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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/02(日) 00:14:43.27 ID:7PsO3Nb20.net
大侠客・大前田栄五郎が佐渡抜けをしたのは、
確かな史料によれば、文政5年の7月6日のことのようである。
上州、下総出身者を中心とする19名の流人と共に島抜けをした。(手配書が
今日に残っている。)

ちなみに佐渡送りになった年は文政3年。栄五郎27歳の時である。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/04(火) 23:35:59.99 ID:Ne6kUCr80.net
浅田晃彦の名著『大前田栄五郎の生涯』によれば、
文政五年七月六日の佐渡抜けは、
無宿水替六十四人の脱走、という大規模なものであったが、
大部分が捕らえられ、一部だけが船を手に入れ加賀領へ漂着したと伝える。
首謀者二名は死罪となった。
栄五郎は、この時幸運にも加賀領へ漂着した一部の者に入っていた。
そして彼は、その後捕縛されることなく、明治の世まで生き延びた。
彼は竹居吃安(新島島抜けを成功させた)よりも更に幸運な博徒だったことになるだろう。
後年、彼が、日本一の親分と呼ばれるようになったことにも、
この佐渡抜けの一事が大きく関与していたと思われる。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/05(水) 21:53:56.08 ID:rHQRqyfk0.net
甲州青柳の市松・寅之助兄弟

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/05(水) 21:55:09.70 ID:rHQRqyfk0.net
鳥沢の粂

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/05(水) 22:21:18.99 ID:rHQRqyfk0.net
観音寺久左衛門

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/11(火) 10:05:52.21 ID:jo7PxtdN0.net
武州田無、稲荷の増五郎

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/12(水) 13:56:59.96 ID:sn1H9rjr0.net
・甲州無宿市松・寅五郎(松屋の兄弟)人相書(嘉永二年時)

 甲州無宿 市松
 一 年齢三十才位 一 中丈中肉、顔丸き方
 一 色浅黒き方  一 左の眉毛の上に少々古傷これあり、あばたこれ無し

 甲州無宿 寅五郎
 一 年齢二十七、八才位 一 中丈中肉、顔細長く、色白き方
 一 髪毛短き方、あばたこれ無く、
   ただし、大小を帯びる。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/13(木) 08:40:00.45 ID:VuNrCtZA0.net
銚子の五郎蔵

122 ::2014/03/13(木) 12:05:36.04 ID:cartofim0.net
城西川越高校出身・群馬大学の小林裕貴はクズ

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/27(木) 11:33:08.87 ID:e4gm5UBX0.net
飯岡助五郎

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 00:59:04.01 ID:031ayRrB0.net
笹川繁蔵

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/30(日) 02:21:51.10 ID:4WqyJl2nO.net
唐津の西山組

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/11(金) 13:05:28.98 ID:NYf7HvM90.net
男伊達 = 侠客
三国人 = 暴力団

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/15(火) 21:46:19.71 ID:X9LzUOcP0.net
強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。

はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/16(水) 00:29:05.25 ID:39nF0rzR0.net
百々(どうどう)紋次

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/16(水) 00:34:50.74 ID:39nF0rzR0.net
国分三蔵(勝沼三蔵とも)

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/26(土) 17:36:25.91 ID:56O848sh0.net
穂北の久六

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/27(日) 00:24:12.10 ID:xNk/JEiH0.net
保下田の久六(穂北久六)は、
「次郎長」の話だと、とんでもない悪役なのだが、
「大前田栄五郎」の話だと、意外なほど良く出来た貸元であったように書かれている。
一人の人間の中に悪と善とが同居しているのは当たり前のことであるが…
久六は後の世で悪の部分ばかりが取り沙汰された悲運の人のようにも思える。

死亡年は安政2年という説もあれば、安政6年と言う説もある。著名な人物
であるにも関わらず没年齢すらわかっていない。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/27(日) 22:16:27.00 ID:xNk/JEiH0.net
百々紋次と天王藤三郎は、
共に国定忠治の親分と言われた侠客

