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侠客の歴史

1550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 00:55:59.33 ID:oeWYtXnKo
強い憤りを感じますね。
市の教育委員会と言っても、その地域と無関係の人達が多く郷土史に無関心なのかもしれません。
だからといって許されることではないですね。
寺にいたっては、悪意を感じます。
貴重だと知りながらの処分。稗史に対する嫌がらせのように思えます。

1551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 00:05:36.95 ID:RuCMlwMM0.net
撤去された墓石群は、甲府の中心街にあった寺院のもので、
およそ70基。
その中に、三井宇七郎の他に私が確認できたのは、宇七郎弟(孫とも)とされる三井健次郎、
宇七郎の父とされる三井庄蔵の三名の甲府牢番の墓。
他に甲府勤番士、香具師の帳元。商人などなど。

これらが全部消えてしまったのだ。
再三市の調査要請をしたが、遂にされなかったのだ。

特に、甲州では非差別身分の皮作りの人々や、猿引、ささらすりといった芸能民、などが
甲府牢番支配に入り、その勢力圏は厳格で、浅草の団左衛門も介入できない。
三井氏とはそういう家系であり、それだからこそ
三井宇七郎(三井卯吉)は甲州一の顔役になれたのだ。この点を考察する上で一番大事な
証拠史料がなくなってしまった。

1552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 20:15:04.90 ID:UBt5V1yoh
>>1550
ありがとう。

ただ今は、全力、血眼で墓石の動向を追っていますので、
結果が出たら、またここに書かせてください。
刺し違える心づもりで
交渉中です。

1553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 21:44:55.33 ID:RuCMlwMM0.net
ブログとかtwitterとかの上手い人は、本当に物事が紛糾したり、正念場を迎えてるときは
上手に静観している。
決して助け船なんか出してくれない。
そして一連の厄介ごとが終わったあたりで、無難な記事を出して(たいてい「本」や「墓石」を写真にあげて)
一席ぶつ。それに追従者がでてもてはやされる。
そういうバランス感覚が良い人間がうまくやってるようだ。
最近は侠客を取り上げる人間もそんな輩が多い。

一方、泥臭く、けったいで、目立たず地道な活動をする人々、加えるに、損を平気で引き受ける人々
はもてはやされない。だいたい昔から何か(任侠研究も含め)一途にやってる人なのだが。

でも困ったり、困難を覚えているときに、こういう人たちに限って、ささやかにアシストしてくれたり
助言をくれる。
そういうのこそ、万金にも代えがたい、心からありがたく心強いものなのだ。

1554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/14(土) 00:59:23.30 ID:lKbIMh6LY
ある分野で貴重なものだと伝えているのに、わざわざそれを処分する神経が全く理解できません。
それに、三井宇吉と言えば、何年か前の県立博物館の特集でも触れられていましたし、博徒というよりも公儀に関わっていたという側面の強い人物です。

1152さんのように、足を使って調査をされ、それを発表していただいているお陰で私達は通常知り得ない貴重な事実を目にすることができています。
寺と教育委員会の愚行は、調査をされている方の努力を踏みにじり、この分野に興味を持つ人間を失望させる本当に罪深い行為です。

1555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/15(日) 22:56:30.87 ID:uYJvh3UJ0.net
そりゃ一般人だし、年収も多くないから
公機関や、企業相手に突っぱねたり主張するのは勇気がいるさ。
でも、やらないと後悔が残るからね。
それに、できるとこまでやったなら、結果的に申し訳なくてもせめて言い訳になるから、
墓石の返還は続けるよ。

そして、ここに書き込めば、自分で火のついてる時の気持ちを忘れないからね。
それが大事。
それが有用だ。

1556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:06:13.48 ID:iDm/5SRD0.net
すみません。また酔っていて変な文面を書き込みました。すみません。

1557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:20:27.42 ID:iDm/5SRD0.net
日野の「河野日記」、明治12年には玉川要蔵(の身内)と砂川の平蔵が喧嘩をした
という個所が、本当に一行だけ書かれている。

正確に言えば、要蔵の子分筋にあたる立川(柴崎村)の者が平蔵の賭場で辱めを受けたため、
帰ってから仕返しをしようとしたところに、いち早く平蔵側が奇襲をかけたというのが
そのあらましである。喧嘩は平蔵側の一方的な勝ちとなったが、要蔵は全く参加していない。
上のどこかに書いたかもしれないが、武器類をみんな畑に埋けて管理の目をくらませたのは
この時の話の様だ。

興味深いのは、この喧嘩に平蔵の助っ人として、田無の徳蔵とその身内が加わっていることだ。
平蔵、徳蔵は共に小金井小次郎の子分で、小次郎の墓石でも上位のところに書かれているから
多摩地域の相当な顔役だったと考えられる。あるいは両者は兄弟分だったか。
一方で要蔵は小次郎の子分だった、という話がたまに聞かれるが、どうも違うらしく思える。
むしろ柴崎から日野、八王子に入るところまで独立して勢力を持ち続けた親分のようである。

1558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:34:13.37 ID:iDm/5SRD0.net
武州多摩地域周辺は、幕末から完全に小金井小次郎一家の縄張り一色かというと、そうは言えないらしく、
砂川、田無の間にある小川(大沼田、鈴木新田等も)は当然小川の幸蔵の持ち分だし、
新座郡に入って片山から先もどうも本来は違うらしい。
八王子へ入ると、一ノ宮の蕎麦亀、日光屋の吉五郎(兵吉の子)、小仏の健次郎、橋本一家の常吉
がそれぞれ独立して持っていた。このうち日光屋は兵吉(”ひょうきち”と読むらしい、正確にはちょっと字も違う)
が小次郎の兄弟分だったといい、また中心地の天王森には、天王森の民(または寺町の民)
という小次郎の子分がいたらしい。
さらに「絹の道」である浜街道沿いには町田へ向かって、藪柑子幸次郎、橋本宿の歴代親分たち(複数いる)、
大戸の万次郎(下川尻"かわしり”の万次郎)、木曽の嘉十郎、淵野辺の喜六、原町田の弥兵衛なんかがいて
それぞれ独立の一家を成している。

1559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 18:09:53.63 ID:wdGlldhA0.net
墓石の回収は、残念ながら成りませんでした。
40ミリまですでに細かく砕かれてしまったとのことでした。

前に自分はここに、「故人は自分が出ることを望んだ時に、史料や遺跡として姿を現してくれる」
みたいなことを書き込みましたが、同じように、
「用事が済んだので、帰って行かれた」と考えるのは、
自分に都合の良すぎる勝手な解釈でしょうけど、
今はそこに気持ちを落とすしか方法が無い。
わずか3年の間だったけど、確かに墓石が確認できていた間に
左右・正面の文字は全て記録できたので(お写真も一枚だけ)、それだけでも
(こっち側としては)よかったと、勝手に思っておくことにします。

1560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 18:32:47.76 ID:wdGlldhA0.net
とにかく最大限、対象に好意的な視点で、
史料に基づいた調べを、これからも続けてゆく。今回のことをした奴らには
三井宇七郎がいかに大物で、その時代の歴史を語るのに必要不可欠な人であったかを証明してゆくことで、
後々、必ずやったことを後悔させる。

1561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 19:01:07.19 ID:wdGlldhA0.net
黒駒勝蔵と信濃で抗争した行栗(七久里)の初五郎事黒田初五郎さんの墓石は、
前に訪れた際、天竜二俣のお寺にしかと残っていた。
やはり今回と同じように、無縁を含むお寺のお墓を整理した際に、
わざわざそれだけ、住職が山門の前に残してくれていたのだ。ほとんど名の知られていないこの人を
それでもしっかり地元で残してくれていたと言うのは、今思うとほんとうに素晴らしい判断だったのだ。

1562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 23:00:21.63 ID:wdGlldhA0.net
結局のところ、墓石の保護を早く行えなかった自分の責任が大きいのだろう。
無縁の墓同士が隙間なく並んでいて、なきに等しいわずかな墓石正面の空きスペースに、
行くときは線香を立てていたのだけど、寺側にも存在を伝え、喜んでもらえて、市教委は鈍いけどいずれ理解して
そのうち広いところに移すはずだから…と高をくくっていた。信じて油断しすぎてた。世間の道理も危機の意識も働かない世間知らずとはこのことだ。
その結果、お花を供えたことが一回もないままに終わってしまったのだ。このことは悔やんでも悔やみきれない。

1563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/07(火) 20:59:52.98 ID:mgMZnzI40.net
侠客の墓石の情報は、開示すると、アホがやってきて、写真にして
twitterに上げたり、下手なブログで陳列したりする(線香立てて手を合わせるだけでいいだろうに)

と言って全くの秘密にすると、今度は世間に周知されないで、結果的に市町村文化財課が動かず、
墓石自体が無くなることにもつながる。

兼ね合いが非常に難しいが、最悪は「無くなってしまう」ことなので
やはりなるべく機会あるごとに、情報を出していった方がいいのだろう。

1564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/16(木) 16:01:10.34 ID:smkLyeL96
墓石の件、本当残念です。
話を聞いているだけで悔しさがこみ上げてくるのに、当人様にとってははらわたの煮えくり返るおもいだと思います。
でも、墓石を発見してもらっただけでも、宇吉さんにとっては良かったことなんだと思います。

先ほど勝蔵生家でシャインマスカットを買い、観音堂のお地蔵様に手を合わせて来ました。
だいぶ風化はすすんでしまっていますが、誰にでも手がとどく所にありながらしっかりと鎮座されていて、勝蔵さんは地域の人にも大事にされているのだと実感しました。

生家敷地内のお墓の横には新たな石碑が作られ、今月末に除幕式が行われるとのことでした。

1565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/16(木) 22:13:44.97 ID:smkLyeL96
ふと思い出して検索したら、今日は今川徳三さんの祥月命日なんですね。
亡くなられたちょうど1年後にたまたま勝沼に行っていた自分にビックリです。

「万延水滸伝」の増田伝一郎が蓮台寺温泉に勝蔵を捕縛に行く前後の描写、創作が大半だと思いますがなかなか面白かった覚えがあります。

1566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/17(金) 06:59:45.66 ID:lR1cKc/yA
今川徳三氏の功績は大きい。なのに、晩年は書いてきた著書の内容が
根拠のないガセと批判され、そのことをひどく気に病んでおられた。
県立博物館の展示やそれに伴う研究、特に国分三蔵のそれを言っておられたのだろうが、
本当に残念なことだ。
展示や研究者は、そう思われることを意図していなかっただろうが、情報の行く末というのは
どんな風に展開してゆくかわからぬ。
亡くなった時には新聞に記事もちょっとでたが、地元の郷土会やメディアでもっと
取り上げるべきだったように思う。
あるいはこれからでもいいから。

1567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/17(金) 07:06:15.14 ID:lR1cKc/yA
勝沼にある三蔵の墓石のことは情報が出たし、台座に刻まれた人名を追跡することで、
今後研究が進むだろう。
と思うが、地元の文化財課や史家が枯渇した今日の状況では無理かもしれん。
またぞろ、どっか東京の大学研究者の調査の的になるのがオチだろうか。
全国に言えることだけど、郷土史家を無くすような体制をずっと取ってきた
市政や教委が相当非難されるべきだろう。
山梨に関して言えば、武田武田の礼賛は、もういいよ。戦国ブームが過ぎ去った時に、
いったいどうする気なんだ。

1568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 21:41:14.16 ID:lEkV5Ud+5
海野弘という人は、やっぱりこの時代に生まれた天才の一人なんだろうな
と思う。美術史家としてアールデコを再評価したり、カリフォルニアの文化に着目し、
ビートジェネレーションなんかの解説をしていても、頭に入るしなるほどと思わせる。

でありながら、江戸の風景を小説にして描かれても絶品じゃないですか。
カルノーじゃないけど「弱点は無いのか」と思わせられるすごい人だ。

『江戸よ語れ』(河出、1999)はあまり評価されていないようだけど、面白かった。
この中でさりげなく祐天仙之助が出るけど、この祐天が一番、本物の祐天親分に近いんじゃないかと思える。
何気に最期も『藤岡屋』ではなく『東西紀聞』からとってる。

1569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 21:57:52.26 ID:lEkV5Ud+5
武州入間郡藤沢村というところがあり、今では埼玉の入間市に含まれている。
東西南北に道が走り、中世には新田義貞も通ったというから、歴史も古く、交通の要所でもあったらしい。

ここに藤沢の代五郎と言う人がいた。元力士で荒磯倉吉・甲山半五郎親方の門下にいたが
病気になり廃業、草津温泉で治療した後は故郷に帰り、日雇い仕事で口を糊していたようだ。
が、生来腕力もあったからか、博奕打ち仲間の口車に乗り、夜盗・強盗仕事にも手を貸すようになり、
明治の初年に御用となった。

だが大五郎が光るのは、むしろここからで、留置された監獄で、おりから流行した悪疫により
多くの囚人が倒れるなか、自らの身も顧みず献身的に彼らを看病した。
その姿勢は看守や役人の目にも、奇跡を見る様に映ったようで、刑期は短縮、褒賞を得て出ることになった。
臭気の絶えない囚人部屋に躊躇わず踏み込み、老囚には肩をかして厠まで連れて行く、というのは
なかなかできないことだろう。

だが、この人の墓石、現在地元には見つからず、逸話の一つも残らない。そして藤沢には
藤沢一家と言うのがあり、大五郎はそこの親分(あるいは重鎮)として、埼玉県内の各地の墓石などに
義理堅く名を刻んでいるが、やはり地元では存在自体が消された格好となっている。

1570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 22:06:08.55 ID:lEkV5Ud+5
そうそう大五郎のことは
国立公文書館のデジタルアーカイブス、「埼玉県史料、政治部、刑罰1(明治4・5年)のリール番号120辺りから
詳しく書かれている。
(他には横浜毎日新聞の明治7年、7月のどこかにあった気がする。)

代五郎が名前を刻む墓石は、岩殿の観音菊、二本木の安太郎など。他にももっとあるかもしれない。

1571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/20(月) 23:40:42.90 ID:MWwr4gr0m
立川『公私日記』嘉永3年10月2日の項には、次のような事件が記録されている。

 甲州悪党共弐拾人ほと徒党横行ニ付、石和陣屋ヨリ逃れ大菩薩峠青梅山中江かがまり(中略)
 府中田中屋万五郎頭取、道案内人並剣術熱心之もの共大勢相催シ青梅郷、五日市郷ヨリ取りかかり候所、
 又々甲州路へ逃去(中略)万五郎等ハ桧原村之内字へんほり辺ニ数日逗留、米穀、入湯茂無之、
 わらし之儘起臥いたし居候よし

時期と場所から考えて、この「甲州悪党共」は竹居吃安一党とみて間違いないだろう。
石和陣屋から直々に依頼が来ていると言う点も面白い。
多分、三井宇七→田中屋万五郎の順で指示が来たのだろう。
万五郎は、「へんほり」(元・日野原村字「人里」)に集団で逗留し、寝る間も草鞋を脱ぐことが出来ないほど
緊急対応をしていたことがわかる。
万五郎も相当にタフだが、なんと言っても、興味を惹きつけられるのは、一緒にいた「剣術熱心之もの共」だ。
「多摩」という地理的条件からすれば、彼らはおそらく天然理心流、近藤周助門下生だったのだろう。
とすれば、詳しい人名がわかる史料が、是非とも出てきてほしいものだ。
あるいはこの一団は実際に「吃安」本人と会い、剣を交えたかもしれず、
昔何かの雑誌で、今川徳三氏が、吃安と少年の近藤勇を相まみえさせている話を書いていたが、
それさえ、あながち無理な設定とも言えないのかもしれない。

もし何か残ってるとすれば、奥多摩近辺の名主や組頭の史料の中だろう。そんなのが見つかるのは
何千分の一の確率だろうけど。

1572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/21(火) 21:56:03.37 ID:LpvIXURdL
残念ながら侠客・博徒の情報は(今のところ)なかったのだが、
埼玉県狭山市に「水富郷土研究会」というのがあり、そこが出していた「わらやね」という
雑誌はすごい。民俗学的にすごいし、発行年が昭和53年から10年ほどなので、
今では既に聞くことが出来ない明治を生きた人々の証言を朴訥に記録しており真に迫る。

場所柄もあり、今注目の、彰義隊、振武軍の戦いに巻き込まれて、風呂場の桶に鉄砲が当たって穴が開いたとか、
誰それのおばあさんが若かったころ、肘に流れ弾が当たったとか、
名のあるらしい侍が衆寡敵せず切り死にしたのを見た、とかガリ版の紙に手書きで
書かれており、思わず息をのむ。往時の郷土史への人々(当時は若者だったのだろう)の熱意が伝わってくるような
力作だ。

しかしこれほどの一級資料なのに、中央図書館ではコンプリートしておらず、文化財課でも
全ては保持していない。
それでも狭山市の文化財課では言えば心よく見せてくれる。

1573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/21(火) 22:08:19.35 ID:LpvIXURdL
場所柄、「黒須大五郎」や「笹井の喜太郎」、「高萩万次郎」らの聞き書き、
それから、かならず存在したであろう「掘兼」地域の博奕打ちなどの話があるかと期待したが、
目を通した「号」では今のところなかった。
もっとも当時の学術状況からすれば、柳田民俗学や、生活史の記録法を重視するあまり、
完全に「村の博奕打ち」なんかは(学術的であるほど)無視されたから、
振り返られもしなかったのかもしれず、こういう点はかえって「進歩的な」研究会の方が、
期待薄な内容しか残していないことはままある。(”博徒”以外の分野ではきっと「濃密」なんだろうが…)

またこれほどの史料であるにも関わらず、後年一冊にリメイクしてまとめられなかったのは、
あまりにプライバシー保護がされていないことや、表現が生生しすぎる点にあるのだろう。
個人名はもちろん。
たとえば焼夷弾が直撃した、親しい人の遺体が「キューピー人形」のような色合いで焼けて、
衣類も溶け、丸裸のままだった、と言うような、
当時そこにいなければ絶対に知ることが出来ない生の声で、
読み手の心に容赦なく、寝る前に光景を思い出さざるを得ないほどの衝撃を与えるからだろう。

1574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/22(水) 23:07:28.17 ID:QfD9abh5o
黒須大五郎の子分には、
梶ノ山多助(相撲取り)、峯ノ尾岩吉(相撲取り)、紀州の田中清次郎(剣術家)、
鉄砲ノ卯之吉(深川大工の子)
小雲雀ノ芳五郎、鷲ノ喜太郎(南入曽の喜太郎または高倉ノ喜太郎)、沼袋ノ清吉、
宮崎源之丞(軍師)、奥州釜石の菩薩ノ粂吉、日影和田ノ岩吉、笹井ノ勝蔵・・・
と言った者がいることが
『探偵実話・黒須大五郎』に書かれている。
小説ではあるが、事実を伝える部分も多々あるので、あるいはこれらも実在の人物なのかもしれない。

特に小雲雀の芳五郎は、「大五郎子分」として古文書史料に現れる「上州無宿芳五郎」と、多分同一人物だろう。

1575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/22(水) 23:25:47.08 ID:QfD9abh5o
黒須の代五郎一味は「義盗」と称し、多摩・入間から東京都下まで荒らしまわったらしいが、
確かな聞き書きとして残っているのは、昭島市で、いわゆるこの地方指折りの大店である
「中久」に入った時(明治5年、1月17日)のことで、金253両余りと、衣類、織物多数を奪って
悠々逃走した。
仕事をするに及び一党は中久の家人(女性)十数名を縛り、一列に並べ「黙っていたら褒美をやる」
と言い、引き上げの際には言葉通り、一人一人に盗んだ博多帯一本づつを与えた。

そのまま築地の渡しを通るとき、渡守に見咎められたため、哀れにもこの渡守は切り捨てられてしまう。

上記は昭和28年(!)に郷土研究会がまとめた『昭和町誌』(手書き・ガリ版)
同じく昭和33年に同会がまとめた『築地部落の研究』に記録されている。

1576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 22:38:39.53 ID:bGf/SR+wm
地方の古文書のうち「日記史料」というのは思わぬ収穫があるので、
見れたら見ておいた方が方がいい。もっとも全く空振りに終わるかもしれないが、
それが「当たり前だ」くらいの気持ちで居ればストレスも少ない。
旅先の図書館とかだと、全部ゆっくり目を通すような余裕はないだろうが、
共通して言えることは、
天保15年
嘉永2年
文久1年、2年、3年
慶応2年
明治2年
は何としても目を通しておくことを勧める。
可能なら上記の年の前後も。
「なんで」と言われたらよくわからないのだけど、博奕打ちの大事件に関しては
この年度に固まって多く記録されていることが多いように思うからだ。

1577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:03:28.41 ID:bGf/SR+wm
武州大里郡三ツ本村(熊谷市)に鷲太郎という博奕打ちがおり、これが
甲州巨摩郡西井出(清里の辺り)で捕まった。安政四年の八月のことだ。
この鷲太郎は、韮崎から若神子辺りを徘徊し、一ツ家の浅五郎の家に泊まったり、
西井出の定吉の宅を訪れたり、大八田の多兵衛の家を尋ねたりしている。
いずれも博奕貸元と目される人たちだ。
結局お縄になったが、大した悪事もないことから解放されたようだが、
九年後の文久2年、
再び今度は武州青梅辺で手配に上げられる。今度は同類として、黒須大五郎、その子分芳五郎。
黒駒勝蔵子分寅五郎。塩後の権次郎らと一緒に行方を探索される。鷲太郎自身は、若神子の弥十の子分と書かれていて、
おそらく兄弟分の弥十の弟である千代三郎も一緒だ。

