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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/17(水) 21:36:30.97 ID:tNnpPHC40.net
矢畑の藤五郎(仙川の藤蔵とも)は、小金井一家一の知恵者と言われる。
陣屋三之助は小次郎のいとこにして片腕。一の子分が新橋長蔵である。
小川の幸蔵は、小次郎の傘下ではあるが、陣屋とは犬猿の仲だったらしい。
よって小金井一家とは若干趣を異にする。
神山栄五郎は清水次郎長の子分にして小次郎の傘下でもあったが、彼も
陣屋とは相いれない仲だった。(後、土支田一家の祖となった。)

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/17(土) 18:28:05.64 ID:SFFNbeU80.net
姐さんは一般的に親分の何分
?若しくは何厘下がりですか?

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/19(月) 13:19:11.90 ID:GZrchh3o0.net
>>159
不勉強なため明確な答えができません。申し訳ないです。
ただ、松尾四郎の『史話と伝説』と子母澤寛の『遊侠奇談』に以下のような
記述があるので、少しは参考になれば、と思います。

―大場久八妻の「おもんさん」について―
 どこへ行っても大場の姐御で鳴らした婆さんだ。小金井の小次郎へ行っても、
 上州館林の虎五郎へ行っても、姐さん、姐さんで取り持つ、横浜の埋地の仙太とか、
 綱島の子太郎など、明治末期まで飛ぶ鳥を落す勢いの貸元連中が、一家の中に
 うようよしていたのだから、久八死後といえども婆さんの懐具合は悪くなかった。
         『史話と伝説』松尾書房 S45年

―甲州・吃安の妻について―
 甲州は何処へ行っても、ばくち打ちの女房に対して、乾児でも、旅人でも「あねさン」
 という。乾児などは、自分の親分を親といい、仁義の時でも、自分を「子」と名乗る
 以上、その親分の女房はお袋さんというべきを「あねさン」で通すのは、正妻ではなく、
 妾であるからだということである。
  『遊侠奇談』

基本的には、明確な決まりは無いのではないけれども、姐さんに接する態度で、
むしろ子分たちの力量がよく計られるのではないでしょうか。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/29(木) 00:34:17.34 ID:2p1Js29G0.net
長禅寺の音五郎

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/29(木) 23:29:49.33 ID:2p1Js29G0.net
黒田屋祐蔵

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/31(土) 20:22:58.36 ID:pRf/DkAF0.net
侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/31(土) 20:23:55.52 ID:pRf/DkAF0.net
小俣周太郎

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/28(土) 08:08:20.64 ID:QSVfzeL7T
厚木の駿河屋彦八

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/01(日) 18:25:21.72 ID:PYuAFAqY8
橋本の平野屋政八

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/04(水) 23:27:08.85 ID:1Jf2P7jiA
武州岩殿観音ノ徳
ならびに、観音ノ菊

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/13(金) 23:41:35.43 ID:PxFR59Dmp
駿州吉原宿の宮島年蔵

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/18(水) 23:03:52.63 ID:hwB/hHFum
下田の赤鬼金平

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 23:29:56.79 ID:QfOvMRzrD
前にも書いたが、「ドス」とは刃物一般を差し、博徒ではなく浪人の陰語。
よって「長脇差」は「ながわきざし」と読む。あるいは「ドス」。
「長ドス」とは読まない。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/02(土) 22:17:10.82 ID:TwM7Plpy0.net
小久保林蔵

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/06(水) 22:46:07.61 ID:St7tF/AD0.net
宇津谷伝右衛門

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/07(木) 23:59:45.27 ID:ehhVe0+80.net
女無宿おりは ってどういう人だったの?
任侠ドラマ(フィクション)における立ち位置でもいいからおせーて。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/09(土) 08:32:55.49 ID:WkEPLYRj0.net
上記のように、俗に言う竹居吃安の「十人集」というのに名を出している。
おりはさんを単体で扱った本には今川徳蔵の『新・侠客100選』があって、
これによれば、大柄な美人で人当たりがよく、その上に吃安から賭場の代貸を任されていた
とされている。
また、彼女の賭場では一枚で金一両に相当する「金コマ」だけが使用されていて
今で言えば高級ディーラーの差配するカジノのような趣だったらしい。

確実な史料だと、甲州上芦川(笛吹市)の古文書に、「上芦川百姓平兵衛の後家、りは」
として名前が出てくる。元治二年二月、無宿共が集まった「りは」の賭場に役人の手入れがあり、
彼女も含めて、全員その場から逃げ去っている。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/09(土) 08:41:33.19 ID:WkEPLYRj0.net
博徒連中の中では際立った存在だったため、しばしば小説中には登場させられる。
かなり古いが竹内勇太郎の『俺はども安』では、若い頃のども安を指導する(?)
姐さんとして扱われているが、無論これはフィクション。
最近だと『裏返しお旦那博徒』の中で、吃安と浪人犬上郡次郎の友情に
ひびを入れる存在として扱われている。
どちらにせよ、美人でさっぱりとした気性の女性とされている。
あとは松尾四郎の『竹居吃安』。あまり良くは書かれていないが、一番真実に近いの
かもしれない。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/12(火) 23:55:53.27 ID:b8xQcgGR0.net
>>174
ありがとうございます。
>大柄な美人で人当たりがよく
という部分が一般的な侠客に抱く私のイメージを超えてましたが
>高級ディーラーの差配するカジノのような趣
こう考えると、なるほど、そんなキャラもありえたのかもしれないな、と納得。
ただ、そういうキャラで生きるには年齢的なものが男性よりずっと厳しいように思うと
亡くなった歳やいきさつが気になります。これについて書いたものはご存知ですか?