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/28(月) 23:45:23.18 ID:ffcoE8OX0.net
栗谷川半兵衛は講談では、「栗ヶ浜半兵衛」と呼ばれる。
出生は参州吉良、相撲取りの頭であった。
角力興行を行いながら、東海道から上州辺りまで手広く活動した。
一時は上州に居を据え、大前田栄五郎の兄弟分となり、
「桐生の半兵衛」とも呼ばれた。危機に瀕していた大前田栄五郎を救ったのはこの頃の逸話である。

嘉永二年7月27日夜、半兵衛は、武州の石原村幸次郎以下の博徒集団に、突如
勢州古市の居宅で襲われ、重症を負う。薬石効無く兄弟分の丹波屋伝兵衛が看取る中、翌日死去した。
この時自身の仇討ちを伝兵衛に頼んだとされ、これが元で嘉永二年の騒動が起こる事になった。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/29(火) 07:49:34.90 ID:nTiqKFKj0.net
間違えた。
「危機に瀕していた大前田栄五郎」→「危機に瀕していた江戸屋虎五郎」
が正しい。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/26(土) 23:51:22.09 ID:7e2jf8bp0.net
虎五郎は武州岡村(現・埼玉県朝霞市)の生まれ、最初、「七五郎」と
名乗り、藤久保の重五郎の子分になった。この頃、隣村の「天竺音五郎」を
殺そうと計ったが失敗し、また重五郎の義弟の万吉を誤って殺害するなどの
へまをやらかした。
その都度桐生の半兵衛は頭を下げ、虎五郎の危機を救ってやった。
虎五郎が晩年になっても自分の半生を決して美化しない一角の人物になったのは、
出合った侠客たちの質の高さによる所が大きいのだろう。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/28(月) 14:15:51.90 ID:SyED0YNY0.net
ちなみに、当時遠州に勢力のあった都鳥源八(都田源八)を
斬ったのは虎五郎であったと言われている。源八はたいへん評判の良い親分であり、
一方の虎五郎は「名をあげたい」一心の下卑た動機から源八に斬りかかったと言う。
腕は互いに同じ程であったらしいが、不運にも泥濘に足を取られ、源八は命を落としてしまう。

この源八の子が、後に次郎長一派と戦う都鳥三兄弟である。源八の妻は、
仇である虎五郎の首の代わりに、若い三兄弟の庇護を虎五郎の親分である大前田に要求した。
このエピソードは三兄弟の石松殺し程には知られていないが印象深い話である。

尚、静岡県入江町の都鳥吉兵衛(三兄弟長男)供養塔前に建つ地元の看板は名文である。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/05(火) 22:29:47.19 ID:zic4Z3Fi0.net
小仏峠の健治郎

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/06(土) 22:19:14.10 ID:nA3/2Alx0.net
武州の侠客・小金井小次郎の父親は、しばしば「勘右衛門」とされるが、
本当は「勘左衛門」が正しい。また「下小金井村」の名主であったと言われるが、実際には
勘左衛門の代には既に名主職ではなかったようである。母は「なお」、兄に虎之助がいた。

ちなみに小次郎の従兄弟に当る陣屋三之助の父の名も勘左衛門。こちらは「関野新田」の
歴とした名主職にあったのであるが、身持ちが悪く博奕に凝り、終には役を下ろされてしまったようである。
小次郎も三之助も共に「関」姓なので、親の代には二人の「関勘左衛門」がいたことになる。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/14(日) 19:34:55.85 ID:dpC+pNuk0.net
紀元前、漢の時代だっけ?司馬遷が著わした「史記」に
すでに仁侠、侠客の話しが書かれているそうじゃないか

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/13(月) 10:20:30.32 ID:UciyXVFu0.net
笹川繁蔵(天保15年)人相書