彼らは、武州入間郡名栗村の町田滝之助宅へ強盗に入り、八百両とそのた多くの品物を奪う。
更に二人を殺傷。大事件となる。
先の時期に捕まえた鷲太郎を何とかならなかったのかと、地域が違う古文書同士ながら思うが、
それ以上に気づくことは、秩父から、甲州の峡北、あるいは信州へと抜ける道が、
当時は非常に機能していた、という事実である。
甲州街道、青梅街道に次いで第三の道が秩父を伝って、武州ー甲州間にはあり、それは信州にも通じていた。
これを博奕打ちたちは非常によく利用したのである。
今日では、車の行ける道はなく、自転車で行っても、途中通行止めに合う幻の道だが、かつては当たり前の様に機能していたのだ。

1578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:11:01.52 ID:bGf/SR+wm
私がここに書いた文は、
「宇宙忍者ゴームズ」の吹き替えの「悪魔博士」のしゃべり方で
再現していただければ、これに勝る喜びはない。
とにかくマトモってのが大嫌いだ。

1579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:51:28.67 ID:bGf/SR+wm
2017年に『武州世直し一揆』という分厚い本が慶友社から出た。
森安彦とか大舘右喜とか斎藤洋一とか碩学の論文集なので、
地方の学術雑誌でも若手が一生懸命に「いいね」といった感想文を書いているのだけど、

正直言って、武州一揆の史料ならば、「山中清孝」氏一人だけの論集にすればよかったと
すら思う。それくらいこの問題に関しては山中氏の見立てが群を抜いていた。
他の方は史料は山ほど考察したが、山中氏は既に目の付け所からして斬新だった。
山中氏は若くして志半ばに亡くなったが、武州一揆に関しては
全て示唆が的を得ており、今読んでも身震いする。そしてなにより困るのは氏が唱えた示唆や問題点が
その後、全く解消されずにいることだ。

武州一揆に関しては、史料集がすでに二巻出ている。が、山中氏はそれが、史料を完全網羅していないので、
是非三巻を出すべきだと言っていた。そして、彼が今後注目するべきと名を挙げた史料には
名栗の大五郎(黒須大五郎)や八王子永戸屋(和三郎)、黒熊の勝(黒駒勝蔵)と言った博奕打ちの存在を
無下にするべきではない、との有用な示唆が含まれていた。

しかし残念ながら、今日武州一揆は「民衆の抵抗」や近代の「民主主義獲得運動」の関係でもっぱら語られ、
そこに博徒が介在した点はますます薄くなってきている。
山中氏は、それが大事と気づいておられた稀有な方だ。

1580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 12:29:41.90 ID:5c4HgDzEh
Yakuza Wikiがすごい勢いで更新されている。
更新というより開拓といってもいい。
はじめはどこかの好事家がやらかしてるんんだろ、くらいで思っていたが、
最近のは、その知識量が前代未聞だ。
文句なく凄い。
現代任侠(やっぱりここは"やくざ"と言うべきか)の情報なんて
逆立ちしても対抗できない。
全体からして自分など足元にもおよばない。
(任侠研究者全員を見渡しても、多分ただ一人しか、同等の知識を持つ人はいないだろう)

とにかくすごいことが起こっている。

1581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 23:21:01.50 ID:5c4HgDzEh
大前田栄五郎は、まあ誰でも知ってる(ここを見る人間なら)だろう。
むろん「歴史人」に書かれた与太記事なんて誰も信じたりしないと思うが、
地方地方で聞かれる逸話や、残った手紙史料、それに浅田晃彦さんの抜群の研究を
読めば、やはり超大物だったことがわかる。
幕末期の東西きっての大横綱にあたる侠客が田島栄五郎その人だ。

しかし、その勢力伸長に一番寄与した、弟分の福田屋栄次郎事関口栄次郎のことは
地元前橋ですら主だった研究が無く、まして栄五郎のことを食い扶持にするような歴史家が
触れるようなこともない。
栄次郎こそ実史料に富み、目明し頭としての動向が追える人物は、そういないのに。
同様に白銀屋文七や、駿河の安東屋辰五郎(辰之助)も、惜しくも注目される度合いが少ない(まるで無い)。

1582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 23:33:52.76 ID:5c4HgDzEh
安倍川を渡って、階段で高く昇って、川を見下ろすような寺院。
ほとんどの墓は改装されて古いものは残っていない中で、岡っ引き頭
安東屋辰之助のそれは子孫の方が丁重に残しておいてくれていて、
詣でた時は、かかっていた霧と相俟って、涙が出そうなほど嬉しかった。
正直兄の安東文吉以上に立派に見える造りだ。

「公」の侠客として、安東辰五郎は史料中にかなり多く名を出す。
地元が本腰で調べれば、きっとたくさんのことが明らかになるだろう。

1583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 20:48:26.32 ID:IUUkKBjut
このスレッドだと942に書いた、東京都東大和市の『里正日誌』(十三巻)明治6年の
神山栄五郎の動向は、短いながらも渡世人(旅人)のあり様を今に伝える好資料だ。
渡世人は方々の親分の家を訪れて路銀を頂き、あるいは一宿一飯の世話になる。
これを続けることで最北端から最南端まで日本列島を旅して回れたわけだ。
何のために、と言えば多分己の修行のためか?もしくは「そういう存在」だったからだろう。
生涯を旅に費やすのが任侠道の一つの在り方だったのだろう。

1584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 21:11:28.80 ID:IUUkKBjut
ただ、平べったい言い方だが、これは、言い換えれば、山間部や過疎地域の奥地まで「宿泊施設」が備わっていたという風にも言えるだろう。
そして今日、道路は舗装され、国民の末端まで乗用車がいきわたり、結果的に比較的自由に旅行が出来ると思われており、
ーさらに最近ではアウトドアな生活が流行っていたりするが―
では、このおかげで日本の至るところまで足を延ばせるようになったか?と言えば、
間違いなくNoだ。
むしろ明治以前、それこそ渡世人・任侠者・博奕打・博徒・遊び人・ヤクザ者(何と呼んでも結構)が
一宿一飯の名の元に、各地を旅して回った時の方が、
絶対に人々は列島の奥地にまでアクセスすることが出来ていたに相違ない。
車社会があるゆえに、次の宿泊地(町)までたやすく行けるのだから、何も峠に宿や茶屋がある必要はないのだ。
だから、今日、かつては茶屋や小店のあった峠には、今は何もないだろう。
同じ理由で山間の小集落は消えたし、下手をすれば「道」自体が閉鎖されてすらいる。
地図に無い道は、今日では既に「行けない」場所だ。

1585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 21:31:43.24 ID:IUUkKBjut
竹居の吃安の十人衆に
鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎(政右衛門)
なんてのがいるが、「鶯宿(おうしゅく)」、「上芦川」なんて地図で見てみればわかる通り、
本当に山の中、今日では人も通らぬ道だ。
でもここに貸元がいて居を構えていたわけだ。

上芦川の政右衛門は、通称を「人斬り政右衛門」。
言い伝えでは、政右衛門は、「おりは」の夫だったと言う。
(他にも「永井村新助」が夫だったとも、はたまた「御殿の伝蔵」がそうだったとも多節ある)
政右衛門が人を切るときは、散々相手に譲歩して、相手が図に乗るまで待ち、ちょうどいい頃合いになると
ちょっと笑顔を浮かべて、顔色も変えず、一刀のもとに斬り殺したそうだ。

慶応年間、役人につかまったが、唐丸駕籠で運ばれる途中、スズメバチの巣を誰かが突っつき、
それに役人が怯える中一目散に逃亡した、
とか言う話が残ってる。その後は不明。

1586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/09(土) 19:15:01.88 ID:Jl55j317O
また喜之助さんの墓写真をわざわざ上げてるバカがいやがる
子孫の方が、自分の日記にすら画像を上げなかった理由をちっとは考えてみろよ

1587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 08:12:17.84 ID:xsZoAKk8H
上であげた上芦川の人斬り政右衛門の逸話は
松尾四郎の『竹居の吃安』ならびに『境川村誌』にある。

1588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 21:40:14.98 ID:xsZoAKk8H
武州入間郡二本木村には、江戸末期から二本木一家と言う老舗があり、
地元では「森田の親分」と呼ばれる侠客・安太郎のすばらしく立派な墓石がある。
施主は二代目を継いだ安太郎弟の庄五郎で、庄五郎の墓石もまた立派なものだ。

ところで伝承や、書き物ではここに「二本木の多喜蔵」という親分がおり、彼は
慶応2年6月の武州一揆の頭取として活動したとされる。
とくに一揆が引又(志木市)へ到達し、川越藩の私兵と対峙した際には、旧知の侠客・南永井の新次郎らに対し、
談判を行っている。(新次郎らはこの時、川越藩側について一揆勢と戦った)

これが単なる伝承の類でないことは『武州一揆史料』に確かに「二本木無宿滝蔵」という人物がいて、
捕まっていることからもわかる。(その後の処遇は不明)しかも「博徒安五郎弟」とあり、
二本木安太郎の「弟」であったことになっている。しかし実際に記載された年齢は当時の安太郎より上であり、
つじつまが合わない。しかも安太郎の墓域にも系図にも滝蔵(多喜蔵)などという人物はいないし、
子孫の方も聞いたことが無いとのこと。

1589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 21:51:28.33 ID:xsZoAKk8H
二本木村は、いわゆる日光脇往還・千人同心街道(八王子千人同心が日光の警護のために往来する街道)
に位置している。「宿」と呼ばれることもあるが、問屋場や本陣、助郷村があったのか、ちょっとわからない。
(なければ、一応「村」である)
ただ古くから人の多く住んだところであることは確かで、「谷合氏見聞録」に元文4年(1739)
裏宿の七兵衛(青梅の伝説的盗人・侠客)が捕まった際に、同類として「二本木の庄助」というのが
出てくるくらいだから、元々その類の人物が輩出される土地だったのだろう。

1590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/12(火) 22:08:27.24 ID:03WIxrK9C
信州岡田村の滝蔵は、幕末期の信州を代表する任侠親分である。
この岡田村を筑摩軍岡田村(現・松本市)とする向きが多く、『長野県警察史』なんかは
そうしているが、
実際には更級郡岡田村(現・長野市)の方が正しい。共和とかあの辺だ。もともとは
「岡田焼」という陶器で有名な場所なのだと言う。

滝蔵の動向に関しては『東海遊侠伝』や『相之川又五郎』が有名だが、
異色なものに役者の三代目中村仲蔵の記した『手前味噌』がある。これは滝蔵の飾らぬ様態を示す
好著である。
が、同時代の記録として絶対に外せないのは国文研の「真田家文書」に蔵された嘉永2年の
「無宿滝蔵追払後中野役所横行ニて公辺御伺一件」という古文書である。

内容はかなり彼の真実に迫るもの(と言っても嘉永2年なので、前半生だけ)、
ただものすごく長く、繰り返し表現が多いので、難物ではあるよ。

1591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/12(火) 22:20:15.58 ID:03WIxrK9C
さて、このコロナの収束時期に当たって、入館の際にチェックシートをやらせて、
その中に大真面目に職員が「本日体調に不調はありますか? ある/ ない(「ある」の方は申し訳ありませんが
ご入館をお控えください)」というアンケートをやらせる館は、
文句なく「何も考えていない博物館(郷土館)」である。
いわゆる上からの「やってる感」だけ。
またそういう館に限って、理不尽に急きょ閉館したり、資料閲覧を断ってくるが、
それも全部理性ではなく、
上の「やってる感」を補強するためだけである。

現代日本だから、まあ潰れることはないだろうが、みんな職員(非正規・バイト含めて)
死んだ目をしていらっしゃること。
もちろんこういう処の研究は「当たり障りない」程度。
職員が飛び込んで行って本当に必要な民俗や、歴史的特徴なんか誰もやりはしない。
もちろん地域の任侠研究なんて、やるはずもない。

規則でがんじがらめにしたら、人文学の研究なんてできるわけないだろう。
研究(探求・探訪と言い換えてもいい)の基本は「遊び」「好奇心」である。これは絶対。

1592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/14(木) 23:03:26.36 ID:Sp/K9nChB
Yakuza wikiに野田一家の項が立ち、それを見ていくと、
津島伝右衛門という人が祖として出る。さらに
野田盲重、
起喜右衛門と続く。

伝右衛門は元相撲取りの親分、野田と起は、愛知、岐阜のそれぞれ村名で
起(おこし)は宿だったはずだ。

保下田の久六は、実はこの起とは縁の深い人で、母親がここの出生で、久六自身も
「八尾ヶ嶽宗七」の名で相撲取となるまでを、この近辺で過ごしている。
だから、この辺りの任侠のことは非常に興味深い。
それにしても津島伝右衛門、盲重、まして喜右衛門なんて、、、知らなかった。
まったく見識には度肝を抜かれる。とともに、やっぱり起や一之宮近隣の任侠史料研究・探訪は
絶対にまたやりたい。なんとも素晴らしくいい風土の場所だ。

なお、古文書読解で、かならず誰でもお世話になるかの碩学・林英夫先生は、
起宿の宿役人の家の出であられたはずだ。
資料館だかに行ったときそう聞いた。

1593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/15(金) 00:51:30.22 ID:ogPiD+BD0.net
さあ、一緒に語ろやないか
【昭和極道史】村上和彦総合スレ【修羅の劇場】
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1377447075/

1594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/15(金) 00:51:30.23 ID:ogPiD+BD0.net
さあ、一緒に語ろやないか
【昭和極道史】村上和彦総合スレ【修羅の劇場】
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1377447075/

1595 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

1596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:39:10.63 ID:NzEN0WHC7
秩父の新井佐次郎という人は、元「秩父新聞」の編集長を務めた人で
多産な作家。非常に面白い本をいっぱい書いておられる。といって1924年の
お生まれだから、もうご存命ではないだろう。
『秩父西谷老譚』や『秩父事件の妻たち』なんかはとても面白い。
「退職して暇になったから、一丁郷土史でもやるか」と言って
江戸時代の風土記や、既存の研究本を丸写しにする輩とはまるで違って
オリジナルに「自分の記録して伝えたい」ものを書く、というスタンスの本当の郷土史家だ。

秩父事件に田代栄介に代表される「侠客」が多くかかわることは、今日ではよく知られている。
しかし、秩父に生まれ、秩父の歴史を調べ、しかも筆も研究眼力も優れた新井氏に
よれば田代はいわゆる「博徒」ではなく、これはその時期(明治17,18年)丁度
行われていた博徒狩りを利用した監理の策略だとしている。

1597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:50:01.38 ID:NzEN0WHC7
これが実際に官吏の策略で、田代を「博徒親分」に作り上げたのか、
いや、実際に田代は「博徒親分」だったのかは、
決着はつかないだろうが、
(私個人としては「博徒親分」だったろうと思う。甲州宇津ノ谷の伝右衛門の様に「名主」で「親分」と言う人は多いから。)
氏は天下の長谷川昇氏の『博徒と自由民権』にも「秩父事件の頭=武州博徒」としている点に攻撃(批判)を当てている。
しかし、この批判も上に書いたように、筆の立つ、しかも地元を隈なく知っている氏のものなので、
「なるほど」と思わせるのである。

だが、それを置いておくとしても、むしろ端役として、管理の側に立って、事を収めようと腐心した
玉川金三郎(仲金三郎、仮名・中敬助)や浅見岩吉の動向や博徒酉蔵(小林酉蔵)のことを、サラッと当たり前の様に
出すあたり、秩父を完全に抑えている人の凄みが出ている。

今日、地元でも田代栄介=博徒親分となっているが、新井氏が言うのなら、一考の余地があるように思えるのだ。

1598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:55:56.83 ID:NzEN0WHC7
ながなが書いてしまったが、本題を言うと、
新井佐次郎氏の一番すごい書き物は、『埼玉史談』に昭和52年(1977)に書かれた
「秩父事件と地芝居」(『埼玉史談(第24号、2号)』であると言っていい。
これは凄い。
しかも他の本に収録されていないので、その号(第24巻、第2号)を見るしかない。
東京都府中市の比留間一郎氏の書き物(「論文」などと言うと失礼だ)以来の
すげえなこれ!と思う書き物だ。
本当に昔の研究には、たまに凄まじいものを見せつけられることがあり、頭が下がる。

1599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 23:11:26.65 ID:NzEN0WHC7
昔、子母澤寛は彰義隊か、何かの小説の中で、「下手に学のある人間は土壇場で意気地が無い」とか言う
台詞を書いていたが、その通りだろうと思う。
今日、大学に入って、学士、修士、博士と進んだ人は、その過程を終了するのが如何に苦しいのはわかるが、
それゆえに「自分の興味が向く研究」などはできず(やらず)、もっぱら世間や恩師を通じた「学問世界」が認可する
研究をやらざるを得なくなるようだ。
まあ、収入とか考えれば仕方ないのだろうが。
そんなだから、結局、学歴の高い先生方より、「興味・情熱」だけで動く一般の研究者(道楽者?)の書き物の方が面白いし、
各段に有用、後に残るものとなる。
だからまあ、つまり、1152で言った、足を使って調べて世に出す(何の得もないだろうに!)植田憲司氏の様な
人がいてくれることは、これは日本の歴史全体にとってすさまじく幸運なことなのだ。

1600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:23:55.00 ID:Sir2ePkkx
東京都武蔵野市の『武蔵野市史(続資料編十、境・秋元家文書)』(武蔵野市、平成一七年)
の中に、「関野新田陣屋三之助 並家内一同乱防人覚」という史料が掲載されている。
慶応三年七月のものだ。

三之助の養子菊五郎(小川村力蔵の忰)、境新田の留五郎(鍛冶留)、同村長蔵(後の新橋長蔵か?)
の三名の若者が素人バクチで「いかさま骰子」を使ったのがばれて、土地の若衆に
袋叩きにあった。(この時三人は刃物を抜いて応戦したようだが、多勢に無勢、散々な体で取り押さえられた。)
これで事が終わるかと思いきや、若者たちはエスカレートして、三人の保護者に当たる
陣屋三之助に「一言、詫びをいれろ」と強気な姿勢に出たのである。
元・道案内の田無の辰五郎は「これはまずいことだ」とすぐに事の鎮静化を図るが、若者衆は聞き入れない。
結局彼らは数を頼んで、関野新田にある陣屋(もと、代官の「陣屋」を三之助一族が受け継いだ)へ押し寄せたのだが、
そこには三之助はおらず、その娘だけがいて、要領をえない。

1601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:31:24.65 ID:Sir2ePkkx
三之助はこの時「上石原」に借家していたそうで、若者衆は使者を遣わし、
三之助からの「わび状」を得ようと、しばらくそこで待機したのだが、これが裏目にでた。

「断る」との「破談の一言」が戻った使者の口から伝わる間もなく、
当の三之助が鉄槍、脇差、さらに種子島(銃)で武装した一団(五十三名)を連れて、若者衆の前に現れたのだ。
これを見た若者衆は自分たちが「やりすぎた」ことを悟ったが、後の祭り。
そのまま「杵築大社」の境内まで追い詰められ、「明日をも知れない」状況に追い詰められ、集団で震える他ない状況に追いやられる。

1602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:46:26.72 ID:Sir2ePkkx
さて、この事件を聞きつけ、田無寄場の道案内(岡っ引)、万吉、元吉、源蔵らがすぐ
駆けつけるが、相手は武闘派の陣屋三之助、一筋縄ではいかぬ。
ここで、一計あったのか(それとも折よく向こうから来てくれたのか)三名の仲裁人が入った。
共に上連雀の人で、「八十八」「梅五郎」そして「嘉助」だ。
とくに「嘉助」は、かの伝説の「連雀の嘉助」

この三人に道案内の説得を受けて、三之助は若集の身を開放し、代わりに博奕の貸し賃を返済させて、
一団ともども去って行った。
ちょうどあと一年で明治になる時期の、多摩地域の一村での出来事である。

ここからは、親分小次郎の帰還まで、縄張りを守りつづける必要があった三之助一党の武器の準備
と実力。素人衆であったとしても(素人衆なればこそ)舐められてはやっていけないという気迫。
道案内(公の警吏)にも対抗できる武力集団であること、などが如実にうかがえる。
加えるに古強者「連雀の嘉助」の威光も伝える好資料である。

嘉助は、かの「二つ塚の喧嘩」に参加した人物。そしておそらく・・・石井姓ではないだろうか。
無念にも全く史料がなく、墓石も見つからない。逸話の類もない。
唯一、宍戸幸七氏の書き残された『三鷹の歴史 江戸時代から昭和中期にかけて』(けやき出版、2006)には
「馬喰であった」と記されている。

1603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/29(金) 22:50:14.78 ID:nsneUVDYp
川越の幸町、蔵造りの家々が並ぶ、観光地となった今では一番繁華な
路沿いの「うんとん処」あるいは「金笛醤油店」の一角が
かつて「枡木屋」といい、
枡木屋三之助(仙之助だったか?)、鶴松という人(父子だろうか)が住居していた。
両者とも川越目明しを代表する頭で、結構ながく活躍している。
姓は小川。

この枡木屋というのは、川越領では結構広く店を構えていたようで、桶川にも
枡木屋太郎吉という目明しがやっぱりいた。そして川越の枡木屋と桶川の枡木屋は
互いに情報交換をしていたようだ。

三之助・鶴松は史料は多いわりに墓石の場所や子孫の有無がまるでわからぬ。
なにより川越において、その名が全く伝わっていない。
もっとも「川越目明し」の研究自体まったく無いというのも問題なのだ。

1604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/29(金) 23:03:28.58 ID:nsneUVDYp
関東取締出役が文化二年に出来て、領界関係なく犯罪者逮捕に踏み切れるようになったうえで、
それを円滑に用いるために、関東には改革組合村という、村ごとの連合組合が
出来るわけだ。
近場の村40〜50ケ村を、「寄場(=一番利便の良い村、あるいは宿)」を中心に一つの組合村にまとめ、
その上でこの組合村を関東取締出役に統括させた。
これにより出役は一々村に出向かずとも寄場の役人(惣代)の元を訪れることで、40〜50ケ村の様子を
確認することが出来る様になったのだ。