あと松尾四郎の『竹居吃安』というのは『侠客竹居の吃安正伝』のことでしょうか?

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/13(水) 23:26:26.61 ID:SUtIg4Iq0.net
『竹居の吃安正伝』のことです。さすが「国書刊行会」と恐れ入るばかりの
目のつけどころですね。

現存する仁侠研究の最高峰、植田憲司先生のブログには、その後改名し、
愛知かどこかで亡くなったおりはさんの事が調べられていたように
記憶していますが、今はブログも閉鎖されています。

貴方が根気よく、探訪、研究を続けていけば、いつかはわかると思いますよ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/15(金) 09:02:06.29 ID:mHJCSPeS0.net
>>177
ありがとうございます。

惜しいブログがあったのですね。スナップショットの断片を探してきましたが、
インターネットアーカイブスの性質上、収集されていないページも多々有ります。
画像は特に絶望的で、どの情報がどこにあるか容易には解らない状況です。

http://web.archive.org/web/20090225141744/http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/bakutomeibo0.htm

上のサイトの甲州の欄は見たつもりなのですが、おりはさんを見つけられないでいます。
もしよろしければ、どのあたりに書かれていたか記憶をたよりにヒントをくださいませんでしょうか?

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/17(日) 01:24:34.53 ID:Y/VM417s0.net
こんな機能あるんですね。知らなかった。久しぶりで植田先生の仕事を
見れました。感謝します。残念ですがおりはさんに関しては全くわかりません。

ただ一つ言えることは、若干(かなり?)オカルトな感じですが、
故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。
史料はあるのに、様々な理由で一般に出ないようなものは、やはり故人が、それを望んでいないから、
なんじゃないかと最近思うのです。

まずは自分がどうしてその人を調べたいか、と考えることです。その上で、その人の生涯を尊重する。
そうすると、ある日偶然、手掛かりが見つかります。自分の経験上そう思います。
それからとにかく歩くことです。(なにしろ相手は一日50キロは平気で歩く「遊侠の徒」なのですから。)

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/18(月) 09:56:12.96 ID:/DMZK/le0.net
>>179
>故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。

実は私も奇妙な経験があります。「侠客の歴史」からは時代も場所も違う別分野においてですが
ものを書く際、何をどうやっても進まないパズルが、ひとたび悪役の理解に努めることで
そのピースを切欠として一気に全体が仕上がることは1度や2度の経験では有りません。

今は「あたりをつける」段階で、どういう人物か調べ始めたばかりですが
なるほど仰るとおりで、思い込みや期待にゆだねて先走ったところは故人への礼を欠きましょう。
侘びではないけれど最初から考え直してみたいと思います。ほんとうに有難うございました。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/18(月) 23:26:36.75 ID:vAU4w9080.net
武州の多摩川縁、柴崎村の粂蔵親分は自身十手持ちでもありながら、
博奕を催す地元の親分で、何より多摩川鵜飼の総元締めだった。
姓は中嶋。不幸にして早世した倅捨蔵は、天然理心流近藤周助の門弟、
つまり近藤勇の兄弟弟子だった。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/23(土) 23:26:08.86 ID:crbd6lZZ0.net
石井の伴内

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/24(日) 00:20:14.47 ID:fdLSq3er0.net
とにかくヤクザはたかり
紙幣を印刷してるわけじゃないんだから
たかりが仕事
たかりのダニ
たかりのくず

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/24(日) 19:15:16.80 ID:Kg00cTPo0.net
このスレ初めて見ましたが興味深いですね

>>181
玉川要蔵が甲陽鎮撫隊に協力したという話は事実でしょうか?
やはり剣流を通じて繋がりがあったのでしょうか?