一年齢三十五六歳くらい  一丈高く中肉 
一眉毛濃く、眼細き方   一鼻筋通り、色白き方
一月代薄く、耳大き方   一口常体
一その節の衣類あい分からず

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/13(月) 18:28:53.62 ID:UciyXVFu0.net
和田島の太左衛門は、駿府へ出て紺屋町に住み
「紺屋久兵衛」とも名乗った。通称「紺久」。
紺久の勢力は駿府を、安東の文吉と二分したと言うからかなりのものだった
ことになる。
ちなみに戸羽山瀚ですら、当初は紺久と太左衛門とは別人だと誤解していた
くらいだから、当時の人間の素情を当てることがいかに困難な作業であるか
よくわかる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/19(日) 13:30:33.96 ID:g4hw+Dgq0.net
「清水湊は鬼より怖い、大政・小政の声がする」は浪曲『大瀬半五郎』
でも聞かれるフレーズである。
これに対して黒駒勝蔵方には
「障子に映るは黒駒身内、大岩・小岩の影が差す」がある。
最後のフレーズは「大岩・小岩と誰が言た(ゆた)」とする場合もある。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/03(月) 23:26:21.70 ID:64I7Tf4n0.net
三保ノ松清三郎

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/06(木) 23:11:42.37 ID:vAOGEyJL0.net
鬼神喜之助

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/08(土) 02:20:40.08 ID:jk2KeWRC0.net
人種が違いますんでね。人種が。


日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種



北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/09(日) 00:43:42.25 ID:Zq3VS4ZO0.net
高萩万次郎

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/19(水) 23:52:40.12 ID:mw1UyOIH0.net
高瀬仙右衛門こと、合ノ川政五郎

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/25(火) 22:34:53.61 ID:endWuenq0.net
小金井小次郎の二代目をついだ藤屋和十郎(玉川屋和十郎とも)は、
盆の様子を見ただけで、すぐに勝敗がわかったという。
まず、近世で一番博奕が巧みだったのは、この人だと古老は口を揃えて言った、
と子母澤寛もエッセイに書く。察するに彼は、多分に数学的能力に優れた一種の
天才だったのだと思われる。この種の才能は遺伝するものなので、あるいは
叔父の藤屋万吉、祖父の藤屋和十郎(同名)も、そういった天才肌の
博奕打ちだったのかもしれない。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/28(金) 18:02:59.89 ID:GYrEGCQc0.net
風車の弥七
柘植の飛猿
名張の翔
すっとびの辰三
出目の幹太

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/04(木) 17:10:02.89 ID:1XkrEFqP0.net
黒須大五郎

151 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 21:34:54.62 ID:+PQS7h3O0.net
大間々八十郎

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/16(火) 20:59:38.51 ID:WzvJ1CdfO.net
藤沢幸平

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/16(火) 22:40:52.10 ID:qO4Jgn7h0.net
では、幸平親分の兄弟分である江川平吉

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/16(火) 23:16:09.14 ID:qO4Jgn7h0.net
新橋の長蔵事、谷合長蔵

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/16(火) 23:17:01.18 ID:qO4Jgn7h0.net
高井戸、饅頭屋の鈴木勇次郎

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/16(火) 23:22:49.24 ID:qO4Jgn7h0.net
俗に小金井小次郎子分の四天王というのがある。
誰がそれにふさわしいかは異論のあるところだが…

四軒寺の藤蔵
矢端の藤五郎
田無の徳蔵
高井戸の勇次郎

の四人がひとまず、それではないかと思う。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/17(水) 18:55:46.90 ID:n+sQy8c50.net
人種が違いますんでね。人種が。


日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種



北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/17(水) 21:36:30.97 ID:tNnpPHC40.net
矢畑の藤五郎(仙川の藤蔵とも)は、小金井一家一の知恵者と言われる。
陣屋三之助は小次郎のいとこにして片腕。一の子分が新橋長蔵である。
小川の幸蔵は、小次郎の傘下ではあるが、陣屋とは犬猿の仲だったらしい。
よって小金井一家とは若干趣を異にする。
神山栄五郎は清水次郎長の子分にして小次郎の傘下でもあったが、彼も
陣屋とは相いれない仲だった。(後、土支田一家の祖となった。)

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/17(土) 18:28:05.64 ID:SFFNbeU80.net
姐さんは一般的に親分の何分
?若しくは何厘下がりですか?