しかし、川越藩は少し変わっていて、自領をこの改革組合村に編入させることを拒んだ。
代わりに多少離れていても自領だけで、川越藩独自の組合村を組ませた。
この組がどういう村によって、いくつに分かれていたのかはいまだに史料の欠乏もあって
よくわかっていないのだが、
川越藩が、この変則的な組合村の治安を維持するために、土地の顔役を「目明し」に
採用し、種々興行権を与える代わりに、その地域の安定を任せたことは事実である。
もちろんここで目明しに採用された者は、地元の侠客たちである。

1605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:06:28.36 ID:rW2gpbt91
私など幼年期には、当然携帯やスマートフォンなど無い訳で
今の10代、20代からしたら「どうやって生きてたの?」と聞かれそうなものだが、
その頃上に見ていたお兄さん、お姉さん方もそんなものなくても十分生き生きと
次代の最先端を生きていた。
つまり、機器がなくったって十分充実した、掛け替えのない最上の時間を人間は生きれるのだ。
ただ転換期というのはあるもので、そこでより良い(と思えるような)技術や機材・発明物に
乗り換える、というのは時代の常である。

紙の出現や、あるいは書き文字の出現、そして「書き文字の学習」なんかが生まれた時は
まさにそうで、「そんなもの、俺はいらねえや」という人間も多くいただろうが、
「次の世代を生き延びていくために必要だから」と無理強いして学習させられた者もいたのだろう。

1606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:23:25.63 ID:rW2gpbt91
江戸時代は、かなり早い時代に寺子屋が村落に生まれ、農民でも文字を読む学習を
することが出来るようになった、というが、
やはりお百姓は田んぼや畑を耕すことが主であり、あるいは馬を飼ったり、家畜を
育てたりであるが、つまり必ずしも文字を必要とはしない。
それでも有ると当然便利であり、実用だけでなく、やがては娯楽(歌や詩、物語、恋文、日記など)
にもつながる、かなり万能なツールであったわけだ。
これは当時の身分制度とは、全く比例しないというのも重要で、
たとえば、村の治安を守る「非人」からなる「番人」などは、文字を使って犯罪者の逃走経路や
人相、注意すべき点などを情報共有していた。彼らには「文字の読み書き」という技術は
必須であり、それゆえある種の非人は農民よりも早くにそれを習得することを必要とした。
その様にして文字を書く能力を獲得したり、あるいは村落の治安のために振るう武芸を磨いた人々が
ただ生まれ落ちた場所、というだけで差別の対象となってきたことは、どう贔屓目に見ても
江戸時代の悪習である。
そういう意味で刮目させられるべき凄い史料は、やはり
埼玉県の部落問題関係史料集『鈴木家文書』(埼玉県同和教育研究協議会、1977〜)である。

これを刊行した人々には本当に、いくら敬意を表しても足りない。
(なお、この史料には大前田栄五郎の手配書も出る。)

1607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:35:53.90 ID:rW2gpbt91
ところで、大前田栄五郎が、初代・相ノ川政五郎とのいざこざから「勝五郎」
と名を変え、「尾張の久六」親分の元で庇護されていた時期を、桂玉の話だと
「42歳」の時と記している。つまり天保6,7年ということになる。

保下田の久六は、この時代、まだ「八尾ヶ嶽惣七」にすらなっていないので、
当然「久六」であるはずがなく、
大前田栄五郎をかくまった「尾張の久六」という親分(非常によくできた人)は
保下田の久六とは別人ということになろう。

あるいは、この「尾張の久六」親分の後を継ぐと言う意味で、惣七(宗七)は
「久六」の名を頂戴したのかもしれない。例証することはかなり困難であるだろうけど。

1608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:07:17.70 ID:w1BPUIVEE
小金井小次郎子分の「矢端の藤蔵」について、ようやく少しわかった。
どうやら本名は高橋藤次郎である。別に藤五郎、藤蔵とも名乗った。

上でも書いたが、安政3年の古文書だと親分小次郎が遠島になった後の賭場を守り、
その上がりを義理堅く小次郎の元へと送っていた。
しかしそれほどの位置にいながら、その後表立って自分の勢力を拡張した様子もなく、
盛名を聞かない。
盛名を聞かない、ということは、要するに目立つような暴力行為や賭場荒らし、勢力抗争を
しなかったということなので、翻って「よくできた人」だったということになるだろうか。

1609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:18:01.88 ID:w1BPUIVEE
三鷹の牟礼というところにある名刹真福寺には、境内にバカでかい(失礼…立派な)題目塔が建っている。
これは天明5年(1785)に多摩川の大氾濫が起きて、多くの人命が失われたことから
ここの住職が法要を初め、二十代目の日真さんは天保5年(1834)に職について初めて法要に加わり、
そこから50年目の明治16年に「50回」を祈念して、この題目塔を建てたのだ。

これを建てるに当たり、寄付を募るのに尽力したのが藤次郎、すなわち矢端の藤蔵だった。
だから彼は多くの人名が刻まれる台座の真っ先に「篤志者」として名を入れている。個人でも金五円、無縁の人々のために
出している。そして台座に多くの高名な侠客が名を出すのは、藤次郎が働きかけた故だろう。
圧巻なのは藤沢幸平こと江古田の幸平の名があることで、
その他にも中野の江川平吉、境村(新橋)の谷合長造、小島分の杉山米吉、野崎の岩城藤五郎、高井戸の
鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前が、名主や村の有力者と共に台座に見ることが出来る。
極めて貴重な史料である。

1610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:24:27.06 ID:w1BPUIVEE
さて藤次郎の墓は、地元の墓所にも菩提寺にもない。
一族がひょっとしたら絶えてしまったのかもしれない。しかし、この題目塔には16名の人の
戒名が記されており、おそらくこれは50回を記念して
あるいは親族の供養、あるいは逆修(生前に戒名をもらい法要すること)として
戒名を入れてもらえたのだろう。
よって、法要を行ったその日(明治16年、3月5日)、
まさにその日に法要をされている「浄山信士」(たったこれだけのシンプルな名!)
、この人こそが藤次郎本人であると考えたい。

1611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:25:30.16 ID:w1BPUIVEE
「…鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前が、」→「…鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前を、」
に訂正

1612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:36:27.04 ID:w1BPUIVEE
ところで、皆木繁宏氏はこの「矢端の藤蔵」を「八幡の藤吉」と同一人物である、
としている。どういう根拠があってそう主張するのかはわからないが、皆木繁宏氏が言うなら
まず、そうなのだろう。(なにしろ昭和40年代に、彼は聞きとり調査をしているのだ。今の自分のような好事家には
もう手も出ない時間差で情報を入手しておられる!)
八幡は当然、「府中八幡宿(現・八万町)」

この「八幡の藤吉」という人は実在の人で六所宮(大國魂神社)神主猿渡家の日記の中にも
博奕打として名が現れる。(弘化2年あたり)
更には子母澤寛が『国定忠治』の中で藤屋万吉の代わりとして登場させている。

本当に矢端の藤蔵が八幡の藤吉かどうかは、今のところ確証は見つけられない。しかし
藤次郎が小金井小次郎遠島後に縄張りを守ったと言うのなら、遠い矢端から府中宿内の八幡宿へ移住していたことは
十分にありえる。

それよりも大事なことは、これほどの下働きをしながら、この人は自分の名を後に残すような
示威行動をしなかった、という事実だ。いろいろあるだろうが、やはり矢畑の藤蔵は一廉の人物だ。

1613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:48:23.84 ID:w1BPUIVEE
今初めて、「変換」の関係から「矢端」と「八幡」が「ヤワタ」で重なることに気づいた。
まさか皆木先生、これで藤五郎と藤吉を同一人人物視したのでは・・・ないですよね?

1614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/09(火) 23:48:56.49 ID:daPINxzb+
東京都町田市相原の「大戸(上相原村とも言った)」には、上でもいくつか書いた
大戸の万次郎の供養碑がある。
明治九年、施主は子分(弟分?)だった藪柑子こと、八木幸次郎。
万次郎は別に下川尻の万次郎、通称「船萬」とも「砂萬」とも呼ばれ、
子分に日連の伊之助や荻野の佐吉を持った。(佐吉は荻野陣屋焼き討ちで知られる鈴木佐吉な)

子分連が強盗を働いたため(あるいは万次郎自身もか)、明治四年あたりにつかまり、
流刑先で亡くなる。明治9年。墓はないが、この供養碑だけがある。
大戸一家と呼ぶべきか、川尻一家とよぶべきか、それとも跡を継いだ幸次郎の居住区から
中沢一家と呼ぶべきか、いずれが正式かはわからぬし、いずれ小勢力であるが、
黒駒勝蔵子分らが橋本宿の平野屋亀吉の所に厄介になり、ここに仲間を引き連れてこようか、
と言う時に、この万次郎が先頭に立って平野屋と出入りをし、結果的に、この介入をふせぐ。
だからやったことの大きさは相当評価に値するものなのだ。この敗戦から黒駒の子分らは平野屋らと船で
伊豆へ逃れていったと言う。

明治に入って、小仏の健次郎は、「国定の子分たちが武州に入って来るのを、八王子近くの任侠が協力してふせぎ止めた」
との逸話を三田村エン魚に語っているが、健次郎の年齢からすれば、これは「国定の子分」ではなく、
「黒駒の子分」の方が正しいだろう。あるいは、この時の万次郎の出入りがそれなのかもしれない。

1615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/09(火) 23:55:18.51 ID:daPINxzb+
大戸の万次郎と橋本&黒駒の党の喧嘩は慶応2年4月10日のこと。
場所は今のところ不明。

1616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:02:40.25 ID:QwG0VeZDk
信濃音五郎は長野県小海町の侠客で、上にも挙げたような里謡が伝わる。
黒駒勝蔵の兄弟分で、『東海遊侠伝』に文久元年、二年に「勝蔵が甲信の境にとどまって周辺で略奪をしている」
と書かれた時期には、この音五郎の所に厄介になっていたのだろう。

他にこの時期、黒駒の一党が潜伏したと、候補にあがる地は、若神子の弥十一家や宮之脇一家、上手一家。あるいは信州斎藤一家。
一方でこれを追い散らしたのは稲荷山に移住していた目明し・岡田の瀧蔵。

小海町史には信濃音五郎の本名(別名?)なども書かれていたが、追跡調査はまるでなく、ここでも
すでに当時の古文書群(とくに日記、「五郎兵衛日記」)などは散逸してしまい、
もう無いとのこと。
(だからそういうの、町史や市史が終わったからと言って、やたらに亡くしてしまうなよ。
お願いだから。いくらでも頭下げるから、見せてよ。)

1617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:33:10.60 ID:QwG0VeZDk
市町村で持ってる古文書が「閲覧不可」というのは、まあ腐るほどある。
「まだ見せられる状況ではない(修復・裏打ちをしていない)」なんて、よく聞くが、
そういう所は、「十年前もそう」、そして「十年後もそう」なのである。
ましてヌシみたいに居座ったバブル時代からの遺産のような学芸員がいる場合、
「ウチはそういうサービスはしていません!」なんて一声もよく言われる。
だけど、これで退がっちゃうと、相手の思うつぼで、一生その史料はみれないと思う。
かといって、突貫しようとしても
ダメなときはダメだ。(それでも、やらないよりはいい。)

だから、何かを求めようとする時はある程度、対立を辞さない、としなければならないときがある。
それをすると、後になって、「如何にも自分が理不尽な奴」と自分を責めるときもあるし、
他からも煙たがれるが…

かつてイギリスの演劇演出家ピーター・ブルックは、「善意的で寛容な人間には、何も生み出せない」
との名言を残したが、
その通りで、
時に「不寛容」であることや「非善意的」であることが、研究者・探訪者・創造者であるためには
ある種、必須な特性であるのだと、私は思う。

1618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:50:03.23 ID:QwG0VeZDk
これは体制に立って、閲覧希望者を「拒否する」ような「不寛容」、「非善意」ではなくて、
逆に、公に対立してクレームし続けたり、聞き分けが無かったり、
足掻いたり、時に喧嘩腰(攻撃的)であったりといった技法を、「個人研究者」
が組織に対してすることが、(時によっては)大事だということを言いたいのだ。

1619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/14(日) 22:08:06.31 ID:o1Cqg1Zvv
観音寺久左衛門

1620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/14(日) 22:19:05.87 ID:o1Cqg1Zvv
7年も前に同じのを書いているな・・・
誰か、ずっと詳しい人が久左衛門について一言書いてくれんかな。

1621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/15(月) 22:46:00.56 ID:ZqunVepDw
さて、久左衛門に関してはネット上で、新潟の教育委員会が出してくれている
「村史こぼれ話」が史料に則った話をまとめていてくれて読みやすく、情報も信が置ける。
全く有難い。
これとは別に、地元の古老に取材して実地で情報を得た貴重なもの(と私は思う)に
「滝沢農園」さんの「新潟侠客史」がある。

久左衛門に関しては、他にも書物、ネット情報、様々あって材料に困らないが、
ひとまず上の二つがいい。

1622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/15(月) 23:00:00.12 ID:ZqunVepDw
「仕置例類集」には久左衛門の息子の勇左衛門の史実がそのまま乗っていたはずだが、
どこがそれだったか、今ちょっと書付ノートがない。(見つかったらまた書く)

それより「村史こぼれ話」で面白いのは、久左衛門が元々は「飴売り渡世人」を家業としていた
ということ。
この稼業、ただの飴売りのおっさんではなく、裏に広い同業者のネットワークをもっていりる。
初代久左衛門はこの情報網を利用して「目明し」の仕事をし、それが博徒としての勢力伸長にも一役買ったと言う点だ。

うろ覚えだが、この「飴売り」のネットワークがばかにできないと実感させられた読み物に
『信濃国松代藩地域の研究』(岩田書院)があった気がする。五冊くらい出てて全部論文集。
どこかに「飴売り」の論文があり、そのネットワークや利益の出ることに驚愕したものだ。
(思いだしたらまた書く。)

1623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/27(土) 21:42:40.05 ID:ftFvgBxZF
「素っ裸でも足袋だけは…」
竹居安五郎の記事らしいが、この角田って人は、こんなWikipediaの
まとめだけの出来損ないの文章を、よく人前に晒せるものだな
末尾の「参考文献」すら不十分だというのに

1624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/27(土) 22:03:36.16 ID:ftFvgBxZF
杉浦日向子氏は本当恐ろしい。
簡単なエッセイを手に取って、頁をめくってみても
本当にその時代に生きていた人が飛び出て来たみたいにすら思わされる。
江戸時代の知識が五体に沁みついた人が切々と眼前で語ってくれるような錯覚を覚える。

一方で現代漫画家としての才能(これは我々の時代の人として)も抜群で、
凄まじく取りまとまった短編を残してくれた。
もうこんな人現れないんじゃないだろうか。

残してくれた作品を、本屋で見る度に買い、家に帰って読むたびに新しい知識と
新鮮な驚きと、新たな学問的切り口の端々を教えられる。
ほんとにもう圧倒的にすごい。

1625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/02(木) 22:58:48.89 ID:NrrJjYUq3
大黒屋光太夫は文政11年(1824)に亡くなるわけで、
江戸では後期の始まりくらいになる。
別段「侠客」であったわけではないが、彼の生き様はちょっと類例がない。
もともとは伊勢の廻船問屋だが、嵐によって漂流してロシヤへ着き、そこで過酷な運命を生き延び
ラックスマンの協力のもと、後年、エカチェリーナ二世に謁見して帰国がかなった、
という奇跡のような人生を送っている。
途中異郷で仲間たちが死んでいくわけだが、光太夫は生き延び、上の様な帰国を勝ち取る。
彼の生涯は当時(江戸時代)から話題となり、以降、多くの書物に書かれたわけだが、
やっぱり凄いのは
井上靖の『おろしや国酔夢譚』だろう。(吉村昭先生の方が事実には近いらしいが、これは次点とし、ここは井上を採りたい)

さて『おろしや国酔夢譚』、原作も素晴らしいが、「映画」もまた良い。
といっても、ほとんど最後の場面での俳優の妙によるのだが、
緒形拳の扮する光太夫が、ようよう叶ったエカチェリーナ二世との謁見で
「そなたの国の歌を歌ってみて欲しい」との要求に答え、歌を「吟じる」場面、そこに全てがもって行かれるのだ。
(このエカチェリーナの要求や、それに答えた場面は原作には無い)

「なごりおしや、さらばよと、言うよりほかは涙にて・・・」
とにかく緒形拳の演技が凄すぎるのだ。このわずか3分ほどの場面で、この映画のみならず原作、
ひいては大黒屋光太夫の存在が、印象をもって残るに至ったと言っても過言ではないだろう。

1626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/03(金) 23:38:31.25 ID:PAVyrGqqm
こりゃあすげえ戒名だ、という博奕打ち親分の墓石を見つけたりすることが
続いているが、どこの誰それさんで、苗字は何。まして戒名を書きつけたりすることは
さすがにここではできんので、それは一寸残念だ。

1627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/03(金) 23:43:38.91 ID:PAVyrGqqm
普通墓石の戒名に「侠」とか「奕」とかは入れないものだ。
また、明らかに「勇猛」とか「義理」が間に一文字入って離れていてもそれだとわかるような
戒名も多々ある。昨日見つけたお墓は、「博奕」の二次の間に「雲」が入っていて、
さらに「道」と続く。(これはほぼ言ってるようなもんだな)
なんて洒落た親分の戒名だろう。本人がつけたのか、施主が付けたのか。それにしたって豪儀ってものだ。

1628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/05(日) 22:22:59.55 ID:3gKZ/Q7vH
アメリカの小説家マーク・トゥエイン(本名サミュエル・クレメンズ)は
1835年生まれ。日本で言えば天保6年だ。亡くなったのは1910年だから明治43年だって。
(黒駒勝蔵が1832年の生まれだ)

『トム・ソーヤ―の冒険』なんかはアニメにもなっているので、日本では児童作家のように思われてるかもしれないが、
とんでもない。
『ハックルベリー・フィンの冒険』なんかは、笑いも交えながらすごいシビアな内容が書かれており、
やたらに人が死ぬし、他殺体は川上から流れてくるし、撃ち合いでの殺人も多数描かれる。
ハックと黒人逃亡奴隷のジムが「自由州」を目指してミシシッピ川を
筏で流れてゆくなんて主題自体が、藩領を逃亡して幕府領へ逃げる無宿のそれを彷彿させるし、
そのまま男伊達を売る「Man(侠客)」なんてキャラクターも登場する。
トゥエイン自体、決闘騒ぎから州を経て逃走してきた、という履歴を有しているのみならず、他の
短編にはまんま「博徒」を扱った作品も多々存在する。

洋の東西を問わず、博徒・侠客と呼ばれる同じような種類の人間が、同じ時代に存在していたことは、
本当に興味深い。
なお、トゥエインの文はヘミングウェイに言わせると、アメリカ文学全てのお手本とされる文体、とりわけ
『ハックルベリーフィンの冒険』はその最高峰なんだと言う。

1629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/07(火) 19:25:16.98 ID:vvlYyArzl
現代語訳 勤王侠客 黒駒勝蔵
橋 修(著/文)
発行:敬文舎

紹介
富士急行グループの事実上の創業者であり、政治家で文筆家でもあった堀内良平(1870〜1944)が、
故郷山梨県黒駒村出身である勤王侠客 黒駒勝蔵の、謎に包まれた生涯を著した『勤王侠客 黒駒勝蔵』を、
東京女子大学教授の橋修が現代語訳。勝蔵とは、いかなる人物だったのか? 清水の次郎長との関係は?
勝蔵の謎に包まれた死の真相とは?
堀内良平の綿密な調査に基づいて、勝三の生き方・死にざまをわかりやすく現代語訳した一冊!

