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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/06(土) 17:20:42.52 ID:KVpQwGyP0.net
すみません。初めて名前を聞きました。もし差し支えなければ
長兵衛という方のお名前をどういったところで知ったのか、
むしろご教授いただけませんでしょうか?

201 :194:2015/06/07(日) 06:29:29.78 ID:puH19iTC0.net
趣味で郷土史を調べてる知り合いから聞きました
何か本に地元の人の昔語りが載っててその中にちょっとだけ出てくるそうです

小金井小次郎の身内で有名な博徒だった
剣術が強かったらしい
義人とあるので何か人助けをした?詳しいことは書いてない

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/07(日) 08:46:57.85 ID:KoC8oBSU0.net
たいへん勉強になりました。本当にありがとうございます。

203 :194:2015/06/07(日) 18:11:16.03 ID:puH19iTC0.net
当時は有名だったのかもしれないけど
今ではほとんど何も伝わってないみたいですね>桶屋長兵衛

もしいつか何かわかったら教えてください
よろしくお願いします

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 22:59:49.11 ID:amB22rG60.net
武州田無宿は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要所である。
また文政期以降は改革組合村の寄場を務める大宿であった。人の往来は多く、
自然諍いも増え、それに見合う調停者を必要とした。

通称「稲荷様」こと増五郎親分は、この人が出ればどんな争いもピタリと収まると言われる程の
たいした貫禄だった。綽名である「稲荷様」は屋敷の隣に鎮座する「笠森稲荷」に拠る。
よく増五郎は、小次郎の子分と言われるがそれは間違い。実際には増五郎の方が6歳年上の兄弟分である。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/08(月) 23:15:05.82 ID:amB22rG60.net
増五郎の父は、升蔵と言い、更に輪をかけた侠客であったという。言い伝えでは、
「銚子の五郎蔵」の兄弟分という。
増五郎の子は竹次郎(別名・長四朗)といい、晩年は「増五郎」を名乗ったともいう。小次郎の
子分と言われたのはこちらの方だろうが、小次郎墓石の裏に、他の子分よりやや大きな字で、
名前を彫られていることから、その立場の違いを感じさせる。

増五郎に関する研究史料には皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』に加えて、
『田無地方史研究会紀要』4号掲載の楢崎成直氏による「博徒増五郎の背景」がある。

なお同じ田無の侠客、田無の徳蔵は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心になった。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/09(火) 22:14:18.05 ID:/UF+Vxn40.net
地元でちゃんと研究されているのはいいですね。
これらの資料もいずれ読んでみたいです。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:42:23.22 ID:7N2LplZu0.net
調べてみたら『落花清風慶応水滸伝』の初版発行が明治15年だったんですな。

・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた

スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 06:59:42.72 ID:BaHuJjM00.net
案外ばかにできないのが、揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)による「講談・小金井小次郎」です。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、
高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、
内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。

この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」に
シフトした感じがあるんですな。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/10(水) 23:27:03.80 ID:BaHuJjM00.net
遠州浜松の国領屋亀吉

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 02:02:09.60 ID:oF8U949r0.net
>>208
近デジで見てきました。
文体の違いなどを考慮しても、揚名舎桃李のほうが確かに情報量多そうと思いました。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/11(木) 23:04:05.77 ID:tbrEjNE/0.net
岩殿観音の徳次郎、菊次郎

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:15:36.20 ID:edtAtFuq0.net
関戸の長兵衛

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 00:43:22.17 ID:edtAtFuq0.net
江古田の幸平親分は、元旗本くずれと伝わり、御一新の頃の人物。剣術の達者で
ありながら、生涯一度も喧嘩をすることがなく、それでいて「幸平旦那」と呼ばれ、
たいした勢力だった。しかしこの人が博奕渡世をやめようと思ったことが四度ある。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。

ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/12(金) 06:12:25.85 ID:1gY5IF240.net
結局、博奕は止められなかったんですか?
ギャンブルの魔力は恐ろしい・・・

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 03:20:27.00 ID:BcvwLJ430.net
落語「ん廻し」に出てくるのは広沢虎造の浪曲「清水次郎長」の一節だった
何代目の虎造かは言ってなかったけど
関東・東海道の博打打ちを挙げていくところ↓

寺津間之助
西尾治助
見附の小和田友蔵
藤枝 長楽寺清兵衛
伊豆の大場久八
富士郡 宮島歳三
雲風亀吉
そして駿河国安倍郡清水湊は有度町の山本長五郎こと清水次郎長

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 07:54:45.74 ID:Pt+xGqU90.net
宮島の年蔵とは…しぶいところを突いてきますな。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 16:05:29.19 ID:BcvwLJ430.net
小和田友蔵と宮島歳三はどんな人物だか全然わからんわ

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 21:07:31.46 ID:Pt+xGqU90.net
「宮島に過ぎたるものが二つあり、長左の牛に、年のヘッツイ」

駿州吉原宿在の宮島(現・富士市宮島)にかつて伝わった里謡である。村の長左衛門の
牛は力が強く普通の二倍の働きをした。年のヘッツイとは侠客・宮島年蔵親分のうちの
立派なカマドのことである。この、土間にある立派なヘッツイには金の茶釜が二つ、
往来からも見えるようにいつも置いてあった。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/13(土) 21:22:33.19 ID:Pt+xGqU90.net
年蔵は武闘派の親分である。黒駒勝蔵に好みを通じ、次郎長と敵対した。文久以降国を
売った勝蔵が、年蔵の元に潜伏していたことは最近明らかになった事実である。