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/19(月) 13:19:11.90 ID:GZrchh3o0.net
>>159
不勉強なため明確な答えができません。申し訳ないです。
ただ、松尾四郎の『史話と伝説』と子母澤寛の『遊侠奇談』に以下のような
記述があるので、少しは参考になれば、と思います。

―大場久八妻の「おもんさん」について―
 どこへ行っても大場の姐御で鳴らした婆さんだ。小金井の小次郎へ行っても、
 上州館林の虎五郎へ行っても、姐さん、姐さんで取り持つ、横浜の埋地の仙太とか、
 綱島の子太郎など、明治末期まで飛ぶ鳥を落す勢いの貸元連中が、一家の中に
 うようよしていたのだから、久八死後といえども婆さんの懐具合は悪くなかった。
         『史話と伝説』松尾書房 S45年

―甲州・吃安の妻について―
 甲州は何処へ行っても、ばくち打ちの女房に対して、乾児でも、旅人でも「あねさン」
 という。乾児などは、自分の親分を親といい、仁義の時でも、自分を「子」と名乗る
 以上、その親分の女房はお袋さんというべきを「あねさン」で通すのは、正妻ではなく、
 妾であるからだということである。
  『遊侠奇談』

基本的には、明確な決まりは無いのではないけれども、姐さんに接する態度で、
むしろ子分たちの力量がよく計られるのではないでしょうか。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/29(木) 00:34:17.34 ID:2p1Js29G0.net
長禅寺の音五郎

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/29(木) 23:29:49.33 ID:2p1Js29G0.net
黒田屋祐蔵

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/31(土) 20:22:58.36 ID:pRf/DkAF0.net
侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/31(土) 20:23:55.52 ID:pRf/DkAF0.net
小俣周太郎

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/28(土) 08:08:20.64 ID:QSVfzeL7T
厚木の駿河屋彦八

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/01(日) 18:25:21.72 ID:PYuAFAqY8
橋本の平野屋政八

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/04(水) 23:27:08.85 ID:1Jf2P7jiA
武州岩殿観音ノ徳
ならびに、観音ノ菊

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/13(金) 23:41:35.43 ID:PxFR59Dmp
駿州吉原宿の宮島年蔵

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/18(水) 23:03:52.63 ID:hwB/hHFum
下田の赤鬼金平

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 23:29:56.79 ID:QfOvMRzrD
前にも書いたが、「ドス」とは刃物一般を差し、博徒ではなく浪人の陰語。
よって「長脇差」は「ながわきざし」と読む。あるいは「ドス」。
「長ドス」とは読まない。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/02(土) 22:17:10.82 ID:TwM7Plpy0.net
小久保林蔵

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/06(水) 22:46:07.61 ID:St7tF/AD0.net
宇津谷伝右衛門

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/07(木) 23:59:45.27 ID:ehhVe0+80.net
女無宿おりは ってどういう人だったの?
任侠ドラマ(フィクション)における立ち位置でもいいからおせーて。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/09(土) 08:32:55.49 ID:WkEPLYRj0.net
上記のように、俗に言う竹居吃安の「十人集」というのに名を出している。
おりはさんを単体で扱った本には今川徳蔵の『新・侠客100選』があって、
これによれば、大柄な美人で人当たりがよく、その上に吃安から賭場の代貸を任されていた
とされている。
また、彼女の賭場では一枚で金一両に相当する「金コマ」だけが使用されていて
今で言えば高級ディーラーの差配するカジノのような趣だったらしい。