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/25(月) 23:24:01.39 ID:oKzQg1Dx0.net
「佐藤彦五郎日記」慶応四年二月に「新撰組の土方から亀吉が使いに来たので、
四ツ谷惣蔵倅の要蔵、下宿兵助弟幸助両人が、亀吉に従って出府した」
という部分があります。玉川亭要蔵は日野の四ツ谷惣蔵(宗蔵)の倅で
間違いないので、少なくとも勝沼の戦の前に彼が土方歳三に呼び出されたという
事実はあったようです。また使いにたった亀吉は八王子のソバ亀親分だとも言われており、
戸羽山瀚によれば、彼も大場久八の「辰巳隊」の一員として勝沼戦争に参加した、
というので、辻褄は色々と合うように、私は思います。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/25(月) 23:30:50.89 ID:oKzQg1Dx0.net
要蔵親分が天然理心流だったかは定かではないですが、
明治11年には無宿博徒の捕縛で警察に協力したという理由で
神奈川県から褒章を受けています。
白刃を持った敵に立ち向かったとあるので、武芸の心得はあったように思います。

187 :179:2015/05/26(火) 19:19:05.83 ID:4299A46o0.net
>>185-186
どうもありがとうございます。
要蔵は松本捨助と義兄弟だったなどと伝え聞くものの
史料的裏づけはほとんど得られていませんでした。
また、『佐藤彦五郎日記』には目を通していながら、
「亀吉」「四ツ谷惣蔵伜要蔵」が何者か判断がつきませんでした。
なので、貴重な手がかりをいただき助かります。
剣流はともかく、やはり彦五郎の存在が要因として大きいのかもしれませんね。

「下宿兵助弟幸助」も正直よくわかりません。
「兵助」は馬場兵助かと思ったのですが、
馬場兵助の実家「扇屋」は下宿でなく中宿と聞きました。
追々調べてみようと思います。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/27(水) 22:42:54.64 ID:UHbLqkPy0.net
野州佐野、京屋の元蔵

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/27(水) 22:50:55.85 ID:UHbLqkPy0.net
京屋元蔵は、十手持ちの目明し親分
子母澤寛の本だと京屋銀蔵とも書かれる。若い時分の江戸屋虎五郎に目をかけた話は有名だ。

野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋銀蔵(元蔵)の、目が怖い

当時佐野には、このような里謡があったと言う。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/05/30(土) 14:11:01.50 ID:z1P2W1ty0.net
明治31年の小説『黒須大五郎』は、実話をもとにして書かれた「探偵実話」という
ジャンルに立つ作品である。まだ「推理小説」というジャンルが確立していなかった時代に
怪人・怪盗を主人公にした、この手の読み物が流行した。
作者は「無名氏」とあるが、実は都新聞の「高谷為之」。
高谷は元刑事であったために、明治期の刑事事件に関して独自の情報ルートを
持っており、それを活用した。
大五郎は明治5年の秋に御用になり、斬罪とされた。彼を首領とする一団は、
関東を又にかけ暗躍し、その捕縛は当時「明治三大捕縛」の一つに数えられたという。

高谷の所持していた調書を受け継いだ長谷川伸が、同じく大五郎を主人公に書いた作品が
『八丈つむじ風』である。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/01(月) 16:42:15.80 ID:1HJ7FMVX0.net
NHK「日本の話芸」
三笑亭夢之助「ん廻し」に博徒侠客の名前をたくさん挙げるくだりがあったけど
早口だから大場久八と清水次郎長のほかは聞き逃したorz

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 00:09:47.25 ID:8i8CoF/Q0.net
小金井小次郎一世一代の大喧嘩「二ツ塚の喧嘩」は『慶応水滸伝』によれば、
天保11年3月25日のことだという。
相手は堀端鈴木(現・小平市御幸町)の与三兵衛という親分だった。
小次郎側には府中の万吉、一ノ宮政次らが助に入る。一方与三兵衛側には、
平親王平五郎、廻田栄太郎、連雀嘉助、八軒栄次、小川幸八がついた。
いづれも実在の親分衆である。勝敗などは『慶応水滸伝』を読めばよろしい。

与三兵衛の子孫の家に伝わる話では、彼は後に「富士のふもとの出入り」に、
「一宿一飯の恩」との理由で加わり、戦死したと言う。彼は小川の親分と仲がよく、
自分の親分(小川の梅吉か?)を逃がし、自分は代わりに死んだのだと言うことだ。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 00:14:35.12 ID:8i8CoF/Q0.net
酔っていて文が乱れた。
「死んだとのことだ。」に訂正。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 22:26:30.90 ID:L4Zj8IHv0.net
『慶応水滸伝』、今時入手しやすいのは柳蒼二郎・中公文庫(2014)だけど
明治22年に『落花清風 慶応水滸伝』、同23年に『新門辰五郎・小金井小次郎 慶応水滸伝』が出版されたようで、
これらが最初の作品化なのか、あるいはさらに古く講談か芝居の元ネタがあったんですかね。

それに、実在の人物が出てくるけど、ストーリーはどこまで実話に基づいているんでしょうね。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/03(水) 23:24:52.37 ID:8i8CoF/Q0.net
一番古い『慶応水滸伝』は明治15年、小次郎没翌年の出版です。

少なくとも、関東取締出役の名前と任期、小次郎が木更津で捕まったこと、
また後年八王子で捕まったこと等は年代、日にちが正確です。
逆に明らかな嘘があるのは、一ノ宮政次の仇である八軒栄次を小次郎が殺したという
部分です。栄次は、史料より文久年間までは生存が確認されるためです。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/04(木) 22:11:02.53 ID:WQKHpde90.net
なるほど参考になりました。
『天保水滸伝』のように先に講談があったのとは違って
初めから書籍が出版されたわけで、つまり小金井小次郎を偲ぶ紙碑ですか。