目次
前記
 甲州の生んだ勝蔵
本記
 大侠の生い立ちを見よ
 勝蔵を立ち上がらせた動機
 大侠一躍檜舞台へ
 情義に生きた勝蔵
 問題の人 石原先生
 大侠は大侠を知る
 颯爽たる勤王武士
後記
 信念に殉じた生涯

黒駒勝蔵を弔う辞
解説・年表

著者プロフィール
橋 修  (タカハシオサム)  (著/文)
1971年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了、博士(文学)、
東京女子大学現代教養学部教授。
主要著作は、「西保周太郎」「黒駒勝蔵」
(高橋敏編『アウトロー―近世遊侠列伝』敬文舎、2016年)、
「特撮映画技師 松井 勇 伝
 ―日本映画界最初期の特撮技術の開拓者(一)(二・完)」
(『東京女子大学紀要「論集」』69-1・69-2、2018・2019年)、
「引札の様式論的考察―国立歴史民俗博物館蔵『懐溜諸屑』
 と大阪歴史博物館蔵コレクションの比較検討を中心に」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』222、2020年)
などがある。

1630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/11(土) 00:02:19.69 ID:hPWPCDMxq
春は馬車に乗って
@jounalduvoleur
·
12月9日
地方の図書館は何をやらせてもダメ。
駅から遠い。
蔵書がない。
検索機がない。
職員のやる気がない。
郷土資料のキャビネットになぜか鍵がかかってる。
鍵開けてもらっても当然蔵書はしょぼい。
そのくせお局みたいなババアが訳のわからないルールで邪魔してくる。


↑は全くその通り、ものすごく納得できる。
特に
「郷土資料のキャビネットになぜか鍵がかかってる。
鍵開けてもらっても当然蔵書はしょぼい。」
の個所は全くその通り。

「七千万回”yes”を言い続けたい。よくぞ言ってくれた。

1631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 21:53:10.44 ID:OpePIZTCl
次郎長子分28人もかなり怪しいものだが、
とりわけ追分三五郎は昔から、神田伯山の創作だと言われている。
しかしこれ追分羊羹で有名な、清水の「追分」を名に背負っているのかとずっと思っていたのだが、
何と今日では、信州追分宿(軽井沢)にされているそうだ。(映画の影響らしい)
でも、これは虎造の語りを聴けば、やっぱり清水の追分としか思えんよな。

1632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 22:11:23.75 ID:OpePIZTCl
急に思い出したが、
以前愛知の御油へ行った時、生涯学習課(市によって文化財課となってたり生涯学習課
となってたりする)で、御油の玉吉について聞いたら、地元で調べていた方がいたそうだ。
連絡先を伝え、あとで連絡しますと言ってくれたのだが、
もう何年も経つが、ついぞなんも来ない。
(その時は有名な御油の松原の片隅を借りて、一夜泊まらせてもらった)
これから先なにか連絡があるのだろうかなあ。

かと言えば、そういう小さなリクエストでも、律儀に情報をくれる所もままあるから
世の中は面白いものだ。
そういう所(というより人)にはひたすら頭を下げる。

群馬の高崎の学芸員の先生、これは女性の方だったが、ちょっとした電話で質問しただけなのに、
封筒一杯の史料を送ってくれた。
どこの馬の骨とも知れん自分のような者に、この対応。
ありがたくて涙が出そうになったよ。

1633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 22:27:25.25 ID:OpePIZTCl
甲州道中上野原宿は、当然大事な場所。
しかし上野原市史(町史?)も相当に昔に編まれたもので、それ以来
全く地域研究が無い。やや遠いが隣の藤野・相模原市に『石老山』を出してる
すごい郷土史団体がいるが、メインで上野原はやらない。
この地域の古文書類はみんな市役所の文化財課が保管したままだ。

市内(宿内)「赤井戸」には、かつて八郎という人がいた。嘉永年間のことだ。
ここは大工がよく輩出されたから八郎もそういう人だったのかもしれない。しかし、いずれにせよ
この宅に大場の久八が泊まり、匿われていたことは事実だ。ほんの二、三にちではあるが。

後明治になって久八配下(とも言うし、小仏一家ともいう)上野原の伊助という親分が出た。
もちろん地元にのこる逸話・史料はない。
小仏の健治が転居して開いた遊郭があったのもここだ(関山遊郭というのがあったわけよ)。
でもそれもわからない。
本気になって市を再発展させたいのなら、少なくとも古文書史料は表にだし、
市民で郷土の歴史を(博徒・侠客に限らないでいいから)追跡していかなきゃだめだろうよ。

1634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/14(火) 07:36:58.65 ID:SEk11IoB3
1632はまちがえた。
玉吉ではなく、「御油の源六」の方だ。
なんでも御油音頭というのに「駿河屋源六」という名で出るらしいが、
それ以外はわからない。
そもそも御油音頭自体の歌詞がわからない。

駿河屋源六は問屋場の人足口入稼業のようだが、
たしかにここは宿場であるのだから、それはありえる話だ。

1635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/18(土) 23:17:51.15 ID:fuz2zMgSD
歴史学で、「交通史の神様」と言われるその名も偉大な児玉幸多先生は、
信濃国更級郡稲荷山の生まれだとのこと。
交通史というのは、五街道のあらましや、当時の状況の詳細な復元、旅籠屋が何件、問屋場がどこ、
といったことから、遊女屋の件数、その内容、つまりはサービスの仕方、しきたり、ひいては宿場での博奕、
誰が親分格か、まで幅広くまとめてカバーする文野である。
ここを誰よりもよく知っていた。
で、その泰斗が稲荷山の生まれであると言うなら、せめて故郷の郷土史を一つは残しておいて欲しかった。
児玉先生なら絶対地元の侠客である「岡田の瀧蔵」の史料や逸話など知っておられたに違いない。
あるいはどこかの著書に出てる可能性もあるが、いまのところ見つかっていない。

1636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/18(土) 23:32:28.62 ID:fuz2zMgSD
問屋場の人足たちがしょっちゅう博奕を打っていたことは
例えば歌川芳艶(国芳の弟子)の文久3年「程ヶ谷(保土ヶ谷)」に
まことにあからさまに活写されている。
(「貨幣博物館」のHPのどこかで見れる)

よくよくこの「人足部屋」で博奕が行われていたこと、ゆえに人足を束ねる頭(親分)は
そのまま博徒親分・侠客として力を持つに至ったとの話を耳にするが、
この点で文献史料から実証できるのは和田島の竹次郎、すなわち和田島の太左衛門だけだろう。
彼は江尻へ出てそこの人足調達に力を示した。それゆえに親分格となったのだ。

正直言って太左衛門は、この地域でもっと突っ込んで研究されて良い人物だと思う。
なんで上田から昌姓になったかもよくわからない。

1637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/19(日) 21:40:45.06 ID:KRVgtplyk
竹居吃安の四天王の内、一ツ谷(一ツ家)の浅五郎は割合に史料が残る。
古文書に名前を残す。
(もっともこの人の"実在性自体"は植田先生が初めて知らしめた)

十人衆では、芦川の政五郎は、まず間違いなく芦川の政右衛門事、人斬り政右衛門。
年齢、姓は今のところ不明。ただし実在は確認できるし、逸話も残る(境川村誌)
最近わかったのは鶯宿の武兵衛。
姓はわからぬが、生年は文政6年、明治二年に相次ぐ博奕の罪で捕縛になっている。

1638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/20(月) 22:11:17.56 ID:nveL+2ltt
例えば、今現在、某芸能人で昔はそこそこ名の知られた人が、
20歳も年下の妻を得て、しかし彼自身は働かず、高い志だけを誇り、
「煙草も辞めない」と臆面もなく言う。結果的に妻は愛想を尽かして出てゆき、
自身も困窮する。以上の様なことが、紙面、TV媒体のほんの底辺を飾っている。

確かにこの人、斬り合いはとても出来ない(モノにならない)だろうし、意気地もない。
だから多々違う面もあるだろうけど、
侠客伝に出る人物の中にも、同じくらい、世間様からすれば唾棄すべき人間、
配偶者に苦労をかけ続け、子供にも申訳けが立たないような人間は腐るほどいる。

なんぼ否定されてもこのことだけは事実だ。
だから手放しで「侠客は日本の宝だ」なんてことは言えない。
ただ死ぬ間際になって、「短所よりもやや長所が勝ったか」と言える程度の人間。
それが侠客のありていに見た本質なのかもしれん。

1639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/23(木) 23:33:00.25 ID:0nBmo+2N/
北条の清作

1640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/27(月) 22:41:13.96 ID:TglZ7KnwV
静岡県伊豆の国市の下田街道沿いに「北条」と言う所があって、
そこが清作の出たところだ。
大場久八の子分の内でも一番子分と言ってもいい、と言う人もいるとか言うほどの人だ。

久八の死後は、御存じの様に、三島の玉屋佐十郎が継ぐが、本当なら清作が継ぐはずだったと言う。
それほどの人物であり、韮山、大仁、修善寺方面全てを差配した。
惜しむらくは久八より先に亡くなってしまったことだ。(M25/9/30)
だから名は知られていないかもしれないが大物だ。

姓と菩提寺は…また馬鹿がお参りに来て、SNSに上げるかもしれんから不明としておく。
調べればすぐわかるだろう。

1641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/27(月) 22:42:52.41 ID:TglZ7KnwV
なお清作の跡目は花村の房吉じゃ。

1642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/28(火) 10:08:27.80 ID:Y5/sV+hfj
小田原の集月

1643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/29(水) 23:04:16.83 ID:KyXcvda6M
集月は、
本名熊次郎。あだ名は綿熊という。
じゃあ、なんで集月かと言えば、小田原の松原神社前に「集月」という
小料理屋を営んでいたから。
人呼んで、綿熊の集月というのだ。
大場久八の子分。
往時小田原には大安という親分がいたが、大安が失脚して以来、集月がここを収めた。

綿熊は集月に加え、富貴屋という寄席も営業していたとのことだ。
熊次郎は大正5年、78歳で没。

1644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/29(水) 23:08:23.62 ID:KyXcvda6M
集月の後は、竹亀と小常の兄弟(竹亀が兄、小常が弟)が継いだそうだ。
竹亀は元巡査

1645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:09:33.91 ID:dnc5kYmii
しつっこいようだが、
黒駒身内の「大岩」「小岩」は、
中川村の岩吉が「大岩」
成田村の岩五郎が「小岩」だ。

世間で流布してるのは(といったって、よほどの好事家しか知らんだろうが)「逆」になってるので、
注意が必要だ。

1646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:33:44.91 ID:dnc5kYmii
かなり上で、武州多摩郡中藤村でのコレラ獣のことに色々言ったとき、
三ツ木村の平十郎というのがいて、博奕打ちだって、自分は言ったけど、
どうもあれは…多摩郡三ツ木村ではなくて、入間郡三ツ木村にいた平十郎さんの方らしく、
やっぱりコレラ獣を食った平十郎さんは、普通のお百姓さんだったようだ。

1647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:41:53.78 ID:dnc5kYmii
ただ、三ツ木丹次郎っていう親分、これは確かに居る。
立川「公私日記」の天保11年8月4日の記事に出る。
上では被害にあったみたいに誤記してしまったが、それは私の読解力がなかっただけで、
どうも畿内の仲間たちと、申し合わせて喧嘩相手の家に鉄砲をぶっ放したようだ。

この他、一ノ宮万平と一緒に博奕を打っている記録もあるので、
かなり早いうちに親分として知られてた人物の様に思える。

三ツ木村は青梅街道沿いでわりと大きい。南の地域は「残堀」と呼ばれる。
この地域は「人柱」や「コレラ」など、面白い逸話が多く残る。
地元に郷土館があるのだから、もっと調べろよと思うが、前に喧嘩したから、もう期待はしていない。

1648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/07(金) 23:49:58.14 ID:RV/zu5VS2
「博徒」というのは味気ないので「博奕打」
少し格好良くて「侠客」と呼びたいのだけど、
最近思うに、
無宿   →侠客
盗賊・泥棒→侠客
人足頭  →侠客
香具師  →侠客
目明し  →侠客
名主   →侠客
村年寄  →侠客
商人   →侠客

となるようだ。
要するに侠客はどこにでも発生する。

1649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:30:51.46 ID:Psh5voKdP
正月初めだというのに、おっさん(私)は、
地域の小さな図書館に行き、思わず児童書の棚にあった「宮川ひろ」著の
『桂子は風の中で』という本を手に取ってしまい、
少し読んだら止められなくなって、しかも読みながら涙が止まらなくて困った。
(年は取りたくねえな。本当に涙腺がゆるむ)

ただ、この本、時代が昭和初期の話なのだが、
これこそ、その時代の日本だ!というのがこれでもかとリアルに描かれている。特に山村、農村。
当たり前だが、歴史は、江戸時代からいきなり現代になるわけではなく、その間に「近代」がある。
しかし、あまりに「近代」が遠いのだ。要するに想像ができない。
それにくらべれば、近世や中世は「歴史書」の上を通ってくれば見れる(もちろん本物なわけない、ストーリー化=歴史化された近世・中世だ)。

この宮川ひろ先生の書かれた昭和初期や、そのほかの心ある小説家の大正、明治
こういった本物に触れるとき、
やれ文献だ、やれ古文書からの例証だ、と勇ましく述べ立てる自分が恥ずかしくなる。
ただそれらの御本を読むだけで、ものすごい多くのことを教えられる。
かつての時代の日本の村の姿を一番活写するのは、やはりその時代を生きた経験を持つ小説家。
しかも力量も抜群だ。そして、本当に優れた書き手の多くは、
「児童文学」の中にこそおられるような気がする。

だから、子供むけの本、地元の小さな図書館、恐るべしだ。

かと言って、いいおっさんが、子供コーナーの机で読むわけにはいかないが。
とにかく気づいたら手に取るべきジャンルだ。

1650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:51:44.09 ID:Psh5voKdP
文献調査の鬼・白土晴一という映画・アニメ・映像の時代考証を務める
当代の才人がいるが、
この人が恐ろしいと思わされたのは、「文京ふるさと歴史館」について、
「安政年間駒込富士神社周辺之図」の重要さを一発で見抜き、
その中から「バクチ打ち常次郎(小川)、字名こぶ常」をきちんと探し出したこと、
正直言って、私しか知らんだろうとタカをくくっていたから、
これを指摘された時は、びびった。
氏は広く浅くではなく、広く、深く(あるいは中くらいに深く)、ものごとに精通している。

多分、本来的に「好き」なんだろう。「調べること」が。
好きを仕事にしている人は(もちろんそれゆえの苦労もあるだろうが、)
やはり強い。強い。水木しげるややなせたかし、あるいは山下画伯みたいな所へ行ける人間だ。(加えれば植田先生もそうだ。)

1651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:59:38.79 ID:Psh5voKdP
ちなみに、この常次郎、詳細は一切わからぬ。
学芸員もノーマークとのこと。

実は23区よりも多摩地区の方が、郷土の研究ははるかにレベルが高く、
層が厚く、人材も豊富である。

1652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 22:10:14.15 ID:Psh5voKdP
所沢在坂之下の寅五郎は、岡っ引らしい。
台座には子分とおぼしい名前が刻まれているが、そのうちの大部分が、
明治初期の巡査であることを鑑みれば、この人の立ち位置が
結構重要であることがわかるだろう。墓石の建立は、明治5年。

わからないのは、施主に忰の「権之助」に加えて、
上野国新田郡太田町の「西澤清八」という者の名があること。
子孫の方でも誰だかわからない。

いろいろ思うに、寅五郎の若い頃はやはり長脇差だったのではないだろうか。
上州で修行をして、十手持ちになって、そうやって故郷へ帰ってきた、そんなところだろうと思う。
田中屋万五郎の墓石にも名を出すので、万五郎の子分になって、
大和田町(新座)か所沢の組合道案内を務めた、といったところだろう。ただ子分たちは
時代もあって、新政府の警察官に採用されたのだろう。
幕末→明治という過渡期の「公」の侠客の行方を知る上では大事な人だと思う。まだまだ調査は足りないが。

1653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:16:59.42 ID:vgj0ijPio
題名で損しているかもしれないが、
竹内勇太郎氏の『甲府勤番物語』は侠客研究の面からしてもいい御本だ。

吃安親分に関しては、
竹内勇太郎の名前が出れば、増田知哉も松尾四郎も引き込む(まして高橋某や原なんざ相手にならん)
くらい、この道では詳しい。
なんしろ大正8年生の塩山生まれだからな。
読むたびに色々示唆を与えられる。

1654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:23:03.12 ID:vgj0ijPio
安五郎が「生来酒を受け付けない体質」であったとか、
あるいは「妾が四人いた」ことなどを聞き書きで記録しているから強い。
中には「賭場から戻った安五郎が山門前で長脇差を子分に渡して寺に入っていく姿や、
外出の折には無腰のまま山門まで来て、そこで待ちうけていた子分から刀を受け取って
腰にさして行くのを見た」なんて記録さえある。

妾は、竹居に一人、下曽根に一人、信州富士見に一人、伊豆に一人の四人がいたとのこと。

1655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:26:51.92 ID:vgj0ijPio
最愛の女は「とめ」と言い、
この女に吃安、ずいぶん入れあげ、賭場の上がりをこの女に譲渡した。
当時賭場でかけるものは当然「金」だが、白熱し、負けが込んでくると
「土地」も賭けた。
このおかげで「とめ」の家はたいそうな土地持ちになったそうだ。
竹内氏の本では姓や、元の夫(これは吃安の子分)の名もあるが、まあ、これは書かない。

1656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:34:05.52 ID:vgj0ijPio
下曽根の妾の話が、もし、見つけることができればいいなあ、と思う。
まずまず無理だろうが。
おそらく竹居から御坂路を通って、中道往還の脇道(あるいは本道)を通ることで、
下曽根−浅利−大塚−上野−市川大門と行くのだろう。
市川からは韮崎へ出て諏訪まで続いてゆく。途中に一ツ谷(一ツ家浅五郎の縄張り)なんかがあるのも
非常に興味深い。

1657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 22:06:07.24 ID:vgj0ijPio
『熊谷市史』ね。
今順次でているけど、全く一行も博奕打ち・侠客のことが出ない。
これって、歴史学的にもいいのか?

この地域は関東でも随一の博徒の本場(妻沼一家、田中一家、寺谷一家などなど)なのに、
ここを対象とする市史に、その動向が全く書かれないというのは、本当に、それでいいのか?

「江南町」がまだあった頃、そこの学芸さんは調べていたのだけど、今回の市史には
この方は参加されていない(参加させない)らしい。


馬っ鹿じゃねえの。

1658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/19(水) 07:07:24.34 ID:eK3HQ7UAK
すみません。また酔っていい気になって迂闊なことを書いてしまった。
市史編纂は想像を絶するほど大変だろうに。上のは完全に撤回する。
馬っ鹿じゃねえの、は自分の方だ。

1659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/25(火) 20:32:09.89 ID:maKe7Czdt
安藤正文『山梨県郡内地方の覚え書きー地域史からの学び』、アスパラ社、2022

なんということか。お亡くなりになっていたとは…
優しく朗らかで、頼りがいがある素晴らしい方だった。

本書はお亡くなりになる4日前に脱稿したものとのこと。
安藤さんは、東京都の小平市の職員で、歴史、民俗学、図書館などに携わり、
多くの素晴らしい聞き書き書物などを手掛けられた。
中には小川の幸蔵や、小金井小次郎の話なども散見した。本書でも犬目兵助と
東京都町田市の関わりなど、今後に続いていくであろう近世史の辺々を採取・発表なさっていらっしゃる。
近世、近代、地域史、戦争跡研究など、極めて充実の内容。

1660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/31(月) 22:55:18.61 ID:Azf/SeyX1
中江克己という人が「歴史人」とかいう電子書籍のような媒体で、
大前田栄五郎について、随分いい加減なことを書いている。
特に佐渡金山へ行かされていたところや、そこで役人の元で活躍したり、悪役人を
凝らしめたりしたことは「確証」の無い伝説と言い、
かと言えば「あったかもしれない」なんて、逃げ手を打ってもいるが、
看板に「大前田栄五郎」と銘打ったコラムなんだから、それくらい調べろよ、と言いたい。
佐渡に居たのは確かだよ。史料もあるし、そこから島抜けしたのも本当だ。

1661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 22:58:52.15 ID:84jpCCLZp
「まさも、さけと、わかい、おんな
で、はらお、くさらせ、とても、ぜんかい、
なし、だんだん、かんかいて、
みると、かづのこお、しろみつで、
ひやして、みれば、よくわかる、
さけは、しろみづなり、つよいから、
たくさんのめば、はらがくさり、
ます、それだから、すてられぬ、
ひとには、よく、ねんごろに、おまゑさんから、よくはなして、おくれなさい、

五郎さんおよとりに
きめたからおたのみ
もおしますやまも
ことしからはみなこして
せいだいにするから
あんしんしておくれなさい
二月五日          山本 長五郎
山おか せんせいさん」

侠客の歴史にも挙げた上の「次郎長手紙」の翻刻。今では実物が何処にあるかすらわからぬ。
しかし、次郎長の手紙は、稚拙な表現だが、簡にして要を得た文面であり、
史料的価値が高い。
これらを(翻刻でもいいから)まとめた研究があれば、素晴らしいだろう。
何となれば、それらの中からこそ、真実の次郎長本人に一番近い姿が得られるだろうから。


上は次郎長スレッドに昔書いたやつだが、あっちは無くなったようだから、
こっちにも記しておこう。

1662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:00:52.69 ID:84jpCCLZp
『東海遊侠伝』に活写される遠奕道の親分としての次郎長さんの史料は
現在、明治より前はほぼ皆無といってよい。(まあ、慶応三年とかぎりぎりのそれはあるが)
戸羽山先生が報告している安政二年の御油付近を歩行ていた手配書は、既に
行方不明であるし。

そんな中、由比宿長栄寺の「日記」と
豊川市威宝院の「住職日記」が、かなり信をおける次郎長さんの動向を
とどめた一次史料である。

1663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:01:33.89 ID:84jpCCLZp
梅岩禅寺には次郎長の墓を始め、大政、増川仙右衛門、それに都田兄弟との戦の前に
フグの毒に当って死んだ子分三人の墓などがある。加えて、若干小さいが、
清水一家を訪れていた際に急病で没した、武州高麗郡双柳の都築竜蔵の墓石が在る。
次郎長が若かりし頃、裸で武州を尋ねた時に六角棒を持って対応した兄弟分、双柳清五郎が竜蔵である。

1664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:02:26.08 ID:84jpCCLZp
誰も読んでないだろうから、次郎長と武州博徒との関係について少々
次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎
がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の
大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。
武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎なども、
まずこの人を頼み、親しく交際した。
次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるが、
どちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。
そのうちどちらの時ことであるかは不詳ながら、
万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、
平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられ
かつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。

ともあれ、万次郎の親類筋に当る高萩の「亀屋」の子孫の家に、次郎長と、なぜか
山岡鉄舟、そして末広亭の写真が今も残っている。一時は万次郎の写真も
存在したが、残念ながら現在は散逸したとのことである。万次郎の
立派な墓石(増田知哉氏が再発見した)は今も変わらず残っている。

1665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:02:47.29 ID:84jpCCLZp
黒駒勝蔵、宮島重吉(俊蔵)、大場久八、丹波屋伝兵衛、安東屋辰五郎、小金井小次郎、
などは明治以前の資料に度々名が記されるが、次郎長に関しては明治以前の資料が皆無である。
戸羽山カンが記した寺津治助の脇差を質に入れ、武州無宿金五郎と旅していた次郎長の探索書が
唯一であるが、惜しい事にこの資料の所在が現在ではわからない。