確実な史料だと、甲州上芦川(笛吹市)の古文書に、「上芦川百姓平兵衛の後家、りは」
として名前が出てくる。元治二年二月、無宿共が集まった「りは」の賭場に役人の手入れがあり、
彼女も含めて、全員その場から逃げ去っている。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/09(土) 08:41:33.19 ID:WkEPLYRj0.net
博徒連中の中では際立った存在だったため、しばしば小説中には登場させられる。
かなり古いが竹内勇太郎の『俺はども安』では、若い頃のども安を指導する(?)
姐さんとして扱われているが、無論これはフィクション。
最近だと『裏返しお旦那博徒』の中で、吃安と浪人犬上郡次郎の友情に
ひびを入れる存在として扱われている。
どちらにせよ、美人でさっぱりとした気性の女性とされている。
あとは松尾四郎の『竹居吃安』。あまり良くは書かれていないが、一番真実に近いの
かもしれない。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/12(火) 23:55:53.27 ID:b8xQcgGR0.net
>>174
ありがとうございます。
>大柄な美人で人当たりがよく
という部分が一般的な侠客に抱く私のイメージを超えてましたが
>高級ディーラーの差配するカジノのような趣
こう考えると、なるほど、そんなキャラもありえたのかもしれないな、と納得。
ただ、そういうキャラで生きるには年齢的なものが男性よりずっと厳しいように思うと
亡くなった歳やいきさつが気になります。これについて書いたものはご存知ですか?

あと松尾四郎の『竹居吃安』というのは『侠客竹居の吃安正伝』のことでしょうか?

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/13(水) 23:26:26.61 ID:SUtIg4Iq0.net
『竹居の吃安正伝』のことです。さすが「国書刊行会」と恐れ入るばかりの
目のつけどころですね。

現存する仁侠研究の最高峰、植田憲司先生のブログには、その後改名し、
愛知かどこかで亡くなったおりはさんの事が調べられていたように
記憶していますが、今はブログも閉鎖されています。

貴方が根気よく、探訪、研究を続けていけば、いつかはわかると思いますよ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/15(金) 09:02:06.29 ID:mHJCSPeS0.net
>>177
ありがとうございます。

惜しいブログがあったのですね。スナップショットの断片を探してきましたが、
インターネットアーカイブスの性質上、収集されていないページも多々有ります。
画像は特に絶望的で、どの情報がどこにあるか容易には解らない状況です。

http://web.archive.org/web/20090225141744/http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/bakutomeibo0.htm

上のサイトの甲州の欄は見たつもりなのですが、おりはさんを見つけられないでいます。
もしよろしければ、どのあたりに書かれていたか記憶をたよりにヒントをくださいませんでしょうか?

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/17(日) 01:24:34.53 ID:Y/VM417s0.net
こんな機能あるんですね。知らなかった。久しぶりで植田先生の仕事を
見れました。感謝します。残念ですがおりはさんに関しては全くわかりません。

ただ一つ言えることは、若干(かなり?)オカルトな感じですが、
故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。
史料はあるのに、様々な理由で一般に出ないようなものは、やはり故人が、それを望んでいないから、
なんじゃないかと最近思うのです。

まずは自分がどうしてその人を調べたいか、と考えることです。その上で、その人の生涯を尊重する。
そうすると、ある日偶然、手掛かりが見つかります。自分の経験上そう思います。
それからとにかく歩くことです。(なにしろ相手は一日50キロは平気で歩く「遊侠の徒」なのですから。)

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/18(月) 09:56:12.96 ID:/DMZK/le0.net
>>179
>故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。

実は私も奇妙な経験があります。「侠客の歴史」からは時代も場所も違う別分野においてですが
ものを書く際、何をどうやっても進まないパズルが、ひとたび悪役の理解に努めることで
そのピースを切欠として一気に全体が仕上がることは1度や2度の経験では有りません。