年蔵(正しくは俊蔵)の出生は裕福な農家であったらしいが、十一の時あまりに悪事が多いことから、
父親に殺されそうになるのを母が止め、そのまま家を出て蓄電したと伝わる。三年ほどしてひょっこり帰ってきて、
それから売り出し、本市場の金七、森嶋の重吉らを従えて、近隣に名のしられる親分となっていった。
年蔵は平気で残忍な行いをした。また豪奢な生活を好み、昼間から湯に入り酒盛りをしたという。
その一方で、気風がよく激情家の仲間思いであり、身うち・同胞、頼って来る者は命をかけて守った。
後年山岡鉄舟の知遇を受けて浮浪者の取り締まりをしたこともある。
とかく生涯を通じて次郎長とは張り合い、明治五年次郎長が公用で三嶋に行く際に、
金七と共に襲いかかり、果たし合いを挑んだとの逸話も残っている。

明治23年、66歳の時、ふらりと家をでてから、それっきり帰らなかった。
よってその日を命日としてある。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/14(日) 06:39:10.90 ID:IzOBTYR90.net
へー面白い
清水次郎長と敵対し黒駒勝蔵と懇意の人でしたか

へっついで湯を沸かしたら金の茶釜も煤で汚れるんじゃ
毎日磨くのが大変そうw

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 22:40:53.48 ID:EXapisWY0.net
山村の寺へ入り、墓石を覗くと、時に博奕打ちの墓に偶然行きあうことがある。
「関東吉五郎」という人の墓石が甲州のある博奕打ち親分の墓域に建っている。
何をした人かはわからない。多分永久にわからないだろう。
下総で生まれ、信州松本の博徒の家に草鞋を脱いでいた時に病死した。わざわざ墓石に略歴まで
刻まれているのだから、相応の人なのだろうが、いずれ親分共々無縁。朽ちてゆくのみなのだろう。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 22:48:23.67 ID:EXapisWY0.net
一人でつぶやくようなスレだったが、最近反応があるのは刺激になって有り難い。
うざったくない程度に、自分の今まで調べたつまらんことを書いていこう。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/15(月) 23:35:13.72 ID:Mf3MPNek0.net
面白く拝見してますよ。
こういうスレがあるなんて知らなかった。
言っちゃなんだけど、2chにはもったいないくらい興味深い。
これからも無理のないペースで書いてください。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:02:24.02 ID:DduoZ9430.net
関戸長兵衛は、姓小林。多摩一ノ宮の万平親分の腹心だったようだ。
安政6年には、親分の万平、同門の熊造と連名で府中大国魂神社(六所宮)に
伊吹丸という大太刀を奉納している。
蓮光寺富沢家の日記によれば、長兵衛は数人の子分を従えており、各所で争いを調停している様子が伺える。
また娘が一人いたようだ。

ちなみに府中大国魂の伊吹丸の説明板では「長兵衛」は「長三郎」と誤記されている。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:22:59.45 ID:DduoZ9430.net
思いだしたので、府中でもう一つ。
府中宿で最も古い博奕打ちに福本屋の源太郎がいる。この源太郎が奉納した
見事な水盤が大国魂神社にある、と比留間一郎が書いているが、今はそこにはない。

実はここから東へ500m程行った「国府八幡宮」の敷地に移されている。
大型で形のよいこの水盤は、人けのない神社ではひときわ目立つ逸品である。
おそらく多摩地域でも一、二を争う大貫禄の水盤だろう。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/16(火) 23:53:42.75 ID:yXXkRQTM0.net
伊吹丸は大国魂神社の宝物殿に展示されてるんですか?

連光寺の富沢家といえば名家ですな
「富沢家日記」の特に文久〜明治は読んでみたいけどなかなか機会がない

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 00:06:38.95 ID:+N6R+RRc0.net
大国魂神社 宝物殿のご案内 16.奉納刀
https://www.ookunitamajinja.or.jp/homotsu/16.html

伊吹丸って書いてあるから、これのことか

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 02:59:39.85 ID:+N6R+RRc0.net
府中で田中屋万五郎を思い出した
飯盛旅籠を経営、八州廻りの道案内ってことくらいしか知らないけど

御用聞きの元締めみたいな人物って話も聞いた

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:02:07.13 ID:6o2Vq8UQ0.net
いわゆる十手持ち・目明しの親分は、東海道なら遠州の棒周さん(中村周蔵)、
駿州の安東文吉、少しずれて甲州の三井卯吉、武州に入って田中屋万五郎
が有名なところだった。棒周さんは国領屋亀吉の親分、安東文吉は「首継なぎ親分」と呼ばれ、
次郎長も頭が上がらなかった。三井卯吉は甲州では武田時代からつづく、由緒ある「甲府牢番」の出自、
安政4年1月4日に市川の小天狗亀吉に首を取られたが、何といっても大者だった。

