどのようにふるまう
べきか、という頂点から、士太夫は、部民はどのようにふるまうべきかという位置に
降りてきており、これは「名無しの、カオナシの大衆がいかにふるまうべきか」を論じた
大衆学の呈をなしている。日本において天皇を中心とした国体論が、天皇がいかに
あるべきかではなく、天皇を尊崇する部民がいかにあるべきかを論じるようになったのは
このためである。儒学でありながら、視点は孔子のものとは逆転しているわけだ。

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 15:35:43.17 ID:2yPIXsLn0.net
>>205
古写真や帽子店業者の話を元に、明治・大正期頃まで用いられていた角帽
を製作している(と言っても、製作依頼があれば、の話)帽子店で古式角帽
を誂えました。国語教科書/参考書等で散見する、芥川龍之介が帝大時代に
久米正雄、松岡譲、成瀬正一らと詰襟・角帽姿で写した写真のアレですね。

>>231
京城帝大や台北帝大は別として、ナンバースクールは八校だった訳だから
内地の帝国大学も八校目として『北陸帝国大学』案が浮上したのも首肯出来る。
そう考えると、北陸・中国/四国地方に帝国大学が無かったのは興味深い。もし
候補だったら、金沢の他には、岡山だろうか。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 07:40:53.32 ID:fix5RKJv0.net
>>248 北陸帝国大学構想があったことは金沢大学関係者から聞いた。
名古屋が駆け込みで帝大になったことを悔しがっていた。
名古屋帝大も医大を母体にしているから中国地方につくるとしたら岡山だろね。

戦前の体制がいまいまで続いていたら千葉、長崎、熊本とか帝大インフレになり
乱立したかもしれない。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 18:00:32.26 ID:8VxIefgRO.net
>>246

私が間違っておりました。



251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 15:46:34.69 ID:KkD4k1iX0.net
自分の爺さんは明治23年生まれ(自分はバブル世代)だが
その爺さんの残した手記によると明治40年代初頭に中学から大学へと
進んだようだ。
大学の名称は「東京農科大学」で、よくよく調べてみると現在の東大農学部
らしいことが分かった。
ちなみに、その爺さんの職業は銀行マン(第一銀行)だった。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 20:51:05.94 ID:EFrOsz4M0.net
>>225>>227
高等小学校卒業が入学資格の中等学校は22年も新入生を募集してる

23年から新制高校がスタートしているが奄美大島の大島中学と
奄美高女は1年遅れの24年まで旧制で存続した

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 10:52:00.84 ID:dK4yevd/0.net
>>251 もう旧制高校が確立いしていたからそれは無いと思ったが
よく調べてみると中学から行ける帝国大学農科大学『乙科』というのがあったんだ。
貴重な情報ありがとう。

>自分の爺さんは明治23年生まれ(自分はバブル世代)だが
すごいね。昔の男は結構、高齢になってから子供を作っている。
自分は昭和30年代生まれで爺さんが明治30年代生まれだ。

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 11:33:50.51 ID:dK4yevd/0.net
小中学校の教員養成課程を含んでいないのが旧帝大の特徴なら
東京学芸大学は今でも別に存在するから筑波大学は戦後にできた
「新」帝大と言えるのではないか?

師範と高等師範が合併している広島大学はこの資格を失った。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 12:16:59.98 ID:+xfBAFCE0.net
>>254
東京教育大学のリベラリズムをつぶすために筑波にしたんだろ

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 18:24:37.37 ID:7kg0ppOV0.net
>>253
>>よく調べてみると中学から行ける帝国大学農科大学『乙科』というのがあったんだ。

爺さんの手記には「東京農科大学の実科」と記して有りましたよ。

>>すごいね。昔の男は結構、高齢になってから子供を作っている。

自分は一番下の末っ子で、父親も末男、爺さんも末男、爺さんの父親も末男。
気が付いたら先祖の史料や遺品の管理をしているのがすべて末男なんです。(笑)




257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 21:05:05.55 ID:NWhiBqrDO.net
戦前中等教育が別学なのも、中学行けなかった人のために専検制度があったのも知ってたけど、
女子専検っていうのがあったのは今日初めて知った。

これって、当時の中学・高女に合わせて、専検の科目が男女別だったと考えて良いのかな?