1666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/02(水) 21:36:53.63 ID:N1R6aviJ/
サンリオの辻信太朗氏が、母校の機関紙に寄せた寄稿文には、
黒駒勝蔵や祐天仙之助のような甲州博徒になって出てゆく人と
若尾一平や根津嘉一郎に代表されるような甲州商人(甲州財閥)の二派がいた、
というような内容が書かれている。
このセンシティブな人が、博徒の位置づけを十分に認識していたとは恐れ入る。
そして、おそらく自分も、その一流のうちに含まれると考えていたのだろう。

だいたいが「サンリオ(さんりお)」だし。今ではブラジル語の意味だとか、曖昧にしているけど。
当然それは方便ってやつだ。

という風に考えると、天下の「マイメロママ」の現実主義な生きざまも元をただせば、
その起源は、上の二行目三行目に行きつくというわけなのだろう。

1667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/02(水) 21:52:35.92 ID:N1R6aviJ/
このスレッドで第四番目に挙げられている小泉又次郎(又二郎)という人は、
慶応、明治、大正、昭和を生きた神奈川の政治家で、若い頃は請負家業を務め、
身に入れ墨をいれて気風のいい、まさしく侠客を地で行くような人物だった。
というより元総理・小泉純一郎の祖父と言った方がわかりやすい。
ピストルを懐中に用意して、通称「いれずみ大臣」呼ばれた。

で、この人の名の出る石碑を最近見かけたのだが、
府中安養寺に、「矢部甚五左衛門」の碑文石があり、その文面が又次郎のものだった。
当時多摩も神奈川だったので、その縁もあって記したのだろうが、それ以上に
博徒の多い府中宿と又次郎との明治期の交友の可能性も見逃すわけにはいかないだろう。
執念深く、細かく調べないと見えてはこないだろうが、実に興味深い接点だ。

1668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/03(木) 23:07:14.92 ID:B5RtLdcSB
講談の「石松代参」だと、次郎長が穂北の久六を切った刀を金毘羅様に奉納するために
石松を使いに選ぶ。
その際、次郎長は石松に「酒絶ち」を命じるのだが、石松は
「あっしは大好きな酒を飲むために博奕打ちになったのだぁ」と言って、
一歩も譲らず次郎長の命に対抗する。
本当にこんな問答があったかどうかはさておき、
お百姓さんが朝から夜遅くまで野良仕事に一生懸命な中、それが嫌で
好きな時な酒が飲めることを望んで、欠落(戸籍を捨てる)し、博奕打ちになった人間の
一番基本的な動機を、この時の石松が代弁していると言えるだろう。

しかし、一博奕打ちで、人の子分ならこれでいいのだが
「親分」になってしまうと、
それこそ堅気の百姓の中でも、一番素行が良く、勇気と機知に富んで、それでいて天命には
逆らわない、そういう「出来た」人間でなければ務まらないというところに、
大きな皮肉があると共に、「侠客」であることの本質があるのだろう。

大きな責任を背負って、その重圧の中、うんうんうなりながら、なんとかどうにかやってゆく
確かに、侠客の真実の一面なのだろう。

1669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/03(木) 23:13:39.79 ID:B5RtLdcSB
へんな文章になっちゃたけど、つまりは、親分になったら、たいへんってことだ。
下手な市井の大庄屋・大名主の旦那より、人間的に苦労を積まなければなれるもんじゃない。
このことは戸羽山瀚氏が、よく著作に書いておられる通りだ。
「侠客」とは、苦労の末に、一流の僧侶、雲水のような境地に立った者を言うらしい。

1670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/07(月) 23:05:14.97 ID:ntg7pYhWS
戸森麻衣子氏という人は文も上手いし、実力もすごいぜ。
最近、『江戸幕府の御家人』東京堂出版、2021)というのが出た。分厚い。

金も高いから買ってはいないが、立ち読みを繰り返して全体把握をしても、
これは価値のある本だ。

氏は江川代官やその周辺に関しても知識抜群で、おそらくアウトローなんかのことも
(本人は興味ないとしても)いやでも知識がはいっていると思う。
若い研究者は、目立たないままに、やたらずぬけて実力のある人もいるから、わからん。

1671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/08(火) 23:39:01.36 ID:6eFcO54Uc
石原村無宿幸次郎と「喧嘩幸次郎」を同一と書いたが、
どうも違うみたいだ。失礼した。
喧嘩幸次郎は一党に参加した越後の無宿で
元馬喰だとか。(まあ、でも同一人物って可能性も捨てきれないでいる)

幸次郎を捕まえたのを非人善九郎の手下と書いたが、これは明らかにあやまりで、
三井卯吉の手下。
日にちは嘉永2年9月29日だ。捕縛時に随分暴れ捕手は散々てこずった。

一般には10月9日甲府勤番の手によって、とされている。
下で実働する者たちの手柄が上に取られるのは今も昔もかわらないということだ。

1672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/08(火) 23:49:45.96 ID:6eFcO54Uc
もう一個言っとくと、幸次郎を追い詰めた江川代官らが所持した「ドントル筒」というのは、
当時の欧米のドントル銃とは全くの別物である。
欧米のドントル銃は小型の短銃で、画像検索するとすぐにでる。
だからこれだと思ってる向きが多いけど、
実際には長銃のゲベール銃がそれだ。
でなけりゃ「腰だめ」じゃ撃てないだろ。(御殿場の茱萸沢で江川代官手代が撃った様子を「腰だめ」と書いているが、
要するに狙いも定まらぬ間に抱えてぶっ放したってことだろう)

1673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/09(水) 20:12:35.18 ID:wMNACIwnX
両義的っていうのは善でもあり、悪でもあるっていう意味だ。
誰にとっての善で悪であるのか、という問題もあるが。

侠客の中でも目明しは、まさにそれに当たる。
不幸なことに日本の講談・小説・映画なんかでは目明し自体が「卑怯者の悪」と
定義され、加えれば「滑稽」な役回りまで与えられるが、
海外に目を向けてみると「保安官」はまさにこれに当たるわけだ。

西部劇は、ちょっと脚色され過ぎている。
と言って、いずれどの作品でも脚色はつきものなんだが・・・
スチュアート・ウッズが1981年に書いた超傑作『警察署長』に出る
保安官スキーター・ウィリスなんかは、まさにこれ。善悪両義的な人物だ。

これはドラマ(1983)のシーンだけど、
特にKKK(クー・クラックス・クラン=白人至上主義者連盟:黒人をいわれなき罪で弾圧した集団)
が丘で十字架を焼いているところに、スキーターが現れ、クランの連中が半ばビビってるところで、
さりげなくスキーターが握手を交わし、自らの差別的な視野を彼らと共有するところを示す(スキーターが敵に回る)
シーンなんて、まさに目明しの不気味さを一番示す名シーンだと思う。

このドラマ、小説を未読なら読むことを薦めるし、ドラマを未見なら見ることを薦める。
動画は探せばすぐ見つかるだろう。

1674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/10(木) 21:45:40.68 ID:KV9UdP7Lf
このスレッドだと826で、非常に慧眼な方(わたしなど足元にもおよばない)
が問屋場の大熊=江尻の大熊ではないか、と書かれていたが、
今になって、これは正しいように思えて来た。
というのも宿場と問屋場の意味がわかってきた、今になってようやくということなんだが。
いかに自分は物を知らなかったのか、と今になると恥ずかしい。

とすれば、江尻の大熊=問屋場の大熊≒由比の大熊(蒲原の大熊)といったところだろうか。
そして、『遊侠伝』の情報を集めれば丹波屋の子分(弟分)、都田兄弟の保護者、赤鬼金平の兄弟分
大場久八の甥分、そして次郎長の義兄ということになるのだろう。

1675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 20:32:06.29 ID:dlwP29/RE
森の五郎は評価も、実態も判定が難しい。
唯一わかるのは山梨の巳之助を親分と慕っていた、ということだけだと私は思う。
石松を養育した、とかは本当かどうかわからない。
かなり信憑性があるのは相之川又五郎の手記に、五郎が巳之助と「女」のことで不義理を働き、
命を狙われた時に、又五郎が救った、ということくらいだろう。
五郎自身が殺されたとの説もあれば、五郎の忰が殺された、との説もあり、
いずれ次郎長もこの人の世話にになり、終生忘れられないくらい出来た人だと回顧している。
(一木藤重がその人自身なのかすら私は確信が持てない)
A級の情報、しかも確実な情報からすれば、嘉永2年の田中の岩五郎の相良殴り込みにも大きくかかわっていた
ということだ。

いずれにせよ、遠州を代表する侠客ということは事実であり、とにかくもっと地元で調べる必要のある人だ。

1676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 21:34:18.10 ID:dlwP29/RE
他にも森の十五郎とか、五郎八とか言う人が史料(日記や古文書)には出る。
同一人物で五郎のことを指しているのかは、確証が持てない。
一方、山梨の巳之助(姓松井)は、友吉との別名ももっていたことは確実だ。
目明し、人足頭、興行師だったそうだ。

1677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 21:49:42.44 ID:dlwP29/RE
ところで同じ地方の見付には、大和田の友蔵の他に、「巳之吉(美之吉)」という
親分もいたらしく、この系統は二代くらいまではつづいたそうだ。
苗字などはわからないが、たしか『任侠大百科』にはさりげなく書いて有った気がする。
巳之助とも別人だ。
それと『磐田市史(町史?)』の史料編だかに、この巳之吉が傷害事件(殺人だったかもしれん)を起こした
記録が掲載されていたはずだ。見付も東海道の宿場なので、人足集めのための顔役(親分)が
自然と必要とされ、侠客発生の下地ができていたところだ。

そもそもが大盗賊・浜島庄兵衛事「日本左衛門」がねぐらとしていたのも、この見付宿だった。
もっとも幕末よりもはるか前の、
これは享保(1716〜36)・延享年間(1744〜1748)のことだけども。

1678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:03:11.54 ID:9hW3PcO+k
『東海遊侠伝』だと、安政6年6月、保下田の久六を殺した次郎長とその一味は
尾張から、昼伏夜行して甲斐へ入ったと記される。(すごい端折り方だが)
甲斐で次郎長らをむかえたのは「三日市の政吉」という人物であり、事績が全く伝わっていない。
ただそこで、同家に逗留していた瀬戸熊という者が気概を見込んで、以降次郎長に順ったという。
そこから一行は高萩万次郎の家に行き、良く知られるように「刀」を万次郎に預け、
研いでもらうという件にいたるわけだが、
明治になって天田五郎が万次郎の家に逗留している記録があることからすれば、ここの記述は
かなり信憑性があることにある。

さて、尾張から甲斐までの道順は定かでないが、甲斐の三日市から高萩までは、
これは明らかで秩父往還を通ったと察せられる。三日市は今でいう塩山で、青梅街道と秩父往還が交差する
場所にあたる。名からも明らかなように「市」も開かれた便利な場所だ。
秩父を通って、少し下れば吾野・飯能であり、当然万次郎の勢力圏となる。
秩父もまたおそらくは高萩一家の威勢が強かった場所だろう。(ここのところはもっと精査する必要があるが)
中金三郎が万次郎の盃を貰っていたとの説を何かで見た記憶があるが、
多分それは正しいのではないかと思う。吾野・飯能間の永田の萬福寺に万次郎寄進の水鉢もあるし。

1679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:11:25.80 ID:9hW3PcO+k
で、三日市の政吉だが、
国分三蔵の墓石の台座には、三日市場(三日市)の筒井常四郎という人の名前が
刻まれていて、これは見逃せないのではないか。

三蔵と次郎長は、ともに黒駒と争ったという共通点から盟友の間柄であり、
三日市の政吉という人は、三蔵の側の人間であったことから、次郎長をかくまったと
見て良い。そして政吉が何者かは不明だが、上記の筒井常四郎が三蔵派の博奕打であったことは
たしかなのだから、あるいは筒井が政吉の姓であるかもしれない。
この人の事績を細かく調べることは困難だろう。筒井姓というのも当て推量でしかない。
しかし、こういう雲をつかむような無謀な努力を続けてゆくことが、
やっぱり大事なのだろうな。

塩山付近なら他にも塩山藤太郎(楠藤太郎…なのかなあ、やっぱり)や正徳寺太八(根津源左衛門)
らがいるが、こういう人たちとどうつながって来るのか。

1680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:20:27.99 ID:9hW3PcO+k
それと、国分三蔵と高萩万次郎が同一人物とされ、
そうかと思えば最近は別人と否定されているわけだが、
両者の間に繋がりが無かったとまでは言えないだろう。理由は上に見たような
地理的なものだ。実際秩父往還を通ればそう遠くなく、
さらに三蔵も万次郎も十手持ちであったことを考えれば交流が無かったという方がおかしい。
これも実証するのは相当に困難だろうが、がんばれば伝承くらいはみつかるかもしれない。

1681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/21(月) 20:30:38.28 ID:ANDEHxeap
子母澤寛の『悪猿行状』(文芸春秋、1965)は良い本である。
侠客の聞き書きも多い。そのくせ割合に図書館に置いていないのである。
タイトルの「悪猿行状」は子母澤の飼っていた猿の話で、その一連ものだけをまとめた
『愛猿記』はけっこう何度も再販されている。
でも任侠研究からしたら、欲しいのはそっちじゃないのだ。
三ちゃん(猿の名前)の一連のお話は、たしかに面白く、せつなく、感動的ではあるけれども。

1682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/23(水) 21:43:10.01 ID:DbESGX7Cw
こういう事書くから嫌われるんだが、
信州、岡田の瀧蔵さんのお墓を探して、立派な寺を尋ねて
聞きこみをしたとき、上げてもらえたが、家の方が「お茶でも」というのを
目の前の老住職が「こんな人にいらん」、と言って、散々説教みたいのを聞かされたことがある。
地元じゃあ威張れるたいそうごりっぱな大徳らしいが、下手に出ているからといって、
あの対応。
俺は忘れんからな。

1683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/23(水) 21:51:02.49 ID:DbESGX7Cw
かと言えば、困り顔でありながら、過去帳を調べてくれて、(残っていれば)墓石まで
案内してくれる方もいらっしゃる。お忙しい中、どこのウマの骨ともわからん
変な来訪者に時間を割いてくださるのだ。
こういう方々のことは、思い出すだに、ありがたくて目頭が熱くなる。やっぱり
忘れられない。

世の中やっぱりいいもので、そういう方にお会いする機会もちょくちょくあるが、
最近だと相撲年寄、甲山半五郎の墓参の時だ。

1684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:30:27.30 ID:ZDD7djnXu
本はなるべく買った方が良いに決まってる。自分で書き込みや線もひけるし、
必要な時に、すぐ手元で全文を閲覧できる。
「読まなくてもいいから、ツンドク(傍らに積んでおいておくこと、いつかは読むから)だけでもしておくように、
とは優れた研究者や碩学も言う事だ。事実に違いない。
そんなわけで、最近は自分の蔵書を誇る人も少なくない。(特にSNS上で)

だが、そもそも収入の多くない者には無理だ。
中には鹿島茂先生のように、自分の資本を越えて、どうしても買ってしまうと言う人もいるが、
それはなんといっても「鹿島茂」だから笑い話にもなるのだ。
さて、そういう点で、なんと本を買わず、「コピー派」を自称する碩学も実はいるのだ。
アメリカ文学の舌津智之先生がまさにそれだ。(これは実際に当人からお聞きしたから間違いない)

同分野の研究者としても、超一級だが、
教育者としてもすばらしい人だ。品性、実力、熱意どれを文句がつけられない。
(そして多分、そういう人は見えない部分で、すさまじい苦悩・苦労を味わっているのだろう)

1685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:33:19.87 ID:ZDD7djnXu
言いたいのはつまり、史料を、丸々買ったり、本を一冊買ったりすることが
偉い訳じゃない、ということ。
自分だって、そんなことできてはいないが、
史料(が、もし手に入ったなら)、大事なことは、どれだけそれに向き合い、熱量を費やしたかということだ。

1686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:58:44.63 ID:ZDD7djnXu
全然侠客スレじゃないことを書いてしまったので、テコ入れ。

田無の増五郎=久米川の増五郎ではないだろうか。
こう考えると、
田無の徳蔵と、久米川の稲熊がともに反発したことも合点がいく。(親分が同じ)
あとは、田無宿と久米川村とのつながりがどの程度あったか、だけだ。
田無ー久米川ー所沢は公用。

加えて久米川村は、当時の史料に
「酒喰屋商渡世人多、所々悪ものとも落合不宜始末数多有之候処」
とのこと。

1687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:36:34.25 ID:W0vfTX05B
またやってしまった…
朝になって反省すると、また自分は偉そうなこと書いてしまったな、と悔やまれる。
結局は、金が無いので欲しい本一つ買えずにおる、貧しい自分のやっかみを
超偉そうにあらわしただけのもんでしかないな。上の書き込みは。


それと「田無ー久米川ー所沢は公用」は、「田無ー久米川ー所沢は公用道でつながる」と書きたかったのだ。

1688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:44:02.47 ID:W0vfTX05B
とにかく武州多摩郡久米川に関しては
『東村山市史8 史料編 近世2』東村山市、1999に掲載の
「弘化二年十一月 久米川村吉五郎所行不埒につき、拝島・府中・所沢各寄場村々より愁訴状」
という史料がものすごく面白い。
極悪な岡っ引き・久米川の吉五郎が、所沢の博徒や小川の幸八の喧嘩相手などと
つるみ好き勝手やってるので、何とかしてほしいという訴状である。
ところどころ周辺史料とつながるような描写があって、見逃せない内容だ。

1689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:50:05.71 ID:W0vfTX05B
上の史料だけで名前が上がる面々は、久米川の吉五郎を初めとし、
小川村の幸八、野中新田無宿乙五郎、
所沢裏町の徳次郎、入間郡北野村坊の前の岩次郎、
所沢の岡っ引き藤五郎(松葉屋)、田中屋万五郎(吉五郎の親分として登場)
奈良橋村安五郎、それと香具師で久米川の高萩屋藤助
などなど。

1690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:10:54.23 ID:7awgpvX11
上の1156で挙げた香具師だが、
大和屋新六と、升屋市五郎、山本藤助の三人は、「中武蔵三帳元」
と言うらしい。広域を支配した親方だ。
新六に関しては(どうも二代目らしいが)、上にも書いた通り、墓石に挙がる人名とても
記録しきれない。
坂ノ下(所沢市)の山本藤助の墓石にも多く同業(子分)が名を挙げる。
子分と言っても、それぞれ、一方の帳元と呼ばれる人たちだ。

日本木新六   連中     烏山清吉    連中
所沢宇兵エ   同      府中宇八    同
秋津文治郎   同      赤坂源治郎   同
癜タ平蔵    同      中神丈右エ門  同
栗原権左衛門  同      拝嶌庄兵エ   同
深大寺五右エ門 同      福生傳七    同
小金井勘兵エ  同      五日市重右エ門 同
中山市五郎   連中     川越平七    連中
大和田彦兵衛  同      久下戸吉五郎  同
牛沼直右エ門  同      大袋傳兵エ   同
青梅吉兵エ   同      富谷兵右エ門  同
扇町谷久兵エ  同      岩渕傳五郎   同
廣瀬儀右エ門  同      坂ノ下藤助   連中
豊田権治    同

これは文政二年のもの。

1691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:20:41.29 ID:7awgpvX11
いろいろあるだろうけど、個人的に一番興味があるのは
栗原権左衛門、多分、明治期に勢力を持ち、田無の徳蔵や黒須の大五郎といった
博徒と対等に立ち会った栗原の権次郎とはこの権左衛門のことだろう。

明治になると、香具師の帳元の子分に博徒の某がいたり、なんてことがよくある。
両者の住み分けが非常に曖昧になっていたのだろう。
元々、江戸時代に「興行」を行っていたのが、地元の博徒・顔役・侠客だったと言う事実も
無碍にできない。香具師ばっかりが芝居や話芸、踊り、奇術の興行を行っていたわけではなく、
若者衆や名主、村(宿)年寄、大商人、目明し、顔役(博徒のことが多い)など、さまざまな人間がかかわっていた
ので、その境界線が曖昧になっていたのだろうことは想像に難くないのだ。

1692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:31:47.76 ID:7awgpvX11
正徳寺太八こと根津源左衛門は、いわゆる甲州博徒の一人で、
『安東文吉伝史料集』では竹居の吃安の兄弟分とされているが、
年齢から見てもそれは正しいだろう。

それと、この人は、興行に関する史料も残していて、これは大変注目に値する。
山梨県立図書館デジタルアーカイブで「正徳寺」といれれば、
多八事、源左衛門が催した花会の興行案内状が見れるだろう。

これは「未年」とあるので、安政六年か明治四年のどちらか、(あるいは弘化四年)
いずれかであろうと思う。

1693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/12(土) 23:49:22.78 ID:s6dB/NCMW
「今日教えてもらったのですが、ウチのお墓の隣が甲州博徒鬼神喜之助のお墓だった。
やっぱり近世の甲州は修羅の国だわ。」
だって。

親族に許可も撮らないでSNS挙げることが許されるなら、
私など出る幕もない。喜之助さんが駿河とつながっていようが、
その後目を継いだものが、黒駒とつながり、清水と対立しようが…私はもう知らん。書かない。
兵藤と
牛乳屋が、
後は責任もって後代に続く成果を出していけよな。

1694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/26(土) 22:48:16.04 ID:h4UJaz+/e
「三井宇吉なんて人知らないし、そんな墓残すことできない」
って今日、
山梨の坊主兼考古学者が、研究会でのたまわったが、あんたさんの無知をひけらかしただけだぜ。
相手する気にもならぬ妄言だが、「壁に耳ありってなんとやら」ってやつだ。
俺はその「言葉」を忘れねえからな。

1695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/26(土) 22:49:29.41 ID:h4UJaz+/e
「三井宇吉なんて人知らないし、そんな墓残すことできない」
って今日、
山梨の坊主兼考古学者が、研究会でのたまわったが、あんたさんの無知をひけらかしただけだぜ。
相手する気にもならぬ妄言だが、「壁に耳あり障子に目あり」ってやつだ。
俺はその「言葉」を忘れねえからな。