田中屋万五郎は、八州回りの居住地である内藤新宿(現・新宿)中町、府中本町、大和田町の三カ所に居を構え、
武州の岡っ引親分として威光は相当なものだった。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:18:02.84 ID:6o2Vq8UQ0.net
万五郎は、姓を長谷部という。明治3年75歳で亡くなっているが、死ぬまで実家の
除帳は解けなかったようだ。
上記のように武州の三カ所にねぐらを持ち、多数の岡っ引子分を率いていた。
天保15年、実質上岡っ引(道案内)が給金制度になるに及び、府中組合、中野組合、大和田組合、青梅組合の
4か所で同時に雇われていることからも、その勢力が伺える。
彼一人を雇えば、その下の子分連(府中の丑五郎、新宿の定吉、田無の万吉、青梅の吉五郎、川越の藤吉など…)
が働いてくれるという図式ができていたわけだ。
その勢力は、北は桶川、南は府中、東は内藤新宿、西は青梅と広範囲に渡る。

ばくち打ちとの相性もよく、小金井小次郎や甲州の祐天仙之助などの手紙の中にも、しばしば
彼の名前が出る。小次郎は「本町旦那様」や「田印様」と呼び、祐天は「田中屋万五郎様」
といずれも手紙の中で万五郎を丁重に扱っている。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/17(水) 23:26:51.30 ID:6o2Vq8UQ0.net
そうそう、田中屋は現在の府中高札場跡から北へ上がった医院の地所に、元あった遊女屋である。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/18(木) 21:53:42.90 ID:wEWojSVJ0.net
また間違えた。田中屋は高札場の北ではなく南。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/18(木) 22:45:46.17 ID:E/FgSyQW0.net
やっぱりそうですよね
高札場の北に病院あったかと思って驚いたw

でもいろいろ参考になりました
以前は内藤新宿でも府中でも名前が出てくるのはなぜかと思ってたけど
両方含む3カ所に住居があったんならわかるし

ブログとかやってないんですか?
スレが落ちたりしたら読めなくなるのはもったいない

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/19(金) 00:20:03.19 ID:bDZt5eC/0.net
ずいぶん詳しい方ですね。思わず釣られて、柄にも無く多く無駄話しを書いてしまいます。

すでに御存じかもしれませんが、府中に関しては郷土史家・故比留間一郎氏の論文が群を抜いてすばらしいです。
代表的なものを上げておきます。

比留間一郎「府中宿の八九三」(『府中史談 第10号』 府中史談会、1983年)
〃    「古文書よりのそいた文政年間の世相」(『郷土たま・第5号』多摩市談会、昭和61)
〃    「府中宿の旅籠屋ノート」(『府中郷土の森研究紀要2 ←いまいち自信がありません…)

日野の佐藤彦五郎にも興味がおありのようなので、同じ日野宿の隼太の行状に関して興味があるのなら、
是非お読みになって下さい。いずれにせよ、多摩地域の近世に関しては傑出した考察だと思います。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/19(金) 23:25:09.16 ID:8444SNSw0.net
>>234
自分はただの半ちく野郎です
このスレのみなさんのほうがずっと詳しいと思います

現代は侠客とか博徒とかの扱いが難しいみたいですが
彼らの動向がわからないと本当の史実もわからないから
そういう意味で無視できないと思うんですよ

資料のご教示ありがとうございます
探して読んでみます

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 13:41:19.12 ID:nbY2t3I30.net
大和田の友蔵は遠州見附宿に遊女屋をひらき見附の友蔵とも呼ばれた。
出身は遠州大和田(現・静岡県磐田市大原)の農民庄兵衛の次男と伝わる。
相撲取りのような体格で米二表を両手にぶら下げる程の力持ちでありながら、人間ができている。
喧嘩を嫌い、土地の紛争をよく解決した。中泉代官所が近くにあったことから
十手を預かり、次郎長も兄貴分として敬っていた。

文久三年五月、代官所から放浪中の黒駒一味召捕りの命を受け、本人嫌々ながら、
勝蔵と対峙せざるをえなくなる。そこで喧嘩出入りの得意な兄弟分次郎長に助を請い、
次郎長と勝蔵とが矛を交えることになる。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 14:01:17.38 ID:nbY2t3I30.net
場所は天竜川子安森。
友蔵側には、一番子分の豪傑「中泉の太郎」一家に加え、
清水から次郎長率いる25人が来た。(この時、先頭に立っていたのが、かの「桶屋の鬼吉」)
また途中、駿遠三で随一の暴れ者と言われる「伊豆の石重」さんも助についた。
清水からの出がけに、石重さんが持ってきた鰹十本をみんなで平らげたのは『東海遊侠伝』にもある
有名な逸話だ。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 16:15:07.76 ID:nbY2t3I30.net
喧嘩が起きると、方々から助っ人が入るのが当時の習いだった。
何しろ事者側から食い物も出るし、道銀も出る。よって喧嘩の際には自分の持ち駒以上に人が増える。
いずれにせよ、総勢で150名程が友蔵の側に付き、結果、さしもの黒駒一党(80名程という)も
一戦もせぬまま天竜川の片岸から引きあげていった。

喧嘩は後事がたいへんで、助っ人に入った者の面倒を暫く見なければならない。
友蔵の人の良いのを見越して、随分世話をかける奴が多かったという。
言い伝えでは、さらしと草鞋を毎日替え、店の払いは皆友蔵に付け、中には、衣類の新調までする
者もいたと言う。これらの払いも友蔵は厭わず、きちんと面倒を見た。
また、これ以降、勝蔵を追い続けていくことになる次郎長に、友蔵は餞別として平気で「千両」を出し与え、
これには、さすがの次郎長も度肝を抜かれたという話。(これは友蔵の娘・お梅さんの話だというから信憑性がある。)