ストーリーは虚実ないまぜで、事実か創作か判断つかないところもあるようだけど
それをわかって読めばいいと考えておきます。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/05(金) 00:06:02.63 ID:NWxDWyD/0.net
熱海の藤兵衛

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/05(金) 00:08:11.77 ID:NWxDWyD/0.net
豆州本郷村、赤鬼の金平(由五郎とも)

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/06(土) 09:45:40.08 ID:mhKqEAis0.net
登戸の桶屋長兵衛について何かわかりませんか

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/06(土) 17:20:42.52 ID:KVpQwGyP0.net
すみません。初めて名前を聞きました。もし差し支えなければ
長兵衛という方のお名前をどういったところで知ったのか、
むしろご教授いただけませんでしょうか?

201 :194:2015/06/07(日) 06:29:29.78 ID:puH19iTC0.net
趣味で郷土史を調べてる知り合いから聞きました
何か本に地元の人の昔語りが載っててその中にちょっとだけ出てくるそうです

小金井小次郎の身内で有名な博徒だった
剣術が強かったらしい
義人とあるので何か人助けをした?詳しいことは書いてない

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/07(日) 08:46:57.85 ID:KoC8oBSU0.net
たいへん勉強になりました。本当にありがとうございます。

203 :194:2015/06/07(日) 18:11:16.03 ID:puH19iTC0.net
当時は有名だったのかもしれないけど
今ではほとんど何も伝わってないみたいですね>桶屋長兵衛

もしいつか何かわかったら教えてください
よろしくお願いします

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 22:59:49.11 ID:amB22rG60.net
武州田無宿は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要所である。
また文政期以降は改革組合村の寄場を務める大宿であった。人の往来は多く、
自然諍いも増え、それに見合う調停者を必要とした。

通称「稲荷様」こと増五郎親分は、この人が出ればどんな争いもピタリと収まると言われる程の
たいした貫禄だった。綽名である「稲荷様」は屋敷の隣に鎮座する「笠森稲荷」に拠る。
よく増五郎は、小次郎の子分と言われるがそれは間違い。実際には増五郎の方が6歳年上の兄弟分である。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 23:15:05.82 ID:amB22rG60.net
増五郎の父は、升蔵と言い、更に輪をかけた侠客であったという。言い伝えでは、
「銚子の五郎蔵」の兄弟分という。
増五郎の子は竹次郎(別名・長四朗)といい、晩年は「増五郎」を名乗ったともいう。小次郎の
子分と言われたのはこちらの方だろうが、小次郎墓石の裏に、他の子分よりやや大きな字で、
名前を彫られていることから、その立場の違いを感じさせる。

増五郎に関する研究史料には皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』に加えて、
『田無地方史研究会紀要』4号掲載の楢崎成直氏による「博徒増五郎の背景」がある。

なお同じ田無の侠客、田無の徳蔵は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心になった。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/09(火) 22:14:18.05 ID:/UF+Vxn40.net
地元でちゃんと研究されているのはいいですね。
これらの資料もいずれ読んでみたいです。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:42:23.22 ID:7N2LplZu0.net
調べてみたら『落花清風慶応水滸伝』の初版発行が明治15年だったんですな。

・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた

スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:59:42.72 ID:BaHuJjM00.net
案外ばかにできないのが、揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)による「講談・小金井小次郎」です。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、
高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、
内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。

この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」に
シフトした感じがあるんですな。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 23:27:03.80 ID:BaHuJjM00.net
遠州浜松の国領屋亀吉

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 02:02:09.60 ID:oF8U949r0.net
>>208
近デジで見てきました。
文体の違いなどを考慮しても、揚名舎桃李のほうが確かに情報量多そうと思いました。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 23:04:05.77 ID:tbrEjNE/0.net
岩殿観音の徳次郎、菊次郎

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:15:36.20 ID:edtAtFuq0.net
関戸の長兵衛

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:43:22.17 ID:edtAtFuq0.net
江古田の幸平親分は、元旗本くずれと伝わり、御一新の頃の人物。剣術の達者で
ありながら、生涯一度も喧嘩をすることがなく、それでいて「幸平旦那」と呼ばれ、
たいした勢力だった。しかしこの人が博奕渡世をやめようと思ったことが四度ある。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。

ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 06:12:25.85 ID:1gY5IF240.net
結局、博奕は止められなかったんですか?
ギャンブルの魔力は恐ろしい・・・

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 03:20:27.00 ID:BcvwLJ430.net
落語「ん廻し」に出てくるのは広沢虎造の浪曲「清水次郎長」の一節だった
何代目の虎造かは言ってなかったけど
関東・東海道の博打打ちを挙げていくところ↓

寺津間之助
西尾治助
見附の小和田友蔵
藤枝 長楽寺清兵衛
伊豆の大場久八
富士郡 宮島歳三
雲風亀吉
そして駿河国安倍郡清水湊は有度町の山本長五郎こと清水次郎長