今は「あたりをつける」段階で、どういう人物か調べ始めたばかりですが
なるほど仰るとおりで、思い込みや期待にゆだねて先走ったところは故人への礼を欠きましょう。
侘びではないけれど最初から考え直してみたいと思います。ほんとうに有難うございました。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/18(月) 23:26:36.75 ID:vAU4w9080.net
武州の多摩川縁、柴崎村の粂蔵親分は自身十手持ちでもありながら、
博奕を催す地元の親分で、何より多摩川鵜飼の総元締めだった。
姓は中嶋。不幸にして早世した倅捨蔵は、天然理心流近藤周助の門弟、
つまり近藤勇の兄弟弟子だった。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/23(土) 23:26:08.86 ID:crbd6lZZ0.net
石井の伴内

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/24(日) 00:20:14.47 ID:fdLSq3er0.net
とにかくヤクザはたかり
紙幣を印刷してるわけじゃないんだから
たかりが仕事
たかりのダニ
たかりのくず

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/24(日) 19:15:16.80 ID:Kg00cTPo0.net
このスレ初めて見ましたが興味深いですね

>>181
玉川要蔵が甲陽鎮撫隊に協力したという話は事実でしょうか?
やはり剣流を通じて繋がりがあったのでしょうか?

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/25(月) 23:24:01.39 ID:oKzQg1Dx0.net
「佐藤彦五郎日記」慶応四年二月に「新撰組の土方から亀吉が使いに来たので、
四ツ谷惣蔵倅の要蔵、下宿兵助弟幸助両人が、亀吉に従って出府した」
という部分があります。玉川亭要蔵は日野の四ツ谷惣蔵(宗蔵)の倅で
間違いないので、少なくとも勝沼の戦の前に彼が土方歳三に呼び出されたという
事実はあったようです。また使いにたった亀吉は八王子のソバ亀親分だとも言われており、
戸羽山瀚によれば、彼も大場久八の「辰巳隊」の一員として勝沼戦争に参加した、
というので、辻褄は色々と合うように、私は思います。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/25(月) 23:30:50.89 ID:oKzQg1Dx0.net
要蔵親分が天然理心流だったかは定かではないですが、
明治11年には無宿博徒の捕縛で警察に協力したという理由で
神奈川県から褒章を受けています。
白刃を持った敵に立ち向かったとあるので、武芸の心得はあったように思います。

187 :179:2015/05/26(火) 19:19:05.83 ID:4299A46o0.net
>>185-186
どうもありがとうございます。
要蔵は松本捨助と義兄弟だったなどと伝え聞くものの
史料的裏づけはほとんど得られていませんでした。
また、『佐藤彦五郎日記』には目を通していながら、
「亀吉」「四ツ谷惣蔵伜要蔵」が何者か判断がつきませんでした。
なので、貴重な手がかりをいただき助かります。
剣流はともかく、やはり彦五郎の存在が要因として大きいのかもしれませんね。

「下宿兵助弟幸助」も正直よくわかりません。
「兵助」は馬場兵助かと思ったのですが、
馬場兵助の実家「扇屋」は下宿でなく中宿と聞きました。
追々調べてみようと思います。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/27(水) 22:42:54.64 ID:UHbLqkPy0.net
野州佐野、京屋の元蔵

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/27(水) 22:50:55.85 ID:UHbLqkPy0.net
京屋元蔵は、十手持ちの目明し親分
子母澤寛の本だと京屋銀蔵とも書かれる。若い時分の江戸屋虎五郎に目をかけた話は有名だ。