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/20(土) 23:26:49.27 ID:JOPMrZZ40.net
結局「ん廻し」の「小和田友蔵」は間違いで「大和田友蔵」が正しかったとは
道理でなかなかわからないはずだorz

噺家がどちらのつもりで話したのかはわからないけど
NHKは文字放送の字幕を間違えてたぞw

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 00:44:18.88 ID:/hGjVf6J0.net
間違えじゃないよ。オーラルヒストリーは、まず耳からで正しい。
小和田だろうが、大和田だろうが、構わんのだ。

友蔵は姓、磯辺(部かもしれない)。仁侠研究者の戸羽山瀚が昭和14年(ぐらい)に
墓石を再発見するまでは、地元でもほとんど知られていなかった。
十手を預かっていたことから、明治には「小警視・磯辺友蔵」と書かれたらしい。
博奕打ちの親分で警視と呼ばれたのは、まあ、友蔵意外にはいないだろう。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 17:29:39.37 ID:/hGjVf6J0.net
八王子は近世多摩地域の一大都市であり、祭礼・市には多くの賭場がたった。
特に六歳市の開市に合せて本宿で開かれる博奕は「市切り」と呼ばれ、多数の博徒が
集まった。

江戸期の八王子の博徒組織は大きく分けて三流あったと言う。一つは小金井一家、二つは
一ノ宮一家(蕎麦やの亀さん)。もう一つは判然としないが小仏一家(栃健?)だろう。
他にも日光屋や、平野屋といった親分衆の名前が残っている。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/21(日) 23:21:03.09 ID:/hGjVf6J0.net
峠の健次郎

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 22:27:02.08 ID:+iDQQim90.net
朝日新聞デジタル
義理と人情をたどって:1 忠治伝説、処刑場から(6/19)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11816402.html

義理と人情をたどって:2 堅気に転じ、故郷に尽くす(6/22)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11820652.html

紙面では夕刊・月〜金連載

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 22:53:15.28 ID:0sc4vYIS0.net
一般に出回ってる小仏一家の「峠の健次郎」は久沢兼吉という人のことになってる。
しかしこれは、やはり「栃健」こと栃木健次郎のことを指すのが本当ではないだろうか。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 23:02:14.86 ID:0sc4vYIS0.net
>>243
国定に次郎長、次はどこを取り上げるのか、楽しみだ。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/22(月) 23:40:37.69 ID:0sc4vYIS0.net
一ノ宮万平は美服は着ない。野良作業の百姓のようないでたちで、腰には長脇差の
かわりに短いナタを帯びて山爺のようだった。現在武蔵一ノ宮小野神社の北、100程の道端に
彼の建てた小さな石が建っている。地元でも、万平の建立とは知らない。(万平自体を知らない。)
表面は剥げ既に判読は難しい。いずれ風化し消え去るのだろう。ちなみに息子とされる
藤三郎との連名で建立している。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/23(火) 22:06:59.86 ID:ZYqLrBXC0.net
義理と人情をたどって:3 デコトラ、俺たちの心意気
http://www.asahi.com/articles/DA3S11822415.html

今回はいわゆるトラック野郎の侠気について

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/24(水) 22:08:21.01 ID:tTp9NOJp0.net
義理と人情をたどって:4 健さんが来た
http://www.asahi.com/articles/DA3S11824072.html

今回は高倉健の人柄について
博打打ちや侠客の話ばかりだとクレームつけられるんだろうか

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/25(木) 21:55:34.85 ID:nyknt/sl0.net
義理と人情をたどって:5 イケメンキャラに恋して
http://www.asahi.com/articles/DA3S11826307.html

今回は平手造酒と「天保水滸伝」の話
今風アニメの平手造酒を見た瞬間
とうらぶの新キャラかと思ったw

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/25(木) 22:09:58.84 ID:nyknt/sl0.net
アニメ「天保水滸伝NEO」公式サイト
http://tenposuikoden.tohnosho-kanko.jp/

こんなアニメがあるとは知らなかった
笹川繁蔵かっこよすぎww

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/26(金) 19:08:13.58 ID:/2URUK8o0.net
義理と人情をたどって:6 群れない、おもねらない
http://www.asahi.com/articles/DA3S11828280.html

今回は作詞家もず唱平の世界

この連載はたどる範囲が広すぎて
取り留めのない感じがする

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:34:54.71 ID:LdUSFRHp0.net
天保水滸伝のアニメーションは初めて知った。良い企画だとは思うが、どうやらもう
途中で終わってしまったようだ。

助五郎と繁蔵の天保15年の喧嘩の様子、ならびに、その後の繁蔵と佐助(勢力富五郎)の
人相書きは神主家の日記である『続・神私実事集』に記載されている。
なおこの人相書きは、東京都奥多摩町にも存在している。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:45:31.09 ID:LdUSFRHp0.net
大利根川の戦いに関しては、飯岡助五郎も一方の雄だし、笹川繁蔵も魅力的な人物である。
また、繁蔵派の浪人・平手神酒(平田深木)や勢力富五郎、座頭の市なども人気が高い。

彼らに劣らず魅力的な人物に、助五郎の片腕・洲ノ崎の政吉がいる。永井の政吉とも言われるが、
自身独立した親分格でありながら、飯岡一家を双肩に背負っていた、と讃えられている。大利根川の決闘で戦死した。