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 07:54:45.74 ID:Pt+xGqU90.net
宮島の年蔵とは…しぶいところを突いてきますな。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 16:05:29.19 ID:BcvwLJ430.net
小和田友蔵と宮島歳三はどんな人物だか全然わからんわ

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 21:07:31.46 ID:Pt+xGqU90.net
「宮島に過ぎたるものが二つあり、長左の牛に、年のヘッツイ」

駿州吉原宿在の宮島(現・富士市宮島)にかつて伝わった里謡である。村の長左衛門の
牛は力が強く普通の二倍の働きをした。年のヘッツイとは侠客・宮島年蔵親分のうちの
立派なカマドのことである。この、土間にある立派なヘッツイには金の茶釜が二つ、
往来からも見えるようにいつも置いてあった。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 21:22:33.19 ID:Pt+xGqU90.net
年蔵は武闘派の親分である。黒駒勝蔵に好みを通じ、次郎長と敵対した。文久以降国を
売った勝蔵が、年蔵の元に潜伏していたことは最近明らかになった事実である。

年蔵(正しくは俊蔵)の出生は裕福な農家であったらしいが、十一の時あまりに悪事が多いことから、
父親に殺されそうになるのを母が止め、そのまま家を出て蓄電したと伝わる。三年ほどしてひょっこり帰ってきて、
それから売り出し、本市場の金七、森嶋の重吉らを従えて、近隣に名のしられる親分となっていった。
年蔵は平気で残忍な行いをした。また豪奢な生活を好み、昼間から湯に入り酒盛りをしたという。
その一方で、気風がよく激情家の仲間思いであり、身うち・同胞、頼って来る者は命をかけて守った。
後年山岡鉄舟の知遇を受けて浮浪者の取り締まりをしたこともある。
とかく生涯を通じて次郎長とは張り合い、明治五年次郎長が公用で三嶋に行く際に、
金七と共に襲いかかり、果たし合いを挑んだとの逸話も残っている。

明治23年、66歳の時、ふらりと家をでてから、それっきり帰らなかった。
よってその日を命日としてある。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/14(日) 06:39:10.90 ID:IzOBTYR90.net
へー面白い
清水次郎長と敵対し黒駒勝蔵と懇意の人でしたか

へっついで湯を沸かしたら金の茶釜も煤で汚れるんじゃ
毎日磨くのが大変そうw

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 22:40:53.48 ID:EXapisWY0.net
山村の寺へ入り、墓石を覗くと、時に博奕打ちの墓に偶然行きあうことがある。
「関東吉五郎」という人の墓石が甲州のある博奕打ち親分の墓域に建っている。
何をした人かはわからない。多分永久にわからないだろう。
下総で生まれ、信州松本の博徒の家に草鞋を脱いでいた時に病死した。わざわざ墓石に略歴まで
刻まれているのだから、相応の人なのだろうが、いずれ親分共々無縁。朽ちてゆくのみなのだろう。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 22:48:23.67 ID:EXapisWY0.net
一人でつぶやくようなスレだったが、最近反応があるのは刺激になって有り難い。
うざったくない程度に、自分の今まで調べたつまらんことを書いていこう。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 23:35:13.72 ID:Mf3MPNek0.net
面白く拝見してますよ。
こういうスレがあるなんて知らなかった。
言っちゃなんだけど、2chにはもったいないくらい興味深い。
これからも無理のないペースで書いてください。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:02:24.02 ID:DduoZ9430.net
関戸長兵衛は、姓小林。多摩一ノ宮の万平親分の腹心だったようだ。
安政6年には、親分の万平、同門の熊造と連名で府中大国魂神社(六所宮)に
伊吹丸という大太刀を奉納している。
蓮光寺富沢家の日記によれば、長兵衛は数人の子分を従えており、各所で争いを調停している様子が伺える。
また娘が一人いたようだ。

ちなみに府中大国魂の伊吹丸の説明板では「長兵衛」は「長三郎」と誤記されている。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:22:59.45 ID:DduoZ9430.net
思いだしたので、府中でもう一つ。
府中宿で最も古い博奕打ちに福本屋の源太郎がいる。この源太郎が奉納した
見事な水盤が大国魂神社にある、と比留間一郎が書いているが、今はそこにはない。

実はここから東へ500m程行った「国府八幡宮」の敷地に移されている。
大型で形のよいこの水盤は、人けのない神社ではひときわ目立つ逸品である。
おそらく多摩地域でも一、二を争う大貫禄の水盤だろう。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:53:42.75 ID:yXXkRQTM0.net
伊吹丸は大国魂神社の宝物殿に展示されてるんですか?