1696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/29(火) 22:13:53.31 ID:UoNcfz+3m
自分はわりと単純な人間なので、美談とかグッとくる話に弱い。
多分大方はテコ入れされているのだろうが、それでも一部は事実だろう。

95才になっても、いまだにかくしゃくとしたあるご老人に
「今までで一番の後悔はなんですか?」と伺ったら、

「80才の時にバイオリンを習おうと思ったけど、やらなかったことね。
もしやっていれば、今頃キャリア15年のベテランになってたはずだわ」
というのがある。

これ全くその通りで、しかし難しいだろうが、人は自分の先を考えず、
とにかくどんどん前に前に出て行ってほしい。(関節の痛みや筋肉の衰えを知らぬ若造が、苦労も知らずに勝手を言うのだけど)
ある種のご老人の中には、本当に敬意しか感じないという人がいる。
人とつるむことなく、ご自分で道を切り開いてきた方だ。
そういう人に対するときは、どうやったって、未熟で至らぬだろうが、最大限敬意を表するのだ。
それしか方法がない。とにかくすごいご老人というのはいるものだ。

1697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:03:36.82 ID:G6oC+DBG/
犬上郡次郎人相書
            秋元但馬守家来
                  犬上郡次郎 申廿八歳
一 丈並ヨリ低キ方
一 色白くずんくりと太り
一 丸顔
一 眼細キ方
一 口小サキ方
一 歯並抜こまかキ方
一 眉毛薄キ方
一 髪毛薄くなで付ニ致候哉
一 耳小サくづぶれ
一 弁舌小声ニ而口数少キ方

1698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:07:48.29 ID:G6oC+DBG/
小説にしたい人は、スラっと痩身の浪人に
生きなセリフを吐かせるのだろうが、意に反して
郡次郎はずんぐりむっくり。
ただし現代の格闘家のように「耳はつぶれ」、細い目ながら獲物を的確に捉える。
なにしろ柔術扱心流の家元だから、腕っぷしは相当に強い。

1699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:09:52.65 ID:G6oC+DBG/
郡次郎の相方の弥助(宮島弥助)の人相もあるが、これは良いだろう。出さんでも。

1700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:10:29.98 ID:UvkvQizKp
4月12日はいわゆる信玄忌と呼ばれ、戦国時代の雄・武田信玄が死んだ日である。
だから彼の菩提寺である塩山恵林寺では、祭礼が催された。

安政3年のこの日、恵林寺の祭礼で大喧嘩があり、甲府の祐天仙之助によって、駿河吉原宿の
留吉という親分とその子分が切り殺されている。

1701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:14:24.91 ID:UvkvQizKp
この事件を扱ったものには、『藤岡屋日記』と『東海遊侠伝』があり、
前者だと、
…吉原亀も中々以、一方之大将ゆへ、大喧嘩に相成、祐天壱人二而吉原亀並同人子分三人迄
切殺し、其場より祐天は出奔行衛相知不申候
とある。
こちらだと、吉原の留吉は「吉原亀」と書かれているようだ。

1702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:19:35.43 ID:UvkvQizKp
一方『東海遊侠伝』だと
此時二当リ、甲斐二祐典ナル者アリ、大熊ノ子弟ヲ丸山前二襲ヒ、守太郎、八百留、六蔵等ヲ殺ス。
大熊ノ党之ヲ怒リ、祐典ノ乾父、甲府ノ隠居ト称スル者ヲ殺シ、以テ之二酬ユ
となる。
八百留というのが、吉原留吉(吉原亀)だろうか。そして大熊の子弟であったということになる。

1703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:24:35.02 ID:UvkvQizKp
で、この事件なのだが、当時の実際の史料(日記)などでは、次のように記録されている。

今日昼頃、塩山前二而切殺弐人在之、博奕打人、壱人者駿河、壱人者武州
           (「依田家文書」 四月十三日条)

塩山前即死弐人、手負弐人、無宿ものよし風聞
           (「保坂家文書」 四月十二日条)

死人は二人、負傷者は二人で、死んだ者の内一人は駿河の者なので、
これが吉原留吉ということになるのだろう。

1704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:30:39.90 ID:UvkvQizKp
この事件が尾を引いて翌年の正月に三井宇吉が殺されるわけだが、
上で見たように資料(史料)上「吉原宿留吉」の名は確認できない。
にもかかわらず、講談や伝説・逸話では、そろって吉原留吉となり、ものによっては
岩瀬留五郎と言う名の武士が身を持ち崩し、駿州岩淵で貸元をやっていた、なんて風にもなっている。
大場久八の子分だったとか。鬼神喜之助の子分だったとか、(または逆に親分だったとか)
まちまちである。

ただ誰か、吉原留吉らしき貸元がいて、彼が信玄忌に殺されたことだけは間違いない。

1705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:06:59.34 ID:svfH7l28R
昔の民俗学者は「自分は何も知らない」という態度が基本にあり、その上で渇するように
知識を、手段を選ばず求めていて、おもわず「すごい」と思わされる。
対して、今の民俗学者は「世間は何も知らない」から、お勉強と研究を経て来た私が教えてあげましょうみたいな
態度の人が多すぎる。
民俗学はお勉強の量・学歴ではなく、本来軽いフットワークとセンス、情熱と人柄の良さが物を言う世界ではなかったか。

1706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:13:14.86 ID:svfH7l28R
吉良の仁吉の跡を継いだ、勘蔵という人は、あまり履歴の出ない人
と思っていたが、各県の明治(元年〜6年くらいまで)の「刑賞」にはよくよく名前が出てくる人で、
性根を問わず客人を大事にした親分だったことがうかがえる。
ちょっとした凶状持ちだって、勘蔵はよく逗留させている。あるいは先代の仁吉よりも
懐の深さでは上だったのかもしれない。吉良の勘蔵(太田勘蔵)は清水次郎長の28人衆にも入れられている。

1707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:26:17.19 ID:svfH7l28R
明治3年の『里正日誌(第十一巻)』には、小川の幸蔵自身の申口(口供書)が
載っていて、彼の出自や動向・三体一でも死ぬ気で決闘に趣く性格などが
知られてとても面白い。彼は同年、所沢の賭場に来ていたところを捕まった。
それまで誰と博奕勝負をしていたか、とか小川村の住人とはどんな関係だったか、
父(幸八)・母(とら)がどのような人たちだったか(とらは大変こども思いだったようだ)
などなど、情報がものすごく多い。

1708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/17(日) 22:07:49.72 ID:XSJlAGaTF
丹波屋伝兵衛は、竹之助とも言うが、専助とも言う。
あるいは伊豆多田村での代々の継承名か。

伝兵衛は伊勢で婿入りした際に名乗ることになったのかもしれない。

1709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/17(日) 22:08:28.89 ID:XSJlAGaTF
「伝兵衛」は伊勢で婿入りした際に名乗ることになったのかもしれない。
に訂正。

1710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 21:55:55.97 ID:unOWIkAQ5
Yakuza Wikiの記事の充実ぶりといったらない。
ものすごい知識量と、調査力。

また先日植田憲司氏のかつてのHPの残巻の、別に残った部分を見たら、
やっぱりため息しか出ない。

ものすごい人というのは、いくらでもいるもんだ。比べると自分の知識など豆粒ほどに等しい。

1711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 22:05:55.24 ID:unOWIkAQ5
新宿の田中屋万五郎の裏には、内藤新宿問屋主の高松喜六がついている。
甲府の三井宇吉の裏には、同じく柳町問屋主の加藤源六郎がついている。
万五郎と宇吉は兄弟分であり、共に甲州道中(甲州街道)を押さえていたが、後ろにつく
高松・加藤は本当の意味で甲州道中の「元締め」と表記される。この構図は馬鹿にできない。

一方、富士川を経由して甲府と結びつく江尻宿の問屋場に人足を供給していたのは
和田島の太左衛門。太左衛門子分(大熊&喜之助)と宇吉・祐天の構図も無視できない。
なお祐天にとって田中屋は叔父(伯父)貴に当たる。

1712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 22:09:34.39 ID:unOWIkAQ5
なにが言いたいかと言えば、侠客の抗争は基本的には「恨み、つらみ」や
「義理・不義理」なんだろうが、
本質的にはそのバックグラウンドである所属地域の
利害対立やいさかい、不平不満のぶつかり合いの代理抗争なのではないか、ということだ。

1713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/05(木) 21:40:38.89 ID:ayoPZik68
黒駒勝蔵の新しい墓(?)が建てられたとの話で、
子孫が資料室も作って整備した、というが、私にはきな臭い物しか感じられない。
そもそも墓無いだろう。戒名すらないのに。
それに一族から追い出して、抹殺したのだと言うのに、今になって末裔という人が地域ぐるみで
、偉い先生も巻き込んでそれをやるのだが、
なにぶん別の種類の偉い先生も一枚かんでいるので、政治的な匂いしか感じない。
人は自分が見たいものしか見ないものだからな。
創作物を用いて、死人に、自分たちの言いたいことを語らせることなんて朝飯前だからな。

1714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/08(日) 22:31:41.20 ID:p5NSQT4lv
ちょっと変なことを書くようだが、
嘉永何年かだかに、保下田の久六と、一ノ宮久左衛門が戦って
久左衛門が殺された、とした本がある。
これが結構よくできた本で名著とよばれており、私も全くそう思うのだが、
この本が依ったところの『東海遊侠伝』では、久左衛門が殺害された、とは
どうしても読めず、ここは誤記ではないか、と思ったのだが、
以降そのままこの説が採用され続けている(ように思う)
困っちゃったことには、何の本に書かれていたのか、それに『遊侠伝』が挙げられていたのか、
それすら定かでないということだ。
ただ、なんというか、それを読んだ時に、「ああ、ここは要確認だな」と思った事だけは
よく覚えているんだな。これが。
誤記や、思い込みで史料を読み間違えていたことは、自分にも多々経験があり、
あれは何としても「起こってしまう」ものなのだ。だからそれはしょうがない。
でもそれ以降が、確認をせぬままその説を使い続けるのは、なんとかストップをかけないと
まずいよな。
なんともあやふやな文面で申し訳ないけれど。(要するに一ノ宮久左衛門は抗争では死んでいないと思うのだ。)

1715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/09(月) 21:50:34.56 ID:XC8boiw4C
三州豊橋吉田藩の家老、西村次右衛門の記した『西村次右衛門日記』というのは
分厚いがかなり面白い。地域柄、次郎長が平井で黒駒勝蔵の元へ奇襲をかけた時のことが
記されていたり、非常に良い史料だ。(「博徒黒駒勝蔵の文久元年以降の動向について」でも使用した。)

で、あらためてよくよく読んでみると、平井の雲風のこともわりとよく出てくる。
下巻の878頁(安政五年十一月一日)の記録には、
去ル卯春中泉江被呼出調有之、其後村預ケニ相成居候、平井村市作後家忰亀吉相撲名雲風、
過日鳳来寺祭ニ而不宜義有之、御風聞此節専有之由ニ而、御目付衆ヨリ奉行衆江御打合有之候由
ニ付、早々帳外被仰付候
とある。
私も古文書は独学(今でもかなり読めない)なので、書いておくと「被」は「〜される」で、
「有之」は「これあり」、二而は「にて」だ。

さて、卯年とあるので安政二年だろう。この年、鳳来寺の祭礼で何かしでかしたのだ。
このことは『原田常吉訊問書』で、安政元年に兄雲風が鳳来寺の祭礼で、
金屋橋の勝助子分・弥吉の腕を切り落とし恨みを買った事件から一年後のことにあたる。
あるいはこの事件自体が(常吉の記憶違いで)この卯年に起こっていたのかもしれないな。

次右衛門日記はやたらに分厚く読むのに骨が折れるが、よくよく読めば、もっと情報が引き出せるかもしれない。

1716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/09(月) 22:03:49.82 ID:XC8boiw4C
たとえば同史料の691頁(嘉永六年か?要確認)なんかには
賭場で口論が起き、刃傷沙汰に及んだことが活写されている。死者も一人出たようだ。

関わったのは、牧野村歌吉、鵜飼島村無宿竹、深溝村無宿鉄、南金屋村蔵、
行明村常吉、種之上村喜六、馬場村花蔵、雨谷村藤作、豊川村千三郎など。
多分みんな博奕打ちだろう。

1717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/14(土) 10:40:46.43 ID:Kms9wilDV
いわゆる自治体の文化財課に何度も出向いて、見つけた史料や成果物(論文とか冊子、刊行物)
を持って行って、
目録に記載の古文書を見せてくれるように頼んだり、重要な石碑や墓石の調査や保護を
訴えても、「良い人(職員さん・場合によってはボランティアの方)」に当たるまで
3年も4年もかかる。
なんといってもあほらしいのは、窓口で話した内容や、持って行って無償で渡した成果物なんかは
御役所では情報共有をしていないから、いつでも一から。で、目の前では会話をしている体でマニュアル対応を繰り返す職員。
これがだいたい平常だ。
それでも中にはものすごく優れた人に会える時があって、
そういう方は後々まで本当にお世話になるし、こっちもずっと敬意を払う。
今でもこうしてお会いできた方々には頭を下げ続けている。
不思議に実力のある人ほど腰が低い。その逆はその部門で専門の椅子に座った学芸員先生。こちらは男女老若を問わず。
自分の立場を守るために「疑わしいことには手を出さず」の態度を貫かれる。まったくご立派だよ。

1718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 21:58:10.52 ID:9YKSg1Tnr
森の石松が、都田吉兵衛に殺されたのは万延元年6月1日のことと『東海遊侠伝』にある。
この三日後の6月3日に、次郎長もまた七人連れで「遠州本坐の為五郎」の家に逗留することになり、
そこで石松を殺したばかりの吉兵衛一行と偶然遭遇してしまう、
と言う筋書きになるのだが、
何故、次郎長らがここへ来たかと言えば、

初メ年蔵ノ下役ヲ斬ルヤ、其子十四人ヲ率ヰ、来テ長五ニ依ル。長五之ヲ憐ミ、海路伊豆ニ
脱セシム。捕手之ヲ聞知シ、並ニ長五ヲ捕ントス。

という理由だったことになる。
「年蔵」というのは、宮島年蔵(重吉)のことで、さらに言えば、この一ページ前にも
同じ事件が、

吉兵駿河ニ来リ、長五ノ家二客タリ。而シテ宮島ノ年蔵等ト加島二下役ヲ斬り、
走テ其国ニ帰ル

ともある。
つまり、都田吉兵衛は、宮島年蔵と駿州加島(吉原宿)で下役を斬り、次郎長に匿ってもらい、
そのことが捕手にバレたので、次郎長が今度は国を売った、
ということになるだろう。

1719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 22:06:41.74 ID:9YKSg1Tnr
で、実はこの宮島年蔵および吉兵衛一党による下役の殺害事件は、
当時の史料に記録されている(ように思う。)

それによると事件は万延元年の五月二十四日の夜、二十五日の朝にかけて起こったらしく、
「中島の重」(多分、宮島の重だろう)以下7人が元市場へ押し込み、そこでは
雇われ剣術家と主人が白刃で対応し、追い払ったが、
その足で一行は蓼原の番人十蔵の忰を切り殺した。(妹にも手傷)
そのことで十蔵から公儀へ「敵討を願出」たとあり、一方の下手人たちは「豆州へ逃候由」とあるので、
まず間違いなくコレだろう。

ということは、吉兵衛も次郎長も、ほぼ同じころに逃げたのであり、当然石松が吉兵衛と
一緒にいても全くおかしくないことになる。
あるいは、一同全てが同じく逃走する過程で、仲間内でいざこざが起こり、その末に石松の一件になったのではないか、
とすら思えるのである。

1720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 22:13:46.02 ID:9YKSg1Tnr
「当然石松が吉兵衛と
 一緒にいても全くおかしくないことになる。」
はちょっと間違えた。これはおかしいな。

石松は同年の四月に次郎長から久六を切った刀を金毘羅に奉納してくるよう頼まれ、
出かけたが、その間に吉兵衛は加島で人斬りに加わり、次郎長の世話で、故郷に帰還した。
まさにそのタイミングで次郎長の子分の石松に会った、
という時系列が正しいように思う。
つい先日まで世話になっていた親分(次郎長)の子分だから、
気安いと同時に、甘えの意味もあって金を無心してしまい、それがこじれて
石松を殺すにまで至った。と、こんな感じの心理が働いていたのではないだろうか。
与太であてずっぽうな推測だが。

1721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 21:56:59.96 ID:TsuNWwpC4
「嘉永二年7月27日夜、半兵衛は、武州の石原村幸次郎以下の博徒集団に、突如
 勢州古市の居宅で襲われ、重症を負う。薬石効無く兄弟分の丹波屋伝兵衛が看取る中、翌日死去した。」

↑ああ、俺がこう書きこんでしまっている!
 これは間違いだ。「嘉永2年7月27日夜」ではなく、「嘉永元年」が正しい。
 でなけりゃ、翌四月に大場久八と石原幸次郎が斬り合いなんてしない。
 認識ミスを教えられた。
 ありがたいです!

1722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 22:05:08.55 ID:TsuNWwpC4
大場久八に関しては、嘉永2年に久八が敵を殺して後、逃走・潜伏した時に
一身を賭けて、その身を守った
後の妻「もん」さんのことを是非とも書かねばならん。
しずさん、もんさん、ともに侠客の妻というに値する立派な人たちだ。

1723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 22:16:13.76 ID:TsuNWwpC4
侠客の妻という話だと、国分三蔵の妻(友代?)は、
加勢に来た清水の子分たち(関東綱五郎、法印大五郎ら)が捕まえた
勝蔵と鬼角(落合村角太郎?)の妻・妾を、乱暴される前に逃がした、と伝わる。
これに腹を立て、清水の一行は三蔵の元を去り、その後三蔵宅が勝蔵に焼かれるわけだが、
この妻の捕った行動は、彼女なりに筋の通ったものだったのじゃないか。
それに三蔵も同調したのではないか。(なにしろ「仏の三蔵」だから。)

三蔵と妻は、甲州天目山栖雲寺(武田勝頼が死んだところ)で、黒駒の子分に見つかり共に殺された
と言う。しかし、三蔵は明治2年、妻(名は墓碑に見えず)は明治9年に
亡くなっているので、仮に人の手にかかったのだとしても、夫婦一緒と言うわけでは
なかったのだろう。ただ三蔵が自然死というのは、年齢が若すぎる(54,55歳)ことからすれば無理がある。
やはり人手にかかったのだろう。

1724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/22(日) 20:55:14.18 ID:jUfjAO9CK
Yakuza Wikiに出た「坂ノ下の実五郎」の項。
まあ面白いし、すごい。

世の中すごい人はいるもんだし、それをネットの他の分野で見れないのに、
こんな(失礼だが)ところで、唯一情報が挙げられているという点で、ほとんど感動に近いものを覚えた。
(今日の「鎌倉殿…」と同じくらいな)

ただのヤクザの話、と言ってしまえばそれまでだろうが、侠客の歴史に携わっている人全てが、
「学歴」とかまったく関係なく、いわゆる「人文学」の研究者に値するのだろうよ。

1725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 22:13:46.27 ID:m0Y7j/oW0
インターネットの時代はやはりすごい。年々便利になってゆく。
ネット上で『大小胡町誌』の全文を見ることができるのだが、ここには
高橋周偵著、明治26年発行の『近世上毛偉人伝』から田島栄吾の項が転載されている。

なんていったって栄五郎が明治7年に亡くなっているのだから、それから20年と経ってない頃の著作なわけで
内容はかなり信が置ける。
15歳で義弟の栄次郎と共に仁手の清五郎を斬り、名古屋へ逃走し、そこでもひと悶着起こすが、
箱根で強賊集団を斬り、公に激賞され、以降名古屋・上野を行き来し、その際一度はとらわれ
佐渡へ流されるも脱嶋して帰って来る・・・などなど
子母澤寛氏などがエッセイに書くのは、これが元だったのかと納得させられる。
多分、大方が事実なのだろう。
義弟の栄次郎が甲州郡内の博徒の家の入り婿になっている時、栄五郎が来て、
栄治郎が「あれは天狗様だよ」と家人に言うのも、これが出典。
古いけども新しく、なにより情報が多く、どうも正確らしい、今一番注目に値する資料がこれだ。

1726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 22:27:38.88 ID:m0Y7j/oW0
失礼、「義弟の栄次郎が甲州郡内の博徒の家の入り婿になっている時」というのは間違いだ。
上の本にはそんなこと書いていない。これは子母澤氏のエッセイの中ではそうなっていたが、
多分あそこは子母澤氏の創作なのだ。
事実は栄次が郡内博徒の家に、ただ居候になっている時に、栄五郎が来たというだけの話だ。
この「甲州郡内の博徒」わざわざカッコ書きで「家屋も立派にして長屋門あり、相応の資産家なり」とあり
名は記されていないが、おそらく吉田の長兵衛のことだろう。
なんとなれば、栄五郎の子分になる江戸屋虎五郎も自身の回想の中で、都田源八を斬った跡、
吉田の長兵衛の家を訪れたことを記している。この時の縁が後々も響いていたと見ていいだろう。

あるいは郡内で江戸屋虎五郎が仲裁人となって、大場久八と竹居安五郎の間の衝突を納め、
その際、栄五郎が諸人集まる中ひょっこり立ち寄り、虎五郎が足を洗ってあげたというのも
この時のことがあって故かもしれない。

1727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 23:28:04.49 ID:m0Y7j/oW0
『大小胡町誌』って、なんだこれ。
『大胡町誌』のまちがいだ。

1728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 22:59:46.06 ID:L0tt+hUaW
山本八重さん(執筆中)
@aizu_sniper_yae
·
5月30日
平政だけでなく木曽の嘉十郎も小門の亀吉もこの時期はどこ派閥で〜誰と兄弟分で〜みたいな複雑怪奇の情勢(*´ー`)