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/27(土) 12:59:34.15 ID:LdUSFRHp0.net
飯岡と笹川の中が、そろそろ怪敷くなりかけてきた頃、繁蔵が勢力らを引き連れ、
飯岡の町へやって来た。飯岡方では子分が騒ぎ立ち始めている。
すると政吉が、手近にあった舟の大錨(いかり)を、ヒョッと肩に担いで、繁蔵の近くへ行き、
何気なく挨拶した。これには繁蔵も度肝を抜かれ、双方何事もなく事が済んだと言われる。

この時の様子が、芳年によって近世侠義伝の一枚(「洲之嵜亦吉」)として描かれている。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 12:53:33.24 ID:WvJ52MZt0.net
博徒・侠客・遊侠・旅人を、近代以降のヤクザ映画とつなげて「日本人の心性には侠客精神を好む風がある」
というのは正直違うと私は思う。高倉健や菅原文太、北野武のヤクザ物に現れる「あれ」は、講談や浪曲で次郎長や
笹川繁蔵らにシンパシーを寄せた心性とは別物だろう。

その辺の心根に一番敏感だったのが長谷川伸であり、だからこそ長谷川の作風を分析した佐藤忠男の仕事は、実は
侠客・侠気を知る上で一番大切な命題を扱っているように思う。
 佐藤忠男『長谷川伸論』中央公論社、1975

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 13:08:40.95 ID:WvJ52MZt0.net
ともすれば暴力性や、虚無主義、勢いとノリ、偏狭な男らしさ、過剰な荒々しさなどが、
娯楽の名の下に「侠気」にすり替えられ受け入れられていくことは危険なことだろう。

実際の博徒・侠客の聞き書きや取材を重視した小母澤寛や長谷川伸、戸羽山瀚らの著作に貫かれる
侠客の姿は「仁義なき…」以降のヤクザのそれとは(無論被る面も少しはあるが)大分違っている。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 19:20:32.39 ID:oqw+FFme0.net
アウトロー的な人物に対して
一般大衆が憧れたりヒーロー視したりする心理は
古今東西あまり大きな違いはないような気がする

しかし、かつての侠客やそれ的な人物と
現今のヤクザや暴力団員とは別物だと思う
どう別なのか、うまく言葉にできないが…

実際に侠客などと交流があったり(同じ時代を生きた体験があったり)
侠客について詳しく調査や研究をしたりした人間は
一般大衆の憧れ気分とは異なる気持ちで
彼らを理解、容認しているのではないかと感じる

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 19:27:11.37 ID:oqw+FFme0.net
個人的には、幕末期の一般大衆の憧れ気分にも興味がある
「天保水滸伝」や国定忠治について早々に講談が成立したそうだけれど
そうした実話に基づいた物語が当時どれほどもてはやされたのか
具体的に知りたいと思うもののなかなか手がかりが見つからない

今だったら検索して好意的な感想が多かったら
どうやら人気作品らしい、とかわかりやすいのに

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/28(日) 23:14:37.60 ID:WvJ52MZt0.net
というわけで、洲ノ崎の政吉

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/29(月) 21:57:10.69 ID:rfSdKBZZ0.net
義理と人情をたどって:7 筋を通す、それが村田だ
http://www.asahi.com/articles/DA3S11832707.html

歌手・村田英雄の人柄について

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/30(火) 22:11:50.83 ID:TxwRAwFo0.net
義理と人情をたどって:8 キャバレー太郎、カネと恩
http://www.asahi.com/articles/DA3S11834480.html

「キャバレー太郎」こと福富太郎について

福田赳夫が来店した時
群馬県出身ホステス40人に接待させて驚かれた
「上州出身、国定忠治張りの気っぷの良さ」などと書かれている
ただし福富さんは東京都出身

福富さんは勝海舟を信奉していて
事務所に肖像写真を飾り
洗足池の近くに自宅を建て
自室には関連書籍などを集めまくっているとか

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/30(火) 22:18:53.10 ID:TxwRAwFo0.net
>>259
州ノ崎の政吉は飯岡助五郎の片腕ですよね

天保水滸伝遺品館にもいつか行ってみたい

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/01(水) 21:13:20.11 ID:iSlSAorr0.net
ちょっと質問ですが、『佐藤彦五郎日記』について。2004年の本だと
慶応四年土方から亀吉が使いに来て府中宿に呼ばれた人の中に「本宿村の捨助」とあり、松本捨助
と解釈できるのですが、2009年の彦五郎日記だと、彼は「本宿の権助」になっている。

一体どっちが正しいのでしょうかね?

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/01(水) 22:29:25.92 ID:IrFBGdWC0.net
義理と人情をたどって:9  類さんと、さあ次の店へ

吉田類(俳人、イラストレーター、エッセイスト)の世界
今回も侠客と関係なかった

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 01:29:08.79 ID:1u2X+gQU0.net
>>263
日野市発行『日野宿叢書 第五冊 佐藤彦五郎日記 二』ですか?
だとすれば、どの辺の記述ですか?