連光寺の富沢家といえば名家ですな
「富沢家日記」の特に文久〜明治は読んでみたいけどなかなか機会がない

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 00:06:38.95 ID:+N6R+RRc0.net
大国魂神社 宝物殿のご案内 16.奉納刀
https://www.ookunitamajinja.or.jp/homotsu/16.html

伊吹丸って書いてあるから、これのことか

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 02:59:39.85 ID:+N6R+RRc0.net
府中で田中屋万五郎を思い出した
飯盛旅籠を経営、八州廻りの道案内ってことくらいしか知らないけど

御用聞きの元締めみたいな人物って話も聞いた

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:02:07.13 ID:6o2Vq8UQ0.net
いわゆる十手持ち・目明しの親分は、東海道なら遠州の棒周さん(中村周蔵)、
駿州の安東文吉、少しずれて甲州の三井卯吉、武州に入って田中屋万五郎
が有名なところだった。棒周さんは国領屋亀吉の親分、安東文吉は「首継なぎ親分」と呼ばれ、
次郎長も頭が上がらなかった。三井卯吉は甲州では武田時代からつづく、由緒ある「甲府牢番」の出自、
安政4年1月4日に市川の小天狗亀吉に首を取られたが、何といっても大者だった。

田中屋万五郎は、八州回りの居住地である内藤新宿(現・新宿)中町、府中本町、大和田町の三カ所に居を構え、
武州の岡っ引親分として威光は相当なものだった。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:18:02.84 ID:6o2Vq8UQ0.net
万五郎は、姓を長谷部という。明治3年75歳で亡くなっているが、死ぬまで実家の
除帳は解けなかったようだ。
上記のように武州の三カ所にねぐらを持ち、多数の岡っ引子分を率いていた。
天保15年、実質上岡っ引(道案内)が給金制度になるに及び、府中組合、中野組合、大和田組合、青梅組合の
4か所で同時に雇われていることからも、その勢力が伺える。
彼一人を雇えば、その下の子分連(府中の丑五郎、新宿の定吉、田無の万吉、青梅の吉五郎、川越の藤吉など…)
が働いてくれるという図式ができていたわけだ。
その勢力は、北は桶川、南は府中、東は内藤新宿、西は青梅と広範囲に渡る。

ばくち打ちとの相性もよく、小金井小次郎や甲州の祐天仙之助などの手紙の中にも、しばしば
彼の名前が出る。小次郎は「本町旦那様」や「田印様」と呼び、祐天は「田中屋万五郎様」
といずれも手紙の中で万五郎を丁重に扱っている。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:26:51.30 ID:6o2Vq8UQ0.net
そうそう、田中屋は現在の府中高札場跡から北へ上がった医院の地所に、元あった遊女屋である。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/18(木) 21:53:42.90 ID:wEWojSVJ0.net
また間違えた。田中屋は高札場の北ではなく南。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/18(木) 22:45:46.17 ID:E/FgSyQW0.net
やっぱりそうですよね
高札場の北に病院あったかと思って驚いたw

でもいろいろ参考になりました
以前は内藤新宿でも府中でも名前が出てくるのはなぜかと思ってたけど
両方含む3カ所に住居があったんならわかるし

ブログとかやってないんですか?
スレが落ちたりしたら読めなくなるのはもったいない

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/19(金) 00:20:03.19 ID:bDZt5eC/0.net
ずいぶん詳しい方ですね。思わず釣られて、柄にも無く多く無駄話しを書いてしまいます。

すでに御存じかもしれませんが、府中に関しては郷土史家・故比留間一郎氏の論文が群を抜いてすばらしいです。
代表的なものを上げておきます。

比留間一郎「府中宿の八九三」(『府中史談 第10号』 府中史談会、1983年)
〃    「古文書よりのそいた文政年間の世相」(『郷土たま・第5号』多摩市談会、昭和61)
〃    「府中宿の旅籠屋ノート」(『府中郷土の森研究紀要2 ←いまいち自信がありません…)

日野の佐藤彦五郎にも興味がおありのようなので、同じ日野宿の隼太の行状に関して興味があるのなら、
是非お読みになって下さい。いずれにせよ、多摩地域の近世に関しては傑出した考察だと思います。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/19(金) 23:25:09.16 ID:8444SNSw0.net
>>234
自分はただの半ちく野郎です
このスレのみなさんのほうがずっと詳しいと思います

現代は侠客とか博徒とかの扱いが難しいみたいですが
彼らの動向がわからないと本当の史実もわからないから
そういう意味で無視できないと思うんですよ

資料のご教示ありがとうございます
探して読んでみます

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 13:41:19.12 ID:nbY2t3I30.net
大和田の友蔵は遠州見附宿に遊女屋をひらき見附の友蔵とも呼ばれた。
出身は遠州大和田(現・静岡県磐田市大原)の農民庄兵衛の次男と伝わる。
相撲取りのような体格で米二表を両手にぶら下げる程の力持ちでありながら、人間ができている。
喧嘩を嫌い、土地の紛争をよく解決した。中泉代官所が近くにあったことから
十手を預かり、次郎長も兄貴分として敬っていた。