野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋銀蔵(元蔵)の、目が怖い

当時佐野には、このような里謡があったと言う。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/30(土) 14:11:01.50 ID:z1P2W1ty0.net
明治31年の小説『黒須大五郎』は、実話をもとにして書かれた「探偵実話」という
ジャンルに立つ作品である。まだ「推理小説」というジャンルが確立していなかった時代に
怪人・怪盗を主人公にした、この手の読み物が流行した。
作者は「無名氏」とあるが、実は都新聞の「高谷為之」。
高谷は元刑事であったために、明治期の刑事事件に関して独自の情報ルートを
持っており、それを活用した。
大五郎は明治5年の秋に御用になり、斬罪とされた。彼を首領とする一団は、
関東を又にかけ暗躍し、その捕縛は当時「明治三大捕縛」の一つに数えられたという。

高谷の所持していた調書を受け継いだ長谷川伸が、同じく大五郎を主人公に書いた作品が
『八丈つむじ風』である。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/01(月) 16:42:15.80 ID:1HJ7FMVX0.net
NHK「日本の話芸」
三笑亭夢之助「ん廻し」に博徒侠客の名前をたくさん挙げるくだりがあったけど
早口だから大場久八と清水次郎長のほかは聞き逃したorz

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 00:09:47.25 ID:8i8CoF/Q0.net
小金井小次郎一世一代の大喧嘩「二ツ塚の喧嘩」は『慶応水滸伝』によれば、
天保11年3月25日のことだという。
相手は堀端鈴木(現・小平市御幸町)の与三兵衛という親分だった。
小次郎側には府中の万吉、一ノ宮政次らが助に入る。一方与三兵衛側には、
平親王平五郎、廻田栄太郎、連雀嘉助、八軒栄次、小川幸八がついた。
いづれも実在の親分衆である。勝敗などは『慶応水滸伝』を読めばよろしい。

与三兵衛の子孫の家に伝わる話では、彼は後に「富士のふもとの出入り」に、
「一宿一飯の恩」との理由で加わり、戦死したと言う。彼は小川の親分と仲がよく、
自分の親分(小川の梅吉か?)を逃がし、自分は代わりに死んだのだと言うことだ。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 00:14:35.12 ID:8i8CoF/Q0.net
酔っていて文が乱れた。
「死んだとのことだ。」に訂正。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 22:26:30.90 ID:L4Zj8IHv0.net
『慶応水滸伝』、今時入手しやすいのは柳蒼二郎・中公文庫(2014)だけど
明治22年に『落花清風 慶応水滸伝』、同23年に『新門辰五郎・小金井小次郎 慶応水滸伝』が出版されたようで、
これらが最初の作品化なのか、あるいはさらに古く講談か芝居の元ネタがあったんですかね。

それに、実在の人物が出てくるけど、ストーリーはどこまで実話に基づいているんでしょうね。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 23:24:52.37 ID:8i8CoF/Q0.net
一番古い『慶応水滸伝』は明治15年、小次郎没翌年の出版です。

少なくとも、関東取締出役の名前と任期、小次郎が木更津で捕まったこと、
また後年八王子で捕まったこと等は年代、日にちが正確です。
逆に明らかな嘘があるのは、一ノ宮政次の仇である八軒栄次を小次郎が殺したという
部分です。栄次は、史料より文久年間までは生存が確認されるためです。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/04(木) 22:11:02.53 ID:WQKHpde90.net
なるほど参考になりました。
『天保水滸伝』のように先に講談があったのとは違って
初めから書籍が出版されたわけで、つまり小金井小次郎を偲ぶ紙碑ですか。

ストーリーは虚実ないまぜで、事実か創作か判断つかないところもあるようだけど
それをわかって読めばいいと考えておきます。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/05(金) 00:06:02.63 ID:NWxDWyD/0.net
熱海の藤兵衛

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/05(金) 00:08:11.77 ID:NWxDWyD/0.net
豆州本郷村、赤鬼の金平(由五郎とも)

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/06(土) 09:45:40.08 ID:mhKqEAis0.net
登戸の桶屋長兵衛について何かわかりませんか

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/06(土) 17:20:42.52 ID:KVpQwGyP0.net
すみません。初めて名前を聞きました。もし差し支えなければ
長兵衛という方のお名前をどういったところで知ったのか、
むしろご教授いただけませんでしょうか?