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 22:14:29.41 ID:Q729Zfm90.net
一つはそれ、『日野宿叢書 第五冊 佐藤彦五郎日記 二』です。こちらだと
本宿村の「権助」。
もう一つは『日野宿叢書 第二冊 図録日野宿本陣』のp43です。こっちだと
本宿村の「捨助」。
博徒研究の者としては捨助であって欲しいですが…出版年からして権助っぽいですな。

なお博徒捨助の史料としては、東京成徳大学の鶴巻孝雄という先生のHPに紹介されている
日日新聞明治八年の記事が注目に価します。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/sinn-siryou/sinn-4.htm

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/02(木) 23:56:03.19 ID:1u2X+gQU0.net
どちらかと言えば「権助」が正解だろうと思います。

『図録 日野宿本陣』のほうは、
本陣公開や大河ドラマ放映に合わせるべく作業を急いだ様子なので
翻刻にも問題があったと推測されます。
40ページの中段には「元治元年」の年号ヌケがありました。

『佐藤彦五郎日記 二』は、何度か再版されている様子ですね。
こちらにも翻刻ミスがあるのになかなか修正されないとか聞きました。
ただ、『図録』よりは信頼できそうな気がします。
正確を期すなら、日野市に問い合わせたほうがいいかもしれませんね。

興味深い記事を教えてくださって、ありがとうございます。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 00:23:37.25 ID:i8OyYlwB0.net
さっそくの回答ありがとうございます。東京都の多摩地域は博奕打ちの活動と同時に
新撰組に代表される剣客の時代でもあるので、時に両者がからみあうことがあって、
面白いですね。

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 00:35:23.04 ID:i8OyYlwB0.net
高井戸の勇次郎は、姓鈴木、一般には「饅頭屋勇次郎」と呼ばれる。(文字通り、実家は饅頭屋。)
小金井小次郎の腹心ではありながら、同じ小次郎子分の四軒寺(吉祥寺)の作次郎とは
対立した。ある年の花会の終わりにいきなり作次郎の頭に短刀を突き刺したと言われる。
もっともこの時は作次郎の貫録で事なきを得、勇次郎大いに面目を潰した。
高井戸宿は甲州街道のうちでも、もっとも変容してしまった場所で、昔の面影はたどれない。それでも
古老は、ここに小金井小次郎配下で「不死身の男」がいたというから、これが勇次郎だろう。

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/03(金) 23:43:16.28 ID:04qNHMYW0.net
「高井戸村の団子屋・勇次郎」とあるのはそういう人物でしたか。

「中川の庄」「吉原のオタンチン政」というのも人名のようですが、
後者は面白い通り名ですね。

ちなみに、「特みて」とあるのは「恃みて」、
「しばへ」は「しば\/(くの字点)」=「しばしば」かなと思えました。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 10:49:51.75 ID:eK6Tc8Y70.net
なるほど「恃みて」ですか。
要するに記事の内容は
浅草で博打に負けた捨助が、入船の小次郎宅で偶然に高井戸勇次郎と鎌次郎、彦次郎に会い、
鎌次郎と彦次郎は捨助の子分だったので、親分のために浅草の賭場荒らしをやりにいき、
その結果、とばっちりで捨助もつかまった
と、こういう話なんでしょう。私の説明も人の事言えませんが、本文は実に分かりにくいですな。

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 10:56:55.58 ID:eK6Tc8Y70.net
江戸時代の「あだ名」の研究というものはあまりされていないようだが、
大切な研究だとは思う。易々と手をつけることはできないが、仁侠研究とも
結びつく分野だろう。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 11:03:17.70 ID:eK6Tc8Y70.net
少なくともこの記事から、

・松本捨助が相当な腕前の剣客であり、かつ子分を持つ博徒でもあった。
・捨助は甲州勝沼の戦いに参加した。
・捨助と小金井小次郎とは「兄弟分」の仲だった。
・浅草の辰五郎(新門辰五郎)と小金井一家は親しかった。
・小次郎は明治に「入船」に住んでいた。

といったことが判明しますね。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/04(土) 23:28:33.98 ID:8kx7qm230.net
捨助を「捨吉」としていたり
饅頭屋勇次郎を「団子屋」勇次郎としていたり、
細かい違いが多少気になるものの、参考になりますね。

新選組関連の本に、捨助が「明治8年、博奕の諍いで逮捕」とあるのは
おそらくこの記事が根拠なのだろうと察しがつきました。

また、捨助が17歳の時、不行状を理由に親から勘当され、
代わりに土方錠之助(歳三の甥)が跡取りとして養子になったそうで、
「不行状」とは具体的に何かと思いましたが、
どうやら小金井小次郎のもとに出入りしたという意味らしいですね。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/05(日) 00:07:30.15 ID:A+H3DHDG0.net
新撰組についてお詳しいですね。
私はほとんど知らなかったので勉強になります。
明治八年のことは既に書籍に書かれているんですね。
不躾なお願いですが、書名等、もし宜しければそのうち教えてください。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/05(日) 00:08:22.77 ID:A+H3DHDG0.net
二本木の安太郎と滝蔵

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/06(月) 21:55:48.29 ID:jX8FSlQH0.net
>>275
こちらの覚え書きが不備だったので、本のタイトルが不明ですが
わかりましたらお知らせしますね。
新選組に関しては熱心に調べている方が多くおいでなので、
私などは全然詳しいうちに入りません。もっと精進したいです。

地元研究家によると、捨助はやはり天然理心流を学んでいたということです。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:33:39.80 ID:3WWs7cbt0.net
本市場の金七は、宮島の年蔵の子分とも兄弟分とも言われる。一説には大場久八の子分であったとも言うがよくわからない。
金七は「大根を切るように人を斬った」という。この男のどこが良くて子分になるのか、わからないほど残忍だった。
彼は気分次第で子分も斬った。斬る前には自分で富士川河原に穴を掘らせ、その前に座らせて斬った。
ある寒い日に、金七があまり手間取ったので「寒いから早く斬ってくだせえ」と叫ぶ子分がいた、との話が伝わる。