文久三年五月、代官所から放浪中の黒駒一味召捕りの命を受け、本人嫌々ながら、
勝蔵と対峙せざるをえなくなる。そこで喧嘩出入りの得意な兄弟分次郎長に助を請い、
次郎長と勝蔵とが矛を交えることになる。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 14:01:17.38 ID:nbY2t3I30.net
場所は天竜川子安森。
友蔵側には、一番子分の豪傑「中泉の太郎」一家に加え、
清水から次郎長率いる25人が来た。(この時、先頭に立っていたのが、かの「桶屋の鬼吉」)
また途中、駿遠三で随一の暴れ者と言われる「伊豆の石重」さんも助についた。
清水からの出がけに、石重さんが持ってきた鰹十本をみんなで平らげたのは『東海遊侠伝』にもある
有名な逸話だ。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 16:15:07.76 ID:nbY2t3I30.net
喧嘩が起きると、方々から助っ人が入るのが当時の習いだった。
何しろ事者側から食い物も出るし、道銀も出る。よって喧嘩の際には自分の持ち駒以上に人が増える。
いずれにせよ、総勢で150名程が友蔵の側に付き、結果、さしもの黒駒一党(80名程という)も
一戦もせぬまま天竜川の片岸から引きあげていった。

喧嘩は後事がたいへんで、助っ人に入った者の面倒を暫く見なければならない。
友蔵の人の良いのを見越して、随分世話をかける奴が多かったという。
言い伝えでは、さらしと草鞋を毎日替え、店の払いは皆友蔵に付け、中には、衣類の新調までする
者もいたと言う。これらの払いも友蔵は厭わず、きちんと面倒を見た。
また、これ以降、勝蔵を追い続けていくことになる次郎長に、友蔵は餞別として平気で「千両」を出し与え、
これには、さすがの次郎長も度肝を抜かれたという話。(これは友蔵の娘・お梅さんの話だというから信憑性がある。)

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 23:26:49.27 ID:JOPMrZZ40.net
結局「ん廻し」の「小和田友蔵」は間違いで「大和田友蔵」が正しかったとは
道理でなかなかわからないはずだorz

噺家がどちらのつもりで話したのかはわからないけど
NHKは文字放送の字幕を間違えてたぞw

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 00:44:18.88 ID:/hGjVf6J0.net
間違えじゃないよ。オーラルヒストリーは、まず耳からで正しい。
小和田だろうが、大和田だろうが、構わんのだ。

友蔵は姓、磯辺(部かもしれない)。仁侠研究者の戸羽山瀚が昭和14年(ぐらい)に
墓石を再発見するまでは、地元でもほとんど知られていなかった。
十手を預かっていたことから、明治には「小警視・磯辺友蔵」と書かれたらしい。
博奕打ちの親分で警視と呼ばれたのは、まあ、友蔵意外にはいないだろう。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 17:29:39.37 ID:/hGjVf6J0.net
八王子は近世多摩地域の一大都市であり、祭礼・市には多くの賭場がたった。
特に六歳市の開市に合せて本宿で開かれる博奕は「市切り」と呼ばれ、多数の博徒が
集まった。

江戸期の八王子の博徒組織は大きく分けて三流あったと言う。一つは小金井一家、二つは
一ノ宮一家(蕎麦やの亀さん)。もう一つは判然としないが小仏一家(栃健?)だろう。
他にも日光屋や、平野屋といった親分衆の名前が残っている。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 23:21:03.09 ID:/hGjVf6J0.net
峠の健次郎

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 22:27:02.08 ID:+iDQQim90.net
朝日新聞デジタル
義理と人情をたどって:1 忠治伝説、処刑場から(6/19)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11816402.html

義理と人情をたどって:2 堅気に転じ、故郷に尽くす(6/22)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11820652.html

紙面では夕刊・月〜金連載

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 22:53:15.28 ID:0sc4vYIS0.net
一般に出回ってる小仏一家の「峠の健次郎」は久沢兼吉という人のことになってる。
しかしこれは、やはり「栃健」こと栃木健次郎のことを指すのが本当ではないだろうか。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 23:02:14.86 ID:0sc4vYIS0.net
>>243
国定に次郎長、次はどこを取り上げるのか、楽しみだ。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 23:40:37.69 ID:0sc4vYIS0.net
一ノ宮万平は美服は着ない。野良作業の百姓のようないでたちで、腰には長脇差の
かわりに短いナタを帯びて山爺のようだった。現在武蔵一ノ宮小野神社の北、100程の道端に
彼の建てた小さな石が建っている。地元でも、万平の建立とは知らない。(万平自体を知らない。)
表面は剥げ既に判読は難しい。いずれ風化し消え去るのだろう。ちなみに息子とされる
藤三郎との連名で建立している。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/23(火) 22:06:59.86 ID:ZYqLrBXC0.net
義理と人情をたどって:3 デコトラ、俺たちの心意気
http://www.asahi.com/articles/DA3S11822415.html

今回はいわゆるトラック野郎の侠気について

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/24(水) 22:08:21.01 ID:tTp9NOJp0.net
義理と人情をたどって:4 健さんが来た
http://www.asahi.com/articles/DA3S11824072.html