201 :194:2015/06/07(日) 06:29:29.78 ID:puH19iTC0.net
趣味で郷土史を調べてる知り合いから聞きました
何か本に地元の人の昔語りが載っててその中にちょっとだけ出てくるそうです

小金井小次郎の身内で有名な博徒だった
剣術が強かったらしい
義人とあるので何か人助けをした?詳しいことは書いてない

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/07(日) 08:46:57.85 ID:KoC8oBSU0.net
たいへん勉強になりました。本当にありがとうございます。

203 :194:2015/06/07(日) 18:11:16.03 ID:puH19iTC0.net
当時は有名だったのかもしれないけど
今ではほとんど何も伝わってないみたいですね>桶屋長兵衛

もしいつか何かわかったら教えてください
よろしくお願いします

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 22:59:49.11 ID:amB22rG60.net
武州田無宿は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要所である。
また文政期以降は改革組合村の寄場を務める大宿であった。人の往来は多く、
自然諍いも増え、それに見合う調停者を必要とした。

通称「稲荷様」こと増五郎親分は、この人が出ればどんな争いもピタリと収まると言われる程の
たいした貫禄だった。綽名である「稲荷様」は屋敷の隣に鎮座する「笠森稲荷」に拠る。
よく増五郎は、小次郎の子分と言われるがそれは間違い。実際には増五郎の方が6歳年上の兄弟分である。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 23:15:05.82 ID:amB22rG60.net
増五郎の父は、升蔵と言い、更に輪をかけた侠客であったという。言い伝えでは、
「銚子の五郎蔵」の兄弟分という。
増五郎の子は竹次郎(別名・長四朗)といい、晩年は「増五郎」を名乗ったともいう。小次郎の
子分と言われたのはこちらの方だろうが、小次郎墓石の裏に、他の子分よりやや大きな字で、
名前を彫られていることから、その立場の違いを感じさせる。

増五郎に関する研究史料には皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』に加えて、
『田無地方史研究会紀要』4号掲載の楢崎成直氏による「博徒増五郎の背景」がある。

なお同じ田無の侠客、田無の徳蔵は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心になった。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/09(火) 22:14:18.05 ID:/UF+Vxn40.net
地元でちゃんと研究されているのはいいですね。
これらの資料もいずれ読んでみたいです。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:42:23.22 ID:7N2LplZu0.net
調べてみたら『落花清風慶応水滸伝』の初版発行が明治15年だったんですな。

・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた

スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:59:42.72 ID:BaHuJjM00.net
案外ばかにできないのが、揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)による「講談・小金井小次郎」です。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、
高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、
内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。

この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」に
シフトした感じがあるんですな。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 23:27:03.80 ID:BaHuJjM00.net
遠州浜松の国領屋亀吉

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 02:02:09.60 ID:oF8U949r0.net
>>208
近デジで見てきました。
文体の違いなどを考慮しても、揚名舎桃李のほうが確かに情報量多そうと思いました。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 23:04:05.77 ID:tbrEjNE/0.net
岩殿観音の徳次郎、菊次郎

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:15:36.20 ID:edtAtFuq0.net
関戸の長兵衛

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:43:22.17 ID:edtAtFuq0.net
江古田の幸平親分は、元旗本くずれと伝わり、御一新の頃の人物。剣術の達者で
ありながら、生涯一度も喧嘩をすることがなく、それでいて「幸平旦那」と呼ばれ、
たいした勢力だった。しかしこの人が博奕渡世をやめようと思ったことが四度ある。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。

ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 06:12:25.85 ID:1gY5IF240.net
結局、博奕は止められなかったんですか?
ギャンブルの魔力は恐ろしい・・・

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