金七は明治になって横浜税関に強盗に入り打ち殺されたという。
金七が強盗に入る際には、連れて行った子分・妾は口を割らせないように一々殺して塚を建てた。
強盗に入る前には連れて行く子分に妙に優しく振る舞うという習慣があり、
そのため、子分は金七に優しくされることを一番恐れたとの話である。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:43:23.01 ID:jm1UECbi0.net
侠客と全然関係なくなったから貼るの忘れてた

義理と人情をたどって:10 島よ還れと なくかもめ
http://www.asahi.com/articles/DA3S11838260.html

根室に勤務する海上保安官の仕事にまつわる話

これで連載終了
侠客の話は全10回のうち3回だけ

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/07(火) 22:46:38.44 ID:3WWs7cbt0.net
一般に荒神山の喧嘩の手打ち写真として知られる清水一家総動員の集合写真がある。
これは清水の梅蔭禅寺の資料館にも、次郎長のウィキペディアにも載っていて、それぞれの人の名前にルビがふってある。

しかし昨年亡くなった次郎長研究の老大家が亡くなる前に私に語って下さった話では、あのルビは嘘っぱちである、とのことだ。
この方の名は伏すが、梅蔭禅寺の関係者でもあり、現在の末広亭を開き、次郎長研究に多大な貢献をなさった方である。
誤った情報が一般化されぬように、一応ここに書いておく。

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 03:18:11.23 ID:1UPbh2R+0.net
八王子と言えば、小金井や小仏と並んで妓楼(遊郭)の男衆、妓夫だった山田喜久次郎は名前を挙げておきたい。

鉄砲を懐にのんでいたため現在も彼の住んでいた場所は鉄砲横丁という名前が残っている。近デジにも伝記はあるが茂在寅男先生の「鉄砲喜久一代」はお勧めしたい。喜久は堅気だが浅草と吉原の顔役だから大久保源之丞の前の世代という立ち位置になる。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 03:30:39.95 ID:1UPbh2R+0.net
>>280

静岡の方でしたらもし御存じなら今はない松尾四郎の松尾書店がどこにあったかご存知ありませんか。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 07:36:51.29 ID:r2ATTN8E0.net
松尾書店は、私も去年静岡へ行ってさがしたけど今はもうありませんし、元の場所も、聞いたけど忘れてしまいました…
東京の神保町には松尾さんを兄貴分にしたう人が何人かいて、いろいろ話が聞けますが、
時間が無いんでまた後日書きます。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/08(水) 07:39:22.15 ID:r2ATTN8E0.net
>>281
お詳しいですね。八王子の仁侠関係は情報が少ないのでありがたいです。
是非探して読んでみます。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 14:46:18.04 ID:OEzMlD0d0.net
松尾書店は静岡市の七間通りという通り沿いにあったらしいのですが、
今では全く面影がありません。場所のことは市役所だか県庁だかの、目の前のたばこ屋のご主人にうかがいました。
著書には追手町にも住所の記載があり、行ってみましたが詳しい事は追跡できませんでした。

また神保町の、これもどこの店だか忘れてしまったのですが…『史話と伝説』を偶然扱っていた店の店主と話をした際に氏の話がでて、

・松尾氏は天照教(だったか?)の熱心な信奉者で、時に神がかった直感を示すことがあった
・上記の力もあって財をなした
・静岡から東京へ来ると、帰りに知人の本屋を静岡へ案内して御馳走した。その際全て払いは松尾氏がしてくれた
・たいへん学歴の高いしっかりした若者を何処からか探してきて、娘さんを嫁入りさせた
・国書刊行会の人(社長?)と知り合いだった

という話をききました。あまりお役にたてず済みません。
松尾氏の研究姿勢は私もたいへん尊敬しています。何か情報がありましたらお教えください。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 17:05:51.00 ID:OEzMlD0d0.net
渡世人は旅人・旅修業と称して親分から親分へと順達して渡り歩く。(「股旅者」とよく呼ばれるが三田村鳶魚などはこの呼び名を否定している)
ともあれ形状は「古手拭い」を一本土産代わりに差し出して、生国・俗名・親分の名を名乗り、
「草鞋銭」という名目で合力を願う。親分の方では、この古手拭いを「頂いた」ということにして、其の上に銭を載せて
旅人に渡すのが決まりだったという。

普通の旅人には一人当り二百文か三百文。少し顔の売れた者には一分か二分。更にその上の旅人には一両以上出したという。
街道宿場の場合には、こういった者が日に最低「五十人」、多い時は「百人」というから、親分の出費は半端ではない。博徒親分の宅の内実は
火の車、銭を預かる女房は泣かされっぱなしだった、と伝わっている。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/11(土) 22:54:06.47 ID:bx8OM2fm0.net
>>286 は蕎麦職人のしきたりと少々似ているところがある