1729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 23:04:12.59 ID:L0tt+hUaW

こいつは多分、橋本の五萬蔵兄弟と
横山宿の伊野亀吉の区別がついていない

1730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 23:33:24.15 ID:L0tt+hUaW
昔、個人研究家が情熱を傾けて、その分野で、狭くはあっても、どこまでも深く深く探求して、
その界隈では当たり前になっている知識が、
研究特許を取っていないからと、近年大学などの「研究者」様のお目にとまり、
新たに、その方の「発見」となって日の目を見る。

その際、学問分野の「越境だ」などと、ご高説と共に発表され、
かつての深く狭く何の見返りもなく一個人情熱家によって開拓された分野が、
その研究者様の独自の分野に指定されるような(アホな)ことがまかり通っている。

先日そのことを皮肉った昔気質の研究家が書評が世間に出たら、
却って(その人の芸風も知らぬ)多くから非難されたようだが、
結局のところ、先生方は大衆を味方につけるのがうまい。
それは情熱を持った趣味人なんか相手にならんわけだ。

近年ではさらにtwitterのpseudo研究者様がお出ましになるのだから、ますます
本当の意味で面白い調査・研究に血道を上げる人が本当に評価されず、
上手にその上澄み液を取る人間だけがもてはやされる。
侠客も相撲も興行も遊里もみんなそうだ。
せめて自分の手と自分の足を使って書けよ。

1731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/04(土) 23:39:41.48 ID:JKGmd/VCM
twitterってのは、自己満足充足装置なのだな
こんなもの相手にして、
いちいち目くじら立ててた自分が馬鹿だったようだ。

1732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:35:46.42 ID:eXYhxcvxV
信濃国御取締出役というのがあり、
これは関東取締出役ができた文化2年に創出され、
まったく八州廻りの信濃国版といったものだったのだそうだ。
(こんなの知らなかったよ。)

信濃国の四代官所から選ばれた、というのも関東取締出役と全く同じだ。
中野代官所の荻野広助は、まさにこの信濃国取締出役に付いていたのだ。
だから、手下(目明し)に岡田の瀧蔵や相之川又五郎、場合によっては島田屋伊伝次、
藤屋祐三郎なんかもいたわけだ。

1733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:39:47.83 ID:eXYhxcvxV
藤屋祐三郎は、堅気の遊女屋主として知られている。
善光寺門前では一番の顔役だ。
片や島田屋伊伝次は、博徒としての顔をちらつかせる存在なのだが、
それだけに住人からしても一番の実力者と見なされ、しかも目明しもつとめた
藤屋は、単なる好々爺だったのか、と言う疑問が湧く。
あるいは伊伝次や、その兄貴分(親分か?)の政五郎(高瀬仙右衛門)と
同等以上の人物だったのかもしれない。

1734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:45:09.61 ID:eXYhxcvxV
『二足草鞋の相之川又五郎』にあるが、
又五郎は荻野広助の心のこもった御教諭(御説教)で心を入れ替え、
目明しになったという。
荻野広助は、『高井』に徳永泰男氏が書かれているが、
もっと調べられるべき人物だろう。秋葉貫一郎もそのような人物の一人だし、
もっともっといる。

1735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:51:28.30 ID:eXYhxcvxV
長野市というところは、松本から山の中を通っていかなけりゃならないので、
車という移動手段のない者にとっては、なかなかに命賭けになる。(もっともその達成感は大きいが。)
とりわけ信濃の山々は広大で。朴訥峨峨としている。
そういう時に、山一つ越えたところに立っている庚申塔や石観音なんかは、グッとくる。
そういう一瞬だけ、近代以前にここを通った旅人の気持ちに連なることができる。
もちろんすぐそういう幻想は消えるけれども。

1736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:56:39.53 ID:eXYhxcvxV
岡田の瀧蔵は、多分本名・林部寛吾(林部瀧蔵)でいいのだろう。
ただ岡田村や稲荷山宿からは生前に、追放されているらしい。

1737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/14(火) 22:34:08.85 ID:vDbRygys2
国定忠治を護送した岡っ引きに
岩槻の嘉重という人がいる。別に嘉十郎とも書かれる。
田中屋万五郎当ての某(丁度切れていて読めない)の手紙の中で、鬼神喜之助の動向を追う際にも、
「そっちへ逃げたので岩槻の嘉十さんに連絡を取ってください」とある。
国定護送の史料は確か群馬県立図書館がもってる。

それなりの子分も多い親分格だったのだろうが、手掛かりがまるでない。

1738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/14(火) 22:38:24.33 ID:vDbRygys2
似たような人に上総国姉崎村の一作という人がいる。
(あるいは「市作」とかの名でも出るのかもしれない。)
これも親分格で、東大和の「里正日誌」にもちょっと名前だけは出る。
元治元年の天狗党の召捕りに参加したみたいだ。
でもどういう人かはまるでわからない。

1739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/26(日) 23:48:34.55 ID:LzxZr3qCw
今泉貞三というのは
どうやら津向文吉の子分のようだが、他で情報が出ない。
同類に井口田勘左衛門、上野信福、依田直高、坂本与兵衛、藤原吉助、進藤彦右衛門
、高野喜三郎、細田伊右衛門、河内弥右衛門。

このうち河内弥右衛門は後に、火消の親分になって、林庄八郎と甲府を二分する勢力をもつようになる。
明治11年のはなし。

1740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/05(火) 22:56:55.98 ID:dey4HUM3W
先日の金曜ロードショウで『時をかける少女』をやっていたのだが、
白状すると一ミリも感動できなかった。(2006,8年の時もだ)
しかし(当時から)年若い友人たちは、これで泣いたとも言う。
で、これは彼らの鑑賞眼の質度が低い、なんていう気はさらさらなく、要するに
私が新しい世代の感受性についていけなくなったのだ。
私は宮崎駿の『カリオストロの城』で今でも胸が熱くなるのだから、
自分の世代の文化には理解があって、共有できるのだが、次の世代とはズレる、と言う言訳だ。
(こうやって時代に置いていかれる)

だが、これは凄いことで、
例えばこのスレッドで表題に上がる侠客の時代にも、お芝居や、日墓のニュースに
心動かされただろうことは、それこそ今の私やあなたと変わらない、ということだ。
なかんづく侠客は、自らが芝居を「買い」、興行主となることがあったわけだから
目が肥えていなければならないのはもちろん、世代間の差や、次に来る当たり物が読めなければならん。

どういう意味では、「感性」からしても、侠客は、意図的にこれを磨かなければならなかったはずであり、
一体そういうのはどうやっていたのか、不可思議に思うわけである。

1741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/05(火) 23:00:47.32 ID:dey4HUM3W
と言う言訳だ→という訳だ。
日墓のニュース→日ごろのニュース
どういう意味では→そういう意味では

1742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:02:39.34 ID:wm0s3AcV5
明治11年のことだが、
長野県下で監獄に繋がれていた凶状持ちの北原富五郎
というのが、流れて甲州都留郡宝村の高部正平の宅で博奕を打っていたところを
官憲に捕らえられた、というのがある。
どうやって監獄を抜けでたか、わかっていないらしいが、
この時賭場にはほかにも、埼玉県の山崎計佐五郎ら四五人がいたらしい。

高部正平というのは清水一家の人間らしく、後に寺谷一家の碑の中に名前を載せている。
手広く付き合いをもった貸元だったようだ。

1743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:11:30.20 ID:wm0s3AcV5
中村仲蔵の『手前味噌』には芝居の買い付けということで、
実在の侠客がよく登場する。侠客は興行主でもあり、彼らと付き合いのあった役者が残した非常に貴重な史料だ。
岡田の瀧蔵や祐天仙之助などの普段見せないような親切な顔が垣間見られるからだ。
弘化4年に当たるようだが、信州飯田滞在中に「遠州浜松の笠屋の使いできた」という者が
登場する。おそらく笠屋の子分ではなく、香具師である笠屋から依頼されてここへ来た
侠客だと思われるが、瀧蔵とは顔なじみで、しかもかつては一人で五十人を相手に一歩も引かなかった男
と激賞されている。翻って現在では長脇差すら身に帯びず、至って温厚な人間になったとのこと。

惜しいことに名前が記されないままなのだが、あるいは遠州の棒周さんなのかも、
と思わされる。

1744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:14:40.47 ID:wm0s3AcV5
遠州の棒周事、中村周蔵という人は子母澤寛や安東文吉史料集では、大物とされている。
目明しも務め、国領屋亀吉の親分である。でもこの人も若い頃どんな人生を送っていたのかは
よくわかっていない。史料も探していないし考察もない。
子母澤は、東海道近辺では一に安東文吉、二に棒周、三に両国屋宇吉と言っているが、
これもどこまで本当なのか。

1745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 22:26:23.80 ID:pd3C/Xow1
東北なんて仙台・丸屋の忠吉くらいしか知らない。
なのにYakuza Wikiの東北侠客の充実ぶりは何なんだ!
すごすぎる。
恐ろしい探求者がいるものだ。
すごくいい仕事だ。
頭が下がるし、まさしく「シャポゥを脱ぐ」というやつだ。

1746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 21:38:01.65 ID:gJiqsnEUz
大塚の甚五左衛門(通称アゴさん事)
塩島甚五左衛門

1747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 21:42:59.24 ID:gJiqsnEUz
甚五左衛門は、黒駒系・鬼神喜之助の子分
有名な「赤烏元年呉銅鏡」を発見した人としても知られている。
後は息子の芳太郎が継いだ。
明治前期の真冬に、芳太郎は甲府住吉村の飯沼想次郎と喧嘩をして
一触即発の状況になる。

1748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 22:47:00.36 ID:WFsiSMgX5
次郎長は悪役に書かれることは、ほとんどない。
敵役(かたきやく)ならあるが、それでも一廉の強敵として書かれる。

黒駒勝蔵はよく悪役にされる。
しかし勝蔵が主人公になるときは、祐天が悪役、次郎長は強敵に書かれる。
翻って祐天が主人公になる時は、勝蔵はやっぱり悪役に書かれる。
この辺りは間反対の役柄を同じ人物が受け持つため、その替わり方が面白い。
吃安のかたき討ちや、宇吉のかたき討ちも、その都度、主人公/敵役、どちらに立っているかで
描写や心の置き所が違うわけだ。
そして、仲間連中もそれに応じて印象がまるで違う。
肥満して脂ぎった女好きの悪党三蔵のときもあるし、冷静沈着で涼しげな眼をした心強い三蔵のときもある。
同じことは吃安にも、大岩・小岩にも、宇吉や犬上郡次郎にも言える。
このあたりが甲州博徒の面白さだ。立つ位置によってまるで人物が違って見える。

1749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 22:55:31.33 ID:WFsiSMgX5
信州の無宿者で尾花智三という人物が史料に出てきた。
前にどこかで見た名だが、どこで見たのか思い出せない。

1750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 22:59:21.19 ID:sSPxbFS6n
天保15年、高野長英が逃亡した時に、
信濃の目明しの間で彼の人相書が回覧された。
目明しには探索が義務付けられらとのこと。この時人相書回った目明しを上げてみると、以下の通り。

塩尻宿大和屋富之助
松本城下元右衛門、正徳院
伊奈街道三日市村政五郎、幸五郎
木下村与三郎
上諏訪大和屋栄蔵
岩野村幸五郎
権堂村島田屋伊伝次・ふじや勇三郎(祐三郎)

1751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:01:22.57 ID:sSPxbFS6n
塩尻の大和屋と権堂の島田屋は言わずもがなだ。

正徳院は、松本にいた修験だろうかね。
上諏訪の大和屋栄蔵は一寸(ちょっと)気になる。

1752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:16:18.69 ID:sSPxbFS6n
埼玉県新座石大和田の大和田氷川神社は、ふつう裸祭りで有名なわけだが、
鳥居すぐを入ったところに建立されている石橋供養塔は
田中屋万五郎親分が建てた物だ。(元治元年)

石橋供養塔はふつう、石橋を建てた時に一緒(あるいは時間差を以て)建てられる。
当時の橋というのは、建立に莫大な金がかかったのだから、
それこそ一生一大だ。
…というのは民間で使う大きな川にかかった橋。
しかし神社や寺前の、用水路の様な川にちょっとした橋を立てることが、実はこの方が
ずっと多い。しかも老若男女が参詣のために渡れるのだから、これもまた有用だ。

おもしろいのは橋の建立には、民俗学的意味があること。
それ以上先への悪疫や魔物を封じることを「防ぐ(塞ぐ)」意味合いがある。

本来来れない所に、筋道を通すというい意味で、
橋の建立は大事業なのだ。

1753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:36:31.16 ID:sSPxbFS6n
たとえば、八軒の栄次とか回田の栄太郎の子孫のとこへ、
「研究で載せたいから」と言って、頭を下げて頼み込むわけだ。そんなのピンポン押すところから恐怖だ。
でもそうやらないと、筋が通らないでしょ。血縁が、先祖の逸話を記録していいか、ダメか
墓を詣でて、場合によっては写真を撮っていいか、ダメか、決めるのだから。(これは侠客だけでなく万人にそうでしょ)
すごいストレス(場合による)だが、この過程をすっ飛ばしては駄目さね。

だから、遠方からやってきて、墓の写真を無断で取って、すぐ既存資料(普通は研究者の本のコピペ)
と一緒にアップする馬鹿は
俺は許せんわけだ。

…もっともこれ自体、自分の「筋」の押し付けなんだろうけどね。(時代は、むしろそういう「勝手にアップする」ことに傾いてるから)
でも最低限そこは守らないと、やっぱり嫌じゃないか。

1754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 22:33:49.36 ID:rzq+JN2ND
馬鹿だなあ。ほんっっっっっとに馬鹿だなあ。
「岡島」を閉めるなんて。
甲府の町が無くなるということじゃないか。
冗談じゃねえ。ほんっとに冗談じゃねえ。町が無くなるじゃないか。
故郷が無くなるじゃないかっ

1755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 23:14:03.44 ID:rzq+JN2ND
三井宇吉の墓も若尾逸平の墓も、全く無邪気に何の罪悪感も無く廃棄したよな。
何が嫌って、物を捨てる・つぶす・終わらすことになんの躊躇もないのが、この県だってことだ。
多分、自分らにその拒否権・執行権があっても、自分の事と思っていないのだろうな。
それくらい思考がマヒしてんだ。
与えられたエサばかり食ってきた連中が年寄になって中心に居座ってるのだから、
もう駄目だ。公務員になれたらお殿様。そして、そうなったら改革や改善よりも、
なるべく目立ったことはしないで自己保身に回ることが最重要と教育される。
あとは労働者だけ。
典型的な地方の人員構成だ。これが地方都市の一般的なモデルというやつか。
あとになって悔やんだって、無くなったものは、もう戻らんのだぞ。

1756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/31(日) 20:48:38.92 ID:7D2mHLJ8v
柿沼仙右衛門

1757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 21:54:57.55 ID:af/bUou9R
小金井小次郎と抗争した堀端の与三兵衛
苗字は「おない」という。小内か小家か。どういう漢字か忘れてしまった。
が、元の姓は林。
どこで「おない」に変わったのかはわからん。墓もない。
静岡の方にあると、子孫が言っていたが、その子孫も先日訪ねたら居なくなってた。

一宿一飯の義理のために富士の裾野の出入りに加わり亡くなった。
それゆえ子孫は「博奕」を避け、トランプすら触ってはいけないと言われた。
そんなことを十数年前に聞いた。

1758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:02:59.03 ID:af/bUou9R
国分の三蔵のルーツを探して利根川沿いの明和町、川俣宿まで、
この熱波の中行ってきた。
なるほど日光脇往還(千人同心街道)という点で、高萩宿(日高市)とつながる。
高萩万次郎と国分三蔵には確かに類似点が多い(目明し+次郎長と親しい等)。
だが、まあその間には坂戸宿、高坂宿、松山宿、吹上、忍(城下町)、新郷宿と結構な距離がある。
面白いのは、この宿場もそれぞれ侠客発生地だということだ。
しかも川俣は、天下の利根川の川岸。なんといっても平手三木の「大利根暮らし〜」からしても
侠客とつながりが深いだろう。
川俣は南北も、東西も侠客にはさまれる土地だ。しかも組合の寄せ場だったらしい。

1759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:10:34.13 ID:af/bUou9R
さて、川俣40ヶ村組合の惣代としては
高瀬仙右衛門、つまりは相之川政五郎=上総屋源七が有名だ。彼が
これを務めていたのは事実。
その一方でもう一人の実力者柿沼仙右衛門のことはさほどしられていない。
しかし、この人も大した侠客だ。
どうも博徒ではなく、名主お旦那の出であったようだが、気風がよく
江戸屋虎五郎や赤荒地の鉄五郎らが八州廻りに捕らえられたときは、身を挺して守り、
彼らを逆に目明しに取り立てることで、地域の治安を守った。その他治水、渇水の際の農村の守りなども、
この人が率先して行ったらしい。事績を記す書物は少ないが、『明和村誌』に記載がある。

川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。明治4年に69無くなっている(と思う。)
この墓所は、正直見つかりにくい。この夏日に、正直死ぬかと思ったくらいだ。
何か地理的な探し物をしている時に、一番大事なことは、
一旦止まって地図をじっくり眺めることだ。

1760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:25:42.40 ID:af/bUou9R
日本全国に所々存在する「道の駅」というのは野宿をする者にとっては、
非常に都合の良いものである。しかし、世の中みんなだいたい同じような考えをするものらしく、
田舎では、バイク乗りやもうちょっと鉄火な若者たちが、「集会」を開く場所として利用される。
そのようなわけで自分も何度もそういった集団と同じ場に出くわした。
幸い何の悶着も起きずに済んでいるが、
そんな時にぐうすか眠るほどの度胸は自分には無く、結局、朝までもう少しという時まで、
精神が覚醒を命じるものだ。

くたくたな頭が、そんな時にようやく自分に教えるのは、しょせん自分など、無力、ちっぽけ、臆病で、愚者
だという認識だ。でも、これは万金にも代えがたい。全くありがたい認識だ。

苦しい旅の良いところは、自分を絞れるという点だけだろう。他には何のメリットもない。

1761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:47:57.81 ID:af/bUou9R
「川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。」

またまた間違いだ。「川俣宿東の江口」が正しい。

なおこの近隣の津島神社は奉納額も石灯籠も見るべきものが多い、ちょっとした
名所だ。

1762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/03(水) 23:42:05.54 ID:8accUCYFJ
正直言って、宮島の年蔵と森嶋の重吉は同一人物だと私は思ってる。
『安東文吉史料集』は、国分三蔵と勝沼三蔵のように
同一人物を別人に表記してしまう注意点がままある。

1763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:06:26.24 ID:P9hcl3opF
随分かかったが、
甲州布施の仙次郎と下曽根の弥十郎が衝突したのは、
明治12年3月5日と翌6日の二日間。どちらも場所は下曽根とのことだ。

通説だと11年とか16年とかあるが、これは12年が正しい。

1764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:10:02.90 ID:P9hcl3opF
さらにその10日後、同じ下曽根で長五郎という博奕打ちが
妾と間男を殺傷し、
おまけに外にも間男が5人いるとの風説を信じて、毎夜林野に隠れては
住人を突け狙った。
これにおそれを抱いた村の男たちは、日が落ちると外出をやめ、ある夜
近隣の家が出火した際も、だれもその消防に努めることができなかったのを
甲州中から笑いものにされたとのことだ。

無論この不名誉なことは、どんな伝説・伝承にも語られることはなかったが。

1765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:54:20.82 ID:m4SRGzuvi
五明の亀吉
田黒の文吉

1766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:56:14.22 ID:m4SRGzuvi
増尾村の橘勝

1767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:10:48.72 ID:ruaV/vnhE
増尾村(埼玉県比企郡小川町)の橘勝こと重左衛門は
相当な親分だったのだろうが、本人の事績は見つからない。ただし子分には
西ノ入村無宿平太郎などがいた。
平太郎ら橘勝の子分数名が長脇差を帯びて、秩父・比企一帯を歩き回り、
旅人や百姓にけがを負わせていることから、手配に上がっている。
これは天保4年と、随分早い時期のことだ。

この年からして、近隣の博徒である田黒の文吉や、五明の亀吉は
橘勝の子分のような存在だったのではないか、と推測される。

橘勝の出る史料は『小川町の歴史 資料編5 近世U』、小川町、平成13年
の464頁

1768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:36:27.41 ID:ruaV/vnhE
五明村の亀吉は、
嘉永二年の石原村幸次郎騒動で、共に行動した仲間として有名だろう。
もちろん親分格。
嘉永二年の10月には捕まり、打ち首(?)らしい。

しかし、それ以前から亀吉の活動はこの地域ではちらほらうかがえる。
中には「亀吉とその子分に宿を貸さないように」などという触れも出ているくらいだから、
結構な知名度が地元ではあったのだろう。
今でも五明は道が交差する交通の要所で、南から来た場合小川町への入り口の様な場所に位置する。
それだけに人の往来もあり、金銭収入を目論む博奕打ちにとって、都合がいい場所だったのだろう。

1769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:40:22.46 ID:ruaV/vnhE
田黒村文吉は、五明村亀吉の兄弟分だと書かれている。
いずれ、今でいう埼玉県の生越、都幾川、小川の辺りの人たちだ。

嘉永元年には、はやくも入間郡の寺竹村で捕まっている。割合に南に降りてくることが多いらしく、
扇町屋(入間市)辺りで博奕を催したりなどしている。
これを捉えたのが、飯能の岡っ引き・森太郎。
なので、報復として一年後に森太郎の宅は文吉の子分や兄弟分から襲撃を受ける。
ただ、本人は何処からか情報が回ってきたのか、いずれにせよたまたま留守にしていて
無事だった。