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 21:25:45.43 ID:SJ9pAoyN0.net
>>257
ある女性の回顧録ですが、女子専検とは明記されていませんが
試験科目のうち、裁縫、家事は明らかに女子のみの科目ですね
http://d.hatena.ne.jp/kikue85sai/20061010

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 03:43:38.39 ID:ICR+48aW0.net
>>257
専検は男子・女子に分かれて試験内容が異なり、
それぞれ男子専検は中学校、女子専検は4年制高等女学校の卒業時点と同レベルの学力試験が課された。
試験科目もそれに合わせ、女子の場合は家政に関係する科目などが出題された。
専検合格した女子は上記の通り4年制高女卒業とみなされ、
女子専門学校予科や女子高等師範学校など上級学校の入試を受けられるようになった。

ちなみに、中学4修からの高校入学が認められたのに合わせて、
男子のみを対象にした高等学校高等科入学資格試験が大正期に新しく作られたが、
こちらは合格しても受験できる学校が高校の高等科や3年制大学予科くらいに限られていた。

そのほか、専検の運営・監督は、内地では文部省、朝鮮・台湾では両総督府、
樺太は樺太庁、満州方面は関東庁と、地域ごとの最高行政機関が担っていたが、
大体は文部省が主導する形をとり、検定合格者はいずれの地域でも同じ取り扱いを受けた。

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 13:32:10.92 ID:ZvTF50yT0.net
戦前の中学生が考える難易度
一高、三高>それ以外のナンバースクール及び海軍兵学校>ナンバースクール以外
の旧制高校及び東京商大クラスの官立大学予科>陸軍士官学校>早慶クラスの私大予科
>それ以外の私大予科及び専門学校

ただし陸士や海兵は特殊な学校なので一高並みの学力のある者が行く事もあったらしい。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 23:01:25.84 ID:pV3n/N860.net
帝大予科、官立工専、高等師範などは早慶以下ということはないのでは?
北大予科を高校の滑り止めにしていたという話を聞いたことがあります
また横浜高商は並みの高校よりも入学が難しかったとも

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 23:33:29.60 ID:Fk4e7A2h0.net
都市部の学校は専門学校でも官公立、かつ大学附属なら進学・就職ともに
地方の学校より充実していただろうし、志望者も多数いたことは想像に難くない。
東大・京大から遠く離れた高校よりも、横浜の学校ならかえって入学希望者が殺到しただろう。
大学まで進むことは考えなくても、都会の学校や学生生活に憧れた人間は昔も多かった。

田舎の高校の中には、官立校だというのに文科の入試から数学を免除してまで人を呼ぼうとした学校もある。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 11:32:04.45 ID:GKLWDjtz0.net
私立は、低かった。
東北帝大在学中に敗戦を迎えた親父が言ってたぞ。
官立優位は、学園紛争の終わりくらいまで続いた

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 19:26:25.21 ID:KGAN4NHX0.net
今でも田舎へ行けば行くほど国公立絶対優位が強まっていく

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 20:49:27.34 ID:/i3ItwYh0.net

中野剛志先生がTPP賛成論者の詭弁を全滅させたようです
http://www.youtube.com/watch?v=9amjatPD_l4
http://www.youtube.com/watch?v=8G29qFqId2w


中野先生が敗北宣言、暗殺される?
日本が米国の植民地に。すでに99%手遅れか?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15973549


テレビ・新聞にだまされるな。
気づいたら、
「my日本」で検索


266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 00:49:20.70 ID:tSdN7DOa0.net
>>263
官立大学や官立高商の優位性は、新学制後も随分と続いたようだ。
私立大学の社会的評価が高まって来たのも、戦後になってからで
早慶や上智、明治、立教、同志社等が難易度(偏差値。科目数は違うが)
で旧帝大系に並んできたのが1980年代頃からだろうね。逆に旧高商系や
師範学校系の、俗に言う「駅弁大学」の凋落が顕著になったのも同時期
辺りからだろうね。そして昨今の経済情勢等の事情から復権の兆しが見え
て来てはいる。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 09:55:18.31 ID:+gkmFNix0.net
>>266
そして、この不況でまた、地元志向に回帰中
地元に弘前大学や、青森公立大学があるのに、なんで、都の私立に、、、そんな金ないわという、、

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 13:35:11.39 ID:FhvdHuAp0.net
>>108
>というよりも戦後アメリカ型の学制を導入すると言いながら、
>肝心な所を真似しなかったのが問題なんじゃないのかな?