山本おさむ『そばもん』によると
働けなくなって生活に困窮した場合
現役職人を訪れ、使い古した菜箸と前掛けを見せて買い取りを願う

現役職人のほうは、面識のない相手であっても同業者と察し
長年の働きに対する慰労を込めて幾許かの金銭を渡す
菜箸と前掛けは相手に返す

現在ではこのしきたりは廃れている模様

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/12(日) 00:26:56.48 ID:G3jGNo7E0.net
>>287
これは面白い話をありがとう。
281の話自体、戸羽山瀚が「雲水の修業の様」と書いてるように、博奕打ちの
専売というものではなかったようです。当時は旅人は、その職種によって
様々な礼式を持っていたようですね。
『そばもん』是非探して読んでみます。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/12(日) 00:39:36.91 ID:G3jGNo7E0.net
東海道で実際に気風の良さと度量の広さで知られた、長楽寺の清兵衛の逸話が
街道筋の親分の生活の大変さ(金の工面)をよく示しているのだけど、これはまた後日書きこむ。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/15(水) 23:02:31.37 ID:McRYslhd0.net
塩山藤太郎こと平右衛門

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/16(木) 00:33:27.80 ID:8f2OSnrp0.net
変なことを言うようだが、「もらとりあむタマ子」。
あの中で前田敦子が生活する空間が、だいたい嘉永7年までの祐天仙之助の生活圏だ。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/17(金) 01:35:37.89 ID:xA7PzUK20.net
>>280
恐縮ですが、少々お伺いしてよろしいでしょうか。

Wikipedia「清水次郎長」で、その写真を確認しました。
ただ、梅蔭禅寺の資料館にはまだ行ったことがありません。

ご指摘の趣旨は、
被写体の説明(人名)自体が事実と異なる、という意味ですか?

それとも、梅蔭禅寺の資料館では、人名に読みがな(ルビ)がふってあり、
その読みがなが間違っている(人名自体は間違っていない)、という意味ですか?

Wikipediaでは読みがなが見当たらないので、どうもよく理解できずにいます。
ご教示いただけましたら幸いです。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/18(土) 08:55:40.35 ID:faLgKSUy0.net
清水次郎長の写真に関しまして、お詫びいたします。
まず私の下手な文章のせいでだいぶわかりにくい記述になってしまいました。
文意としましては「説明自体が事実と異なる」の方です。

また、この点に関しまして、今になって私は「否定する証拠もない」ということに気が付きました。
私に説明をして下さった方は、次郎長研究に関しては本当にすばらしい業績を残された方なのですが、
私がその時の何気ないコメントをそのまま勝手に解釈し、ここに書きこむことは、あらためて考えてみれば、分を越えた出過ぎたことでした。
今となっては其の方が、どのような理由でああおっしゃたのか、証明する手立てもありません。
いずれにせよ調子にのって書きこみすぎました。本当に申し訳ありません。

294 :287:2015/07/18(土) 20:02:29.04 ID:2c85JXo/0.net
>>293
つまらない質問にご回答くださってどうもありがとうございます。

「ルビ」とは、例えば難読漢字にふりがなを付けるなど
本文に補われた小さい文字の意味と理解していたので、
悩んでしまいましたが、思い切って質問させていただいてよかったです。

写真についてご説明くださったその方が、
ご高説の根拠を書き残すなり何なりしてくださっていたらよかったですね。

ただ、あの写真キャプションは事実でない可能性もある、とご教示いただいただけでも
意味はあると受け止めました。
今後もご存じのことを教えていただきたく存じます。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 21:45:23.87 ID:LtvsED9f0.net
新門辰五郎

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 22:56:26.40 ID:LgFDVI2P0.net
街道筋の親分の家計が苦しいこと、また苦しくても意地を通さねばならなかったことを表す逸話として、
藤枝・長楽寺の清兵衛が、風呂に入っていた幼い倅に「坊、早く出ろ」と言って急いで風呂から出させ、そのまま湯台(浴槽)を質屋にもっていったという話がある。
出典を忘れてしまったのだが、清兵衛ではなく次郎長の話として伝わってることもある。

ちなみに清兵衛、次郎長とは五分の兄弟分で、街道筋の親分として恥じない顔役。
大正十年九十七歳で大往生するが、上記のような気風で文無しで死んだにもかかわらず、藤枝の人々の度肝を抜くような立派な葬儀だったと伝わる。
身の丈五尺八寸。背中には「小野小町」、両腕には櫻の入れ墨があった。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/19(日) 22:59:53.22 ID:LgFDVI2P0.net
>>294
「あの写真キャプションは事実でない可能性もある」
↑まさに言いたかったのはこれです。御丁寧な返信、誠に有難うございます。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/21(火) 23:21:26.31 ID:brsZRTYG0.net
>>198
赤鬼の金平は
大場久八の子分で
ヒュースケンに刀を突きつけて脅したと言われてる人物?

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/22(水) 22:01:19.38 ID:MRak6sTQ0.net
『下田物語』では、確かにヒュースケンが脇差を持った男に因縁を付けられる話がでており、
この無頼漢が金平ということになるようですが、確実な証拠資料が力及ばず見つけられません。

金平は姓・加藤。由五郎との別名を持ち、また旦那寺である海善寺(墓もここにある)に匿われ
「玄道」と僧籍を名乗ったこともあったようです。
『東海遊侠伝』に語られるように鎧具足に身を包んで、次郎長一家を急襲したり、
黒駒勝蔵と組んで甲府城乗っ取りを計画したり、紀州藩(長州か?)に繋がりのある商船を襲い
金を強奪して志士に流したり…と実に様々なところに顔を出す興味深い人物です。
そうそう、本職は髪結いだったともいいますね。

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