今回は高倉健の人柄について
博打打ちや侠客の話ばかりだとクレームつけられるんだろうか

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/25(木) 21:55:34.85 ID:nyknt/sl0.net
義理と人情をたどって:5 イケメンキャラに恋して
http://www.asahi.com/articles/DA3S11826307.html

今回は平手造酒と「天保水滸伝」の話
今風アニメの平手造酒を見た瞬間
とうらぶの新キャラかと思ったw

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/25(木) 22:09:58.84 ID:nyknt/sl0.net
アニメ「天保水滸伝NEO」公式サイト
http://tenposuikoden.tohnosho-kanko.jp/

こんなアニメがあるとは知らなかった
笹川繁蔵かっこよすぎww

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/26(金) 19:08:13.58 ID:/2URUK8o0.net
義理と人情をたどって:6 群れない、おもねらない
http://www.asahi.com/articles/DA3S11828280.html

今回は作詞家もず唱平の世界

この連載はたどる範囲が広すぎて
取り留めのない感じがする

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:34:54.71 ID:LdUSFRHp0.net
天保水滸伝のアニメーションは初めて知った。良い企画だとは思うが、どうやらもう
途中で終わってしまったようだ。

助五郎と繁蔵の天保15年の喧嘩の様子、ならびに、その後の繁蔵と佐助(勢力富五郎)の
人相書きは神主家の日記である『続・神私実事集』に記載されている。
なおこの人相書きは、東京都奥多摩町にも存在している。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:45:31.09 ID:LdUSFRHp0.net
大利根川の戦いに関しては、飯岡助五郎も一方の雄だし、笹川繁蔵も魅力的な人物である。
また、繁蔵派の浪人・平手神酒(平田深木)や勢力富五郎、座頭の市なども人気が高い。

彼らに劣らず魅力的な人物に、助五郎の片腕・洲ノ崎の政吉がいる。永井の政吉とも言われるが、
自身独立した親分格でありながら、飯岡一家を双肩に背負っていた、と讃えられている。大利根川の決闘で戦死した。

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:59:34.15 ID:LdUSFRHp0.net
飯岡と笹川の中が、そろそろ怪敷くなりかけてきた頃、繁蔵が勢力らを引き連れ、
飯岡の町へやって来た。飯岡方では子分が騒ぎ立ち始めている。
すると政吉が、手近にあった舟の大錨(いかり)を、ヒョッと肩に担いで、繁蔵の近くへ行き、
何気なく挨拶した。これには繁蔵も度肝を抜かれ、双方何事もなく事が済んだと言われる。

この時の様子が、芳年によって近世侠義伝の一枚(「洲之嵜亦吉」)として描かれている。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 12:53:33.24 ID:WvJ52MZt0.net
博徒・侠客・遊侠・旅人を、近代以降のヤクザ映画とつなげて「日本人の心性には侠客精神を好む風がある」
というのは正直違うと私は思う。高倉健や菅原文太、北野武のヤクザ物に現れる「あれ」は、講談や浪曲で次郎長や
笹川繁蔵らにシンパシーを寄せた心性とは別物だろう。

その辺の心根に一番敏感だったのが長谷川伸であり、だからこそ長谷川の作風を分析した佐藤忠男の仕事は、実は
侠客・侠気を知る上で一番大切な命題を扱っているように思う。
 佐藤忠男『長谷川伸論』中央公論社、1975

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 13:08:40.95 ID:WvJ52MZt0.net
ともすれば暴力性や、虚無主義、勢いとノリ、偏狭な男らしさ、過剰な荒々しさなどが、
娯楽の名の下に「侠気」にすり替えられ受け入れられていくことは危険なことだろう。

実際の博徒・侠客の聞き書きや取材を重視した小母澤寛や長谷川伸、戸羽山瀚らの著作に貫かれる
侠客の姿は「仁義なき…」以降のヤクザのそれとは(無論被る面も少しはあるが)大分違っている。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 19:20:32.39 ID:oqw+FFme0.net
アウトロー的な人物に対して
一般大衆が憧れたりヒーロー視したりする心理は
古今東西あまり大きな違いはないような気がする

しかし、かつての侠客やそれ的な人物と
現今のヤクザや暴力団員とは別物だと思う
どう別なのか、うまく言葉にできないが…

実際に侠客などと交流があったり(同じ時代を生きた体験があったり)
侠客について詳しく調査や研究をしたりした人間は
一般大衆の憧れ気分とは異なる気持ちで
彼らを理解、容認しているのではないかと感じる

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 19:27:11.37 ID:oqw+FFme0.net
個人的には、幕末期の一般大衆の憧れ気分にも興味がある
「天保水滸伝」や国定忠治について早々に講談が成立したそうだけれど
そうした実話に基づいた物語が当時どれほどもてはやされたのか
具体的に知りたいと思うもののなかなか手がかりが見つからない

今だったら検索して好意的な感想が多かったら
どうやら人気作品らしい、とかわかりやすいのに

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