1770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 13:28:41.79 ID:3ZWO2cBsq
読めば読むほど、『博徒の幕末維新』は、
それまでの任侠研究者の発見を、さも自分で見つけたもののように扱う点で
ダメだ。
もっとも侠客・博徒を「学術」の世界に置いた点で「初」と
著者が、自分で言っているので、そういう意味で「発見」となるのかもしれない。

鹿島茂のような頭のいい人でも、
分野が違うことから、その辺りの差異がまるでわからぬので、
手放しで称賛したあとがきを書いてしまう。
よっぽど任侠研究史に詳しくなければ、それは確かにわからんだろう。

でも誤魔化されない人間は、結構多くいるものなのだ。

1771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:17:40.18 ID:3ZWO2cBsq
卯年(天保14年)に多摩から入間、高麗にかけて回覧された人相書きには
武州比企郡玉川村 無宿金八、
忰 八蔵
同村 伝三郎
同州同郡立原村 無宿代三郎
同州同郡田黒村 文吉
同州同郡五明村 亀吉
右玉川村 菊
とある。計七人の人相書きだ。(人相部分は略)
これは上尾宿の目明し枡木屋太郎吉が、青梅の川越領へもたらした。
最期の菊という人は女性なのかもしれない。二十三才くらいで、丈は低く、痩せがた、色黒、顔は細く、眉は太い。
さらに鼻筋が通っているという。

この文書には、手配に挙げられた理由は書かれていないが、他の史料と照らし合わせると、
どうやら八蔵が岡っ引きを二人斬ったことが、手配に挙げられた理由のようだ。
なお八蔵の渡世名は「砕岩(破岩)の八蔵」らしい。

1772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:19:50.38 ID:3ZWO2cBsq
武州比企郡玉川村は、現在では埼玉県ときがわ町

1773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 21:45:47.53 ID:3ZWO2cBsq
豆州の浅五郎

1774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:26:54.19 ID:ricNYUTBn
樋口村無宿平六

1775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:37:06.43 ID:ricNYUTBn
樋口村の平六は、やはり嘉永二年の石原村無宿幸次郎の件で、
連座して捕まった博徒親分。
いろいろと経歴はわからないわりに、大物だったらしく、後の時代になっても
樋口村平六の子分だった、という任侠が村々を騒がせている。
(小川村の弥十郎、鷲太郎など)

さて、この樋口村だが、今日検索すると、秩父郡樋口村というのが一番に上がる。川船流れで有名な
長瀞あたりの村だ。
だが、平六の捕まった時の記録によれば、彼の出自は大里郡樋口村であり、実は違う場所なのである。
大里郡樋口村は既に地名としても残っていない(実はあるのかもしれないが)が熊谷市の「樋春」というところがそれにあたる。
樋春は明治五年に樋口(ひのくち)村と春野原村とが合わさってできた地区なのだという。
合併が何と言っても明治の5年なので、それ以前の樋口村という地名が完全に消え去ってしまっていても
これはもう仕方がないことだ。

というわけで平六はこの辺りの出身。

1776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:38:41.20 ID:ricNYUTBn
なお田中村岩五郎も大里郡田中(深谷市)であって、比企郡田中(ときがわ町)ではない。
五明の亀吉が比企の田中のすぐそばの出生ではあるが、岩五郎はもっと熊谷寄り。
中仙道や荒川に近い方を出自としている。

1777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:45:06.33 ID:ricNYUTBn
いずれにせよ、埼玉県北部の侠客を調べてみると、やはり熊谷に中心があるように
思えてくる。なのに現在進行形の熊谷市史では、
その点を全く無視しているというのは、けしからん話だ。むしろ昭和に編まれた市史の方が、
そういったアウトローと呼ばれる人々の記録を市史・町誌・村誌に挙げた。
今の学問世界がいかに政治的な歴史観の下にしか機能していないか、露骨に示す事態だろう。
手に負えないのは、編纂を行っている大学院での先生方が、本気で地域の博徒・侠客、伝説、伝承の類を
知らない、ということだ。彼らに全く悪気はないし、純粋。(人間的にも良い人が多い。)
単にそう言った者にたいする興味や存在そのものを問うという姿勢が、いまや初手から全く無いのだ。
歩いて歴史を見つけるなんてのは、もう化石化した、古い古い学問態度なのだ。

1778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:34:47.22 ID:QnvFQTIvz
豆州の浅五郎と書いたが、友五郎の誤りだ。すまんことです。

1779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:52:57.25 ID:QnvFQTIvz
伊豆の友五郎は最初、相良の富吉の子分だったが、
富吉が田中の岩五郎との抗争で、藩の意向に背いた行動をとったため、
流浪するに及び、さらに後年、安東文吉子分の小出の繁蔵に召捕られ、不運にも牢死した後は
明治5,6年まで安東文吉の元に厄介になっていたという。
その後、同郷の兄弟分だったとの理由で伊勢の丹波屋の元へ行った。

姓も分からないが、実在の人であったことは、確かな文書に残っている。

1780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:56:39.15 ID:QnvFQTIvz
中条の弥五郎

1781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:17:54.01 ID:uZysahKDF
「中条弥五郎さんと勝頼さんは死んで新府に名を残す」

これは甲州韮崎に伝わる歌だ。いうまでも無く「勝頼さん」は武田勝頼。
父信玄が死んだ後、織田、徳川と戦うため、新たに新府城を韮崎に築き、ここを
中心に国を固めようとした。しかしその矢先に織田の侵攻に合い、泣く泣く出来上がったばかりの城を捨て、
東へと落ち、笹子峠を越えられぬまま死んだわけだ。
だから、地元の同情も込めて、死んで新府に名を残した。

一方中条の弥五郎さんは、博奕打ちだったと言われている。詳しいことは何もわからないが、
多分賭場の上の争いで亡くなり、その様が天晴だったのか、名が残ったのだろう。
(もっとも歌にしか残らず、伝承の類は消えた。もちろん史料も無い)

一点いえることは、中条は「佐久往還」の宿場だった、ということ。信州では、
佐久甲州街道と言い、往時は結構盛った土地だった。今ではその片鱗もないし、研究も、
ここが宿場だったことは地元民ですら認識していない。
でもだからこそ、弥五郎さんのような博徒・侠客が活躍できたのだ。

1782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:30:44.78 ID:uZysahKDF
秩父には「忍藩秩父領割役公用日記」という日記が残っている。
秩父の図書館に行けば紙焼きで膨大な数残っている(閲覧・印刷可)し、『秩父市史資料』として、
翻刻が今も出続けている。

秩父で事件が起こると、わりあい近場の組合から人員(人足や岡っ引き)が呼ばれ、その中には
飯能組合や扇町屋組合も出ることがある。
飯能では小山森太郎はほぼレギュラー入りで名を出す。注目したいのは扇町屋組合(扇町谷組合とも)で、
基本になる場所は、今の「入間市」近隣の村々だ。
ここの道案内(目明し)として、まま名がでるのが、「安五郎」と「庄五郎」。

これはひょっとしたら、二本木村の安太郎と庄五郎兄弟なのではないだろうか。
基本的に、道案内(=岡っ引き、目明し)は、その組合村の人員の中から選ばれる。
二本木村は扇町屋のすぐ隣で、当然扇町組合に含まれる。
もちろん人違いということもあるが、名前がほぼほぼ一致するし、立場としては申し分ない。
彼の墓石にいる「黒須の茂助」や「大井の加藤健三郎」なんかも同類だったらしいし。
とすれば、あの立派な墓石や、勢力の理由もよくわかるというもんだ。

1783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:41:04.83 ID:uZysahKDF
ただし、慶応2年の武州一揆に際し、同一族からは「瀧蔵」(滝之助)という
博徒が出ており、一揆に参加し、頭どりとして騒ぎ立て、ついには捕縛までされている。

瀧蔵が実在したことは史料からも明らかで、そこにはご丁寧にも「博徒安五郎弟」とある。
「安太郎」とは無いが、これは安太郎本人に違いないし、あるいは安太郎は渡世名が「安五郎」だったのかもしれない。
(他にも例がある)

つまり、二本木の親分は三兄弟で、安太郎、庄五郎、その下に瀧蔵がいたのかもしれない。
上の二人は幕府に尽くし、滝蔵は「変革」に賭けたということになるだろうか。
いずれにせよ瀧蔵の墓は無い。
存在は子孫にすら伝わっていないし、子孫は自家の詳しい履歴さえ、もうわからぬとのこと。
(責める気は毛頭ない。当然、もうそういうものだ。明治よりまだ前なんだもの)
菩提寺のご住職も若く、とても良い方だが、地元の侠客一家の存在や、その土地がどういう地理的位置づけだったかすら、もう知らない。
これも責める気はない。全国的にそういう時期なのだから。就中、俺だって「何にも」知らない、わかってないのだから。

1784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 00:01:53.79 ID:fMLaPnVXy
せっかくだから南信州出すと、諏訪は、おいておくとしても、その東側の道を通る
佐久(岩村田)。
手前の佐久穂から南牧村(海尻、海瀬、海口)などに関しては、
『川上村誌 資料編』(川上村、平成10年)の662頁あたりに、割とその筋の人間のいざこざが
書かれている。岩村田の伊勢松とか、松井田の嘉市、海瀬の嘉兵衛、広瀬村吉右衛門とか言う人たちがいたようだ。
文久3年のこと。

1785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:17:08.64 ID:rrimjqskJ
黒駒勝蔵一党の永井村新助は
姓藤巻。
芦川村での新助騒動一件として、伝承(あるいは古文書史料)が残っており、
あらましは、1443に記したとおりだ。

しかし親族には恵まれたらしく、明治になってから兄ちゃんによって、なかなか立派な墓が
建てられた。「遺言により」とか寺の過去帳には入っているそうだ。
没時は慶応3年十一月。

1786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:26:33.90 ID:rrimjqskJ
勝蔵と一緒に名をあげる手配書の中で、
墓石が残っているのは、正徳寺の太八(根津太八)と、万力の森太郎、それとこの永井の新助。
甲州外では平井の雲風と宮島の歳蔵(←もう現存していなかったように思う。)
川口の安太郎はひょっとしたら(けっこう正しいと思うのだが)弁天安太郎事笹本安太郎かもしれない。

他にも以外にあるかもしれないので、調査を続けよう。

1787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:31:21.77 ID:rrimjqskJ
八千蔵の要次郎というのは、文久3年(元治元年と「口供書」にはある」では、
祐天と三蔵宅に殴り込みをかけた際に、
三蔵方相手に一隊を率いていった程の、黒駒組では重鎮にあたる人物。
古屋留吉の証言では四天王の一人という。(大岩、小岩、要次郎、綱五郎)
けれど伝承もないし、史料もない。
慶応二年の手配書には名前がないから、それ以前に切り死にしたか、捕まって牢死したか。

1788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:42:48.88 ID:rrimjqskJ
八幡北村猪之助は、四ノ介とも書かれる。
(悪いけれど)今川徳三さんの本では、東京にいった勝蔵に付き従った腹心子分の様に
かかれていたが、多分慶応2年に勝沼の田の溝に遺体となって倒れていた
猪之助(亥之助)が彼の事だろう。出典は詳しくは忘れた。勝沼町史料のどこかだったように思う。
ただ、元治元年の犬上郡次郎襲撃では、猪之助の棒が郡次郎の足を払ったおかげで、
仕留めることができた、と「口供書」に確かに書かれている。

思うのだが、もう死を覚悟した勝蔵が、子分連の名前を挙げるとき、
あるいはかつての仕業の中でも特記すべき郡次郎殺しを挙げる時、かなり詳細な記録を口述していることになる。
勝蔵は、事件の年度こそ、度忘れすることはあっても、子分の面々の名前や
活躍はしっかり覚えているのだ。(他失念の面々と言う時は、現命していて、名前を挙げると本人の不利になるとわかっているから
挙げないのだ)
だから、これらの血なまぐさい活動を、新政府の下で窮屈に陳述するとき、
その時だけは勝蔵の口角は上がっただろうと思われる。
勝蔵はなんやかや言って、仲間たちとわいわいやってる時が一番うれしかったのだと、私は思う。
蛇や蚊や蜂、ネズミだってでるような山奥のぼろやにいるときも、
武装した役人や農民兵の追跡を受けるときも、頼りになるのは
かけがえのない仲間だ。
給金を払うでもなく、未来を保証してやるわけでもない。現在すら危ういのに、
逃げずに固まって傍にいてくれる。人間たちだもの、忘れるわけがないのだ。

1789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 23:08:09.95 ID:rrimjqskJ
村芝居(天下の守屋穀氏が好んだ言い方)
には、地元の侠客が関わることが多かったという事実は言を俟たない。
彼らは村芝居を支える「若者組」の相談や、後ろ盾として(もちろん自分の利益第一だが)
興行の表に立って交渉した。
好い例が『手前味噌』の岡田の瀧蔵などである。

このことは他にも守屋氏の著作や、天才氏家幹人、小林文雄などの論文・著作を読めば明らかだ。
ところで、これを逆に考えれば
村芝居(最近でh「地芝居」「田舎芝居」「農村歌舞伎」と呼ばれる」
の盛んだった場所を当たれば、そこに勢力のある侠客がいた、ことになる。
もちろん上に上げた碩学の本を読んだ上で、同じようにフィールドワークをすることなど、
凡人には出来ないことだが、
遠州で、「都田」が昔から村芝居の盛んだった(今はどうだか知らんよ)という点は
無下にできまい。
都田源八、吉兵衛、常吉、梅吉が登場した場所というのは言うまでもない。
ちなみに今は都田テクノポリスだ。

1790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 21:57:50.70 ID:bj4Ud06lG
ヤフーオークションで古文書が高騰しているのは、周知の事実だが、
大事なのは、その古文書なり史料なり、あるいは墓石史料(きちんと供養の心があるなら、碑文は十分史料と言っていいはずだ。)なりが、
自分のところに来るか、どうかだ。

自分のところに来ないのなら、それは縁がなかったのだし、「お前はこれについて色々言ったり発表したりするんじゃないよ」
と云う意味なのだ。いわゆる縁がないというやつだ。
だから大金を積んで無理をする必要はない。

しかし自分が適合だった場合、これが来てくれるんだわ、向こうから。
そして来てくれたら、それに答えるだけの努力をする。これが唯一の返礼と言うものだ。
これが最近やっとわかったことだ。教科書は無い。自分で模索するしかない。
しかもそんなの当然わかっていて、ずっとそれをやってる人も多数存在するのだから
まったく参る。

1791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 22:32:57.78 ID:MlE9VE6WD
18世紀のイギリス文学者にサミュエル・ジョンソン(ジョンソン博士)という人がいる。
生まれつき、片耳が聞こえず、片眼が見えず、首には醜いコブがあった。
しかし文が立ち、多少変人ではあったが、人格が高潔で弱者を愛し、権力には反抗した。
英語史の上では『英語辞典』を編纂した(それも独力で)ことで有名だ。(他にもいろいろやったが)
この人は多くの警句・格言を残したことでも知られるが、次のそれは侠客を考える上でも有用だ。

「愛国主義は無頼漢の最後の避難所である。」

そうであってはならない、ということ。さらには、後世の人が無理やりに、そういう評価を下してはならないということだ。

1792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:22:01.89 ID:Vd3b5tvAi
いまだに後悔するのは堀端の与三兵衛のことだ。
ちょうど10年前に子孫と思しい方にお会いして、話をした。全く偶然だった。
ただそこで、ちょっと苦手な人だな、と思ってしまい、またいずれ…
としてしまった。
今では引っ越してどこへ行ったか定かではない。
上でも何度か書いたが、富士の麓の出入りに一宿一飯の恩義で参加して戦死した、
との話を聞いたし、それ以来子孫の間では博奕は絶対手を出してはならない。
トランプに障るのすら禁忌とされている、とのことだった。

もっとも、このトランプに障るのすら御法度!というのは、かつて先祖に博奕打ちがいた、
というお宅ではまま同じフレーズが聞かれるので、何か元ネタがあるのかもしれない。

『慶応水滸伝』では与三兵衛(與惣兵衛とも)は、親分格となっているが、どうも一本独鈷の
博奕打ちだったと伝わっている。これは義兄に当たるとされる回田の栄太郎や連雀の嘉助も、どうもそんな話だ。
平親王平五郎、小川の幸八は確かに親分だったらしい。八軒栄次はむしろ
地元の顔役で、香具師みたいなことをやってたらしい。

1793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:27:28.65 ID:Vd3b5tvAi
小金井小次郎の周辺だと、意外に大物なのが、
田無の増五郎と野中の音次郎だろう。この二人は小次郎の子分では無く、兄弟分で、
それぞれ小川の幸八と敵対している。これは推測だが、増五郎は久米川にいたこともあったのではないだろうか。
田無には他に鉄五郎(鉄蔵)という人もいて、この人が事跡は残らないが、相当な勢力があったっぽい。
まず小川ー田無間で反目があり、それが府中ー小川間に飛び火した。その後、所沢、前沢、砂川といった地域が
それぞれ分かれて、共闘し、小次郎が一つにまとめるまで各々独立して気炎を吐いていたのだろう。

1794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:35:05.46 ID:Vd3b5tvAi
砂川に清水三兄弟という小次郎の兄弟分がいたようだが、
彼らの父は清水与五右衛門と言って、八王子千人同心を務めていた。
武芸も達者で、伊勢腹(伊滝伊勢五郎)先生の門下で天然理心流を学んでいる。
どういう理由か与五右衛門さんは千人同心を首になり、没落した。なにか大きなミスをしでかしたらしいが、
今のところ、それがなんであったかは不明だ。

腕も立つし、一時は立場も普通の百姓よりちょっと上だった三兄弟が、
気落ちする父親の後ろ姿もみながら、気合入れて頑張ってしまうという気持ちもわからないでもないだろう。
砂川は新田としては非常に広大で、資料なんかだとしょっちゅう博徒の抗争が起きている。
玉川上水が中央に流れ、木々も豊富だ。オウム事件の時にサリンをここの橋のたもとに隠した、
なんてことを地元の風呂屋(今はもうない)で聞いたこともあるが、
ちょっと他の村、新田とは趣やシステムが違うように思える場所だ。

砂川は良い郷土研究会があって、精力的に機関紙をだしている。ご高齢だが、
すごい方々が集まっておいでだ。ただ、博徒・侠客に関しては何も書かれない。
知っていてわざと口をつぐんでおられる可能性が高いが、みな人間レベルの高い方々なので、俺など
行っても手も足も出ない。

1795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:44:04.94 ID:Vd3b5tvAi
酔ったついでに書いてしまうが、郷土史で一番つまらない文章を書くのは、
若い頃に史学をかじった、または史学科に所属した、という人達。
下手に学会を意識したような、史料を元に分析した、みたいな文章を書いてしまう。しかも
結構紙面を使って、気合のはいった表なんかを貼る。
実はこれがつまらない。一番とは言わない。(一番つまらないのは、自分の生い立ちや経歴、職歴を並び立てる輩だ。)
これに比べると、自分が昔見たことや、上から聞いたことを、そのまま陳述してくれる
朴訥な書付の方がずっといい。(というよりこれは理想だ。)

しかし今気づいたが、これはそのまま自分に向けて跳ね返ってくることだな。

1796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:51:39.83 ID:Vd3b5tvAi
赤間源右衛門

1797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:40:28.32 ID:JaJ8Lc/L2
赤間源「左」衛門が正しかった。
芝居『与話情浮名横櫛』で、敵役として登場する侠客が赤間源左衛門である。
主人公与三郎は「切られの与三」として名高い。
作り話ではあるが、与三郎も源左衛門も、それにお富もモデルがおり、
当時の風俗を活写した作りになっている。そこで源左衛門の登場する「赤間別荘」の場はこんな感じである。

一「されば、ここの親分の赤間源左衛門様は、この木更津で羽のきく親方」
ニ「近郷近在を男を磨く手合いが、時折ふしの見舞い」
三「その喜びだと言って、この通り、酒肴もたっぴつ(たっぷし?)に」
四「村方のわしらへまで、酒をたらふく振る舞わっしゃるからは」
全員「さてさて気を張られたことでござる!」

この芝居が瀬川如コウに書かれたのが嘉永6年(1853)というから、だいたい当時の
言い回しや単語、そういう慣習が書かれているわけだ。
この時源左衛門は「御用を達す身分」になったとされている。つまり目明しに任命されたわけで、
得意の源左衛門は子分ではない、村の若い衆にも「酒をたらふく振る舞わっしゃ」ったのである。
侠客と百姓、とくに若者衆とはかなり近い距離にあって、
しかも一種、憧れの存在という意味合いも、この十手持ちの侠客にはあったということがわかるだろう。

以上は、もちろん私の思い付きではなく、氏家幹人氏の『江戸の少年』の一部分を
抜き書きした。(この本は侠客研究でも必携と言っていい)

赤間源左衛門、モデルになったのは実在の侠客である「山本源太左衛門」という
人との事。木更津の人かどうかは不明で、一説には東金。あるいは品川の人とも言う。

1798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:44:23.97 ID:JaJ8Lc/L2
ああ、一、二、三、四、全員というのは、
源左衛門の宅に招かれた若者衆である。四人いて、それぞれ台詞を言った後で、
最後に全員そろって「さてさて気を張られたことでござる!」
という訳である。当時のこの芝居の呼吸というのは、衣裳のすばらしさや、台本の妙や(もちろん芝居自体の巧みさ)
らがわかれば、きっと相当に面白いだろうなとは思う。
ただ今日では日本の芝居・歌舞伎は日常からは遠いところにありすぎて
とっつくことができない。まだミュージカルの方が身近にあるというのが、なんとも皮肉なことよ。

1799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 20:52:11.18 ID:SSvWyrVxe
黒駒勝蔵は悪者に決まってるだろ。
だから良いんだろ。

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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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