国の幹部職員(いわゆるキャリア)は博士号もちから採用すればよかったのだが。

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 14:26:34.36 ID:v2KmysV00.net
文科系の博士号取得がほとんど不可能だという点は、日本の大学の性格を
よくあらわしていますね。2000年代の改革でかなり改善されたようですが、
むかしなら大学の教授職でも博士号をもたない人はいっぱいいた。今でもかな。

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 08:53:39.66 ID:Ul10gIVV0.net
戦前は国公立といえども授業料は非常に高かった。公立の中学や高女であっても
月5円前後、官立の大学でも年100円前後の授業料が必要だった。

戦後GHQは公立学校の無償化を図り、結局実現はしなかったけど公立学校の授業料は
非常に安くなった。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:06:50.04 ID:LAMUMuVp0.net
>>270
当時の月5円って今のお金に換算するといくらくらい?

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:22:12.80 ID:+RDtgwaW0.net
>>271 自分の祖母が大正時代小学校教員で月給40円だった。
それを20万円と考えると2-3万円くらいだな。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:42:29.22 ID:NiwYNI47O.net


274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:54:58.93 ID:r2tjzMpC0.net
昭和二十年頃は高等小学校(国民学校高等科)卒あたりが世間的には並の学歴?

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 11:26:27.65 ID:GVWkgXzL0.net
昭和50年高校入学の私の授業料は月1200円、諸費用が別に月2000円程だったと思う。
インフレの時代だったので次年度入学生からは授業料は一気に3200円に値上げされた
と記憶している。
私立高校は2万円程と聞いていたので公立とは10倍以上の差があった。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 15:55:57.32 ID:GqxhsQim0.net
戦前の国公立の授業料が高かったというのは初耳でおどろきました。
なんとなく官費学生という漫然としたイメージを持っててはいけないんですね。

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 16:17:56.06 ID:iZ8W51pG0.net
そそ、だから、義務教育以外は、金がないとたとえ官立でも行けなかった、
というか、家のもんは、はやく働いて欲しかった、とくに農家は。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 16:36:04.55 ID:+RDtgwaW0.net
師範学校は官費だった。貧乏で頭の良い子は軍人か教師になるしか
上の教育を受ける手段がなかった。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 16:51:45.06 ID:1+d0Zb5PO.net
師範学校は確かに貧しい家庭の子もいたけど
実際は良家、素封家の子弟が多かったらしい

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 16:58:13.37 ID:1+d0Zb5PO.net
あと、陸軍幼年学校の授業料は月20円です
経済的理由で中学に進めない子ならなおさら
陸軍幼年学校への進学は不可能です

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 17:02:01.60 ID:ER0fGwX50.net
だから高木惣吉みたいに、小卒から独学で海軍兵学校に
合格するような人も出てくるわけですな

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:34:10.01 ID:Ov00yS3T0.net
>>272

>>70でも紹介されている『「月給百円」サラリーマン 』によると
当時の教師は高給取りで女性でもまともな給料が出たそうです
http://hiki.cre.jp/history/?Gekkyuu100YenSalaryman#l0

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:44:03.42 ID:Bb3tqcWX0.net
>>274
昭和初期にもなると、都市部では高等小学校卒業以上が大多数派になり、
恐慌の時には最低でも中卒でないと職に就けないと言われていた。
1936年の時点では尋常科卒業者の66%が高等科に進んでいた(中等学校へは21%)ようだ。
ただ、スラム街・被差別部落・水上生活などの貧困環境のせいで
尋常小学校すらまともに通えない児童も一定の数で存在し続け、
彼らを対象とした夜間小学も公立私立を問わず存在した。
学生改革によって旧制の夜間中学は新制高校の定時制になるが、
夜間小学は新制の夜間中学に役割を譲る形で消滅した。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:23:16.74 ID:0YgI1dVA0.net
>>278

戦前の日本においては、小学校教師は凄く尊敬される職業だったと
昔、本で読んだ。


285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 11:26:58.88 ID:N+oYre+B0.net
二十四の瞳の大石先生も新米なのに村民に敬愛されてたね

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